「すばらしくてふるえる」SEALDs本2015/10/17

 先日、高橋源一郎×SEALDsの『民主主義ってなんだ?』が出た。だいぶ注目されたようだが、こんどはSEALDsによるシールズ本『SEALDs 民主主義ってこれだ!』が出た。これが真打、以前からグループが準備しているときいていた本だ。コンセプトからコンテンツ、編集、撮影、ブックデザイン、みんなSEALDsの仲間が作ったはず。

 これがすばらしく、かつおそるべき本になっている。戦慄!
 手にとる本のカバーは、夜の国会前のデモとコールの、少し劇画調(?)に焼き込んだ写真。そこに「SEALDs」「This is democracy looks like. 民主主義ってこれだ!」の白抜き文字。帯は白に一行赤く、あとはふつうの黒い文字。カバーをはずすと、下には表が白、背がピンクと、文字と色を入れ違えた、まったく明るいすっきりした冊子の表紙。
 そしてイントロダクションの、浸み込んでゆくような碧空の下、緑の土手を背景に、砂のプールの縁に立ち遊ぶ二人の若者のかげ、シールズ調満開の写真だ。

 戦慄!

 そう思うのはわたしが浅はかだからかもしれない。じっさいわたしも、夏の初めにメールの依頼を受けてこの本に一文を寄せた。それはイントロ口絵の写真を思いっきり真に受けたような「SEALDs讃江」といった文章だ。そのときは圧倒的にポジティヴな短文を書こうと思った。

 それも含めてわたしは浅はかだと認める。その浅はかさは、SEALDsの若者たちの、これで(これが)いいじゃん、という力まかせのノリに一見呼応している。だが、この明るさは、たぶん3・11で炙りだされた日本社会(だけではない)の泥溜まりのようなタールの夜を潜って出てきたものだ。かれらの真っすぐに突き出される声とことばの背後には、その楽し気な笑いの背の向こうには、どうしようもなく息苦しい泥溜まりの闇がある。それが表紙カバーの写真の周囲にも焼き込まれている。

 スポットライトを浴び、フラッシュを浴びて、こいつらここまでやるかと思わせるほど満身のコールを続けたあと、それでも戻ってきたタールの夜の底で、人気のない街路のゴミを拾い集める、その身振りの内に沈む名状しがたい感情がある。たしかに、この本のカラフルな中身は、二枚の真っ黒な内表紙に包まれているのだ(そこに、黒に白抜きの匿名のエッセイ)。

 纏いつく汚泥の闇のなかから身を起こしているのに、かれらはまるで真水のプールから出てきたように、プーッと息を吐いて顔を出す。水面を破って出るその思い切り、その「覚悟」の一瞬が戦慄させる。

 このコンパクトでファッショナブルな「本」(拡散する共同の工房から生まれた重層的なイメージと言葉の収蔵体――たぶんこれには本とは別の名前が必要だろう)にはそんな経験のすべてが凝縮されている。「本」のあり方も変える戦慄すべき本だ。

*SEALDs『民主主義ってこれだ!』(大月書店、10月20日発売)。どこから出ていようと関係ない。かたちもコンテンツも含め、こういう本を作れるのがSEALDsだ。

訂正とお詫び:「三菱鉛筆」について2015/09/18

 9月16日の午後9時過ぎ、国会正門前で安保法案に関連する短いスピーチを行いましたが、その際、安倍政権の下で軍需産業が推進されていることを念頭に、誤って「三菱鉛筆」を旧財閥の三菱グループの仲間と混同し、「ミツビシの製品は、エンピツ一本も買ってはいけない」といったことを述べてしまいました。
 しかし、ご指摘を受け確認したところ、三菱鉛筆株式会社の三菱とスリーダイヤの商標は、三菱財閥(現・三菱グループ)より10年早く1901年に登録されており、まったくの別会社です。
 軽率に両者を結びつけて、聴衆の方々に無用な誤解を与えたことと、なにより三菱鉛筆株式会社にご迷惑をおかけしたことを謹んでお詫びするしだいです。三菱鉛筆社の文具等は安心してお買い求めください。

[追記] なお、「不買運動を訴えた」とのご指摘もあるようですが、それは本旨ではありません。主旨は、産業の軍事進出には経済活動の健全化のためにもとくに警戒してゆく必要があるということです。誤解を生じたとしたら、不十分な表現をお詫びいたします。ご了解いただければ幸いです。

「手漕ぎの軍船」化2015/09/08

[FaceBook(9月8日)より転載]

今日もひどい事の山積み!

