日本の「脱原発」、10年の節目を前に(1) ― 2020/02/29
NO NUKES Vol.026 に寄稿した「日本の「脱原発」、10年の節目を前に」が刊行・公開されたので、ここにも掲載しておきます(2回に分けて)。
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少し気が早いけれど、オリンピックの火が落ちれば来年はもう福島第一の原発事故からはや10年。事故から2年弱で自民党政権が「日本を取り戻し」、事故の結果に蓋をしながら原発政治のアクセル踏んだ再稼働、図々しくも他国が撤退した後で輸出促進、さすがにもんじゅは諦めたが、核燃料サイクル計画は展望のないまま惰性で続けている。
○舞い散る桜と札束
そのころは、技術的にも経済的にも原発が立ち行かないのは明らかで(だからドイツをはじめ賢い国は撤退した)、政府がどんな政策をとろうとも早晩「脱原発」は実現するとも言われていた。だが甘かった。合理で日本は動かない。自民党政府・安倍官邸と経産省は、はじめは目立たず、しかし次第に公然と積極的に(武器を防衛装備と言い換えたあたりから)、災害より原発「復興」を経済・軍事両面で進めるようになる。
本家アメリカでも私企業が原発の経済性に見切りをつけ、それをわざわざ買いに出てババを引いた「世界の東芝」はとうとう沈没寸前、イギリスその他の国々も、かさばるコストを負いきれず次々に撤退し、アベ日本は愚かにもその空白を占めようと政府肝入りでセールスしたが、もう終わった市場、ここにきてすべてがとん挫した。
さすがに、原発正当化はもうできないと思われたところに去年の関電疑惑。国策電力会社、地元自治体、大手ゼネコン、御用学者が「顔役」に仕切られる、かつて「原子力ムラ」と言われた社会の闇に根を張った利権構造の露見だ。これでは原発が止まるはずがない。技術的難題や経済見通しがどうであろうと、国や社会の将来がどうであろうと、原発は儲かるという「反社会的」利害関係が、原発政策を維持推進していたのだ。まさに、かつての敦賀市長高木某(「パンツ大臣」のオヤジ)が言ったように、先のことはわかりませんよ、しかしとにかく今はやっておいた方がいい…。その「今」だけのため、官僚は辻褄合わせし、学者は都合のよいデータを出し、裁判所まで追従する。そして、この構造で私利を貪る者たちが、原発推進をヤドカリの殻のように守り、その上に政権が君臨している。
辺野古の新基地建設強行も、米軍のためは表向き、事業の実態は原発と同じだということがもう隠せない。そのような現在の日本の「統治」のあり様を集約的に露見させたのが「桜を見る会」だ。権力のうま味を仲間の供応で吸い尽くす。そして有象無象――特に感染力をもつエンタメ興行関係――を利権構造に取り込むことで裾野を広げる。その表のお題目になっているのが「改憲」だ。改憲の狙いは、「美しい国」つまり「国民が文句を言わずに国家に尽すようなお国柄」にすること、そして自分たちが国家を乗っ取って(「上級国民」?)、従順で逆らわない国民に税金を払わせ、命を差し出す気構えまで要求し、担がせた神輿に乗ってこの国の「真ん中に輝く」、そんな、わが世の春のミニ演出が「桜を見る会」だ。
ある意味で「改憲」を掲げた意図はすでに実現している。だからほんとうは安倍政権は目標を失っていると言ってもいい。にもかかわらず原発政策が捨てられないのは、まさにこの惰性の維持によってしか、この政治構造が成り立たないからだ。
ということは、この先にはもはや破綻しかない。それが約束されているのが「オリンピックの翌日」である。札束刷り散らして株価を支え、人間をすり潰して法人企業を助け、資産家・投資家だけを肥やすアベノミクス。アメリカに市場も明け渡し武器も爆買いして、自分だけ本家に認めてもらう国売り外交。それで崩れゆく日本をもはや誰も支えられない。誰もがそれを予測しているが、ともかく「お祭り」までは、ということで突っ走っている。その「洪水の後」に残される世代には、あらかじめ自助要求(自己責任)、ボランティア精神、でなければいじめに道徳教育…で、文句を言わないように備えている。そしてオリンピック明けは大災厄の10年目、この10年の日本を主導した安倍政権は消えてゆくが、誰も責任を問わない、問われない。こうして10年目に「大災厄」が拡大反復される…。われわれはそれに備えなければならない。(続く)
