「沖縄差別」の遠近法2017/04/29

「琉球新報」が、基地建設反対運動のリーダー山城博治さん他を逮捕・長期拘留した(東京から支援に行った反差別運動・カウンター活動の高橋直輝も不当逮捕のうえ199日間も拘留され、ようやく最近保釈された)ことを機に、一方で沖縄の意志表示を踏み潰し、他方でそれを看過する「沖縄差別」の問題をとりあげて、「分断を超えて」というシリーズを掲載している。その第1回(4/26)に寄稿した記事をここに再掲させてもらう。
--------------------------------------------------

 一九九五年に米兵による少女暴行事件が起き、那覇で「復帰」後初めての大抗議集会が開かれた。これが今日の辺野古新基地建設をめぐる対立の発端である。何の対立か。沖縄と日本、行政的に言えば沖縄県と日本政府の対立だ。日本政府は防衛(これを最近では安全保障と言う)上の理由から沖縄に基地を置くのを当然とみなす。日本の安全保障は「日米同盟」前提だから、それが米軍基地か日本軍基地かは問題ではない。だが、沖縄にとっては辺野古に恒久基地ができたら、占領期以来の基地負担がやむ希望がなくなる。

 沖縄戦の経験から、基地のあるところが戦場になるということを沖縄は骨身にしみて知っている。だから対中危機を煽っての沖縄の恒久基地化や先島の軍事化は、「捨石作戦」の悪夢をよみがえらせる。だが日本政府、とりわけ中国敵視、日米同盟のワンセットからしかものを考えない安倍政権は、あらゆる手段を使って沖縄世論を切り崩し、有無を言わさぬ強硬姿勢で基地建設を推進しようとしている。

 その意を汲むかのように、政府に同調する勢力が沖縄に圧力をかける。沖縄の「わがまま」を批判し、「お国」への貢献を求める。あるいは基地建設に抗議する人びとを誹謗中傷し、運動を民意から分断し孤立させようとする。それが「沖縄ヘイト」と言われる言動を生む。

 メディアについても「沖縄二紙を潰せ」といった発言が政府周辺から出る。沖縄二紙は地域紙だ。だから地域住民の関心に応える報道をする。地域紙なら当然のことなのだが、「国家」を掲げる者たちは「国益」にかなった報道をせよと言う。つまり地域世論を操れということだ。それを最近では「国家第一」と言うようだ。ただし、「国益」と言われることはしばしば「私益」の隠れ蓑にすぎない。とりわけ、森友学園問題に如実に表れたように、首相の権力をあからさまに私物化している安倍政権の場合はそうである。

 沖縄では、米軍占領下で多くの人びとが「祖国復帰」を求め、曲がりなりにもそれが果たされ、しばらくは日本国家への再統合が進んでいた。しかし、くすぶっていた米軍基地問題が九五年に再噴出、日米安保体制下での日本と沖縄と接合の危うさが問われるようになり、以後、日本政府は沖縄の懐柔に腐心してきた。しかしいわゆる教科書問題で、沖縄戦の記憶を日本の歴史から抹消する意図があらわになると、対立の軸はもはや「保革」ではなく「沖縄と日本」になった。沖縄戦は戦後の沖縄の存立の原点だからだ。

 この対立は、人びとの記憶を一気に「琉球処分」にまで引き戻す。琉球国を廃して沖縄県を置く、それが近代国家草創期の日本政府によってなされた「処分」だった。沖縄が日本の他の都道府県と違うのは、この「処分」によって日本国家に統合されたという点である。他の都道府県は初めから日本国に属していた。だからその歴史を地域史として語るときにも、それは日本史の一部になる。だが、沖縄県は日本史とは違う固有の歴史を語りうる。その違いは沖縄戦と戦後の運命によってさらに強調される。沖縄県は地上戦で人口の四分の一を失い、そのうえ米軍占領下で基地の島に変えられながら、日本の行政権に属さない二十七年を過ごした。いわゆる「アメリカ世」だ。日本の歴史にそれがどう書き込まれるかは今後の沖縄の死活に関わる。

 近代の歴史は否定しようもないが、沖縄がいま日本の一地域として統合されているとしたら、その統合を望ましいものにするのが日本政府の責任だろう。だが、そこに亀裂が走り深まっているのが現状である。その対立は国家と一地方という非対称な対立であり、圧倒的な権力関係の下にある。沖縄の人びとが抱く「差別感情」はその表れに他ならない。

 「琉球処分」以来、たしかに日本は沖縄を属地のようにして扱ってきた。それは、一九〇三年大阪博覧会での「人類館」事件に露骨に表れていたし、また差別を受ける屈折した思いは山之口獏の詩などに深く表現されている。今では「沖縄県」はごく自然に受け入れられているが、このような対立が目立ってくると、アパートを借りるのに「沖縄人お断り」の看板がかかっていた時代に逆戻りする。本土に沖縄料理店が広まり、沖縄の海や風になじんだ「沖縄ファン」が増えても、彼らは「リゾート地沖縄」にしか関心がない。その風潮は無言の「差別」を後押しする。

