歴史修正主義に乗っ取られた国―『世界』10月号への補足2019/09/09

 久しぶりに『世界』から依頼があって、「令和の夏の日米安保――歴史否認とトランプ式ディール」を寄稿した。6月に、トランプが「日米安保は不公平だ」と発言したことを受けて、日米安保問題をトランプ政権下でのアメリカ外交との関連で書いてほしいという依頼だったと思う。

 日米安保の内実やその運用の近年の変化、あるいはいわゆる外交実務について論じるのはわたしの役目ではない(前田さん、梅林さん、太田さん、布施さん、その他がいる)。それに、トランプの発言は日米安保体制そのものを本気で見直そうとしているというより、参院選を避けて夏まで結論を持ち越されていた日米貿易交渉に圧力をかけようとするもの、つまり「ディール」の一環ということだろう。それに、北朝鮮関係を変えたいというトランプには、東アジアあるいはアジア全域を視野に置いた一貫した安全保障戦略があるとは思えない。だから、いま安保論議をすることにあまり緊急の意味があるとは言えない。

 それよりも、この夏の緊急課題というなら、何といっても安倍政権が露骨に採り始めた韓国「敵視」政策であり、それが日本の社会で広範に受け入れられるようになっている(「ホワイト国除外」への支持八〇%以上、安倍支持率上昇、野党立憲民主党も基本的に支持…)という事態の異様さだった。日本で「歴史修正主義」がまんまと勝利を収めていることが露呈した、というより、政権はそれが日本政府の姿勢であることを公然と示す「外交」を行い、それが一般的な支持を得ている、ということである。

 このことを抜きにして、いま政治の専門家でもない者が政治について発言する意味はない。そう思ってわたしは、与えられた課題の日米安保の問題を、国と国との関係というより、日本の統治層がアメリカ占領軍に対して示した「自発的隷従」、そしてそれなしに成立しない日米安保体制下における「歴史修正主義」の問題として、組み直してまとめた。

 案の定、『世界』10月号の特集は1、AI兵器と人類、2、日韓関係の再構築へ、となっていた。日韓問題、というより、日本における対朝鮮半島対応が異様な状況を呈しているという問題だ。もちろん韓国には韓国の国内的な諸々の問題がある。しかしそれは韓国人がみずから解決すべき問題だ。だが、日本はいま、外交問題のすべてを韓国のせいと居直り、かつ韓国内の問題をあげつらい「韓国叩き」をして、ちょうどその分自国の問題には背を向けて悦に入っているかのようだ。その、歴史修正・否認、何といっても同じだが、その国を挙げての没却ぶりははなはだしい(他にそんな国が見当たらないからだ)。いまではもう「戦後レジームからの脱却」は言われない。もちろんその言い方のいい加減さもあって維持できなかったというのも確かだが(「戦後レジーム」とは「日米安保体制」のこととみなすべきだから)、安倍政権の言う「戦後レジーム」はたしかにもう一掃されたのだ。少なくとも、敗戦をなかったことにするかのような「歴史修正」は日本の社会に浸透している。

 それが、長く執拗な文部省→文科省教育(=教育破壊)の効果なのか、あるいは経済的な「対米従属」としてのネオ・リベラリズムによる社会の解体(サッチャーは「社会など存在しない」と言ったが、まさに「社会」解体がネオ・リベの眼目なのだ)と、ネット・コミュニケーションによる情報環境劣化を腐植土として生じた事態なのか、いずれにせよ、政権による情報(公文書)隠蔽・改竄・破棄は恒常化し、今では公文書を作成しない・残さないということすら、政府の方針にできる状態になっている。今後は、歴史を修正したり否認したりする必要もないということだ。その路線の上に、現在の「韓国敵視・侮蔑」がある。

 「戦争になる」と恐れる人たちがいる。そういう人たちには言いたい、いや、これがもう「戦時態勢」なのだと(「セキュリティ」の名の下に、子飼いの警察官僚が国家セキュリティ委員会のトップに立ち、メディアはすでに「体制翼賛」にしているし、ネット民がかつての隣組のように喜んで「反日・非国民」を探して叩く)。歴史修正主義者が求めるのは、自分たちの勝手し放題の「治世」であって、新たな戦争ではない(彼らの戦争イメージはあまりに古いし、結果責任もとらないから)。せいぜい疑似的センソウ気分のオリンピックを仕切って気勢を上げたり(選手はヘイタイだ)、あるいはカジノを作って胴元気分に浸るぐらいだろう。兵器も制約を吹き飛ばして爆買いするが、それは実戦のためではなく(使えない高価な武器ばかり)、親分の機嫌をとって自分もオモチャで遊べるという一石二鳥のため。この連中は自分たちと独立した国家があるなどと考えていない。国家を私物だと思い込んでいる。それが森友・加計疑惑で露見したことであるし、警察を使って子飼いの記者を逃がす山口事件に露呈したことだ。

 これが言える間はまだいい。ただ、「反日」という言葉がメディアに踊る「ふつうの言葉」になったとき、少なくともコミュニケーション環境では事態はすでに「内戦」だということだ。それは「内」の「敵」を炙り出して排除する言葉だからだ。ましてやそれを外国に対して使うのは、他国を他国として認めない傲慢な居直り意識(親分意識)の現れでしかない。

『カイヨワ・戦争論』に関する二つの補遺2019/08/27

1)フィロゾフとソフィスト

 他所ではカイヨワを「批評家・社会学者」と紹介している。わたしは広い意味で「人類学者」という語を使った(アントロポローグ、人間について考える人という意味で)。些末なことだが、ある考えに基づいてそうしたので、若干説明しておきたい。

 いずれにしてもカイヨワはアカデミズムの人ではなく、個別学問にはこだわらない。彼は詩を書きながらシュルレアリズム(芸術・思想運動)から出発し、バタイユやレリスらと知的活動を展開、一般に知られるようになったのは『神話と人間』(一九三八年)『人間と聖なるもの』(一九三九年)によってである。そして第二次大戦中はアルゼンチンで南米にも浸透していたナチズムに対抗する批評誌などに関わり、まだヨーロッパでは知られていなかったラテンアメリカの新しい文学を発見、戦後フランスでボルヘスやカルペンティエールらの紹介に尽力した(ボルヘスとはあまりうまく行かなかったようだが)。

 フランスなら彼は「エクリヴァン」(作家というより物書き)と言えばすむ。だが日本では通例にしたがうと「物書き」ですますわけにはいかず、傾向やテーマ領域を示す「属性」をつけることになっている。また、カイヨワの場合、フィクションを書くのではなく、批評的考察を展開する。そうした仕事をわたしは広く「人間論」というふうに括ってよいのではないかと考えている。それが「アントロポロジィ」つまり「人類学」だ。「社会科学」を目指す人は「社会学」でよいだろう。だが、むしろ「人文学」系の考察を目指すのは、「人類学=人間論」と考えた方がよい。そう考えるとき、同時に念頭に置いているのはピエール・ルジャンドルの「ドグマ人類学」である。ここでは立ち入らないが、今回カイヨワを「人類学者」として紹介したのは、そのような考えからである。

