ムハンマド戯画事件を想起する2015/01/11

 「シャルリ・エブド」襲撃を機に、「西側」の世界で「"表現の自由"に対する暴力」を糾弾する動きが高揚している。フランスだけで言えば、フランスの固有の価値、共和国理念が、この一点に集約され、右から左までの団結ないし連帯の軸として掲げられている。

 だが、今回の事件の深刻さの要所はそこだろうか?襲撃されたのは風刺紙本社だけではなく、警官とユダヤ人用商店も同時に攻撃された。要するに、何であれ「反イスラーム」とみなされたものが標的になっている。とくに目立っていたのが「シャルリ・エブド」だったということだ。

 だから今回の事件を「"表現の自由"に対する攻撃」と括ってしまうことには賛成できない。ただ、そう括れば、西洋社会=西側世界では「満場一致」が作り出される。それに乗って、秘密保護法を強行した安倍首相でさえ、「言論の自由を守る」といった空々しい発言ができるし、ついでにヘイト・クライムも「表現の自由」だという話になりかねない。

 ここには、現代世界を理解するうえでの重要な論点が隠れているが、いますぐにそれを包括的にまとめる余裕がないので、西洋とイスラーム世界の関係にかぎって、2006年に「ムハンマド戯画事件」が起こっていたとき共同通信の依頼でまとめた文章を、参考までに再掲しておきたい。
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《誰が「表現の自由」を必要としているのか?》

 欧州のメディアに掲載されたムハンマドの戯画をめぐる抗議行動は、いまやイスラーム世界の全域に拡がって死者さえ出ている。

 デモが暴動化する事情は単純ではないようで、国によっては、民衆の西洋に対する反発を政治的に利用しようとする意図もうかがわれる。とはいえ、新たな「イスラーム冒涜」に対して、大衆的な怒りが広まっていることは否定できない。

 騒ぎに便乗して戯画を転載するメディアもあるなかで、国際ニュースで定評のあるフランスの週刊誌「クーリエ・アンテルナショナル」は、「これほどの騒動に値するものか」と問うかたちで、ウェブ版にあえて一二枚の戯画を紹介した。

 それを見てみると、たしかにわれわれにはそれほどショッキングな印象も与えない。けれども、一歩踏み込んで考えると、そこにおそらく西洋的社会がイスラーム世界に相対するときに陥る落とし穴があるのだ。

 西洋型の社会では国家と教会、政治と宗教は区別される。そして公共的な議論を保証するために「表現の自由」が要請されている。ただし、「自由」も無制限というわけではない。今回の議論でもイスラム側から逆用されるように、ドイツやフランスではホロコーストを否定することは法律で禁じられている。

 なぜかといえば、ナチの国家的犯罪の再来を防ぐため、犠牲者が侵すべからざるものとして「聖化」されているからだ。ドイツやフランスでは、そのことが公的な価値観の準拠になっている。だから「表現の自由」もそこには踏み込めない。

 その反面、宗教的権威は揶揄しても罰せられない。西洋社会はあらゆるタブーを解消しようとし、それを「自由」の証しとしてきたが、別の形で禁止を設定しているということだ。

 けれどもイスラーム世界では事情が違う。そこでは宗教は私的な信仰というより、すでにして日常の規範であり、世界観の枠組みでもある。現在の多くの国家が西洋の支配下で作られたという事情もあり、人びとのアイデンティティにとって国家よりもイスラームの方が意味をもつことが多い。とりわけ現在のように、それぞれの国の政府が西洋主導の国際秩序のなかで自立性を保ちがたいときにはそうだ。だからイスラームの宗主の冒涜は、ただでさえ傷つけられた人びとの共同的な自尊心を逆なですることになる。

 そのことが西洋には理解されず、イスラームには「自由」がないと批判される。そして西洋はみずからの流儀をイスラーム世界にも通用させようとする。けれどもそれは、ムスリムにとっては侮辱でしかない。結局そのしぐさが「文明の衝突」を仕掛けることになる。

