共謀罪・加計学園疑惑に怒れる学者・弁護士の共同声明2017/06/10

昨日、「弁護士と経済学者有志の声明」が発表されましたが(http://j-c-law.com/kinkyuuseimei/)、これに続いて、主として人文系の学者と若手弁護士有志が以下の声明を発表しました。国会の会期末が間近ですが、さらに追及の機運を高めてゆきたいと考えています。
*追記:ホームページができました。賛同署名をお願いします。
http://scholars-lawyers-united-for-truth.strikingly.com/
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権力の私物化と共謀罪審議に怒り
加計学園疑惑の徹底究明を求める学者と弁護士の会
緊急声明

 先ごろ浮上した森友学園問題では、安倍首相に共鳴しその名を冠した神道小学校を計画した学校法人に、財務省が9億円相当の国有財産をただ同然で払い下げ、一連の不透明な行政手続きに多くの疑問が指摘された。ところが財務省は、情報システムの更新だとして森友学園との交渉時のデータの完全消去を始めている。

 また、続いて浮上した加計学園問題では、首相官邸や内閣府が直接、文部科学省などに働きかけ、アベノミクスの目玉でもあった「国家戦略特区」制度を利用して、首相の「腹心の友」が経営する加計学園に獣医学部開設を認めさせ、地元愛媛県や今治市を巻き込んで、数十億円相当の公金が流れることが明らかになった。これは首相の地位を利して恣意的に行政を歪め、公有財産の民営化ならざる私物化だと言わざるをえない。

 これに関して「官邸からの圧力」を示す文書が明るみに出ると、官房長官は「怪文書」と言って斥け、在職時に直接圧力を受ける側にいた文科省前事務次官が「100%事実」だと証言すると、こんどは「民間人」の言だから取り合わずとする一方で、某全国紙と連動して前事務次官の信用を棄損しようと人格攻撃を繰り返す。

 また最近、安倍首相に近いとされる元TBS記者による準強姦事件において、逮捕状が「上からの圧力」で執行されず、不起訴になったことを不当として、被害者から検察審査会に審査の申し立てがあったが、このような件でも官邸の関与が疑われている。

 しかし安倍政権は、国会答弁では数を頼みにゴマカシと居直りで押し切り、メディアや警察権を駆使して批判や告発を潰そうとする。このような理不尽で横暴な政権の振舞いは前例を見ない。今や日本では首相官邸そのものによって、行政や司法の公平性が著しく歪められているが、まさにその政権が、人びとの内心の監視を可能にし言論・表現の自由を危ぶめる組織犯罪処罰法改正案(共謀罪法)を強引に成立させようとしている。

 いま国会では自民・公明連立与党と日本維新の会の「数」によって、事実上どんな法案をも成立させることが可能である。だがその「数」の中身はと言えば、この間明らかになって国民を呆れさせているように、不祥事の絶えない欠格議員たちであり、答弁もできず任に堪えない失格閣僚ばかりである。国会における審議は、首相や担当閣僚が疑惑の「説明責任」を放棄したことで完全に形骸化しており、失格閣僚の「任命責任」と合わせて、首相自らがその責を負わなければならない。

 政権が官庁やメディアを巻き込み、これほど政府が横暴になったことはかつてない。政権そのものが国の柱である民主主義、三権分立の原則、立憲主義(法の支配)を蹂躙している。振り返れば、1990年代以降、「政治主導」によって官僚支配や政官業の癒着を打破することを標榜し、政治改革や行政改革が勧められ、小選挙区制の導入や中央省庁再編などを通じて、首相権限(官邸機能)の強化が進められてきたが、現在の安倍政権で現実のものとなってしまったのは、政治主導でも政官業の癒着打破でもなく、首相個人による、公権力と公有財産の私物化以外の何ものでもない。ただちに共謀罪審議を停止し、加計学園問題を国会で徹底的に究明することを求める。これが現在の国会の、そしてわが国の政治の劣化を座して見過ごせない者の火急の責務だと考える。
2017年6月10日


[呼びかけ人・五十音順]
阿部賢一(東京大学准教授、東欧文学)
稲正樹(ICU平和研究所顧問、憲法学)
臼杵陽(日本女子大学教授、中東研究)
岡野八代(同志社大学教授、政治学)
小森陽一(東京大学教授、日本文学)
五野井郁夫(高千穂大学教授、国際政治)
嘉指信夫(神戸大学教授、哲学)
小原隆治(早稲田大学教授、地方自治)
坂本恵(福島大学教授、比較文化論)
佐藤泉(青山学院大学教授、日本文学)
管啓次郎(明治大学教授、文化人類学)
高桑和巳(慶応大学准教授、フランス思想)
高頭麻子(日本女子大学教授、フランス文学)
竹谷和之(神戸市外国語大学教授、スポーツ文化論)
千葉眞(国際基督教大学特任教授、政治学)
寺西俊一(一橋大学名誉教授、環境経済学)
渡名喜庸哲(慶応大学准教授、フランス哲学)
中野晃一(上智大学教授、政治学)
中山智香子(東京外国語大学教授、経済思想)
西谷修(立教大学特任教授、哲学・思想史)
林みどり(立教大学教授、ラテンアメリカ研究)
沼野恭子(東京外国語大学教授、ロシア文学)
根本美作子(明治大学教授、フランス文学)
橋本一径(早稲田大学教授、表象文化論)
守中高明(早稲田大学教授、フランス文学)
* *
上田裕(弁護士)
打越さく良(弁護士)
内田雅敏(弁護士)
内山宙(弁護士)
太田啓子(弁護士)
太田伊早子(弁護士)
黒澤瑞希(弁護士)
小谷成美(弁護士)
佐藤倫子(弁護士)
神保大地(弁護士)
宋 惠燕(弁護士)
竪十萌子(弁護士)
田中篤子(弁護士)
田中淳哉(弁護士)
寺町東子(弁護士)
中村眞一(弁護士)
早田由布子(弁護士)
橋本智子(弁護士)
福山洋子(弁護士)
藤川智子(弁護士)

