スリムな医療キャパと検査をしない行政2020/04/11

[共同通信 04/10]――新型コロナウイルス感染の有無を調べるPCR検査が、さいたま市では2カ月で171件にとどまったことについて、市の西田道弘保健所長は10日、記者団の取材に「病院があふれるのが嫌で(検査対象の選定を)厳しめにやっていた」と明らかにした。

埼玉だけではない。日本で検査が少ない(してもらえない)のはひとえにこのためのようだ。もともと病院に余裕がない。感染が増えたらすぐにパンクする。だから病院が機能していると見せるために、感染者数は増やせない。その縛りを行政出先の保健所がやる。政府専門委員の医師たちも、病院態勢が円滑であることを求める。自分たちの立場を守り維持することになるから。だから、3月末になって慌てて「緊急事態宣言」を政府に求めた。しかし自民党にくっついてきた医師団体だから正面切った批判はできず、ぎりぎり持ちこたえているとは言い続ける。

だがもう医療態勢はパンクしている。東京では呼吸困難で救急で運び込まれても、もう受け入れられる病院はないのだ。病床だけの問題ではない。医療スタッフにはまったく余裕がない(経営効率のいい病院だから)。ICUで人を取られたら、もう通常医療はできない。救急患者はもちろん受け入れられない。それはもう現実になっている(さすがに今日10日のNHKではとくに設備面を表に出して扱っていた)。

 これまで何をしていたのか。本末転倒。検査を進めて感染状況を把握するというのではなく、「効率的」な病院体制の都合に合わせて検査を絞ってきたのだ。感染の現実に対する関心よりも、病院のキャパがこれだけだから、それを溢れるような感染者を出さない、つまり極力検査をしない。それが日本のこれまでの医療行政の対応だったということだ。保健所長はそのために働き(それが厚生省医療行政の下での有能な役人)、専門委員の医師教授たちは政府の機嫌を損なわないよう、やきもきしながら揉み手でお願いしてきた。医療現場はそれでも起こる事態に対応を迫られる(→逼迫)。

 中国政府は初めは混乱があったものの、1月20日過ぎにSARS対応で功績のあった鍾南山氏の進言で武漢を封鎖、そこに全国から5000人の医療スタッフを募って送りこみ、1000床の臨時病棟を作って対応し、つい先日4月8日に封鎖が解けるまでにもってきた。一党独裁だからできたのではない。政府が優れた専門家の進言を受け入れ、「経済的影響」など二の次にしてとにかく感染制圧のために人・モノ・情報のすべてをつぎ込んだからだ。それを日本でやれとは言わないが、既存医療行政組織が無能政府に従うばかりのいまの日本では、国民(外国人は言うまでもなく)は政府行政に何も頼ることができないようだ。

日本では、3月に和歌山県が独自判断で的確な対応をしたが、その時にはまだ周囲に余裕があった(検査等で他府県に応援を求められた)。いまはもうどこも他所を助ける余裕がない。急遽仮設病院を作ろうにも、日本の医療キャパ(とくに人、頭数はもちろん、その医療従事者たちが感染症対応にはりつけるような生活のサポートなど)そのものが限界なのだ。

 ともかく、もう症状が出ても病院で治療を受けられないことは覚悟しておかなければならない。

★コロナ感染、日本の現況、医療危機はもう起きている2020/04/09

昨日(8日)何人かの知り合いの医師の話を聞き、児玉龍彦氏のビデオ解説を見て、さらに澁谷健司WHO上級顧問のインタヴューを読んで、日本でコロナウイルス感染の状況がどうなっているのかがはっきり見えてきた。

・日々感染者数等の数値は出ているが、日本では感染状況はまったくわからない。なぜなら、当初から広範には検査しないという方針をとっているから。検査する保健所のキャパがないので、確実な感染軸を追ってその周辺を潰すという方式。
 不安だけで人びとが検査に殺到すると医療側が追いつかず、重篤者に対処できなくなる(少ない医療資源の効率的活用?)。

・その結果、実際には広範に広まっている感染状況がまったく把握できなくなっている。

・現在の医療現場(東京都を念頭に)から見えること――
 多くの人が症状を疑っても検査してもらえない。その人たちが外来診療に行くと、感染症対応のできていない部署で「院内感染」が発生。そのため病院機能を一時閉鎖しなければならない(永寿病院→慶応病院の例)。一般外来できず、救急対応できず。このような状況が少なからぬ病院で起きている。不明なままの「濃厚接触」で、医師・看護師等も現場を離れざるを得ず、もともとこの間の医療行政で切り詰められていた「医療資源」がこれで逼迫。事実上、医療体制はコロナウイルスの感染拡大に対応できなくなっている。

 それでも検査を拡大しないから(できないのではなく、しない。それがクルーズ船以来の厚生省―保健所、および政府専門委員会の方針)、感染が不特定に広がり、前線に立つはずの医療機関からまず機能不全に陥ってゆく。実情不明が、医療現場自体の危機(人的・物的・組織的)を招いてしまっているのだ。

・何が「手遅れ」かと言えば、検査を極限して顕在化したところから辿るといういわゆる「クラスター作戦」(医療崩壊を防ぐ、つまり医療体制に合わせてこれを守る)がとっくに破綻していることを認めず、逆に医療崩壊を招いてしまったということ。もっと早く方針転換すべきだった(英のジョンソン首相は、遅まきに転換したが、そのときには自分自身が感染していた)。

・いま、政権と医師団体は自己利害からしか対応策を打ち出せず(政権はアベノミクス経済護持・支持率護持・火事場泥棒緊急事態 etc. 医師団体は既存体制保持、そこでの自己権益)、行政機構はこの間のアベ全能支配下で保守・保身・自己利益の蟻塚と化しており、徹底して都合の悪い検査を拒む態勢。それが現在の状況を生んでいる。

・じつは現政権が緊急事態を発令するかどうかの問題ではない。それを委ねられる権力かどうかの問題だ。そうではないことをこの間のコロナ対策の事情が示している(わたしが「緊急事態発令」に反対し、「民衆自衛」しかないと言ってきたのはこのことだ)。実効性ある措置要求と退陣要求(責任を取れということだが、それが理解できないようだ)。

・人の命が…と言うのなら、四の五の言わずに急遽医療体制整えて(病院も急造して)、生活は保障するから不要不急の移動は控えて、と要請すればいい。が、残念ながら、日本ではそういう状況になりそうにない。医師たちも、姿勢が自己利益化しているのが多いから、組織的機能不全がすぐに一般化するという話もある(「鰯は頭から腐る」の弊害がここにも)。

・児玉氏の結論――「政治を科学の上においてはいけない、信頼できるリーダーを」
(これは中国の例も念頭に言われている。習近平は独裁者だと言われるが、安倍も事実上「無謬の権力」を行使している。習はSARS対策を指導した実績ある医師にコロナ対策を任せた。この件に関して「科学を政治の上においた」のだ。ところが安倍は、よく知られているように自分に都合のよい専門家しか政府委員にしない。その違いだ。)

★児玉龍彦、デモクラTV :https://www.youtube.com/watch?v=r-3QyWfSsCQ&fbclid=IwAR0XGJilNyr_exz6ecy-b1DAnO_koi4eKtRgDyEWQ1I84AHDkUyDz_PaeDk
★渋谷健司、インタヴュー :https://diamond.jp/articles/-/234205?fbclid=IwAR1xBZ3w2RUs4dkSAURR8wnkuFe_f85xjTPVhoOZiAnvA_0V5vhLGDusU38


