新宿駅南口での抗議焼身自殺について2014/06/30

 昨日(6月29日)新宿駅南口のサザンテラスに向かう歩道橋の上で、50代ぐらいの男性がハンドマイクで演説をしたあとぺットボトルに入ったガソリンをかぶって焼身自殺を図った。「警視庁によると、男性は集団的自衛権の行使容認や安倍政権に抗議する主張を繰り返していたという。(中略)午後1時ごろから、横断橋の上で拡声機を使って1人で演説をしていた。」(朝日ドットコム:http://www.asahi.com/articles/ASG6Y55DBG6YUTIL01T.html、画像:https://twitter.com/search?q=%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85%20%E7%84%BC%E8%BA%AB%E8%87%AA%E6%AE%BA&src=typd&mode=photos

 この「小さな」事件をあまりセンセーショナルに扱うつもりはない。もちろん、外国メディアを賑わわせたからでも、NHKのように、模倣が出るといけないから報道しない、という「火隠し、火消根性」のためでもない。しかし、全身に火傷を負ってどうなるかわからないこの人物の行為の、今後確実に抹消されてゆくだろう意味について、しばし立ち止まって考えてみたい。
 
 彼がライターで自分の体に火を付けたとき、周囲からは大きな悲鳴が上がったという。そうだろう。そしてそれは「人騒がせな」行為として、あるいは「火気乱用」として軽犯罪法違反に問われるという。軽犯罪どころか、間違いなく「殺人未遂」に匹敵する「暴力的」行為である。ただし、この「暴力」は当人自身の存在の破壊にしか向けられていない。
 
 思い起こすのは、ベトナム戦争期の僧侶たち(米国傀儡の南ベトナム首相夫人が「人間バーベキュー」と嘲笑った僧侶たち)ではなく、三年半ばかり前のチュニジアの民衆蜂起に文字どおり火を付けた、野菜売りの青年ブアジジの焼身自殺だ。
 
 宗教的支えをもつ僧侶ではなく、ただの一市民のこのような自壊行為は、公権力の不当によって受けた屈辱の深さや、その怒りの持ってゆき場所のなさを示している。彼らは、その感情を表明するすべもなく、持ってゆき場所もなく、自分の存在そのものを公然の場で犠牲にして、その「内破」を公然化する(見世物にする)しかなかったのだ。
 
 いま日本の政府と公権力は、憲法を勝手な解釈で反故にするという暴挙に出ようとしており、その政権の専横を止める手立てがない。憲法を守る第一の義務を負うはずの政府が、閣議決定だけでそれを反故にしようとしているのだ。それ自体がすでに憲法違反であるだけでなく、国の基本法をも蔑視する「無法」行為である。
 
 「戦争は断じてしない(少なくとも自分からは)」を「できる戦争はする」と読み変えるのはもはや「解釈」ではない。それでは、「イヌはサルだ、サルはカニだ」と言うのと同じになってしまう! この国の憲法はそんなデタラメになり、この社会の基本ルールは時の権力で勝手に変えられるものになってしまう。日本は政府からして「無法状態」に突入することになる。
 
 それを「暴挙」と言わずして何と言おう。それを、あらゆる不法や無法を取り締まり律するはずの公権力が行う。この権力の「暴力」への転化に対して、ひとりの個人が何ができるだろうか。自らの存在に火を付けるという行為は、もちろん「狂気の沙汰」である。だがこの「狂気」は、全能を気取る権力の「暴挙」に拮抗しようとした、行き場のない「理」の暴発だと言うべきかもしれない。

 つまり、この男性の「暴挙」ないしは「愚行」(あるいはある種の「テロ行為」と言われるかもしれない)は、現在の政権の「暴挙」の合わせ鏡なのである。
 
 今日の新聞はこの事件をいっせいに無視していた。こうして主要メディアは、事件を抹消するだけでなく、政権の「暴挙」からも目を逸らす。


☆この種の事件をどう受けとめるかにはいろいろな考えがあるだろうが、それを取り上げないことで、なかったことにしようとする今日の日本の報道メディアの姿勢は問いただしてみる必要があるだろう。
 
☆チュニジアの出来事に関するフェティ・ベンスラマ(チュニジア出身フランス在住の精神分析家)の見解の要約を再掲しておこう。以下、http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/gsl/2011/02/post_63.html より転載。
 
 (……)最初に一個人モハメド・ブアジジの行為があったが、それは単なる自殺ではなく自己犠牲だった。それが公衆の面前で自殺するということの意味だ。このことが反響を引き起こした。(…)社会的経済的な理由が云々されるが、それならもっとひどいところもあるが、そこでは蜂起は起きていない。だから理由は「政治的欲望の復権」というところに求めるべきだろう。

 ただ単に変化が起こればよいというのではない。近年のチュニジアでは、人びとが自分自身や共同生活に満足しておらず、互いの関係は最悪になっていた。そのことは、この国でに蔓延していた尋常でない攻撃性に表れていた。それは社会的絆が崩壊していることの徴候だ。

 この「自己侮蔑」が肝心な点だ。みんな自分の目に自分が「相応しくない=尊厳に欠ける」とみなしていた。そういう状況に耐えていた。それがどうして耐えがたくなるのか?我慢できないのはとくに次の三つだ。民主主義、法治国家、卓越等々に関する嘘の大伽藍、指導層サークルの目に余る俗悪さ、それに、これが重要なのだが、富裕層がその富の印を貧しい者たちの顔に投げつけてこれみよがしに楽しんでいる。要するに、「侮蔑の鏡」が民衆に突きつけられていたのだ。

 人びとは自分がけちで卑屈な者だと思わされ、生きるために身を落とす行為をせざるをえなくなる。密売とか、腐敗とか、コネ頼りとか…。こうして自己イメージが傷つけられる。過度の理想化は人をファナティックにさせるが、理想が欠けると「不名誉」の感情を生む。このなかば無意識に行われていた自己の引き降ろしの前に、ブアジジの行為が突きつけられた。「尊厳のために身を犠牲にする」という最も高い理想を思い出させるものだった。だから誰もが、自分の目に自分を高めるために、かれに同一化することができた。かれは「不名誉(自分のあり方が自分に相応しくない)」の感情が克服できることを示したのだ。かれがしたのはハスドルバル(カルタゴの将軍、ローマのスピキオに敗退)の妻の有名なことばを実行することだった。「恥辱よりはむしろ火を!」…こうしてチュニジアの人びとは文字通り燃え上がったのだ。

 かれは「政治的欲望」つまりはみずからの尊厳を見出したいという共同体の欲望を目覚めさせたのだ。というのも、自己の尊重は、他者との関係のうちでしか得られないからだ。人の尊厳は他者の尊厳から生じる。

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