「名誉ある戦後」か「屈辱の戦後」か ― 2014/06/09
じつは今日6月9日(月)、衆議院第一議員会館会議室で「立憲デモクラシーの会」の記者会見があった。安倍首相が安保法政懇(私的諮問機関)の答申を受けて、集団自衛権容認の閣議決定をするために協議を加速させる、という状況のなかで、法政懇答申とその後の政府の議論に対する「会」の見解を公表するためだ。この見解は「会」のホームページにも公開されている(http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/)。
けれども、今まともな議論が展開されるわけではない。閣議決定にもってゆくために、与党内での協議、つまり公明党に集団的自衛権を呑ませるための工作が表で展開されているに過ぎない。それも、一度出したケースをすぐにひっこめたり、「必要最小限」を強調したり、従来とそんなに変わらないと言いくるめることで、各論から攻めて、一箇所でも食いついてきたらそのまま「容認」にもってゆこうとしている。いわば、一本一本の木の具合を見させて、山火事が広がることを忘れさせる手だ。それもあくまで「与党内」協議である。
そのうえ、安倍首相は今国会会期末(22日)までに閣議決定することを決めたという。今日の会見に参加した憲法学者の小林節氏の話によれば、先日、公明党の山口代表はある会合で、もともと政党はそれぞれ政策が違うわけだから、全部が同じということはありえず、ひとつの違いで連立離脱ということにはならない、というような発言をしたそうである。そこまで話ができているなら、時間をかける必要もないだろう。
そうなると議論は、たんに公明党内部のガス抜きで、だから筋が通っても通らなくても、非現実的なありえないケースの羅列でもいいわけだ。安倍は、一方に対中危機を意識させながら、単純な情緒的に受けやすい例をあげて、中東やアフリカなど遠いところの話をしている。
すでに世界に展開する日本軍を夢想しているのか、安倍は盛んに外遊する。先週もEUでいろいろ言ったことになっている(アメリカとEUの意向に沿ってロシア非難をしなかったのはいい)。ただ、いつも遠くに行って「自由と民主主義」の「価値を共有する」と抱きついて見せるが、その言の裏で中国の排除をいっしょにしていることにし、日中の関係はますます冷え込む。
だが、これだけあちこち「外遊」しても、隣の中国や韓国には一度も行ったことがない。行けない。緊張を高めるばかりで、関係改善の努力などひとつもしたことがないからだ(近づいてくるのは北朝鮮だけ!)。これでは、安全保障を考えているとはとても言えないが、逆にその緊張を利用して日本の軍事化を図ろうとしている。
だが、安倍のやろうとしていることは、秘密保護法でもアメリカから批判されたように、欧米よりもむしろ中国や北朝鮮に近いのだ。実際、自民党改憲案にはっきり表れているが、安倍の国家像は国民のための国家ではなく、強権国家のそれだからだ。
「集団的自衛権」と言うと特殊用語になり、なにやら「自衛だからいいじゃないか」という印象に引き込まれるが、要は日本が直接攻めらるという場面でなくても、同盟国(つまりアメリカ、それしかいないから)の戦争は手伝うということ、同盟国が求めれば自衛隊を戦場に送る(戦闘行為をさせる)ということである。だがそれは憲法に反することで、それを認めることは憲法を変えるに等しく、だから「解釈改憲」だと言われる。
たしかにアメリカの一部は日本に「集団的自衛権」の行使を求めているが、アメリカの求めているのは米軍の下働きであって、日本独自の安全保障のためではない。安倍はそれでも、日米同盟のためと言って自衛隊を縛る条件を取り払おうとしている。それはアメリカのためというより、「日本軍」の復活のためだろう。いったん自衛隊(どういう名であれ)が戦闘部隊(戦争のできる軍隊)となってしまえば、日本はともかく軍事力というカードをもつことになるからだ。