もう見たくない俗悪ドラマ「メイク・にっぽん・グレート・アゲイン」2017/06/05

 共謀罪国会の成行きを見ていると、まるでここ数年、いつまでも終わらない粗悪なテレビ・ドラマを見せられているようだと思う。見ているだけでなく、現実に付き合わされている。

 「戦後レジーム脱却」の安倍政権物、初めは一回で終わりそうなネタだったが、終わりそうになると新手の混乱が出てきて、さらに大きな洪水を呼び起こす。しかしそれでもついに大惨事が…と思いきや、次々に災厄を国民に浴びせかけ、悪事の張本人たちはそのつど新手のカオスを引き起こしてそこに逃げ込む。その繰り返しで、いつまでたっても「一巻の終り」が来ないのだ。

 ドラマが終わらない。悪者たちは官僚を抱え込み「忖度」で協力させ、邪魔だてしそうな者は、まずは更迭、首のすげ替え、そして左遷、組織的締付け、そうして周囲を縛って固め、そのうえメディアは要を篭絡して、不都合な情報は流させない。真相が広まらないためにフェイク・ニュースを製造する機関まで作ってある。

 だから、政権がピンチに陥っても、大ピンチなはずでも、蛸の巣のように煙幕を張って、必ずごまかして居直り、新手の攻撃を仕組んでくる。さすがにもうこれでダメだろう、逃げられないだろうと思っても、追いつめられても白を切り、不利な情報はフェイクだと言って押し退け、追いつめるお縄はあらかじめ溶かしてあって、目晦ましをかまして次の悪事に走り込む。

 そのため、これで終了という筋立てがいっこうにまとまらず、番組はしつこくいつまでも続いて、いつしか数年にわたる大河サスペンス・ドラマになってしまった。そういう日本を、悪党どもは「イダイ」だと思っているようだ。たしかに、握った権力は自分たちのためにますます強固になるし、どんな障害も警察や司法を抱え込んで取締り、仲間のためにはもみ消しもできる。仲間同士で国有資産はお手盛り放題、居直ればもはやそれを止める手だては国民にはないと見切っている。

 「イダイ」な権力だ。民主主義を乗っ取ってワル仲間の僭主政治、基本的人権など厄介払い、国民は国家を牛耳る僭主たちになついて飼ってもらうか、さもなくば使い潰される奴隷であればいい。怒ったり、不平をもらしたりする不埒者は共謀罪で黙らせてやる。こうしてドラマに終わりはなくなるが、皆飽きて視聴率落ちるぞ、テレビ局! この悪党たち、自分たちの権力をアメリカに承認してもらうため国ごと貢いで守ってもらう。そしてたらふく武器を買って大好きな戦争ごっこ、俺たちは強いんだゾー!。

 いつ終わるのかこの低俗ドラマ、もうさすがに見たくない。最近変えたそのタイトルは「メイク・にっぽん・グレート・アゲイン!」。いい加減やめてくれ~!(制作/配給:日本のプチ・トランプ)

安倍政権-不適格者たちの危険な国政遊戯2017/05/04

 70年目の憲法記念日に、安倍首相はとうとう憲法改正を正面から掲げた。天皇談話でもないのに、ビデオで談話を公表するという異例のやり方だ。稲田自衛隊問題、森友問題を、共謀罪上程で押し潰し、北朝鮮危機の空芝居を国内に広めて、満を持して(?)改憲発議?
 昨今のとりわけ「不良品閣僚」問題を契機に、共同通信の依頼で以下の記事を書いた。「改憲」を掲げるのがこういう政権だということだ。手直ししたものがすでに地方各紙に掲載されている。
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 今村復興相がとうとう辞任に追い込まれた。安倍内閣の度重なる「失態」だ。最近では「共謀罪」担当の金田法相が、答弁ができないからと官僚に代行させて問題になった。稲田防衛相は南スーダン派遣の自衛隊日報を把握していなかったばかりか、森友学園の弁護を務めたことも「忘れ」ていた。「がんは学芸員」とか「長靴業界はもうかった」と「失言」して辞めた閣僚・政務官、ストーカー登録された政務官もいる。もう覚えきれないほどだ。