自民党総裁選はどうでもいいが、参議院厚生労働委員会で改悪派遣法の強行採決(明日本会議で採決)、これも公明党がいっしょだ!ファッショ小判ザメ政党!そして議事運営委員会では、地方公聴会を飛ばして15日中央公聴会の抜き打ち決議。政府はろくな答弁をしていないし(実質的には無以下)、肝心な「軍部独走」幕僚長の証人喚問もやっていない。そして16日、本会議(日本会議か?)でこれも強引な採決をするつもりだ。

今年の初め、日本はこのままでは安倍一党が乗り回すガレー船国家になる、と書いた(共同通信配信「論考2015」)。ガレー船とは奴隷を使った手漕ぎの軍船だ。文字どおりそうなりつつある。国憲を無視し、国民を奴隷にして自分たちがのさばろうとする悪党たちにこの国は乗っ取られようとしている!こんな「国難」はかってなかった。あらゆる人びとがスパルタカスにならなければならない!

――その「ガレー船化」の記事を転載しておこう。

◎戦争へ加速する年の初めに
 展望なき政権が迷走
 戦後70年の課題重く

 「戦後70年」の節目をわれわれは「戦後レジームからの脱却」をめざす政権の下で迎えることになった。「戦後レジーム」とは、敗戦によってできた「非戦」の体制のことだとすれば、それを「脱却する」とはとりもなおさず、戦争の準備をすることを意味する。その変化が加速されようとしている。そんな年の初めにあたって、まずは国の内外の状況を俯瞰しておきたい。

 ▽人より法人

 「経済成長」をうたう安倍晋三政権の政策は、大企業を支援し、株高で富裕層を潤わせるが、企業優遇は雇用や労働の条件を劣化させ、多くの人を恒常的な貧困へと追い落とす。そのしわ寄せは若者や女性に集まり、それが子どもの貧困に拍車をかける。衆院選が終わった途端、法人税減免と生活保護費の切り下げが打ち出された。保護されるのは人ではなく法人ばかりだ。

 福島の避難民の救済や汚染水処理を置き去りにした原発再稼働も、各方面から反対の根強い環太平洋連携協定(TPP)も「経済成長」のためといわれる。だが「経済成長」の追求が、社会を潤さず、むしろ人びとを貧困化するのは、いまでは随所に明らかだ。人件費を抑えて競争するグローバル市場の構造と「成長神話」は行き詰っている。この路線は、つまるところ社会全体に不公正や不寛容をまき散らし、人びとを分断して生きにくさせる。

 ▽時代錯誤

 安倍政権は「成長」をかざす一方で、もうひとつの国家改造を目指している。それは「戦争ができる国」を「取り戻す」ということ、軍事力を背景に国際秩序のアクターとなるということだ。だが、それにはいくつもの障害がある。ひとつは国内の抵抗、もうひとつは近隣諸国の反発、それに米国との関係だ。

 国内の抵抗に対しては、選挙や政治の争点をひたすら「経済」にすることではぐらかし、議論を排除する。近隣諸国の反発には無視で対抗しながら、その後ろ支えを日米安保と軍事化に求める。「戦争ができる国」は日米安保が前提で、米国の一部がそれを後押ししている。ただし、米国は「肩代わりに使える兵力」を求めているのであって、独自の日本軍を求めているのではない。そこに米国との食い違いがある。

 首相は就任以来、延べ50カ国以上を回り、援助の約束をばらまいて国連の安保理入りも画策する。それで米国の「強力なパートナー」になろうというのだろう。日米同盟で世界を仕切る? それが夢かもしれないが、いかにも時代錯誤の夢想というしかない。