去年は96条を変えて憲法を変えやすくしようとし、それが面倒だと見ると、NSC法と秘密保護法を先に通し、「集団的自衛権」行使の土塁固めをして、今度は閣議決定だけで「解釈改憲」をしようとしている。そして連立与党公明党の抵抗を受けると、もう文言はどうでもいい(「集団的自衛権」を明示的に認めなくてもよい)、この場合はいいよね、といった主旨合意だけでもいい、と言い出しているようだ。
要するに、安倍の目指すのはただひとつ、日米安保を逆手にとって(「集団的自衛権」を口実に)事実上自衛隊を軍隊化し、戦後憲法によって失ったとされる軍事力を取り戻すということだ。軍事力をもたない(奪われた)国家としての日本の戦後が「屈辱のレジーム」だと彼は言う。それを是が非でも変えたいというのが安倍の執念のよって来るところだ。
だからこの問題は、詰まるところ「戦後」をどう評価するかということにかかっている。あるいはアジア太平洋戦争をどう評価するかということに。この戦争を押し進めた連中(とその後継者たち)は、敗戦の責任をすり抜けて戦後を「屈辱」のうちに生き延びてきたのだ。一方、戦争から解放された国民は、戦争をしないことで努力を他に振り向け、戦後の復興と繁栄を支えてきた。そして戦争しない国、他国に軍隊を出して国土を蹂躙したり殺したりしない国として、国際社会に無二の信用と地位を確保してきた(こんな国は他にはない)。それを二十世紀以後の世界戦争と大量破壊兵器の時代に、貴重な「実績」と見るか、あるいは「屈辱」と見るか、その二つの考え方がいま決着を求めて鬩ぎ合っていると言ってもよい。ただし一方は政権にあり、他方はもじどおり「弾」をもたない。
けれども、今まともな議論が展開されるわけではない。閣議決定にもってゆくために、与党内での協議、つまり公明党に集団的自衛権を呑ませるための工作が表で展開されているに過ぎない。それも、一度出したケースをすぐにひっこめたり、「必要最小限」を強調したり、従来とそんなに変わらないと言いくるめることで、各論から攻めて、一箇所でも食いついてきたらそのまま「容認」にもってゆこうとしている。いわば、一本一本の木の具合を見させて、山火事が広がることを忘れさせる手だ。それもあくまで「与党内」協議である。
そのうえ、安倍首相は今国会会期末(22日)までに閣議決定することを決めたという。今日の会見に参加した憲法学者の小林節氏の話によれば、先日、公明党の山口代表はある会合で、もともと政党はそれぞれ政策が違うわけだから、全部が同じということはありえず、ひとつの違いで連立離脱ということにはならない、というような発言をしたそうである。そこまで話ができているなら、時間をかける必要もないだろう。
そうなると議論は、たんに公明党内部のガス抜きで、だから筋が通っても通らなくても、非現実的なありえないケースの羅列でもいいわけだ。安倍は、一方に対中危機を意識させながら、単純な情緒的に受けやすい例をあげて、中東やアフリカなど遠いところの話をしている。
すでに世界に展開する日本軍を夢想しているのか、安倍は盛んに外遊する。先週もEUでいろいろ言ったことになっている(アメリカとEUの意向に沿ってロシア非難をしなかったのはいい)。ただ、いつも遠くに行って「自由と民主主義」の「価値を共有する」と抱きついて見せるが、その言の裏で中国の排除をいっしょにしていることにし、日中の関係はますます冷え込む。
だが、これだけあちこち「外遊」しても、隣の中国や韓国には一度も行ったことがない。行けない。緊張を高めるばかりで、関係改善の努力などひとつもしたことがないからだ(近づいてくるのは北朝鮮だけ!)。これでは、安全保障を考えているとはとても言えないが、逆にその緊張を利用して日本の軍事化を図ろうとしている。
だが、安倍のやろうとしていることは、秘密保護法でもアメリカから批判されたように、欧米よりもむしろ中国や北朝鮮に近いのだ。実際、自民党改憲案にはっきり表れているが、安倍の国家像は国民のための国家ではなく、強権国家のそれだからだ。
