2015年の年頭に2015/01/01

 ドイツの画家アンセルム・キーファーは最近「モーゲンソー・プラン」というタイトルで一連の作品を作っている。

 モーゲンソー・プランとは、第二次大戦末期にドイツ占領政策として立てられたプランのひとつだ。ドイツの産業基盤を根こそぎにし、二度と戦争を起こせなくするというこのプランは、米財務長官だったユダヤ人ヘンリー・モーゲンソーの立案によるもので、あまりに懲罰的だったためチャーチルに嫌われ、「戦争を起こす産業を除去するためのもので、ドイツの性格を農業と田園の国に変えることが期待される」程度に手直しされたという。だが、実際には米ソの対立が表面化するにつれ、この脱工業化の政策は転換され、すぐに産業経済の復興を支援するマーシャル・プランに置き換えられてゆく。

 現在、ドイツは戦後の分断を経て再統一され、EUの中核国になったばかりでなく、圧倒的な工業力・経済力で域内の他の国々を圧して、ほとんど支配していると言われる。フランスの人口学者オリヴィエ・トッドなどは、その現状をみて「ヨーロッパはドイツのために三度破綻する」と言っているほどだ。

 その「強い」ドイツを作るもとになったのはマーシャル・プランである。ドイツという政治共同体の、担うに重い過去(ナチズムの過去)を、不可能なままに担いとることをその画業のモチーフとしてきたとも言えるアンセルム・キーファーは、戦後70年を迎える今(ヨーロッパでは去年ノルマンディー上陸作戦70周年が記念された)、「ドイツを農業と田園の国に変える」ことを目指したモーゲンソー・プランに想を汲む作品を作り続けている。

 当初のプランそのものはけっして牧歌的だったわけではなく、むしろドイツに対する敵意に満ちた過酷なものだったと言ってもよい。キーファーはそれを知らないわけではないだろう。だが、それでも、別の事情で実現されることのなかった、ありえたかもしれないドイツの別の現在を想像することは、ドイツの現状をヴァーチャルなプリズムを通して相対化することになる。マーシャル・プランも、ドイツ自体に対する考慮というより、冷戦という別の事情にというよって適用されたものだからだ。

 EUも、ある意味ではドイツを抑え込む仕組みだった。だがいまや組み込まれたそのEUの中軸として経済力によって他を圧しつつ、ハイパー工業化と脱原発を交錯させている。もはや「経済成長」そのものが不条理となった時代でもある。そのドイツの背後にキーファーは、実現されなかった「田園化」の非‐現実を透視する。それを作品化することは、芸術が挑みうる並々ならぬ表現の試練なのではないだろうか。
 
 われわれにはモーゲンソー・プランならぬ「日本国憲法」がある。その憲法も当初から揺さぶりを受けてきた。とりわけアメリカに身を託すことで、戦前から居座ってきた日本の統治者たちは、初めからそれを邪魔扱いにしてきた。そしてとうとうその基盤がいま足元から切り崩されようとしている。戦後、そう言ってよければ、あることを禁じられてきた日本が、このグローバル化した世界の混濁に乗じて再び復活しようとしている。それをいかに阻止するかが、われわれにとっては現実的な課題である。

「2022年、おれもラマダンだ」―戯画紙襲撃事件2015/01/09

 1月〇日

 正月早々によくないい風邪を引いたがなんとか収まり、ちょうど催促もあったので、半ばに三鷹市の市民グループが企画する研究会での事前配布用資料を準備し始めた。テーマは「イスラーム国と中東の液状化」。

 中東専門家でもイスラーム研究者でもない者がなぜこのテーマで話をするのかは、不思議に思う人もいるかもしれない。きっかけは1990年前後のラシュディ事件の頃、この事件をめぐる論議に、西洋とアラブ・イスラーム世界との長い歴史と精神史をふまえた独自の視点から介入し、いわゆる「表現の自由」の問題を脱構築したフェティ・ベンスラマの小著『物騒なフィクション』を訳したことだった(1994年 筑摩書房)。