 ▽手こぎの軍船

 いま、世界の経済と軍事の状況はどうなっているのだろう?
 リーマン・ショックとその後の金融恐慌を経て、資本主義システムの破綻がさまざまに語られている。資源や環境の問題もあり、とくに地球温暖化への対処は急務になっている。「成長」が繁栄をもたらし、人びとを豊かにするという古典的な見方はもはや成り立たず、根本的な考え方の変更が求められているのだ。

 他方、輪郭も制約もない「テロとの戦争」の動向は、軍事力が世界秩序安定の解決にはならないことを示している。

 石油利権を背景に「解放と民主化」を掲げた米国の戦争は、とうとうイラクとシリアに「イスラム国」を生み出すことになった。一方的な空爆や無人機攻撃はウイルスのように「敵」を変異させる。いまでは米国でさえ戦争に「勝つ」ことはできない。日本が手伝っても、世界の混迷を深めるだけだろう。

 安倍政権のめざす二つの方向は、いずれにしても展望がない。それでも「この道しかない」というなら、日本は徒刑囚を使役するガレー船(手こぎの軍船)のような国家となって、秩序の見えない世界をダッチロールし、やがて難破するのがおちだろう。船をこぐのは広範な貧困層、運営主は富裕層だ。そしてその仕組みが内部で露見しないように、すでに特定秘密保護法も用意されている。

 難破を、いやその前にガレー船化をくいとめるため、われわれは何ができるのか。重い課題が山積している。

近況、8月30日2015/08/31

日々雑事に忙殺され、まとまったことが書けないので、ときどき紙つぶてのようにFace Bookに投稿しています(https://www.facebook.com/onishitani)。昨日、今日の「紙つぶて」をこちらに加筆転載。
-----------------------------------------------

[8月30日、国会包囲行動とメディア]
 もう東京新聞しかない。東京で新聞とっている人、東京新聞でないとだめですよ!
 毎日や朝日ではこれでトップ記事ではない(1面の左で国会前の人の海を写真入りで取り上げてはいるが、これでは「桜の開花情報」みたい)。東京は2、3面で会場が霞が関一帯に広がっていたことも地図入りで報じている。毎日・朝日は相変わらず「ディズニーランドにこんなに人が…」みたいな扱い。地方のデモのことも多少は報じているが、社会面、つまり三面記事だ。たぶん朝日の紙面づくりは政治意識の大衆的広がりについてゆけないのだろう。その結果、構えがNHKとそんなに変わらない姿勢になる。それでも、いまのNHKと較べるのは公正を欠くが。
 だが、なぜこの歴史的な事件がトップじゃないんだ!現役首相がこれほどの大群衆に「アベ辞めろ!」のコールを受ける。国会前だけじゃない。霞が関エリアの人もすごかった(その意味では、評判のよい毎日の国会前写真も、起きていたことの実態を狭める。せっかくヘリを飛ばしたのなら、霞が関一帯も伝えないと)。東京新聞は全国の様子も含めて5面を割いている。なんか、百田や自民議員が「潰したい」という沖タイ・新報に似てきたね。ついでに日経では、アメリカに〇つけてもらった「談話」で内閣支持率40パー代に「回復」だと!
 東京新聞以外、メディアは意図的にか不作為でか、そろって昨日の出来事の衝撃を受け流そうとしている(トップ扱いじゃない!というのがすでに報道機関としてのメッセージだ!)。それが自公を安心させ、強行採決を促すことになる。中野晃一が26日の大記者会見で、「この民主主義の危機に、全法曹、全学者・大学が立ち上がった。全報道はどこにいるんですか?」と報道陣に向かって問いかけた。そこに来ていた記者たちの責任ではないだろうが(かれらに紙面・番組づくりの権限があるわけではない)、今日の紙面を見るに残念なことである。
 問題はネット上でどれだけ情報が拡散・交換されるかではなく、その「炎上」が世間(社会)に広がって空気を変えること。12万人(霞が関を含めれば確実にもっといた!)の「呪」(悪い意味じゃないですよ、「祝」と通じてるんだから)が日本社会の風や空の気配を変えること。

