緊急事態宣言などいらない!2020/04/02

 なぜ皆(メディアも含めて)緊急事態宣言を出せと言うのか。緊急事態宣言というのは、基本的に行政権限を強化することだ。まともな政権で、まともな官僚機構、専門家集団がいればそれもいいだろう。しかし、「大胆に前例のない迅速な処置」が「各世帯に洗って使える布マスク2枚」とか「現金配るとため込むから和牛券」とかいう政権だ。それに官僚機構もすっかり「自発的隷従」で出世する公僕ならざる私僕の蟻塚と化している(森友・加計、桜を見る会、無理やり検事総長、法の根本崩しを役職と思っている法相)。こんな行政府の権限を強化してもロクなことはせず、バカな強権を無理やり振り回すだけだろう。それこそがわれわれの「緊急事態」だ。
 
 医者団体(政府の専門家)がはやく緊急事態宣言を出してほしいというのは、東京都ですらコロナ肺炎に対応できる病床が120床あるかどうかという貧弱な医療体制で(このところずっと医療は効率化と採算性を求められてきたし、長期的ベッド削減の方針を政府は変えていない)、すぐに感染拡大に追いつかなくなることが、つまり「医療崩壊」が目に見えているからだろう。だが、それが緊急事態宣言で解決できるわけではない。医者団体としては、医療がフォーローできない申し訳が立つだけだ。それは今までアベ自民党政権の保険医療サービス削減の方針に就き従ってきたつけだということだ。
 
 ほんとうに感染拡大の危機が迫っているというのなら、いまやるべきことははっきりしている。検査体制の拡充と、医療設備態勢の整備、中国は一週間で4000床の病院を作った。日本なら被災経験からプレハブ病棟一気に作ればよい。場所は国立競技場とか東京スタジアムとか代々木公園とか(その補償は後でする)。あるいは東京都(首都圏)ならすでに話が出ているようにオリンピック選手村を活用すればいい。それと医療関係者の特別配置・急場しのぎの援軍組織だ。それに特別法がいるのなら2、3日で国会通せばよい。決めたらすぐ準備してやれば、緊急事態宣言でモタモタしているよりもいい。

 後は、法的根拠なんかなくてもアベが思いつきで「学校閉鎖」とか言えば従うお国柄だ。「自粛を要請する」と言うだけで、街から人が引くお国柄だ。緊急事態宣言などいらない。ただし、「自粛」で多くの人たちに「困窮せよ」と言っているわけだから、協力する者たちにはきちっと補償をしなければならない。まともな国の政府は緊急事態宣言を出したら必ずそれをやっている。

 ともかく安倍政権などに緊急事態宣言をやらせてはならない。市民がみずから身を守るために政権に要求を重ねなければならないのだ。

[追記]

 四月初っぱなの状況をみていると、どうやら「爆発的感染」が始まりそうだ。阪神選手団集団感染、志村けん、その他著名人やメディア関係者、夜に出歩くなと言われても気にしない連中は多いようだし、歓楽街やカラオケも、干上がってしまうから営業やめられない。小さい街の店だけは悲惨。朝も夜も駅の人ごみは多少軽くなってもすごい。こっちは誰もが働きに行かざるを得ないからだ。子を持つ親たち(とくにシングルマザー)は学校次第で4月から板挟み、ますます困るだろう。

 だがそれは、緊急事態宣言では解決されない。政府がまず、皆が感染抑止に努められるような対策を何ひとつしていないことが問題だ。「外出自粛」を要請と言うなら(「自粛を要請」と言う言い方が日本の行政当局の高圧無責任ぶり――民主主義感覚ではなくお上意識と言っていい――を表しているが)、人びとが家にいられる状況を用意し、収入がなくなるワーカーたちや中小企業、困る商業施設等への手当てもいっしょにすべきだ。それでなければ、従いたくても従えない。(予算がないとは言わせない。今年度予算は修正なしで無理やり通している。株価吊り上げるために日銀はバンバン札束刷ってきた。安全保障とか言って不要な兵器はごまんと買っている。)

 それに、情報があいまいだから真に受けられない。医療対応、態勢もそうだろう。ともかく「爆発」の危険があるなら、それを誰もが納得できる(真剣に受け取る)ように情報提供しなければならない。何より、検査体制を拡充しなければならない。できるだけ検査してこれだけ広がっていると示さなければ、一般の人びとが適切に警戒・対処することができない。たいしたことない、と誰もが都合に合わせて解釈する。