前日のFB投稿も添付しておく。

★知り合いの内科医から。
 都内某医療機関(感染症科あり)の外来総合診療で働いている知人からの情報。この病院では都の要請を受けてしばらく前から感染病床を通常の3倍ぐらいに増やしている(それでも20床弱)が、すでに病床は埋まり、感染症外来では受けいれられず、受診を断られた人たちが一般外来に回ってくる。その人たちはちょっと見には違うだろうと思われても、CTを撮ってみるとコロナ感染濃厚というケースが何人もいるという。しかしもう入院はできない。呼吸困難で救急で運び込まれてきた人も、仕方なく断っているという。それに総合診療科のスタッフは感染症用の防護もしていない。病院のいちばん入口にいる人たちが脅かされてのだ。台東区の永寿病院の例もそうだっただろう。
 こういう実情で、すでに「医療崩壊」は起こっていると言ってもいい。「何としてでもオリンピック」の「世界に輝く東京」は、感染者わずか「1000人余」でもすでに「医療崩壊」を起こすのだ。じつは、はるかに多くの罹患者がおり、「臨戦態勢」の医療機関も追いつかず、医療関係者も無防備にさらされている。
 その実情も知らせず、ただ「自粛だのみ」の「緊急事態宣言」では話にならない。説得力もない。和歌山県の例をしっかり踏まえるべきだろう。行政がきちんと情報公開し、住民の信頼を得て協力も得る。それで有能な保険担当者がいて実務をしっかりやったから「成功例」になった。SARS のときもベトナムもそうだったようだ(別の医療行政関係者からの情報)。
 政治家たちが自分や支持者たちの都合や恣意しか考えず、行政機構を腐らせてしまっているこの国では、どんな「災害」も善意の職能人たちを頼りに、協力(連帯)して自分たちで乗り切るほかない。こんな政府は要らないということだ。ただし、あらゆる公的手段で使えるものは尻を叩いて使う。
 とりあえず、この勿来さんのブログ投稿を紹介させてもらう。
[追伸] 今日もテレビでは(もちNHKも含めて)武漢は封鎖解除したが、実にいい加減で再感染拡大が起こるだろう…、一党独裁だから云々、と中国貶しをやっている。だが、国を挙げて必死に抑え込みをやって何とか窮地を脱した他国のことを言う前に、自国の情報操作や医療体制不備と、アベノ大本営(一党独裁とこればかりはどっちもどっち)の場当たり無策(布マスク2枚とか)を問題にすべきだろう。こういう放送自体が、緊急事態に名を借りたヘイト情報操作だ。

★「緊急事態宣言」をめぐる綱引き2020/04/06

 日テレは伝えている「6日にも緊急事態宣言の準備入りを表明する見通し」。何とももってまわった見出しである。

[特措法]
 政府は、医師団体や自治体首長らの要請にもかかわらず、宣言を出し渋っていた。コロナウイルス危機を受けて、自民党内から「緊急事態条項」のテストとせよといった意見が出る一方、民主党政権時代にインフルエンザ特措法がすでに作られていたことに気づき、アべ政権はただちに(この対応は迅速だった)この特措法の改正案を通した。その流れからすれば、オリンピックの延期が避けられなくなったら、すぐにでも緊急事態を宣言するのではないかと思われたが、東京都の小池知事はその気でも、政府にはその気はないようだった。特措法を急遽持ちだしたのは、野党を協力に抱き込み、「桜を見る会」の追及と「黒川人事ごり押し」を後景に斥けるためだったということだ(事実そうなっている)。

[宣言の綱引き]
 緊急事態宣言を出すと、国が危機的状態にあることを政府が認め、社会活動を停止させることになるため、その経済的影響(さらにはオリンピック準備への影響)が大きいことと、社会的補償が避けられなくなることを嫌っているようである。株価はすでにアベノミクスのバブル分を切り、天井を抜いて増やした日銀保有株が原価割れしており、日銀がもつかどうかわからない。つまり金融危機が避けられないのだ。
 
 それでも、東京都知事や大阪府知事が「宣言」を早く出せと言っているのは、「医療崩壊」が目前に迫っているからだろう。医療崩壊とは、感染の拡大が医療体制のキャパシティを超えて対応ができなくなってしまう状況を言う。東京都では当初、感染症対応の病床が110余りしかなかったが、今は1000床余を用意しているという。しかし感染者はすでに1000人を超えた。だから指定感染症にもかかわらず、すでに軽症者は入院隔離することができない。そのためにホテルを借り上げる準備をしているという。。だからもう政府が宣言しようがしまいが、事実上「緊急事態」だということだ。
 今、4000床規模に拡大するため、特定医療機関を中心に感染症病棟、ICU病床を臨時で増やすよう要請しているようだが、そのためには医師・看護師他の人員がいる。その結果どうなるかと言えば、現在行われている医療や外来・救急対応ができなくなるということだ。

[何ゆえの医療崩壊]
 なぜこういうことになるのか。そんなに簡単に「医療崩壊」が起きるのか。理由ははっきりしている。ここ十年以上(3・11の後でも)、東京も、とくに大阪は、行政の無駄を省いて「公共部門」を絞り上げ、経営意識で効率化するという「改革」を進めてきたからだ。いわゆる「新自由主義」改革だが、公立病院のベッド数や医療・保健師数の削減を進めてきた結果、現場は逼迫し疲弊している。その結果、人口の多いこれら大都市では「無駄」と見なされた感染病病床が異常に少なくなってしまった(人口10万人当たり島根は4.4だが、東京1.0、大阪0.9)。
 
 これについては、国も同様の方針で、経済財政諮問会議の提言の下、昨年10月末には厚労省が400の病院名を公表し、「病院や過剰なベッドの再編は、公立 公的病院を手始めに、官民ともに着実に進めるべきだ」と提言、アベ首相自身が「持続可能な地域医療体制を構築するため(?!)…、病院の再編とともに、全国でおよそ13万床あるとされる過剰なベッド数の削減などを着実に進めるよう」加藤厚生労働大臣らに指示している。
 
[ここにある緊急事態]
 その結果とも言えるが、4月1日に日本集中治療医学会は理事長声明を出し、日本の集中治療体制(ICU)は脆弱といわれて惨状を呈したイタリアと較べても半数以下で、感染爆発が起きた際は、医療崩壊が予想よりも早く起きると警告した。要するに、日本の医療水準は、技術的にはともかく、社会的には「世界有数」どころかきわめて貧弱なものになっていたのである。
 3月30日は年度末だが、小池知事はこの時期にも、都立病院を「不採算部門」として都の直営から外す決定をしたという。
 
 日本で新型コロナウイルスの感染検査が進まない(進まないどころか、できるだけさせない仕組みがあり、症状があって医療機関に頼んでも、保健所に回され、条件に合わないからと検査してもらえない、というケースをよく聞く)。その根本の理由は、感染症の医療体制があまりに貧弱化しており、検査を促進して感染者数の実数が増えると、イタリアの半分以下という現在の医療キャパシティがすぐに決壊してしまうからだろう。
 
 だからもう、事実としては、今回のコロナ禍が始まったときから日本にとっては「緊急事態」だったのである。そう言ってよければ、この間アベ政権が進めてきた医療政策の結果にツナミが押し寄せたのだ。。原発事故と同じ構造である。

[政府の宣言より、非政府の要請] 
 まともな政府、信頼してよい政府なら、あるいはニュートラルな行政府と見なせるなら、ただちに非常事態を宣言し、中国が武漢でやったような、臨時の大病院の早急な用意と、医療態勢の緊急構築等々で対応するのがよいだろう。しかし、今の日本政府・アベ政権は、アベノミクスやオリンピックに拘泥して必要な対策を何ら取らず、従来路線の今年度予算案は修正なしでいち早く通す一方で、南西諸島の軍事化は着々と進め(昨日は宮古島ミサイル部隊の編成完結祝い)、沖縄辺野古の新基地建設も日々進めることだけは(ようやく計画を陰で変えたようだが)やっているのである。これもオリンピック同様、決めたらできないとわかってもやるインパール作戦のようなものだ。
 