 それ以来、とくに宗教と政治の分節と錯綜、社会の定礎、グローバルな近代化などの観点から、西洋とイスラーム世界との関係には注目してきた。2001年11月末にBS・NHKで臼杵陽、酒井啓子両氏と『徹底討論 アメリカはなぜ狙われたのか、同時多発テロ事件の底流を探る』(岩波ブックレットに同題で収録)に参加したのも、それを知るプロデューサーに請われてだった。

*     *     *
 
 その朝、なにげなくネットでフランス2のニュースを見たところ、6日午後8時のニュースに、いささか物議をかもす新作を発表したばかりのミシェル・ウエルベック(Michel Houellebecq)が招待されていた。レユニオン生まれの異貌の作家の新作は『服従(Soumission)』という近未来政治社会小説で、2022年の大統領選でイスラーム政党が勝利し、フランスにイスラーム政権ができるという話だ。学校で女生徒がスカーフをかぶるのはもちろん、一夫多妻制も認められるようになる。

 フランスでは今イスラーム人口が増えている。それに対する不安が移民排斥傾向をもつ極右政党国民戦線への支持を増やしている。そこにEU統合深化がもたらす社会解体の圧力もあり、フランス的価値を掲げる反EUの国民戦線にはますます票が集まる。現に、去年の地方議会選でも躍進し、欧州議会選挙では、保守・革新の主要政党を抑えてついに第一党になった。

 在来の保守系や社会党は親EUで共和主義、そのためイスラーム系住民は投票先がなく、独自のイスラーム政党を作って自分たちの立場を代表させようとする。その結果、2022年の大統領選では、第一回投票で勝ち残り、国民戦線のマリーヌ・ルペン党首と一騎打ちになり、とうとう勝利するというのだ。決選投票では投票率も下がるだろうが、それでも多くの有権者は、人種差別やファシズムを思い起こさせる国民戦線より、近代原理を受け入れた穏健イスラームを選ぶということか。

 この小説、ものはまだ手に取ってないが、この設定だけでもかなり興味深い。移民問題を近隣諸国問題、EU問題を対米問題と置き換えると、だいたい日本でも似たことが起きている。ただし、日本では保守党が右に吸収されて、もう「国民戦線」のような政権ができてしまっているのだが。

 フランスの事情についていえば、すでに二十年も前に一年間パリに住んだとき、向いのアパートの典型的なパリ小市民が、隣の部屋のマグレブ系住民を念頭に置きながらかどうか、「うちの息子たちは大きくなったらコーランを覚えなくちゃならなくなるよ」と言っていたのが思い出される。人口増の移民二世はフランスでは自動的に選挙権をもつ。そんな状況に対する大衆的な不安がそのままこの「フィクション」にリアリティを与える。

 それに、文学のあり方としても興味深い。選挙予測のパラドクスというのもあるが、世論調査が結果に影響を与えるのをどう制御するかということが話題になる。が、このような「人気作家」の作品が社会の成り行きに影響を及ぼさないわけにはいかないだろう。もはや純粋なフィクションというのはありえず、この「近未来」物語もわれわれの現実の時間にじかに介入し、絡んでくる作りになっている。

 タイトルについて触れておこう。「服従」というのはそのまま「イスラ―ム」を含意している。キリスト教やユダヤ教とは違ってイスラームは「イムズ」では呼ばない。「イスラミズム」と言うと、政治化したイスラーム運動のことを言う。ムハンマド教とも呼ばない。ムハンマドは神ではなく預言者だからだ。「イスラーム」とは唯一絶対無限の神に対する、有限で非力な人間の「服従」「絶対帰依」を意味する。あるいは無限の神の前に「身を投げ出す」ことを。「絶対帰依」はそのまま無限の神の肯定であり、これが信仰の姿勢なのである。だからこの信仰は「イスラーム」と呼ばれる。