[「呪」について]
かつて昭和の公害時代に「公害企業主呪殺祈祷僧団」というのがあったが、それが40年ぶりに「再稼働・安保法案への反対を掲げて再結成され(JKS47)、8月27日に経産省前で「祈祷」を行った。
折から29日、立教大・上智大有志の呼びかけで、キリスト教系大学の反安保法制の集いが神谷町聖アンデレ教会で行なわれた。司会は立教の香山リカさん。その香山さんがふれた上記「祈祷」の一件を受けて、わたしはその場で以下の主旨のコメントをさせてもらった。これもFBから転載。

 「呪」とは元は福利をもたらしたり災難を祓ったりする力をそなえた言葉。「呪殺」とはそれによって、災いをもたらす「悪(煩悩)」を払い去ること(俗にいう「五寸釘で呪い殺す」とは大ちがい)。
 宮城谷昌光の『太公望』三巻に、望の先導する周と召の軍が、商(殷)の大軍と決戦におよぶ場面がある。そのとき、祭政一致の商の軍勢の最前には隈取りをした無数の巫女が居並び、祈祷を行ったという。これが仏教にはるかに先立つ「呪殺」の原型だ。巫女たちは敵兵に呪いをかけるわけではなく、「呪(祈り・願い)」によって、天や風や大地の利を引き寄せ、その加護で戦に有利な状況を開こうとする。
 国会の議席数で採決の結果はあらかじめ見えている。政権与党にとって審議はどれほど追いつめられても、はぐらかし、恥知らずな答弁でともかくやり過ごして時間を使えばよいという手続かもしれない。しかし、決着はこのプロセスたけで着くわけではない。
 日々、いたるところで声を上げる人びとの集いが全国に広がっている。その声が大きくなり、響き渡り、天や風ならぬ社会の空気を変えてゆく。そういう事態が急速に広がっている。それが採決さえ強行できない状況を作り出すかもしれない。
 今日は10万といわず20万、30万、そして全国では100万を超える声があがる。これこそが、戦いの帰趨を決める現代の「呪殺」でなくてなんだろうか。
 デモとは現代における巫覡ないしは巫祝の言挙げなのではないか。その集いと声の力が、たんなる議席の数による決定を超える。

ちくま文庫版『夜の鼓動にふれる』刊行2015/08/04

 『夜の鼓動にふれる――戦争論講義』が20年ぶりにちくま文庫で再刊されます(発売は8月7日頃)。東大出版会から最初に出たのが1995年、ちょうど「戦後50年」にあたる年で、今年は「戦後70年」。計ったわけではありませんが、なにやら因縁を感じないでもありません。

 ちょうど、冷戦が終わり、世界が核戦争の脅威から解放されてある種の「幸福感」が漂った頃に、その機運にしたたか冷や水を浴びせるようにして「湾岸戦争」が起こりました。今日の「テロとの戦争」へと続く流れの発端です。

 その時期に、あたりまえのように〈文明〉の頂点とみなされた20世紀の世界を根柢から規定していた〈世界戦争〉とは何だったのか、世界を二分した冷戦が終わっても人類は〈戦争〉から解放されないのか、人間にとって〈戦争〉とは何なのか、そしてそれと不可分の〈文明〉とは? そんな問いを抱えて〈戦争〉から人間とその世界、その歴史(近代)を考えるというモチーフで書いたのがこの本でした。

 〈戦争〉を避けるべきもの、あるいは〈悪〉と考えるのではなく、集合的に生きる人間と切り離せないものだったと考えたとき、とりわけ近代の世界にとってそれは何だったのか、人間はそれをどう捉えどう経験したのか、といった観点から、言い換えれば「明るみ」の〈昼〉の観点からではなく、紅蓮の炎がますます深くする〈夜〉の観点から、歴史的な人間の生存の在りようを考える、という試みでした。