 つい最近の衆議院憲法審査会で「国と地方のあり方」がテーマになったとき、複数の参考人から地方自治の「本旨」を強調する意見が出たという。自治とは自ら治めること、オートノミーである。国にとっても自立が必要だが、地方にも自治が必要である。それが民主国家の基盤でもある。沖縄が日本において十分な自治権をもつこと、それが統合の実りをもたらす道であり、「琉球処分」以来の「差別」の構造を解消する唯一の道であるだろう。

共謀罪法案提出とその時機2017/04/08

 この間の安倍政権のドタドタをかいつまんで振り返ってみよう。共謀罪提出は、その内容ももちろんのこと、提出の状況もとんでもないものだからだ。

-去年11月のアメリカでのトランプ当選に大慌て。TPPで奉仕(強行採決)の目算が狂い、「アメリカ・ファースト」になりふり構わず「日米同盟ファースト」で抱きつき。11月下旬には問題が多いまま自衛隊に「駆けつけ警護」の任務を付けて、内戦状況の南スーダンに派遣。一方で対ロ関係「進展」を地元山口で演出しようとしたが、剛腕ロシアのプーチンには軽くあしらわれ、その失敗を「電撃・真珠湾コウゲキ」で糊塗しようとする茶番。

 1月安倍訪米のあと本格的に始まった通常国会では、まず答弁できない稲田防衛相の「不適格」問題が露呈。南スーダン自衛隊派遣の責任者が、「戦闘」と言えないから事態は「衝突」、そう言わせる憲法9条が悪いと言わんばかりの答弁。そのうえ、昨夏の陸上自衛隊PKО日報が「廃棄」されたと防衛省が言いう。それを河野文書管理担当相の要請で「再調査」したところ、電子データがあることが分かり、これが2月に公表されるが、ほぼ黒塗り。

 明らかになったのは、稲田防衛相は防衛省(自衛隊)をまったく掌握していなということ、逆にいえば防衛省は省内のことを大臣に話していないということ。安倍首相に後継者と位置づけられて抜擢された稲田氏は、単純に大臣不適格だというだけでなく、実際に自衛隊は大臣を無視して独自に動いている(もはや「軍部」になっているということだ)。そんな大臣を罷免もしない、これが安倍政権の安保政策運用の実態だということだ。

 すでに大問題だが、それが何らの対処もされないうち、今度は「森友問題」が浮上。これは基本的には財務官僚による国有地不正売却問題だが、その相手が安倍総理夫妻と関係浅からぬ学校法人であり、用地取得が日本初の神道小学校「安倍晋三記念小学院」開設のためだったということ。さらに森友経営の塚本幼稚園の実態(園児が教育勅語暗唱、安保法制ありがとう、と安倍首相に感謝)が明らかになった。首相は国会で関係を否認してヒステリーのような答弁を繰り返したが、籠池理事長の会見を受けて、政府自民党は「懲罰」のために籠池理事長の証人喚問を受け入れ、そこで元警察官僚の議員を使って逮捕の恫喝に終始する。しかし森友学園の「愛国教育」が安倍首相の「理念」とも符合し、それを否定しなければならない首相の苦衷がはからずも表に出る。

 この件では、小学校に異例の認可推進を行った大阪府知事(維新の会)も絡んでいたが、松井知事は籠池元理事長を悪者にして居直る。そこに、さらに大規模な(森友9億、こちら30億超)安倍友「加計学園」問題も浮上。アベノミクスの売り物の一つ、いわゆる「特区」の「規制緩和」の実態が露呈。森友案件に深く絡んでいた首相夫人の「公私」が云々(デンデン)を「閣議決定」するという笑劇の一場もあったが、私人・公人の問題ではなく、公権力の「私物化」こそが問題。たしかに、それを禁じる法律はないが、これだけの「背任」にも検察はまったく動かず、地方議会議員が告発するのみ。もはや日本では、権力を手にしたら、憲法無視はもちろん(集団的自衛権行使容認以来)、何でもできるということが明らかに(それまで政治家たちがやらなかったのは、自民党内に相互牽制があったのと、いかにも政治家としてはしたないことだったから)。

 そして「教育勅語」が話題になったこの機会に、なんと政権は戦前体制のバイブルだったこの「勅語」(もちろん天皇が作ったものではない、天皇を統治に利用しようとする連中が作った)を学校で使うのも悪くない、と「公認」路線をうちだす。

 折しも、正規教科にされた道徳の教科書検定で、パン屋の例が相応しくないとして和菓子屋に変えたらパスという事態も(ケーキより毒まんじゅう、プリンよりコンニャク?)。そのうえ体育に銃剣道(こんなものが「道」だと聞いたこともない、弾がなくなったときの「一億ギョクサイ」訓練)も取り入れると、異常としか言いようのない文科教育方針。ドサクサまぎりに何でもやる、というだけでなく、ネガティヴにでも話題になったら通りがよくなったことにして押し通すというあられもない手口。