 ウエルベックは「服従」というタイトルの背後にこの「イスラーム」を響かせているが、同時にそれはイスラームに対する「服従」ないし「屈服」を響かせる。

*   *   *

 パリの風刺週刊紙『シャルリ・エブド(Charlie Hebdo)』の本社事務所が襲撃されたという衝撃的なニュースが入ったのはその翌日だった。折から7日付けの同紙の表紙は「魔術師ウエルベックの予言」と題するその作家のカリカチュアで、「2015年、おいら歯がなくなってるぜ」、「2022年、おれもラマダンだ」という吹き出しがある。
 
 オランド大統領はただちに「共和国に対する攻撃、表現の自由に対する攻撃だ」と非難し、7日の夜には11区の現場から遠くないレピュブリック(共和国)広場に10万を超える人びとが集まり、「私はシャルリ」と書いたパネルを手にして12人の犠牲者への連帯を示した。
 
 「表現の意志は暴力は屈しない」、街頭壁画のバンクシーもすぐに一枚のデッサンをネットに流した。一本の鉛筆、ボッキリ折られた鉛筆、しかし折られた端からまた芯が出て鉛筆は二本、になっている。
 
 ただ、なぜ『シャルリ・エブド』なのか――もちろん2006年のいわゆる「モハンマド戯画事件」以来の同紙の「懲りない」姿勢があげられる――、は考えてみたい。それに、今度の「襲撃」が、ただの強盗のたぐいではなく、明らかに「戦闘経験」のある私的なコマンド(おそらく背後の組織的関係などはない)によるものだということも。
 
 この事件に、「イスラーム国」の資料をそろえているときに遭遇してしまった。(つづきは別稿)

*7日付けの同紙はたちまち売り切れ、ネット上で7万ユーロ(990万円)の値がついているという。何でもすぐ金にする(市場に出す)連中がばっこするのも当世だ。

ムハンマド戯画事件を想起する2015/01/11

 「シャルリ・エブド」襲撃を機に、「西側」の世界で「"表現の自由"に対する暴力」を糾弾する動きが高揚している。フランスだけで言えば、フランスの固有の価値、共和国理念が、この一点に集約され、右から左までの団結ないし連帯の軸として掲げられている。

 だが、今回の事件の深刻さの要所はそこだろうか?襲撃されたのは風刺紙本社だけではなく、警官とユダヤ人用商店も同時に攻撃された。要するに、何であれ「反イスラーム」とみなされたものが標的になっている。とくに目立っていたのが「シャルリ・エブド」だったということだ。

 だから今回の事件を「"表現の自由"に対する攻撃」と括ってしまうことには賛成できない。ただ、そう括れば、西洋社会=西側世界では「満場一致」が作り出される。それに乗って、秘密保護法を強行した安倍首相でさえ、「言論の自由を守る」といった空々しい発言ができるし、ついでにヘイト・クライムも「表現の自由」だという話になりかねない。

 ここには、現代世界を理解するうえでの重要な論点が隠れているが、いますぐにそれを包括的にまとめる余裕がないので、西洋とイスラーム世界の関係にかぎって、2006年に「ムハンマド戯画事件」が起こっていたとき共同通信の依頼でまとめた文章を、参考までに再掲しておきたい。
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《誰が「表現の自由」を必要としているのか?》

 欧州のメディアに掲載されたムハンマドの戯画をめぐる抗議行動は、いまやイスラーム世界の全域に拡がって死者さえ出ている。

 デモが暴動化する事情は単純ではないようで、国によっては、民衆の西洋に対する反発を政治的に利用しようとする意図もうかがわれる。とはいえ、新たな「イスラーム冒涜」に対して、大衆的な怒りが広まっていることは否定できない。

