P・ルジャンドル再訪(2)日本への導入2023/05/26

 このような私的とも言える事情をあえて書き記そうとするのは、日本にルジャンドルの仕事が導入されたのはどのようなコンテクストにおいてだったのかということを示しておくことも無意味ではないと考えたからだ。フランス国内においても彼の仕事は比較的閉じた専門家のサークルを通して議論され、精神分析学会では著作の出版によってじつは強烈なインパクトを与え来はしたが、メディア化されてモードとなることもなく、いわば知識界の深層においてのみ受容されていた(九十年代に、彼が研究主任を務めていた高等研究実践院の外で私が導入されたサークルは、地方の社会崩壊の現実に直面する判事や弁護士たちあるいは聖職者といった「実務家」たちの集まりだった)。それはこの法制史家・精神分析家の問いや繰り広げる理論的開拓が、既成の知的論議の流通回路にそのままでは流れない質のものだったからでもある。それがたまたま、上記のような文学・哲学の境界に位置するようなテーマを抱えていた私の関心に強く響き、自分が関心をもった以上、それを自分の仕事の足場である日本にも紹介しなければならない立場に置かれてしまったということだ。
 それまでの私の関心は、バタイユやブランショやハイデガーに対する関心は、結局のところ西洋的思考の限界に身を置くということだった。それが「世界戦争論」であり、クレオールへの関心であり、また「世界史論」だった。その限界からはみ出る「不可能」が、日本語で考えるわれわれの「分有」(ジャン・リュック・ナンシー)しうるものであり、また「足場」ともしうるところだと漠然と予感していたが、結局のところルジャンドルは一神教の神(学)のような普遍性を装っていた「西洋」というものの限界を確定してくれたのである(それは後になってはっきりすること、ルジャンドルが『西洋が西洋について見ないでいること』にまとめられた三つの講演を携えて来日したことで明確になったことだ)。
ただ、その私が日本にルジャンドルを導入するという役目を十分果たせたかというと、広く思考に関心をもつ人びとを説得することには遠く及ばず(だいたい主要著作とくに『講義』シリーズの翻訳さえできなかった)、結局は九十年代半ばから続けていた大学の枠を超えた私的なゼミのようなもの(私的というには共同的なゼミ)に吹き溜まりのように集まった少数の有為の学生たちと、その仕事をそれぞれに血肉化する作業を地道にすることしかできなかった。そして多少の紹介をしても、この狭い(けっして閉じられてはいなかったが)サークル以外から新たな研究者が出てくるということもなかった。フランス思想の研究においても、同時代のフーコー、ドゥルーズ、デリダについては多くの研究者が世代を継いで生まれてきたが、ルジャンドルの研究者が現れたという話はついに聞かなかった。(例外は、いわゆるSEALs系ともいうべき、私にとっては孫にあたる世代から、何人かの向学の士たちが現れたことである。特筆すべきは、彼らのほとんどは佐々木中の著書を通してルジャンドルを知ったということだ。佐々木中も上記のゼミのメンバーの一人だった。彼の『夜戦と永遠』はルジャンドルとラカンとの関係を問い詰め、またルジャンドルに照らしてフーコーの発想を相対化するというフランスでも誰も手を付けない力作だったが、ルジャンドル理解の根本において私には許容できない一面があり、疎遠になっていた。だが、若い世代が佐々木中の著作に刺激されてルジャンドルに関心を持つようになったというのは、彼の仕事が日本でのルジャンドルの受容に貢献しているということである。だから、今回の追悼特集にも参加を求めたが、残念ながら彼自身の現在の諸状況がそれを許さなかった。)

