グローバル世界の「パパ」―-「帝国」における神の代理人(1)2025/04/26

今日、教皇フランシスコの葬儀が行われている。ローマ教皇の代替わりは今ではこれほどの出来事になる。これは世紀を超えて教皇座にあったヨハネ・パウロ二世以来のことである。ヨハネ・パウロ二世の逝去に際して、世界がグローバル化と言われる現代において、不思議な復活を果たしたローマ教皇の地位について、一考をまとめたことがある。これを再掲しておきたい。二回に分ける。
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グローバル世界の「パパ」―-「帝国」における神の代理人(1)
--ヨハネ・パウロ二世、カロル・ポイチワの墓銘に
 (『世界』、2005年6月号掲載)

□「空飛ぶ聖座」

 四月八日にバチカンで執り行われたヨハネ・パウロニ世の葬儀では、世界の主要国の元首や諸宗教の指導者たちをはじめとして、三百万におよぶ人びとがローマに集ったと伝えられる。この異例の参集を見ると、亡くなった教皇の傑出した存在があらためて際立ってくる。けれどもこれは、考えてみれば不思議なことでもある。

 近代は世俗化の時代だと言われた。キリスト教的伝統に立つ社会では、信仰は私事とされて公共の政治の場からは退き、教会の役割も後退して、とりわけ二〇世紀の世界の動向にはほとんど影響力をもたなかった。ところが、最近のこの教皇は、グローバル化の進む世界で、あらゆる国の政治指導者をしのぐほどの声望をもつにいたったのである。

 世界的に「宗教の回帰」が語られるが、そのときしばしば話題になるのはイスラーム原理主義の台頭と、それによる政治の宗教化だ。けれども、宗教が回帰しているのはイスラーム世界ばかりでなく、「文明」を自称するキリスト教世界でも同じだということが、この教皇のもちえた影響力に表れている。ヨハネ・パウロ二世はひとりの人格として声望を集めたわけではない。彼はカトリック教会の首長であり、信仰に支えられた一世界の代表者だったのである。

 「空飛ぶ聖座」という表現がある。バチカンの聖座はもともとバチカンにあり、人びとがそこに足を運んで謁見を求めるべきものだった。けれども五八歳で登位したこの教皇は、百回を超える空の旅をし、世界のいたるところにみずから体を運んだ。そうして彼は、信仰の希薄化が言われる世界の各地に「聖座」を臨在させたのである。ヨハネ・パウロ二世の「革新性」があるとすれば、他のどこにでもなくこの点にあるといってよいだろう。教皇がここにいるという出来事は、そのつどその地のカトリック(だけでなくラテン・キリスト教)信仰を賦活し、救済の希望に息を吹き込んで、バチカンの存在を世界の表面に浮上させた。

 多くの信者たちの集まる教皇の訪問は、そのつど大きなイヴェントとなって世界に放映された。この教皇はいつも、権威を表す荘重な装束ではなく、軽やかな明るい色の法衣をまとって登場する。そして何を語るかということにもまして、彼がそこに身を運ぶということ、そこで祈るということ自体が、強い象徴的な意味をもって作用した。アイドルという言葉はもともと神の像を意味するギリシア語由来の宗教用語だが、ヨハネ・パウロ二世こそは文字通りの「アイドル」であり、現代最高のスーパー・スターだったとも言える。その生身の体の移動は最上のスペクタクルとなり、それがカトリック教会の求心力を高めるのにこの上なく貢献したのである。

 各地の歴訪によって彼はいたるところに救済の希望をもち運んだ。その影響力がカトリック圏ばかりかキリスト教世界を越えて広まったのは、彼が冷戦後の世界でとりわけ諸宗教の融和や和解を説いて平和を訴え、みずからの祈りを、現代世界の多くの人びとの願いや希望と重ね合わせることができたからである。もちろん、そのような教皇は史上に類を見ない。

□ドグマの体現者としての教皇

 けれどもその教皇は、一方ではきわめて保守的で、女性が聖職者になることを頑なに拒み、人工妊娠中絶や、エイズを避けるための避妊も認めず、同性愛も容認しなかった。そのため、若者たちを教会から離反させているといった批判を受けてきた。一方で、世界に向けては「開かれた」融和の姿勢を示し、「力の正義」に対して「言葉の正義」をあくまで貫くことで、イラク戦争開戦時には世界の反戦的世論の後ろ盾ともなったこの教皇が、教義に関して強固な保守性を示すのは、一見すると相容れないと見えるかもしれない。けれども、それが「矛盾」と見えるのは、「進歩的」ないしは「民主的」であることを、そのまま「世情に照らして望ましい」とみなす、一般的風潮への「順応主義」にとってだけだろう。教皇にとっては「正義」を果たすことと、教義の根本原則を守ることとは、同じひとつのことだったのだ。

