抑止と非戦(論考2015―⑥)2015/06/27

〇共同通信配信で「論考2015」という記事を月1回書いていますが、地方紙でしか読めないので、6月配信分をここに掲載します。「抑止力理論」と「テロとの戦争」の関係を取り上げたものです。
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 国会審議中の安全保障関連法案の根本には、抑止論がある。敵に攻撃を思いとどまらせるには「力」が必要で、「安全確保」「平和」のためには戦争に備える必要があるという理屈だが、相手も同じように構えるわけで、古今東西、戦争はそうした考えの果てに起こってきた。

 ▽恐怖の均衡

 この考えは核兵器の登場で極まる。1960年代に「相互確証破壊(頭文字から略称はMAD)」という、文字通り狂った理論が生まれた。相当量の核兵器とミサイルは敵国を完全に破壊しうる。核保有国同士がにらみ合うとき、敵の先制攻撃をしのいで反撃する能力を確保しておけば、たとえ自国が核攻撃を受けても、同時に敵国をも確実に破壊しうる。これなら敵も手を出せまい、というのがこの抑止論だ。
 敵も味方も全面破壊に至る脅威をもって、核攻撃を阻止する仕組みで「恐怖の均衡」と呼ばれた。狂気じみた考えだという思いは関係者の間にもあり、皮肉をこめて「マッド」と呼ばれていた。
 だがこの抑止論を無効にするもうひとつの「マッド」が出現した。9・11の「自爆攻撃」だ。
 抑止論は、敵対する双方がみずからの存続に固執することで成り立つ。つまり、生存への執着(哲学では「コナトゥス」と呼ぶ)がこの論の「合理性」の拠(よ)り所なのだが、その「合理性」を踏み抜いてしまう敵が登場した。彼らは生き残ろうとしない。捨て身だ。だから、近年の自爆攻撃も「カミカゼ」と呼ばれる。

 ▽監視と予防

 9・11が真の意味で衝撃だったのは、抑止論の合理性が崩れたからだ。だからこそ米国のみならず西洋世界は、この敵を「テロリスト」と呼び、自分たちと同じ人間とみることを拒み、「テロとの戦争」を始めた。「人間ではない敵」の殲滅(せんめつ)に向け、先端技術のすべてを投入した。IT化された爆撃、無人機(ドローン)、ロボット兵器…。
 「テロとの戦争」とは、抑止の効かない相手に対する終わりの見えない殲滅戦であり、当事国は外部の敵だけでなく、自国の社会の隅々にまで広がる不断の監視と予防を迫られる。それが抑止論とその破綻の末に行き着いた現在の「安全保障」である。

 ▽平和と非戦

 日本は第2次世界大戦で米国や中国と戦い、安倍晋三首相はよく読んでいないというポツダム宣言を受諾し「無条件降伏」するに至った。日本が戦争をする「権利」を放棄したのはそのためだ。「押しつけ」と言われるが、その責任は無謀な戦争を際限なく続けた日本の指導者たちにある。
 結果として日本は、「戦争をしない」という独自の構えをもつ国になった。もちろんそれは単独で可能だったわけではなく、中でも日米安保体制に守られていた。だが、50年代からの米国の強い要求にもかかわらず、日本が「戦争をしない」立場を守り続けたのは、歴代の政府がともかくもそれを得策と考え、国民が「平和」を強く望んできたからだ。その支えが日本国憲法だった。
 ただ、「平和憲法」はそれだけでは平和を保証はしない。それを実質化するのは「戦争をしない」つまり「非戦」という姿勢である。この姿勢は戦後70年にわたり、平和を望みながら戦争の絶えない世界で独特の存在意義をもってきた。核兵器の惨禍を知っているからこそ核武装しないというのも、他の国に核武装を思いとどまらせる唯一といってよい説得材料になっている。

 ▽文民が暴走

 抑止論は他国との敵対関係を前提とし、軍備で優位に立とうとする。だが「非戦」は戦争を排除する構えである。
 「非戦」は相手国との友好関係の入り口になる。信頼の場を開く。交渉や仲介はそこから始まる。日本が第三者である紛争においても意味をもつ。とりわけ軍事介入が引き起こした混乱の後では、そのような場を開くことが欠かせない。そこに「非戦」日本の「国際貢献」の機会がある。
 かつて自衛隊を作るとき、旧軍部の暴走のような事態を避けるため「文民統制」の原則が採用された。だがいまはむしろ「文民・文官」が暴走し、「軍」を自在に動かそうとしている。これはやはり異常な事態だと言わざるをえない。

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