民主主義を取り戻すために2017/04/03

ピエール・ロザンヴァロン『カウンター・デモクラシー』について――

民主主義の根を絶ちかねない「共謀罪=テロ等防止」法案が国会に上程されようとしている折も折、岩波書店からピエール・ロザンヴァロン(仏)『カウンター・デモクラシー』の翻訳が刊行されました。もちろん、悠長に本など読んで勉強している余裕もない昨今で、いい加減うんざりさせられますが、それでもなお、なぜデモが必要なのか、どうしてそれがわれわれの権利なのかを納得させてくれる本です。民主主義の歴史をつぶさに検討しながら、今日もどこかで声をあげることの必要と正当性を確認させてくれます。
巻末に、この本の意義を説く解説を書かせていただきました。広く目をとおしていただきたく、一部をここに掲載します。

●監視し、阻止し、裁く――民主主義を取り戻すために

・安倍政権下の官邸独裁(略)

・民主主義を実効化する智恵(略)

・「不信のまなざし」はなぜ必要か
 
 民主主義を実のあるものにするためには選挙以外にさまざまな方途が必要である。選挙はつねに信任の手続きだが、いったん選ばれてしまうと代表はその信任を離れやすい。だから権力を委ねる代表にはつねに「不信」のまなざしをもつ必要がある。

 権力の振舞いはできるだけ可視化し、それを監視しなければならない。そして権力の逸脱が見られるときには、さまざまな手段で抗議の意志を表明しなければならない。それがなければ民主主義は形だけのものに止まるだろう。多くの人びとが集まって意志表示するデモンストレーションはその重要な形態である。それはまたメディアによって可視化されなければならない。ここにこれだけの「民意」の直接表明があると。メディアが権力の補完物でないとしたら、それもメディアの役割である。

 監視し、阻止し、裁く。こうした権力への対応を本書の著者ピエール・ロザンバロンは「カウンター・デモクラシー」と呼んでいる。それは言うまでもなく民主主義に対抗するものではなく、代表選出だけではけっして完結しない民主主義を実質化する、民主主義のための不可欠の要素なのだ。

 もちろん、代表を選んだら基本的には彼らにすべてを任せておきたい。議員はそのために強い職権と手厚い保護を与えられているのだから。だが、往々にして彼らは裏切る。民主主義が選びを手続きに組み込んでいるからといって、それをある種の「選民」思想に横領しようとする連中さえいる。彼らは手続きさえ踏めばこの仕組みを「選民統治」に変えてしまおうとする。だからこそ「不信のまなざし」は欠かせない。

 民主主義とは多数多様の人びとの意志を集約する仕組みである以上、もともと一元的ではありえない。むしろ声の複数性を前提としている。それを代表の枠に強引に一元化するとき、民主主義は専制や独裁に転化する。それを防ぐためには、選挙に還元されない、選挙で決まったことにされない、このような多角的な「カウンター」が必要なのだ。それなしに民主主義は実現しえない。

 本書の著者はそのことを、近代の民主主義の成立の理念から、また多様な歴史的経験をたどりながら、つぶさに描き出している。折しも、冒頭で述べたように日本ではいま民主主義が最大の危機に瀕している。憲法違反が明かな決定が閣議でなされ、政権周辺から法的整合性は二の次だという声が公然とあがり、その閣議決定に基づいた安保法制が強行採決されても、ほとんどの主要メディアは政権に懐柔されて批判的監視の姿勢を置き忘れ、積み重ねられる不法は既定のものとなり、異常なことは何も起こっていないかのような気配だけが漂う。そしてあちこちで抗議の声が上がっても、そんなふうに騒ぐ方がおかしいといわんばかりの状況である。

 だが、日々の生活をひたひたと侵す不安に気づいた若者たちが、国会前に集まり抗議の声を上げる。そして「民主主義って何だ?――これだ!」とコールする。それをメディアは伝えるのを忌避し、町行く人びとは騒々しい連中がいるようだとしか思わない。沖縄の基地反対運動にいたってはさらに極端だ。何度も表明された民意をそのつどあからさまに振り払って、辺野古基地建設の強行が続く。その民意を「頑迷」だとか「過激」だとみなす気配まで作り出されている。

