無憲法状態のなかで2015/05/14

 ここへの記載にどうも間があきがちなのは、「攻めあぐねて」いるからである。
 ブログにはそれぞれ意図や目的があるだろうが、ここではわたしなりの判断で、いま公開して意義があるだろう(夜道を歩くときの電灯とか、野原や森や砂漠を進むときの磁石とか、海を渡るときの羅針盤のように、世の中を生きるうえで多少ともお役にたてるだろう)と思われる発言を掲載することにしている。

 東日本大震災のとき、福島第一原発事故の後でも、そのつど対応する道具をそれなりに作り出してきた。だが、今はそれができないのである。たとえを変えれば「有効打が撃てない」。というのは、こちらに技量がないからではなく、リングが消えている! 脚元が液状化してしまっているからだ。

 安保法制が国会に提出されるという。国会審議と議決・決定というのは日本社会の統治の基本的ルールであり、それは憲法によって定められている。それがリングだ。ところが、現在の安倍政権は、法案の適合性を事前に調査・審査するはずの内閣法制局を黙らせ(言うことを聞かない長官を追い出した)、「解釈変更」と称して実質的に憲法を麻痺させてしまった。黒を白だと強弁することは、もはや「解釈」ではない。だが、それをやって「問題ない」(菅官房長官)と現内閣は言う。

 「問題ない」と言えるのは、国会(衆議院)で自民・公明の与党が絶対多数の3分の2以上を占めているからだ。この多数をもってすでに、憲法違反が明白な特定秘密保護法を強行採決し、採決の必要すらない閣議決定で集団的自衛権を行使できるとして、憲法条文(第九条)を空洞化した。それで「問題ない」と言えるのは、すでに何度も裁判所から選挙そのものが「違憲状態」であることを指摘されているが、定数是正が必要だと言うだけで、結局司法の本山である最高裁は選挙無効(国会そのものの違法性)とは言わず、実質的に現状を容認しているからである。そうであるかぎり、「違憲状態は問題ない」と言っているに等しい。日本では「2+2=9」で可なのである。

 安倍政権がこれまでのどの政権とも違うのは、この「違憲状態」を正す制度的保障が日本の制度システムには存在しないということを見切っていることだろう。従来の政権には、それでも憲法に背馳することに対する自制があった。だから憲法が政策意図にとって不都合であっても、あからさまに強引な解釈は控え、それでも一線は超えないという姿勢があった。それが国政運営の正当性の拠り所だったからだ。

 ところが現政権は「積極的平和主義」といった用語をはじめ、ペテンのような口舌を駆使してみずからの意図を押し通し、軍事行動のための法案を「平和関連法案」といつわり、それを「戦争法案」と呼ぶ野党議員にクレームをつけたりする。それは金融の堰を崩すために日銀総裁の首をすげ替えたり、無理な憲法「解釈」を通すために内閣法制局長を入れ替えたり、日本放送協会の会長に仲間を送り込んだりすることを平気でやる姿勢とつながっており、ともかく邪魔な枠はとり払い、黒を白だと言いくるめ、おまけにそれを「国の意思」として押し通そうとする。

 ここに来て「日本を取り戻す」というキャッチフレーズの意味するところはあからさまになった。憲法を麻痺させ、その無規範状態のなかで「国権」を私物化し、自分たち自身を「国」だと僭称して、国民を手コマのように使えるようにすること。そういう意図は「自民党憲法草案」にすでに示されている。

 集団的自衛権行使(他国=米国のために「わが軍」を投入する)を決めたことにし、それ前提に訪米、サンフランシスコ=日米安保条約の記念日に「日米同盟」強化を表明、安保法制整備を約束して安倍首相は「晴舞台」(英語学芸会という話もある)を演じたつもりで帰ってきたが、これはすでに端からしまいまで憲法違反だ(それをはっきり問題視するメディアは東京新聞や沖縄二紙ぐらいしかない)。

 ただ、この「国の私物化」は、大悪党のように独力でできるわけではなく、実はアメリカへの「国売り」によってしか叶わない。それは「戦争のできる国作り」が日米安保体制を根幹としており、「地位協定」に明らかなように「戦勝国」アメリカへの屈従を前提としているからだ。安倍のような「修正主義者」が何を「修正」しているかといえば、戦勝国が首根っこを押さえていることを、「可愛がってもらっている」と思い変えることだ。隷従し追従していることを、みずから進んで協力していると思いなすことだ。