 騒ぎに便乗して戯画を転載するメディアもあるなかで、国際ニュースで定評のあるフランスの週刊誌「クーリエ・アンテルナショナル」は、「これほどの騒動に値するものか」と問うかたちで、ウェブ版にあえて一二枚の戯画を紹介した。

 それを見てみると、たしかにわれわれにはそれほどショッキングな印象も与えない。けれども、一歩踏み込んで考えると、そこにおそらく西洋的社会がイスラーム世界に相対するときに陥る落とし穴があるのだ。

 西洋型の社会では国家と教会、政治と宗教は区別される。そして公共的な議論を保証するために「表現の自由」が要請されている。ただし、「自由」も無制限というわけではない。今回の議論でもイスラム側から逆用されるように、ドイツやフランスではホロコーストを否定することは法律で禁じられている。

 なぜかといえば、ナチの国家的犯罪の再来を防ぐため、犠牲者が侵すべからざるものとして「聖化」されているからだ。ドイツやフランスでは、そのことが公的な価値観の準拠になっている。だから「表現の自由」もそこには踏み込めない。

 その反面、宗教的権威は揶揄しても罰せられない。西洋社会はあらゆるタブーを解消しようとし、それを「自由」の証しとしてきたが、別の形で禁止を設定しているということだ。

 けれどもイスラーム世界では事情が違う。そこでは宗教は私的な信仰というより、すでにして日常の規範であり、世界観の枠組みでもある。現在の多くの国家が西洋の支配下で作られたという事情もあり、人びとのアイデンティティにとって国家よりもイスラームの方が意味をもつことが多い。とりわけ現在のように、それぞれの国の政府が西洋主導の国際秩序のなかで自立性を保ちがたいときにはそうだ。だからイスラームの宗主の冒涜は、ただでさえ傷つけられた人びとの共同的な自尊心を逆なですることになる。

 そのことが西洋には理解されず、イスラームには「自由」がないと批判される。そして西洋はみずからの流儀をイスラーム世界にも通用させようとする。けれどもそれは、ムスリムにとっては侮辱でしかない。結局そのしぐさが「文明の衝突」を仕掛けることになる。

 ただしこう言うのは、女性の抑圧などイスラーム社会にしばしばある因習を擁護するためではない。強調したいのは、「自由」や「権利」の要求は、それを欠く者にとってこそ正当であり、力をもつ者たちがかざすとき、おうおうにして恣意や横暴に流れるということだ。

 「テロとの戦争」以降、イスラーム世界は「テロの温床」として公然とマークされるようになった。その影響は西洋諸国内の移民たちにも及び、つい最近フランスではパリで暴動が爆発した。その一方で、アフガニスタン、イラクに続いて、いまイランが核開発をめぐって「文明世界」の制裁の標的にされようとしている。そんな中、最悪の占領状態が止まるところを知らず悪化していたパレスチナでは、最近の選挙で民衆はイスラーム原理主義のハマスを選んだ。

 西洋社会が「この程度で」と思うような戯画のために、人びとが怒りにまかせて大使館に火を放ち、あげくに警察の発砲で死者を出す。その不幸な光景は、力任せに「解放」を押しつける西洋によって苦汁をなめさせられる、現在のイスラーム世界の隘路を映し出している。

 この力関係のなかで、「表現の自由」を必要としているのは実は誰なのか。イスラームを気楽に揶揄する者か、それとも生傷に塩をすりこまれる思いに耐える人びとか、よく考えてみる必要がある。

(2006年2月8日、共同通信配信)

フランス市民350万人は何を表明したのか?2015/01/14

 今日(13日)、某新聞と某テレビ局の報道担当からフランスの事件についての問い合わせがあった。この機会に見解をまとめておこうと思う。
 
 シャルリ・エブド襲撃事件は「表現の自由」に対するおぞましい侵害だといわれる。民主主義の根幹に関わるこの「権利」が非道な「テロ」の犠牲になったことに抗議して、フランスは国民的なマニフェストを行った、と。だが、そうなのだろうか?
 