 ただしこう言うのは、女性の抑圧などイスラーム社会にしばしばある因習を擁護するためではない。強調したいのは、「自由」や「権利」の要求は、それを欠く者にとってこそ正当であり、力をもつ者たちがかざすとき、おうおうにして恣意や横暴に流れるということだ。

 「テロとの戦争」以降、イスラーム世界は「テロの温床」として公然とマークされるようになった。その影響は西洋諸国内の移民たちにも及び、つい最近フランスではパリで暴動が爆発した。その一方で、アフガニスタン、イラクに続いて、いまイランが核開発をめぐって「文明世界」の制裁の標的にされようとしている。そんな中、最悪の占領状態が止まるところを知らず悪化していたパレスチナでは、最近の選挙で民衆はイスラーム原理主義のハマスを選んだ。

 西洋社会が「この程度で」と思うような戯画のために、人びとが怒りにまかせて大使館に火を放ち、あげくに警察の発砲で死者を出す。その不幸な光景は、力任せに「解放」を押しつける西洋によって苦汁をなめさせられる、現在のイスラーム世界の隘路を映し出している。

 この力関係のなかで、「表現の自由」を必要としているのは実は誰なのか。イスラームを気楽に揶揄する者か、それとも生傷に塩をすりこまれる思いに耐える人びとか、よく考えてみる必要がある。

(2006年2月8日、共同通信配信)

「2022年、おれもラマダンだ」―戯画紙襲撃事件2015/01/09

 1月〇日

 正月早々によくないい風邪を引いたがなんとか収まり、ちょうど催促もあったので、半ばに三鷹市の市民グループが企画する研究会での事前配布用資料を準備し始めた。テーマは「イスラーム国と中東の液状化」。

 中東専門家でもイスラーム研究者でもない者がなぜこのテーマで話をするのかは、不思議に思う人もいるかもしれない。きっかけは1990年前後のラシュディ事件の頃、この事件をめぐる論議に、西洋とアラブ・イスラーム世界との長い歴史と精神史をふまえた独自の視点から介入し、いわゆる「表現の自由」の問題を脱構築したフェティ・ベンスラマの小著『物騒なフィクション』を訳したことだった(1994年 筑摩書房)。

 それ以来、とくに宗教と政治の分節と錯綜、社会の定礎、グローバルな近代化などの観点から、西洋とイスラーム世界との関係には注目してきた。2001年11月末にBS・NHKで臼杵陽、酒井啓子両氏と『徹底討論 アメリカはなぜ狙われたのか、同時多発テロ事件の底流を探る』(岩波ブックレットに同題で収録)に参加したのも、それを知るプロデューサーに請われてだった。

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 その朝、なにげなくネットでフランス2のニュースを見たところ、6日午後8時のニュースに、いささか物議をかもす新作を発表したばかりのミシェル・ウエルベック(Michel Houellebecq)が招待されていた。レユニオン生まれの異貌の作家の新作は『服従(Soumission)』という近未来政治社会小説で、2022年の大統領選でイスラーム政党が勝利し、フランスにイスラーム政権ができるという話だ。学校で女生徒がスカーフをかぶるのはもちろん、一夫多妻制も認められるようになる。

 フランスでは今イスラーム人口が増えている。それに対する不安が移民排斥傾向をもつ極右政党国民戦線への支持を増やしている。そこにEU統合深化がもたらす社会解体の圧力もあり、フランス的価値を掲げる反EUの国民戦線にはますます票が集まる。現に、去年の地方議会選でも躍進し、欧州議会選挙では、保守・革新の主要政党を抑えてついに第一党になった。

 在来の保守系や社会党は親EUで共和主義、そのためイスラーム系住民は投票先がなく、独自のイスラーム政党を作って自分たちの立場を代表させようとする。その結果、2022年の大統領選では、第一回投票で勝ち残り、国民戦線のマリーヌ・ルペン党首と一騎打ちになり、とうとう勝利するというのだ。決選投票では投票率も下がるだろうが、それでも多くの有権者は、人種差別やファシズムを思い起こさせる国民戦線より、近代原理を受け入れた穏健イスラームを選ぶということか。