 それは、政治的・社会的にわれわれの生きる日本が〈戦争〉との関係を善くも悪しくも編み直そうとしている今日、もう一度掘り下げてみるべき課題でもあると思っています。また、それはわれわれ一人ひとりと〈戦争〉との関係を、ゆるぎない観点から考えるためにも必要なことでしょう。

 だからわたしとしては、この本がいまこの時期に再刊されることをひそかによしとしています。とりわけ、国会前で毎週金曜日の「夜」に若者たちの「熱い鼓動」が脈打ち響き渡るこの時期に、もう一度命を取り戻すチャンスに恵まれたことをうれしく思っています。まったく手前勝手な思い込みですが、わたしの主観の内でだけでも、この本をSEALDsの若者たちに捧げたいと考えています。

 20年後の文庫化にあたって、この間の〈戦争〉に関する決定的な変化を招来させた「テロとの戦争」に関する「補講」を巻末に添付しました。

「戦争ができる国」を牛耳るのは誰か2015/07/25

昨日発売の「図書新聞」(8/01付)、「特集:戦争法案に反対する」に寄せた一文です。編集長の須藤さんが、夜の国会前の集会で配っていたとか(五野井郁夫さんによる、写真も)。急遽頼まれ、「談」のかたちで書きました。京都の藤原辰史さん、岡野八代さん、沖縄の新城郁夫、阿部小涼、笠井潔に細見和之、みんなコンパクトなパンチのきいたものを書いています。おすすめ!
-------------------------------------------------

 今回の「戦争法案」ほど邪悪な意図で作られ、騙しの手口で無理押しされようとしている法案はないでしょう(←政府がこういうことしちゃアカン)。だいたいこれには「平和安全法案」とか「国際平和支援法」とかの名前が付けられていますが、まず虚偽表示で、普通なら「ガサ入れ・逮捕」ものです。もう誰もが知っているように、これはアメリカの戦争に自衛隊を世界中どこでも派遣できるようにする一括法改正なのだから。

 「隣国」アメリカの火事を消すためとか言うけれど、アメリカは自分のところにボヤが出ると、火元を断つと言って地球の反対側にまで火を付けてまわる放火魔です。自衛隊は消防車を出すどころか、もう息切れしているその放火魔の助っ人になって、砂漠にまで火を付けに行くというわけです。

 安倍首相のような連中が、そこまでアメリカの手伝いをしたいのは、そうすれば戦争に完敗した日本が堂々と軍隊をもてると思っているからですね。軍隊さえあれば一人前、というつもりのようだけれど、アメリカが認めなければ軍隊はもてないわけ。それを「日米同盟」で「対等の関係」というのも倒錯で、実質的には米軍に組み込まれてその下請けになるだけですね。

 けれども日本の今の支配層(政権を作り支えている連中)がそれを「隷属」と思わないのは、彼らの父祖(戦前の統治層は、敗戦後のアメリカへの身売りで責任を免れて多くは生き延びている)が二十世紀前半に中国を足蹴にして食い物にしてきた過去のトラウマで、この最大の隣国を敵視しかできないという抜きがたい観念に固まっているからです。だから彼らの頭の中では、日本列島はアジア大陸周辺にあるのではなく、背中を丸めたエビのようにカリフォルニア沿岸にぶっ飛んでしまっている。

 よく「戦争ができる国」と言われますが、それは法制度上のことで、その「国」を誰が牛耳るのかを見ておかないといけません。今グローバル経済の効果で世界中どこでも国の階層化が進んでいて、各国の統治層同士はグローバル市場で利益を共有し、国内には貧富の差がひどくなって階層が拡大再生産されている。そのコントロールが課題なわけですが、国家は事実上グローバル化で利益を吸い上げる連中の乗り物になっています。そこで振り落とされる階層を糾合するために、「悪の元凶」を外部に見立てて戦争態勢(これがいま「安全保障」と呼ばれています)が作られる。

 日本の場合はそれが「美しい国」と見立てられますが、そのモデルは明治でも大正でもなく、「殉国美談」で粉飾された昭和戦争期の日本です。皆が進んで「御国」のために身を捧げ、その上に統治者たちが君臨する「ヤマト」の国ですね(自民党の改憲草案にはっきり表れています)。でも、世界から見ると「カミカゼ」が特攻する狂気の国です。