 3月には東芝崩壊が明らかになった。日立も減損を計上したが、東芝は1兆超えの減損。みんな原発商売のため。原発は東芝を潰すほど、もはや商売にもならない。にもかかわらず安倍政権は原発推進をやめようとせず、それを「忖度」して裁判所まで再稼働を許可する判決を出す。一方で被災者支援を3月で打ち切り。現場はまったく「コントロール」されず、年間1ミリシーベルトの国際基準を、日本は大丈夫とばかり20ミリシーベルトに挙げて被災地に帰還を強いる。そして経産省は「日本ってすばらしい!」という恥ずかしさもきわまる国際広告を打つ。

 そこに今村復興大臣(東電株もたくさんもっているようだ)、「自主避難者は自己責任」、国の方針に従わない者は面倒見ない、と復興法にも背馳することを公然と言い放ち、質問する記者を脅して追い返そうとする。こんな大臣も罷免しない。実際、この政権の閣僚は、首相がひどいから目も当てられないような連中しかいない。

 このドタバタの陰で、去年の女性暴行殺害死体遺棄事件やオスプレイ墜落事故をも忘れさせ、山城平和センター議長を5か月以上も拘留し、辺野古の新基地建設工事は着々と進めていて、あらゆる反対を押し潰して近く最初の埋立てを始めるという。

 問題が起こるとさらに大きな問題で騒ぎを後ろから前倒しに潰し、次々に問題をさらに大きな問題を押し流してゆく。それがこの政権のやり方である。次々に閣僚の失態や失格が明らかになるが、それでも「問題ない」としてこのデタラメ内閣は責任者に責任をとらせない。

 だが、これだけ政権の土砂崩れが起こると、いい加減年貢の納め時かなとも思うが、そこに共謀罪を上程して、また他の騒ぎを押し流そうとする。そう、この政権はいま、強力なサリンを撒いて政権批判を押し潰そうとしているかのようだ。それが共謀罪上程である。もちろんこれは、警察権限をほぼ無制約に拡大する最悪の治安立法である。それを持ちだして、稲田・森友・加計・安倍政治問題・失格大臣やその他の政権の崖崩れを、もっと大きな災厄(共謀罪)で潰して苦境突破を図ろうとしている。

 共謀罪(テロ等対策法?)が許せない悪法だというだけでなく、それをいま提出している安倍政権そのものが、いかにひどい政権であるかということを確認しておかなければならない。ほんとうにとんでもない「亡国政権」だと言わざるをえない。この先にはもう日本の瓦解しかない。個人の人権とか自由を守るとかいった贅沢な話ではない。この政権の延命の先にはこの国の瓦解と荒廃しかないということだ。

民主主義を取り戻すために2017/04/03

ピエール・ロザンヴァロン『カウンター・デモクラシー』について――

民主主義の根を絶ちかねない「共謀罪=テロ等防止」法案が国会に上程されようとしている折も折、岩波書店からピエール・ロザンヴァロン(仏)『カウンター・デモクラシー』の翻訳が刊行されました。もちろん、悠長に本など読んで勉強している余裕もない昨今で、いい加減うんざりさせられますが、それでもなお、なぜデモが必要なのか、どうしてそれがわれわれの権利なのかを納得させてくれる本です。民主主義の歴史をつぶさに検討しながら、今日もどこかで声をあげることの必要と正当性を確認させてくれます。
巻末に、この本の意義を説く解説を書かせていただきました。広く目をとおしていただきたく、一部をここに掲載します。

●監視し、阻止し、裁く――民主主義を取り戻すために

・安倍政権下の官邸独裁(略)

・民主主義を実効化する智恵(略)

・「不信のまなざし」はなぜ必要か
 
 民主主義を実のあるものにするためには選挙以外にさまざまな方途が必要である。選挙はつねに信任の手続きだが、いったん選ばれてしまうと代表はその信任を離れやすい。だから権力を委ねる代表にはつねに「不信」のまなざしをもつ必要がある。

 権力の振舞いはできるだけ可視化し、それを監視しなければならない。そして権力の逸脱が見られるときには、さまざまな手段で抗議の意志を表明しなければならない。それがなければ民主主義は形だけのものに止まるだろう。多くの人びとが集まって意志表示するデモンストレーションはその重要な形態である。それはまたメディアによって可視化されなければならない。ここにこれだけの「民意」の直接表明があると。メディアが権力の補完物でないとしたら、それもメディアの役割である。

 監視し、阻止し、裁く。こうした権力への対応を本書の著者ピエール・ロザンバロンは「カウンター・デモクラシー」と呼んでいる。それは言うまでもなく民主主義に対抗するものではなく、代表選出だけではけっして完結しない民主主義を実質化する、民主主義のための不可欠の要素なのだ。

 もちろん、代表を選んだら基本的には彼らにすべてを任せておきたい。議員はそのために強い職権と手厚い保護を与えられているのだから。だが、往々にして彼らは裏切る。民主主義が選びを手続きに組み込んでいるからといって、それをある種の「選民」思想に横領しようとする連中さえいる。彼らは手続きさえ踏めばこの仕組みを「選民統治」に変えてしまおうとする。だからこそ「不信のまなざし」は欠かせない。

