新自由主義とパンデミック2020/05/08

『しんぶん赤旗』5月8日付けで掲載された解説を多少補足して再掲します。
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 新型コロナウイルス感染症が拡大する中であらわれてきた日本社会の歪み(ひずみ)や政治問題について東京外国語大学の西谷修名誉教授に聞きました。
 
◆パンデミックはなぜパニックを――新自由主義経済
    
 今回の新型コロナウイス感染拡大(パンデミック)は、世界的にパニックを引き起こしています。なぜかというと、古くて新しいこの「疫病禍」が、グローバル経済の踝や関節、リンパ節をマヒさせたからです。Covid-19と新規な名前がつけられていますが、現代世界でも疫病は疫病、それにすでに予想もされていたのに結局パニックです(だから暇人は千年前と同じく、ネットで「デカメロン」に興じる)。これは新自由主義を原理とする経済社会の破綻と言わねばなりません。
 
 病気になってときに死にさらされるのは一人ひとりの生きた人間です。それはふつうのこと。ただ、これがパニックになったのは、感染拡大を抑えるためには現代社会の動脈血流を止めないといけないから。とりわけ経済活動を地場でつないでいる人と人との接触を遮断しないといけない。それは経済に大打撃、だから大慌てです。
 ところが日本政府のやるのは、まずは景気対策(はじめはオリンピックの心配と、その株価維持のための日銀出動、その他のテコ入れ)。しかし、これを機会にテレワーク導入で成長部門も…と期待。けれども、疫病とそれへの対策で、でいちばん打撃を受けるのは、数値化された経済システムの中に労働力として組み込まれた、生活する人たちです。

 感染拡大を防ぐ処置として社会の血流を止める必要があるならば、それでもしばし人びとが生きていける対策もしなければなりません。この時に行政というものの役割が改めて浮かびあがります。誰もが経済活動に組み込まれている。その活動を止めた時に、組み込まれている人たちが生活できなくなるようでは「社会」(人と人との集合)というものが成り立ちません。だから人びとをこの「災厄」から救いあげるのが行政の役割です。
 
 しかし、日本の政府は経済システムを維持することしか頭にないようです。まずは株価が落ちないように金融市場にお金をつぎ込む。緊急経済対策も大部分が企業向けです。この社会が生きた人間によって支えられているということが考えに入っていません。
 
 医療体制で問題が浮き彫りになっています。政府はこの間、「地域医療構想」に沿った医療体制の効率化を推し進めてきました。約440の公立・公的病院の再編統合や13万床の病床削減をしようとしています。これがまさに新自由主義による効率化・最適化の路線です。
 
 その結果、病院体制はどうなっているかというと、集中治療室(ICU)は不足し、資材も、医師、看護師の数も足りません。だから今医療現場はたいへんです。常に利潤を最大化する経営的発想で改組されたシステムは、ムダは省けと言われていて、緊急時にはまったく余裕がありません。公的セクターも経営原理という政策がここにきて危機的状況を招いているのです。
 (日本の政府とその下にある専門医団体が、初めからPCR検査を極力絞る方針をとってきたのも、基本にそのような条件があるからでしょう。後は医療行政権益と行政一般の体質があるようです。)
 
◆法人と雇用――システムと生きた人間
    
 日本社会はこれまで、無駄を省いた効率的な社会を目指してきました。そういう名目で壊されてきたのが「雇用」です。
 近代以降の産業社会では雇用が社会の入り口になっています。ここで排除されると人は社会的な存在意義さえ認められません。
 
 日本の場合、かつては歴史的な役割を果たしてきた「雇用の安定性」がありました。グローバル経済の時代になって、その安定性は企業にとっては大変な負担になりました。そこで、企業の負担を減らすための政策として、法人税軽減とともに進められたのが「雇用の自由化」です。その結果、非正規労働が増え(いまではそれが「正規」だと言われるようになり)、経営者は自由に解雇して人件費を削れるようになりました。人にではなく、法人(企業)がとても「活躍しやすい」仕組みです。
 
 法人は「ジュリディカル・パーソン」といって法的には人格として扱われますが、じつはまったく非人格的で、息もしないし、腹も減らないし、血も涙も情もありません。あるのは利益計算だけです。しかし経済の「自由化」の下では、その架空の人格である法人を有利に機能させるために、生きている人間を絞りとり、切り捨てるようなことが行われてきました。これが新自由主義の「道」(この道しかない!)です。
 
 新自由主義は経済思想というよりも統治の道徳思想です。イギリスのサッチャー元首相が「社会などというものはない。あるのは個人(家族)と国家だけだ」と言ったのが典型的です。人びとが結びつき連帯を伴うはずの「社会」というものが、福祉に対する〝依存〟を生み出し、経済成長を停滞させているという認識で、富む者の自由と貧者の自己責任を説きました。こうした考えの下で、社会を個人に分断し、連携意識とか共同性に支えられている関係を「不当な保護」として解体し、社会を市場に溶解させました。
 
 イギリスから始まったその路線が今ではグローバル世界の原理になっています。こうした中で築かれた私的利潤と全体効率を第一とする新自由主義の問題がグローバルに表面化させたのが、今回の「パンデミック・パニック」です。
 
◆権力の緊急事態と社会の緊急事態
    
 もう一つ問題となるのは、緊急事態宣言に便乗して、自民党が憲法を改定し、「緊急事態条項」を創設する意向を示していることです。憲法の中に緊急事態条項を組み込むというのは、立憲体制の中で権力の「例外状況」(無制約化)を合法化するということです。これは、上記の「社会」の解体のなかで、それに対応する権力の私物化を合法化したいという政治権力の邪念の現れです。日本ではすでに権力は十分に私物化されているのですが。

 感染拡大に対して浮上する緊急事態はじつはそれとは性質が違います。人々の健康や命の危機に対して、平常時とは違う対応を緊急かつ効果的に行うためのものです。つまりそれは、権力の緊急事態ではなく、社会の緊急事態だということです。
 
 コロナ禍はよく戦争に例えられますが、むしろ災害と考えるべきです。戦争なら国民あるいは国が向き合わねばならない敵がいます。戦時が緊急事態だというのは、この敵とたたかうために国家が権力を集中させ国民を統制するためのものです。一方で災害にはたたかうべき敵はいません。災害時においてはむしろ、国家が国民をどのようにして守れるか、対策の中身が課題になります。国民と社会を保護し救うための緊急事態だということを政府が認識する必要があります。

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