11月3日『ガザ・ストロフ――パレスチナの吟(ウタ)』上映後トーク ― 2024/11/05
・サミール・アブダラ/ケリディン・マブルーク監督、2011年仏バ合作
*見てくれる人はごく少ないと知りつつ、いつもは一応ひとまとまりになるように書いている。今回は内容が今までに書いてきたことと重なることもあり、途中からメモ書きのまま掲示してしまった。それでも掲示したのは、この映画を配給しているグループの人たちがこのブログをときどき見てくれていたということ。そしてアフタートークでは用意していったことの半分も語れなかったということもあって、その埋め合わせに未完のままの草稿を掲示することにした。
-------------------------
この映画が日本で上映されるようになったいきさつの中に、すでにこの作品の意義とインパクトが織り込まれているが、それについては配給グループShkranの二口愛莉さん、大谷直子さんの対談(https://diceplus.online/feature/482)に譲り、ここでは、イスラエルによるガザ住民殺戮と抹消の作戦がもはや期限なしに続けられており(米大統領選までは)、過去の映画など観ている時間はないと状況が切迫する中でも、それでも古くないタイムカプセルのようにここに開かれた映像とことばが、何を開示してくれるかをだけ、記すことにしよう。それが映像とともに別の時間にいる人びとにも分かち合われることを願って。
2008年12月27日、イスラエル軍がガザ地区を空爆・砲撃(イスラエルの安全を脅かすテロリスト集団ハマスを掃討するという口実で)、翌1月3日には地上軍が進行し、二週間で一応撤退した。この映画は直後にパレスチナ救援センターのスタッフとともにガザに入って、破壊の後に残された人びとの証言を集めてそれをもとに構成されたものだ。イスラエルはこれを「キャストリード作戦」と名づけ、当時としてはガザにおける最大・最悪の軍事侵攻だった。それでも部分的だったため、ガザの推定死者は約1500人(対してイスラエル市民は13人)だった。
今日に較べれば、軽い前菜のようなものである。だが、この出来事をガザに生きる人びとは「黙示録」的戦争、つまり世界終末の「啓示」のように生きていた。ただし戦争といってもガザ武器も持たないガザ住民にとっては応戦することもできない一方的な攻撃で、彼らにとっては受難以外のなにものでもない(受難、この用語をユダヤ・キリスト教徒たちはバビロン捕囚や、とりわけイエスの刑死と殉教に宛ててのみ使うが)。
この時には一応の停止があった。20日ばかりで天から火の玉が落ちてくる日々は終わったのだ。それを人びとは「勝利」つまり「平和」の回復として地獄の悲嘆と闇の空虚にあっても言祝ぐ。ただし、その脇からは、あと二回勝利したらガザには人間はいなくなるだろう、と笑う声が聞こえる。
この人びとの声を聴いて、2024年10月の今、ガザの人びとは二度とこのような「勝利」を語れないように、終わりのない地獄(2000ポンド爆弾で口をあけたクレーターのように底の抜けた地獄)に追い落とされているのだということを知る。ネタニヤフの言う「ガザ最終戦争」とは、どれだけ雪隠詰めにされ押し潰されても、生きかえって子を産み育て、またオリーブの樹を飢えて生き続けるガザの人びとが、二度とこのような「勝利」を語ることができないよう口を封じ、命を封じるための、生きる人間の「絶滅戦争」なのだ(ちなみに、15年前ガザの人口は16、70万だったが、2023年秋には230万と言われた。ここは西洋型近代社会ではない)。
15年近く前に作られたこの映像は、当時のイスラエル軍による侵攻がガザの人びとによって「世界終末戦争(ハルマゲドン)」のように生きられたことを伝えているが、その進攻は終末ではなく、さらにその先があったのだということを、今、観る者に思い知らせる。つまり、今起こっていることは、「世の終り」という「終り」の枠を突き崩して果てしない殺戮(あるいは抹消)に道を開いたイスラエルの国家的暴力の大氾濫なのだと。
