2月の悲報と「テロに屈しない」の罠2015/02/01

 2月は悲報で明けた。それでも一抹の希望をもとうとしていた者にとって、後藤健二さんの件は残念な結果になった。イスラーム国の「顔」には慈悲のひとかけらもないということだ。
 
 だが、この事件が何だったのかは明確に整理しておかねばならない。はっきり言えるのは、過激イスラーム主義者たちが日本を公然と敵視するようになったということだ。「イスラーム国」からの最後のメッセージは嘘ではないだろう。つまりこれからは、どこにいても日本人も標的になるということだ。ただしそれは「アベ」のためである。メッセージは名指しでそう言っている。

 今回の人質事件は原因ではなく結果である。何の結果かと言えば、この間の日本政府の姿勢(アメリカの意向に沿う軍事化や、それと連動したイスラエルとの突出した接近)が、長らく培われてきたアラブ・イスラーム世界との良好な関係という資産をついに取り崩したということだ(アラブ諸国やトルコでは親日傾向が強かった)。

 そんなことはない、去年からイスラーム国爆撃に加わっている「有志連合」諸国は、「テロに屈しない」姿勢を共有している、と言うかもしれない。しかしそれは、サウジアラビアやアラブ首長国連邦やヨルダンといった、アメリカと結託することで何とか権力や資産を保持している王族の類に限られた話だ。広範な民衆の親日感情は覚めてしまうだろう。かつてはアメリカとも戦ったのに、そして原爆まで落とされたのに、いまでは進んでその尖兵になって、アラブ世界を支配しようとしていると。イスラーム国はそれを口実に使ったのである。

(後になって「人道援助」を強調しても、財界人を引き連れてイスラエルに行き、去年もガザで市民2000人を殺したためにオバマでさえ会おうとしないネタニヤフと親密さを強調して、この「テロとの戦争」の老舗と軍事協力を計り、日本の軍需産業にはずみをつけるためだということは誰でもわかる。)
 
 安倍政権が批判されるのはこの点において、つまり戦後の資産を潰し、わざわざ「敵」を作って犠牲を出した点においてである。そのため、もはや日本人は安心してアラブ諸国にも行けないし、とり沙汰されているように、政府が自衛隊を中東に送って爆撃に加わったりしようものなら、日本本土でテロが起きても不思議はなくなる。

 「テロには屈しない」というのは、あらゆる事情に蓋をして、交渉もせず、救えるかもしれない人質を切捨て(「自己責任」か)、みずからの無作為と暴力行使を正当化するためのお題目にすぎない。「屈しない」でどうするのか?爆撃するのか? それはこの十数年(いや、ずっとその前から)アメリカがやってきたことだ。その果てには、さらに異常化した「ハイパー・テロリスト」が生れるだけだろう。「テロをなくす」というのは、それとはまったく別のことなのだ。
 
 アメリカはもちろん、この時とばかり日本に同情と連帯の表明し、自分の道に引き込もうとする。それはオバマだろうがブッシュだろうが同じことだ。
 
 問題の根源は「テロリズム」でも、「イスラーム」という宗教でもない。じつはこれも「歴史問題」なのだ。アメリカ(や英仏)が「テロとの戦争」という問答無用の図式で覆い隠すのは、一九世紀後半からの英仏によるアラブ・イスラーム世界の植民地化と、第二次大戦後のイスラエルを据え付けての中東経営という米英仏による恣意的な戦略と、力によるそのゴリ押しなのだ。「テロ」の一語でその認識を排除することが、いま収拾のつかないこの混乱を生んでいる。
 
 「イスラーム国」という恐るべきモンスターは、第一次世界大戦以来の英米仏によるこの地域の軍事支配を背景に、2001年以来、核以外のあらゆる兵器を使った(劣化ウラン弾や白燐光弾、バンカーバスターやサーモバリックも含めて)殲滅作戦で、業火に焼かれながら生きながらえた米英仏にとっての「害虫」が、ついに手の付けられない特異種に変異してしまった結果にほかならない。「病原体」はやっつけたと思うと、変異して今度はワクチンも効かなくなる。
 
 「テロ」とか「テロリスト」という用語は、暴力の暴発に対する「なぜ」という問いを封じるために使われる。「テロリスト」と決めつければ、その先は一切問わなくてよい。あとはあらゆる手段を使って、問答無用、殲滅だ。安倍はそれに乗ってすべてを「テロ退治」に引きつけようとする。(自分は民主主義手続で権力を与えられた首相、それに抵抗するオキナワ県民は叛徒、まずは「粛々と」機動隊と海保で押し潰す…)
 
 そのやり方はアメリカやイスラエルに習っている。邪魔なものを力で押し潰し、自分を「正義」だと言い張る国が「強国」だとすれば、安倍の求めるのはそういう日本なのだろう。だが、間違っているのは、日本にその「資格」が認められていると思っているところだ。ここに「歴史」が絡んでいる。日本はアメリカに「負けた」国である。その敗戦国が戦勝国の尖兵になったら、それは自分が奴隷であることをに目を覆った奴隷である。「自立」とは戦勝国とは違う道をゆき、独自の地位を築くことだ。それを戦後の日本はしてきたはずなのに、安倍はとち狂ってアメリカに追従し、「テロとの戦争」という破綻した戦に日本を巻き込んで、世界の冷笑を買おうとしている。

 後藤さんが殺害されて、いまや「戦場」は国内に移った。山口二郎が東京新聞のコラムで指摘したように、安倍政権は自らに責任のあるこの事件をむしろ奇貨として、「ショック・ドクトリン」よろしく、安保法制整備になだれ込もうとするだろう。日本が「国際社会で名誉ある地位を占める」(日本国憲法)ためにも、今こそ強く安倍批判を打ち出さなければならない。
 
 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」――日本国憲法前文より。