 一方で、ずっと感染者数を抑えようとし(オリンピック実施のため?)、五輪延期で一気に増え始めたとはいえ、諸外国に比べれば「奇跡的」に少ない。外国ではとっとと検査しているのに、東京都の検査数は一日百単位。医療は「世界トップレベル」とか宣伝する日本で、三カ月経つのにいまだこれというのはあまりにおかしい。ここからしておかしい。まったく、後でやばいからもう記録も残さないという、近代行政の足元を崩している今の政権のやり方と通じている。だから、医師会が「危険だ、危険だ」と言っても、フランスやアメリカほどではないじゃないか、と説得力がない。医師会もこの間何年も政権の保険医療削減政策に乗ってきたわけだし…。

だから、医師会がほんとうに危機的だとみなしているなら、いま検査できているのはこれだけ、そこから推定すると実際の感染者はすでにその数十倍と見られる、とはっきり公表すれば、その「危機感」に現実味が出る。そうなっていないから、一般の人びとはそこまで「危機感」をもてないのだ。その上で、今は強制措置が必要だと言うのなら説得力もあるが、政府がノラリクラリしており、医師会もそれを明確に批判しないから、緊急事態宣言を…とか言っても、責任逃れするな、と言われることになる。はっきり政権を脅して、すぐにでも臨時病棟を作らせ、緊急医療態勢整備(当然、医療政策撤回と予算措置も)を政府に要求する、それが医師会のまず先にやるべきことだろう。国民負担の緊急事態宣言だけを要求というのはお門違いだ。

 野党は、ほんとうに政権担当能力を示そうと思うなら、一体となってドイツのメルケル首相のような声明を出し、上記のような要求を政府に突きつけて、そのためには「国難打開」のために協力する、と大々的に宣伝して政権に圧力をかければいい。残念なことに、今の野党にこのようなイニシアチブを取れるのは共産党しかいないのだが、その共産党を立民・国民周辺はまだ排除している。先回の民主党政権の失敗から、野党政治家は何も学んでこなかったと言わざるをえない。だからわれわれは野党を頼むこともできない。それが現代日本の政治の惨状だ。

 だとすると、市民あるいは民衆はしょうもない政治的状況の中で、野武士のように、あるいは草莽の志士たちのように、この政治の惨状とパンデミックとからみずからを守る「民衆防衛」をやるしかない。たぶん、大津波の中の自助・共助のようなことになるだろう。何人かの信頼できる医師たちの見解をベースに現状を把握し、上記のような要求を強く出してゆくこと、そして自助・共助のシステム化を実践的に作りつつ、その法制化も目ざしてゆくこと(そのひとつが労働者協同組合法だが)等々だ。少なくとも、現政権の下での緊急事態宣言ではなく、われわれの「緊急事態」に対するわれわれ自身の対処だ。

[追伸]

 「各世帯マスク二枚配布」という世にも大胆な対策ではっきりわかったのは、コロナウイルス禍に対処するのは安倍政権ではムリだということ。「私が総理大臣…」しか考えていない、考えられない。それで、「自発的隷従」官僚もヤケのヤンパチになっているのでは? とにかくもう無理。しかしなぜこれでも退陣させられないのか???

★「緊急事態宣言」をめぐる綱引き2020/04/06

 日テレは伝えている「6日にも緊急事態宣言の準備入りを表明する見通し」。何とももってまわった見出しである。

[特措法]
 政府は、医師団体や自治体首長らの要請にもかかわらず、宣言を出し渋っていた。コロナウイルス危機を受けて、自民党内から「緊急事態条項」のテストとせよといった意見が出る一方、民主党政権時代にインフルエンザ特措法がすでに作られていたことに気づき、アべ政権はただちに(この対応は迅速だった)この特措法の改正案を通した。その流れからすれば、オリンピックの延期が避けられなくなったら、すぐにでも緊急事態を宣言するのではないかと思われたが、東京都の小池知事はその気でも、政府にはその気はないようだった。特措法を急遽持ちだしたのは、野党を協力に抱き込み、「桜を見る会」の追及と「黒川人事ごり押し」を後景に斥けるためだったということだ(事実そうなっている)。

[宣言の綱引き]
 緊急事態宣言を出すと、国が危機的状態にあることを政府が認め、社会活動を停止させることになるため、その経済的影響(さらにはオリンピック準備への影響)が大きいことと、社会的補償が避けられなくなることを嫌っているようである。株価はすでにアベノミクスのバブル分を切り、天井を抜いて増やした日銀保有株が原価割れしており、日銀がもつかどうかわからない。つまり金融危機が避けられないのだ。
 