 「失言」以前に、問われているのはこの人物たちの閣僚あるいは国会議員たる資格である。政治家は国政に携わる。大臣ともなれば責任も大きい。だが、担当の重要法案の説明もできず、管轄の省庁の把握もできていない。あるいは職責も理解せず、恥とも思わず威張ったり人のせいにすることしかできない。

 当然ながら、そんな人物を登用する首相の責任は重大である。だがそれ以前に、政権党がそんな人物ばかりを選んで公認し、当選させて頭数を揃えていることが問題だ。

 任命権限をもつ首相は、森友学園問題で明らかになったように公私の区別がついていない。「私人」だと言い張る夫人に、官僚を五人も付ける首相は、権力を私物化しているとしか言いようがない。国会質疑は答弁にもならない「答弁」で押し切り、無理強いの断定を「閣議決定」する。その決定が「真実」と言わんばかりに。こんなことが平気で行われれば、大人の社会も子どもたちも、日本はこういうところなのだとそれに倣うだろう。事実、官僚たちからしてすでに「忖度」に漬かり切っている。

 安倍内閣の支持率が高いというが、ほんとうか?代わりが見当たらないからだそうだ。だがこんな陣容で、安倍政権は国の命運を決めるような政策を次々に打っている。いや、実情は、外交も内政も、オバマだろうがトランプだろうがとにかくアメリカに預けるだけだ。だから「危機」のとき、直接の相手国とは外交手段をまったくもたない。

 そういう内閣が、実態を隠すために秘密保護法を作り、さらに物言う市民を黙らせるために「テロ」を口実に共謀罪まで通そうとしている。そうなれば、いまの劣悪な政治の実態すら問題にできなくなるだろう。政権に反抗するのは「テロ」だそうだから。

 それでも旧民主党政権よりましなのか? 7年前政権交代を果たした民主党は、不器用でかつ、変化を怖れる官僚たちにそっぽを向かれ、メディアにも叩かれて、大震災のあおりもあって迷走のあげくに瓦解した。それ以来、民主党にはこりごりだから自民党、という風潮が広がっている。日本には他に選択肢がないというのだ。その空気を最大限に利用した自民党は膨れ上がり、偏った政権に奉仕するだけの劣悪な議員を増やしてあとはやりたい放題。それが日本の政治を底なしに腐朽させている。

 おかげで、日銀の札束増刷には歯止めがなく、貧困は拡大し、弱者は自己責任を押しつけられ、若者は将来の見透しが立たず、社会は殺伐として澱んでくる。それを「危機」を煽って浮足立たせ、オリンピックを煙幕にして操ろうとする。しかしメディアの自由度は最低と世界からは見透かされているのだ。

 だが、もうそんな政権に国を預けるわけにはいかない。私欲や個人的妄念のために国を弄ぶ政権、その実態を見なければいけない。なぜメディアはこの政権に甘いのか。コントロールされているという。そう言われるままでよいのか。国を破綻させる片棒を担いでどうするのか。どんな政権でも、今よりはましだとそろそろ気づくべきときだ。

立憲国家のメルトダウン2017/05/01

 施行70年の憲法記念日を前に、憲法学者でない多様な人士53人の憲法論を集めた『私にとっての憲法』が岩波書店から刊行されました。わたしも森友学園問題渦中にギリギリで寄稿しました。その後半をここに転載させていただきます。思えば2年ぐらい前からこういうことばかり書いていますが。
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(…略)
 この安倍首相は、就任早々日銀総裁の首をすげ替えて、金融政策の慣例的な自立性を無効にし、NHK会長にも息のかかった人物を据え、内閣法制局長官まで慣例を破って外務省出身者を充て、金融、メディア、法制のチェック体制を掌中に収めたが、それだけでなく、最高裁判事の選任にまで手をつっこんでいることが最近知られるようになった。

 当人は安保法制審議の国会審議にいらだって「(憲法解釈の)最高責任者は私だ」と筋の通らぬことを言い、後には国会で「私は立法府の長」とさえ言った。それは彼が自国の政治制度について無理解であることを示してもいるが、三度の衆院選と参院選で絶対多数の議席を確保し、どんな法律も通せる状態にある以上、行政府の長である自分が立法府も意のままにできるという暗黙の「事実」を公言したにすぎない。そして沖縄関連訴訟や原発訴訟に顕著なように、今では事実上、司法もほぼ「コントロール下」に置いている。

 おそらく安倍政権は、集団的自衛権の行使容認を閣議決定したときから、憲法は無視すればよい、それがあっても事実上反故にできると気づいた(あるいは確信した)のである。行政権力にはそれが可能だと。それ以来、憲法はあってなきがごとく、労働に関する立法も、家族に関する立法も、共謀罪も、どうみても憲法との整合性を疑われる法律を次々に作ろうとしている(それをチェックするはずの内閣法制局は、ある元最高裁判事に言わせれば「いまは亡い」)。

 さすがに憲法もこのような政権の登場を予想していない。憲法は、天皇や国務大臣に尊重義務を課しているが、当の国務大臣が(総理を始めとして)憲法を守る気がないだけでなく、それを「みっともない憲法」としてまるまる廃棄しようとしているのだから、何をかいわんやである。