 民主主義とは多数多様の人びとの意志を集約する仕組みである以上、もともと一元的ではありえない。むしろ声の複数性を前提としている。それを代表の枠に強引に一元化するとき、民主主義は専制や独裁に転化する。それを防ぐためには、選挙に還元されない、選挙で決まったことにされない、このような多角的な「カウンター」が必要なのだ。それなしに民主主義は実現しえない。

 本書の著者はそのことを、近代の民主主義の成立の理念から、また多様な歴史的経験をたどりながら、つぶさに描き出している。折しも、冒頭で述べたように日本ではいま民主主義が最大の危機に瀕している。憲法違反が明かな決定が閣議でなされ、政権周辺から法的整合性は二の次だという声が公然とあがり、その閣議決定に基づいた安保法制が強行採決されても、ほとんどの主要メディアは政権に懐柔されて批判的監視の姿勢を置き忘れ、積み重ねられる不法は既定のものとなり、異常なことは何も起こっていないかのような気配だけが漂う。そしてあちこちで抗議の声が上がっても、そんなふうに騒ぐ方がおかしいといわんばかりの状況である。

 だが、日々の生活をひたひたと侵す不安に気づいた若者たちが、国会前に集まり抗議の声を上げる。そして「民主主義って何だ?――これだ!」とコールする。それをメディアは伝えるのを忌避し、町行く人びとは騒々しい連中がいるようだとしか思わない。沖縄の基地反対運動にいたってはさらに極端だ。何度も表明された民意をそのつどあからさまに振り払って、辺野古基地建設の強行が続く。その民意を「頑迷」だとか「過激」だとみなす気配まで作り出されている。

 いまやこの国では権力が監視されるどころか、権力の横暴に背を向けて抗議する人びとを白眼視する傾向さえある。もはや民主主義は足元どころか腰まで朽ちかけている。その現状の深刻さに目を覚ますためにも、民主主義とは何かをつぶさに確認するこの本は大いに役に立つだろう。民主主義を選挙だけに止めておいてはいけない。民主主義は危機のときにこそ、日々の「カウンター」によって支えられる。民主主義って何だ?これだ!と。

森友学園事件の本質は何なのか2017/03/07

いままで、何度か書かなければと思うときがあったが、なかなかブログを書く態勢をとれなかった。定期的に書かなければ意味はないとも言えるが、それでも書かねばならないときもあると思い…、覚書程度だが。
---------------------------------------------------------

 森友学園問題は安倍政権の命取りになるだろう(ならなかったら本当に「日本の政治の死」である)。

 重大な疑獄事件だからというだけではない(規模ではさらに大きな加計学園の件も出てきた)。安倍政権のもと、日本の官僚機構や行政体質がどういう状況になっているのか、その下でどんな類の連中がはびこっているのか、その実態が明るみに出て衆目に晒されているからだ。そのうえ、「安倍晋三記念」の名を冠しその「夫人」を名誉校長に据えた「瑞穂の国小学校」計画は、安倍政権が目標とする憲法改変がどんな社会をめざしたものなのかを、異様な塚本幼稚園とその延長というかたちで如実に示している。

 これをどう報道するかで、メディアも試練にかけられている。この件が明るみに出て、それでも政権の異常さを正面切って報道しないメディアは、その口濁しで政権の延命に手を貸し、日本の社会そのものを見捨てることになる。そしてそれを自覚できないメディアはもはや腐った魚である。事象を断片的に報道していても仕方がない。トップニュースでこれがいかに異様な事態かを連日報道すべきだ(後になって「反省」などしてもらいたくない)。

□国政の私物化(追従する官僚・メディア・その他)

 安倍政権の支持率は急落しているようだが(日経調査)、今まで異常に高かったのはたぶんにメディアのせいである。政権批判は「偏っている」と脅され、官房長官が会見で「まったく問題ない」と言えば、その判断を政府判断=公式判断として報じるだけだったからだ。外交案件では、政権の行動が「日本はこうした」「日本はどうする?」と無批判に報道され、国内では「政府のやることが正しい」かのように伝えられる。だが、問題は政府を担う政権の異常な性格なのだ。

 「事件」としては「国有地の不正払下げ」ということだが(元清和会系とのつながりがとりざたされる特捜部が動いたという話はまだ聞かない)、警察が立件しないとしても(これだけあからさまな事件を立件せずにはいられないだろうが)。この事件には安倍・日本会議系政権のあらゆる問題が凝縮、というより爛れた泥沼のように広がっている(日本会議は引こうとしているが、内閣の陣容を見れば、安倍内閣は日本会議・神道議員連盟内閣であることは否定できない)。

 ひとことで言って「国と政治の私物化」である。「国と政治」を彼らは「公」と言うから「公の私物化」だ。一般の言い方で言えば「公共の私物化」である。

 安倍首相は「私の妻(総理夫人)は私人」と言う。だとすると「総理大臣」であることは「私事」なのか。たぶん当人にとってはそうなのだろう。だから勝手にやっていい。憲法だって勝手に「解釈」で反故にできる。「だって私は総理大臣だから」。最高権力者なのだから「私」の夢を叶える。仲間を優遇してどこが悪い…。