 それでも、東京都知事や大阪府知事が「宣言」を早く出せと言っているのは、「医療崩壊」が目前に迫っているからだろう。医療崩壊とは、感染の拡大が医療体制のキャパシティを超えて対応ができなくなってしまう状況を言う。東京都では当初、感染症対応の病床が110余りしかなかったが、今は1000床余を用意しているという。しかし感染者はすでに1000人を超えた。だから指定感染症にもかかわらず、すでに軽症者は入院隔離することができない。そのためにホテルを借り上げる準備をしているという。。だからもう政府が宣言しようがしまいが、事実上「緊急事態」だということだ。
 今、4000床規模に拡大するため、特定医療機関を中心に感染症病棟、ICU病床を臨時で増やすよう要請しているようだが、そのためには医師・看護師他の人員がいる。その結果どうなるかと言えば、現在行われている医療や外来・救急対応ができなくなるということだ。

[何ゆえの医療崩壊]
 なぜこういうことになるのか。そんなに簡単に「医療崩壊」が起きるのか。理由ははっきりしている。ここ十年以上(3・11の後でも)、東京も、とくに大阪は、行政の無駄を省いて「公共部門」を絞り上げ、経営意識で効率化するという「改革」を進めてきたからだ。いわゆる「新自由主義」改革だが、公立病院のベッド数や医療・保健師数の削減を進めてきた結果、現場は逼迫し疲弊している。その結果、人口の多いこれら大都市では「無駄」と見なされた感染病病床が異常に少なくなってしまった(人口10万人当たり島根は4.4だが、東京1.0、大阪0.9)。
 
 これについては、国も同様の方針で、経済財政諮問会議の提言の下、昨年10月末には厚労省が400の病院名を公表し、「病院や過剰なベッドの再編は、公立 公的病院を手始めに、官民ともに着実に進めるべきだ」と提言、アベ首相自身が「持続可能な地域医療体制を構築するため(?!)…、病院の再編とともに、全国でおよそ13万床あるとされる過剰なベッド数の削減などを着実に進めるよう」加藤厚生労働大臣らに指示している。
 
[ここにある緊急事態]
 その結果とも言えるが、4月1日に日本集中治療医学会は理事長声明を出し、日本の集中治療体制(ICU)は脆弱といわれて惨状を呈したイタリアと較べても半数以下で、感染爆発が起きた際は、医療崩壊が予想よりも早く起きると警告した。要するに、日本の医療水準は、技術的にはともかく、社会的には「世界有数」どころかきわめて貧弱なものになっていたのである。
 3月30日は年度末だが、小池知事はこの時期にも、都立病院を「不採算部門」として都の直営から外す決定をしたという。
 
 日本で新型コロナウイルスの感染検査が進まない(進まないどころか、できるだけさせない仕組みがあり、症状があって医療機関に頼んでも、保健所に回され、条件に合わないからと検査してもらえない、というケースをよく聞く)。その根本の理由は、感染症の医療体制があまりに貧弱化しており、検査を促進して感染者数の実数が増えると、イタリアの半分以下という現在の医療キャパシティがすぐに決壊してしまうからだろう。
 
 だからもう、事実としては、今回のコロナ禍が始まったときから日本にとっては「緊急事態」だったのである。そう言ってよければ、この間アベ政権が進めてきた医療政策の結果にツナミが押し寄せたのだ。。原発事故と同じ構造である。

[政府の宣言より、非政府の要請] 
 まともな政府、信頼してよい政府なら、あるいはニュートラルな行政府と見なせるなら、ただちに非常事態を宣言し、中国が武漢でやったような、臨時の大病院の早急な用意と、医療態勢の緊急構築等々で対応するのがよいだろう。しかし、今の日本政府・アベ政権は、アベノミクスやオリンピックに拘泥して必要な対策を何ら取らず、従来路線の今年度予算案は修正なしでいち早く通す一方で、南西諸島の軍事化は着々と進め(昨日は宮古島ミサイル部隊の編成完結祝い)、沖縄辺野古の新基地建設も日々進めることだけは(ようやく計画を陰で変えたようだが)やっているのである。これもオリンピック同様、決めたらできないとわかってもやるインパール作戦のようなものだ。
 