アメリカ(米国)はこの暴力の奔流に強力兵器を不断に供給し、西洋諸国はこの洪水を後押しし、周辺諸国もみずから濁流の氾濫に呑み込まれることを恐れて身を護りながらわずかに抗議の声を上げるだけだ。
映画の中で、オリーブの樹を植えイチゴを栽培する農夫は、空爆の合間に仲間の農夫たちと闇の中でわずかな電灯を囲んで語り合う。ペスト猖獗による「世の終り」を避けて田舎に籠り、この世の名残りに艶笑潭を語り合ったのはデカダンス貴族の『デカメロン』だったが、ガザの農夫は「神の勝利」の夢ではなくリアルを語る(吟ずる――じつは私は詩吟をたしなむ)。
ここで一言注釈しておけば、イスラームは〈神〉をユダヤ・キリスト教と分かち合っているが(アブラハムの信仰)、民衆のイスラームは人間の共同生活の基本的規範の維持とその儀礼化で成り立っている。だから西洋的近代化の圧力が巨大なブルドーザーのように土着の貧しいながらも素朴な生活環境を崩してゆくときに、彼らの生存の最後の支えがウンマ共同性であり、アメリカによるイランの強引な西洋化(当時は反共政策)が地域住民を路頭に迷わせたとき、それに対する抵抗と「革命」は、イスラーム革命になってしまったのである。ユダヤ・キリスト教は科学技術とそれをもとにした軍事力で「世界を変え」ようとする。そしてそれを「文明の進歩」「開花」と言う。それが「政教分離」で世俗化した西洋における「神の摂理」の合理化であり、他の地域の人びとの生き方を、遅れたとか愚かなとか野蛮だと蔑んで否定し、果ては悪魔化して「文明」という名の独善の暴力で破壊しようとする「西洋」の振舞いである。その自信の絶対性を象徴するのが核兵器であり、それで世界を屈服させようとする「抑止力」である。
それに対してパレスチナの人びとは、「無力」に、仕掛けられる「ハルマゲドン(最終戦争)」の後の「勝利」を信じる。その勝利の名こそ「平和」である。たとえ今の自分たちが死に果てても、オリーブの樹はまた生え、自分たちの子供たちもまたその樹に養われて生きる。それが「平和」であり、「神の勝利」だ。この地のイスラームとは、そのようなアラブの土着の民の不壊の希望を支える「信仰」、生活そのものの土壌なのだ(原理主義とは、近代のキリスト教原理主義の非人間的な攻撃に対する狂気の反動に過ぎない)。
―具体的に語ろう。今回は、米欧(西洋)がウクライナで「異教徒」退治に大わらわになる中、訴追逃れのネタニヤフ政権がヨルダン川西岸のイスラエル化を推進、それに危機感を抱いた抵抗組織ハマスが、イスラエルに未曾有の越境攻撃をしかけた。それが2024年10月17日。それを待ってましたとばかり「ホロコースト以後最大のユダヤ人の受難」と喧伝して、イスのネタニヤフは「ガザ最終戦争」を打ち出した。
以来、すでに1年以上、封鎖されたガザ地区を破壊と殺戮と飢餓で消滅させようとするこの「戦争」は終わることなく、国連機関や世界世論のジェノサイド非難をよそに、イスラエルは戦線をレバノンにも拡大、イランを引き込もうとかけ引きする一方で、ガザ掃討を続けている。
イスラエルは「ハマス殲滅」と「人質解放」が目標だと主張し、ハマスとの戦争だと主張するが、大規模な爆撃や砲撃で犠牲になるのは住民ばかり(それも女性・子供が6割以上、すでに4万5千人?の犠牲者)。そこで生きている(生活している)こと自体が悪いとみなされ、破壊の対象とされる。初めから水も電気も食糧も、医薬品も搬入遮断され、国連運営の学校・病院も避難所なればこそ攻撃対象にされる(保育器を出された赤子たち…)。何人死のうと(すでにインフラ破壊で生きられない状態)かまわない、そこにいるのが悪い、それがアメリカと共有する「テロとの戦争」の論理だ。