 ルジャンドルは結局、大方が関心をもつに値しない周辺的な(あるいはその特異さがきわめて私的な性格をもつ、一回的に消え去っても仕方のない、それが運命であるような)思想家なのだろうか?あたかもそうであるかのように、知が情報化しデジタルIT処理され、それが「差異」の商品市場でふるいにかけられる風潮は進んでゆく。そしてその流れに掉さすことが思想の新しい展開だとみなされている。だが、ルジャンドルはその流れそのものに異を立て堰き止め知の流れ方を(あるいは流れる知の性質そのものを)変えようとしていたのである。だからこの流れはその勢いの中にルジャンドルを呑み込んでゆくのだが、底流ではその堰の生み出す偏流が表層の流れに変調を起こさせている。ルジャンドルが静かに世を去ったこのとき、その変調が世界の様相を大きく変化(むしろ混乱)させようとしている。そんな時だからこそ、まさに現代にこそルジャンドルの開いてきた「未踏の」思想的営為の意義をもういちど確認しようと、少数の有志がフランスで「ルジャンドルへの再導入」のための論集を編んだ。それを機に、日本でももう一度その思考に光をあててみようという企画が本号である。それがはからずも追悼号になることになったが、「レヴナント」という言葉がある。戻り来る者、甦る者である。もちろん甦るのは死者の魂である。クレオール世界には「レヴナント」がつきものだし、潰えた先住民の世界を生かすのも「レヴナント」である(イニャリトゥの映画はそれを少しズラして使っているが)。そのさまざまな歴史事情の響きも込めて、本号がルジャンドルが生涯続けた「書く」という弛まぬ労苦の「レヴナント」たらんことを願っている。

 最後に付け加えておけば、ルジャンドルの著作の日本語訳としてはまだ『ロルティ伍長の犯罪(第Ⅷ講)』、『真理の帝国(第Ⅱ講)』、『ドグマ人類学総説』、そして三冊の講演集と『ルジャンドルとの対話』しかない。初期の『検閲者の愛』、『権力を享受する』、『他者たらんとする情熱』などや十巻を数える『講義』シリーズもまだ翻訳がない。たしかにそれは大きな欠落だが、『講義』シリーズの主要部分の執筆・刊行がなされた頃、二〇〇三年の秋に私は東京外国語大学の研究プロジェクトの一環としてルジャンドルを日本に招聘した。そのときルジャンドルに、法制史や精神分析の知識もなく、ルジャンドルの名も聞いたことのない日本の聴衆にあなたのしてきたことが分かるように、通じるように、三つの講演を連続したものとして準備してほしいと、きっとそれまで誰も彼にしたことのないような要求をした。彼はそれを受けて、無前提に人に解らせるようなかたちで、三つの講演を準備してくれた。それまで、ほとんど挑戦的に知の慣習など蹴散らしながら書いてきたルジャンドルは、おそらくこのとき初めて自分のしてきたことを振り返りながら、一般公衆に向けて「解り易く」語ることを始めたと言っていいだろう。そして帰国後、初めて「ドグマ人類学の要諦」のような本を書く(それが『テクストとしての社会』だ)。また、随所からの要請に応えて講演をするようになり、その講演は二、三をまとめてそのつど出版されるようになった。日本語に翻訳されたのは、日本講演集を最初として、『同一性の謎(原題:向う傷)』、『西洋をエンジンテストする(原題:固定点)』がある。その他に『ドグマ的論議』、『人間という動物』、『未踏の道』などがある。言いたいのは、これらの講演集はルジャンドルにとって付随的なものではなく、アカデミズムの論争環境や道を切り開く時につきものの自己の内外での格闘の力技の負荷を削ぎ落してエッセンスを直に描き出す、そんな語り(書き物)になっているということだ。だからそれはいわば彼の思考のいくつもの到達点を描き出している。その意味でこれらの翻訳もまた重要な意義をもつということだ。
今回訳出した、あまり人目につくことのない論文は、その逆に、未訳の重要著作の欠を埋めるような初期著作を生み出した思考の道程をまとめ直したものと言ってもよい。

