だいぶ昔のフランス思想の「最後の授業」2017/11/28

*最近、昔の学生(今ではいい大人だ)数人から連絡をもらった。そこでふと思い出したこと――

 大学の校門を入ってゆくと、学生課からの注意喚起のカンバンが出ている。「試験期間、亡くして困るのは財布と学生証!」と。老婆心というものだろう。

 教室に入ると200名を超す学生がズラリ並とんで席についている。もちろん設問はあるが、この授業、何か知識を与えて、どれだけ身に付けているか試すといった類のものではない。ものを考えるということがどういうことかを理解し、納得してくれればいい。フランス思想はそのための素材だ。

 二つばかりそれらしい設問を即席で作ったが、毎回授業に来るわけではなく、その時間を他所で潰していたり、文学や哲学なんて馴染まない、という学生がいてもいい。その学生がむりに枠に合わせて身につかない受け売りのご託を並べる必要もない。

 そういう学生たちのために、余分な選択課題をひとつ出した。

 「今日、この教室に来るときに、きみたち、学生課の掲示を見たでしょう。学生証がないと試験が受けられないから、忘れないようにという注意喚起だよね。でもきみたち、深刻に受け取る必要はないですよ。財布なんて落としても困らない。どうせ大した額は入ってないでしょう。昼ごはん食べられなかったら、ちょっとちょっがまんすればいい。それに、学生証も紛失届を出せば再発行してもらえます。

 しかし絶対にそうはいかないものもある。ほんとうに亡くしたら困るもの、取り返しのつかないものは何でしょう。それは何か、書いて理由を説明しなさい。」

 学生たちはいっせいに、それぞれ思案し始める。そして筆記具の音がし始める。しばらくして様子見に机の間を回ってみた。そうしたら、多くの学生が最後の設問を選び、同じようなことを書いている。そこで中断させた。

 「ちょっと待ってください。見回ってみたらたいていの人が同じようなことを書いている。試験も授業の延長ですから、これも最後の短い講義として聴いてください。みなさん、なくして困るもの、取り返しのつかないもの、と問われて、命、それも自分の命と書いています。たしかに、命を落としたら取り返しがつかない。お父さん・お母さん、それに友だちも悲しみますね。でも、それでみんな、ほんとうに困るかな? 

 だって、死んじゃったら死んだ本人はもういないんだから、ちっとも困ることなんかないじゃない。昔の人たちは、これでやっと労苦から解放されるとか言って、待ち望んだりしたものですよ。とくに、生きることが罪を負って労苦することだと教えられたキリスト教社会なんかではね。詩人のボードレールも死は解放だと言っています。ともかく、死んだ当人にはもういっさいの思い煩いはないんですよ。もう当人がいないんだから。労苦や悲しみは生きているからある、生きている者にだけあります。だから、自分の命をなくしても、何も慌てることも、困ることもない。

 なくして困る、どうしようもなく困るのは、他人の命でしょう。これは困ります。取り返しがつかない。置き換えがきかない。どこに届けても再発行してくれない。そのことを掛け替えがないと言います。絶対的な、埋め合わせの効かない喪失です、癒しようのない痛手です。だから他人の命は亡くすと困る。

 これは頓智でもなんでもありません。あたりまえと思っていることを、ふっと振り返ってみると、「あたりまえ」の床板からその床板の実相が見えてきます。自分ということも、死ということも、無反省でいると思い違いをします。他人を思い遣るとか大事にするというのは、自分が寛大だからとか優しいからなのではなく、他人たちこそが自分の生を支え豊かにしているからなのです。だから人は、自分を犠牲にして人を助けたりするし、それは誰もが非難できません。

 実はこのことは、主体を軸に世界や人間を考える近代思想では忘れられていて、世界戦争後に哲学者たちが本格的に考え直すようになった、いわゆる「他者論」の根本です。今学期の後半でそんな話題を取り上げましたが、ちょうど今日、格好の入口に出合いました。いまの話をもとに、授業で話したことをもういちど振り返ってみてください。これを今学期の最後の授業にします。では皆さん、考えて答案を書き直してください。」

 三十分ほど経つと、終了のチャイムが鳴った。

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