 ちょうど戦後五〇年日の頃から、「主権在民」「基本的人権の尊重」「非戦国家」を柱とする日本国憲法を廃棄して、これを全面的に逆に書き換えようとする勢力が伸張し、とうとう第二次安倍内閣を成立させた。この政権の目的は、時代に合わなくなった条項に変更を加えようという「手直し」ではない。言われるところの「改憲」とは、今の憲法そのものをお払い箱にしようということである。しかしそれを正面から言うと実現できない。そこで、背広の下に軍服を隠しながら逐条的な「手直し」だと言いくるめる。

 「自民党改憲草案」とは、日本国憲法を根本から否定し、それにとって代わろうとする別の憲法案である。それを掲げる政権が国会で絶対多数を握った。そのこと自体がすでに「尊重義務」違反なのだから、この政権は、憲法はあっても守らなくてもいいということに気づいてしまったのである。あるいは、黒を白だと「解釈する」ことを閣議だけで決定できるとしたのである。

 それが二〇一四年七月、それ以来、安倍政権はアメのように溶けてしまった憲法を尻目に日本を引っかきまわしている。これこそが立憲国家のメルトダウンとも言うべき事態だろう。そのメルトダウンを隠し、首相官邸という名の「免震重要棟」のなかで、この政権はあらゆることを閣議決定で決めている。誰がこの「憲法停止」の「緊急事態」を収拾できるのか、それがいま問われている。言うまでもなく、それは「主権者」である。

「沖縄差別」の遠近法2017/04/29

「琉球新報」が、基地建設反対運動のリーダー山城博治さん他を逮捕・長期拘留した(東京から支援に行った反差別運動・カウンター活動の高橋直輝も不当逮捕のうえ199日間も拘留され、ようやく最近保釈された)ことを機に、一方で沖縄の意志表示を踏み潰し、他方でそれを看過する「沖縄差別」の問題をとりあげて、「分断を超えて」というシリーズを掲載している。その第1回(4/26)に寄稿した記事をここに再掲させてもらう。
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 一九九五年に米兵による少女暴行事件が起き、那覇で「復帰」後初めての大抗議集会が開かれた。これが今日の辺野古新基地建設をめぐる対立の発端である。何の対立か。沖縄と日本、行政的に言えば沖縄県と日本政府の対立だ。日本政府は防衛(これを最近では安全保障と言う)上の理由から沖縄に基地を置くのを当然とみなす。日本の安全保障は「日米同盟」前提だから、それが米軍基地か日本軍基地かは問題ではない。だが、沖縄にとっては辺野古に恒久基地ができたら、占領期以来の基地負担がやむ希望がなくなる。

 沖縄戦の経験から、基地のあるところが戦場になるということを沖縄は骨身にしみて知っている。だから対中危機を煽っての沖縄の恒久基地化や先島の軍事化は、「捨石作戦」の悪夢をよみがえらせる。だが日本政府、とりわけ中国敵視、日米同盟のワンセットからしかものを考えない安倍政権は、あらゆる手段を使って沖縄世論を切り崩し、有無を言わさぬ強硬姿勢で基地建設を推進しようとしている。

 その意を汲むかのように、政府に同調する勢力が沖縄に圧力をかける。沖縄の「わがまま」を批判し、「お国」への貢献を求める。あるいは基地建設に抗議する人びとを誹謗中傷し、運動を民意から分断し孤立させようとする。それが「沖縄ヘイト」と言われる言動を生む。

 メディアについても「沖縄二紙を潰せ」といった発言が政府周辺から出る。沖縄二紙は地域紙だ。だから地域住民の関心に応える報道をする。地域紙なら当然のことなのだが、「国家」を掲げる者たちは「国益」にかなった報道をせよと言う。つまり地域世論を操れということだ。それを最近では「国家第一」と言うようだ。ただし、「国益」と言われることはしばしば「私益」の隠れ蓑にすぎない。とりわけ、森友学園問題に如実に表れたように、首相の権力をあからさまに私物化している安倍政権の場合はそうである。

 沖縄では、米軍占領下で多くの人びとが「祖国復帰」を求め、曲がりなりにもそれが果たされ、しばらくは日本国家への再統合が進んでいた。しかし、くすぶっていた米軍基地問題が九五年に再噴出、日米安保体制下での日本と沖縄と接合の危うさが問われるようになり、以後、日本政府は沖縄の懐柔に腐心してきた。しかしいわゆる教科書問題で、沖縄戦の記憶を日本の歴史から抹消する意図があらわになると、対立の軸はもはや「保革」ではなく「沖縄と日本」になった。沖縄戦は戦後の沖縄の存立の原点だからだ。