 フランスでルジャンドルの没後に出たいくつかの追悼記事も、ルジャンドルのかの地での評価(批判)を示すものとして紹介したかったが、そのための紙数の余裕はなかった。

ルジャンドル再訪(1)モナスティールでの出会い2023/05/26

*雑誌『思想』(岩波書店)でピエール・ルジャンドル追悼号が出た(第1190号、2023年6月号)。だが、紙数にも制約があり、ルジャンドルのテクスト翻訳や多くの若い論者に場所を譲るべく、この機会にまとめた私の私的な手記はここに掲載することにした。というわけで、以下は、『思想』追悼号の「余白に」ということで――

 知が情報商品と化して久しく、売れるものがよいもの、という判定のもとに淘汰されるか、あるいはますますせばまる市場のなかでほとんど場をもてないのが…
 そのピエール・ルジャンドルも九十歳を超え、その仕事に触発されてきた数少ない有志が、それぞれの仕事の足場からもう一度ルジャンドルのもたらしたものを再提示しようと、ドイツの文学者カトリン・ベッカーとフランスの社会学者ピエール・ミュソを編者とする論集『ピエール・ルジャンドルの仕事への導入』をようやく出版したのが今年の二月だった。同じ思いのもとで、この論集に協力した私は、日本でもルジャンドルの重要な業績と現代の思想にとっての貢献を再提示する必要があると考え、本誌『思想』で特集号を組むことを提案し、去年の冬から準備にはいっていた。
 そしてフランス語の『導入』の見本が手元に届いたころ、ルジャンドル危篤の報せが入り、パリのさる緩和病棟でこの三月二日、ドグマ人類学の異貌の泰斗はとうとう帰らぬ人となった。二〇二一年にすでに『日の終りのひとつ手前』という回想録をまとめ、コロナ禍の日々をフラン・ブルジョワ街の書斎兼自宅に伴侶とともに籠って、徐々に衰弱していったらしいルジャンドルは、三カ月ばかりの入院の果てに、表立った苦痛もなく静かな最期を迎えたという。そんなわけで本誌の特集号ははからずも追悼号の意味を担うことにもなった。