 このことは、今回わたし自身が「哲学者」を名乗ったこととも関係している。もちろんこのような「肩書」というのは便宜的なものである。だから従来は「○○大学教授」を使っていた。それはわたしの身過ぎ世過ぎのあり様(たいていは「所属」を示すよう要求される)を示すことになる。「専門領域」は?と言われれば、初めはフランス文学・思想、ある頃からは、自分で勝手に名乗った「グローバル・スタディーズ」だ。だがわたしの主たる「フィールド」であるフランスに行くと、何をしているのかと聞かれて「フランス文学研究」と言ってもいいのだが、むしろそれを足場に「メタ」なこと(批判的考察)を展開しているので、「フィロゾフ」(哲学者)と答えることにしている。フランスではそれで了解される。

 「フィロゾフ」とはもともと「フィル+ソフィア」つまり「知ることがめっぽう好き」な人のことだ。「知はこれだ」と「知を自称する人」のことを「ソフィスト」と言う。知の専門家で、自分が知をもっているというわけだ。日本語では「詭弁家」と訳されている。それに対して「フィロゾフ」は自分だ「知」だと自称することなどしない。ソクラテスは、自分は無知だと知っていると言った。だが「知る」ことを大事にし、それを尊重し、「知ろう」とする。というのは「知ること」がもっとも望ましいからだ。そしてその知は適正かつ明晰かつ人間の生を豊かにするものでなければならない。だが人間は「知≒認識」ではない。それに近づく、それをこよなく愛するだけである。それが「フィロゾフ」ならわたしは「哲学者」でありたいと思う。

 だから、「肩書」を支える社会的帰属の場もなくなったいま、わたしとしては、お前は何か?と問われたら「フィロゾフ・エクリヴァン」と答えたい。「哲学的物書き」だ。ついでに言えば、こうしてブログに書いても、基本は物書きで、デジタル・シミュレーターでもプログラマーでもない。


2)トランプの「異常な愛情」

 カイヨワの論は、実はだいぶ混乱していて、理論的なテーマ立てや整理がされていない。カイヨワ自身それを承知で、恐怖させながら闇雲に魅了もし圧倒的に人間を呑み込んだ「全体戦争」の幻惑を引き受けているからだ。だからこの本は、戦争をなくす、あるいは戦争を何とか避けるための方策など、示していない。とはいえ、この本を読むとき、ひとは戦争ってすごい(ユンガー万歳)とは思わず、どうしたらこんな戦争を避けることができるのかと考えざるをえない。だからこの番組の方向は自然にそういうものになる(阿部さんたちのナビゲーションもそうだ。伊集院さんが「ウーム、納得してしまうだけに怖いですね」というのは、まったくツボにはまった反応なのだ)。

 番組でも、回を重ねるにつれてその印象は深くなり、ついにこの本を読み終えてもいっかな答えは出ない。与えてくれない。答えを与えてくれる本なら、4回目で、あー怖かったですね、でもさすがに名著、そうか、という答えでわたしたちを救ってくれる。いゃー、希望がもてますね…、と伊集院さんも言うことができただろう。そうして、番組も大団円、阿部さんも、今日は夏の終り、来週は爽やかな秋を迎えましょう、と終わることができたかもしれない。だが、伊集院さんは、ウーム、終わらなかった、と正直に言う。その「失意」とともに、納得したある否定しがたい「実相」(戦争への傾き)に抗う姿勢を、自分のなかに強く残さざるをえない。これがこの本の「効果」である。
 
 その意味では、今回の「名著」はふだんの「古典的」名著とは少し趣が違ったかもしれない。読んで勉強になる(分かった)とか、楽しめるとか、感動できる、といったものではなかったから。しかし手に負えないものを「考える」という経験には誘うだろう。その経験に出口はないが、その「霧の中の道」それ自体が、ひとを戦争から遠ざける、ということだ。

 わかりやすい答えなどあるわけがない。あれば戦争など起こらなかっただろう。ましてや、文明が進歩して人間が賢くなって(?)その果てに世界戦争になだれ込むなどということはなかっただろう。その答えのない中で、それでも「戦争への傾き」にどんな歯止めがあるのか、ストッパーは何なのか、それを考えるしかない。自分の中で何がこの「傾き」へのストッパーになるのか、そんなことを考えるしかない。カイヨワは唐突に「教育」の話を持ち出すが、ユネスコにいたカイヨワは教育を通してそのストッパーを世界に埋め込むことを考えたのだろう。

 他の面から少し具体的なことを考えれば、国民国家の戦争の枠組み(つまりナショナリズムの戦争)は原爆のきのこ雲とともに霧散した。いまや国家はあり続けるが、国民との関係はフェイク(でっち上げ)になり果てている。「テロとの戦争」はそれを露呈させている。もはや「敵」は国家ではなく「エーリアン」で、その「エーリアン」は国内にも浸透しているとされる。だから「国民⇒市民」は、いまや国家にとってヴァーチャルな「敵」なのである。それに対応するように、国家や国民の「浄化」を唱えて排外主義が台頭する。そうすると国内分裂だ。
 
 この図式は「戦争をしたがる連中」にとっては好都合で、「浄化」を口実に国家の権力を乗っ取ることができる。すると「安全保障(セキュリティ)国家」が「戦争を拒む人びと」を「潜在的テロリスト」として徹底管理することができる。そこで実際に戦争が起これば、彼らが戦争を担う戦闘員にさせられるだろう(経済的徴兵制もその仕組み)。だが、この体制をうまく活用するには実際の戦争にはしない方がよい。戦争は無秩序化するから、体制が崩れるリスクも大きいからだ。だから「戦争レジーム」さえ作ればよい。それで一部の勢力は国家を私物化して自分たちの最大利益を維持できるからだ。

 現状はそんなところだろう。だから「戦争をしたい者たち」(実際には「利用したい者たち」)と「戦争を拒む者たち」というのが、現代の政治的対立の基本軸になる(右翼/左翼でも、、保守/革新でもない)。前者は「敵」を作って国民(市民)を囲い込む。そして必然的に「差別・排外」を唆す。これは日本でもアメリカでも、その他の国でも同じだ。ただ、韓国・北朝鮮はあらかじめ相互の敵対構造を埋め込まれており、他国との関係もその構造に規定されている。

 また、トランプ米大統領が他の同類と少し違うのは、同じく「差別・排外」を助長しても、よい「ディール」にならなければ戦争はばかばかしいと考えているようだ。だから、イラン攻撃でもぎりぎりで踏みとどまり、北朝鮮の金正恩には奇妙な「愛情」さえ抱いている。正恩は若くて孤絶の境涯にあるのに、国と権力を守るため崖っぷちの「ハード・ディール」で一歩も引かない。北朝鮮の体制など関係ない。市場を開いたら「世界最後の秘境」にトランプタワーを建てる、そんな夢を抱かせてくれる唯一の相手なのだ。だが、それは冷戦後にも埋め残された世界の地雷原のひとつを解消する、「歴史的意義」をもつかもしれないのだ。