○表現の自由

 これについてはフランス革命で共和政を作り出したフランスでは、民主主義の根幹として重視される。権力や権威を笑いものにする戯画の伝統は、ラブレーの『カルガンチュア物語』とかモリエールの喜劇の精神を視覚化・大衆化したものだと言ってよい。一九世紀にはドーミエの戯画があった。それはフランスの市民文化の伝統ではある。

 シャルリ・エブドのムハンマドをネタにした戯画は、宗教的権威を狙ったものではあるが、それが西洋社会で「戯画」たりうるのは、イスラームが原理主義と結びつけられるかぎりでのことである。それは一般のムスリムにとって、二重に不愉快なものとなりかねない。まず、自分たちがムスリムだというだけで警戒されるということ、それにムスリムには預言者を冒涜する伝統はないのに、西洋風にそれを笑いものにする習慣に馴染め、と言われるに等しい。

 宗教的権威を笑いものにして「解放」を表明するというのは、人間イエスが同時に神であるという、神と人間の二重性を仕込んだキリスト教社会の独特の展開の結果であって、それが普遍的な「開明」を意味するわけではない。

○「わたしはシャルリ」?

 今回の事件に対して、ただちに民衆の怒りと抗議が広範に広がった。その反応が、直接の標的となった週刊紙への同情として表れ、「わたしはシャルリ」の標語が巷にあふれたが、それは必ずしも無条件の「表現の自由」に対する共感の表れとはかぎらない。

 フランスの市民はすでに長らく社会分裂の不安にさらされていて、それが今回のような暴力の激発として現実化したことに、多くの人びとが反応したのだと見るべきだろう。

 社会分裂にはふたつの主要な要因がある。ひとつはいわゆる移民の統合問題、もうひとつはEUの経済統合の圧力(新自由主義による社会解体)だ。その二つに対して「美しいフランスの伝統」の保持を掲げる国民戦線が支持を広げており、去年のヨーロッパ議会選挙では、ついに第一党になった。それは、潜在的な反ユダヤ主義を含み、かつイスラーム系移民の居場所を狭めてゆく。そしてその事情はいずれもナショナルな枠を超えるもので、つねにイスラエルの動向や中東地域の情勢とも連動する。

 そんな中で、フランス社会で疎外された移民二世が、中東情勢に感応して武装コマンドとして「テロ事件」を起こすという危惧が、絵に描いたように実現してしまった。その標的となったのが、数年前からイスラーム世界を挑発してきた戯画紙だったということだ。

○共生への意志

 事件の直前に出版された人気作家ウエルベックの新作『服従』が、フランス社会のイスラーム勢力への近未来的「服従」をテーマにしているということで、読まれる以前にベストセラーになってしまったという事情も、一般的心理をよくあぶりだしている。

 この事件に抗議して、11日、パリのレピュブリック(共和国)広場を中心にして戦後最大といわれる大市民集会が行われた。「わたしはシャルリ」がその共通の標語になった。けれども、みんなが戯画を支持していたわけではない。実際、「わたしはシャルリ、だが別の仕方で」といった留保つきのパネルもあったし、「わたしは殺された警官のアフメド。シャルリはわたしの信仰と文化を笑いものにしたが、わたしはシャルリがそうする権利を守るために死んだ。」という表明もあった。それが実情を物語っている。

 パリ地区で200万人(当局が集計をあきらめたという)、フランス全土で350万を超える人びとが、広場に集まり街頭に出たのは、シャルリ・エブドの戯画が支持されたというより、戯画紙のようなものを標的にする暴力の暴発に対する抗議が共有されたということだろう。それは「表現の自由」という標語に集約されたが、実際にはこのような殺戮に対する抗議だとみるべきだろう。