 そんな政府に対して、緊急事態宣言、つまり行政権の拡大を要求してどうなるのか。仮にそうするとすれば、その拡大された行政権を政府外の力が担わなければならない。先週のNHKスペシャルで、京大の山中伸弥教授が、「飲食店の営業を止めるなら、補償が必要。英国の友人は2週間前から休業しているが、先日政府から300万円振り込まれ、従業員給与も8割が補償、法人税も1年免除」と述べ、尾身氏が「施設の使用制限と補償はセットでないと実効が上がらない。政治決断が必要」と応じたそうである。このような要請が、確実に反映されなければならないということだ。

[何の危機なのか] 
 今回の新コロナ危機は、たんに医学的問題というだけでなく、現代の社会生活を成り立たせている、あるいは社会経済的活動を担って生活している具体的な人びとを襲うわけで、まさにそれが、新自由主義経済では効率計算によって切り捨てられ、「社会」として抹消されてきた部分なのである。イギリスのボリス・ジョンソンはみずから罹患することで、「社会は存在する」ことに気付いたと告白したが、今回「社会」は病むことでその実在を浮かび上がらせ、それへの手当てを求めている。そしてそれなしに、国も人間の共同体も成り立たないということが明らかになったのだ。
 
 ついでに述べておけば、感染症の専門家山本太郎氏(『感染症と文明』)や生物学者の福岡伸一氏(朝日新聞の4/3のコラム「動的平衡」)が言うように、人間はコロナウイルスを「敵」とすることはできない。コロナウイルスによって人間が遭遇する「災い」に「戦争」の比喩を用いたときから(よく言われる「コロナとの戦い」)、その対応はさまざまな政治的力学に巻き込まれ、混乱に紛れてしまうのだ。

★コロナ感染、日本の現況、医療危機はもう起きている2020/04/09

昨日(8日)何人かの知り合いの医師の話を聞き、児玉龍彦氏のビデオ解説を見て、さらに澁谷健司WHO上級顧問のインタヴューを読んで、日本でコロナウイルス感染の状況がどうなっているのかがはっきり見えてきた。

・日々感染者数等の数値は出ているが、日本では感染状況はまったくわからない。なぜなら、当初から広範には検査しないという方針をとっているから。検査する保健所のキャパがないので、確実な感染軸を追ってその周辺を潰すという方式。
 不安だけで人びとが検査に殺到すると医療側が追いつかず、重篤者に対処できなくなる(少ない医療資源の効率的活用?)。

・その結果、実際には広範に広まっている感染状況がまったく把握できなくなっている。

・現在の医療現場(東京都を念頭に)から見えること――
 多くの人が症状を疑っても検査してもらえない。その人たちが外来診療に行くと、感染症対応のできていない部署で「院内感染」が発生。そのため病院機能を一時閉鎖しなければならない(永寿病院→慶応病院の例)。一般外来できず、救急対応できず。このような状況が少なからぬ病院で起きている。不明なままの「濃厚接触」で、医師・看護師等も現場を離れざるを得ず、もともとこの間の医療行政で切り詰められていた「医療資源」がこれで逼迫。事実上、医療体制はコロナウイルスの感染拡大に対応できなくなっている。

 それでも検査を拡大しないから(できないのではなく、しない。それがクルーズ船以来の厚生省―保健所、および政府専門委員会の方針)、感染が不特定に広がり、前線に立つはずの医療機関からまず機能不全に陥ってゆく。実情不明が、医療現場自体の危機(人的・物的・組織的)を招いてしまっているのだ。

・何が「手遅れ」かと言えば、検査を極限して顕在化したところから辿るといういわゆる「クラスター作戦」(医療崩壊を防ぐ、つまり医療体制に合わせてこれを守る)がとっくに破綻していることを認めず、逆に医療崩壊を招いてしまったということ。もっと早く方針転換すべきだった(英のジョンソン首相は、遅まきに転換したが、そのときには自分自身が感染していた)。

・いま、政権と医師団体は自己利害からしか対応策を打ち出せず(政権はアベノミクス経済護持・支持率護持・火事場泥棒緊急事態 etc. 医師団体は既存体制保持、そこでの自己権益)、行政機構はこの間のアベ全能支配下で保守・保身・自己利益の蟻塚と化しており、徹底して都合の悪い検査を拒む態勢。それが現在の状況を生んでいる。

・じつは現政権が緊急事態を発令するかどうかの問題ではない。それを委ねられる権力かどうかの問題だ。そうではないことをこの間のコロナ対策の事情が示している(わたしが「緊急事態発令」に反対し、「民衆自衛」しかないと言ってきたのはこのことだ)。実効性ある措置要求と退陣要求(責任を取れということだが、それが理解できないようだ)。