NHK『100分de名著』/カイヨワ『戦争論』について2019/08/12

 NHK-ETV『100分de名著』(月曜10:25~10:50)の8月分「ロジェ・カイヨワ『戦争論』」についての解説を担当させてもらいました。テキストも番組も出来上がり、すでに1回目は放映されました。
 この番組、やってみてなかなか面白かったので、少し舞台裏を紹介させていただきます。プロデューサーの秋満吉彦さんも最近本を出したり、各所で番組の話をされているので、いいでしょう。

 ことの初めはこんなふう(というのがルイ・フェルディナン・セリーヌ『世の果ての旅』の書き出しです)。ある時、知人を介して秋満さんに会いました。この昔からの知人が、8月には「戦争」関連の本を取り上げたいと考えていた秋満さんにわたしを紹介したのです。わたしは「戦争」の専門家というわけではありませんが、戦争について「考える」とは長らくやってきたので、そういうことでよければということで「指南役」を引き受けることになりました。

 しかし番組は「名著」を取り上げるわけですから、軸を作らねばなりません。わたし自身は人間が戦争のうちでひとつになった「世界戦争」ということを、ジョルジュ・バタイユや同時代の思想家たちを通して考えてきたので、バタイユの『内的体験』や『有罪者』あるいは『呪われた部分』などを取り上げたかったのですが、それらの本は「戦争」をメイン・テーマにしていません。クラウゼヴィッツなら文句ない古典ですが、古いので「世界戦争」のことが視野に入っていません。そこで、バタイユゆかりのカイヨワで行こうということになりました。彼は『人間と聖なるもの』や『遊びと人間』で知られており、その観点から『戦争論』を書いていて、これはユネスコの大賞をもらうほど注目された本ですし、日本語訳もあります。それに、バタイユはちょっと横紙破りだし、今は忘れられているとはいえカイヨワはユネスコの大物で来日もしているので、その点NHK向き(?)でもあります。ということで、カイヨワの『戦争論』に、この夏の「名著」になってもらうことにしました。

 いま思えば、五味川純平の『人間の条件』とか、大岡昇平の『レイテ戦記』といった日本の戦争を描いた大作でもよかったかもしれません。しかし、それならわたしでなくてもよかったでしょう。わたしにやらせてもらえるのだったら、具体的にということよりも、戦争について原理的に考える、あるいは戦争を「考える」ことの意義が表に出るような、そんな「名著」の選択になったのです。

 と言うと、わたしが決めたような言い方ですが、まったくそうではありません。それに、やるとなって初めて分かったことですが(細かい説明は受けていなかった)、この番組には随伴する「NHKテキスト」があり、その執筆・作製と番組制作とがテンポを合わせながら進んで行きます。各回やり方が違うのかもしれませんが、カイヨワ『戦争論』の場合は、以下のように進行しました。まず、秋満さんがスタッフの人たちと本を読んで番組を企画立案をします(それで局内の会議を通すわけです)。もちろんわたしも口を出しますが、秋満さんの提案がなるほどと思わせるようなものだったので、その段階で番組4回分の構成が出来上がりました。

 それからまず、出版局のスタッフを前に、わたしがテキスト用の4回分のレクチャーを2回に分けてやりました。すると担当の人がそれを文章に起こし、説明や詳述が望ましいような箇所は補足し、かつ必要な引用部分を加えてくれます(レクチャーのとき、あまり引用とかは気にせずにやったので)。そうしてできた起こしの原稿にわたしが手を入れて、それがゲラになります。すると内容の骨子ができたということで、今度は番組のディレクターがゲラをもとに4回分のシナリオ案を作ります。それも2回に分けてやりましたが、ディレクターにさらに説明を加えて、わたしの意図を補足して、シナリオ案を練り直してもらいます(その段階で、朗読部分やイラストの説明部分も決められるようです)。

 テキストの方は、一回分30ページほどとれますが、番組の方はそうはいきません。だから、番組のシナリオはエッセンスだけで組まれます。テキストではカイヨワとバタイユの関係や、同時代の他の人びとの戦争についての考え方にもふれていますが、番組では枝葉はほとんど切り詰めて、カイヨワの本の内容に即した話に限定しています。
 そうして4回分のゲラの修正をやりとりしてテキストが校了したのが7月初め、その前後に2回スタジオでの収録をやりました。

 スタジオでは、古舘寛治さんの朗読(古館さんが朗読というのは、わたしは後で知って、オッと思いました)やイラストでの解説等をはさんで1回100分ほど収録しましたが、それを25分にまとめたのが最終的な番組になります。このとき、阿部アナウンサーがまずテーマを出し、伊集院光さんが即興で受けるのですが、この人はたぶん何も準備していないのに、出されるテーマにみごとな反応をして、ストーンと問題の本質に突っ込んでゆきます。おっと、伊集院さん、それは3回目にとっておきたい話題だから、あまり突っ込まないで、と言うぐらい。面倒な講釈に、オレ嫌いじゃないよね、こういう話…、といった具合にうまく付き合ってくれました。さまざまな「名著」が取り上げられるこの番組に、伊集院さんが仮想読者としてレギュラーで呼ばれているわけが分かったような気がしました。ただし、そのおかげで雀松ディレクターが徹夜(?)で仕上げたシナオリは、目印程度の踏み台にされてしまいましたが。

 と長々と述べたのは、この番組が、テキスト編集スタッフと番組制作スタッフと出演者のわりと緩い連携によってできる、まったくの共同作業の成果だということを知ってほしかったからです。テキストもわたしの名が表紙に書かれていますが、まさにこれも共同作業の産物です。レクチャーから最初の原稿を起こしてくれた福田光一さん、新井学さん、その後のフォローをしてくれた小湊雅彦さん、それに雀松真已子ディレクター、その人たちとの共同作業でテキストも番組もできています。そしてカイヨワの『戦争論』がその下敷きになっているということです。

 たぶん、とりあげる「名著」によって、それと「指南役」によって、このプロセスや共同作業の質もそれぞれに違うのかもしれません。しかし、以前ETV特集などでやった解説や狂言回しの役割とも、またふつうに一冊の本を書くのとも違った、楽しく新鮮な協労体験で、こういうテレビ番組の作り方もある(発信の仕方もある)のだと、妙に納得しました。

 (補足:あるいは、放映される番組から見れば、「指南役」のわたしもまた人的素材です。100分阿部さん・伊集院さんとスタジオで話して、残るのは約15分(10分は朗読とイラスト・映像資料)、その15分を組むための素材になるわけです。番組が寿司だとすると、その肴。なるほど、こういう番組か、と納得しました。一冊の本の集団的・立体的レクチャーの視聴覚的まとめで デジタル情報の時代に、テレビ番組を通じて、読書に返らせる、という回路づくりの試みにもなっています。)

 もう機会はないでしょうが、カズオ・イシグロの『私を離さないで』とか、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』、オルダス・ハクスリー『素晴らしい新世界』、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』、バタイユなら『宗教の理論』などでできないかな、とつい想像します。