 この対立は、人びとの記憶を一気に「琉球処分」にまで引き戻す。琉球国を廃して沖縄県を置く、それが近代国家草創期の日本政府によってなされた「処分」だった。沖縄が日本の他の都道府県と違うのは、この「処分」によって日本国家に統合されたという点である。他の都道府県は初めから日本国に属していた。だからその歴史を地域史として語るときにも、それは日本史の一部になる。だが、沖縄県は日本史とは違う固有の歴史を語りうる。その違いは沖縄戦と戦後の運命によってさらに強調される。沖縄県は地上戦で人口の四分の一を失い、そのうえ米軍占領下で基地の島に変えられながら、日本の行政権に属さない二十七年を過ごした。いわゆる「アメリカ世」だ。日本の歴史にそれがどう書き込まれるかは今後の沖縄の死活に関わる。

 近代の歴史は否定しようもないが、沖縄がいま日本の一地域として統合されているとしたら、その統合を望ましいものにするのが日本政府の責任だろう。だが、そこに亀裂が走り深まっているのが現状である。その対立は国家と一地方という非対称な対立であり、圧倒的な権力関係の下にある。沖縄の人びとが抱く「差別感情」はその表れに他ならない。

 「琉球処分」以来、たしかに日本は沖縄を属地のようにして扱ってきた。それは、一九〇三年大阪博覧会での「人類館」事件に露骨に表れていたし、また差別を受ける屈折した思いは山之口獏の詩などに深く表現されている。今では「沖縄県」はごく自然に受け入れられているが、このような対立が目立ってくると、アパートを借りるのに「沖縄人お断り」の看板がかかっていた時代に逆戻りする。本土に沖縄料理店が広まり、沖縄の海や風になじんだ「沖縄ファン」が増えても、彼らは「リゾート地沖縄」にしか関心がない。その風潮は無言の「差別」を後押しする。

 つい最近の衆議院憲法審査会で「国と地方のあり方」がテーマになったとき、複数の参考人から地方自治の「本旨」を強調する意見が出たという。自治とは自ら治めること、オートノミーである。国にとっても自立が必要だが、地方にも自治が必要である。それが民主国家の基盤でもある。沖縄が日本において十分な自治権をもつこと、それが統合の実りをもたらす道であり、「琉球処分」以来の「差別」の構造を解消する唯一の道であるだろう。

共謀罪法案提出とその時機2017/04/08

 この間の安倍政権のドタドタをかいつまんで振り返ってみよう。共謀罪提出は、その内容ももちろんのこと、提出の状況もとんでもないものだからだ。

-去年11月のアメリカでのトランプ当選に大慌て。TPPで奉仕(強行採決)の目算が狂い、「アメリカ・ファースト」になりふり構わず「日米同盟ファースト」で抱きつき。11月下旬には問題が多いまま自衛隊に「駆けつけ警護」の任務を付けて、内戦状況の南スーダンに派遣。一方で対ロ関係「進展」を地元山口で演出しようとしたが、剛腕ロシアのプーチンには軽くあしらわれ、その失敗を「電撃・真珠湾コウゲキ」で糊塗しようとする茶番。

 1月安倍訪米のあと本格的に始まった通常国会では、まず答弁できない稲田防衛相の「不適格」問題が露呈。南スーダン自衛隊派遣の責任者が、「戦闘」と言えないから事態は「衝突」、そう言わせる憲法9条が悪いと言わんばかりの答弁。そのうえ、昨夏の陸上自衛隊PKО日報が「廃棄」されたと防衛省が言いう。それを河野文書管理担当相の要請で「再調査」したところ、電子データがあることが分かり、これが2月に公表されるが、ほぼ黒塗り。

 明らかになったのは、稲田防衛相は防衛省(自衛隊)をまったく掌握していなということ、逆にいえば防衛省は省内のことを大臣に話していないということ。安倍首相に後継者と位置づけられて抜擢された稲田氏は、単純に大臣不適格だというだけでなく、実際に自衛隊は大臣を無視して独自に動いている(もはや「軍部」になっているということだ)。そんな大臣を罷免もしない、これが安倍政権の安保政策運用の実態だということだ。

 すでに大問題だが、それが何らの対処もされないうち、今度は「森友問題」が浮上。これは基本的には財務官僚による国有地不正売却問題だが、その相手が安倍総理夫妻と関係浅からぬ学校法人であり、用地取得が日本初の神道小学校「安倍晋三記念小学院」開設のためだったということ。さらに森友経営の塚本幼稚園の実態(園児が教育勅語暗唱、安保法制ありがとう、と安倍首相に感謝)が明らかになった。首相は国会で関係を否認してヒステリーのような答弁を繰り返したが、籠池理事長の会見を受けて、政府自民党は「懲罰」のために籠池理事長の証人喚問を受け入れ、そこで元警察官僚の議員を使って逮捕の恫喝に終始する。しかし森友学園の「愛国教育」が安倍首相の「理念」とも符合し、それを否定しなければならない首相の苦衷がはからずも表に出る。