 いまやこの国では権力が監視されるどころか、権力の横暴に背を向けて抗議する人びとを白眼視する傾向さえある。もはや民主主義は足元どころか腰まで朽ちかけている。その現状の深刻さに目を覚ますためにも、民主主義とは何かをつぶさに確認するこの本は大いに役に立つだろう。民主主義を選挙だけに止めておいてはいけない。民主主義は危機のときにこそ、日々の「カウンター」によって支えられる。民主主義って何だ?これだ!と。

共謀罪法案提出とその時機2017/04/08

 この間の安倍政権のドタドタをかいつまんで振り返ってみよう。共謀罪提出は、その内容ももちろんのこと、提出の状況もとんでもないものだからだ。

-去年11月のアメリカでのトランプ当選に大慌て。TPPで奉仕(強行採決)の目算が狂い、「アメリカ・ファースト」になりふり構わず「日米同盟ファースト」で抱きつき。11月下旬には問題が多いまま自衛隊に「駆けつけ警護」の任務を付けて、内戦状況の南スーダンに派遣。一方で対ロ関係「進展」を地元山口で演出しようとしたが、剛腕ロシアのプーチンには軽くあしらわれ、その失敗を「電撃・真珠湾コウゲキ」で糊塗しようとする茶番。

 1月安倍訪米のあと本格的に始まった通常国会では、まず答弁できない稲田防衛相の「不適格」問題が露呈。南スーダン自衛隊派遣の責任者が、「戦闘」と言えないから事態は「衝突」、そう言わせる憲法9条が悪いと言わんばかりの答弁。そのうえ、昨夏の陸上自衛隊PKО日報が「廃棄」されたと防衛省が言いう。それを河野文書管理担当相の要請で「再調査」したところ、電子データがあることが分かり、これが2月に公表されるが、ほぼ黒塗り。

 明らかになったのは、稲田防衛相は防衛省(自衛隊)をまったく掌握していなということ、逆にいえば防衛省は省内のことを大臣に話していないということ。安倍首相に後継者と位置づけられて抜擢された稲田氏は、単純に大臣不適格だというだけでなく、実際に自衛隊は大臣を無視して独自に動いている(もはや「軍部」になっているということだ)。そんな大臣を罷免もしない、これが安倍政権の安保政策運用の実態だということだ。

 すでに大問題だが、それが何らの対処もされないうち、今度は「森友問題」が浮上。これは基本的には財務官僚による国有地不正売却問題だが、その相手が安倍総理夫妻と関係浅からぬ学校法人であり、用地取得が日本初の神道小学校「安倍晋三記念小学院」開設のためだったということ。さらに森友経営の塚本幼稚園の実態(園児が教育勅語暗唱、安保法制ありがとう、と安倍首相に感謝)が明らかになった。首相は国会で関係を否認してヒステリーのような答弁を繰り返したが、籠池理事長の会見を受けて、政府自民党は「懲罰」のために籠池理事長の証人喚問を受け入れ、そこで元警察官僚の議員を使って逮捕の恫喝に終始する。しかし森友学園の「愛国教育」が安倍首相の「理念」とも符合し、それを否定しなければならない首相の苦衷がはからずも表に出る。

 この件では、小学校に異例の認可推進を行った大阪府知事(維新の会)も絡んでいたが、松井知事は籠池元理事長を悪者にして居直る。そこに、さらに大規模な(森友9億、こちら30億超)安倍友「加計学園」問題も浮上。アベノミクスの売り物の一つ、いわゆる「特区」の「規制緩和」の実態が露呈。森友案件に深く絡んでいた首相夫人の「公私」が云々(デンデン)を「閣議決定」するという笑劇の一場もあったが、私人・公人の問題ではなく、公権力の「私物化」こそが問題。たしかに、それを禁じる法律はないが、これだけの「背任」にも検察はまったく動かず、地方議会議員が告発するのみ。もはや日本では、権力を手にしたら、憲法無視はもちろん(集団的自衛権行使容認以来)、何でもできるということが明らかに(それまで政治家たちがやらなかったのは、自民党内に相互牽制があったのと、いかにも政治家としてはしたないことだったから)。

 そして「教育勅語」が話題になったこの機会に、なんと政権は戦前体制のバイブルだったこの「勅語」(もちろん天皇が作ったものではない、天皇を統治に利用しようとする連中が作った)を学校で使うのも悪くない、と「公認」路線をうちだす。