「集団的自衛権」と言うと特殊用語になり、なにやら「自衛だからいいじゃないか」という印象に引き込まれるが、要は日本が直接攻めらるという場面でなくても、同盟国(つまりアメリカ、それしかいないから)の戦争は手伝うということ、同盟国が求めれば自衛隊を戦場に送る(戦闘行為をさせる)ということである。だがそれは憲法に反することで、それを認めることは憲法を変えるに等しく、だから「解釈改憲」だと言われる。
たしかにアメリカの一部は日本に「集団的自衛権」の行使を求めているが、アメリカの求めているのは米軍の下働きであって、日本独自の安全保障のためではない。安倍はそれでも、日米同盟のためと言って自衛隊を縛る条件を取り払おうとしている。それはアメリカのためというより、「日本軍」の復活のためだろう。いったん自衛隊(どういう名であれ)が戦闘部隊(戦争のできる軍隊)となってしまえば、日本はともかく軍事力というカードをもつことになるからだ。
去年は96条を変えて憲法を変えやすくしようとし、それが面倒だと見ると、NSC法と秘密保護法を先に通し、「集団的自衛権」行使の土塁固めをして、今度は閣議決定だけで「解釈改憲」をしようとしている。そして連立与党公明党の抵抗を受けると、もう文言はどうでもいい(「集団的自衛権」を明示的に認めなくてもよい)、この場合はいいよね、といった主旨合意だけでもいい、と言い出しているようだ。
要するに、安倍の目指すのはただひとつ、日米安保を逆手にとって(「集団的自衛権」を口実に)事実上自衛隊を軍隊化し、戦後憲法によって失ったとされる軍事力を取り戻すということだ。軍事力をもたない(奪われた)国家としての日本の戦後が「屈辱のレジーム」だと彼は言う。それを是が非でも変えたいというのが安倍の執念のよって来るところだ。
だからこの問題は、詰まるところ「戦後」をどう評価するかということにかかっている。あるいはアジア太平洋戦争をどう評価するかということに。この戦争を押し進めた連中(とその後継者たち)は、敗戦の責任をすり抜けて戦後を「屈辱」のうちに生き延びてきたのだ。一方、戦争から解放された国民は、戦争をしないことで努力を他に振り向け、戦後の復興と繁栄を支えてきた。そして戦争しない国、他国に軍隊を出して国土を蹂躙したり殺したりしない国として、国際社会に無二の信用と地位を確保してきた(こんな国は他にはない)。それを二十世紀以後の世界戦争と大量破壊兵器の時代に、貴重な「実績」と見るか、あるいは「屈辱」と見るか、その二つの考え方がいま決着を求めて鬩ぎ合っていると言ってもよい。ただし一方は政権にあり、他方はもじどおり「弾」をもたない。
『アフター・フクシマ・クロニクル』刊行のお知らせ ― 2014/06/16
新刊を紹介させていただく。『アフター・フクシマ・クロニクル』(ぷねうま舎)だ。2011年3月11日の出来事から数か月間、日々の状況に寄り添いながら、あるいは視野を広げてこの出来事の意味を考えて書いてきたものを、雑誌『世界』や『現代思想』に発表した論文を軸にまとめた。6月20日の発売になるはずだ。

あのとき、多くの人たちが日本は変わらなければならないという強い思いを語っていた。あれから三年余の時が経ち、たしかに日本はいま大きく変わろうとしている。だがそれは、3年前に予想された「転換への要請」をことごとく、それも手荒にひっくり返すような逆方向への転換だ。
東北の被災の光景と原発事故の衝撃は、少なからぬ人びとに「敗戦」を思い出させた。まさにそれは日本の「戦後復興」とその後の「繁栄」と「安定」を問い直させる出来事だった。だがそれが、「戦後レジームからの脱却」にレールを敷くことになってしまった。
敗戦後の日本で多くの人びとが、二度と戦争はすまいと思い、戦争をしないことで国内を建て直し、戦争をしない国として世界にその地位を築いてきたはずの日本が、戦争が「できない」ことを「屈辱」と感じ、戦争をする「ふつうの国」に成り下がるために、憲法を内閣の「解釈」だけで空文にしようとする政府をもつに至ったのだ。