 この件では、小学校に異例の認可推進を行った大阪府知事(維新の会)も絡んでいたが、松井知事は籠池元理事長を悪者にして居直る。そこに、さらに大規模な(森友9億、こちら30億超)安倍友「加計学園」問題も浮上。アベノミクスの売り物の一つ、いわゆる「特区」の「規制緩和」の実態が露呈。森友案件に深く絡んでいた首相夫人の「公私」が云々(デンデン)を「閣議決定」するという笑劇の一場もあったが、私人・公人の問題ではなく、公権力の「私物化」こそが問題。たしかに、それを禁じる法律はないが、これだけの「背任」にも検察はまったく動かず、地方議会議員が告発するのみ。もはや日本では、権力を手にしたら、憲法無視はもちろん(集団的自衛権行使容認以来)、何でもできるということが明らかに(それまで政治家たちがやらなかったのは、自民党内に相互牽制があったのと、いかにも政治家としてはしたないことだったから)。

 そして「教育勅語」が話題になったこの機会に、なんと政権は戦前体制のバイブルだったこの「勅語」(もちろん天皇が作ったものではない、天皇を統治に利用しようとする連中が作った)を学校で使うのも悪くない、と「公認」路線をうちだす。

 折しも、正規教科にされた道徳の教科書検定で、パン屋の例が相応しくないとして和菓子屋に変えたらパスという事態も(ケーキより毒まんじゅう、プリンよりコンニャク?)。そのうえ体育に銃剣道(こんなものが「道」だと聞いたこともない、弾がなくなったときの「一億ギョクサイ」訓練)も取り入れると、異常としか言いようのない文科教育方針。ドサクサまぎりに何でもやる、というだけでなく、ネガティヴにでも話題になったら通りがよくなったことにして押し通すというあられもない手口。

 3月には東芝崩壊が明らかになった。日立も減損を計上したが、東芝は1兆超えの減損。みんな原発商売のため。原発は東芝を潰すほど、もはや商売にもならない。にもかかわらず安倍政権は原発推進をやめようとせず、それを「忖度」して裁判所まで再稼働を許可する判決を出す。一方で被災者支援を3月で打ち切り。現場はまったく「コントロール」されず、年間1ミリシーベルトの国際基準を、日本は大丈夫とばかり20ミリシーベルトに挙げて被災地に帰還を強いる。そして経産省は「日本ってすばらしい!」という恥ずかしさもきわまる国際広告を打つ。

 そこに今村復興大臣(東電株もたくさんもっているようだ)、「自主避難者は自己責任」、国の方針に従わない者は面倒見ない、と復興法にも背馳することを公然と言い放ち、質問する記者を脅して追い返そうとする。こんな大臣も罷免しない。実際、この政権の閣僚は、首相がひどいから目も当てられないような連中しかいない。

 このドタバタの陰で、去年の女性暴行殺害死体遺棄事件やオスプレイ墜落事故をも忘れさせ、山城平和センター議長を5か月以上も拘留し、辺野古の新基地建設工事は着々と進めていて、あらゆる反対を押し潰して近く最初の埋立てを始めるという。

 問題が起こるとさらに大きな問題で騒ぎを後ろから前倒しに潰し、次々に問題をさらに大きな問題を押し流してゆく。それがこの政権のやり方である。次々に閣僚の失態や失格が明らかになるが、それでも「問題ない」としてこのデタラメ内閣は責任者に責任をとらせない。

 だが、これだけ政権の土砂崩れが起こると、いい加減年貢の納め時かなとも思うが、そこに共謀罪を上程して、また他の騒ぎを押し流そうとする。そう、この政権はいま、強力なサリンを撒いて政権批判を押し潰そうとしているかのようだ。それが共謀罪上程である。もちろんこれは、警察権限をほぼ無制約に拡大する最悪の治安立法である。それを持ちだして、稲田・森友・加計・安倍政治問題・失格大臣やその他の政権の崖崩れを、もっと大きな災厄(共謀罪)で潰して苦境突破を図ろうとしている。

 共謀罪(テロ等対策法?)が許せない悪法だというだけでなく、それをいま提出している安倍政権そのものが、いかにひどい政権であるかということを確認しておかなければならない。ほんとうにとんでもない「亡国政権」だと言わざるをえない。この先にはもう日本の瓦解しかない。個人の人権とか自由を守るとかいった贅沢な話ではない。この政権の延命の先にはこの国の瓦解と荒廃しかないということだ。

民主主義を取り戻すために2017/04/03

ピエール・ロザンヴァロン『カウンター・デモクラシー』について――

民主主義の根を絶ちかねない「共謀罪=テロ等防止」法案が国会に上程されようとしている折も折、岩波書店からピエール・ロザンヴァロン(仏)『カウンター・デモクラシー』の翻訳が刊行されました。もちろん、悠長に本など読んで勉強している余裕もない昨今で、いい加減うんざりさせられますが、それでもなお、なぜデモが必要なのか、どうしてそれがわれわれの権利なのかを納得させてくれる本です。民主主義の歴史をつぶさに検討しながら、今日もどこかで声をあげることの必要と正当性を確認させてくれます。
巻末に、この本の意義を説く解説を書かせていただきました。広く目をとおしていただきたく、一部をここに掲載します。

●監視し、阻止し、裁く――民主主義を取り戻すために

・安倍政権下の官邸独裁(略)

・民主主義を実効化する智恵(略)