 ヨハネ・パウロ二世が、出身地ポーランドのカトリックの特質を引き継いでマリア信仰を重んじ、「秘蹟」を信じる神秘主義的傾向をもっていたことはよく知られている。聖母出現の伝説の地ルルドを神聖視し、ポルトガルのファティマの予言にも重要な意味を与えていた。八一年五月に起こった教皇狙撃事件についても、最近になって旧東側の諜報機関の関与が明らかにされたが、世俗的な事実関係がどうであれ、教皇はそれを超える解釈体系をもち(封印されていたファティマの予言の三つ目のものがそれだということ)、彼が深く信じていたのはそちらの方だった。だから彼は、運命の「手」となって罪を犯した犯人を心の底から赦すことができ、そのことに犯人もまた動かされたのである。

 そうした深い信仰があればこそ、彼は老いてなお各地に赴き、病を抱えたその身を受難の具現のごとくさらしながら、世界に臨在する教皇としての務めを果たしえたのだろう。そしてその信念によって、イラク戦争前夜には、その影響力とバチカンのもてるあらゆる手段を動員し、アメリカの力の政策の前に立ちふさがった。それができたのは、「教皇」なればこそのことだ。そして教皇とは、カトリック教会の最高権威であり、カトリックとは他でもない、ドグマに対する信仰を軸とした制度的組織なのである。

 キリスト教は典型的にドグマ的な宗教だが、神と子と聖霊の「三位一体」という基本的ドグマの背後には、マリアの「無原罪懐妊」というもうひとつのドグマが控えている。ここに言う「原罪」とは生殖行為のことである。つまり、人が生まれながらに負っている「原罪」とは、あらゆる人間が男女の性行為によって生まれてきたということである。そのことを免れえない「原罪」とみなし、万人に罪びとの条件を課しておいて、そこからの救済を約束するのが神への信仰だとするのがキリスト教の基本教義である。

 そのドグマを「不合理ゆえに我信ず」として呑み込むところに信仰は成立する。合理的に理解できることなら、それは理解することで足り、信じる必要はない。理解を超えた不合理だからこそ信じなければならず、それを信じる者たちによって「教会」は構成されるのである。つまり教会とは不合理なドグマを担うことで成り立つ信仰の組織なのであり、だとすれば、信仰厚く、それゆえに比類ない信望をえたヨハネ・パウロ二世が、かつてキリスト教会の不倶戴天の敵だった啓蒙思想の延長にある「性の自由化」や「男女平等」を、「誤った道」として認めないのは当然のことだろう。

 日本ではバチカンの聖座に座る者を「教皇」とか「ローマ法王」と呼び、そこに性別の明示はない。けれどもこの人物はイタリアでは「パパ」と呼ばれ、フランス語では「パップ」、英語なら「ポープ」である。「パパ」はもとはギリシア語の「パパス(父)」からきており、ラテン語の「パーテル(父)」ともつながっている。それだけでなく、「パパ」の権威のもとにある教会の聖職者はみな「パーテル(父、日本では教父とか神父と呼ぶ)」である。そしてなにより神はキリストの「父」とされている。ここにはもともと「女」の入る余地はなく、それがこの「教会」という秩序、神と救いを求める人びととの仲立ちをする「教会」という組織の基本的なあり方なのである。

 ヨハネ・パウロ二世は敬愛するが、彼の「保守性」は認められない、といった見方は、「教会」というものと「教皇」のなんたるかを見誤っていると言うべきだろう。彼はあくまでカトリック教会の長であり、カトリック教会は信仰のドグマの上に成り立つ組織であって、単なる慈善団体でも社会福祉機関でもない。カトリック教会が「性の自由」に寛容になったとすれば、それは教会の拠って立つ根拠そのものを揺るがせにすることになり、結局は信仰の秩序を弛緩させてカトリック教会の衰弱を招くことになるだろう。(つづく)

グローバル世界の「パパ」―-「帝国」における神の代理人(2)2025/04/26

グローバル世界の「パパ」―-「帝国」における神の代理人(2)
--ヨハネ・パウロ二世、カロル・ポイチワの墓銘に
 (『世界』、2005年6月号掲載)