この政府は札束のドーピングでむりやり「景気」を演出し、そうして国民の期待を引き寄せながら、対外的緊張を強調して国の権力強化と軍事化に血道を上げている。それによって被災地はなおざりにされ、福島のいまも続く事故処理や放射能汚染は忘れられるばかりか、帰還を望む住民をタテに、すべてを隠して「もう大丈夫」と言わせる圧力さえ作り出している。
原発事故に関して、ずさんな管理が暴かれた事業主の東電や、原発推進で利権を得ていた政治家も御用学者も、その責任はいっさい問われることがなかったが、その連中がまたぞろ表舞台に舞い戻って原発推進のハンドルを握る光景は、アジア太平洋戦争の敗戦の責任が国内ではまったく問われず、そのためにその末裔たちが父祖の「屈辱」を晴らしに舞い戻ってくる、という現在の政治の光景に重なっている。
3・11の3年後の光景がこうだとは、予想もできなかった最悪の事態である。そのなかで、ただ、大飯原発の停止を命じた福井地裁の判決だけがわずかに光明をともしている。3年前の出来事のなかで何が考えられたのか、何が要請されているとみなされたのか、これからますますそのことが忘却され排除されてゆこうとするこの時期に、それをもう一度確かめておくことは意味のないことではないと考え、この本を編むことにした。
内容は以下の通りである。
序章 未来はどこにあるのか?
第一章 文明の最前線から
第二章 アフター・フクシマ・クロニクル
第三章 核技術のゆくえ
第四章 地震に破られた時間、または手触りのある未来
終章 ここにある未来――J.-P.デュピュイとの対話
手にとってご一読いただければ幸いです。
立憲デモクラシーの会、閣議決定抗議大講演会 ― 2014/06/30
短い投稿ですが、急遽。
7月1日と伝えられる「集団的自衛権容認」の「閣議決定」と前後しますが、7月4日(金)午後6時から、学習院大学で立憲デモクラシーの会の公開講演会が行われます。
前半は、日本近代政治史の重鎮・三谷太一郎さんの講演「なぜ日本に立憲主義が導入されたのか:その歴史的起源についての考察」に、歴史学・戦争史の加藤陽子さんが応対します。
後半は、軍事評論家の前田哲郎さんの講演「集団的自衛権をめぐる国会論戦を振り返って」に、若手憲法学の木村草人さんが対応します。
憲法変更を閣議決定で行うという「無法内閣」の歴史的暴挙を糾弾する集会です。詳細は以下のサイトに記載されています。ぜひご参加ください。
http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/
7月1日と伝えられる「集団的自衛権容認」の「閣議決定」と前後しますが、7月4日(金)午後6時から、学習院大学で立憲デモクラシーの会の公開講演会が行われます。
前半は、日本近代政治史の重鎮・三谷太一郎さんの講演「なぜ日本に立憲主義が導入されたのか:その歴史的起源についての考察」に、歴史学・戦争史の加藤陽子さんが応対します。
後半は、軍事評論家の前田哲郎さんの講演「集団的自衛権をめぐる国会論戦を振り返って」に、若手憲法学の木村草人さんが対応します。
憲法変更を閣議決定で行うという「無法内閣」の歴史的暴挙を糾弾する集会です。詳細は以下のサイトに記載されています。ぜひご参加ください。
http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/
新宿駅南口での抗議焼身自殺について ― 2014/06/30
昨日(6月29日)新宿駅南口のサザンテラスに向かう歩道橋の上で、50代ぐらいの男性がハンドマイクで演説をしたあとぺットボトルに入ったガソリンをかぶって焼身自殺を図った。「警視庁によると、男性は集団的自衛権の行使容認や安倍政権に抗議する主張を繰り返していたという。(中略)午後1時ごろから、横断橋の上で拡声機を使って1人で演説をしていた。」(朝日ドットコム:http://www.asahi.com/articles/ASG6Y55DBG6YUTIL01T.html、画像:https://twitter.com/search?q=%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85%20%E7%84%BC%E8%BA%AB%E8%87%AA%E6%AE%BA&src=typd&mode=photos)