 そんな政府に対して、緊急事態宣言、つまり行政権の拡大を要求してどうなるのか。仮にそうするとすれば、その拡大された行政権を政府外の力が担わなければならない。先週のNHKスペシャルで、京大の山中伸弥教授が、「飲食店の営業を止めるなら、補償が必要。英国の友人は2週間前から休業しているが、先日政府から300万円振り込まれ、従業員給与も8割が補償、法人税も1年免除」と述べ、尾身氏が「施設の使用制限と補償はセットでないと実効が上がらない。政治決断が必要」と応じたそうである。このような要請が、確実に反映されなければならないということだ。

[何の危機なのか] 
 今回の新コロナ危機は、たんに医学的問題というだけでなく、現代の社会生活を成り立たせている、あるいは社会経済的活動を担って生活している具体的な人びとを襲うわけで、まさにそれが、新自由主義経済では効率計算によって切り捨てられ、「社会」として抹消されてきた部分なのである。イギリスのボリス・ジョンソンはみずから罹患することで、「社会は存在する」ことに気付いたと告白したが、今回「社会」は病むことでその実在を浮かび上がらせ、それへの手当てを求めている。そしてそれなしに、国も人間の共同体も成り立たないということが明らかになったのだ。
 
 ついでに述べておけば、感染症の専門家山本太郎氏(『感染症と文明』)や生物学者の福岡伸一氏(朝日新聞の4/3のコラム「動的平衡」)が言うように、人間はコロナウイルスを「敵」とすることはできない。コロナウイルスによって人間が遭遇する「災い」に「戦争」の比喩を用いたときから(よく言われる「コロナとの戦い」)、その対応はさまざまな政治的力学に巻き込まれ、混乱に紛れてしまうのだ。

緊急事態宣言などいらない!2020/04/02

 なぜ皆(メディアも含めて)緊急事態宣言を出せと言うのか。緊急事態宣言というのは、基本的に行政権限を強化することだ。まともな政権で、まともな官僚機構、専門家集団がいればそれもいいだろう。しかし、「大胆に前例のない迅速な処置」が「各世帯に洗って使える布マスク2枚」とか「現金配るとため込むから和牛券」とかいう政権だ。それに官僚機構もすっかり「自発的隷従」で出世する公僕ならざる私僕の蟻塚と化している(森友・加計、桜を見る会、無理やり検事総長、法の根本崩しを役職と思っている法相)。こんな行政府の権限を強化してもロクなことはせず、バカな強権を無理やり振り回すだけだろう。それこそがわれわれの「緊急事態」だ。
 
 医者団体(政府の専門家)がはやく緊急事態宣言を出してほしいというのは、東京都ですらコロナ肺炎に対応できる病床が120床あるかどうかという貧弱な医療体制で(このところずっと医療は効率化と採算性を求められてきたし、長期的ベッド削減の方針を政府は変えていない)、すぐに感染拡大に追いつかなくなることが、つまり「医療崩壊」が目に見えているからだろう。だが、それが緊急事態宣言で解決できるわけではない。医者団体としては、医療がフォーローできない申し訳が立つだけだ。それは今までアベ自民党政権の保険医療サービス削減の方針に就き従ってきたつけだということだ。
 
 ほんとうに感染拡大の危機が迫っているというのなら、いまやるべきことははっきりしている。検査体制の拡充と、医療設備態勢の整備、中国は一週間で4000床の病院を作った。日本なら被災経験からプレハブ病棟一気に作ればよい。場所は国立競技場とか東京スタジアムとか代々木公園とか(その補償は後でする)。あるいは東京都(首都圏)ならすでに話が出ているようにオリンピック選手村を活用すればいい。それと医療関係者の特別配置・急場しのぎの援軍組織だ。それに特別法がいるのなら2、3日で国会通せばよい。決めたらすぐ準備してやれば、緊急事態宣言でモタモタしているよりもいい。

 後は、法的根拠なんかなくてもアベが思いつきで「学校閉鎖」とか言えば従うお国柄だ。「自粛を要請する」と言うだけで、街から人が引くお国柄だ。緊急事態宣言などいらない。ただし、「自粛」で多くの人たちに「困窮せよ」と言っているわけだから、協力する者たちにはきちっと補償をしなければならない。まともな国の政府は緊急事態宣言を出したら必ずそれをやっている。

 ともかく安倍政権などに緊急事態宣言をやらせてはならない。市民がみずから身を守るために政権に要求を重ねなければならないのだ。

[追記]

 四月初っぱなの状況をみていると、どうやら「爆発的感染」が始まりそうだ。阪神選手団集団感染、志村けん、その他著名人やメディア関係者、夜に出歩くなと言われても気にしない連中は多いようだし、歓楽街やカラオケも、干上がってしまうから営業やめられない。小さい街の店だけは悲惨。朝も夜も駅の人ごみは多少軽くなってもすごい。こっちは誰もが働きに行かざるを得ないからだ。子を持つ親たち(とくにシングルマザー)は学校次第で4月から板挟み、ますます困るだろう。

 だがそれは、緊急事態宣言では解決されない。政府がまず、皆が感染抑止に努められるような対策を何ひとつしていないことが問題だ。「外出自粛」を要請と言うなら(「自粛を要請」と言う言い方が日本の行政当局の高圧無責任ぶり――民主主義感覚ではなくお上意識と言っていい――を表しているが)、人びとが家にいられる状況を用意し、収入がなくなるワーカーたちや中小企業、困る商業施設等への手当てもいっしょにすべきだ。それでなければ、従いたくても従えない。(予算がないとは言わせない。今年度予算は修正なしで無理やり通している。株価吊り上げるために日銀はバンバン札束刷ってきた。安全保障とか言って不要な兵器はごまんと買っている。)

 それに、情報があいまいだから真に受けられない。医療対応、態勢もそうだろう。ともかく「爆発」の危険があるなら、それを誰もが納得できる(真剣に受け取る)ように情報提供しなければならない。何より、検査体制を拡充しなければならない。できるだけ検査してこれだけ広がっていると示さなければ、一般の人びとが適切に警戒・対処することができない。たいしたことない、と誰もが都合に合わせて解釈する。

 一方で、ずっと感染者数を抑えようとし(オリンピック実施のため?)、五輪延期で一気に増え始めたとはいえ、諸外国に比べれば「奇跡的」に少ない。外国ではとっとと検査しているのに、東京都の検査数は一日百単位。医療は「世界トップレベル」とか宣伝する日本で、三カ月経つのにいまだこれというのはあまりにおかしい。ここからしておかしい。まったく、後でやばいからもう記録も残さないという、近代行政の足元を崩している今の政権のやり方と通じている。だから、医師会が「危険だ、危険だ」と言っても、フランスやアメリカほどではないじゃないか、と説得力がない。医師会もこの間何年も政権の保険医療削減政策に乗ってきたわけだし…。

だから、医師会がほんとうに危機的だとみなしているなら、いま検査できているのはこれだけ、そこから推定すると実際の感染者はすでにその数十倍と見られる、とはっきり公表すれば、その「危機感」に現実味が出る。そうなっていないから、一般の人びとはそこまで「危機感」をもてないのだ。その上で、今は強制措置が必要だと言うのなら説得力もあるが、政府がノラリクラリしており、医師会もそれを明確に批判しないから、緊急事態宣言を…とか言っても、責任逃れするな、と言われることになる。はっきり政権を脅して、すぐにでも臨時病棟を作らせ、緊急医療態勢整備(当然、医療政策撤回と予算措置も)を政府に要求する、それが医師会のまず先にやるべきことだろう。国民負担の緊急事態宣言だけを要求というのはお門違いだ。