 だからお友達や太鼓持ちや自分を支える連中(権力に付け入る者たち、超ウヨク・ヘイト団体)には便宜を図る。それは「私」の力の行使でもある。「私」は中国を嫌っている。それは今では「変化する国際環境」の中の「脅威」というアメリカの見方と一致する。だから在日(その向こうに中国)に対する「ヘイト」感情は正しい。そうして「ヘイト」と「公的見解」とは癒着する。

 その「公」と「私」の接続をごまかすために「巷=公共?」の空気を作るメディアを手懐ける。トップを変え、仲間を送り込み、プチ・ボスたちに寿司を食わせて、それぞれの組織内にはびこらせる。

 「公の私物化」にうま味を見る連中(「私物化=privatization」を金科玉条に利権をあさるネオリベたち、竹中某、それに日米安保マフィア・原発ムラ等)が安倍と組む。

□「美しい国」(改憲後の日本)の雛形とそのからくり

 しかし、森友学園経営の塚本幼稚園の実態は、安倍・日本会議的な国民統治と教化のまたとない雛形を示している(「理想」とは言うまい。彼らにそんな立派なものはなく、しみったれて邪まな想念しかないから)。国民は幼い子供のときから洗脳され、「悪イチューゴクやチョーセンから大人たちが日本をマモッテクレル」と唱え、「アベソーリ、がんばって!安保法制ありがとう」と言って盲従小国民になる。北朝鮮とそっくりではないか。

 そしてそんな「神道教育」を施す連中はと言えば、彼らの押しつける「献身と盲従」の「国民精神」とはまったく反対の、子どもと親を食い物に賄賂とタカリで大きな顔をしたがるだけの小悪党たちだ。そんな学校・幼稚園が教育勅語をありがたがる。要するに「教育勅語」とは、そんな小悪党どもが自分たちののさばる社会を作るために子供たちに押しつけるのに恰好のものなのだ。「勅語」に照らしたら、真っ先にトンカチで頭を叩かれるような連中だ。安倍政権が目ざす「憲法改正」の生み出す社会とはこういうものなのだということが、この森友学園の腐れ沼に如実に表れている。

 そんな連中の群がる安倍政権の「公の私物化」に官僚たちが手を貸している。非自民の政権はサボタージュで潰そうとした官僚たちが、安倍政権には諾々と従っているのだ。彼らは保身しか考えていない。政権の具と化した内閣法制局長と同じように、この国の官僚たちは国よりも保身が大事なのだ。あるいは、「対米従属」(これを「日米同盟」と言っている)を不動の国是と思い込む官僚たちが、安倍政権を進んで支え、安倍の「強い国」妄想に乗っかろうとする。そう、安倍は以前から"Make Japan Great Again!"だった(ただしそれは国内だけで、その前提は"America first!")。日本では志をもって国のために働く官僚はいないのだ(いたとしても出世できない)。
 
 森友学園事件は、安倍の「美しい国」政治がいかなる社会を作るのかを白日の下にさらした。検察が動こうが動くまいが、これでも政権が倒れなかったら、この国についてもう言うことはない。ただ、それでも覚えておきたいのは、安倍がトランプ当選に慌てて、いち早い訪米を画策していたとき、トランプのアメリカは麻生を同伴させることを要求してきたことだ。この国の試練は続く。

*こういう政権が沖縄に強引に基地を作ろうとし、南スーダンに自衛隊を送っている。沖縄を「ヘイト」の対象にしてはならないし、自衛隊は塚本幼稚園の園児扱いにしてはならない。

沖縄・高江で起きていること2016/10/20

 いま、日本で日々起きていることを黙って見ているしかないというのはなかなかに辛いものだ。

 請求されて国会に提出する資料は真っ黒で、質問に答える気も、能力も、道理もない首相が、答弁にならない駄弁で時間だけ潰し、担当大臣はどこかの集まりで公然と、強行採決を決めるのは自分ではないと楽し気に語り(ということは、裏では日程をこなしたら強行採決と決められているのだろう)、去年9月の安保法制と同様、「売国協定」ともいわれるTPPも今月末には採決されることになっている。たしかに、これがこれが何年か前までメディアが騒ぎ、国民が求めたとされる「決められる政治」のやり方なのだろう。

 沖縄では、行政訴訟にかかって辺野古が動かない間に、安倍政権は高江の米軍ヘリパッドの建設を急いでいる。年内にここを完成させて北部演習場の返還を果たし、基地が減ったと宣伝するためだ。

 そのために、本土からやむにやまれぬ思いで行った支援者をむりやり逮捕・拘留し、新潟県知事選で与党が惨敗した翌日には、ここ数年、反対運動を現場で支えてきた山城博治さん(沖縄平和運動センター議長)を胡乱なやり方で逮捕し、抵抗運動を潰そうと露骨な攻勢に出てきた。

 その逮捕も前から知っていたかのようにすぐに配信する「事情通」の産経新聞の記事によると、「現行犯」(産経)で逮捕した山城議長(実際には、聞きたいことがあると呼び出されて警備車両に乗ったところを、だまし討ちのように逮捕された)を、警察は今度はN1テントでの防衛施設局職員から書類を「強奪」した件で再逮捕するらしいという(その通りになった)。日米地位協定の絡む刑事特別法ではなく、器物損壊、傷害、窃盗といういわゆる破廉恥罪で拘束し、反対運動を貶めて潰そうという意図が露骨だ。

