『アフター・フクシマ・クロニクル』刊行のお知らせ2014/06/16

 新刊を紹介させていただく。『アフター・フクシマ・クロニクル』(ぷねうま舎)だ。2011年3月11日の出来事から数か月間、日々の状況に寄り添いながら、あるいは視野を広げてこの出来事の意味を考えて書いてきたものを、雑誌『世界』や『現代思想』に発表した論文を軸にまとめた。6月20日の発売になるはずだ。


 あのとき、多くの人たちが日本は変わらなければならないという強い思いを語っていた。あれから三年余の時が経ち、たしかに日本はいま大きく変わろうとしている。だがそれは、3年前に予想された「転換への要請」をことごとく、それも手荒にひっくり返すような逆方向への転換だ。

 東北の被災の光景と原発事故の衝撃は、少なからぬ人びとに「敗戦」を思い出させた。まさにそれは日本の「戦後復興」とその後の「繁栄」と「安定」を問い直させる出来事だった。だがそれが、「戦後レジームからの脱却」にレールを敷くことになってしまった。

 敗戦後の日本で多くの人びとが、二度と戦争はすまいと思い、戦争をしないことで国内を建て直し、戦争をしない国として世界にその地位を築いてきたはずの日本が、戦争が「できない」ことを「屈辱」と感じ、戦争をする「ふつうの国」に成り下がるために、憲法を内閣の「解釈」だけで空文にしようとする政府をもつに至ったのだ。

 この政府は札束のドーピングでむりやり「景気」を演出し、そうして国民の期待を引き寄せながら、対外的緊張を強調して国の権力強化と軍事化に血道を上げている。それによって被災地はなおざりにされ、福島のいまも続く事故処理や放射能汚染は忘れられるばかりか、帰還を望む住民をタテに、すべてを隠して「もう大丈夫」と言わせる圧力さえ作り出している。

 原発事故に関して、ずさんな管理が暴かれた事業主の東電や、原発推進で利権を得ていた政治家も御用学者も、その責任はいっさい問われることがなかったが、その連中がまたぞろ表舞台に舞い戻って原発推進のハンドルを握る光景は、アジア太平洋戦争の敗戦の責任が国内ではまったく問われず、そのためにその末裔たちが父祖の「屈辱」を晴らしに舞い戻ってくる、という現在の政治の光景に重なっている。

 3・11の3年後の光景がこうだとは、予想もできなかった最悪の事態である。そのなかで、ただ、大飯原発の停止を命じた福井地裁の判決だけがわずかに光明をともしている。3年前の出来事のなかで何が考えられたのか、何が要請されているとみなされたのか、これからますますそのことが忘却され排除されてゆこうとするこの時期に、それをもう一度確かめておくことは意味のないことではないと考え、この本を編むことにした。

 内容は以下の通りである。
 
序章  未来はどこにあるのか?
第一章 文明の最前線から
第二章 アフター・フクシマ・クロニクル
第三章 核技術のゆくえ
第四章 地震に破られた時間、または手触りのある未来
終章  ここにある未来――J.-P.デュピュイとの対話

 手にとってご一読いただければ幸いです。