・「不信のまなざし」はなぜ必要か
 
 民主主義を実のあるものにするためには選挙以外にさまざまな方途が必要である。選挙はつねに信任の手続きだが、いったん選ばれてしまうと代表はその信任を離れやすい。だから権力を委ねる代表にはつねに「不信」のまなざしをもつ必要がある。

 権力の振舞いはできるだけ可視化し、それを監視しなければならない。そして権力の逸脱が見られるときには、さまざまな手段で抗議の意志を表明しなければならない。それがなければ民主主義は形だけのものに止まるだろう。多くの人びとが集まって意志表示するデモンストレーションはその重要な形態である。それはまたメディアによって可視化されなければならない。ここにこれだけの「民意」の直接表明があると。メディアが権力の補完物でないとしたら、それもメディアの役割である。

 監視し、阻止し、裁く。こうした権力への対応を本書の著者ピエール・ロザンバロンは「カウンター・デモクラシー」と呼んでいる。それは言うまでもなく民主主義に対抗するものではなく、代表選出だけではけっして完結しない民主主義を実質化する、民主主義のための不可欠の要素なのだ。

 もちろん、代表を選んだら基本的には彼らにすべてを任せておきたい。議員はそのために強い職権と手厚い保護を与えられているのだから。だが、往々にして彼らは裏切る。民主主義が選びを手続きに組み込んでいるからといって、それをある種の「選民」思想に横領しようとする連中さえいる。彼らは手続きさえ踏めばこの仕組みを「選民統治」に変えてしまおうとする。だからこそ「不信のまなざし」は欠かせない。

 民主主義とは多数多様の人びとの意志を集約する仕組みである以上、もともと一元的ではありえない。むしろ声の複数性を前提としている。それを代表の枠に強引に一元化するとき、民主主義は専制や独裁に転化する。それを防ぐためには、選挙に還元されない、選挙で決まったことにされない、このような多角的な「カウンター」が必要なのだ。それなしに民主主義は実現しえない。

 本書の著者はそのことを、近代の民主主義の成立の理念から、また多様な歴史的経験をたどりながら、つぶさに描き出している。折しも、冒頭で述べたように日本ではいま民主主義が最大の危機に瀕している。憲法違反が明かな決定が閣議でなされ、政権周辺から法的整合性は二の次だという声が公然とあがり、その閣議決定に基づいた安保法制が強行採決されても、ほとんどの主要メディアは政権に懐柔されて批判的監視の姿勢を置き忘れ、積み重ねられる不法は既定のものとなり、異常なことは何も起こっていないかのような気配だけが漂う。そしてあちこちで抗議の声が上がっても、そんなふうに騒ぐ方がおかしいといわんばかりの状況である。

 だが、日々の生活をひたひたと侵す不安に気づいた若者たちが、国会前に集まり抗議の声を上げる。そして「民主主義って何だ?――これだ!」とコールする。それをメディアは伝えるのを忌避し、町行く人びとは騒々しい連中がいるようだとしか思わない。沖縄の基地反対運動にいたってはさらに極端だ。何度も表明された民意をそのつどあからさまに振り払って、辺野古基地建設の強行が続く。その民意を「頑迷」だとか「過激」だとみなす気配まで作り出されている。

 いまやこの国では権力が監視されるどころか、権力の横暴に背を向けて抗議する人びとを白眼視する傾向さえある。もはや民主主義は足元どころか腰まで朽ちかけている。その現状の深刻さに目を覚ますためにも、民主主義とは何かをつぶさに確認するこの本は大いに役に立つだろう。民主主義を選挙だけに止めておいてはいけない。民主主義は危機のときにこそ、日々の「カウンター」によって支えられる。民主主義って何だ?これだ!と。

森友学園事件の本質は何なのか2017/03/07

いままで、何度か書かなければと思うときがあったが、なかなかブログを書く態勢をとれなかった。定期的に書かなければ意味はないとも言えるが、それでも書かねばならないときもあると思い…、覚書程度だが。
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 森友学園問題は安倍政権の命取りになるだろう(ならなかったら本当に「日本の政治の死」である)。

 重大な疑獄事件だからというだけではない(規模ではさらに大きな加計学園の件も出てきた)。安倍政権のもと、日本の官僚機構や行政体質がどういう状況になっているのか、その下でどんな類の連中がはびこっているのか、その実態が明るみに出て衆目に晒されているからだ。そのうえ、「安倍晋三記念」の名を冠しその「夫人」を名誉校長に据えた「瑞穂の国小学校」計画は、安倍政権が目標とする憲法改変がどんな社会をめざしたものなのかを、異様な塚本幼稚園とその延長というかたちで如実に示している。

 これをどう報道するかで、メディアも試練にかけられている。この件が明るみに出て、それでも政権の異常さを正面切って報道しないメディアは、その口濁しで政権の延命に手を貸し、日本の社会そのものを見捨てることになる。そしてそれを自覚できないメディアはもはや腐った魚である。事象を断片的に報道していても仕方がない。トップニュースでこれがいかに異様な事態かを連日報道すべきだ(後になって「反省」などしてもらいたくない)。

□国政の私物化(追従する官僚・メディア・その他)