□カトリック教会の自己改革--第二バチカン公会議

 ヨハネ・パウロ二世とは何だったのかといえば、彼は世界がグローバル化する時代に、カトリック教会のもてる潜在力を最大限に引き出し、教皇の地位と権威を担いきった人、ということになるだろう。もちろん彼は、キリスト教世界を越えて声望をかちえた。けれども、このような教皇を選んだのはバチカン自体なのである。その意味ではバチカンは、二〇世紀末に向かう世界でみずからが何をすればよいかを知っていたということである。事実、ヨハネ・パウロ二世の推進した諸宗教融和による平和の希求は、第二バチカン公会議で決定されたカトリック教会の大方針でもあった。

 カトリック教会も戦争の世紀に大きな試練を受けた。ムッソリーニの時代にバチカンは主権国家(バチカン市国)としての地位を確保するが、第二次世界大戦では状況に翻弄されるだけだった。そして戦後、破滅の前に沈黙した神への失意から人びとは教会を離れ、かつての布教地だった旧植民地も次々に独立してゆく。その一方で核戦争の現実味が増し、人類の危機が論じられるようになった。そのようなときに、カトリック教会は命運をかけて「アジョルナメント(刷新)」を企てたのである。それが一九六二年に召集された第二バチカン公会議の目標だった。そこでは、現代の世界でカトリック教会は何でありうるのか、キリストを生き生きと証しすることができるのか、といった問いが真剣に論じられた。もちろん、教会の「現代化」の試みに対しては、改革派と保守派の対立はあり、その間の確執もあったようだが、会議途中で不帰の人となったヨハネ二三世の後を襲ったパウロ六世も、この方針を引き継いで公会議を終わりに導き、そこでキリスト教諸教会(カトリック、プロテスタント、東方オーソドクス)と、さらに輪を広げた諸宗教融和(エキュメニズム)の大方針がバチカンの公式に路線となった。

 みずからの深刻な危機のなかで、これだけの自己改革を成しえたのはカトリック教会のもつ底力である。そのバチカンがパウロ六世の死後、ヨハネ・パウロ一世のわずか三ヶ月という短い在位を経て、若くして第二バチカン公会議に参加したポーランドの枢機卿カロル・ポイチワを「カトリック教会を新世紀に導く教皇」として選んだのである。
 かつてはロシア正教に対峙するカトリックの北の牙城であり、ナチズムと戦争の惨禍を経験し、ヤルタ会談でソ連支配下に置かれたという、西洋の現代史を集約するような国、ポーランドから選ばれたこの教皇は、教会の危機を世界の危機に同調させうる資質をもち、グローバル化の波の中で指針を失う世界に、ひとつの灯明を掲げることができた。

 もちろん、彼でなくてはなしえなかっただろうこともある。登位後の祖国訪問でわざわざアウシュヴィッツを訪れ、キリスト教世界が千年を超えてひきずってきた反ユダヤ主義を省みるという所作をとったのは、その地からほど遠くないクラカウ近郊に生まれ、ユダヤ人迫害を癒せぬ痛みとともに身近に経験してきたこの教皇ならではのことだっただろう。

 また、キリスト教世界にとって「大聖年」とされた二千年の年、「記憶の浄化」の標語のもとに、かつて教皇の呼びかけで行われた十字軍によるイスラーム世界の侵略とその残虐行為を謝罪するという挙措は、厳密に言えば、教皇の責任を認めたものではないし、謝罪もイスラーム世界に対するというより、神に対して過ちを犯したというキリスト者としての謝罪であるとはいえ、バチカンによる公式の「罪の告白」であり、それ自体が世界を震撼させるに足るものだった。

 ヨハネ・パウロ二世はこのように、キリスト教徒を代表してその過ちを神に謝罪することで、信仰することの根拠を守りつつ、この内向きの儀礼をバチカンの行事として公開することで、世界にカトリック教会の「自浄能力」を示し、イスラーム世界に向けてのメッセージとしたのである。だからこの挙措は、カトリックの信仰を高めると同時に、諸宗教融和に向けての呼びかけとなった。