 つまるところ、この数百万の人びとによって表明されたのは、「共和国の象徴、表現の自由」を守れ、ということよりも、そんなことで人が殺さるようではいけない、殺されない社会を求めるということ、さらに言うなら、「わたしはシャルリ」であり、「わたしはアフメド」であり、またその他の誰でもありうるし、茶化したい奴は茶化せばよい、しかしそんなことで殺し合うな、という多様なものの共生への願いであり要求だというべきだろう。

 ここに現出した「共感と一致」は、「表現の自由」を守る「一致した意志」というより、むしろ「一致しないことが可能な社会」を求める市民の共生への深い息吹だというべきだろう。それでなければこの「満場一致」には出口がない。

○国家的儀礼と市民

 じつはこのデモ行進は、事件の翌日から左派政党が呼びかけて準備した。ところが、事件が2日で収束したため、オランド大統領がそこに参加を表明し、それを受けてEU各国首脳も参加を表明し、もともとの市民集会はいつの間にしかEUと国家の儀式になってしまったのだ(だから一部では「乗っ取り」が語られもした)。

 幸か不幸か、50人の各国要人たちはSPや軍の特殊部隊の厳重警護によって市民の集団とは厳しく隔離され、オランド・メルケルEU両首脳の両側にイスラエルのネタニヤフとパレスチナのアッパスが振り分けられて並んだ最前列は、メディア向けのセレモニーとしてまったく別の性質のものだということをさらけ出していた。(アメリカは高官を派遣しなかったことを悔やんでいるという。NATOの「テロとの戦争」路線を強化する絶好の機会だったからだ。)

 これが「フランスの9・11だ」という声もある。パリはほとんど市民同意の戒厳令状況になり、「愛国法」まがいの法律も検討されている。反イスラーム感情が高まるとか、国民戦線を利する、といった憶測もある。だが、多くのユダヤ人、アラブ系移民、アフリカ系移民が集ったこの大市民集会は、まさに多様な人たちの集まりであり、そこれに表明されていたのは多様なものの共生への意志以外の何ものでもないだろう。それが、フランス社会に淀む不安を超えるべく、今回の「テロ事件」で一気に噴き出したのだ。

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【追記 01/15】

 何を血迷ってか、オランド大統領は原子力空母シャルル・ド・ゴールに乗ってブッシュよろしく演説し、イスラーム国に「宣戦布告」した。全面的な「対テロ戦争」というわけだ。
 
 シャルリ・エブド襲撃の犯人とイスラーム国との関係は間接的にしかない。問題はイスラーム国がEU諸国に攻撃をかけるということよりも、フランスから1000人もの志願者がイエメンやイスラーム国にゆき、潜在的な遊撃コマンドになってしまうということだ。フランス社会を守るというなら、まずとるべき対策はそこだろう。いかにして移民二世を社会に統合するか。それでなければ問題は激化するばかりだろう。

 シャルリ・エブドの犠牲者たちは、「表現の自由の侵害」に対するこのような「フランスの戦争」を支持するのだろうか?それが彼らの「闘い」だったのだろうか?

2015年1月の日本2015/01/25

事件発生直後に「空耳アワー」で聴いた戯れ唄がまったく現実味を帯びてきた。ブッシュ、オランドにならって、日本の安倍も「われわれは戦争のうちにある」と言いたげだ。今日はどこからか、こんな合成写真が送られてきた。

[付属のコメント]
 武器輸出がしたいだけでなく(これは戦後日本が手をつけなかった「未開の成長分野」だ)、安倍はネタニヤフのような「指導者」がきっと好きなのだ。ネタニヤフがガザでやっていることを見習って沖縄も抑えたい。残念ながらまだ日本に「ツァハル」(悪名高いイスラエル国防軍)はない。「海猿」の段階だ。
だから安倍は「テロとの戦争」に早く加わりたく、「親イスラエル」をこんなふうに誇示して「テロリスト国家」を刺戟する。そうしたら案の定「イスラーム国がやってきた!」というわけだ。
仕組んだのか、嵌められたのかはわからないが(日本の外務省がそんなに有能だとは思われない)、この事件を「もっけの幸い」として、人質の命などものかわ、国家安全保障会議のままごとの機会に使うことしか考えない。