 安倍政権の支持率は急落しているようだが(日経調査)、今まで異常に高かったのはたぶんにメディアのせいである。政権批判は「偏っている」と脅され、官房長官が会見で「まったく問題ない」と言えば、その判断を政府判断=公式判断として報じるだけだったからだ。外交案件では、政権の行動が「日本はこうした」「日本はどうする?」と無批判に報道され、国内では「政府のやることが正しい」かのように伝えられる。だが、問題は政府を担う政権の異常な性格なのだ。

 「事件」としては「国有地の不正払下げ」ということだが(元清和会系とのつながりがとりざたされる特捜部が動いたという話はまだ聞かない)、警察が立件しないとしても(これだけあからさまな事件を立件せずにはいられないだろうが)。この事件には安倍・日本会議系政権のあらゆる問題が凝縮、というより爛れた泥沼のように広がっている(日本会議は引こうとしているが、内閣の陣容を見れば、安倍内閣は日本会議・神道議員連盟内閣であることは否定できない)。

 ひとことで言って「国と政治の私物化」である。「国と政治」を彼らは「公」と言うから「公の私物化」だ。一般の言い方で言えば「公共の私物化」である。

 安倍首相は「私の妻(総理夫人)は私人」と言う。だとすると「総理大臣」であることは「私事」なのか。たぶん当人にとってはそうなのだろう。だから勝手にやっていい。憲法だって勝手に「解釈」で反故にできる。「だって私は総理大臣だから」。最高権力者なのだから「私」の夢を叶える。仲間を優遇してどこが悪い…。

 だからお友達や太鼓持ちや自分を支える連中(権力に付け入る者たち、超ウヨク・ヘイト団体)には便宜を図る。それは「私」の力の行使でもある。「私」は中国を嫌っている。それは今では「変化する国際環境」の中の「脅威」というアメリカの見方と一致する。だから在日(その向こうに中国)に対する「ヘイト」感情は正しい。そうして「ヘイト」と「公的見解」とは癒着する。

 その「公」と「私」の接続をごまかすために「巷=公共?」の空気を作るメディアを手懐ける。トップを変え、仲間を送り込み、プチ・ボスたちに寿司を食わせて、それぞれの組織内にはびこらせる。

 「公の私物化」にうま味を見る連中(「私物化=privatization」を金科玉条に利権をあさるネオリベたち、竹中某、それに日米安保マフィア・原発ムラ等)が安倍と組む。

□「美しい国」(改憲後の日本)の雛形とそのからくり

 しかし、森友学園経営の塚本幼稚園の実態は、安倍・日本会議的な国民統治と教化のまたとない雛形を示している(「理想」とは言うまい。彼らにそんな立派なものはなく、しみったれて邪まな想念しかないから)。国民は幼い子供のときから洗脳され、「悪イチューゴクやチョーセンから大人たちが日本をマモッテクレル」と唱え、「アベソーリ、がんばって!安保法制ありがとう」と言って盲従小国民になる。北朝鮮とそっくりではないか。

 そしてそんな「神道教育」を施す連中はと言えば、彼らの押しつける「献身と盲従」の「国民精神」とはまったく反対の、子どもと親を食い物に賄賂とタカリで大きな顔をしたがるだけの小悪党たちだ。そんな学校・幼稚園が教育勅語をありがたがる。要するに「教育勅語」とは、そんな小悪党どもが自分たちののさばる社会を作るために子供たちに押しつけるのに恰好のものなのだ。「勅語」に照らしたら、真っ先にトンカチで頭を叩かれるような連中だ。安倍政権が目ざす「憲法改正」の生み出す社会とはこういうものなのだということが、この森友学園の腐れ沼に如実に表れている。

 そんな連中の群がる安倍政権の「公の私物化」に官僚たちが手を貸している。非自民の政権はサボタージュで潰そうとした官僚たちが、安倍政権には諾々と従っているのだ。彼らは保身しか考えていない。政権の具と化した内閣法制局長と同じように、この国の官僚たちは国よりも保身が大事なのだ。あるいは、「対米従属」(これを「日米同盟」と言っている)を不動の国是と思い込む官僚たちが、安倍政権を進んで支え、安倍の「強い国」妄想に乗っかろうとする。そう、安倍は以前から"Make Japan Great Again!"だった(ただしそれは国内だけで、その前提は"America first!")。日本では志をもって国のために働く官僚はいないのだ(いたとしても出世できない)。
 
 森友学園事件は、安倍の「美しい国」政治がいかなる社会を作るのかを白日の下にさらした。検察が動こうが動くまいが、これでも政権が倒れなかったら、この国についてもう言うことはない。ただ、それでも覚えておきたいのは、安倍がトランプ当選に慌てて、いち早い訪米を画策していたとき、トランプのアメリカは麻生を同伴させることを要求してきたことだ。この国の試練は続く。

*こういう政権が沖縄に強引に基地を作ろうとし、南スーダンに自衛隊を送っている。沖縄を「ヘイト」の対象にしてはならないし、自衛隊は塚本幼稚園の園児扱いにしてはならない。