メディアは「ハマスとの戦争」と言い、「停戦交渉」云々と言うが、イスラエルはその交渉相手であるはずのハマスの指導者を――国外にいても――次々に暗殺(爆殺)してゆく。はじめから「交渉」の意志などないのだ(「テロリストとは交渉しない」、それが「テロとの戦争」の論理)。
実際に起こっているのはどういう事態か?それは他所(ヨーロッパ)からの移住者が、土地を奪って建国し、先住民を追放(パレスチナ人の発祥)、それが居住権を求めて帰ってくると国家の安全を脅かすものとして殲滅しようとする、そういう専横国家の「先住民抹消」衝動の激発ということである。
映画でガザの人びとは何と言っているか?「どれだけ殺されても、我々はこの地を去らない、けっして売り渡さない」と。イスラエルはこの「最終戦争」で、かれらの「地上の天国」(自由の国)を築こうとしている。
イスラエルの国家暴力は「ホロコースト」を受けた民の国が「安全安心」を得る権利として主張され擁護される(米欧諸国のいう「自衛権」、しかし占領建国は誰が?)。
だが歴史的な「ユダヤ人差別・迫害」は普遍的なものではなく、キリスト教ヨーロッパに特有のことだ(「ベニスの商人」から「マラーノ」そして東欧「ポグロム」まで)。
そして「反ユダヤ主義」とは、その世俗化版であり、近代ヨーロッパ(ナショナリズム国家)の縮痾である。「国なき民」(ユダヤ人)への蔑視・憎悪、その果てがナチズムと「アウシュヴィッツ」だった。
シオニストは聖書の記述にしたがい、中東パレスチナの地(シオンの地)にユダヤ人国家を作ろうとした。それを英欧は「ユダヤ人問題の最終的解決」として後押ししたのである。これで自分の縮痾(癒しがたい持病)を中東に移転させることができるということで。そして世界戦争が終わると、「イスラエル」建国、それは当時の英仏の中東管理政策にとってはやっかいだったが――石油産出アラブ諸国との関係で――、イスラエルはパレスチナ人の追放・抹消を強行(1948年、「ナクバ」)、それを追認せざるをえなかった。
イスラエル国家は、ユダヤ人が「国なき民(自由人)」であることを否定してヒトラーもうらやむ最強民族国家を作ろうとしたという点で、国家に帰属しないがゆえに受難の中でも豊かに育まれたユダヤ的伝統を、唾棄し嫌悪する傾向をもち、とりわけ新たに生れた「国なき民」パレスチナ人を恐れ憎悪する。
そのときから、パレスチナ人の長い受難とサバイバルの苦闘が始まった。
段階としては、冷戦下の中東戦争時代、そしてアラブ民族主義が米英に屈する冷戦後期(1974年エジプト離脱/軍事政権化以降)、さらに冷戦終結後のオスロ合意(1992年)以降、と国際政治の変容のなかで変化するが、社会主義圏の崩壊後、パレスチナ人の抵抗を支えるものはいわば土着のイスラーム共同体しかなくなる。それが民衆の生存の支えだったから。そこで抵抗運動はイスラーム化する。イランが後ろ楯と言われるのはそれ以後のことだ。
あとは駆け足でたどろう。
ヨーロッパ諸国(とくに英仏独)はアラブ・イスラームの側から出るイスラエルへ反発と抵抗を「反ユダヤ主義」として非難する。戦後ヨーロッパはナチスを倒したというのがEU諸国の正義規範で、国内では「反ユダヤ主義」の表明を法的に禁止している。だからと言って、「反ユダヤ主義」がキリスト教ヨーロッパの専売特許であることは消せない。ナチズムも近代ヨーロッパが生み出した鬼子だ。それをヨーロッパはイスラエルとともに中東に「輸出」して、アラブ・イスラームの「反シオニズム」を「反ユダヤ主義」と呼んで厄介払いしている。これに関する当のドイツの倒錯ははなはだしい(詳しくは市野川溶孝の諸論考を参照)。
アメリカはなぜ全世界から孤立してもイスラエルを擁護するのか?