 番組のテキストについて――内容はカイヨワの『戦争論』にぴったり即しているとは言えませんが、いちおうその特徴、主旨は汲み取っているはずです。密度の濃い本だけに、とくに後半に重点を置いて、解説しました。ただ、第4回は、カイヨワ以後の戦争について扱うという主旨もあり、わたしの現代戦争の見方とその問題点を前面に出させていただきました。数年前に出した『戦争とは何だろうか』でも扱っていない問題にもふれています。その部分だけはわたしの論としてお読みいただけると幸いです。

『自発的隷従論』ちくま文庫版について2019/07/27

 Amazon(これについての問題はいまは置いて)のリストで、わたしの関わっている本(著者、訳者、監修者 etc.)はふつうネトウヨのけちつけ以外はあまりコメントがついていないのですが、この本には30近いコメントがついています。それはひとえに、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの原テクストのインパクトによるものでしょう。この古い小さなテクストが現代の日本でこれだけの好評をえたことをたいへんうれしく思っています。訳者で詳細な訳注と解題を用意された山上浩嗣さんの篤実なお仕事も報われたことでしょう。
 
 ただ、少し残念だと思ったのは、この本の刊行に「監修者」として関わったわたしの「解説」がまったく的外れで無意味だ(「蛇足なので一点減」:安富)とか、「監訳者独自の見解を、無関係な表象(「戦争」など)と関連させて、ジコチュウで一方的に語っている」とか、果ては「翻訳者の上に君臨するものとしての「監修者」が存在し、その監修者が、翻訳の栄誉をむしりとるかのごとく語っています。まるでボエシの仮説「自発的隷従」が、この本を出版する小さなサークルにおいても、存在する証明のように。」(柴田)といったような文言が、恥ずかしげもなくしたり顔で書き込まれていることです。
 
 沖縄の辺野古でデモにいったり座り込んだりする人たちに、よく「日当をもらっている」という根も葉もない中傷が浴びせられます。しかしそうしたデマ中傷を口にする人たちの多くは本気でそう思っているようで。なぜなら、自分たちがヘイトデモをするときにはどこかから資金が出ていて、動員に日当が出ているからでしょう。だから、警察に手荒く扱われたりごぼう抜きにされたりする座り込みの人たちが、ただで来るわけがない、ゼッタイに日当が出ているに違いないと思うわけです。このように、人に対する中傷は、逆に自分のふだんの心根を写し出してしまうことが多いのです。そういうのを「ゲスの勘ぐり」と言います。
 
 『明かしえぬ共同体』(ブランショ、何も共有しない者たちの結びつき、明かすべき共通利害などもたない者たちの協労。この本もちくま学芸文庫で出ています)を旨としているわたしは、監修と翻訳と編集部との間に、役割分担があってもヒエラルキーがあるなどとは思っていません。それでも、外からはそう見えるとしたら、この本の出版に関してはそれを甘受する(どうにでも受け取ってくれ)ことにした、というに過ぎません。
 
 事情の大筋は「解説」に書いたはずですが、安富氏などは「西谷氏は、本当に本文を読んで解説を書いたのだろうか?」(これが『東大話法』?)などと宣っておられるので、よく分かるように事情を少し説明しておきます。
 
 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシのこのテクストはフランスではよく知られた古典で、2000年代に入って大学入学資格試験のテーマに採用されたりもしています。しかし日本ではごく狭い専門家(とくにフランス文学・思想関係)にしか知られておらず、翻訳も1960年代に出た筑摩世界文学大系に他の著作家のものといっしょに紹介されていた程度でした。しかしわたしは、このテクストは2000年代の日本でこそ読まれるべきだと思いました。そこに近代以降の思想的枠組みに囚われていない視点からの、権力機構の「不易」のあり方が示されていると考えたからです。
 
 幸い、共通の知人のいたルネサンス研究の山上浩嗣さんが、同好の士とともに研究会をして訳文と注解を作り、大学の紀要に発表していたのを知りました。そこでわたしは山上さんに会い、この原稿を出版しないかともちかけたのです。山上さんはこのテクストにたいへん愛着をもち、訳者解題に示されているように子細な研究をしていたのですが、それはあくまで古典研究としてであって、このテクストが今日の出版事情のなかで(売れない人文系出版の困難)出せるとは考えていなかったのです。
 
 けれどもわたしは、いまだからこそ出す意義がある、それも図書館の棚に眠る専門書としてではなく、できるだけ広く流通する一般書として出したいと思っていました。そこで、ちくま学芸文庫の旧知の編集者に相談したのです。けれども、モンテーニュの親友とはいえ16世紀の夭逝した法務官の遺した小著(実務的にみてもそれだけでは本にしにくい)を、文庫で出すことには当然躊躇がありました。そこでわたしは、この本を普及しやすいかたちでいま出版することの意義をあらゆる角度から説明し、説得を試みました。編集者もまた編集会議で自分の企画として通さなければならないからです。
 
 その結果、以下のような形が文庫での出版には必須だということになりました。
・訳文は一般読者に読みやすいように徹底的にあらためる(好評の訳文については、山上さんと編集者の町田さんとの無私の協労がありました)。
・たぶん一度しか出せないから、専門書としても通用するように、山上さんの解題を詳細に収録する。
・また、原テクストが短いこともあり、これが稀有の古典として20世紀の著述家たちにも深い影響を与えたことを示すいくつかの短い論を実例的として併録する(S・ヴェーユ、P・クラストルまで、C・ルフォールの論は大部すぎる)。
・現代日本の読者に、この「自発的隷従論」がただの文化的骨董品ではなく、グローバル化の時代にこそ読まれるべき生きたテクストであること示すための「解説」を西谷が書く(これがないと出版の話が成り立たなかった。)

 だからこの本は、そのような共同作業の成果として出版されたのです。結果として本は詰込みのようになりました。それでもかさばるほどではありません。理想をいえば、テクストと解題だけで簡素に出すのが古典としての「品格」かもしれません。しかしそれでは、誰も(どの出版社も)この本をいま出版しようとはしないし、ましてやそれが読者にインパクトを与えるなどとは予想していなかったのです。

 ド・ラ・ボエシのテクストは石ころのように落ちていた。わたしはそれを拾って驚き、この石ころは多くの人の糧になるはずだ、なんとかこれを日本の読者にも届けたい、と強く思い、そのために尽力しただけです。あえて言えば、それはまずわたしの思想的糧になった。そしてわたしの思想の骨肉にもなったのです。バタイユは「思想とは、人の考えたことを、レンガのように積み直すことだ」と言っています。独自の思想などというものはない、わたしもそう考えています(近代の著作権の制度はありますが)。だからド・ラ・ボエシの思想を呈示することは、それ自体がわたしの思想の所作でもあります。
 