 つまり「戦争ができる国」というのは、統治者たちが「わが軍」といって使える軍隊をもち、うちも軍隊を出せますよと言って、国民がアメリカの戦争に送り込まれる、そういう国です。「戦争ができる」のは統治者だけで、国民はその「弾」になるだけです。

 だからいまの政権や、それに乗りそれを支える財界人や官僚などの統治層は、いかにも国家優先のようなことを言いながら、高齢化社会にもまともに対応せず、TPP推進で明かな「売国」協定を目指し、それでも自分たちが「国益」を守るようなことを言いますが、実際は彼らは日本という国を自分たちの都合だけで横領しているのだと言った方がよい。

 安倍政権はそのためのあらゆる施策(ほとんど「亡国政策」としか言いようのない)を進めています。その要になっているのが「安保法制」です。「国の形」に直に触れる法案ですから。だから、大震災と原発事故の結果をすべて民主党に押しつけてアベノミクスの幻想で、まんまと衆議院で三分の二をせしめた今しかないとばかり、強引な「解釈改憲」でこの法案を押し通そうとしています。

 ところが、その統治体制が、「アンダーコントロール」の大嘘で引っ張ってきたオリンピックのメイン会場ひつと作れない、無責任迷走状態。原発再稼働も、辺野古新基地無理押しも同じです。もう屋台骨が崩れかけているのに、それでもこれらすべてを押し通そうとしている。

 戦後七十年目にしてこのような極悪の政権ができることによって、かえって、第二次大戦での敗戦の意味とか、「非戦」を規定した戦後憲法の意義とか、日本のいわゆる「戦後レジーム」というもののカラクリも、剥き出しでよく見えるようになった。そして今まで、護憲か改憲かで論じられていた憲法も、憲法があることそのものの意味にまで立ち戻って考えられるようになりました。その意味で現在の「危機」は、日本にとってきわめて啓発的な「危機」だということができるでしょう。(談)

派遣法改悪(論考2015-④)2015/07/19

「派遣法改正案の早期成立、経済界が要望」と報じられています。会期が長引いたことをよいことに。この件について、共同通信「論考2015」の4月配信で書いたことを遅ればせに掲載します。
-----------------------------------------

◎〝戦後の反省〟繰り返すな/削られる労働者の権利

 桜も散り始めるころ、政府は「残業代ゼロ法案」を閣議決定した。一定以上の収入で働く専門職を従来の労働時間規制の対象外とする新制度を盛り込んだ労働基準法などの改正案で、「定額使い捨て」とも「過労死促進」とも揶揄される。

 時間ではなく成果に応じた適正な報酬、定時に縛られない柔軟な働き方、というのがうたい文句だが、しばらく前に取り沙汰された「労働特区」での「解雇規制の緩和」と同じく、働く者のためというよりも「企業が最も活動しやすい国」にするための方策だ。

▽労働も経営?

 8時間労働とか残業に対価を払うとか、恣意的に解雇できないといった企業への〝縛り〟は、働く者の権利として100年以上かけて獲得されたものだ。それが今では「経済成長の障害」のように宣伝され、切り崩されてゆく。背後には「産業界の要請」がある。

 経営側は、市場社会では労働者も実は自分たちと同じなのだと言う。労働者は身体的・知的能力という「資本」をもち、それを活用する経営者なのだと。だから労働者には、報酬に見合う良質の労働を提供する義務があり、ライバルとの価格競争に勝たなければならない。それができないのは才覚や努力に欠けるからで、市場で淘汰されて当たり前という理屈だ。その延長上に「過労死は自己責任」といった暴論まで飛び出す。

 こうした論理は、個人と企業とを同じ土俵に立たせようとする。だが、生きた人間は疲れ、飢え、死ぬこともある。対して法人は、腹もすかせないし、痛みを感じることもない。株主の利益だけを考え、無情かつ貪欲に人を買いたたき、使い潰すことができる。失敗したら解散するだけだ。