(対アラブ・イスラーム管理政策、ユダヤ人ビュローの要求もある…、メディアの言)
しかし根本は、イスラエルの「戦争」がアメリカ国家の「建国」原理と基本的に同じだから。
ピルグリム・ファーザーズ以来のアメリカの建国神話は以下の通り――
本国(英)での宗教弾圧―→信仰の自由を求めて大洋越え「エグゾダス(出エジプト)」―→「新しいイスラエル」、「(世界が仰ぎ見る)丘の上の町を創る」(J・ウィンスロップ)
土地を私的所有権の下に置き、先住民を「無権利者」として締出し、抗議や反抗を野蛮な暴力として制圧、所有権制度、建国から100年足らずで「フロンティア消滅」
先住民抹消の上に白紙(自由)の大地を不動産・資産化、自然収奪・社会の産業化、
黒人奴隷の導入―→世界一の産業国・消費国・軍事大国へ=「自由の帝国」
これがアメリカ合州国(United States of America)@新世界
ヨーロッパ方式:征服・植民地支配、アメリカ新方式:先住民掃討・自由の新世界
*前者の征服支配の「民(私)営化」から後者が生れる。
(以上、『アメリカ、異形の制度空間』を参照のこと)
だとすると、「イスラエル」は世界戦争後に中東に作られた新しい「小アメリカ」
むしろ「先祖返り」の新国家(ともに旧約聖書:ユダヤ・キリスト教にもとづく)
冷戦後、国家(連合)的「敵」を失ったアメリカは非国家的「敵」を名指して戦争
=「テロとの戦争」
イスラエルはこれに合流して「先住民掃討・絶滅」を正当化。
追われた先住民の反発や抵抗は国家の「安全保障」の敵―→根絶へ
アメリカはそれをイスラエルの基本権として承認(トランプもバイデンも)
―この映画の語り手たちは、このような国際歴史状況に巻き込まれていることを知悉
だが、求めるのはイスラエルの滅亡でも何でもなく、ただ「平和」、人びとが共に(多少はこづき合いながらも)生きてゆける「平和」。
それが彼らの祈る「神(アッラー)」の真の名←―西洋キリスト教世界(政教分離社会)による癒しがたいイスラーム偏見。
「ガザ最終戦争」「ハルマゲドン」はユダヤ・キリスト教の『聖書』にしかない。
彼ら(西洋ユダヤ・キリスト教徒)にとってはその後に「神の国」が降臨するが(=ガザを「中東のドバイ」にする計画!)
パレスチナの人びとにとっては、またオリーブの樹(私たちの糧)が生える。それが彼らの「神(アッラー)の栄光」。
[参考文献]
・マフムード・ダルウィーシュ『パレスチナ詩集』(四方田犬彦訳、ちくま文庫、2024年)
・西谷修『アメリカ、異形の制度空間』(講談社メチエ、2016年)
・西谷修対談集『いま「非戦」を掲げる』、「非戦争化する戦争」(青土社、2018年)
・西谷修『戦争論・R・カイヨワ、文明という果てしない暴力』(NHK出版、2024年)
*見てくれる人はごく少ないと知りつつ、いつもは一応ひとまとまりになるように書いている。今回は内容が今までに書いてきたことと重なることもあり、途中からメモ書きのまま掲示してしまった。それでも掲示したのは、この映画を配給しているグループの人たちがこのブログをときどき見てくれていたということ。そしてアフタートークでは用意していったことの半分も語れなかったということもあって、その埋め合わせに未完のままの草稿を掲示することにした。
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この映画が日本で上映されるようになったいきさつの中に、すでにこの作品の意義とインパクトが織り込まれているが、それについては配給グループShkranの二口愛莉さん、大谷直子さんの対談(https://diceplus.online/feature/482)に譲り、ここでは、イスラエルによるガザ住民殺戮と抹消の作戦がもはや期限なしに続けられており(米大統領選までは)、過去の映画など観ている時間はないと状況が切迫する中でも、それでも古くないタイムカプセルのようにここに開かれた映像とことばが、何を開示してくれるかをだけ、記すことにしよう。それが映像とともに別の時間にいる人びとにも分かち合われることを願って。
2008年12月27日、イスラエル軍がガザ地区を空爆・砲撃(イスラエルの安全を脅かすテロリスト集団ハマスを掃討するという口実で)、翌1月3日には地上軍が進行し、二週間で一応撤退した。この映画は直後にパレスチナ救援センターのスタッフとともにガザに入って、破壊の後に残された人びとの証言を集めてそれをもとに構成されたものだ。イスラエルはこれを「キャストリード作戦」と名づけ、当時としてはガザにおける最大・最悪の軍事侵攻だった。それでも部分的だったため、ガザの推定死者は約1500人(対してイスラエル市民は13人)だった。