 この小説、ものはまだ手に取ってないが、この設定だけでもかなり興味深い。移民問題を近隣諸国問題、EU問題を対米問題と置き換えると、だいたい日本でも似たことが起きている。ただし、日本では保守党が右に吸収されて、もう「国民戦線」のような政権ができてしまっているのだが。

 フランスの事情についていえば、すでに二十年も前に一年間パリに住んだとき、向いのアパートの典型的なパリ小市民が、隣の部屋のマグレブ系住民を念頭に置きながらかどうか、「うちの息子たちは大きくなったらコーランを覚えなくちゃならなくなるよ」と言っていたのが思い出される。人口増の移民二世はフランスでは自動的に選挙権をもつ。そんな状況に対する大衆的な不安がそのままこの「フィクション」にリアリティを与える。

 それに、文学のあり方としても興味深い。選挙予測のパラドクスというのもあるが、世論調査が結果に影響を与えるのをどう制御するかということが話題になる。が、このような「人気作家」の作品が社会の成り行きに影響を及ぼさないわけにはいかないだろう。もはや純粋なフィクションというのはありえず、この「近未来」物語もわれわれの現実の時間にじかに介入し、絡んでくる作りになっている。

 タイトルについて触れておこう。「服従」というのはそのまま「イスラ―ム」を含意している。キリスト教やユダヤ教とは違ってイスラームは「イムズ」では呼ばない。「イスラミズム」と言うと、政治化したイスラーム運動のことを言う。ムハンマド教とも呼ばない。ムハンマドは神ではなく預言者だからだ。「イスラーム」とは唯一絶対無限の神に対する、有限で非力な人間の「服従」「絶対帰依」を意味する。あるいは無限の神の前に「身を投げ出す」ことを。「絶対帰依」はそのまま無限の神の肯定であり、これが信仰の姿勢なのである。だからこの信仰は「イスラーム」と呼ばれる。

 ウエルベックは「服従」というタイトルの背後にこの「イスラーム」を響かせているが、同時にそれはイスラームに対する「服従」ないし「屈服」を響かせる。

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 パリの風刺週刊紙『シャルリ・エブド(Charlie Hebdo)』の本社事務所が襲撃されたという衝撃的なニュースが入ったのはその翌日だった。折から7日付けの同紙の表紙は「魔術師ウエルベックの予言」と題するその作家のカリカチュアで、「2015年、おいら歯がなくなってるぜ」、「2022年、おれもラマダンだ」という吹き出しがある。
 
 オランド大統領はただちに「共和国に対する攻撃、表現の自由に対する攻撃だ」と非難し、7日の夜には11区の現場から遠くないレピュブリック(共和国)広場に10万を超える人びとが集まり、「私はシャルリ」と書いたパネルを手にして12人の犠牲者への連帯を示した。
 
 「表現の意志は暴力は屈しない」、街頭壁画のバンクシーもすぐに一枚のデッサンをネットに流した。一本の鉛筆、ボッキリ折られた鉛筆、しかし折られた端からまた芯が出て鉛筆は二本、になっている。
 
 ただ、なぜ『シャルリ・エブド』なのか――もちろん2006年のいわゆる「モハンマド戯画事件」以来の同紙の「懲りない」姿勢があげられる――、は考えてみたい。それに、今度の「襲撃」が、ただの強盗のたぐいではなく、明らかに「戦闘経験」のある私的なコマンド(おそらく背後の組織的関係などはない)によるものだということも。
 
 この事件に、「イスラーム国」の資料をそろえているときに遭遇してしまった。(つづきは別稿)

*7日付けの同紙はたちまち売り切れ、ネット上で7万ユーロ(990万円)の値がついているという。何でもすぐ金にする(市場に出す)連中がばっこするのも当世だ。