 ところが最近は、この強者と弱者の構図を転倒させた詭弁がまかり通る。「労働」が商品として扱われるようになって久しいが、企業は今や「労働という名の商品」の消費者のごとく振舞い、消費者の利益は保護されねばならないとうそぶく。これほど狡猾で非人間的な「消費者保護」もない。

▽生きる糧

 人間が生きるということは、人びととの関係の中で何らかの「働き」をすることである。その「働き」が人を社会につなぎ、生に内実を与える。ところが、産業化された社会では、生の営みが「労働」という名で切り売りされ、人びとは雇われないと生きてゆけない。現代社会では「雇用」が人間の死活に直結する。

 社会の仕組みがそうなっている以上、働くことは人びとの基本的な権利として認められ、保護されなければならない。でなければ人は孤立し、自分の存在にも社会のあり方にも価値を見いだせなくなる。フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユにならって言うなら、働くことは「糧」なのである。働いて糧を得るのではない。働くこと自体が人を生かし、養うのだ。

 だが今、その余地がギリギリと削られている。グローバル競争のなかで企業は、利潤以外の目的や社会的役割を顧みなくなった。人件費は負担だから極力切り詰める。それを政府が後押しする。

 システム化した産業社会は元来、人の労働を「扱いにくく脆弱」とみて極力排除してきた。利便性や合理化の名のもとに、人の働きは機械で置き換えられ、IT化がその傾向に拍車をかけた。だから、労働者は機械とも競争しなければならず、働ける領域はしだいに狭まってゆく。それを進歩による「労働からの解放」だと言って喜べる人間はいないだろう。

▽平和に必要

 人権の確立や労働条件の改善、社会正義の促進を目的とした国際労働機関(ILO)というものがある。銘記すべきは、この機関が第1次大戦直後に設立され、第2次大戦後の国連創設の際にも最初の専門機関となったことだ。それは社会の大多数を占める労働者の地位改善が、社会の安定や繁栄、ひいては戦争の回避に不可欠だと考えられたからだ。裏を返せば、労働状況の劣化が社会や人心を荒廃させ、各国を戦争へと向かわせたという切実な反省があった。

  問題は、反省がいつも「戦後」になされることだ。その世界的な反省を、日本の現政権は「規制撤廃」の名のもとに無に帰そうとしている。われわれはまた〝戦後の反省〟を繰り返すのか。

SEALDsの「民主主義ってなんだ?これだ!」2015/07/16

 いまSEALDs(Students Emergency Action for Liberal Democracy -s:自由と民主主義のための学生緊急行動)という若者たちのグループが注目されている。

 今年の5月からSEALDsを名乗るようになったが、不意に出てきたわけではない。一昨年の秘密保護法の強行採決や去年の集団的自衛権容認の閣議決定などに、これはひどいことになると危機感をもち、学生有志でSASPL名で活動してきた(「秘密保護法に反対するがくせい有志の会」)。それがこの春、ヴァージョンアプして本格活動を始めたのだ。

 今までの政治運動とはまったく違って、どんな組織や思想潮流とも関係がない。自由な発想に立っている。だが、今の日本、とりわけ安倍政権が代表する日本の政治が、若い世代の「ふつうの生活」の土台そのものを巻き込んで、彼らの「未来」を奪い去ろうとしていることに、肌身で危機感を抱き、それを不当だと感じる者たちが集って、自分たちで新しい運動を始めようと立ち上がったのだ。

 その思いを集約したのが「民主主義って何だ?」という疑問だ。この国は民主主義のはずなのに、自分たちが主役のはずなのに、こんなことになっていいのか?いい加減の、カラクリだらけの選挙で議席さえ取れば、勝手に「国民」を巻き込んで何でも決めていいのか?馬鹿にするな!だったらここで「民主主義をやってやろうじゃないか! これが民主主義だ!」と。

 それがこの運動の核だ。"This is what democracy looks like".