今日に較べれば、軽い前菜のようなものである。だが、この出来事をガザに生きる人びとは「黙示録」的戦争、つまり世界終末の「啓示」のように生きていた。ただし戦争といってもガザ武器も持たないガザ住民にとっては応戦することもできない一方的な攻撃で、彼らにとっては受難以外のなにものでもない(受難、この用語をユダヤ・キリスト教徒たちはバビロン捕囚や、とりわけイエスの刑死と殉教に宛ててのみ使うが)。
この時には一応の停止があった。20日ばかりで天から火の玉が落ちてくる日々は終わったのだ。それを人びとは「勝利」つまり「平和」の回復として地獄の悲嘆と闇の空虚にあっても言祝ぐ。ただし、その脇からは、あと二回勝利したらガザには人間はいなくなるだろう、と笑う声が聞こえる。
この人びとの声を聴いて、2024年10月の今、ガザの人びとは二度とこのような「勝利」を語れないように、終わりのない地獄(2000ポンド爆弾で口をあけたクレーターのように底の抜けた地獄)に追い落とされているのだということを知る。ネタニヤフの言う「ガザ最終戦争」とは、どれだけ雪隠詰めにされ押し潰されても、生きかえって子を産み育て、またオリーブの樹を飢えて生き続けるガザの人びとが、二度とこのような「勝利」を語ることができないよう口を封じ、命を封じるための、生きる人間の「絶滅戦争」なのだ(ちなみに、15年前ガザの人口は16、70万だったが、2023年秋には230万と言われた。ここは西洋型近代社会ではない)。
15年近く前に作られたこの映像は、当時のイスラエル軍による侵攻がガザの人びとによって「世界終末戦争(ハルマゲドン)」のように生きられたことを伝えているが、その進攻は終末ではなく、さらにその先があったのだということを、今、観る者に思い知らせる。つまり、今起こっていることは、「世の終り」という「終り」の枠を突き崩して果てしない殺戮(あるいは抹消)に道を開いたイスラエルの国家的暴力の大氾濫なのだと。
アメリカ(米国)はこの暴力の奔流に強力兵器を不断に供給し、西洋諸国はこの洪水を後押しし、周辺諸国もみずから濁流の氾濫に呑み込まれることを恐れて身を護りながらわずかに抗議の声を上げるだけだ。
映画の中で、オリーブの樹を植えイチゴを栽培する農夫は、空爆の合間に仲間の農夫たちと闇の中でわずかな電灯を囲んで語り合う。ペスト猖獗による「世の終り」を避けて田舎に籠り、この世の名残りに艶笑潭を語り合ったのはデカダンス貴族の『デカメロン』だったが、ガザの農夫は「神の勝利」の夢ではなくリアルを語る(吟ずる――じつは私は詩吟をたしなむ)。
ここで一言注釈しておけば、イスラームは〈神〉をユダヤ・キリスト教と分かち合っているが(アブラハムの信仰)、民衆のイスラームは人間の共同生活の基本的規範の維持とその儀礼化で成り立っている。だから西洋的近代化の圧力が巨大なブルドーザーのように土着の貧しいながらも素朴な生活環境を崩してゆくときに、彼らの生存の最後の支えがウンマ共同性であり、アメリカによるイランの強引な西洋化(当時は反共政策)が地域住民を路頭に迷わせたとき、それに対する抵抗と「革命」は、イスラーム革命になってしまったのである。ユダヤ・キリスト教は科学技術とそれをもとにした軍事力で「世界を変え」ようとする。そしてそれを「文明の進歩」「開花」と言う。それが「政教分離」で世俗化した西洋における「神の摂理」の合理化であり、他の地域の人びとの生き方を、遅れたとか愚かなとか野蛮だと蔑んで否定し、果ては悪魔化して「文明」という名の独善の暴力で破壊しようとする「西洋」の振舞いである。その自信の絶対性を象徴するのが核兵器であり、それで世界を屈服させようとする「抑止力」である。
それに対してパレスチナの人びとは、「無力」に、仕掛けられる「ハルマゲドン(最終戦争)」の後の「勝利」を信じる。その勝利の名こそ「平和」である。たとえ今の自分たちが死に果てても、オリーブの樹はまた生え、自分たちの子供たちもまたその樹に養われて生きる。それが「平和」であり、「神の勝利」だ。この地のイスラームとは、そのようなアラブの土着の民の不壊の希望を支える「信仰」、生活そのものの土壌なのだ(原理主義とは、近代のキリスト教原理主義の非人間的な攻撃に対する狂気の反動に過ぎない)。
―具体的に語ろう。今回は、米欧(西洋)がウクライナで「異教徒」退治に大わらわになる中、訴追逃れのネタニヤフ政権がヨルダン川西岸のイスラエル化を推進、それに危機感を抱いた抵抗組織ハマスが、イスラエルに未曾有の越境攻撃をしかけた。それが2024年10月17日。それを待ってましたとばかり「ホロコースト以後最大のユダヤ人の受難」と喧伝して、イスのネタニヤフは「ガザ最終戦争」を打ち出した。