 だが、その翌日、高江工事の防御のために張られたフェンスの前で、抗議する市民に対し警察の機動隊員が「どこつかんどるんじゃ、ぼけ、この土人が…」と罵倒する場面が撮影され(よりにもよって、相手は目取真俊さんだった!)、他でも「黙れ、こら、シナ人」などと暴言を浴びせていることが報じられた。

 公務中の警察官の発言である。大阪府警が派遣した機動隊だった。その機動隊員は召還されようだが、当の大阪府松井知事は、「表現は不適切でも、一生懸命職務を遂行しているのがよくわかる、出張ご苦労さん」とねぎらうツイッターを発信。さすが、この間、「ワサビ寿司」や韓国旅行者少年への暴行などでヘイト・クライム(人種差別行為)の本場になっている大阪である(松井一郎は日本維新の会の党首でもある)。

 同じ日、白紙領収書の私文書偽造も含め、あらゆることへの「問題ない」発言で問題の菅官房長官は、機動隊員の暴言をさすがに「問題ある」としたが、同時に、北部訓練場の12月返還を沖縄県に通知し、高江のブルドーザー薙ぎ倒し作戦が不退転のものであることを明示した。

 産経新聞が「移設反対派の暴力常態、防衛省職員倒され被害届」と一面で報じ(9月26日)、「反対派暴走、地元住民が怒り、不法侵入、勝手に検問」とネガティヴ・キャンペーンを打ったのが合図の狼煙だったかのように、この間、工事阻止の運動に黒子として献身してきた本土からの支援者が、10月4日に那覇空港で逮捕された。また、抵抗運動の象徴的存在として車椅子で辺野古に通っていた87歳の島袋文子さんが、しつこく接近し付きまとうビデオカメラを振り払ったのを「暴行」だとして告訴された。そんな恥知らずな告訴をしたのは、「日本のこころを大切にする党」参議院議員和田政宗のスタッフである。

 こうして、御用メディアや異常政権の岡っ引きたちが「反対派は暴力的な不法集団」との情宣を活発化して、政権の下劣な「無法」ぶりを代行しかつ隠蔽する一方で、主要メディアの反応は鈍いし、はがゆいほど及び腰だ。ロシアや中国や北朝鮮が何かすると、かならず「…という意図(思惑)があるとみられます」と、勘ぐりまがいのコメントを欠かさないのに、現在の政権のやることに関してはどんな批評も働かせず、むしろ「問題ない」のコメントでホウドウを切りにする。

 酷いことは重ねれば重ねるほど、新たなヒドサが前のヒドサを覆い隠して忘れさせる。沖縄防衛局の要員が増えているのは、夏の元米海兵隊員による女性暴行殺害・死体遺棄事件への対応として、防犯警備の強化予算がついたからだ。それで派遣された要員が、じつは辺野古や高江の警備に回っている。そしてこの事件の事後がどうなったのか、もう誰も気にするゆとりがない。

 こうしてだまし討ちのように始まったオスプレイ沖縄配備を既成事実とし(世界のどこにも配備できない厄介モノだ)、沖縄の基地は永続化される。たとえそれが米軍から返還されるとしても、そこは永続的に「日本軍」の基地とされるだろう。だからどこかのトランプと同じで、「日本が一番」が好きな政権は、ともかく基地を作りたがる。アメリカに褒めてもらうためにも。

「一夜明けて…」(選挙戦の終り)2016/07/10

 なんの翌日だというのか、目覚めるとともに「一夜明けて…」とふと思う。昨日は雨模様、それほど強くは降らなかったが傘が手放せない一日だった。ところが今日は、すっきりとは言えないが晴れている。そのせいもあるだろうか。だが、ひょっとしたら、いつになく多くの人たちがこんな感慨を抱きながら目覚めたのではないかと思う。今日が投票日だ。

 昨日まで、ともかくみんな走ったようだ。それぞれの歩調で。参議院選挙は衆議院総選挙と較べれば、任期6年の議員を半数選ぶだけの限定的なものだ。だが、多くの人びとが、2016年7月のこの選挙を特別の選挙と受けとめ、投票するだけでなく、状況を変えるためにみずから関わった。ツイッターで呼びかけるだけでなく、支持候補の選挙事務所にヴォランティアとして出かけ、街頭演説の手伝いもした。かつてない選挙と言ってもいいだろう。

 それでもメディアは投票率50パーセント、改憲勢力2/3との予想を伝える。これまでの予測があまりはずれないことを考えると、実情はそうなのかもしれない。だとしたら、去年の夏の安保法制反対の国会前抗議以来の持続的な活動と、多くの人びとが積極的に参加した今回の選挙模様をも帳消しにする、さまざまな力学が働いているということであり、状況はすでにそこまで来ているということだ。