 こういう事情を、出版に関わりのある人ならある程度分かるだろうに(「解説」にもあまり内輪話にならない程度には書いてあります)、そんなことには一顧だにせず「解説」が不要だと言うのは、この「石を拾う」行為を否定することになるし、自分がおいしいものにありつけたその見えない事情を、うるさいから切捨てよということでもあります。「解説」の中身を批判するのは構わないでしょう。現代世界の捉え方やには異論もあるだろうし、専門知識をひけらかしたい人もいるでしょう。それはネットで言いっ放し、ご勝手に、ということです。ただ、この本の場合、いちばんのネックはとにかく「出版を実現する」ということでした。それは果たされた。後はすべて読者に委ねるということです。
 
 このことを今書いたのは、現代の時代状況を標定しようとするとき、この本にあらためて着目する必要があると感じているからです。『自発的隷従論』の論旨がインパクトをもつ(日本だけでなく世界的に)ということは、裏返して言って、啓蒙的近代以後の社会的条件が変質していることに対応している、言いかえれば「ポスト・モダン」と言われた状況は、身分制社会への再編の露払いだったのではないか、と考えるからです。逆戻りということではなく、経済による世界的な社会再編が、結果として身分制復興と同じ役割を果しているように思えます(アメリカのSF的想像力はかなり以前からそのことを自明視していたようですが――「ブレード・ランナー」、「ガタカ」、「トータル・リコール」、「マトリックス」など)。だから、もう一度『自発的隷従論』に立ち返ろうと思っています。
 
 それと、参議院議員選挙が終わりました。ここに書いたような事情で、わたしは安富歩という人の「東大話法」を信用しませんが、彼を擁立していた山本太郎の「れいわ新選組」をひそかに応援していたので、選挙中は控えました。ただ、彼が今後も政治を変えようとその道に進むのなら、応援しようとも思っています。なにはともあれ、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』にまっ先に反応してコメントを寄せてくれた人ですから。

2019年6月30日、板門店のランデブー2019/07/01

 G20で日本に来たトランプ米大統領は、日本には安保条約やめるぞと脅す一方で韓国訪問。ソウルに行き、ついでに板門店に脚をのばして金正恩に会った。 日本外交は大混乱。日米安保にしがみつき、米軍にはなんでもドーゾ、アメリカ助けるために兵器も爆買い、それも北朝鮮や中国脅威に備えるためと、国内を誘導してきたのに…。

 さすがにNHKは特番を組んで中継放送。これを落としたら、報道機関としてもうどこにも顔向けができないからだ。それほどこの不意の会見は世界的ニュースだった。「日米同盟は最も緊密」と宣伝する安倍首相と日本政府は、まったくカヤの外だったのだが、それでも報道しないわけにはいかない。だから夜のニュースでもやる。だが、解説となると、さすがにアベ友の岩田某に「東京サミットで安倍首相が助言した」と言わせることはできないが、「拉致問題は取り上げられたのか?」とか、「北朝鮮の完全な非核化という本筋の問題には進展が見えない」とか論評するだけである。

 解説番組や討論番組に出てくる「専門家」たちも言うことの基本は変わらない。日本では、表のメディアではそんな議論しかなされない。だが、トランプの大統領としての振舞いの特異性や、今のホワイトハウスの内部の事情、それに冷戦後以来(あるいはそれ以前から)の北朝鮮とアメリカとの関係とその経緯を考えたら、とてもそんなことではすまされない。「拉致問題」を鬼の首でも取ったかのように前面に出して北朝鮮を指さし非難する(安倍の姿勢)日本は、同時に戦時中の朝鮮人強制連行に頬かむりし、「慰安婦問題」を否認する日本だということを、国際社会は知っている。それに「非核化」とは、冷戦後のアメリカが世界統治のヘゲモニーを維持するために、言うことを聞かない国々を締め上げるための戦略にしかなっていない。「非核化政策」に正当性をもたせるためには、アメリカがまず手本を示さなければならないが、唯一核兵器を実際に使ったこの国は、自分だけは破格の核を持ち続けるのである(今では戦術核の開発さえ再開している)。

 そんなことも分からない(知らないふりをする)「専門家」とは何なのか?
 そもそも北朝鮮が(そしてイランも)核開発を始めたのは、それなしにはアメリカに潰されるからである。核は相互に持てば敵の先制攻撃を防げるというのはアメリカが唱えた抑止力の論理だ(相互確証破壊:MAD)。アメリカが敵視をやめれば、ただでさえ貧しい小国は膨大な負担を負ってまで核開発などする必要はない。だが北朝鮮は冷戦後も残った「共産国=独裁国家」として全世界の敵意にさらされてきた。そして他国が(当時はイラクが)公然と潰されるのを見てきた。だから北朝鮮は核開発を始めたのだ。

 独裁国家に中から「民主化」が起こればいいのか?それが可能ならよいかもしれない。しかしその道はもうひとつの朝鮮戦争を引き起こすことになるだろう(内戦、韓国の介入、そしてその後はテロリスト狩り)。だとしたら(朝鮮半島の住民のことを考えれば)軟着陸しかない。北朝鮮自身がしだいに体制を変えて国が開かれ豊かになる、それを韓国が同胞国として助ける(もちろん日本も)、ということだ。

 一度でもソウルに行ってみれば、韓国では首都からわずか50キロのところに軍事境界線があるという、日常に溶け込んだ緊張の現実がある。それが韓国にとってもずっとのしかかる負担であり、その「南北対立」を口実に軍事政権が長く続き、それを倒すのに民衆の長く厳しい闘いが必要だったのである(「朝鮮問題」の専門家は、その対立の悲劇をメシの種にしてきたから、「融和」の機運が不安なのだろう)。

 南北分断が生じ、朝鮮戦争(当事者は南北とアメリカと中国)がいまだ継続状態であることが、現在の半島の状況を歴史的に規定している。ついでに言えば、分断が生じたのは、四十年間半島を統治した日本が朝鮮自治のすべての芽をつみ、挙句に敗戦によって朝鮮を放り出したからである。日本が多少とも大きな顔ができるとしたら、それは南北融和を手助けできたときだろう。ところが日本はずっと朝鮮問題に頬かむりし、冷戦(日米安保)下でアメリカに言われて南(韓国)とは和解したものの、冷戦終結後も北を敵視し続け、とりわけ最近の政治家たちは、むしろ北を間近な「脅威」として自分たちの政治的意図のために徹底的に利用してきたのである。「拉致問題」はそのための格好の道具になった。いまの政府にとっては、それは「北」敵視のためのジョーカーと化し、解決するよりもそのままである方が好都合なのだ。実際、安倍政権はいっさい交渉しないとして(解決の意志がないということだ)、「最大限の圧力」をかけ続けてきた。だから米中接近で今さらながら交渉のそぶりをしたくても、トランプを頼りにするしかないが、北朝鮮は「虫のいい話だ」と言うだけである(北の核政策は日本など眼中になかった)。