 それだけではない。二〇世紀の最後の十年は世界のいたるところ(とりわけ戦争の世紀の主役だった先進諸国)で、「戦争の記憶」が問われた時期だった。その中で、バチカンの示したこの挙措は、「過ち」をみずから認めることで自己刷新をはかり、それによって国際社会で正統性の認知をうるという範を示すことになった。教皇はそのような意味でも「正義」を体現することができたのである。それがヨハネ・パウロ二世の傑出した名声に寄与しいてる。

□唯一無二の「神の代理人」

 けれども、このように諸宗教融和を説くことのできるのはカトリックの教皇だけだということに留意しておくべきだろう。キリスト教のうちでもカトリックだけが歴史に根ざしたこのような組織基盤をもち、教皇を擁している。プロテスタントは神との仲介を独占するカトリック教会のあり方を批判して、信仰の私事化をはかった。そのため統一的な組織基盤をもたない。また東方教会は、もともと各地の正教会が分立しており、ビザンツ帝国崩壊の後、ロシアがもっとも強力な正教会となったが、その総主教は単ロシア正教会の代表であるにすぎない。となると、全キリスト教会を代表して発言できるのはローマの教皇だけだとういことである。

 それにまた他の諸宗教を見てみても、もともと神へと向かうヒエラルキーを組込んだ教会のような信者の組織をもつ宗教は他にはない(新興のカルト宗教は、その意味ではみなカトリック教会を模倣しているといってもよい)。教会とはキリスト教の比類ない発明なのである。たとえばイスラームは、教会ばかりか神に仕える聖職者というものをもたない。いるのは神の掟を解釈する法学者で、それには位階があるが、「神の代理人」をもって任ずる代表というものはいない。ユダヤ教にしてもそうである。

 教皇が諸宗教の融和を説くときに、二つの段階がある。それはまずキリスト教の諸教会であり、ついでアブラハムの神に帰依する他の「経典の民」、つまりユダヤ教とイスラームであり、それは同じ唯一神を仰ぐ「信仰上の兄弟」とみなされる。エキュメニズムはそのように拡大されるが、さらにその末端に「信仰なき者たち」が並べられる。けれども「信仰なき者たち」というのは、裏を返せば「いつか神に(それもひとつの神に)帰依すべき者たち」でもある。つまりこの「エキュメニズム」の同心円は、あくまでキリスト教を中心に置いており、そのなかでも中心を占めるのが、唯一キリスト信仰を統括す正統組織たるカトリック教会であって、教皇はそのヒエラルキーの頂点にいる。そして教皇だけが、このような組織に支えられて「神の代理人」を任じている。世界を見わたしてもこのような抜きん出た資格をもつ宗教代表者は他にいない。言い換えれば、諸宗教融和をあらゆる宗教諸派に呼びかけ、みずからその集いを主宰できるのは、他のどんな宗派の代表者でもなく、ローマ教皇ただ一人なのである。

 それほど教皇の地位は特権的である。そしてこの地位はグローバル化した世界でとりわけ有効にはたらく。というのも、近代の国民国家が「祖国のために死ぬ」を信仰箇条とするナショナリズムという世俗的「信仰」の「教会=信仰共同体」であったとするならば、国民国家への「帰依」によって信者を奪われていたカトリック教会は、グローバル化のなかで国家が求心力を減衰させ、市場と国際機関とに権力を委ねてゆく状況のなかで、国家を超えた普遍的権威として再びその存在理由を見出すからである。国家が経済の調整や安全管理にその役割を限定しようとしてゆくとき、競争に委ねられる人びとに希望や保護を与える役割は放棄されるから。そこに国境を越えた救済のための共同体として、カトリック教会はみずからに相応しい役割を見出すことにな。だからバチカンは、いわゆる市場原理主義を批判して、貧困や不正に打ち棄てられる人びとを保護しようとするのである。

□「世界を作り変える」--グローバル化の先駆

 それに実は「グローバル化」とは、元来カトリック教会が構想したものだった。フランスの法制史家ピエール・ルジャンドルがしばしば喚起しているように、「世界を根底から作り変える」とは、中世の教皇権の絶頂期にカトリック教会の謳った使命だった。信仰の用語で言えば「全世界を改宗させる」ということになる。その大事業は宗教改革と「新大陸の発見」の二重の衝撃のもとで、本格的に始まったのである。その結果、南アメリカもアフリカもアジアの一部もカトリックに帰依することになり、教会はそれらの地域に神の光をもたらすとともに、その地の「無信仰者」たちを神のもとにひざまづかせたのである。カトリックは単に世界に広まっただけではなく、神の「真理」によって「世界を作り変えた」のであり、その後西洋から世界に広まる「革命」の思想や「民主化」の思想は、みなこの「世界改造」のモデルに従っている。二十一世紀の今、ブッシュ政権が公然と掲げる「民主化」の戦略の背後にも、このように「世界を作り変えることができる」という想定がある。

