緊急事態宣言についての補遺2020/04/17

『世界』5月号に「緊急事態とエコロジー闘争」を寄稿し、日刊ゲンダイのWebページでもインタヴューに答えた(4/18 掲載)が、日本の現在の議論の混乱を腑分けするために補遺を書いた。
 -------------------------------------------------

 政府は4月8日に7都府県を指定して緊急事態宣言を発出し、まる8日経った16日、宣言を全国に拡大した。この間、感染は全国に広がっただけでなく、東京都をはじめとして各地で医療崩壊が起き始めた。街は閑散として人出は少なくなったものの、「自粛」を要請された人びとは、働く人も店を営む人々も生活の不安に戸惑っている。学校も閉鎖されて子供は行き場を失い、テレワークとやらが進められる一方で、生身で働く人びとは糊口の道を断たれ、あるいは廃業の危機にさらされている。
 
 多くの人びとが緊急事態宣言を求め、今日の宣言拡大も遅すぎたと言う。それは不安を抱く人びとが、ともかく政府にしっかりイニシアチブをとって対応してほしいという要求だろう。ただ、その願いと緊急事態宣言についてのはっきりした理解があってのこととは思われない(テレビ得意の「町の人たちの声」を聞くと)。事実、緊急事態宣言が出たから何かが解決するというわけではないのだ。
 
 とりわけ、現政権の場合は、一月前まではオリンピックを控えて騒ぎを大きくしたくなかった。日本は安全としておきたかったのだろう。だが、しだいに新型コロナウイルス感染が世界的に深刻になるなかで、この件であまり表に出なかった首相は、それでも存在を示すためか、2月末、不意に出てきて学校閉鎖を要請した。だが文科省とのすり合わせもなく、現場の学校では大きな混乱と父兄たちの不安が生じさせる一方、与党からこの「危機」を緊急事態の予行演習として改憲にもっていけるのではという声があがり、急遽、旧民主党政権が制定したインフルエンザ特措法の改正という形で、政府が緊急事態宣言を出せるようにした。邪念からする付け焼刃にすぎない。だから、法改正がなされても、ただちに使うつもりはないと政府は強調していた。もともと法を整えて動くという政権ではないのだ。
 
 いちばん宣言の発出を求めたのは対応に当たっていた政府の専門委員会つまり医師団体である。ヨーロッパでコロナ肺炎が急速に広がり、もはや医療体制が追いつかず、多くの人が治療も受けられずに廊下で死んでゆく様子を見て、日本の医療体制を知っており、感染の状況も推測できる彼らは、日本の医療の逼迫が間近に迫っていることが分かっていたのだろう(この間、政府の医療の合理化・効率化行政に追従して医療界で地位を占めてきたのも彼らである)。だから、通常の医療を崩した対応ができるようにするために、早く緊急事態宣言がほしい焦っていた。破綻が分かっていた状況コントロールのためである。諸外国ではすでに多くの国が緊急事態下にあったが、日本でも宣言を求める世論が高まってきたのはその頃からだ。
 
 感染の拡大を抑えるために緊急事態宣言をする。医師団体は、人びとに事態が深刻であることを告知するとともに、緊急の病院体制・医療体制をとらなければならない、それには行政(政府・厚生省等)による指示・編成や医療サポート等が欠かせない、という意味で政府に宣言を求めたのだろう。
 
 政府はだから「外出を控える」「三密を避ける」を強調した。それも「自粛要請」という形で。つまり自分で慎めということだ。政府は強制しているわけではない。強制すると補償が必要になる。それはやりたくないわけだ。何でも「自己責任」にしてきた政府だから(だから小さな企業はすぐに潰れると言われると、潰れる企業は潰せ、と言う)。政府が何としても避けたいのは「経済が停滞する」ということだ。それに、使えない兵器はアメリカのためにバカバカ買っても、社会保障費や教育費はどしどし削ってきた政権だ。弱者を助けるために金は出さない。出すのは「消費に回る金」(麻生財務相)つまりアブク銭だけだ。それと、景気をよく見せるために株価を維持し吊り上げるためには無制限に日銀に金を作らせる。要するに、この政権にとっては、コロナ蔓延が「緊急事態」なのではなく、いわゆるアベノミクスが破綻することが危機なのである。だから、百五兆円の「ミゾウユウ」の経済対策を打つという。それもだいたいは大企業向けだ。
 
 ここには、「緊急事態宣言」をめぐる下からの要求と政府の対応に大きなボタンの掛け違えがある。それをはっきりさせるためには、今回の新型コロナウイルス感染の広がりによる「危機」がいかなるものなのかを理解しなければならない。
 
 グローバル化した世界、それも大量の人を動かすことで消費を生み出す「観光業」の振興で「繁栄」する世界の一角に登場し、たちまち変異しながら人の流れにつれて広まったこのウイルスには、まだワクチンがない。ウイルスに意思があるわけではないから、人間に重大な疾患を引き起こすこのウイルスの蔓延を防ぐには、人間同士の直のコンタクトを避けるしかない。ところがこのコンタクトの強化、人の周密化が現代世界の運行、とりわけ経済を回す組織的活動を支えている。ところがウイルスは人間たちの活動に沿って伝播する。だからその蔓延を抑えるには、人間の社会的活動の領域を閉鎖し、回路を断つしか方法がないのだ。
 
 その活動が経済を支えているのだとしたら、それを停止することしか生きた生身の人びとを救う道はない。つまり一時的には経済システムを断念しなければならないのである。経済システムを止められて人びとは逆にどうやって生きていけるのか。それこそが国家の役割になる。疫病の蔓延から社会を守り、その社会が死なないために保護する。国家はいまや国民を敵国から守る(と戦わせる)ためにあるのではない(大国同士の戦争はもはやできない)。グローバル世界でその役割は大きく変わっている。疫病は敵国を想定した戦争よりも、人びとの生存を危ぶめる自然の災害に似ている。それが社会的生活をジレンマに陥れる。自然から身を守るためには、この「すばらしい」人工の組織の活動を止めなければならない。それが国としてまとまるひとつの社会の「緊急事態」なのである。
 
 だからそれへの対応として医療体制にテコ入れしなければならないし、その一方で社会的回路の遮断で苦境に立つ人びとを救わなければならない。法人だ問題ではない。経済を立て直すのも生きた人間たちだ。政府だけがこれに対処できる。それも、平場で生きる人びとと地域行政府の要請に応えることで。中国のやり方がそのまま好ましいとは言えないが、ともかく中国政府は感染症対応実質トップの鐘老師の進言を最優先させ、少なくとも三か月間経済システムが停止するのを覚悟で大胆な手を打って感染を抑えた。これは政治体制の問題ではなく、行政力の問題である。

 日本で緊急事態を担当するのは安倍首相側近と言われる経済再生担当大臣である。そこにすでに彼此の政府の認識の違いが現れている。これはパンデミックの危機であって、経済危機ではないのだ。この政府のもとで「緊急事態宣言」がなされても、状況に押されてその都度いやいやながら対応しながら、日本の農業をアメリカのバイオ企業に売り渡す種苗法や、検察官の定年延長だけは通そうとするこの政権に、何の期待ももつことはできないだろう。日本では、緊急事態宣言が出されようとどうしようと、生活の現場から要求を突きつけ動かしてゆくしか先は開けない。たぶんそれは短期では収まらないだろう。