ポスト・コロナの都知事選、私悪を公的名(価値)にする転換機2020/06/21

6月18日告示、7月5日投票の東京都知事選。22人が立候補したという今回、各所に立てられる候補者看板に「みごと」な図柄が現れた。一画に桜井誠(旧在特会)/宇都宮健児/幸福実現党(個人であることに意味はない)がならび、その下に立花孝志を真ん中に「ホリエモン新党」推薦3候補が並んでいる。上下の並びはグウゼンかもしれないが、みごとにはまっている。

「NHKから国民を守る党」の立花は、今度は都知事選を完全な「政治崩壊」の機会にした。これまでもずっとやってきたが、今回が「華」だ。
選挙はもはや代表を選ぶ機会ではない。公費で名を売り存在を押しつける公共的な機会。その「名」が、出ることだけで「人気」となり、人を引き寄せ、資金を呼ぶ。「人気」はスキャンダルでもいい。メディアで「名」を売る(メディアが買う)ことが目的(立花という名も、NHKなどで名が通っていた立花隆のパクリだろう、売る前に売れてる名の商品価値を利用)。

公職選挙はAKBのセンキョではない。人気(ポピュラリティ)には私的な社会的影響力(それ自体パラドクサルだが)というフェイクな力がついてくる。

この看板の中で本気の都知事候補、つまり政策を掲げて公職に就こうとする候補は宇都宮けんじだけだ。だがそれは選管が用意する掲示板(ネットではなくリアルな)の上で、フェイクな候補にみごとに埋もれている。これはもはや選挙広報ではない。政治的選択機会が、私欲売名機会利用によって呑み込まれている。

選挙法にはポスターの中身に規定がないという。当然と見なされることには規定がない。しかし規定がないから何をしても「自由」と解釈される。それであらゆる制度の中身は入れ替えられる。「非常識」が「常識」の代わりに通用するのだ。立花はそれを戦略手法としてきた。だから法が規定していない部分(当たり前だから)が「無法」に置き換えられる。それによって、政治も法秩序も中身が溶けてなくなる。

桜井誠は在日ヘイトを信条とするかぎりで、旧来の政治に頼っており、立花のメチャクチャさにはあと一歩だが仲間だとはいえる。幸福実現党はフェイク・カルト、その点同じなかま。それでまともな政治の包囲網。
では、他の「有力候補」との関係は?小池は国政権力と通じ、そこを手練手管で渡ってきた。こんなあからさまなことはしなくても実質的に政治を空洞化して権力が転がり込むのを待つだけだ。山本太郎は、こういうメディア状況の中から出てきたから、それを既成政治の打開に逆用しようとしているが、今度は本気で都知事になるために立候補したようには見えない。というわけで、ターゲットは宇都宮になる。だがわざわざターゲットにする必要もない。包囲して呑み込んでしまえばいいのだ。選挙は売名、売名は社会的力、正義も公正もない、私欲・私怨すなわち公的威力、その転換マシンが公職選挙だ、と。

それを推進したのがいわゆる「新自由主義」であり(「公」から「私」へ)、その実質を担ったのがPR業界(「実」より「虚」、数値化によるマネージメント、政治のフェイク化)、名のない多数の欲望をそこに向かわせるのがいわゆる「暗黒啓蒙」(新反動主義)の系列である(日本には神の国系のまがい品しかないが)。

これをメディアが「フラット」に伝えるから、メディアがそのままインフラになる。この傾向にどう歯止めをかけるかがたいへんむずかしい課題。

こういうことが、日本でもっとも大きな首長選である東京都知事選挙で露わになった。「ポスト・コロナ」の政治の変質だ。
このことが民主主義にとってもつ意味云々の議論については政治学者たちに論じてもらおう。