この「小さな」事件をあまりセンセーショナルに扱うつもりはない。もちろん、外国メディアを賑わわせたからでも、NHKのように、模倣が出るといけないから報道しない、という「火隠し、火消根性」のためでもない。しかし、全身に火傷を負ってどうなるかわからないこの人物の行為の、今後確実に抹消されてゆくだろう意味について、しばし立ち止まって考えてみたい。
彼がライターで自分の体に火を付けたとき、周囲からは大きな悲鳴が上がったという。そうだろう。そしてそれは「人騒がせな」行為として、あるいは「火気乱用」として軽犯罪法違反に問われるという。軽犯罪どころか、間違いなく「殺人未遂」に匹敵する「暴力的」行為である。ただし、この「暴力」は当人自身の存在の破壊にしか向けられていない。
思い起こすのは、ベトナム戦争期の僧侶たち(米国傀儡の南ベトナム首相夫人が「人間バーベキュー」と嘲笑った僧侶たち)ではなく、三年半ばかり前のチュニジアの民衆蜂起に文字どおり火を付けた、野菜売りの青年ブアジジの焼身自殺だ。
宗教的支えをもつ僧侶ではなく、ただの一市民のこのような自壊行為は、公権力の不当によって受けた屈辱の深さや、その怒りの持ってゆき場所のなさを示している。彼らは、その感情を表明するすべもなく、持ってゆき場所もなく、自分の存在そのものを公然の場で犠牲にして、その「内破」を公然化する(見世物にする)しかなかったのだ。
いま日本の政府と公権力は、憲法を勝手な解釈で反故にするという暴挙に出ようとしており、その政権の専横を止める手立てがない。憲法を守る第一の義務を負うはずの政府が、閣議決定だけでそれを反故にしようとしているのだ。それ自体がすでに憲法違反であるだけでなく、国の基本法をも蔑視する「無法」行為である。
「戦争は断じてしない(少なくとも自分からは)」を「できる戦争はする」と読み変えるのはもはや「解釈」ではない。それでは、「イヌはサルだ、サルはカニだ」と言うのと同じになってしまう! この国の憲法はそんなデタラメになり、この社会の基本ルールは時の権力で勝手に変えられるものになってしまう。日本は政府からして「無法状態」に突入することになる。
それを「暴挙」と言わずして何と言おう。それを、あらゆる不法や無法を取り締まり律するはずの公権力が行う。この権力の「暴力」への転化に対して、ひとりの個人が何ができるだろうか。自らの存在に火を付けるという行為は、もちろん「狂気の沙汰」である。だがこの「狂気」は、全能を気取る権力の「暴挙」に拮抗しようとした、行き場のない「理」の暴発だと言うべきかもしれない。
つまり、この男性の「暴挙」ないしは「愚行」(あるいはある種の「テロ行為」と言われるかもしれない)は、現在の政権の「暴挙」の合わせ鏡なのである。
今日の新聞はこの事件をいっせいに無視していた。こうして主要メディアは、事件を抹消するだけでなく、政権の「暴挙」からも目を逸らす。
☆この種の事件をどう受けとめるかにはいろいろな考えがあるだろうが、それを取り上げないことで、なかったことにしようとする今日の日本の報道メディアの姿勢は問いただしてみる必要があるだろう。
☆チュニジアの出来事に関するフェティ・ベンスラマ(チュニジア出身フランス在住の精神分析家)の見解の要約を再掲しておこう。以下、http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/gsl/2011/02/post_63.html より転載。
(……)最初に一個人モハメド・ブアジジの行為があったが、それは単なる自殺ではなく自己犠牲だった。それが公衆の面前で自殺するということの意味だ。このことが反響を引き起こした。(…)社会的経済的な理由が云々されるが、それならもっとひどいところもあるが、そこでは蜂起は起きていない。だから理由は「政治的欲望の復権」というところに求めるべきだろう。
