ユンタクル~・辺野古キャンパス学習会2015/02/27

 フランスから帰ったその週の金曜に、ICUの千葉真さんの依頼で平和研究所で沖縄についての小さなセミナーを行った。いまなら行けると思い立って沖縄行きを決めた後だった。終わってからそのことを告げると、会場に来ていたSUSPLのM君(沖縄出身)が、じゃその日に辺野古で授業をやってくれませんか、と言う。

 いまどき本土からのこのこ出かけて行って沖縄の人にできる話はないよ、と一旦は辞退したが、考え直して、辺野古に来ている学生たちの気分転換でちょっとした勉強になるなら、やってもいいよと返事。1日連絡がなかったが、それからが早かった。

 沖縄の仲間たちと調整がついたようで、すぐにFB用のチラシができ、現地の学生グループ・ユンタクル~とexSUSPLの共催のような形で、辺野古キャンパス出張授業の段取りが整った。2月26日夜8時から、辺野古キャンプ・シュワッブ前テント脇勉強会。
 
 行きは那覇から友人のNさんに辺野古まで送ってもらい、午後遅く着。ちょうどこの日は内閣府沖縄総合事務局がテント撤去命令の期限と定めた日。7、80人の人たちがテントに陣取って、前々日釈放された山城博治さんの陣頭指揮のもと、機動隊や総合事務局職員と何度かのやりとりがあり、夜も何があるかわからないと国側の動きに神経をとがらせている。

 暗くなってきた頃、M君から伝えられた学生の名を挙げて、Sさんいる~?とあてずっぽうに声をかけると、脇の方からハーイ私ですか?とSさんが出てきてくれた。後はG君、Yさん、Hさん…、ぞくぞくと仲間が現れる。そこで、まずは腹ごしらえと、テントで炊き出しの夕食をそれぞれにとり、8時を回った頃、テントから少し離れたところに車座に簡易イスをならべて準備、G君の司会で「学習会」の店開きとなった。

 プロジェクターの用意もあったようだが、この晩はテントが撤去されるかもしれないというので、使わないことにした。代わりに、コンビニで用意してきたレジュメを配布。ところが、暗いなかからこんなにも若い人たちがいるのかと思うほどぞくぞくと集まってくる。話しが進み始めたころには30人ぐらいいただろうか。声はたぶん通ったはずだが、どこかからハンドマイクももってきて設置してくれた。

 話は「戦後70年」とはどういうものだったのか、「非戦の日本と戦争の世界」、世界における「戦争」の推移(冷戦からグローバル化、そして「テロとの戦争」)、そして「沖縄の戦後70年」、戦後世界秩序の無理な再編と国家間秩序の綻び、イラク・シリア・ウクライナ、そこでの安倍政権下の日本の方向、そして「沖縄のオートノミー」といったことだ。

 ちょっと風呂敷を広げたが、その要点をかいつまんで話し、沖縄の「地鳴り」の意味を世界のコンテクストのなかにおいて私なりに解説してみた。

 途中、また総合事務局がやってきたというので中断したりし、その中断を中休みにして都合1時間半ほど話し、それからは質疑応答で10時半過ぎまで車座は続いた。若い人たちに交って年配(というほどでもない)の人も多少いたが、みんな熱心に耳を傾けてくれた。たぶん、現場にいつも釘づけになっている意識に、少し距離のある見透しを開くきっかけにはなったのだろう。

 即席のユーチューブで東京にいるM君たちもこの車座に参加していたようだ。新基地建設が強引に進められているキャンプ・シュワッブ入口の前で、座り込みに参加している若い学生たちに語り掛けながら共に考えるという(それも闇のなかで)、とてもよい時間を過ごさせてもらった。
*ビデオを「ユンタスクール!」で観られます。http://www.ustream.tv/recorded/59281395

 ひとりでふらっと辺野古に来るという機会をM君ら学生たちが捉えてくれ、こんな機会を作ってくれたことに感謝したい。また、これをきっかけにいろいろな人たちが沖縄に出かけるとき、今の沖縄の問題に向き合い取り組もうとしている人たちの「勉強」の機会を作ったりすることができれば、若い人たちの志や運動にも力になるのではないかと思う。

 帰りはSさんの車に乗り合いで夜中すぎに那覇まで送ってもらった。学生諸君には感謝・感謝である。

 今日はこのことで『琉球新報』文化部の宮城さんの取材を受けた。たぶん、昨日の話しの内容も含めて、近日中に記事になるはずだ。

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