「講演はついに訪れず」―沖縄①2015/06/25

6月23日の沖縄・慰霊の日をはさんで、21日(日)から24日(水)まで沖縄に行ってきた。沖縄戦が表向き終わったこの「慰霊の日」に沖縄にいたことがなかったので、70年目の今年はぜひと思っていた。21日から行ったのは、この日70周年を記念して琉球新報社が岩波書店との共催で大江健三郎さんの講演会を企画していたからだ。

大江さんは復帰前の1970年に『沖縄ノート』を発表しているが、2005年、渡嘉敷島の「集団自決」をめぐるわずかな記述をめぐって、当時の島の守備隊長の遺族などから名誉棄損で版元の岩波書店とともに訴えられ、2011年に最高裁で大江さん側の勝訴が確定した。この裁判には「新しい歴史教科書を作る会」「自由主義史観研究会」など、「歴史修正主義」を担ってきた諸団体メンバーが原告側顧問をつとめており、この裁判も今日の安倍政権を作り出す一連の運動の一環で、大江さんはその標的にもなってきた。

だがじつはこの件の記述はごくわずかで、半世紀近く前に書かれた『沖縄ノート』は、「復帰」後「合法性」によって粉飾され、今日まで続く沖縄と日本との「統合・支配」の問題に、「ひとりの日本人」として全身で向き合い、これに真摯に応えようとした稀有の記録である。今読んでも、いや今読んでこそきわめてアクチュアルだと思われる。

日本全体が大きな曲がり角にさしかかっている今年、70年目の記念にその大江さんを迎えて講演を待っていた多くの聴衆、沖縄の人びとだけでなく本土からやってきた多くの聴衆は、この半世紀の大江さんの総括をどう受け止めるのかを自分自身の指標にもしたいと思っていたことだろう。

だが残念なことに、大江さんはついに演壇に立つことができなかった。前日、辺野古を視察してその光景を脳裏に焼き付けて講演に向かいたいというご本人の希望で、小船に乗り海上から埋立準備工事の現場を視察し、キャンプシュワッブ前にも立ち寄って、記者たちの質問に答える大江さんの様子が、開始を待つ講演会場のスクリーンに流されていた。

けれども、ただでさえ不調を伝えられる健康状態を押して、並々ならぬ思いで講演に臨んでいただろう――ひとりの日本人として沖縄の人びとの前で何が言えるのか、大江さんはつねに考えてきた――大江さんの体力は、真夏のような海の光の重さと余人の想像の及ばない内的な緊張に耐えられなかったのか、とうとう会場にその身を運ぶことができなかった。

琉球新報社の代表から中止が告げられたとき、会場には深い失望感が漂った。けれども多くの人びとが事情をそれぞれに推察したのだろう、満員の会場からは混乱もなく人びとが散開した。誰よりも失意を味わったのは他ならぬ大江さんご本人だろうということを、来場した人びとは理解していたのだと思われる。そして聴けなかった講演を、それぞれの持ち帰る空洞に問いながら、むしろ答えを出すのは自分たちなのだと思ったかもしれない。そう、大江さんはすでに問い詰めるだけのことを『沖縄ノート』で問い詰めている。

 「本土の柔な知識人の自滅」と揶揄する向きもあるかもしれないが、そんな批判も大江さんは先刻承知だろう。それでも「持続する志」である。そして「本土の柔な知識人」の末端に身を置く者としては、それでも、沖縄戦後70年のいま、大江さんが沖縄で何を語ろうとしたのか、せめて原稿のかたちででも読みたい気がする。

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