ただ単に変化が起こればよいというのではない。近年のチュニジアでは、人びとが自分自身や共同生活に満足しておらず、互いの関係は最悪になっていた。そのことは、この国でに蔓延していた尋常でない攻撃性に表れていた。それは社会的絆が崩壊していることの徴候だ。
この「自己侮蔑」が肝心な点だ。みんな自分の目に自分が「相応しくない=尊厳に欠ける」とみなしていた。そういう状況に耐えていた。それがどうして耐えがたくなるのか?我慢できないのはとくに次の三つだ。民主主義、法治国家、卓越等々に関する嘘の大伽藍、指導層サークルの目に余る俗悪さ、それに、これが重要なのだが、富裕層がその富の印を貧しい者たちの顔に投げつけてこれみよがしに楽しんでいる。要するに、「侮蔑の鏡」が民衆に突きつけられていたのだ。
人びとは自分がけちで卑屈な者だと思わされ、生きるために身を落とす行為をせざるをえなくなる。密売とか、腐敗とか、コネ頼りとか…。こうして自己イメージが傷つけられる。過度の理想化は人をファナティックにさせるが、理想が欠けると「不名誉」の感情を生む。このなかば無意識に行われていた自己の引き降ろしの前に、ブアジジの行為が突きつけられた。「尊厳のために身を犠牲にする」という最も高い理想を思い出させるものだった。だから誰もが、自分の目に自分を高めるために、かれに同一化することができた。かれは「不名誉(自分のあり方が自分に相応しくない)」の感情が克服できることを示したのだ。かれがしたのはハスドルバル(カルタゴの将軍、ローマのスピキオに敗退)の妻の有名なことばを実行することだった。「恥辱よりはむしろ火を!」…こうしてチュニジアの人びとは文字通り燃え上がったのだ。
かれは「政治的欲望」つまりはみずからの尊厳を見出したいという共同体の欲望を目覚めさせたのだ。というのも、自己の尊重は、他者との関係のうちでしか得られないからだ。人の尊厳は他者の尊厳から生じる。
この「小さな」事件をあまりセンセーショナルに扱うつもりはない。もちろん、外国メディアを賑わわせたからでも、NHKのように、模倣が出るといけないから報道しない、という「火隠し、火消根性」のためでもない。しかし、全身に火傷を負ってどうなるかわからないこの人物の行為の、今後確実に抹消されてゆくだろう意味について、しばし立ち止まって考えてみたい。
彼がライターで自分の体に火を付けたとき、周囲からは大きな悲鳴が上がったという。そうだろう。そしてそれは「人騒がせな」行為として、あるいは「火気乱用」として軽犯罪法違反に問われるという。軽犯罪どころか、間違いなく「殺人未遂」に匹敵する「暴力的」行為である。ただし、この「暴力」は当人自身の存在の破壊にしか向けられていない。
思い起こすのは、ベトナム戦争期の僧侶たち(米国傀儡の南ベトナム首相夫人が「人間バーベキュー」と嘲笑った僧侶たち)ではなく、三年半ばかり前のチュニジアの民衆蜂起に文字どおり火を付けた、野菜売りの青年ブアジジの焼身自殺だ。
宗教的支えをもつ僧侶ではなく、ただの一市民のこのような自壊行為は、公権力の不当によって受けた屈辱の深さや、その怒りの持ってゆき場所のなさを示している。彼らは、その感情を表明するすべもなく、持ってゆき場所もなく、自分の存在そのものを公然の場で犠牲にして、その「内破」を公然化する(見世物にする)しかなかったのだ。
いま日本の政府と公権力は、憲法を勝手な解釈で反故にするという暴挙に出ようとしており、その政権の専横を止める手立てがない。憲法を守る第一の義務を負うはずの政府が、閣議決定だけでそれを反故にしようとしているのだ。それ自体がすでに憲法違反であるだけでなく、国の基本法をも蔑視する「無法」行為である。
