首都圏反原発連合の七夕国会前抗議2017/07/08

「10年後の、今月今夜のこの月を…」
7月7日は七夕、一年に一度の牽牛と織女の出逢いの日。その日は金曜で、恒例の首都圏反原発連合の国会前集会もにぎやかです。わたしもスピーチすることになりました。いつもアドリブで話をするとどうも長くなりがちで主催者を困らせます。そこで今回は原稿を用意して読み上げることにしました。以下に掲載します。
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 3・11以来考えました。津波の跡、福島にできたゾーンを見ながら、核技術とは何なのかと。結論は早くに出ました。核技術は、われわれの生活圏である自然界の基礎構造を壊す技術、科学技術の粋と言われながら、人間どころか、生命とは両立不可能なものだと。

 それを軍事ではなく、社会生活のベース(エネルギー源)として持ち込むためには、初めからフェイク・ニュースを必要としたということも。なぜなら核技術は自然界に決壊を引き起こして放射能を誘発しますが、その収拾はできないのです。それを「安全」ということがすでにフェイクです。原発が事故を起こす前に、核爆発そのものが人為的な事故であって、その事故で自然が封じ込めていた災厄を解放する、それが核技術の真実です。

 富を競い合い、ときに戦争もする世界の体制のなかでは、核エネルギーは桁違いの元手になります。だからどんな手段を使っても富を独占しようとする人たちは、フェイクで真実を押し隠し、PRで人びとを踊らせながら、核利用を推進しようとします。

 まともな為政者のいる国々では、科学的にも、経済的にも、また道義的にも、核依存は割に合わないし未来がないと判断し、まだ引き返せると考えて撤退を決めています。その中で日本だけが、止まっていた原発を再稼働し、核技術の輸出さえしようとしています。ヒロシマ・フクシマを経験し、核の実験場となった日本だけがです。

 その日本の、舵取りをする政府はどうなっているのか?フクシマのダメージから立ち直ると称して虚勢の「国力」を頼み、世界の「平和」を確保するために敷かれた「戦後レジーム」を、「岩盤規制」であるかのようにやり玉に挙げて廃棄しようとし、「国民が喜んで戦争のために身を捧げる」そんな国家を作ろうとしています。

 それは誰のための理想なのでしょうか?もちろん国民のためではありません。国民は競って悪条件のもとで働かせ、仮想の敵との戦争に備えさせる。進んで言うことを聞けば許されるが、反抗すれば共謀罪。それは一握りの特権者たちのための「楽園」にすぎません。彼らは権力を私物化して国の富を自分たちの食い物にし、未開人の酋長よろしく仲間内で勝手に気ままにやりたい放題をやる。森友・加計学園問題で露呈したのは、「美しい国」などと言って国家への奉仕を要求する連中こそが、そんな夜郎自大だということです。原発も、そんな連中が国の隷属体制を作るために社会に埋め込む地雷のようなものです。

 原発はまやかしの技術性と経済性で、国の経済・社会のあり方を根本から歪めます。そして、社会に嘘を蔓延させ、その嘘を維持するために真実を押し込め、まともな考えや、物言う人びとを押し潰すことなしに存続できません。

 だからこそ、原発をなくすことは社会のあり方を根本から変えることになるのです。富よりも人間が大事にされ、生きることの豊かさが養われ、この「文明化」されたはずの社会の健やかさが作り直される、そんな未来への約束の道です。

 首都圏反原発連合は、広範な人びとの思いを声にし、五年間に渡って途絶えることなくこの国会前に場を確保し、その道を開くべく活動を続けてきました。ここに挙がる声は、雲を貫いて空に、未来に開けています。この五年間に日本の政治は逆行の嵐に呑み込まれ、それでもますます多くの人びとがそれぞれのやり方でその濁流に立ち向かっています。その運動の軸に、いつもこの反原連の集会があったことをあらためて確認しましょう。そして、その未来が今日になるまで、ここに立ち続けようではありませんか。

「戦後レジーム脱却」の茶番あるいは惨劇――現代日本の政情2017/07/14

 『図書新聞』の提案で6月14日に木下ちがや氏と日本の政治の現状について対談を行った。それが本日発売の同紙(7/22、3312号)に掲載されている(1面で頭出し、続きは7面)。
 
 木下氏が今年前半の国会論議を軸に起こったことをコンテキスト化して概括批評するのを受けて、わたしは安倍政権の特質を最も分かりやすい形で描き出してみた。

 権力の私物化を当たり前とするような悪人どもの私党が国家中枢に居座り、官僚・警察・メディアを抱え込んでやりたい放題をやっている。政策を勝手に使って仲間内で国有財産山分け、民主主義国家に黄門様がいないのをいいことに、仲間の犯罪まで警察を使って握りつぶす。「数」の力と言われるが、その「数」の中身たるや、自分の妄想に尻尾を振る際物ばかり集めるから、欠格議員続出、大臣もトンデモ大臣ばかり。どんな大臣も据え置いて任命責任もとらない。
 
 以下は紙面を参照していただくとして、論の展開の大筋だけを呈示しておきたい。
 
 安倍の看板は「戦後レジームからの脱却」だが、「戦後レジーム」は一国態勢ではなく、「世界戦争」の帰結としての世界の要請。日本の敗戦によって否定された旧体制を、グローバル化の下、アメリカに再身売りすることで「戦後レジーム」を否定し、外交のない一国軍事化妄想に邁進する安倍政権。
 
 それは明治以来の日本の国際秩序への統合・参入とその「非劇」を、戦争知らない世代が「夢よもう一度」となぞる「二度めの茶番」。だから、「国家のへ献身」を謳い、「国民の奉仕」を求める連中が、実際にやるのは権力の私物化と自分たちの「楽園」作りだということが、森友・加計騒動であからさまになってしまった。そこから考えてみると、「国家主義」なるものは、ほんとうに国家第一に考えているのではなく、そういう体勢を国民に強要して、自分たちがその国家・国民の上に胡坐をかこうとする連中の考えることだということが明らかになる。
 
 改憲論議も何も行き着く先はそこ。それを言いくるめるのが「オルタナ・ファクト」「フェイク・ニュース」、そして「ポスト真実」の政治。そんなことまで安倍政権はさらけ出した。
 
 だから課題は、どんな政策論議でもない。こんな連中に政治を任せてはいけないということ。先には破綻しかない。「茶番」の破綻は目も当てられない。どんな政権でも(かつての民主党政権でも)これよりはずっとまし。少なくともまじめに国政を考える者たちの政府を作らなければならないということ。その政治の基本は、国内・国際あらゆるレベルで他者がいることを前提にした地域共同の生活、人びとがまともに生きていける体制の整備。そのための経済・外交etc.。少子高齢化が現実としてありながら、国のために死ぬことを要求するような政治は始めから失格だ。