 また、ホワイトハウス内部の事情もある。悪徳不動産屋かつヒール・プロレス・ディーラーのトランプは、テレビで受けるコツも知っている。偏見はあるし、傲慢で、自己顕示欲も強いが、カルトチックではない。スティーヴ・バノンを切ったのはそのためだろう。バノンは自分の陰謀妄想に使えると思ってトランプを助けた。しかしトランプはそれが嫌になったのだ。その後も、アメリカ帝国路線のエスタブリッシュメントを嫌って(嫌われて)、はぐれ軍人などを国務長官・国防長官・大統領補佐官・CIA長官にしてきたが、それでもトランプの気まぐれに付き合いきれず次々に辞め、もう人材が払底してポンペオやボルトンのような鼻つまみ者しかいなくなった(というより、空白にボルトンなどが潜りこんだ)。ところが名うてのネオコン・ボルトンがペンスなどと組んで、北朝鮮との融和を潰しにかかる。

 しかしトランプは北朝鮮との関係転換はやりたい。アメリカの外交史上の画期になるし、オバマ政権が続けてきたことをひっくり返すことになる。もちろんそれを外交上の得点として大統領選に使いたいという意図もあるだろう。だがそれだけではなく、「金委員長が好きだ」というのは、外交辞令ではないだろう。自分がツイッターで「ロケットマン」と茶化すと、「老いぼれジジイが…」とやり返してくる、いかにも作り太りで異様な髪形の若い「独裁者」が、トランプは個人的にはほんとうに「うい奴」と思っているのだろう(ゴルフで穴に転げ落ちて見捨てられてもヘラヘラ付いてきて、「親しく突っ込んだ話をして、…完全に一致しました」と会見で発表する、どこかのシンゾーなどとは大違いだ)。この「ヒール役」二人が並ぶとたしかにメディア化した「国際政治」の舞台で絵になる。この個人的思いで(ラブレターのようなものも交わしている)外交してどこが悪い、というのがトランプのやり方ではないか。

 だが、準備して事前に回りに諮るとボルトン等に潰される。だから東京でじかに一か八かのツイッター。文在寅はもちろんこれを喜んでさっそく手配(いや、文在寅がトランプ訪韓の機会をとらえ、歴代大統領のように板門店を訪れるよう勧めて機会を作ったのかもしれない)、疑心暗鬼の金正恩もここは一番のる!とばかり板門店に現れた、ということだ。これでトランプは、自分の手法が通じる相手だと確認、それが「いや金委員長を好きかもしれない」と言わせた。

 双方にとって、二人で始めた北朝鮮と世界との関係の転換は、もし挫折したら二度と訪れない機会である。ネオコンやアメリカ帝国派の路線に戻れば、北朝鮮は今後数十年にわたって今の孤立を続けるほかない。それは「秘境」にホテルを作って半島全域で儲けたいトランプには面白くないし、金正恩にとっては滅亡への道である。去年の核開発後の対米融和への方向転換は、金正恩と北朝鮮にとっては捨て身の選択だった(若い正恩が国内を抑えるのもたいへんだっただろう)。そしてそれは韓国にとっても、千載一遇というより二度とない民族融和(別に国家統合は必要ではない)のチャンスだった。この機運を逃したら、分断国家で敵対し合うという重い枷が韓国にも不変の運命となってしまうのだ。金大中も盧泰愚も失敗したこの道を開く最後のチャンスだ。民主化運動で弾圧され、空挺部隊で鍛え上げられた文在寅にその可能性が託されている。

 テレビで解説・論評する「専門家」なら、そんなことを知らないわけではないだろう。しかしそんなことがあたかもないかの如く、「日本にとっては拉致問題が第一」とか「北朝鮮の完全な非核化が本筋」とか、シャアシャアと言ってのけ、それだけを言い続ける。外から見たらみんな政府のスポークスマン、安倍の敷いた路線でしかものを言わない、そうして世論を誘導する。つい最近も国連報告者デビット・ケーが、日本の「報道の自由」についてまた警告を発し、政府と話し合う用意がある、とさえ言ったと伝えられるが、世界では北朝鮮とそう変わらないとみなされている日本の「報道の不自由」は、あからさまに弾圧されるということではなく、このようにメディアがまともなことを問題にせず、政権の方針=国の方針=日本の基本了解と考えて、それに合わせてしかものを言わない、そう言わないと場が与えられず、忖度して世論誘導することが、報道としてまかり通っている(ネトウヨ産経から、まともが売り物の朝日まで、それは変わらない)という状況から生まれているのだろう。  

   *   *   *

 要は、「非核化」が問題なのではない。問題は北朝鮮の国際社会への統合なのだ。「非核化」は北朝鮮に対する一方的な無力化要求であり、経済制裁はすでに大国の小国に対する戦争行為と変わらない(そうして小国を苦境に陥れ、内戦状況を作り出すことで、これまでアメリカはいくつの国々を破壊し支配下に置いてきたことか)。北朝鮮が核武装を目指したのは、他でもないその道を避けるためだ。
 
 「朝鮮問題」に解決があるとすれば、それはまず朝鮮戦争を終結させ、朝鮮民主主義人民共和国をアメリカが承認する(すると自動的に西側諸国、つまり現在の主導国は北朝鮮を国家承認する。そうして朝鮮半島の南北対立を解消し、韓国・北朝鮮双方に史上初めて自立国家としての地位を保証する。そうして初めて、北朝鮮の「独裁体制」解消への道も開ける。冷戦後も世界から孤立を強いられた北朝鮮は、独裁体制によってしか生き残れなかったのだ。その「世界からの排除」が、あの奇異な世襲独裁国家を作り出している(それは戦前その地を絶対的に統治していた天皇制国家のコピーだと、日本では誰も思わないのだろうか?)。
 
 その「ならず者国家」北朝鮮は、世界を軍事によって統治しようとするアメリカやその真似をする国々にとって、戦争を正当化する軍事的緊張の源として必要とされてきた。それを一方的に追いつめ排除する方策が国際的な「非核化政策」なのである。その「成功」とは、北朝鮮の国家的な暴発でしかない。しかしその暴発は2500万国民(だけでなく韓国も巻き込んで)の惨劇にしかつながらない。イラクやシリアのような悲劇が東アジアでも生じるだけだ。そのときに日本海は難民船で溢れるだろう(日本の一部政治家はそれを銃で追い払えと言っている)。
 
 トランプという異例の(とはいえアメリカの「私的自由」を剥き出しにした)大統領が登場し、初めて北朝鮮との和解に動きだしたというのは、千載一遇のチャンスである。これから起こることは、何としてでも北朝鮮という「危険物」を保存して、自国や世界のなかでの軍事統治を維持しようとする勢力と、その状況を変えようとする勢力とのせめぎ合いになるだろう。アメリカでトランプ・金の「逢瀬」を邪魔する者たちは、ネオコンや軍事秩序維持派、とりわけ東アジアに利権をもつ勢力だろう。トランプは彼らをなだめながら、この「歴史的偉業」を進めなければならない。前途はけっして楽観できない。だからノーベル賞でも何でもくれてやるのがいいだろう。