 野党は、ほんとうに政権担当能力を示そうと思うなら、一体となってドイツのメルケル首相のような声明を出し、上記のような要求を政府に突きつけて、そのためには「国難打開」のために協力する、と大々的に宣伝して政権に圧力をかければいい。残念なことに、今の野党にこのようなイニシアチブを取れるのは共産党しかいないのだが、その共産党を立民・国民周辺はまだ排除している。先回の民主党政権の失敗から、野党政治家は何も学んでこなかったと言わざるをえない。だからわれわれは野党を頼むこともできない。それが現代日本の政治の惨状だ。

 だとすると、市民あるいは民衆はしょうもない政治的状況の中で、野武士のように、あるいは草莽の志士たちのように、この政治の惨状とパンデミックとからみずからを守る「民衆防衛」をやるしかない。たぶん、大津波の中の自助・共助のようなことになるだろう。何人かの信頼できる医師たちの見解をベースに現状を把握し、上記のような要求を強く出してゆくこと、そして自助・共助のシステム化を実践的に作りつつ、その法制化も目ざしてゆくこと(そのひとつが労働者協同組合法だが)等々だ。少なくとも、現政権の下での緊急事態宣言ではなく、われわれの「緊急事態」に対するわれわれ自身の対処だ。

[追伸]

 「各世帯マスク二枚配布」という世にも大胆な対策ではっきりわかったのは、コロナウイルス禍に対処するのは安倍政権ではムリだということ。「私が総理大臣…」しか考えていない、考えられない。それで、「自発的隷従」官僚もヤケのヤンパチになっているのでは? とにかくもう無理。しかしなぜこれでも退陣させられないのか???

季節外れでも、雪は「自粛」を要求しない2020/03/29

「政府(都)が自粛を要請」という言い方がまかり通るのをみて、気分が悪くなるわたしです。お上が命じ、メディアが伝令よろしくそれを伝えると、ほらほら自分で止めないといけないんだと世間は応じ、出歩く人びとを後ろ指さして牽制しあう。「自粛」とはみずから進んで(自分の意志で)行動を辞めることだ。行政府がそれを要請するとは、個人の意思に手を突っ込むこと。行政府はそれを権力行使だとはしないから(言うとみんな進んで従う)、それに責任があるとも思わない(だが近代国家は働くことを禁じたら、カナダのようにそれを保障するものだ)。「自粛要請」とは、現代社会(新自由主義)の用語で言えば「自己責任」ということになる。言うこと聞けよ、ただし勝手にやめるんだろ、と。

 そんな気分の悪い3月末の日曜に、首都には季節外れの雪が降り、シンとした気配のなか(雪は「自粛」など要求しない)、はじめて私的公的「政治利用」なく日本で傾聴できる「コロナ対策」に関する意見をみました。イギリスでジョンソンが撤回した「集団免疫論」の日本版という話もありますが、いやいや…。何でもスタンダードと化している西洋的統治の論理に合わせる必要はない。

 以下です。東大法学部・米村滋人教授(医師)
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【新型コロナウイルス感染症について】
■■皆さんに呼びかけます。冷静な行動をお願いします。■■
■■手洗い・うがいなどをしっかりするように心がけて ■■
■■下さい。

私はこれまでも、コロナウイルス感染症に対する政府・専門家会議の対応を批判し、世間の風潮に懸念を表明してきましたが、ここ数日の動きは異常です。私は、医師として、一般の皆さんにあくまで適切な感染対策の実施をお願いするとともに、冷静な行動を呼びかけたいと思います。

・今まで日本は、ほぼ無策だった
私は、2月末に相次いで出された、学校全休・大規模イベント自粛の要請が感染対策として不十分だということを批判してきました。それは、感染症対策として意味がないことに加え、リスクの低い子どもや一部の国民に不公平な負担を強いる結果になるからです。
専門家会議は「クラスター対策」と言っていましたが、一部の目立つクラスターについて「自粛要請」しただけで、普通に満員電車や繁華街の狭い飲食店などの営業を容認していたわけですから、実質的にはほとんど感染対策になっていませんでした。

・「普通の感染対策」が何よりも重要
ところが、日本での感染者数の拡大はずいぶん抑えられてきましたし、今でも爆発的な増え方はしていません。これほど「クラスター対策」が不十分なのにこの状況になっている原因は、十分に説明されていません。
私は、手洗い・うがい・マスク着用という「普通の感染対策」に大きな意味があるからであると考えています。ヨーロッパで爆発的な感染拡大が起こっているのは、これらの基本的な感染対策が全く市民に浸透せず、誰もマスクを着用しないことが「文化的な問題」として片付けられてきたからだと考えています。私はかつてドイツに住んでいましたが、ドイツ人はフランス人やイタリア人に比べればまだしも衛生感覚があるものの、手洗いやマスク着用の習慣がないのは同じです。日本は、世界のどの国よりも、これらの基本的な感染対策が市民に根付いています。
専門家会議は、「クラスター対策」を過剰に重視していますが、全くおかしいと思います。医療機関は大変な「クラスター」です。狭い空間に多数の患者がいて、盛んに会話をしています。それにもかかわらず、大規模な院内感染は数えるほどの病院でしか起こっていません。それは、とりもなおさず、病院では手洗い・うがい・マスク着用等の感染対策が徹底して行われているからです。私自身、医師として、院内感染対策としては手洗い・うがい・マスク着用を徹底して行ってきましたし、一般の医師・医療機関も同じ考えで行動してきました。専門家会議は、これまでの一般的な医療機関の感染対策が無効であったとでも言うのでしょうか。

・「感染爆発の危機」という言い方はおかしい
これまでの日本の無策の状況を踏まえれば、もっともっと増えても良いはずの感染者が、ここまで少ないということ自体、驚異的なことです。今後、感染者数は次第に増えるでしょう。しかしそれは、今後爆発的に増えるということを意味するわけではありません。
これまで不十分だった「クラスター対策」を徹底するようにする、というのは、悪いことではあリません。不要不急の外出を控える、無駄に人の集まるところには行かない、というようなことは、やった方がよいだろうとは思います。しかしそれ以上に、手洗い・うがい・マスク着用などの「基本的な感染対策」をこれまで以上に徹底して行うべきです。そしてそれをすれば、過剰な行動制限をかけなくても、感染症のコントロールは十分にできるというのが私の見立てです。

・人類はコロナウイルスに敗北せざるを得ない
皆さん、「がんばればウイルスに勝てる」と思っていませんか? 「この1,2週間を耐えれば大丈夫になる」と思っていませんか?あえて言いますが、今回のコロナウイルスは、1,2週間耐えればいなくなってくれるような相手ではありません。そればかりか、そもそも人類が正面から戦って勝てる相手ではありません。どうがんばっても、感染の拡大を防ぐことは無理なのです。既にほぼ全世界に感染が拡大している状況が、それを証明しています。私たちは、「どうしたら被害の少ない『負け方』ができるか」を考えなければならないのです。
一時的に急激に重症患者が出現すれば、医療体制が追いつかなくなり、十分な医療が受けられない患者が出てきます。それは絶対に避けるべきです。しかし、ウイルスを完全に制圧し、「誰もこれ以上感染しない状態」を作り出すことはできません。感染の拡大のスピードを遅らせることしかできないのです。
むやみに行動制限をかけ続けると、私たちの生活が崩壊します。このウイルスの感染拡大を防ぐ取り組みは、おそらく、今後1年、2年は続くと思われます。その間、ずっと自宅にこもっていられるでしょうか。イベントや集会を禁止し続けられるでしょうか。
私たちは、爆発的な感染拡大を起こさず、かつ、何年も継続可能で社会を崩壊させない感染対策を目指さなければなりません。それは非常に難しいのですが、上で述べたとおり、カギは「基本的な感染対策」にあります。つまり、とにかく、手洗い・うがい・マスク着用を徹底するのです。