「戦争は断じてしない(少なくとも自分からは)」を「できる戦争はする」と読み変えるのはもはや「解釈」ではない。それでは、「イヌはサルだ、サルはカニだ」と言うのと同じになってしまう! この国の憲法はそんなデタラメになり、この社会の基本ルールは時の権力で勝手に変えられるものになってしまう。日本は政府からして「無法状態」に突入することになる。
それを「暴挙」と言わずして何と言おう。それを、あらゆる不法や無法を取り締まり律するはずの公権力が行う。この権力の「暴力」への転化に対して、ひとりの個人が何ができるだろうか。自らの存在に火を付けるという行為は、もちろん「狂気の沙汰」である。だがこの「狂気」は、全能を気取る権力の「暴挙」に拮抗しようとした、行き場のない「理」の暴発だと言うべきかもしれない。
つまり、この男性の「暴挙」ないしは「愚行」(あるいはある種の「テロ行為」と言われるかもしれない)は、現在の政権の「暴挙」の合わせ鏡なのである。
今日の新聞はこの事件をいっせいに無視していた。こうして主要メディアは、事件を抹消するだけでなく、政権の「暴挙」からも目を逸らす。
☆この種の事件をどう受けとめるかにはいろいろな考えがあるだろうが、それを取り上げないことで、なかったことにしようとする今日の日本の報道メディアの姿勢は問いただしてみる必要があるだろう。
☆チュニジアの出来事に関するフェティ・ベンスラマ(チュニジア出身フランス在住の精神分析家)の見解の要約を再掲しておこう。以下、http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/gsl/2011/02/post_63.html より転載。
(……)最初に一個人モハメド・ブアジジの行為があったが、それは単なる自殺ではなく自己犠牲だった。それが公衆の面前で自殺するということの意味だ。このことが反響を引き起こした。(…)社会的経済的な理由が云々されるが、それならもっとひどいところもあるが、そこでは蜂起は起きていない。だから理由は「政治的欲望の復権」というところに求めるべきだろう。
ただ単に変化が起こればよいというのではない。近年のチュニジアでは、人びとが自分自身や共同生活に満足しておらず、互いの関係は最悪になっていた。そのことは、この国でに蔓延していた尋常でない攻撃性に表れていた。それは社会的絆が崩壊していることの徴候だ。
この「自己侮蔑」が肝心な点だ。みんな自分の目に自分が「相応しくない=尊厳に欠ける」とみなしていた。そういう状況に耐えていた。それがどうして耐えがたくなるのか?我慢できないのはとくに次の三つだ。民主主義、法治国家、卓越等々に関する嘘の大伽藍、指導層サークルの目に余る俗悪さ、それに、これが重要なのだが、富裕層がその富の印を貧しい者たちの顔に投げつけてこれみよがしに楽しんでいる。要するに、「侮蔑の鏡」が民衆に突きつけられていたのだ。
人びとは自分がけちで卑屈な者だと思わされ、生きるために身を落とす行為をせざるをえなくなる。密売とか、腐敗とか、コネ頼りとか…。こうして自己イメージが傷つけられる。過度の理想化は人をファナティックにさせるが、理想が欠けると「不名誉」の感情を生む。このなかば無意識に行われていた自己の引き降ろしの前に、ブアジジの行為が突きつけられた。「尊厳のために身を犠牲にする」という最も高い理想を思い出させるものだった。だから誰もが、自分の目に自分を高めるために、かれに同一化することができた。かれは「不名誉(自分のあり方が自分に相応しくない)」の感情が克服できることを示したのだ。かれがしたのはハスドルバル(カルタゴの将軍、ローマのスピキオに敗退)の妻の有名なことばを実行することだった。「恥辱よりはむしろ火を!」…こうしてチュニジアの人びとは文字通り燃え上がったのだ。
かれは「政治的欲望」つまりはみずからの尊厳を見出したいという共同体の欲望を目覚めさせたのだ。というのも、自己の尊重は、他者との関係のうちでしか得られないからだ。人の尊厳は他者の尊厳から生じる。
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