 最後に、この時期にトランプが日米安保の「不公平」を言い出したのは特別なことではない。それはトランプの持論であり、安倍首相が「トランプとの親密な関係」を懸命に演出し、おかげで「日米同盟は最も深化」と国内向けに言い募っていることが、まったくのフェイクだということを露わに示したに過ぎない。残念なことに安倍首相はトランプが金正恩を「好き」なようにはまったく「好かれて」いないし、むしろはっきり愚弄されているのだ。言うことも言えず、脅せばありえない土産をすぐにもってくる。トランプも「ディール」の腕の示しがいがないから、絞りとるだけ搾り取ろうというだけだ。そんな首相が長期政権だから、日本もいいとこ舐められているに違いない。

*即刻FBに走り書きしたコメントを補足して。
https://www.facebook.com/onishitani

ベネズエラ情勢に関する朝日新聞の社説について2019/06/18

 朝日新聞が15日、ベネズエラ情勢に関してとんでもない社説を発表したようだ(わたしは訳あって朝日を読んでいないので、人から聞いて今日知った)。

 「人道危機を覆い隠すな」と題して、「国民の苦境を顧みないマドゥロ政権の責任は重大だ。即座に国連などに協力して実態調査をし、緊急支援を行き渡らせるべきである。」と主張し、「国家が国民を守る責任を果たさない場合は、国際社会がその義務を負う」とした「保護する責任」という「画期的原則」にまで言及している。

 この社説はその週に掲載されたアメリカFOXTVばりのルポ記事を前提にしているようだ。これはすでに15年来、なんとかベネズエラを潰そうとするアメリカの工作キャンペーンとまったく路線を同じくしている。そして「人道危機」を救うという名目で「国際社会」(つまりはアメリカ)の軍事介入容認を事実上誘導するような主張になっている。

 ベネズエラは「国民の苦境」を隠してなどいないし、たしかに国連の担当官も「人道危機」であることを否定していない。だがその報告は、マドゥロ政権が引き起こしたというより、アメリカの「経済制裁」が原因だと言っているのだ。主要輸出品の石油の精製もできなくなっている。そのアメリカが「人道危機」を理由に軍事介入をちらつかせているのだから、マドゥロ政権は戦車といっしょに入ってくる「支援」を拒否するのだ。アメリカは不安定化のためにろくでもない人物に「暫定大統領」を名乗らせ、軍の分裂を画策したが、そのあまりのひどさに誰もついてこない。だからクーデターもうまくゆかない。蜂起が弾圧で抑えられたのではなく、ベネズエラの軍や民兵は、ベネズエラの国と体制を守る意識が高いのだ。
(いま詳しく論じる暇はないが、とりあえず2月に共同で発表した声明サイトと、在日ベネズエラ大使館で見られ情報を参照してほしい。ふだんは「両論併記」にこだわる日本のメディアがこの件に関してはベネズエラ側からの情報をほとんど無視しているからだ。)
・声明サイト:http://for-venezuela-2019-jp.strikingly.com/
・駐日ベネズエラ大使館:https://venezuela.or.jp/news/ ) 

 いま、イランをめぐる「危機」が高まっている。しかしこれも、トランプ政権がイランとの核合意を一方的に破棄し(EUは保持している)、経済制裁を強めるだけでなく、イスラエルに一方的に肩入れして(エルサレムの首都承認、ゴラン高原の併合承認)イランを追い込んでいる。その上、愚かしい日本の首相を使いに行かせ、そのときに日本関連のタンカーを攻撃させて(誰に?)、起こす必要のない「危機」を作り出している。アメリカは1979年のイラン・イスラーム革命以来、あの手この手でイランを潰そうとしてきた。ここでたとえばゴラン高原(イスラエルはトランプ高原と改名)で盧溝橋でのような事件が起これば、イスラエルが一気にイランに攻撃をしかけることになるだろう。

 だからこの状況を「イラン危機」というのはおかしいだろう。アメリカによる「戦争の危機」だ。ベネズエラの状況もコンテクストを見れば同じような形である。(ベネズエラがうまくゆかないので、アメリカのネオコンがイランにシフトしたのかもしれない)。それは、とりわけ最近二十年の世界の状況を見ていれば明かなことである(コソボ紛争、一連の「テロとの戦争」、イラク戦争…)。「人道危機」はいつも軍事介入の口実にされるが、その原因を作っているのは、元はと言えば介入したがる国々の全般的な経済政策、とくに経済制裁である。

 朝日新聞のとりわけ国際報道は、この二十年の世界状況から何も学ぼうとはせず、アメリカの視点に立つことが先進国日本のメディアのあり方だと思って疑わないようである。そうこうするうちに、日本はもはや先進国とは言えないようになっている(さまざまな数値から見ても、アホなことまで閣議決定すると事実になるするカルト政権をもって平気だという内実からしても)。朝日新聞も、とりわけ国際報道は、そういう認識をしっかりもった方がよいだろう。それでないと産経にも対抗できなくなる。

雑感:何とも面妖な日本の2019年5月2019/05/06

 五月晴れとはいかないが、連休も後半のどかな日だ。
 昨日まではせわしなかった。「平成カウントダウン」だの、「令和最初の何とか」だの…、そして昨日はいつもより切迫した「憲法記念日」、少し陰になって「天皇代替わり」というのがあった。背後にあらゆる類の現代の魑魅魍魎がうごめく、濃~い数日間。
 民は踊ったようにみえる。踊らせた、というよりこの社会を踊り場に仕立てているのは、PR会社とマス・メディアだ。多くの人びとは何も考えなくていいように仕向けられている。(上から目線?しかし上から見ても下から見ても事実だ。)

 どこかに、スマホをチンパンジーが操る動画が流れていた。クリックしたりスクロールしたり、やっていることを理解しているかどうかは知らないが、人間と同じように惹きつけられて操作している。そういえば、スマホは「サルでも使える」ようにできているのだ。データの蓄積・検索・通信は機械が勝手にやってくれる。それで捜したり、想像したり、考えたりすることが代行される。もちろんゲームはこれが最高だ。でも、操作するのはサルでもいい。というより、便利だとか、楽しいとか言ってそれを使い、頼って没頭する「人間」は、実はいなくていい。だいたい、何をするにもヘマするし、、遅いし、腹すかしたり、文句言ったり、疲れて居眠りしたりする「人間」は仕事の役に立たないのだ。「人間」はスマホを買って消費するためにいればいい。そうすると億万長者が現れる(ビル・ゲイツに始まる優秀な人間の手本だ)。それと、ITコミュニケーションに身を預けた人間は、「政治」の操作の対象にはなっている。社会の方向づけを決定するのは「政治」であり、そのためには票を集めなければならない。あるいは選挙という制度を使って多数派を形成する操作が必要なのだが、その部分では、人間をかき集めたり、その気にさせたり、あるいはいちばん都合がよいのは、「政治」に関心をもたないようにすればいい。