・マスク着用にも一定の効果がある
マスクについて、少し補足しておきます。一般的に、マスクには感染予防の効果はありません。しかし、今回のコロナウイルスに関しては、自分で気づかないうちに感染して他人に広げる感染者がいることが、感染を拡大させる大きな要因になっています。そのような感染を防ぐには、「全員がマスクをつける」ことが十分な対策になります。マスクは、自分を守るためではなく、「自分が感染していた場合に身近な人を守る」ためのものなのです。その意味で、私は皆さんに、マスク着用を呼びかけたいと思います。

・冷静な行動を
最後にもう一度言います。冷静に行動して下さい。そして、手洗い・うがい・マスク着用などの「基本的な感染対策」を徹底して行って下さい。大規模な行動制限は、短期間はできますが、長期にわたってはほぼ無理です。国民の皆さんが行動制限に耐えられなくなったときに、再び感染拡大の危機が訪れないようにするためにも、上の「基本的な感染対策」が重要なのです。ウイルス対策は何年にもわたって行う必要があるということを覚悟して、できることをしっかりやって下さい。

「非常時」に流通させてはいけない3語:自粛・忖度・風評被害2020/03/28

1)「自粛」

 かつてこの言葉が流行ったことがある。今は昔、昭和天皇の末期である。当時まだトヨタと並ぶ日本企業だった日産が、起死回生をねらって秋口に新車セフィーロを鳴り物入りで送りだした。CMではテレビにほとんど出なかった井上陽水を起用し、森の中の開けた場に乗り入れたセフィーロのパワーウインドーを下げて、サングラスの陽水があの滑らかな高音で「オ元気デスカ~」と言いながら顔を出すのだ。意表を突く絶妙のCMだった。これでセフィーロの売れ行きは間違いなし、と誰もが思っただろうが、このCMはわずか数日でテレビからもその他のメディアからも消えた。なぜか? 天皇の容体が深刻になり、ニュースでは毎日天気予報のように「陛下の容体、血圧、脈拍」等が伝えられていた。そんな時に、すかしたチンピラ上がりのような歌手が「お元気ですか~」なんと言うのは不謹慎だというわけだ。

 各地では秋祭りの季節だったが、こんな時期に、ということでほとんど取りやめになった。やめざるをえないようコンセンサスが無言のうちにできたかのようだった。桜の季節だったら、花も散ることもできないような世間の気配だ。だから葉が色づいても、紅葉をめでたりなどとてもできない。いたるところで人は「おめでたさ」を避け、人前での服装もつとめて派手なものは避けられた。憚るというわけだ。それを「自粛ムード」と言った。この社会ではあらゆる人びと(とりわけ組織)が、祝いや祭りや歓楽を「自粛」したのだ。

 つまり強制力はなかったが、誰もが何かを憚って「自粛」したのだ。しかしこの時は、そのような「自粛」の気配が広がる中で、その「自粛」を日本社会に特殊な現象として批判的に見る見方も同時にあった。「ジシュク、ジシュク…」と囁いて、人びとが異様さを半ば意識しながらそれに従ってもいた。

 ところが今は、この言葉が何の疑問も危惧の意識もなく使われる。今とは、コロナ禍で社会が一体となってこれと戦わなければならないとされている時期だ。この時期に、行政当局が人びとに「自粛を要請する」。すると誰もが、すすんで「自粛」する。それが当たり前だと思われ、受け入れられている。

 しかし「自粛」とは、みずから慎んで何かを差し控えることである。行政当局(国や都や県)が市民に「要請」できることではない。公的に「要請する」場合は、行政当局が要請の責任をもたねばならない。ところが「自粛」とは個人の意思に関わることである。それを要請する(~を意思せよと求める)権利は当局にはない。というのは、みずから慎むのはその人の責任において何かをしないということだからだ。つまり「自粛を要請する」とは、当局の指示に従うことを当人の責任においてせよ、と要求することである。逆にいえば、この要請内容に当局は責任をもたなくていいのだ。

 たとえば、仕事に行くな、会合をするな、という要求(実質的には命令)を、みずからの意志として引き受けよ、ということである。そしてその命令に関して、従っても従わなくても責任は自分で負え、と言っているようなものである。

 仕事に行くな、というのが行政命令であれば、そのために仕事をしないのは命令に従ってであり、仕事をしないことがじつは市民的義務を果たしていることになり、その意味では当局の命じた「仕事」をしているのと同じだから、休業によって失う報酬を当局は補填してしかるべきである(たとえばカナダの首相は、労働者の休業と工場の停止を要請したとき、その要請に従えば、仕事は休んだとしても政府の要請にはしたがっているのだから、その分の報酬や操業利益を補填することも約束している。アメリカでも一部はそうだ)。

 だがそれが「自粛要請」となると、それは自分の意志で休むのだから当局には休業による不利益を保証する必要などない、ということになる。つまり「自己責任」だ。「自粛」する方は、当局や世間を「忖度」して「身を慎んだ」のであって、それがこの世間で生きる者にとっては「才覚」だ(スキル?)とも言われる。

 結局、「自粛要請」というのは、当局(権力)がみずからの意図に「自発的」に従わせることで、要請行為を市民に強要したことの責任をとらずにすませる言い方になる。こういうことを平気でするのは、近代国家としては日本の政治権力だけであり、その傾向は最近とみに強くなっている。「自粛要請」ということが平気で言われ、それをメディアも何の考えもなく伝え広め、世間の方も何の疑問もなくすすんで(忖度して)「自粛」する、そんな風になっている。このことは、近代国家としてはすでにコロナウイルス以前の「病理」であるということは考えておくべきだろう。
 
2)「忖度」

 これは、相手がどんな状況に置かれて、何を考えているのか、望んでいるのか等を推し測ることを言う。それ自体はニュートラルな言葉だ。だが、しばしば上司や上役に上目遣いで用いられることが多い。つまり、相手の状況や考え・望みを推し測り、何も指示されなくても、自分の立場でその意向に叶うことを先回りしてする。そうすると「空気も読める」し、呑み込みの早い、有能な部下だということになる。丁稚奉公や執事などにとっては望ましい才覚だということだ。

 つまり「忖度」とは身分社会にはふさわしい能力である。何より、主人や上司に迷惑をかけることがない。主人は奉公人の「忖度」からする行為には、何の関わりもないと言えるからだ。奉公人は「勝手に」やっただけであり、主人の指示に先回りして事を処し、主人が煩いなく鯉に餌をまいていてもらった、というのは、奉公人にとってはしてやったり、自分の才覚を示せた、ということになる。

 これを見事に描いたのが、カズオ・イシグロの傑作『日の名残り』である(『わたしを離さないで』はその別ヴァージョン)。これは理想的な、あるいは従属を絶対的自由へと転化する「理想の執事」の物語だ。西洋的伝統ではこのことを「自発的隷従」と言う。一六世紀フランスのエティエンヌ・ド・ラ・ボエシが作りだした言葉だ。

 では「忖度」はその語の意味する事態とともに抹消すべきものかというと、そうではない。ただ人の気持ちを推し測ることだとすると、それはときに必要なことであったりする。親に失った子供の気持ちを忖度して…、とか、むしろ世の中(社会関係)では大事な役割を果たしたりする。だから悪いのは「忖度」そのものではない。それが身分的関係の中で、自己利益のために働かされると、「忖度」は権力の無責任を、お上の「超越」を支えるまたとない機制となる。

 以前はあまり耳にしなかったこの用語が、いまではニホン人誰もが知る言葉になった。「忖度」は社会生活(とくに公的)に必要なある種の才覚とみなされている。忖度できない人間は組織から排除され、忖度が行き届けば有能な役人(下僕)として「適材適所」の出世を約束される。職務義務違反、背任、利益誘導、文書隠滅、等々…を含むこのような「慣行(プラクシス)」は、市民法的に見れば疑惑のマグマだろうが、現在の日本では桜の下の花見酒で淫靡に粉飾されることになっている。

 この用語は何の考えもなく使われると、それが流通する社会に法秩序以前の身分的意識を浸透させることになる。だからとりわけメディアはこういう用語を「報道」や解説に使うべきではない。あるいは、はっきりと否定する文脈で使わなければならない。

 
3)「風評被害」:comming soon.