 その状況への対応もまた不断に続けてゆかねばならない、と思い直す「一夜明けて…」。

 参院選期間中に起きたいくつかの出来事を想起しておこう。
 ・フランスで今も捜査中の東京オリンピック買収疑惑
 ・舛添都知事不品行で辞職
  →3・11後4度目の都知事選(石原、猪瀬、舛添、?)
 ・福島で小児甲状腺ガン患者約160人
 ・バングラデシュの「テロ」で日本人7人の犠牲
 ・尖閣周辺で中国機の異常接近や、選挙前日の北朝鮮ミサイル発射
  ・アメリカで人種問題(黒人と白人警官)先鋭化

選挙のためにできること2016/07/03

 しばらく遠ざかっていたブログだが、いままた怠惰に鞭打って書かなければと思う。あふれるネット情報のカオスのなかで、小さなゴミのように流されるだけだとしても。
    *     *     *
 
 参議院選挙が始まったある日、大学からの帰り、思い立って近くにあるはずの野党候補の事務所に寄ってみた。参議院議員比例区に立候補している有田芳生さんの選挙事務所。この人はいつもヘイトスピーチ・デモの現場に立ち、国会でつい最近実現した「ヘイト対策法」の成立に尽力してきた民進党の議員だ(デモの現場には他に共産党の池内さおりさんがいつもいた)。

 ヘイトスピーチは一見、小さく特殊なテーマのように見える。しかし「在日●●人を殺せ、叩き出せ!」と叫ぶデモには、日本と近隣諸国の関係とその歴史についての無知(隠蔽)にあぐらをかき(蓋をし)、そこに居直って日本社会が生み出した弱者を露骨にいじめ、そうすることに快感をもつという、もっとも下卑た心性の誇示があり、それを公共化することで排外主義の風潮を煽るという毒がある。そしてなにより、権力の姿勢を背に、この国に住む人びとを日常の地平で感覚的に脅かすという害毒がある。

 それを放置すると社会は日々の生活の地平から腐食される。そしてそこは、ただでさえ弱い立場の人びとを、その弱さゆえに傷つけ抹消しようとする、あらゆる差別の力学がもっとも具体的かつ社会的に働く現場である。さらにそれは、日本の一部の歪んだ歴史認識(歴史の否認や美化や居直り)の上に立ち、現在の「右傾化」を体現する安倍政権を下から支えるものになっている。だから一見マイナーに見えるこの問題は看過できないのだ。

 何の規制もないなか、数年前からいわゆるカウンターの運動がこのヘイトスピーチに対峙してきた。しかしこれには法規制が必要だ。こういうことが許されないという社会的規範表示が必要だ。有田さんはいつもカウンターの現場に立ち、国会でヘイト規制を法制化すべく粘り強い取り組みを続けてきた。さまざまな錯綜する事情はあったが、ともかくつい先ごろ反ヘイト法は成立し、ただちにデモが規制されるという変化も表れてきた。

 有田さんは拉致問題にも長くかかわってきた。ただしそれは、安倍政権によって狡猾に利用されてきたこの問題を、ひたすら被害者の立場に寄り添い、国家の恣意を炙り出すという関わりだ。

 その有田さんは、6年前はとくにオウム事件で活躍したジャーナリストとして知られており、高得票で当選したが、どちらかというと地味な人で、まったくプロの政治家らしからぬ、取柄としては地べたの課題に這って取り組むことだけのようだから、とても選挙に強いとは思えない。そのうえ、安倍政権の別動隊のようなヘイトマニア・ネトウヨの目の敵にされ、執拗な攻撃に晒されている。

 路上と国会で地道な活動に没頭して、かつての知名度はすっかり色あせている。他の議員たちのようには選挙のための活動をしてこなかったのではないかと危ぶまれる。

 けれども(だからこそ?)、有田事務所にはいつも人が集まってくる。有田さんの活動を助けてきた人たち、その活動に実際に助けられた人たち、たまたま近くに住んでいて手伝いたいと思い立ったひとたち。みんな「微力な」人たちだが(去年ノーベル文学書を受けたベラルーシのスヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチが「小さな人びと」と呼んだような人たち)、少しでもできることをと、集まってくる。新潟から数日、大阪からの出張ついでという人もいる。もちろんみんなボランティアだ。有田さんが落ちると、ヘイト集団を喜ばせ勢いづけることになる(その代表者はこんど東京都知事選にも立候補するという)。だから何としてでも有田さんを国会に送りたい、そう思う人たちが一時間でも二時間でも事務所に立ち寄って、自分にできることをやってゆく。

 3年に1度の参議院議員選挙だが、今度の選挙には、安保法制、軍需産業・軍事研究推進、尖閣危機を煽っての軍事体制強化、年金等資産の投機投入、TPP推進による国売り(支配層だけ稼ぐための)、福島事故を洗い流して原発再稼働、等々重要課題が懸かっており、そのすべてが改憲をめざした参院2/3確保に集約されている。

 憲法を無視し、法律も恣意的に曲げ、メディアも抱き込み(言うこと聞かなければ排除し)、日本という国を自分たちの思うように変えてしまおうとする(その先には「亡国」しかないことを歴史が示している)いまの安倍自民・公明政権に、ブレーキを掛けられる機会はさしあたりいましかない。いま何かしなかったらもう遅いという段階に来ている。