 一九九一年の四月から翌年三月にかけて、勤めていた大学から初めて研究休暇というものをもらってパリで過ごしたが、その滞在も残りの月数が気になり出したころ、縁あって知己となったピエール・バイヤール(パリ第八大学で精神分析批評を講じていた『読んでない本について堂々と語る方法』の著者)が、お前に合わせたい友人がいる、精神分析仲間のチュニジア人だと言う。それはいい、引き合わせてくれ言うと、ちょっと待て、お前は湾岸戦争についてどう思っているか、と尋ねるので、あれはアメリカが一強世界秩序を敷いて西洋的支配を継続するという軍事的意志表示だ、と言うと、オーケー、じゃ今度連れてくるということになった。
 そこでやってきたのがフェティ・ベンスラマだった。すぐに気さくに何でも話せる闊達なチュニジア人で、関心もいろいろ重なっており、話は尽きなかった。何より二人でお互いに強く納得したのは、知の伝搬・拡散の歴史地理的な構造についてだった。大学などでさまざまな国からきた学者たちと話していてもあまり気にならなかったことだが、差向いで話して如実に感じ取ったことがある。マグレブ(北アフリカ、西アラブ)出身のベンスラマと、アジアの東端の島国から来たわたしとが、ほとんど同じようなものを読み、似たような知的遍歴を経て、ここパリでランボーを語り、ドストエフスキーを語り、フロイトと精神分析について語り、バタイユやレヴィナス、それにハイデガーを語っているのだ。
 つまり、日本のわたしも自国の近代化の過程を経て西洋的なものへアプローチし、ベンスラマはまたマグレブからパリに「上る」ことで知的な自己形成を遂げて、そこで西洋の知的ヘゲモニーにある違和を抱きながら、マグレブとは何なのかを考えている。そのとき私(たち)は気がついた。私はパリに来るまで、ほとんど現実のアラブ世界を知らなかった。そしてパリでマグレブから来たベンスラマに会っている。それは偶然ではなく、近代化する世界のなかでパリは(少なくともフランス語圏の)ひとつの中心であり、われわれは出合うのに、マグレブや日本でじかに出合うのではなく、パリを中心にした放射状の牽引構造のなかで、傘の骨の一本一本が中心に集まるようにして出会うのだ。広く言えば、西洋の世界化という大きな動きのなかで生じた、この近代世界におけるコミュニケーションの地理・歴史的な構造は、われわれの世界の見方・考え方の視野をも規定している。だから、どこで何を考えるのも同じだということにはならず、知の普遍性などというものもじつは成り立たない。それぞれの地理・歴史的位置でなんらかのバイアスがかかっており、少なくともわれわれ(西洋以外の出身者)はそのバイアスをパリで無意識に矯正することによって、了解を成り立たせているのだ。そのことをわれわれは相互照射で知ることができるが、この知の流通構造のなかで、ヨーロッパはみずからの中心性を自覚することはできるが(西洋中心主義?)、中心にいることから逃れることはできないだろう。それを教えてやれるのはわれわれしかいない、というのが、湾岸戦争後の時代の気配のなかでわれわれが到達した一致点だった。
 たしかそれは二月ごろだったが、当時ベンスラマは、同じく同じくチュニジア出身の詩人・批評家アブデルワハブ・メデブとともに『アンテルシーニュ』という先鋭的な雑誌を出しており、四月にチュニジアの古都モナスティールで三日間の国際コロックを準備していた。湾岸戦争後のアラブ世界では、西洋(欧米)に対する自立(アラブ世界の主体性)を強調すると、原理主義の罠にはまりがちで、その歯止めとして「市民性」のような足場が必要だという観点から、「主体と市民性」がテーマになっていた。このコロックには政治学・法学から哲学までの主だった学者たちが、アメリカ、フランス、マグレブ、エジプト、イランなどから参加することになっていた。けれども、全体として地中海をはさんで西洋とアラブ世界の差向いという構図になってしまい、そこに日本からの発言があるとこの構図をずらす視点を持ち込むことができるだろうというので、日本の近代化・西洋化の経験から何か話してくれないか、と言われた。それなら、多少は役に立つことができるだろうとその申し出を引き受けて準備したのが「日本における主体形成の冒険」(『世界史の臨界』所収)である。