 これをこそ「自発的隷従」と言うのだが、このように隷従する者は、自分が親分に目をかけられ、その権力を代行しながら自由に振舞っていると錯覚する。誰に対して「自由」に振舞うのか。言うまでもなく自国の国民に対してだ。だから、国民に「奉仕」を押し付け、自分たちはアメリカに「厚遇」してもらう。そうして日本の統治者としての地位を確保する。だから彼らの国内での専横は、米親分への「国売り」によってしか果たせないという倒錯が生まれるのだ(米軍の下請けでの出兵、TPPによる資本・市場の明け渡し等々)。

 安倍政権を代弁する官房長官は、菅義偉というたいそうな名をもっているが、彼が最近ドラマの悪代官になぞらえられるのは致し方ない。勧善懲悪のドラマが、このような態度をとる権力者がいつも最後に成敗されることを繰り返し演出しているからだ。もちろん、現実はドラマのようにはいかないというが、たしかにわれわれの眼にしている現実は、ステレオタイプのドラマよりはるかにひどい。現在の日本の権力者たちは、「憲法無視」という「悪事」を成敗しうる力が、この国の制度システムの内にも外にもないことを知っていて、「切れ目がない」だけでなく「歯止めもない」踏み外しを意図してやっているからだ。

 彼らが国内で進めるのは、派遣法改悪による労働市場の人足寄せ場化、カジノ解禁、大学のマッド・サイエンス・タコ部屋化、やっぱりヤクザの所業ではないか。そして、危険で世界的に評判の悪いアメリカ親分の厄介物を、「あっしが引き受けやす」と、沖縄に配備するだけでなく首都にも常駐させる。「抑止力」というが、何に対する「抑止」か。去年から徐々に進んだ首都のヘリ訓練、これは住民の馴らしでなければ、威圧と威嚇以外の意味をもたいな。

 このような状況に対して、「有効打」を繰り出しているのはいまは沖縄だけだ。

シンポジウム「立憲主義の危機」のお知らせ2015/05/25

立憲デモクラシーの会主催
シンポジウム《立憲主義の危機》

日時:6月6日 午後6時~8時30分(開場午後5 時30分)
会場:東京大学(本郷)法文1号館 25番教室
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/map01_02_j.html
(会費無料、事前予約不要)。

東西の憲法学の重鎮、佐藤幸治京大名誉教授、樋口陽一東大名誉教授が顔をそろえ、憲法について議論を行います。
特定秘密保護法が制定され、さらに集団的自衛権容認の閣議決定と、日米安保体制の事実上の拡大、それに基づく安全保障関連法制の一括整備など、憲法を逸脱した安倍政権の「違憲状態」運営が続いており、あまり悠長なこともしていられない状況ですが、「立憲デモクラシーの会」としてはここで憲法の何たるかをしっかりと確認し、現下の状況の異常さを幅広く訴えて行こうと考えています。
樋口陽一さんは、先日亡くなった奥平康弘さんと並ぶ東大憲法学の重鎮、フランスはじめ国外でも著名で、菅原文太さんや井上ひさしさん等との交友でも知られています。一方、佐藤幸治さんは、憲法史の観点から独自の憲法論を展開し、近年では裁判員制度・法科大学院の制度設計などにも尽力されてきました。そのお二人がいま「立憲主義の危機」という共通認識をもとに顔を合わせ、そこに現在の憲法学をリードする石川健治さんが加わって議論します。
危機の現状を前に、日本の憲法学会の屋台骨を支える代表者たちが立ち上がります。皆さんふるってご参加ください。
*なおIWJ(インターネット・ウェブ・ジャーナル)で同時中継を行います。

[次第]
・開会の辞 山口二郎(本会共同代表・法政大学教授)

・基調講演 佐藤幸治(日本学士院会員・京都大学名誉教授)
「世界史の中の日本国憲法——立憲主義の史的展開をふまえて」

・パネルディスカッション 「憲法は何をまもるのか」
佐藤幸治
樋口陽一(本会共同代表・日本学士院会員・東京大学名誉教授)
石川健治(東京大学教授)
司会 杉田敦(法政大学教授)

・閉会の辞