 わたしは有田芳生という人をほとんど知らない。一二度ことばを交わしたことがあるだけで、あとは新聞や雑誌を通してその活動の一端を見聞きしているだけだ。けれども、はっきりわかっているのは、こういう人を落としてはいけないということだ。ちょうど事務所が勤め先の近くにあった。望ましい結果を得るためにできることは、ただ投票することだけではない。選挙運動には細かいルールがあって、ポスターに法定シールを貼ったり、はがきに宛名シールを貼ったりするのには相当の人手がいる。ポスター貼りや街宣の手配もある。資金も組織からの支援もない候補の運動を支えるのは、その人手になるポランティアの人たちだ。ふだんは大学の教室で講釈するのが仕事のわたしも、今回はこのような人たちとともに有意な「人手」になりうることをひそかに誇りに思っている。

汚泥に沈み込む前に(論考2015-⑫)2016/01/06

*以下が「論考2015」の最終回です。

 パリの風刺週刊紙シャルリエブド本社などが襲撃されたニュースで明けた今年は、再びのパリ襲撃の余波のなかで暮れようとしている。世界は過激派組織「イスラム国」への空爆で慌ただしい。

 ▽全人類の敵

 エジプトでのロシア機墜落を「イスラム国」のテロと断定したロシアがシリアで爆撃を始め、パリ襲撃後はフランスも攻勢を強める。慎重派の英国も加わった。トルコ軍機によるロシア軍機撃墜もあり、シリアやイラクをめぐる混迷は深い。その陰で「最悪」の底を踏み抜くようなパレスチナの民衆弾圧はほとんど報じられず、欧州連合(EU)に殺到した数百万人規模の難民も、寒さのなかに置き去りの様相だ。

  「テロとの戦争」を率いる米国のオバマ大統領は、パリ襲撃の直後に「普遍的価値を共有する全人類への攻撃だ」とする声明を出した。だとするなら、世界はいま「人類の敵」との戦争に向かっていることになる。

 その「戦争」が守ろうとする「文明世界」では、自由主義経済の美名のもとで多国籍企業の群れが巨大な権力をもつ。

 人類は昔ながらの農耕に替え、遺伝子組み換えで効率的、工業的につくった食品を摂取し、薬品やサプリメントで「健康」を保ち、先端医療で病気を撲滅して寿命を延ばそうとする。人口増加や高齢化の問題は、「文明を享受すべき者」と「死ぬべき者」を経済で選別することで解決される。後者は戦場や飢餓や感染症の現場に送られ、情報技術(IT)で快適に保たれた「安全保障」のカプセルの中で富裕者が安らぐ。それが近未来図だとしたら「文明」とは何と倒錯的なことか。

▽文明が倒錯

 折しもパリで開かれた国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)で、有効な合意ができなかったのも、ある意味で当然だ。なにしろ主要国である米国の代表は、米国を牛耳る集団の、つまりは多国籍企業群の利害を代表している。その企業群が他でもない「文明」の推進役なのである。

 その担い手たちは目先の業績しか考えず、将来のことなど眼中にない。その権利を「自由」の名において主張し、公的な規制に公然とあらがう。抗議する人びとを「テロリスト」呼ばわりする。だが、実際に全人類や次世代のことを考えているのは、権力をもたない市民たちの方なのだ。

 「価値を共有する」と安倍晋三首相は言う。その相手は「文明」の担い手たちなのだろう。その価値を守る「テロとの戦争」には終わりがない。そのため「戦時体制」は恒常化する。それは国内統制の最も容易な手段でもある。「安全保障」の大義を掲げる政府が国民・市民の「自由と民主主義」をまるごと吸い上げていく。

 温暖化対策やコストの問題があるから原発はやめられない、と安倍政権は言う。だが人間のコントロールできない放射能を生む原発は最悪の公害源でもある。汚染物質は化学で処理できても、放射線被ばくは無害化できない。それでも巨大な利権と核兵器製造の潜在能力を保つために、原発に固執する。

 ▽現代の危機

 「棍棒での決闘」と題するゴヤの絵がある。土中に足を埋めた2人の男が殴り合う。フランスの哲学者ミシェル・セールは、この絵が現代の危機を示していると解釈した。闘いが熱を帯び、観衆が熱狂するにつれて足元がぬかるみ、いつしか誰もが身動きできず、泥土に沈み込んでいく…。

 これは「文明」と自然との闘いであり、人間同士の闘いでもある。その決着がつく前に、闘いの枠組みそのものが崩れてしまう。科学技術の野放図な発達やグローバル経済の専制によって、人類はそのような抜き差しならない状況に至っているというのだ。2015年の世界が「戦争」の気配を醸しているとするなら、セールの寓意は、ますます現実味を帯びていると言わざるをえない。

 そして日本ではいま、「政治」の枠組みが崩されようとしている。戦争は政治の破綻から起こる。「戦争」に向かって身構える日本、「戦争」へとなだれ込む世界、この流れを食い止めるには、まずはそれぞれの国の「政治」の回復が欠かせない。そのための努力を惜しむようなら、私たちは汚泥に沈んでいくことになるだろう。