 それが前段で、じつはこのモナスティールのコロックでもうひとつ重要な出会いがあった。コロックに主催者はフランスからエティエンヌ・バリバール、ジャン=リュック・ナンシー、フィリップ・ラクー=ラバルト、エリザベート・フォントネー、そしてイタリアからジョルジョ・アガンベンらの哲学者の他に、ピエール・ルジャンドルという法・精神分析学者を招聘していた(他にはアメリカの大学やアラブ諸国の政治学者や法学者など)。出かける前に参加者リストをピエール・バイヤールに示すと、彼はルジャンドルの名を指さして、この人物とはチャンスがあれば知り合うといい、とっつきにくく気難しい人物だが、たいへん重要な仕事をしている興味深い人だ、と教えてくれた。
 チュニスの空港からモナスティールに向かう迎えのミニバスの中で、ダリウシュ・シェイガン(Dariush Shayegan, 1935-2018, 現代イランと中東で最も重要な思想家と目され、2009年にGlobale Dialogue Prizeを受けている)というイラン人と隣り合わせ、彼が何度かの訪日で関心をもったという日本の神社建築などについて話をしていると、ひとつ前の座席で赤いジャケットを着てお茶の水博士のような頭をした紳士が、どうやら聞き耳を立てている。途中バスが休憩をとったとき、コーヒーを飲む席でその紳士に声をかけて自己紹介すると、それがピエール・ルジャンドルだった。
 コロックでは彼が哲学者たちのセッションの司会を担当したが、まとめの冒頭で「日没の地(ヨーロッパ)を彩るペシミズムに浸りきった、変わらぬナルシスティックな繰言を…」とか切り出す。何ということを…、と呆気にとられたが、内心、よくここまで本当のことを公然と言うものだという思いもあり、会議の合間に言葉をかけ、失礼ながらあなたのことをまったく知らなかったが、先ほどの司会ぶりには強く印象付けられた、よかったらどんなお仕事をされているのかご教示願えないか、と尋ねてみた。
 すると強面のこのご仁は、知らないと言われて気を悪くしたそぶりもなく、ソファーに身を起こしながらひとつ例を挙げて説明してくれた。カナダの裁判所で最近こんな判決があった。性転換した父親が、子供(娘)に母と呼ばれる権利を求めて訴訟を起こした。裁判所はその権利を認める判決を下し、娘に対しては「あなたの父親は死んだ」と告げた。すると娘は以後父親を「母」と呼ばざるをえなくなるが、こうして突然父親を「亡くし」二人の「母」をもつことになった娘は、結局その「激変」を処理しきれず精神病院に入ることになってしまった。西洋の法システムは今やこのような問題に対処できなくなっているのだが、それが私の取り組んでいる領域だと言う。そのとき私がこの例からどれだけのことを理解したのかは分からないが、なるほど法と精神分析と、そして身体を操作するテクノロジーが関わるマターであることはすぐに分かった。そこで私は、自分が「世界戦争の時代の死の不可能性」を文学・哲学の方面から考究しており、近年日本では「脳死と臓器移植」の可否が議論されていて、技術のもたらす可能性と人間の存在条件、そしてその法制化の問題を考えている。人間のあり方と技術そして法制度との関係ということでは、響き合うところがあるようだ、と応じて、読むべきいくつかの本を紹介してもらった。
 二日間のコロックの日程が終わると、主催者の二人は他の参加者たちを送り出した後、ルジャンドルと私を誘って古都カイルワンへの一日旅行に連れ出してくれた。北アフリカ・イスラームの古い中心地で、この地域最古のモスクとオスマン時代の青いタイルのモスクとがある。ルジャンドルは宗教についても独自の考えをもっており、主催者たちは西洋とアラブ世界との現代の錯綜を論じるためのコロックの後で、ルジャンドルにフロイトが避けた「もうひとつの一神教」のマグレブ的な伝統についてふれさせたかったのだろう。おかげで私は、モスク巡りの道すがら、宗教というものについて、仏教や神道も含めてさまざまな宗教について、一日よもやま話に交えてルジャンドルと語り合うことができた。
 日本に帰ると、ルジャンドルから数冊の本が送られてきた。そのページを繰りながら、私の関心はしだいにルジャンドルに引寄せられ(そういえばしばらく前からナンシーやベンスラマの関わる論集(たとえば『ユダヤ人は夢をみない』)にルジャンドルも寄稿していた)、バタイユ、ブランショ、レヴィナス、ハイデガーを通して「戦争」を、そしてクレオール文学の発見から「世界史論」へと広がっていた私の関心は、ルジャンドルによってこそ深められるという確信に変わっていった。そしてまずたどり着いたのは『ロルティ伍長の犯罪』の翻訳である。これが適切な選択だったかどうかはわからない。しかし九十年代にはすでに膨大になりつつあったその著作の紹介は、どこから手を付けるべきか分からなかったのだ。この本は法制史と信仰と権力の問題を精神分析で扱う、規定しがたいルジャンドルの思考が、カナダで実際に起きたスキャンダラスな事件を実地に扱っているという点で、それも「規範システムの崩壊」の時代に「父とは何か」という剣呑な問題を直に扱っているという点で、よきにせよ悪しきにせよ、広く関心を引きやすいのではないかと考えたからだ。