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 イスラーム国に捕まっていた後藤・湯川両氏のうち一人が「処刑」されたと伝えられる。以下は日テレWebから――
 
 …安倍首相「湯川遥菜さんが殺害されたとみられる写真がインターネットに配信されました。ご家族のご心痛は察するに余りあり言葉もありません。このようなテロ行為は言語道断であり許しがたい暴挙です。強い憤りを覚えます。断固として非難します。改めて後藤健二さんに危害を加えないよう、そして直ちに解放するよう強く要求します」
 その上で安倍首相は、「日本政府としては引き続きテロに屈することなく、国際社会と共に世界の平和と安定に積極的に貢献する。今後も日本人の解放に向けて政府を挙げて取り組んでいく」と強調した。
 また、これに先だって行われた関係閣僚会議で安倍首相は「正確な情報収集に努めること、人命を第一に迅速な解決に全力で取り組むこと、国内外の日本人の安全に万全を期すこと」を指示した…。


 何という空疎な虚言!「人命第一に取り組む」というのだったら、まずイスラエル(ネタニヤフ)との協調を撤回すべきだろう。ネタニヤフの政府がガザで何をしているかは世界中が知っているし、彼の閣僚やさらに過激な議員たちは、「テロリストを生む」女性たちを殺せ、とまで言っている。こういう国家的殺人集団と仲良くして、武器輸出や開発協力をやろうというのが「日本人を守る」ことなのか?
 
 「イスラーム国」はアメリカやその仲間が支援するこのような「国際社会公認(さすがに嫌々認めているのだが)の殺人国家」に対抗して生まれてきたしまった「怪物」だ。
 
 安倍首相はこの機会に「人質解放のための自衛隊派遣」まで検討させているという。アメリカでさえ人質解放などできず、「テロには屈しない」と言って見捨てることにしている。「日本人の命を助ける」ことなど一切念頭になく、この事件を国家安全保障会議の「有事」練習の機会にすることしか考えない。
 
 フランスでは、先週、中央アフリカで拉致された人道支援の女性を、一週間で解放させるのに成功した。外交交渉でだ。軍隊を送ったらたちどころに殺害されただろう。こういうとき、軍事力は何の役にも立たないのだ。説得しなければならない(それでも無駄な場合もあるが)。
 
 では、「テロリスト」の言うままになれというのか? 
 そういう話ではない。ともかく、本気で救おうと思ったら「相手」と交渉しなければならない。けれども、その「相手」を初めから否定し、抹殺の対象としてミサイルや爆弾だけを送り込む口実が「テロリスト」という呼び名だ。「テロリスト」は抹殺すべきものであって、存在してはならない者だから、「相手」にしてはいけない。それが「テロとの戦争」の論理だ。
 
 去年の9月からのべ2000回の空爆が「イスラーム国」支配地に行なわれ、すでに6000人の戦闘員(将校だという)が「殺害」されているという(中東の米軍総司令部が最近発表した)。だが、その他に何人の民間人や兵士が殺され、生活圏を破壊されているだろう。
 
 この「テロとの戦争」が筋金入りの「テロリスト」を生み出す。アメリカは2001年に「テロとの戦争」を始め、十数年続けて(アメリカ史上最長の戦争だ)ますます世界の状況は悪くなっている。この「戦争」にはアメリカでさえ「勝つ」ことはできない。問題の立て方が根本的に間違っているのだ。
 
 それが明かになっているこの時期に、日本の安倍政権(安倍とその仲間ととくに外務省)は「テロとの戦争」に加わりたがっている(アメリカに協力し日本の国際的プレゼンスを高める?冗談ではない、評判を地に落とし、軽蔑され孤立するだけだ)。「戦後70年」がそのような「節目の年」になってしまってはならないだろう。