 折しも、正規教科にされた道徳の教科書検定で、パン屋の例が相応しくないとして和菓子屋に変えたらパスという事態も(ケーキより毒まんじゅう、プリンよりコンニャク?)。そのうえ体育に銃剣道(こんなものが「道」だと聞いたこともない、弾がなくなったときの「一億ギョクサイ」訓練)も取り入れると、異常としか言いようのない文科教育方針。ドサクサまぎりに何でもやる、というだけでなく、ネガティヴにでも話題になったら通りがよくなったことにして押し通すというあられもない手口。

 3月には東芝崩壊が明らかになった。日立も減損を計上したが、東芝は1兆超えの減損。みんな原発商売のため。原発は東芝を潰すほど、もはや商売にもならない。にもかかわらず安倍政権は原発推進をやめようとせず、それを「忖度」して裁判所まで再稼働を許可する判決を出す。一方で被災者支援を3月で打ち切り。現場はまったく「コントロール」されず、年間1ミリシーベルトの国際基準を、日本は大丈夫とばかり20ミリシーベルトに挙げて被災地に帰還を強いる。そして経産省は「日本ってすばらしい!」という恥ずかしさもきわまる国際広告を打つ。

 そこに今村復興大臣(東電株もたくさんもっているようだ)、「自主避難者は自己責任」、国の方針に従わない者は面倒見ない、と復興法にも背馳することを公然と言い放ち、質問する記者を脅して追い返そうとする。こんな大臣も罷免しない。実際、この政権の閣僚は、首相がひどいから目も当てられないような連中しかいない。

 このドタバタの陰で、去年の女性暴行殺害死体遺棄事件やオスプレイ墜落事故をも忘れさせ、山城平和センター議長を5か月以上も拘留し、辺野古の新基地建設工事は着々と進めていて、あらゆる反対を押し潰して近く最初の埋立てを始めるという。

 問題が起こるとさらに大きな問題で騒ぎを後ろから前倒しに潰し、次々に問題をさらに大きな問題を押し流してゆく。それがこの政権のやり方である。次々に閣僚の失態や失格が明らかになるが、それでも「問題ない」としてこのデタラメ内閣は責任者に責任をとらせない。

 だが、これだけ政権の土砂崩れが起こると、いい加減年貢の納め時かなとも思うが、そこに共謀罪を上程して、また他の騒ぎを押し流そうとする。そう、この政権はいま、強力なサリンを撒いて政権批判を押し潰そうとしているかのようだ。それが共謀罪上程である。もちろんこれは、警察権限をほぼ無制約に拡大する最悪の治安立法である。それを持ちだして、稲田・森友・加計・安倍政治問題・失格大臣やその他の政権の崖崩れを、もっと大きな災厄(共謀罪)で潰して苦境突破を図ろうとしている。

 共謀罪(テロ等対策法?)が許せない悪法だというだけでなく、それをいま提出している安倍政権そのものが、いかにひどい政権であるかということを確認しておかなければならない。ほんとうにとんでもない「亡国政権」だと言わざるをえない。この先にはもう日本の瓦解しかない。個人の人権とか自由を守るとかいった贅沢な話ではない。この政権の延命の先にはこの国の瓦解と荒廃しかないということだ。

「沖縄差別」の遠近法2017/04/29

「琉球新報」が、基地建設反対運動のリーダー山城博治さん他を逮捕・長期拘留した(東京から支援に行った反差別運動・カウンター活動の高橋直輝も不当逮捕のうえ199日間も拘留され、ようやく最近保釈された)ことを機に、一方で沖縄の意志表示を踏み潰し、他方でそれを看過する「沖縄差別」の問題をとりあげて、「分断を超えて」というシリーズを掲載している。その第1回(4/26)に寄稿した記事をここに再掲させてもらう。
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 一九九五年に米兵による少女暴行事件が起き、那覇で「復帰」後初めての大抗議集会が開かれた。これが今日の辺野古新基地建設をめぐる対立の発端である。何の対立か。沖縄と日本、行政的に言えば沖縄県と日本政府の対立だ。日本政府は防衛(これを最近では安全保障と言う)上の理由から沖縄に基地を置くのを当然とみなす。日本の安全保障は「日米同盟」前提だから、それが米軍基地か日本軍基地かは問題ではない。だが、沖縄にとっては辺野古に恒久基地ができたら、占領期以来の基地負担がやむ希望がなくなる。