以来、すでに1年以上、封鎖されたガザ地区を破壊と殺戮と飢餓で消滅させようとするこの「戦争」は終わることなく、国連機関や世界世論のジェノサイド非難をよそに、イスラエルは戦線をレバノンにも拡大、イランを引き込もうとかけ引きする一方で、ガザ掃討を続けている。
イスラエルは「ハマス殲滅」と「人質解放」が目標だと主張し、ハマスとの戦争だと主張するが、大規模な爆撃や砲撃で犠牲になるのは住民ばかり(それも女性・子供が6割以上、すでに4万5千人?の犠牲者)。そこで生きている(生活している)こと自体が悪いとみなされ、破壊の対象とされる。初めから水も電気も食糧も、医薬品も搬入遮断され、国連運営の学校・病院も避難所なればこそ攻撃対象にされる(保育器を出された赤子たち…)。何人死のうと(すでにインフラ破壊で生きられない状態)かまわない、そこにいるのが悪い、それがアメリカと共有する「テロとの戦争」の論理だ。
メディアは「ハマスとの戦争」と言い、「停戦交渉」云々と言うが、イスラエルはその交渉相手であるはずのハマスの指導者を――国外にいても――次々に暗殺(爆殺)してゆく。はじめから「交渉」の意志などないのだ(「テロリストとは交渉しない」、それが「テロとの戦争」の論理)。
実際に起こっているのはどういう事態か?それは他所(ヨーロッパ)からの移住者が、土地を奪って建国し、先住民を追放(パレスチナ人の発祥)、それが居住権を求めて帰ってくると国家の安全を脅かすものとして殲滅しようとする、そういう専横国家の「先住民抹消」衝動の激発ということである。
映画でガザの人びとは何と言っているか?「どれだけ殺されても、我々はこの地を去らない、けっして売り渡さない」と。イスラエルはこの「最終戦争」で、かれらの「地上の天国」(自由の国)を築こうとしている。
イスラエルの国家暴力は「ホロコースト」を受けた民の国が「安全安心」を得る権利として主張され擁護される(米欧諸国のいう「自衛権」、しかし占領建国は誰が?)。
だが歴史的な「ユダヤ人差別・迫害」は普遍的なものではなく、キリスト教ヨーロッパに特有のことだ(「ベニスの商人」から「マラーノ」そして東欧「ポグロム」まで)。
そして「反ユダヤ主義」とは、その世俗化版であり、近代ヨーロッパ(ナショナリズム国家)の縮痾である。「国なき民」(ユダヤ人)への蔑視・憎悪、その果てがナチズムと「アウシュヴィッツ」だった。
シオニストは聖書の記述にしたがい、中東パレスチナの地(シオンの地)にユダヤ人国家を作ろうとした。それを英欧は「ユダヤ人問題の最終的解決」として後押ししたのである。これで自分の縮痾(癒しがたい持病)を中東に移転させることができるということで。そして世界戦争が終わると、「イスラエル」建国、それは当時の英仏の中東管理政策にとってはやっかいだったが――石油産出アラブ諸国との関係で――、イスラエルはパレスチナ人の追放・抹消を強行(1948年、「ナクバ」)、それを追認せざるをえなかった。
イスラエル国家は、ユダヤ人が「国なき民(自由人)」であることを否定してヒトラーもうらやむ最強民族国家を作ろうとしたという点で、国家に帰属しないがゆえに受難の中でも豊かに育まれたユダヤ的伝統を、唾棄し嫌悪する傾向をもち、とりわけ新たに生れた「国なき民」パレスチナ人を恐れ憎悪する。
そのときから、パレスチナ人の長い受難とサバイバルの苦闘が始まった。
段階としては、冷戦下の中東戦争時代、そしてアラブ民族主義が米英に屈する冷戦後期(1974年エジプト離脱/軍事政権化以降)、さらに冷戦終結後のオスロ合意(1992年)以降、と国際政治の変容のなかで変化するが、社会主義圏の崩壊後、パレスチナ人の抵抗を支えるものはいわば土着のイスラーム共同体しかなくなる。それが民衆の生存の支えだったから。そこで抵抗運動はイスラーム化する。イランが後ろ楯と言われるのはそれ以後のことだ。
あとは駆け足でたどろう。
ヨーロッパ諸国(とくに英仏独)はアラブ・イスラームの側から出るイスラエルへ反発と抵抗を「反ユダヤ主義」として非難する。戦後ヨーロッパはナチスを倒したというのがEU諸国の正義規範で、国内では「反ユダヤ主義」の表明を法的に禁止している。だからと言って、「反ユダヤ主義」がキリスト教ヨーロッパの専売特許であることは消せない。ナチズムも近代ヨーロッパが生み出した鬼子だ。それをヨーロッパはイスラエルとともに中東に「輸出」して、アラブ・イスラームの「反シオニズム」を「反ユダヤ主義」と呼んで厄介払いしている。これに関する当のドイツの倒錯ははなはだしい(詳しくは市野川溶孝の諸論考を参照)。
アメリカはなぜ全世界から孤立してもイスラエルを擁護するのか?
