森友疑惑終盤にみる現代日本政治の病理2018/03/23

 財務省が国会に提出した決裁文書が改竄されていた。これは何を意味するのか?税で運営される国家で、その出納を扱う役所が公的文書を書き換える。これ自体で国家的犯罪である。官庁の役人(公僕)が国務を果たさないどころか、国務を損なう。これでは国が成り立たない。

 ただし、役人自体にはそうするメリットがない。みずからの存在理由に反するからだ。だから役人は、自分がその一部として働く政府、それを現在統括している政権からの指示がなければそんなことはしない。現在の国家機構の中では、政権(内閣)が役人の上司に当たるからだ。直接には財務大臣、最終的には総理大臣である。

 かりに直接指示がなかったとしたら、実務担当として国会での答弁作成や説明を要求される役人は、政権の表明・答弁を支える対応をしなければならない。そう、いまの役人たちは考えているようだ(太田理財局長は答弁で「お仕えする方々…」と言った。本来なら、役人が「仕える」のは国であり国民であるはずだ。だが、内閣人事局が官僚人事を仕切り、政権を守る答弁に徹した官僚が「適材適所」とされて出世するという現状では、官僚は政権に「お仕えする」という意識になるのだろう)。だから、「有能な官僚」であるためには、政権の意向を汲んで先回りしてでも対応しなければならない(「部下」の「自発的隷従」ということだ)。そうしたら、役人にあるまじきことまでしてしまった、ということだ。そうさせるのが安倍政権だ。

 「ソンタク」どころの話ではない。意向通りにやれという暗黙の強制力がついてくる。だが、最初の決裁文書(改竄前)に、「森友学園への国有地特例払下げ」の事情について事細かな記述があるのは、財務省の役人たちがこの「特例」扱いに関して、自分たちでも申し開きができる事情を記録しておく必要があると考えた(自分たちの意志でやったのではない)からだろう。「特例扱い」の事情を示しておく必要がある。そのために、省内では詳しい文書が決済されたのだ。

 しかしそれは、政権側としては国会に出されては困るものだった(記録された事実は明るみに出されては困るし、それ以上に「…関係していたら議員も辞める」という首相答弁が跳ね返ってきてしまう)。だから「書き換え」が命じられる。実際には、官僚経験者の前川喜平氏が言うように、政権と官庁の役人のつなぎ役(経産省からの今井尚也首相補佐官)が財務省担当者に指示したと見るのが順当だろう。

 そして「書き換え」は財務省、それも担当部署の理財局が独断で行ったこととされ、その責任が一年前のこの案件の発覚時の国会対応で「論功行賞」を受けた佐川国税庁長官(確定申告期間中に辞任)に押しつけられ、「佐川事件」とまで決めつけて(そう言ったのは西田議員だが、当の麻生財務相も「サガワ、サガワ」と呼び捨てにしていた)官邸から切り捨てられることになった。稚拙さ丸出しだが、この内閣はそれで通せると思っているようだ。

 佐川局長(当時)がその「有能さ」を官邸に示すために、省内でどのような暴圧を振るったのかは知らないが、財務省はこの間少なくとも2人の自殺者まで出している。死人に口なしと言うが、死ぬこと自体は雄弁である。下で働く者が生きていられないほどの圧迫を受けていたということだ(この問題ではすでにごみ処理業者が自殺している)。

 この件に関しては財務省だけでなく国交省も片棒をかついでいるようだが、財務省は決裁文書(国の行政記録となる公文書)の改竄まで行った。これは前代未聞と言われるように、国家行政の根幹を崩す不法行為である。いかなる政権もそれはやらなかった。財務省がそれだけの不祥事を起こしても、財務大臣が辞表も出さない。これがまた国家行政の責任体制を腐らせている。と同時に、この政権が官僚たちを飼い犬のようにしか扱っていないということも表している。。財務省の統括責任者なのに、権限だけ振るって自分のせいではないと居直るのだから。

 「総理夫人」がものを言ったということ、近畿財務局では「安倍事案」として扱われていたこと、等々が明るみに出ても、直接の指示を出していないから「関係していない」で通せると思う首相、それがまだ30%もの支持を得て、国の最高指導者・責任者を辞めずにいられるということ、これがこの国のもっとも深刻な病理である。

 まずは与党の自民・公明の問題であり、それが国会で3分の2を占めるという怪奇である。そしてこの期に及んで公明党が安倍政権を支え続けているということである。

 かつては田中角栄が、森友学園80億、加計学園300億と較べれば「わずか3億」の賄賂で政権を追われ訴追された。隣国韓国では元大統領の汚職も追及されている。日本で検察や司法はどうなっているのか。もちろん警察も含めて、この政権は人事を握って官僚と同じように「犬に餌を与えて」いる。つまり権力になびく者を重用し機構全体をなびかせている。こういう権力政治を何と言ったらよいのだろうか。

 たしかに、窮地に立ちはした政権は、不意に放送法改正を言い出した(3月22日)。「自由化」するのだと。テレビもネットと同列に扱い競争させると。これが曲者である。ふつうの法律のように扱えるが、それが「ポスト真実」の仕掛けなのだ。でっちあげもデマも中傷も、まともな情報と同じ池に入れて掻きまわす、というのだ。

 経済でも「良貨は悪貨を駆逐する」というが、情報の市場でもそうである。ドブ池を作って流し込んでやれば真水も濁る。色と甘み(金や餌)を薄くつけておけば大方はなびくというわけだ。だが、そこで掻きまわされるのは「公共性」と「私利・私欲・私怨」であり、パブリックとプライベートの区別だ。もちろんすべてを「私」のレヴェルに落とし込む。ただし自分(たち)は公権力をもち、その「私」の汚濁の中で圧倒的な力を振るう。それを「社会の鏡」たるメディア環境で実現しようとする。

 その最終目的が憲法なのは(現実にそれが安倍政権にとって必須と思われていようといまいと――実質的に憲法は骨抜きにされているし、何の歯止めにもなっておらず、蹂躙され続けている)、それでも現憲法がそのような社会や政治を斥けることを原理としており、それを崩すことで、いまの自分たちの権力のあり方を妨げるものがなくなるからだ。

 このような政治のあり方の下では、どんな改憲論議も泥土流の決壊に手を貸し、汚泥の濁流に飛び込むことにしかならない。いま求められるのは、森友・加計疑惑の徹底究明と、それによる安倍的政権の本質暴露、そしてその跋扈を許した日本社会の病理の究明であり、このような政治が継続したり再登場したりする盲点に手当てすることである。グローバル化とIT情報化による社会の変容のなかで、「まともな国」への望みを取り戻すために。

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