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少し気が早いけれど、オリンピックの火が落ちれば来年はもう福島第一の原発事故からはや10年。事故から2年弱で自民党政権が「日本を取り戻し」、事故の結果に蓋をしながら原発政治のアクセル踏んだ再稼働、図々しくも他国が撤退した後で輸出促進、さすがにもんじゅは諦めたが、核燃料サイクル計画は展望のないまま惰性で続けている。
○舞い散る桜と札束
そのころは、技術的にも経済的にも原発が立ち行かないのは明らかで(だからドイツをはじめ賢い国は撤退した)、政府がどんな政策をとろうとも早晩「脱原発」は実現するとも言われていた。だが甘かった。合理で日本は動かない。自民党政府・安倍官邸と経産省は、はじめは目立たず、しかし次第に公然と積極的に(武器を防衛装備と言い換えたあたりから)、災害より原発「復興」を経済・軍事両面で進めるようになる。
本家アメリカでも私企業が原発の経済性に見切りをつけ、それをわざわざ買いに出てババを引いた「世界の東芝」はとうとう沈没寸前、イギリスその他の国々も、かさばるコストを負いきれず次々に撤退し、アベ日本は愚かにもその空白を占めようと政府肝入りでセールスしたが、もう終わった市場、ここにきてすべてがとん挫した。
さすがに、原発正当化はもうできないと思われたところに去年の関電疑惑。国策電力会社、地元自治体、大手ゼネコン、御用学者が「顔役」に仕切られる、かつて「原子力ムラ」と言われた社会の闇に根を張った利権構造の露見だ。これでは原発が止まるはずがない。技術的難題や経済見通しがどうであろうと、国や社会の将来がどうであろうと、原発は儲かるという「反社会的」利害関係が、原発政策を維持推進していたのだ。まさに、かつての敦賀市長高木某(「パンツ大臣」のオヤジ)が言ったように、先のことはわかりませんよ、しかしとにかく今はやっておいた方がいい…。その「今」だけのため、官僚は辻褄合わせし、学者は都合のよいデータを出し、裁判所まで追従する。そして、この構造で私利を貪る者たちが、原発推進をヤドカリの殻のように守り、その上に政権が君臨している。
辺野古の新基地建設強行も、米軍のためは表向き、事業の実態は原発と同じだということがもう隠せない。そのような現在の日本の「統治」のあり様を集約的に露見させたのが「桜を見る会」だ。権力のうま味を仲間の供応で吸い尽くす。そして有象無象――特に感染力をもつエンタメ興行関係――を利権構造に取り込むことで裾野を広げる。その表のお題目になっているのが「改憲」だ。改憲の狙いは、「美しい国」つまり「国民が文句を言わずに国家に尽すようなお国柄」にすること、そして自分たちが国家を乗っ取って(「上級国民」?)、従順で逆らわない国民に税金を払わせ、命を差し出す気構えまで要求し、担がせた神輿に乗ってこの国の「真ん中に輝く」、そんな、わが世の春のミニ演出が「桜を見る会」だ。
ある意味で「改憲」を掲げた意図はすでに実現している。だからほんとうは安倍政権は目標を失っていると言ってもいい。にもかかわらず原発政策が捨てられないのは、まさにこの惰性の維持によってしか、この政治構造が成り立たないからだ。
ということは、この先にはもはや破綻しかない。それが約束されているのが「オリンピックの翌日」である。札束刷り散らして株価を支え、人間をすり潰して法人企業を助け、資産家・投資家だけを肥やすアベノミクス。アメリカに市場も明け渡し武器も爆買いして、自分だけ本家に認めてもらう国売り外交。それで崩れゆく日本をもはや誰も支えられない。誰もがそれを予測しているが、ともかく「お祭り」までは、ということで突っ走っている。その「洪水の後」に残される世代には、あらかじめ自助要求(自己責任)、ボランティア精神、でなければいじめに道徳教育…で、文句を言わないように備えている。そしてオリンピック明けは大災厄の10年目、この10年の日本を主導した安倍政権は消えてゆくが、誰も責任を問わない、問われない。こうして10年目に「大災厄」が拡大反復される…。われわれはそれに備えなければならない。(続く)
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