(対アラブ・イスラーム管理政策、ユダヤ人ビュローの要求もある…、メディアの言)
しかし根本は、イスラエルの「戦争」がアメリカ国家の「建国」原理と基本的に同じだから。
ピルグリム・ファーザーズ以来のアメリカの建国神話は以下の通り――
本国(英)での宗教弾圧―→信仰の自由を求めて大洋越え「エグゾダス(出エジプト)」―→「新しいイスラエル」、「(世界が仰ぎ見る)丘の上の町を創る」(J・ウィンスロップ)
土地を私的所有権の下に置き、先住民を「無権利者」として締出し、抗議や反抗を野蛮な暴力として制圧、所有権制度、建国から100年足らずで「フロンティア消滅」
先住民抹消の上に白紙(自由)の大地を不動産・資産化、自然収奪・社会の産業化、
黒人奴隷の導入―→世界一の産業国・消費国・軍事大国へ=「自由の帝国」
これがアメリカ合州国(United States of America)@新世界
ヨーロッパ方式:征服・植民地支配、アメリカ新方式:先住民掃討・自由の新世界
*前者の征服支配の「民(私)営化」から後者が生れる。
(以上、『アメリカ、異形の制度空間』を参照のこと)
だとすると、「イスラエル」は世界戦争後に中東に作られた新しい「小アメリカ」
むしろ「先祖返り」の新国家(ともに旧約聖書:ユダヤ・キリスト教にもとづく)
冷戦後、国家(連合)的「敵」を失ったアメリカは非国家的「敵」を名指して戦争
=「テロとの戦争」
イスラエルはこれに合流して「先住民掃討・絶滅」を正当化。
追われた先住民の反発や抵抗は国家の「安全保障」の敵―→根絶へ
アメリカはそれをイスラエルの基本権として承認(トランプもバイデンも)
―この映画の語り手たちは、このような国際歴史状況に巻き込まれていることを知悉
だが、求めるのはイスラエルの滅亡でも何でもなく、ただ「平和」、人びとが共に(多少はこづき合いながらも)生きてゆける「平和」。
それが彼らの祈る「神(アッラー)」の真の名←―西洋キリスト教世界(政教分離社会)による癒しがたいイスラーム偏見。
「ガザ最終戦争」「ハルマゲドン」はユダヤ・キリスト教の『聖書』にしかない。
彼ら(西洋ユダヤ・キリスト教徒)にとってはその後に「神の国」が降臨するが(=ガザを「中東のドバイ」にする計画!)
パレスチナの人びとにとっては、またオリーブの樹(私たちの糧)が生える。それが彼らの「神(アッラー)の栄光」。
[参考文献]
・マフムード・ダルウィーシュ『パレスチナ詩集』(四方田犬彦訳、ちくま文庫、2024年)
・西谷修『アメリカ、異形の制度空間』(講談社メチエ、2016年)
・西谷修対談集『いま「非戦」を掲げる』、「非戦争化する戦争」(青土社、2018年)
・西谷修『戦争論・R・カイヨワ、文明という果てしない暴力』(NHK出版、2024年)
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