・人の命が…と言うのなら、四の五の言わずに急遽医療体制整えて(病院も急造して)、生活は保障するから不要不急の移動は控えて、と要請すればいい。が、残念ながら、日本ではそういう状況になりそうにない。医師たちも、姿勢が自己利益化しているのが多いから、組織的機能不全がすぐに一般化するという話もある(「鰯は頭から腐る」の弊害がここにも)。

・児玉氏の結論――「政治を科学の上においてはいけない、信頼できるリーダーを」
(これは中国の例も念頭に言われている。習近平は独裁者だと言われるが、安倍も事実上「無謬の権力」を行使している。習はSARS対策を指導した実績ある医師にコロナ対策を任せた。この件に関して「科学を政治の上においた」のだ。ところが安倍は、よく知られているように自分に都合のよい専門家しか政府委員にしない。その違いだ。)

★児玉龍彦、デモクラTV :https://www.youtube.com/watch?v=r-3QyWfSsCQ&fbclid=IwAR0XGJilNyr_exz6ecy-b1DAnO_koi4eKtRgDyEWQ1I84AHDkUyDz_PaeDk
★渋谷健司、インタヴュー :https://diamond.jp/articles/-/234205?fbclid=IwAR1xBZ3w2RUs4dkSAURR8wnkuFe_f85xjTPVhoOZiAnvA_0V5vhLGDusU38


前日のFB投稿も添付しておく。

★知り合いの内科医から。
 都内某医療機関(感染症科あり)の外来総合診療で働いている知人からの情報。この病院では都の要請を受けてしばらく前から感染病床を通常の3倍ぐらいに増やしている(それでも20床弱)が、すでに病床は埋まり、感染症外来では受けいれられず、受診を断られた人たちが一般外来に回ってくる。その人たちはちょっと見には違うだろうと思われても、CTを撮ってみるとコロナ感染濃厚というケースが何人もいるという。しかしもう入院はできない。呼吸困難で救急で運び込まれてきた人も、仕方なく断っているという。それに総合診療科のスタッフは感染症用の防護もしていない。病院のいちばん入口にいる人たちが脅かされてのだ。台東区の永寿病院の例もそうだっただろう。
 こういう実情で、すでに「医療崩壊」は起こっていると言ってもいい。「何としてでもオリンピック」の「世界に輝く東京」は、感染者わずか「1000人余」でもすでに「医療崩壊」を起こすのだ。じつは、はるかに多くの罹患者がおり、「臨戦態勢」の医療機関も追いつかず、医療関係者も無防備にさらされている。
 その実情も知らせず、ただ「自粛だのみ」の「緊急事態宣言」では話にならない。説得力もない。和歌山県の例をしっかり踏まえるべきだろう。行政がきちんと情報公開し、住民の信頼を得て協力も得る。それで有能な保険担当者がいて実務をしっかりやったから「成功例」になった。SARS のときもベトナムもそうだったようだ(別の医療行政関係者からの情報)。
 政治家たちが自分や支持者たちの都合や恣意しか考えず、行政機構を腐らせてしまっているこの国では、どんな「災害」も善意の職能人たちを頼りに、協力(連帯)して自分たちで乗り切るほかない。こんな政府は要らないということだ。ただし、あらゆる公的手段で使えるものは尻を叩いて使う。
 とりあえず、この勿来さんのブログ投稿を紹介させてもらう。
[追伸] 今日もテレビでは(もちNHKも含めて)武漢は封鎖解除したが、実にいい加減で再感染拡大が起こるだろう…、一党独裁だから云々、と中国貶しをやっている。だが、国を挙げて必死に抑え込みをやって何とか窮地を脱した他国のことを言う前に、自国の情報操作や医療体制不備と、アベノ大本営(一党独裁とこればかりはどっちもどっち)の場当たり無策(布マスク2枚とか)を問題にすべきだろう。こういう放送自体が、緊急事態に名を借りたヘイト情報操作だ。

スリムな医療キャパと検査をしない行政2020/04/11

[共同通信 04/10]――新型コロナウイルス感染の有無を調べるPCR検査が、さいたま市では2カ月で171件にとどまったことについて、市の西田道弘保健所長は10日、記者団の取材に「病院があふれるのが嫌で(検査対象の選定を)厳しめにやっていた」と明らかにした。