★3/24の転換、「フクシマ復興五輪」から「人類コロナ勝利五輪」へ2020/03/25

 何の「転換」か?この日公表されたのは東京オリンピックの「一年程度延期」。
 
 この間(数年間)日本の政治・経済・社会は2020年7月24日から8月9日に予定されていた東京オリンピックを牽引車のようにして動いてきた。ところが、去年の12月ごろ中国で不明なウイルス感染症が目立ちだし、1月には武漢と北京が封鎖という新感染症の劇的な展開が始まった。1月末には日本に感染者を載せたクルーズ船が寄港。日本はいっせいに身をすくめて警戒し、感染を食い止めようとしたがままならず。2月~3月にはイタリア、スペイン、フランス、ドイツとEU諸国とアメリカに感染拡大、イタリアでは医療が追い付かずパンクして、死者も中国の倍近く(7000人)に及んでる。中世の黒死病さえ思わせる深刻な状況のようだ。
 
 このグローバルなコミュニケーション網で覆われた世界で新たな感染症である。世界各国が警戒を深め、中国と接する台湾、韓国がドラスティックな対応をとって格闘を演じる中、どうも日本だけが対応が違うようで、感染の広がりがきわめて緩い。何か特殊事情があるのか…。そう、日本だけの事情とは、7月にオリンピックを控えているということだった。日本の対応には、これでオリンピックに暗雲がかかるというのは困るという顧慮が透けて見える。だから政府の対応は鈍く、国の第一の関心事はパンデミックにはない。

 しかし国内がの不安は募るばかりである。そこで安倍首相は「リーダーシップを発揮する」ところを見せるべく、何の打合せもなく唐突に会見を開き「学校閉鎖」を言い出した。(安倍の会見の特徴、および連日の会食でのネトウヨ助言等を参照)そこで日常生活レベルで大きな社会的混乱が起き、人びとや関係組織はもてるリソースで対応せざるをえず、賢い都道府県は独自の対応を取るようになった。もともと安倍首相の「要請」にはいかなる法的根拠も強制力もなく、これを罰することはできないし、結局、現場からにわか仕立てで出された方策を、政府は追認するしかない。

 政府が国会を通してやったのは、これはチャンスとばかり改憲のテコとされている緊急事態条項をここでやればという邪念から、実はすでに存在していた「インフルエンザ特措法」を改正する形で、緊急事態宣言権を急遽法制化すること、それと、「桜を見る会」の追及をかわし、くすぶる疑獄収賄案件その他の立件を、安倍後も見越してあらかじめ封じる検察人事を、法相に法制度の基盤を踏みにじらせながら(決裁書のない決済があるとか、世迷い事を持ちだして答弁を逸脱)無理やり押し通すことばかりである。

 そんな「日出る国」のお国事情には疎くても、どうも日本はおかしいと眺めてみると、イタリアでは医療が追い付かず、すでに中国以上の死者が出る惨状を呈しているのに、この世界の「緊急時」に日本はオリンピックのことしか気にしていない。というので当のスポーツ選手や団体からも「無神経・無責任ではないか」との声があがる。もちろん国内からではない。国内では、数日前も女性のJOC理事から「延期も考えた方が…」といった意見が公表されると、フランスで訴追されそうな武田某にかわって担ぎ上げられた山下理事長が「そんな意見が内部から出て残念だ」と火消しに回る始末。日本が一丸となって当たるべきはコロナ対策ではなく、オリンピック防衛だと言わんばかりである。

 しかしスポーツ界の雄山下泰裕理事長(残念なオヤジになってしまった)の「突貫精神」も空しく、すでにIOCは国際世論の圧力に押されて「延期」に舵を切っていた。IOCは基本的には実施を望んでいた。というのは、やらないと身銭が入らないし存在意義に関わるからだ。そこでWHOに従うとサジを投げていたが、WHOにしてみれば管轄外、迷惑な話である。日本では、開催権はIOCにあるから(マラソンの札幌移転騒動で示されたように、会場の移転さえ、JOCも主催都市東京都も決められない)そちらからの「天の声」を待つほかないのだが、IOCにとっては後の面倒のない「中止」とか言われると(放映権料は一回分入らないが、そのための保険はかけている)、困るのは誰よりまず安倍首相であり、森組織委員長であり、東京都の小池知事である。彼らが引き合いに出すアスリートは、彼らにとってもともと見世物サーカスの興行のネタでしかない。あるいは、桜を見る会の招待者候補か。

 そこでこちらから働きかける。すでに先週、世界の胴元トランプがシンゾーに延期もあるねと告知しており、ブリーフィングは済んでいる。そこで「私が総理大臣…」の安倍首相が、IOCのバッハ会長と、森、小池を同席させて電話会談、そこで「一年程度延期」で「百パーセント一致」しましたと公表する。もちろんそれをあらゆるメディアが報じ、この決定には自分が関わっているんだと国内に示したわけだ。

 オリンピックの招致のときも問題だったが、オリンピックは都市開催だ。だから行政主役は都知事のはずだが、そんなことはおかまいなし。安倍首相にとってはこれは自分が仕切り「世界の真ん中で輝く」ための国家的イヴェントなのだ。彼は開催都市を決めるIOCの大会にみずから乗り込んで、「放射能はアンダーコントロール」と誰もが分かるフェイクで大見えを切ったこともある。そして安倍政権は、これをアベノミクスというフェイク経済戦略をすすめる陣太鼓にしてきたのである。だからこそ、オリンピックは実現したい、そこで「輝きたい」、というのはほとんど個人的願望だと言っていい。この人物の場合は、首相夫人を「私人」であると、行政機関の中核たる閣議で決定するほどの、私と公との区別がつかないのである(保守のご意見番だった後藤田正晴翁に「岸の血が、冷徹の血が流れている」と言わしめたおじいちゃんの信念が人格の軸を作っているからか、あるいは祖母に「運命の子」として育てられたから?)

 そのため、オリンピックを実施することは、この首相の粉飾政治のアルファでありオメガにもなっている。だから「中止」などと言われては困るというので、譲ってとりあえず「延期」で手を打ったということだろう。しかし一年以内…、展望はあるのか。新型コロナ禍はトランプでさえ一年以上続くという報告を受けいれているようだ。ここで思い切って「中止」を打ち出せば、一年延期でさらにかかるあらゆる負担(財政的、組織的、選手も含めて心理的な負担等々)を解消し、世界的なコロナウイルス禍に対処することができるだろう。だが一年後の準備のし直しで、その対処への注力にブレーキをかければ、一年後に開催できる見通しもますます遠ざかるのだ。
 
 延期を準備し、そのあげく一年後に、あるいはあと数か月後に「中止」を言い出さざるを得なくなくよりも、いまここで「中止」を打ち出した方が、日本の社会のためでもあるし、世界には評価されるだろう。「フクシマ復興五輪」というのが形ばかりのフェイクだったように、コロナ禍をここでも自分のために逆転利用――これがほんとに得意技だ――、一年後に「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証として、完全な形で東京五輪を…」と言挙げしたが、どれほど世界に欺瞞的に響くかということを(国内ではどうやら通用するようだから)、この人物は想像することもできないのだろう。

