いわゆる「アベノバンカー脱出失敗」映像について2017/11/12

(2017/11/12 FB投稿の転載です。)

 年に一度の会合でいまフランスにいる。あちこちから人が来るが、今回ほど日本人であることに居心地悪い思いがしたことはない。

 まず、北朝鮮の核ミサイル開発はまったく防衛的なもので、日本やアメリカへの攻撃を意図したものではない。攻撃は即、北朝鮮自体の破滅だからだ。

 トランプも、一人ならやりかねないが、アメリカを背負っていると、口で言うほどバカなことはできない。だから危機を煽りながらこの時期にアジア歴訪して、やったのは日本と韓国に莫大な武器を買わせ、中国との間には超大規模な商談を成立させるということ。「北朝鮮危機」など、それを成り立たせるためのお膳立てでしかない。このやり方で、どうだ、とばかりトランプは、アメリカ自身を満足させ、国内でくすぶるロシア・ゲート問題を吹き飛ばす。たしかにすご腕だ。

 そして、首尾よくすんだら、今度は金正恩とも友だちになりたい、などと涼しい顔でツイートする。

 キタチョウセン、キタチョウセンと、Jアラートを鳴らし、アメリカの「超圧力方針」と完全に一致(日米同盟がこれほど強固になったことはない?)などと言挙げした安倍首相はどうするのか。「親密な関係」を演出とかでミサイルごっこならぬゴルフごっこを仕立てたが、この有り様。

 こんなビデオを広めて人のぶざまさを嗤いたくはないが、これが「わが国の首相」であり、この一コマは現在の日本の姿、とりわけ日米関係をあからさまに象徴しているといわざるをえない。われわれをはそれを認識する必要がある。だが、この姿を隠すことも含めて、日本の「危機」を国内の「空気」の繭に閉じ込め、そこで権力をほしいままにすることだけがこの人物のねらいであるようだ(森友・加計問題、元TBS記者犯罪もみ消し問題、改憲問題etc.)。

 「改憲」論議もその域を出ない。自分があらゆる課題を活用して権力の座にあり続け、首相最長不倒記録を作るというさもしい狙いの道具立てでしかない。世界の現状や、その中での日本の位置どりや、さまざまな困難の中でのこの国の行く末を真面目に考えることなど、この人物にとっては関心外。日本がこういう人物を首相にしているということ、それこそが今日の日本の最大の問題だということを、つくづく感じさせられる異国の秋だ。

だいぶ昔のフランス思想の「最後の授業」2017/11/28

*最近、昔の学生(今ではいい大人だ)数人から連絡をもらった。そこでふと思い出したこと――

 大学の校門を入ってゆくと、学生課からの注意喚起のカンバンが出ている。「試験期間、亡くして困るのは財布と学生証!」と。老婆心というものだろう。

 教室に入ると200名を超す学生がズラリ並とんで席についている。もちろん設問はあるが、この授業、何か知識を与えて、どれだけ身に付けているか試すといった類のものではない。ものを考えるということがどういうことかを理解し、納得してくれればいい。フランス思想はそのための素材だ。

 二つばかりそれらしい設問を即席で作ったが、毎回授業に来るわけではなく、その時間を他所で潰していたり、文学や哲学なんて馴染まない、という学生がいてもいい。その学生がむりに枠に合わせて身につかない受け売りのご託を並べる必要もない。

 そういう学生たちのために、余分な選択課題をひとつ出した。

 「今日、この教室に来るときに、きみたち、学生課の掲示を見たでしょう。学生証がないと試験が受けられないから、忘れないようにという注意喚起だよね。でもきみたち、深刻に受け取る必要はないですよ。財布なんて落としても困らない。どうせ大した額は入ってないでしょう。昼ごはん食べられなかったら、ちょっとちょっがまんすればいい。それに、学生証も紛失届を出せば再発行してもらえます。

 しかし絶対にそうはいかないものもある。ほんとうに亡くしたら困るもの、取り返しのつかないものは何でしょう。それは何か、書いて理由を説明しなさい。」

 学生たちはいっせいに、それぞれ思案し始める。そして筆記具の音がし始める。しばらくして様子見に机の間を回ってみた。そうしたら、多くの学生が最後の設問を選び、同じようなことを書いている。そこで中断させた。

 「ちょっと待ってください。見回ってみたらたいていの人が同じようなことを書いている。試験も授業の延長ですから、これも最後の短い講義として聴いてください。みなさん、なくして困るもの、取り返しのつかないもの、と問われて、命、それも自分の命と書いています。たしかに、命を落としたら取り返しがつかない。お父さん・お母さん、それに友だちも悲しみますね。でも、それでみんな、ほんとうに困るかな? 

 だって、死んじゃったら死んだ本人はもういないんだから、ちっとも困ることなんかないじゃない。昔の人たちは、これでやっと労苦から解放されるとか言って、待ち望んだりしたものですよ。とくに、生きることが罪を負って労苦することだと教えられたキリスト教社会なんかではね。詩人のボードレールも死は解放だと言っています。ともかく、死んだ当人にはもういっさいの思い煩いはないんですよ。もう当人がいないんだから。労苦や悲しみは生きているからある、生きている者にだけあります。だから、自分の命をなくしても、何も慌てることも、困ることもない。

 なくして困る、どうしようもなく困るのは、他人の命でしょう。これは困ります。取り返しがつかない。置き換えがきかない。どこに届けても再発行してくれない。そのことを掛け替えがないと言います。絶対的な、埋め合わせの効かない喪失です、癒しようのない痛手です。だから他人の命は亡くすと困る。

 これは頓智でもなんでもありません。あたりまえと思っていることを、ふっと振り返ってみると、「あたりまえ」の床板からその床板の実相が見えてきます。自分ということも、死ということも、無反省でいると思い違いをします。他人を思い遣るとか大事にするというのは、自分が寛大だからとか優しいからなのではなく、他人たちこそが自分の生を支え豊かにしているからなのです。だから人は、自分を犠牲にして人を助けたりするし、それは誰もが非難できません。

 実はこのことは、主体を軸に世界や人間を考える近代思想では忘れられていて、世界戦争後に哲学者たちが本格的に考え直すようになった、いわゆる「他者論」の根本です。今学期の後半でそんな話題を取り上げましたが、ちょうど今日、格好の入口に出合いました。いまの話をもとに、授業で話したことをもういちど振り返ってみてください。これを今学期の最後の授業にします。では皆さん、考えて答案を書き直してください。」

 三十分ほど経つと、終了のチャイムが鳴った。