埼玉だけではない。日本で検査が少ない(してもらえない)のはひとえにこのためのようだ。もともと病院に余裕がない。感染が増えたらすぐにパンクする。だから病院が機能していると見せるために、感染者数は増やせない。その縛りを行政出先の保健所がやる。政府専門委員の医師たちも、病院態勢が円滑であることを求める。自分たちの立場を守り維持することになるから。だから、3月末になって慌てて「緊急事態宣言」を政府に求めた。しかし自民党にくっついてきた医師団体だから正面切った批判はできず、ぎりぎり持ちこたえているとは言い続ける。

だがもう医療態勢はパンクしている。東京では呼吸困難で救急で運び込まれても、もう受け入れられる病院はないのだ。病床だけの問題ではない。医療スタッフにはまったく余裕がない(経営効率のいい病院だから)。ICUで人を取られたら、もう通常医療はできない。救急患者はもちろん受け入れられない。それはもう現実になっている(さすがに今日10日のNHKではとくに設備面を表に出して扱っていた)。

 これまで何をしていたのか。本末転倒。検査を進めて感染状況を把握するというのではなく、「効率的」な病院体制の都合に合わせて検査を絞ってきたのだ。感染の現実に対する関心よりも、病院のキャパがこれだけだから、それを溢れるような感染者を出さない、つまり極力検査をしない。それが日本のこれまでの医療行政の対応だったということだ。保健所長はそのために働き(それが厚生省医療行政の下での有能な役人)、専門委員の医師教授たちは政府の機嫌を損なわないよう、やきもきしながら揉み手でお願いしてきた。医療現場はそれでも起こる事態に対応を迫られる(→逼迫)。

 中国政府は初めは混乱があったものの、1月20日過ぎにSARS対応で功績のあった鍾南山氏の進言で武漢を封鎖、そこに全国から5000人の医療スタッフを募って送りこみ、1000床の臨時病棟を作って対応し、つい先日4月8日に封鎖が解けるまでにもってきた。一党独裁だからできたのではない。政府が優れた専門家の進言を受け入れ、「経済的影響」など二の次にしてとにかく感染制圧のために人・モノ・情報のすべてをつぎ込んだからだ。それを日本でやれとは言わないが、既存医療行政組織が無能政府に従うばかりのいまの日本では、国民(外国人は言うまでもなく)は政府行政に何も頼ることができないようだ。

日本では、3月に和歌山県が独自判断で的確な対応をしたが、その時にはまだ周囲に余裕があった(検査等で他府県に応援を求められた)。いまはもうどこも他所を助ける余裕がない。急遽仮設病院を作ろうにも、日本の医療キャパ(とくに人、頭数はもちろん、その医療従事者たちが感染症対応にはりつけるような生活のサポートなど)そのものが限界なのだ。

 ともかく、もう症状が出ても病院で治療を受けられないことは覚悟しておかなければならない。

緊急事態宣言についての補遺2020/04/17

『世界』5月号に「緊急事態とエコロジー闘争」を寄稿し、日刊ゲンダイのWebページでもインタヴューに答えた(4/18 掲載)が、日本の現在の議論の混乱を腑分けするために補遺を書いた。
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 政府は4月8日に7都府県を指定して緊急事態宣言を発出し、まる8日経った16日、宣言を全国に拡大した。この間、感染は全国に広がっただけでなく、東京都をはじめとして各地で医療崩壊が起き始めた。街は閑散として人出は少なくなったものの、「自粛」を要請された人びとは、働く人も店を営む人々も生活の不安に戸惑っている。学校も閉鎖されて子供は行き場を失い、テレワークとやらが進められる一方で、生身で働く人びとは糊口の道を断たれ、あるいは廃業の危機にさらされている。
 
 多くの人びとが緊急事態宣言を求め、今日の宣言拡大も遅すぎたと言う。それは不安を抱く人びとが、ともかく政府にしっかりイニシアチブをとって対応してほしいという要求だろう。ただ、その願いと緊急事態宣言についてのはっきりした理解があってのこととは思われない(テレビ得意の「町の人たちの声」を聞くと)。事実、緊急事態宣言が出たから何かが解決するというわけではないのだ。
 
 とりわけ、現政権の場合は、一月前まではオリンピックを控えて騒ぎを大きくしたくなかった。日本は安全としておきたかったのだろう。だが、しだいに新型コロナウイルス感染が世界的に深刻になるなかで、この件であまり表に出なかった首相は、それでも存在を示すためか、2月末、不意に出てきて学校閉鎖を要請した。だが文科省とのすり合わせもなく、現場の学校では大きな混乱と父兄たちの不安が生じさせる一方、与党からこの「危機」を緊急事態の予行演習として改憲にもっていけるのではという声があがり、急遽、旧民主党政権が制定したインフルエンザ特措法の改正という形で、政府が緊急事態宣言を出せるようにした。邪念からする付け焼刃にすぎない。だから、法改正がなされても、ただちに使うつもりはないと政府は強調していた。もともと法を整えて動くという政権ではないのだ。
 
