観光業と感染――コロナ禍の出られない出口2020/07/14

 観光業とは、もう生産するものがなくなった(競争に勝てない)社会で、人の稼いだ(あるいは貯め込んだ)金をもう一度市場に吐き出させ、消費が拡大したことにする、そして経済規模が増えたことにするヴァーチャル産業である。何がヴァーチャルかといえば、何も生産していない、ただ消費だけを生む「産業」だからだ。(*これについては5月29日付けの「観光業と感染」を参照されたい。)

 フォードシステムの昔なら、労働の余分な報酬として(労働力再生産のだめの)与えられた「観光・慰安と歓楽」を、自己責任で享受すべき「私的エンタメ」として「国土再開発」とともに組織した。そして生産業のない「地元」を接客(サービス)業で組織し、観光客という消費者を呼び込む。この消費者たちは自分で足を運ぶから輸送業も拡大発展することになる。あとはそこがどんなに魅力的なところか、あることないことでっち上げてPRで売り込む。

 もちろんこれは日本だけの話ではない。いまではアフリカやアジアの田舎から、パリやロンドンまで、世界中どこでも観光業に頼っている。日本なら国鉄私営化のあとの「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンから始まって、街も山も川も寺も何から何まで「観光資源」になってしまった。

 生産プロセスを経て稼ぎ、その報酬として得られるはずだった「享楽」が(それが産業資本主義を動かしてきた)、今度は商品化されて消費の対象となり、現地享受を求めて客がみずから足を運んでくる。移動手段も消費して。

 ものを作る産業は頭打ちだ。産業公害は起こるし労働搾取も咎められる。そちらはIT情報技術で極力グローバル・ヴァーチャル化で見えなくする。いくらか社会が底上げされたら、そこで再配分された所得を、こんどは「享楽」で釣って自主的に市場に放出させる。それで大規模な航空産業も(ガソリン大量消費も咎められずに)大発展。グローバル化の恩恵だね、というわけだ。

 そこに出現した新手のコロナウイルスは、だからまずここを直撃した。というより、何でも観光業化が、じつは経済システムのビョーキだったのだ。コロナウイルスはそのことを炙り出し、可視化した。だから観光業からまず感染、そしてとりわけ航空業界の大危機で、文字どおりECUMO治療(日本では国家政策に深く組み込まれているから目立たないが、ルフトハンザ、エア・フランスはたいへんだ)。

 コロナ禍は人びとの接触を牽制する。しかし医師たちが推奨するソーシャル・ディスタンスもほどほどにしておかないと経済がもたない。だからもう回してゆくと政府は言う。その目玉が「Go To キャンペーン」だ。クーポン撒いて国民を「観光」に誘う。それが落ち込んだ経済を回復させる決めの一手だというのだが、どうみてもドツボにはまっている。

 「スペイン風邪」が世界戦争に乗ってパンデミックになったように、新手のコロナ禍はグローバル観光産業に乗ってパンデミックになったのだ(オリンピックが移動博覧会のような観光産業であることは言うまでもない)。ウイルスに「戦争」の論理は通用せず(山本太郎・福岡伸一等の言うように)、だから生態学的関係をコントロールするしかないとして、この観光消費依存の経済システムを変え、そこから脱却しないことには「出口」はないだろう。

 ここまで「地方」が観光頼みになったのは、経済のグローバル化で各国の地域経済がまったく空洞化してしまったからである。その空洞化のとりあえずの埋め合わせで観光業で人を呼び消費を呼び込む(金を落とさせる)ことになっている。しかしそれはすでに過当競争の段階に入っているし、飽きられたら終り(バブル時代の廃墟を見よ)、地方衰退・東京一極化の圧力は変わらない。観光業はあってもいいが、それは付加的なもので(付加価値と言うように)、地域が相対的に自立できるような(自己完結はありえない)、そこで人びとが生活してゆけるような経済社会構造に組み替えてゆくしかない。地域経済の組立てから国の経済が支えられるような仕組みに向けてだ。

 すでにそのような方向の試みはあちこちで始まっている。東日本大震災の後にもそのことは課題になっていた。だが、何かあるといつも「ショック・ドクトリン」(ナオミ・クライン)が働き始める。グローバル経済への統合を前提にしたいわゆる「経済成長」に向けての圧力が働くからだ(日本政府はこの30年間、アメリカの圧力もあってこの路線しかとっていない)。しかし、コロナ禍が示しているのは、各国だけでなく世界経済の規模縮小は避けられないということだ。「新しい生活様式」(これ自体噴飯ものだが)でも「加速」してゆくのは(ドゥルーズ的リバータリアンの「加速主義」?)、ITヴァーチャル化セクターだけである。このセクターが何にでも「解決」を提供しているが、その「解決」は「人間」とその環境である狭い「地球」からの「脱出」の希望のなかに、集めた巨万の富をつぎ込むという妄想に漂っているだけである。

 何でも「経済」が、あるいは「市場」が決定するというドグマがまかり通る現代の世界で、彼ら「解決主義者」たちの影響力はじつは絶大である。テクノ・サイエンス・エコノミーの三位一体が、パフォーマティヴに妄想を現実化しており、政治家や官僚たちはその圧倒的「真実=現実」供給のもとで、私的利害(権力妄想と実利)を確保しようとしているだけだからだ。まず観光業復興で消費拡大という「Go To キャンペーン」も、そんな状況下で(経産官僚上がりから)「この道しかない」かのごとくに打ち出される。

 しかし、いまほんとうに必要なのは(日本であれどこであれポリス共同体にとって)、一時的には再配分による救済・調整であり、長期的には地域経済からの生活圏の組み直しである。コロナ禍が露わにしたのは、観光産業の脆弱さであり、それを牽引力とするような持続できない世界の経済一元化なのである。それを直視することなしには「出口」はもうひとつの隘路(というより壊れた水路の致命的な誤用)にしかならないだろう。