四日目、溶解=妖怪国家2020/03/17

〇フランスのマクロン「我々は戦争状態にある」と語った――
外出禁止令も、家賃、光熱費、税金はその間0。
 マクロンはバカでも嘘つきでもないはずだが――高慢な管理経営派秀才ではあるようだが――、「コロナとの戦争状態にある」はブッシュと同じ言い方。で、権力発動を正当化。
 だが、ウイルスは「敵」ではない。あるいは「敵」とみなすと間違える。ミサイル撃つと患者は死ぬ。戒厳令敷くと社会生活は死ぬ(アメリカの驚異的株暴落を見よ)。「ウイルスとの闘い」と言うのなら、それは国家間戦争のイメージではなく「エコロジー闘争」(ヴィヴィリオ)のイメージでなければだめ。
 しかしこの比喩が避けがたいのは、現代社会が科学に頼り、科学が「自然の征服」というイデオロギーを抱えているから。「文明は勝つ!」。しかし自然は克服できない。なぜなら、人間自身が自然の一部だから。いや、人間は複合機械だ、その編成が部分世界だ、いや「世界は存在しない」とかいう連中も出てくる。「人間は時代遅れ」だ、「ポスト・ヒューマン」だなどと言われ、「人間」からのEXITが流行る。
 戦争のイメージをもちだすと、患者は「敵のスパイ」か「テロリスト」扱い。そこで「敵」を作って肥しにするヘイト差別が横行する。あるいは「俺はコロナだ!」と街にくりだす別種の患者が。

〇NHK「不安は何ですか」「口角をあげることが大切です」ダンス――
 とこれが日本のコロナ対策。やっばりニッポンすごい!、やり過ごし大国。でも、ウイルスと戦争する(マクロン)よりこの方がだいぶましかも。愚民(凡夫)の万能の智恵。「禁足令」のイタリアでは、ローマ教皇も外出して祈祷してるし。

〇トランプにつづいてポンペオ、米中舌戦、互いの「中傷」を非難――
 コロナウイルスは、何の意図ももたないのに、「見えない敵」として人類の内戦化に成功?愚かな人類は、共通の禍いを「見える敵」のせいにして罵りあい、戦争(分裂抗争)を始める。じつはこういうときこそ協調が必要なのに。「禍」転じて…世界的ヘイト・差別・対立の時代へ、か。
 だからグローバル・バブル金融の市場はますます混迷。もはや根本的なクレジット(信用・信頼)がないから。マネーという絶対者(神)も市場から逃げる。

〇森友自殺 財務省職員の遺書を全文公開「すべて佐川局長の指示です」――、メディアは追うか?

 自殺した赤木氏の妻は佐川元局長と国を提訴へ。これだけの、「良民」が文字どおり命を賭した告発証言が明るみに出ても、彼を使い潰した官僚組織が責を問われず、国家の屋台骨(官僚組織)をまったくの愚直劣悪な私僕群と化した権力(内閣)が問われることのない国とは?
 官僚は「書かれたもの」の上に立ち国の機能を担うはず。ところが、今では改竄・隠蔽・破棄・不作製…、そして法務大臣による文書なし決裁の押し通し。もはや溶解=妖怪国家というしかない。この国はコロナ以前に冒されきっている。

 ふつうならこれで内閣は即日吹っ飛ぶ。ところがそうならないのがアベ体制。この事件、検察はほとんど事実を把握していたのに、告発された官僚たちをすべて不起訴処分にしている。それに、裁判所は籠池夫妻だけを国を騙した「詐欺」等で有罪判決まで下している。
 検察はいまさら佐川らを立件できない。黒川検事長の定年延長がなされているからなおのことだ。
 明日からは、大事の前の小事、このコロナ危機に政府の脚を引っ張るのか、オリンピックへの強い思い、国民の願い、アベでないとダメ、の大キャンペーンか(これは保身の官僚が主導するだろう)。それとも、みんなNHK推奨の「スマイルダンス」で「不安」を紛らわすか。

開戦日覚書き(前項ディテール補遺)2020/03/14

○トランプ、東京五輪は一年延期すべきかも…
「アメリカ様」(宮武外骨)がそうおっしゃってる。
どうする「令和ニッポン」、も一度インパール作戦か?カミカゼか?がんばれ大本営。自民界隈では「コロナ神カゼ」説もあったようだが、「緊急事態・特措法」は通しても、そんなこと言ってるからアメリカに襲撃されちゃったよ。これだろ、ほんとの緊急事態、オリンピックができない!

○独メルケル首相「金融危機を超える異常事態」、国民に対策呼びかけ(NHK)
メルケルだけが今は多少信頼できる国家首脳。チェコのワーツラフ・ハベル、ビロード革命後大統領に選出されて初の年頭あいさつで言った。「(この四十年というもの、わたしたちは前任者の口からさんざんウソを聞かされてきた。)皆さんがわたしにこの職務につくように提案されたのは、わたしもまた嘘をつくようにというためではないと信じます。わが国は繁栄していません。」近いことを言えるのはメルケルぐらいだという意味で。

このニュースを見つけたころ、ちょうど日経平均17000円割れという速報。
アベがトランプと電話会談でコロナ対策?協議、アベは五輪開催に向けた努力に言及し、トランプ大統領は透明性ある努力を評価すると述べたそうだ(NHK)。「透明性ある努力」とは裸の王さま踊りのことなのか。
この日米電話会談は市場には何の効果ももたらさなかった。とくに円は露骨に落としている(最大幅)。円高もあって日銀も打つ手なし。五輪を旗に世の中を乗せて粉飾経済、株高・円安・好況、を演出し、「この道しかない」の新自由主義路線を押し通してきた「アベ日本」の完全破綻。
メディア抑えて批判運動を黙殺し、野党は「どうせ数で負けるんだから」と順応路線で、ポンコツでも無敵のブルトーザーだったアべ政権、しかしとうとう投資家・市場から見放された。
市場という金儲けにしか関心がないバケ物(+そこに群がる顔のないならず者たち)が、今まではエサに食いついてアベ日本(日銀押さえた金融政権)を支えてきたが、ここに来てとうとう見放した。彼らの喜ぶ大胆な(アベノミクスをぶっ潰す)政策が打てないかぎり、市場は(を)離れ続けるだろう。15000円でも底ではない。
日銀黒田はどうするのか?責任をとらされるのか、それとも非常事態で続けるのか?

市場好転の唯一の材料は、経済の根本的立て直しの方向を出すこと。手始めは消費減税だけではない。中国・韓国とコロナ対策でも協力関係を打ち出し、この間わざわざ最悪化してきた関係を改善、アジアの方向を向いて関係を立て直すこと。

○日米首脳が電話会談、大統領から「五年延期」に言及なし(朝日新聞)
昨日のトランプ発言を受けて、急遽設定された電話会談。アベ首相は慌てたということだ。
ここで考えるべきは、「2020東京五輪ができない」ということの本当の意味。それを明確にする必要がある。東京五輪で日本経済を引っ張りもたせる、とはどういうことか?
曖昧にしているから、コロナウイルス対策もまともにできない。五輪ができなかったらたいへん、そこからしか日本の対策はできていない。誰もが気分と思惑でパニクル(パニクらせる)だけ。そして政権は火事場でボロボロの権力強化。

○検察定年延長の閣議決定
2014年7月の憲法9条の「新しい解釈」が閣議決定でなされてそれで押し通して以来、閣議決定は「大本営」決定になっている。石川健治が「クーデター」と言ったのはこのことです。これは法的根拠など無視した振舞いだったけれど、それを事後的に合法化するのが「緊急事態宣言」。緊急事態法制とは基本的に法秩序の停止を合法化するものだから。それを立憲・国民は承認したということ、もはや野党ではない。もちろんこれで黒川検事総長は誰が何と言ってもできることになった。

そして「権力はアプリオリに無罪」というワーツラフ・ハベルの指摘した状態が実現する。
アベはコロナ対策での無策と失敗(学校休校のフライング)を、この「全能化」に巧みに利用した。森友・加計火災を共謀罪で乗り切ったように。
疫病禍を戦時に例える「ウイルスとの闘い」という倒錯した比喩がまかり通っている。それが今を「緊急時」と言わせるが、だから自分を「戦時の国家指導者(ブッシュ)」として押し出せる。戦時には権力者を批判してはいけないという通念があるので、アベの支持率は上がる。アベはそういうことを自己への「神カゼ」にしてしまうという、本能的利己主義がある。それが彼を祖父の妻に、つまり婆さんに「運命の子」と言わしめるゆえんもある。