 いちばん宣言の発出を求めたのは対応に当たっていた政府の専門委員会つまり医師団体である。ヨーロッパでコロナ肺炎が急速に広がり、もはや医療体制が追いつかず、多くの人が治療も受けられずに廊下で死んでゆく様子を見て、日本の医療体制を知っており、感染の状況も推測できる彼らは、日本の医療の逼迫が間近に迫っていることが分かっていたのだろう(この間、政府の医療の合理化・効率化行政に追従して医療界で地位を占めてきたのも彼らである)。だから、通常の医療を崩した対応ができるようにするために、早く緊急事態宣言がほしい焦っていた。破綻が分かっていた状況コントロールのためである。諸外国ではすでに多くの国が緊急事態下にあったが、日本でも宣言を求める世論が高まってきたのはその頃からだ。
 
 感染の拡大を抑えるために緊急事態宣言をする。医師団体は、人びとに事態が深刻であることを告知するとともに、緊急の病院体制・医療体制をとらなければならない、それには行政(政府・厚生省等)による指示・編成や医療サポート等が欠かせない、という意味で政府に宣言を求めたのだろう。
 
 政府はだから「外出を控える」「三密を避ける」を強調した。それも「自粛要請」という形で。つまり自分で慎めということだ。政府は強制しているわけではない。強制すると補償が必要になる。それはやりたくないわけだ。何でも「自己責任」にしてきた政府だから(だから小さな企業はすぐに潰れると言われると、潰れる企業は潰せ、と言う)。政府が何としても避けたいのは「経済が停滞する」ということだ。それに、使えない兵器はアメリカのためにバカバカ買っても、社会保障費や教育費はどしどし削ってきた政権だ。弱者を助けるために金は出さない。出すのは「消費に回る金」(麻生財務相)つまりアブク銭だけだ。それと、景気をよく見せるために株価を維持し吊り上げるためには無制限に日銀に金を作らせる。要するに、この政権にとっては、コロナ蔓延が「緊急事態」なのではなく、いわゆるアベノミクスが破綻することが危機なのである。だから、百五兆円の「ミゾウユウ」の経済対策を打つという。それもだいたいは大企業向けだ。
 
 ここには、「緊急事態宣言」をめぐる下からの要求と政府の対応に大きなボタンの掛け違えがある。それをはっきりさせるためには、今回の新型コロナウイルス感染の広がりによる「危機」がいかなるものなのかを理解しなければならない。
 
 グローバル化した世界、それも大量の人を動かすことで消費を生み出す「観光業」の振興で「繁栄」する世界の一角に登場し、たちまち変異しながら人の流れにつれて広まったこのウイルスには、まだワクチンがない。ウイルスに意思があるわけではないから、人間に重大な疾患を引き起こすこのウイルスの蔓延を防ぐには、人間同士の直のコンタクトを避けるしかない。ところがこのコンタクトの強化、人の周密化が現代世界の運行、とりわけ経済を回す組織的活動を支えている。ところがウイルスは人間たちの活動に沿って伝播する。だからその蔓延を抑えるには、人間の社会的活動の領域を閉鎖し、回路を断つしか方法がないのだ。
 
 その活動が経済を支えているのだとしたら、それを停止することしか生きた生身の人びとを救う道はない。つまり一時的には経済システムを断念しなければならないのである。経済システムを止められて人びとは逆にどうやって生きていけるのか。それこそが国家の役割になる。疫病の蔓延から社会を守り、その社会が死なないために保護する。国家はいまや国民を敵国から守る(と戦わせる)ためにあるのではない(大国同士の戦争はもはやできない)。グローバル世界でその役割は大きく変わっている。疫病は敵国を想定した戦争よりも、人びとの生存を危ぶめる自然の災害に似ている。それが社会的生活をジレンマに陥れる。自然から身を守るためには、この「すばらしい」人工の組織の活動を止めなければならない。それが国としてまとまるひとつの社会の「緊急事態」なのである。
 
 だからそれへの対応として医療体制にテコ入れしなければならないし、その一方で社会的回路の遮断で苦境に立つ人びとを救わなければならない。法人だ問題ではない。経済を立て直すのも生きた人間たちだ。政府だけがこれに対処できる。それも、平場で生きる人びとと地域行政府の要請に応えることで。中国のやり方がそのまま好ましいとは言えないが、ともかく中国政府は感染症対応実質トップの鐘老師の進言を最優先させ、少なくとも三か月間経済システムが停止するのを覚悟で大胆な手を打って感染を抑えた。これは政治体制の問題ではなく、行政力の問題である。