 「平和」という語をちりばめた「戦争法案」は、日本を「戦争ができる国」にするというが、そのとき「戦争」に駆り出されるのは若者たちだ。だが「戦争をしたがる」政治家や官僚は「大本営」で座って命令するつもりでおり、戦争することを自分たちの「手柄」にしようとする(失敗したらそれは「国民」のせいにされる)。そのうえ、若者がいやでも兵隊にならなければならないように、失業や派遣労働でブラック企業を蔓延させ、おまけに奨学金までサラ金化して追い込んでいる。

 ふざけんな!ということだ。「国際情勢の変化」とか言って中国との対立を煽るが、近隣諸国と仲良くするという最良の「安全保障」の努力はは全くする気がない。そんな政治家の陰で、外務省は誰のために働いているのか、ということだ。国外に危機があるというが、最大の危機はこんな「亡国」政権を作ってしまった日本の内にこそある。

 そしてかれらは「絶対止める!民主主義ってこれだ!と見せてやる」と本気で構えている。ここも従来の組織的運動と違うところだ。強行採決なんかやっても、社会の空気を変えて、安倍政権を屋台骨から崩してやる、と考えている。「民主主義ってこれだ!」と。

 彼らの姿をみていると、こんな若者たちを最前線に立たせて申し訳ない、と年寄りは思うが、そんな年寄りの冷や水も排除しないどころか、分裂しがちな年寄りやその組織のすべても「尊重」し、自分たちが繋ぎになってすべての力を「生かして」ゆこうとする。謙虚さと自負とがひとつに溶け合った、そんな「柔らかさ」が彼らにはある。そして「あたりまえ」に、誰より日本の社会の問題を感じとってもいる。それを克服するために、雨の日も風の日も、不退転で場を作り、「大人」たちも迎え、声をからして叫び続ける。オレたち、ワタシたちは本気だ!と。
 (*昨日15日の夜の集会でも、「大人」たちが国会前を埋め尽くす人びとの前でスピーチ"させしもらって"いた。だがその中に、エラそうな人もいた。自分たちはタタカッたつもりかもしれないが、若者たちに説教垂れようとする。でも、ここに集まっている連中を前に言うなよ!というたぐいの話だ。来ていない者に言えというたぐいの。そんなオマエに発言の場を作ってくれているのはこの若者たちじゃないか、カエレッと怒鳴りたくなったが、イケナイ、仲間割れはやめようと控えた。)

 「言うこと聞かせる番だ、オレたちが!」
 この力を、この若芽を、何が生み出したのか?寝ているようにも見えた日本国憲法という畑であり、それが曲がりなりにも作ってきた社会だ。もちろんそれは満身創痍でもある。だが、それでもこの畑はいまの若者たち、「民主主義って何だ」と声をあげる若者たちを生え出させた。だからこそまたかれらは、憲法の根幹が破られるのを本気で止めようとしているのだ。それはかれら自身の生きる土壌だから。
 あるいは、萎れかかったように見えた憲法は、いつの間にかこんな若者たちを育てていた。
 
 今の状況を切り開いているのは明かにSEALDsの若者たちだ。もちろん他の年季の入った大人たちの団体もあるし、3・11以降のさまざまな市民運動の働きもある(反原発運動とか、1000人委員会とか立憲フォーラムとか、もう少し若いところではピース・ボートとか東京デモクラシー・クルーとか)。その尽力もたいへんなものだ。とはいえ、SEALDsの若者たち(そしてこれをきっかけに、札幌などで始まった運動を担う人たち)は、掛け値なしにこの国の「未来」だ。

 できることは多くないが、傍らから全力で支援したい。
*SEALDsホームページ:http://www.sealds.com/
*SEALDs作「6分でわかる安保法制」https://www.youtube.com/watch?v=rBf8v26L47c (Youtubeで削除されるようですが、探せば見つかります)

*一昨日、「安保法制に反対する学者の会」の末席にいる者として、世話人の浅倉むつ子さんと岩上安身のIWJが始めたライブ放送に出演して、「学者の会」の各党申入れの模様や、札幌での「戦争したくなくしふるえる!」の運動などについて話した。当分の間ウェヴで視聴できると思います。よろしかったら…こちらから。
  http://iwj.co.jp/wj/open/archives/253137