「非常時」に流通させてはいけない3語:自粛・忖度・風評被害2020/03/28

1)「自粛」

 かつてこの言葉が流行ったことがある。今は昔、昭和天皇の末期である。当時まだトヨタと並ぶ日本企業だった日産が、起死回生をねらって秋口に新車セフィーロを鳴り物入りで送りだした。CMではテレビにほとんど出なかった井上陽水を起用し、森の中の開けた場に乗り入れたセフィーロのパワーウインドーを下げて、サングラスの陽水があの滑らかな高音で「オ元気デスカ~」と言いながら顔を出すのだ。意表を突く絶妙のCMだった。これでセフィーロの売れ行きは間違いなし、と誰もが思っただろうが、このCMはわずか数日でテレビからもその他のメディアからも消えた。なぜか? 天皇の容体が深刻になり、ニュースでは毎日天気予報のように「陛下の容体、血圧、脈拍」等が伝えられていた。そんな時に、すかしたチンピラ上がりのような歌手が「お元気ですか~」なんと言うのは不謹慎だというわけだ。

 各地では秋祭りの季節だったが、こんな時期に、ということでほとんど取りやめになった。やめざるをえないようコンセンサスが無言のうちにできたかのようだった。桜の季節だったら、花も散ることもできないような世間の気配だ。だから葉が色づいても、紅葉をめでたりなどとてもできない。いたるところで人は「おめでたさ」を避け、人前での服装もつとめて派手なものは避けられた。憚るというわけだ。それを「自粛ムード」と言った。この社会ではあらゆる人びと(とりわけ組織)が、祝いや祭りや歓楽を「自粛」したのだ。

 つまり強制力はなかったが、誰もが何かを憚って「自粛」したのだ。しかしこの時は、そのような「自粛」の気配が広がる中で、その「自粛」を日本社会に特殊な現象として批判的に見る見方も同時にあった。「ジシュク、ジシュク…」と囁いて、人びとが異様さを半ば意識しながらそれに従ってもいた。

 ところが今は、この言葉が何の疑問も危惧の意識もなく使われる。今とは、コロナ禍で社会が一体となってこれと戦わなければならないとされている時期だ。この時期に、行政当局が人びとに「自粛を要請する」。すると誰もが、すすんで「自粛」する。それが当たり前だと思われ、受け入れられている。

 しかし「自粛」とは、みずから慎んで何かを差し控えることである。行政当局(国や都や県)が市民に「要請」できることではない。公的に「要請する」場合は、行政当局が要請の責任をもたねばならない。ところが「自粛」とは個人の意思に関わることである。それを要請する(~を意思せよと求める)権利は当局にはない。というのは、みずから慎むのはその人の責任において何かをしないということだからだ。つまり「自粛を要請する」とは、当局の指示に従うことを当人の責任においてせよ、と要求することである。逆にいえば、この要請内容に当局は責任をもたなくていいのだ。

 たとえば、仕事に行くな、会合をするな、という要求(実質的には命令)を、みずからの意志として引き受けよ、ということである。そしてその命令に関して、従っても従わなくても責任は自分で負え、と言っているようなものである。

 仕事に行くな、というのが行政命令であれば、そのために仕事をしないのは命令に従ってであり、仕事をしないことがじつは市民的義務を果たしていることになり、その意味では当局の命じた「仕事」をしているのと同じだから、休業によって失う報酬を当局は補填してしかるべきである(たとえばカナダの首相は、労働者の休業と工場の停止を要請したとき、その要請に従えば、仕事は休んだとしても政府の要請にはしたがっているのだから、その分の報酬や操業利益を補填することも約束している。アメリカでも一部はそうだ)。

 だがそれが「自粛要請」となると、それは自分の意志で休むのだから当局には休業による不利益を保証する必要などない、ということになる。つまり「自己責任」だ。「自粛」する方は、当局や世間を「忖度」して「身を慎んだ」のであって、それがこの世間で生きる者にとっては「才覚」だ(スキル?)とも言われる。

 結局、「自粛要請」というのは、当局(権力)がみずからの意図に「自発的」に従わせることで、要請行為を市民に強要したことの責任をとらずにすませる言い方になる。こういうことを平気でするのは、近代国家としては日本の政治権力だけであり、その傾向は最近とみに強くなっている。「自粛要請」ということが平気で言われ、それをメディアも何の考えもなく伝え広め、世間の方も何の疑問もなくすすんで(忖度して)「自粛」する、そんな風になっている。このことは、近代国家としてはすでにコロナウイルス以前の「病理」であるということは考えておくべきだろう。
 
2)「忖度」

 これは、相手がどんな状況に置かれて、何を考えているのか、望んでいるのか等を推し測ることを言う。それ自体はニュートラルな言葉だ。だが、しばしば上司や上役に上目遣いで用いられることが多い。つまり、相手の状況や考え・望みを推し測り、何も指示されなくても、自分の立場でその意向に叶うことを先回りしてする。そうすると「空気も読める」し、呑み込みの早い、有能な部下だということになる。丁稚奉公や執事などにとっては望ましい才覚だということだ。

 つまり「忖度」とは身分社会にはふさわしい能力である。何より、主人や上司に迷惑をかけることがない。主人は奉公人の「忖度」からする行為には、何の関わりもないと言えるからだ。奉公人は「勝手に」やっただけであり、主人の指示に先回りして事を処し、主人が煩いなく鯉に餌をまいていてもらった、というのは、奉公人にとってはしてやったり、自分の才覚を示せた、ということになる。

 これを見事に描いたのが、カズオ・イシグロの傑作『日の名残り』である(『わたしを離さないで』はその別ヴァージョン)。これは理想的な、あるいは従属を絶対的自由へと転化する「理想の執事」の物語だ。西洋的伝統ではこのことを「自発的隷従」と言う。一六世紀フランスのエティエンヌ・ド・ラ・ボエシが作りだした言葉だ。

 では「忖度」はその語の意味する事態とともに抹消すべきものかというと、そうではない。ただ人の気持ちを推し測ることだとすると、それはときに必要なことであったりする。親に失った子供の気持ちを忖度して…、とか、むしろ世の中(社会関係)では大事な役割を果たしたりする。だから悪いのは「忖度」そのものではない。それが身分的関係の中で、自己利益のために働かされると、「忖度」は権力の無責任を、お上の「超越」を支えるまたとない機制となる。

 以前はあまり耳にしなかったこの用語が、いまではニホン人誰もが知る言葉になった。「忖度」は社会生活(とくに公的)に必要なある種の才覚とみなされている。忖度できない人間は組織から排除され、忖度が行き届けば有能な役人(下僕)として「適材適所」の出世を約束される。職務義務違反、背任、利益誘導、文書隠滅、等々…を含むこのような「慣行(プラクシス)」は、市民法的に見れば疑惑のマグマだろうが、現在の日本では桜の下の花見酒で淫靡に粉飾されることになっている。

 この用語は何の考えもなく使われると、それが流通する社会に法秩序以前の身分的意識を浸透させることになる。だからとりわけメディアはこういう用語を「報道」や解説に使うべきではない。あるいは、はっきりと否定する文脈で使わなければならない。

 
3)「風評被害」:comming soon.