 沖縄戦の経験から、基地のあるところが戦場になるということを沖縄は骨身にしみて知っている。だから対中危機を煽っての沖縄の恒久基地化や先島の軍事化は、「捨石作戦」の悪夢をよみがえらせる。だが日本政府、とりわけ中国敵視、日米同盟のワンセットからしかものを考えない安倍政権は、あらゆる手段を使って沖縄世論を切り崩し、有無を言わさぬ強硬姿勢で基地建設を推進しようとしている。

 その意を汲むかのように、政府に同調する勢力が沖縄に圧力をかける。沖縄の「わがまま」を批判し、「お国」への貢献を求める。あるいは基地建設に抗議する人びとを誹謗中傷し、運動を民意から分断し孤立させようとする。それが「沖縄ヘイト」と言われる言動を生む。

 メディアについても「沖縄二紙を潰せ」といった発言が政府周辺から出る。沖縄二紙は地域紙だ。だから地域住民の関心に応える報道をする。地域紙なら当然のことなのだが、「国家」を掲げる者たちは「国益」にかなった報道をせよと言う。つまり地域世論を操れということだ。それを最近では「国家第一」と言うようだ。ただし、「国益」と言われることはしばしば「私益」の隠れ蓑にすぎない。とりわけ、森友学園問題に如実に表れたように、首相の権力をあからさまに私物化している安倍政権の場合はそうである。

 沖縄では、米軍占領下で多くの人びとが「祖国復帰」を求め、曲がりなりにもそれが果たされ、しばらくは日本国家への再統合が進んでいた。しかし、くすぶっていた米軍基地問題が九五年に再噴出、日米安保体制下での日本と沖縄と接合の危うさが問われるようになり、以後、日本政府は沖縄の懐柔に腐心してきた。しかしいわゆる教科書問題で、沖縄戦の記憶を日本の歴史から抹消する意図があらわになると、対立の軸はもはや「保革」ではなく「沖縄と日本」になった。沖縄戦は戦後の沖縄の存立の原点だからだ。

 この対立は、人びとの記憶を一気に「琉球処分」にまで引き戻す。琉球国を廃して沖縄県を置く、それが近代国家草創期の日本政府によってなされた「処分」だった。沖縄が日本の他の都道府県と違うのは、この「処分」によって日本国家に統合されたという点である。他の都道府県は初めから日本国に属していた。だからその歴史を地域史として語るときにも、それは日本史の一部になる。だが、沖縄県は日本史とは違う固有の歴史を語りうる。その違いは沖縄戦と戦後の運命によってさらに強調される。沖縄県は地上戦で人口の四分の一を失い、そのうえ米軍占領下で基地の島に変えられながら、日本の行政権に属さない二十七年を過ごした。いわゆる「アメリカ世」だ。日本の歴史にそれがどう書き込まれるかは今後の沖縄の死活に関わる。

 近代の歴史は否定しようもないが、沖縄がいま日本の一地域として統合されているとしたら、その統合を望ましいものにするのが日本政府の責任だろう。だが、そこに亀裂が走り深まっているのが現状である。その対立は国家と一地方という非対称な対立であり、圧倒的な権力関係の下にある。沖縄の人びとが抱く「差別感情」はその表れに他ならない。

 「琉球処分」以来、たしかに日本は沖縄を属地のようにして扱ってきた。それは、一九〇三年大阪博覧会での「人類館」事件に露骨に表れていたし、また差別を受ける屈折した思いは山之口獏の詩などに深く表現されている。今では「沖縄県」はごく自然に受け入れられているが、このような対立が目立ってくると、アパートを借りるのに「沖縄人お断り」の看板がかかっていた時代に逆戻りする。本土に沖縄料理店が広まり、沖縄の海や風になじんだ「沖縄ファン」が増えても、彼らは「リゾート地沖縄」にしか関心がない。その風潮は無言の「差別」を後押しする。

 つい最近の衆議院憲法審査会で「国と地方のあり方」がテーマになったとき、複数の参考人から地方自治の「本旨」を強調する意見が出たという。自治とは自ら治めること、オートノミーである。国にとっても自立が必要だが、地方にも自治が必要である。それが民主国家の基盤でもある。沖縄が日本において十分な自治権をもつこと、それが統合の実りをもたらす道であり、「琉球処分」以来の「差別」の構造を解消する唯一の道であるだろう。