 日本で緊急事態を担当するのは安倍首相側近と言われる経済再生担当大臣である。そこにすでに彼此の政府の認識の違いが現れている。これはパンデミックの危機であって、経済危機ではないのだ。この政府のもとで「緊急事態宣言」がなされても、状況に押されてその都度いやいやながら対応しながら、日本の農業をアメリカのバイオ企業に売り渡す種苗法や、検察官の定年延長だけは通そうとするこの政権に、何の期待ももつことはできないだろう。日本では、緊急事態宣言が出されようとどうしようと、生活の現場から要求を突きつけ動かしてゆくしか先は開けない。たぶんそれは短期では収まらないだろう。

コロナ禍に生きる⑥「自粛」でなく「自衛」を(山陰中央新報)2020/04/27

松江の山陰中央新報社会部が立てた独自企画「コロナ禍に生きる」に寄稿したものが26日(日)に掲載された。担当は多賀芳文記者。一部省略されていたが大意は変わらない。ここに再掲しておきたい。『世界』5月号に掲載の「緊急事態とエコロジー闘争」の主旨とも重なっている。ここで「自衛」と言ったのは「自治」と言い換えてもいい。
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 近年の世界を駆動してきた「グローバル経済システム」は、政治さえも市場原理に投げ込んできた。システムとして総数で世界が繁栄する仕組みを構想し、数値化されない生きた人間の部分を統治の仕事から切り捨ててきた。今回、新型コロナウイルスは、そのシステムの足下をさらってきた。「こう来たか」というのが率直な感想だ。

 「疫病」という語は今では使わないが、「疫」は古くから万民が免れない災いの意で使われ、近代の医学用語の「免疫」とも対応しているので実は適確な言葉だ。

 だからわれわれの遭遇しているのは疫病禍であって「戦争」ではない。緩慢な津波のようにわれわれの生活圏を浸してくる。免疫ができるまで、対策は隔離と分断しかないが、それはグローバル化した経済社会システムの首を絞めことになる。感染しなくとも、社会の血流が止まり、多数の人びとが生きられなくなる。運行を支える人びとが倒れて、流れが滞り、足元から経済システムが崩れていくのだ。システムは持続できない。

 「ウイルスとの闘い」は政治的な争いではない。この言葉を政府や政治家が「戦争」の比喩を用いるときは注意しなければならない。敵を作り民意を引き寄せることで、都合の悪い事実を隠すのが政治の常だからだ。問われるのは危機を乗り切る行政能力だ(悲惨なことに今の日本にはそれが徹底的に欠けている)。

 日本特有の「自粛」という表現も政治的だ。「自粛」と言うとき、すでに政府は責任をごまかしている。国民主権が基盤の近代国家で、行政府が市民の活動を制限する場合、生活を補償するのは義務である。活動停止、営業停止を求めるのであれば、相応の補償をするのが国家だが、日本政府にこうした認識があるのだろうか。

 たしかに医療現場は「戦場」だ。十分な手段もなく疫病と闘わなければならない。けれども、人間社会は生き物でさえないウイルスと「闘う」ことはできない。課題は「自然環境の異変に、いかに適応するか」ということだ。

コロナ禍が社会の転換機になるとの見方があるが、私は基本的に懐疑的だ。少なくとも日本は約10年前、地震と津波、原子力災害が重複する東日本大震災を経験した。ところが、その後どうなったか。その時、災害によって露呈した課題はみな隠され、ごまかされ、今の政府はすべて東京五輪に流し込もうとしてきた。何一つ改善されず逆行した。

 こうした条件下で、できることは「自粛」ではなく「自衛」だ。わたしたち自身で自分たちの生きる社会を守らなければならない。
 希望があるとすれば、地方や地域にこそある。実際、生活と行政の距離が近く、現場で発生する課題を地方行政が真っ先に吸い上げることができる。仮に政府方針と異なっても住民を守り、事後に政府に予算を付けさせることができる。

 グローバル経済システムの問題が噴出したいま、地元の力、足下の力を発揮すべき時だ。身近な生活圏をつくる動きが今後の地域形成の基本になるとするならば、災いは福に転ずるかもしれない。地方から中央を動かす圧力を、いま持つことに期待を寄せたい。(談)