 そのために日本では、教育に力が入れられ(圧力がかけられ)、学校では自分で言葉で考える能力がつく前から、ITワールド(とそれに親和的な英語)に馴染むようにしつけられ、ものを考えだすと、おかしな奴だと白い眼で見られ、イジメの対象にされ、そんなのはおかしいと反発すると協調性がないと遠ざけられ、それを擁護しようとする教員がいると、学校に「政治」は持ち込むなと排除され、そんな圧力に同調しながら競い合い、「スポーツ」に打ち込み、あるいは賢く立ち回った者だけが、「優良」な生徒として順調に進学し、社会に「人材」として供給されてゆく。そういう体制をしつこく作ってきたのは、弱小官庁コンプレクスのなかで「教育勅語」を後生大事に抱えてながら、あの手この手で利権を蓄えてきた文科省だ。

 しかしとうとう、勅語教育が「社会的要請」に親和するIT時代が到来した。OSが新しくなると皆が喜んでパソコンを買い換えるように(OSは人が使うにはいいところまで進んでしまったから、更新はもう迷惑でしかなくなっているが)、元号が変わるというと、誰が何のために変えるのかを問うこともなく、変わること自体が祝い事であるかのように(MSだけでなく、マックOSもカウントダウン!)、メディアの作るディスプレー上の世界が「改まって」古いOSのバグはみんな忘れる。で、OS、誰の都合で誰が変えてるんだ?そんなことはどうでもいい。新しくなるんだ、いいに決まっている、と。「教育」とPRの成果は絶大だ。

 こんどの「改元」は平成の天皇が生前退位を求め、それが認められて生きたままのリレーになったが、「一世一元」の性格はそれだけ露わになった。「喪」があるとよく見えないが、ひとりの天皇(王)が在位している間がひとつの「世」なのだ。ただし、元号があるのは昔(大化以来)中国に倣ったからだが、「一世一元」は明治から始まった新制度である(それも明以来の中国に倣った)。

 敗戦による明治国家体制崩壊で一旦この制度は宙に浮くが、現・日本会議に連なる「復古」勢力の要請で一九七八年に「元号法」が制定され、それで再び合法化され、今でも使うことになっている。この「慣習」はじつは自然に生じたのではなく、平成改元時に自民党政権が社会に半ば強制したからだが、その効果があって――それに自民党政権の不評に対して、天皇の姿勢が一般に親しみをもたせた分――、逆に「平成」は定着し、「改元」は自然なように、ほとんど何の抵抗もなく受け容れられた。そうかどうかはわからないが、マス・メディアは率先して日本を「改元」一色に染めた。

 するとこの国には、社会がボロボロになろうが、政治がウソで振り回されようが、万邦無比のすばらしい制度がある、ということになる。資本主義最後の産業「観光」の時代にふさわしく、元手のいらない「地域特産物」、ここには独特の時間が流れているんですよ、何も変わらなくても「世が変わる」、そんなありがたい「万世一系、神の国」なんです、一度はおいで、という話が通用する。だから、そうやって世界をおもてなし、オリンピックにもすぐ乗る。

 そんな風だから、日本はこんな「美風」をもつ世界に冠たる君主国、民主主義ってバカじゃねぇ、わたしたちはただの国民などではなく「臣民」なんです、と自慢する若者たちも現れる。それを言うのはもはやタブーどころか、何十万回とリツイートされる。実際この間、テレビをつければみんなそんな雰囲気だし、街を歩けば目に入る広告はみんな「レイワ、レイワ」、とりわけ観光客でにぎわう界隈や美術館などはニッポン・スゴイの「お国美術」のオンパレード。そこに「レイワ2年」の東京オリンピックだ。それ以外のことは見てもいけない、見せてはいけない、冷や水さすのは「ヒコクミン」といった勢いだ。

 そして五月一日、東京の目立つ場所には「#2019自民党」の著名アニメ・イラストレーターによる大広告が現れた。この期に乗じて「ワイルドに進める」改憲論議(萩生田)が打ち出された。もちろん三日の記念日には、自民大広告に似ても似つかぬ姿に描かれた(このメディアPRフェイク、ウソでも何でも大丈夫!)安倍晋三自身が、某会議に「改憲論議」を進めるビデオ・メッセージを送ったという。もちろん憲法を「改良」しようというのではなく、嫌いな憲法を好きなものに置き換えようということだ。「改元」を仕切った勢いにのって、彼はほんとうに「世」を変えようとしているようだ。

 PRメディア・コミュニケーションが、いま中身を抜き取られた「人間」の空洞を埋めて、ヴァーチャルな「宗教」にとっての「信仰」の代用を果たしている。何とも面妖な日本の2019年5月ではある。(ふと、永井荷風が短編「花火」で描いた「日比谷焼き討ち」の遠景を想う。)

★お知らせ:朝日カルチャーセンター新宿での講座2019/04/01

 立教大学を辞めましたので、しばらく「朝日カルチャーセンター(新宿)」を借りて「授業」を続けます。実はだいぶ以前からやっていたのですが、当分の間ここがメインの授業になります。自分で場を設定するにはあまりに怠惰な性分ですので。授業料がかかりますが、関心のおありの方はよかったら覗いてみてください。
 ここは1年4期制で、4月期は6月までですが、だいたい2期連続でやってゆこうと思っています。今期は以下の2つです。
 
■ルジャンドルとドグマ人類学

 経済レヴェルで世界の一元化が進み、それと同時にIT‐AI技術によって人間社会が底抜けに「革新」されて、さまざまな局面から「人間とは何か?」が改めて問われる時代、世界を読み解くための新たな知が求められていますが、そのための強力なツールとなりうるのがピエール・ルジャンドルのドグマ人類学です。難解とされこの法的思想と新たな人類学の核心を、日常的思考につなげながら平易明快に解説します。

1)ルジャンドルとドグマ人類学
2)科学技術的知と人文知、あるいは哲学
3)「話す生き物」――知の展開と社会

*4月から各月第二木曜日(4/11、5/9、6/13)

[テキスト]ルジャンドル『ドグマ人類学総説』(平凡社、2003年)
[参考書]ルジャンドル『ルジャンドルとの対話』(みすず書房、2010年)、『真理の帝国』(平凡社、2006年)、西谷修『アメリカ、異形の制度空間』(講談社メチエ、2016年)、その他。

■世界史的批評――われわれはどんな世界を生きているのか

 21世紀が20年になろうとし、日本では「平成」が終わる時、いまほど先の見えない時代はないでしょう。「未来」がなくなったと言ってよいかもしれません。そのとき、わたしたちをこの「現在」へと導いてきた過去を振り返らざるをえません。この先のない時代に「未来」を開くために、来し方を問い、何が真の「未来」なのかを、世界からそして日本で考えます。

1)現代世界のできるまで、西洋の世界化
2)近代日本の150年
3)人類はどこへ行くのか

*4月から原則各月第4木曜日(4/25、5/16、6/20)

[参考書]西谷修『世界史の臨界』(岩波書店、2000年)、『戦争とは何だろうか』(ちくまプリマー新書、2016年)、『破局のプリズム』(ぷねうま舎、2014年)、山本義隆『近代日本百五十年、科学技術総力戦体制の破綻』(岩波新書、2018年)その他。

※朝日カルチャーセンター照会先 https://www.asahiculture.jp/course/list?word=%E8%A5%BF%E8%B0%B7%E4%BF%AE&school_id=01#room