○テレビ東京WBS(ワールドビジネスサテライト)のニュース
 https://www.tv-tokyo.co.jp/wbs/
このニュース、いまいちばん必要な情報テンコモリ。経済面にすべての事象が落とし込まれて説明されるのがいまの情報の基本的ルートだから。政治現象も経済的になら市場重要ファクターとしてまともに扱われる。じつは今日見てビックリした。株式パニックの意味がいちばん分かる。ナレーション・解説はネオリベでも、必要な素材を必要な情報として忖度なく扱っている。こんなもの見ていたくないが(もうあんまり時間がないので、もっと好きな勉強をしていたいのに、バタイユとか、不死のワンダーランドとか…)。

 世界的に「緊急事態」に入った、ということは、世界が基本的に「戦時状態」に入ったということである。何が対立しているのか?「コロナウイルスとの戦い」だというではないか。「敵はコロナ」、ただしこの「敵」はどのような「敵」なのか?「テロとの戦争」と似てもいるが、「敵」は「テロリスト」ではなく、人を感染させるウイルス――言いかえれば、人を危険な存在「テロリスト」にする病原――である。それが、じつはそれぞれの国ではなくグローバル秩序を冒している。株の大暴落はその深刻な徴候だ。…グローバル世界はともかく「戦時態勢」に入った。

…とはいえ、バタイユは一九三九年九月五日、ナチス・ドイツのポーランド侵攻に対して英仏が宣戦布告し、世界(まずヨーロッパ)が大文字の戦争に突入した日に、戦中恍惚=脱存日誌を書き始めた。それが、戦後『有罪者』として読まれることになる。今日(ここ一週間ばかりが煮詰まった)が、われわれの開戦日だ。とはいえ、バタイユにはそれでも戦争が終り「戦後」が訪れることを望見することができた。だが、われわれにはその展望がない。まさに「戦後」が解体されることで現在が生じたのだから。「俺たちに明日はない」と知りつつ、なお見ようとして書い刻もうとする。それが今日の「思想」のあたりまえに空しいかもしれない営みだ。

★グローバル資本主義の崩壊とその「出口」2020/03/13

「想定外」のかたちで、われわれは今、グローバル資本主義の崩壊に立ち会っている。「この道しかない」と言われて導かれた世界システムはいまもんどりうって滝つぼに落ちようとしている。しかし、この先は、滝つぼを収めて流れる奔流やがて大河ではない。ここは滝壺ではなくすでに海の断崖だからだ。

 マーク・フィッシャーは死ぬ必要はなかった。「資本主義のリアル」には終わり(出口)があったのだから。その点では「暗黒啓蒙」の「エグジット(脱出)」派のほうが目先が効いていた(イーロン・マスクの火星計画)。
 ほんとうは「資本主義」のタームで考えない方がよい。そう考えると経済について資本主義枠を絶対化することになるからだ(マルクスは近代経済学の枠組みに沿ってしか考えず、それを基準に史的唯物論とエンゲルスが呼んだものを構想した)。そこから抜けるにはカール・ポランニーの発想が必要。

 そして「資本主義」を経済学の問題と考えてはダメ。いわゆる深層心理の問題をリビドー経済という観点で捉えようとしたのはフロイトだが、フロイトはエントロピー理論を下敷きにしていた。人間的な欲望のバックに自然エネルギーの傾向を重ねて見たのだ。そこからエロスとタナトス、とりわけ「死の欲動」の考えが出てくる。

 「資本主義」と呼びならわされるものは、計測化できると見なされた「市場」を「見えざる手」によって調整させる。その「見えざる手」とは利潤の生まれるからくり(剰余価値)ではなく、「利己的」なものと見なされた諸個人の欲望であり、その欲望追及の「自由」である。その欲望は市場の仕組みと結びついて「金銭欲」つまり「儲けること・稼ぐこと」に特化される。だからどんなことをしても「富豪」は成功者であり、「価値」であり尊厳なのだ。市場の「成功者」がアイドル(崇拝される偶像)になる。

 これがアメリカ経済システムであり、「新世界」の資本主義であり、それは一九七〇年代以降世界規範となって(チリの九・一一以降)「新自由主義」と呼ばれるようになった。弱小国での「惨事便乗」と先進国における「社会の抹消」によってである。

 だから資本主義は、経済の問題ではなく欲望の問題である。
 その欲望には伝統がある。西洋キリスト教社会の伝統だ。西洋による「世界化」によって、この考え方の枠組みは普遍的=世界的なものとなった。最初に言明したのはアウグスティヌスである。それが宗教改革によって鋳直され(ルターもカルヴァンもこのキリスト教思想の定礎者に立ち戻る)、ライプニッツによって世俗世界と結節され、パスカル等を通して「欲望」と「自由」と「市場」の三位一体を近代思想として編み上げ、それと同時に社会に制度的に実現されてゆく。そうして形成されたのが、やがて世界を覆う牢獄となってゆく「資本主義システム」である。

 いまや「この道」はその自己破綻の道であることが明らかになった。破綻は批判やオルタナティヴなアイデアによってではなく、ウイルスというまったく非社会的なもの(生物ですらなく、予定調和的自然界からも外れた要因)によって引き起こされた。疫病の克服は資本主義形成期から社会編成の枢要事であり、フーコー流に言うなら「統治」のパラダイムだった。その克服・征服と市場の世界化とは軌を一にしている。しかし市場のグローバル化とともに、何かが変異するかのように疫病は質を変えてゆく。そしてとうとう出現した今回のウイルスは――というより、ウイルスに意図があるわけではないから、ウイルスによって、と言うべきだろう――ウイルスによって、グローバル経済はその基礎構造そのものを自壊させなければならなくなったのである。

 ウイルスが攻撃した、という言い方はやめよう。それは「あまりに人間的な」転倒だ。ウイルスには意思がない。ただその生態(でさえない)に従うだけだが、それが「人・モノ・カネの自由な行き来」を止めざるを得なくさせたのである。だから株価は暴落する。それに対応しようと、国々の政府は「自由な流通」を遮断する。それは経済システムをかえって止める。だから株価はさらに暴落する。「市場」が成り立たない。それに依存する現在の政治・経済・社会システムはこのパンデミックに打つ手がないのである。

 ワクチンが開発されさえすれば…、科学的に対応すればまともに、という期待は、技術の急速な発達で核廃棄物の処理法もできると言われてずっと肩透かしの現実を見ていない。科学主義は張り巡らした糸で自縄自縛に陥っている。科学的にではなく、理性的に、ということだ(科学は理性ではない←ドグマ人類学的観点)。

 では、理性的には、どんな対応があるのか?少なくとも、自国ファーストでグローバル経済を破綻させるのではなく、パンデミック制圧(他に言い方がない)のためにまず実のある国際協調の姿勢を示し、その協調をベースにグローバル経済システムを再編してゆく。いわゆる経済規模は縮小するが、その縮小は最小限に止められる。そこで息がつけるようになったところで、疫病禍(それへの対処が社会を麻痺させ壊するようにならない方向)に耐性をもつ「社会」を各国で再建してゆく。

 ただ、そんなことはトランプや、ましてやアベにはできない。彼らの政治的リソースが、ヘイト対象作りと分断・憎悪だから。だからこそ、今の「崩壊期」を彼らに任せると、「ウイルス戦争」という焼け跡の荒野に憎悪ヘイトのゾンビが跳梁することになる。つまり今度こそ「グローバルな内戦」だ。彼らが「敵」と名指したものが生きる場を失う。