 もちろんこの「世界改造」は、単なる武力による征服ではなく、「神の啓示」による「普遍的(カトリックの)真理」のもとに世界を書き換えてゆくことだ。すでに西洋の普遍化によって、世界は半ば書き換えられている。要は現代の世界に、キリストをいかに生き生きと証してみせるかということだが、その務めを「空飛ぶ教皇」は、世界のいたるところに臨在することで果たしたのである。これだけの思想と戦略をもち、長い歴史の遺産を散逸させることなく、自己刷新によってそれを再び賦活しえた組織はもちろん他にはない。まさしくただ一人の「パパ」は、「キリスト教徒すべてのパパ」なのだが、原理的には「人類すべてのパパ」なのである。

 その「パパ」に対して日本の歴史学者が作り出した「教皇」という呼称は、「パパ」の制度的本質を言い当てていて妙である。つまりこの地位は、中世に西ヨーロッパでローマ法の復興が起こったとき、教会の最高権威をかつてのローマ帝国の皇帝になぞらえて作られたものだからだ(ルジャンドル『西洋が西洋について見ずにいること』など参照)。信仰の世界(教会)における皇帝、というその地位を、教皇という呼称は的確に表現している。そしてそこには、信仰の「真理」の領する広がりが「帝国」とみなされることも示唆されている。

 だとすると、市場のグローバル化をベースに、世界がひとつの力の秩序に統合されようとしているとき、その市場の「平和」のために不断の戦争(「テロとの戦争」)を展開する軍事的権力が一方にあるとすると、その力の論理を牽制するもうひとつの権威があるという構図が浮かび上がってくる。力によって一元化される世界の内的秩序を「帝国」と呼ぶとするなら、この「帝国」には二つの車輪があり、ひとつがアメリカ大統領、もうひとつがローマの教皇ということになる。それが当を得た言い方かどうかはわからないが、少なくともカトリック教会は、市場よりも先にひとつの原理によるグローバル化に乗り出しており、数世紀にわたってその動きを先導していたのである。

 教皇ヨハネ・パウロ二世は、カトリック教会の「アジョルナメント」の意味をおそらくもっともよく理解した人物でもあった。それは単に、教会の方針を時代の趨勢に合わせて変えてゆくことではない。そうではなく、ドグマ性に支えられる教会の本質を理解しつつ、世界の深い要請(人びとの救済の要請)にあくまでカトリックの長として対応してゆくということだ。

□カロル・ボイチワの墓
 
 ヨハネ・パウロ二世の「功績」を、傑出した一個人のそれとして語ることはできない。彼はあくまで無比の信仰の制度に支えられ、それを担った存在だった。ただ、その背後には、「聖座」に身を捧げることで「墓場なき死者」となったカロル・ポイチワという一人の人物がいた。

 コンクラーベ(教皇選出選挙)のためにローマに発つ前夜、ボイチワ枢機卿は、通いなれたワルシャワのとある教会の冷たい石の床に身を横たえて、両腕を広げ十字に伏せって一夜そのままの姿で祈り続けたという。それは、教皇に選ばれる(あるいは教皇を選ぶ)とほうもない責任に備え、身を打ちひしぐ苦悩に耐えて世界の重みを測る姿であったようにも思われる。その夜を境として、カロル・ポイチワというひとりの人物は死んだと言っていいだろう。教皇になるとは、おそらく彼にとって、キリスト教世界を睥睨するバチカンの頂点に昇りつめるということであるよりも、一一億といわれる信者の集うカトリックの全組織を担いその権威を維持し高めねばならない、唯一無二の重大な職務に身を捧げきることだった。つまり教皇になること自体が、カロル・ポイチワにとってはほかならぬ教会への殉教だったと言ってもよく、ヨハネ・パウロ二世とはすでに彼の「死後」の姿だったのである。
 無私の教皇として、凶弾を受けても世界を旅し続け、命あるかぎり「神の代理人」としての姿を人びとに見せ続けたのは、ヨハネ・パウロ二世であってカロル・ボイチワではない。そして、教皇ヨハネ・パウロ二世の墓は作られるが、カロル・ポイチワに墓はない。