雑感:何とも面妖な日本の2019年5月2019/05/06

 五月晴れとはいかないが、連休も後半のどかな日だ。
 昨日まではせわしなかった。「平成カウントダウン」だの、「令和最初の何とか」だの…、そして昨日はいつもより切迫した「憲法記念日」、少し陰になって「天皇代替わり」というのがあった。背後にあらゆる類の現代の魑魅魍魎がうごめく、濃~い数日間。
 民は踊ったようにみえる。踊らせた、というよりこの社会を踊り場に仕立てているのは、PR会社とマス・メディアだ。多くの人びとは何も考えなくていいように仕向けられている。(上から目線?しかし上から見ても下から見ても事実だ。)

 どこかに、スマホをチンパンジーが操る動画が流れていた。クリックしたりスクロールしたり、やっていることを理解しているかどうかは知らないが、人間と同じように惹きつけられて操作している。そういえば、スマホは「サルでも使える」ようにできているのだ。データの蓄積・検索・通信は機械が勝手にやってくれる。それで捜したり、想像したり、考えたりすることが代行される。もちろんゲームはこれが最高だ。でも、操作するのはサルでもいい。というより、便利だとか、楽しいとか言ってそれを使い、頼って没頭する「人間」は、実はいなくていい。だいたい、何をするにもヘマするし、、遅いし、腹すかしたり、文句言ったり、疲れて居眠りしたりする「人間」は仕事の役に立たないのだ。「人間」はスマホを買って消費するためにいればいい。そうすると億万長者が現れる(ビル・ゲイツに始まる優秀な人間の手本だ)。それと、ITコミュニケーションに身を預けた人間は、「政治」の操作の対象にはなっている。社会の方向づけを決定するのは「政治」であり、そのためには票を集めなければならない。あるいは選挙という制度を使って多数派を形成する操作が必要なのだが、その部分では、人間をかき集めたり、その気にさせたり、あるいはいちばん都合がよいのは、「政治」に関心をもたないようにすればいい。

 そのために日本では、教育に力が入れられ(圧力がかけられ)、学校では自分で言葉で考える能力がつく前から、ITワールド(とそれに親和的な英語)に馴染むようにしつけられ、ものを考えだすと、おかしな奴だと白い眼で見られ、イジメの対象にされ、そんなのはおかしいと反発すると協調性がないと遠ざけられ、それを擁護しようとする教員がいると、学校に「政治」は持ち込むなと排除され、そんな圧力に同調しながら競い合い、「スポーツ」に打ち込み、あるいは賢く立ち回った者だけが、「優良」な生徒として順調に進学し、社会に「人材」として供給されてゆく。そういう体制をしつこく作ってきたのは、弱小官庁コンプレクスのなかで「教育勅語」を後生大事に抱えてながら、あの手この手で利権を蓄えてきた文科省だ。

 しかしとうとう、勅語教育が「社会的要請」に親和するIT時代が到来した。OSが新しくなると皆が喜んでパソコンを買い換えるように(OSは人が使うにはいいところまで進んでしまったから、更新はもう迷惑でしかなくなっているが)、元号が変わるというと、誰が何のために変えるのかを問うこともなく、変わること自体が祝い事であるかのように(MSだけでなく、マックOSもカウントダウン!)、メディアの作るディスプレー上の世界が「改まって」古いOSのバグはみんな忘れる。で、OS、誰の都合で誰が変えてるんだ?そんなことはどうでもいい。新しくなるんだ、いいに決まっている、と。「教育」とPRの成果は絶大だ。

 こんどの「改元」は平成の天皇が生前退位を求め、それが認められて生きたままのリレーになったが、「一世一元」の性格はそれだけ露わになった。「喪」があるとよく見えないが、ひとりの天皇(王)が在位している間がひとつの「世」なのだ。ただし、元号があるのは昔(大化以来)中国に倣ったからだが、「一世一元」は明治から始まった新制度である(それも明以来の中国に倣った)。

 敗戦による明治国家体制崩壊で一旦この制度は宙に浮くが、現・日本会議に連なる「復古」勢力の要請で一九七八年に「元号法」が制定され、それで再び合法化され、今でも使うことになっている。この「慣習」はじつは自然に生じたのではなく、平成改元時に自民党政権が社会に半ば強制したからだが、その効果があって――それに自民党政権の不評に対して、天皇の姿勢が一般に親しみをもたせた分――、逆に「平成」は定着し、「改元」は自然なように、ほとんど何の抵抗もなく受け容れられた。そうかどうかはわからないが、マス・メディアは率先して日本を「改元」一色に染めた。

 するとこの国には、社会がボロボロになろうが、政治がウソで振り回されようが、万邦無比のすばらしい制度がある、ということになる。資本主義最後の産業「観光」の時代にふさわしく、元手のいらない「地域特産物」、ここには独特の時間が流れているんですよ、何も変わらなくても「世が変わる」、そんなありがたい「万世一系、神の国」なんです、一度はおいで、という話が通用する。だから、そうやって世界をおもてなし、オリンピックにもすぐ乗る。

 そんな風だから、日本はこんな「美風」をもつ世界に冠たる君主国、民主主義ってバカじゃねぇ、わたしたちはただの国民などではなく「臣民」なんです、と自慢する若者たちも現れる。それを言うのはもはやタブーどころか、何十万回とリツイートされる。実際この間、テレビをつければみんなそんな雰囲気だし、街を歩けば目に入る広告はみんな「レイワ、レイワ」、とりわけ観光客でにぎわう界隈や美術館などはニッポン・スゴイの「お国美術」のオンパレード。そこに「レイワ2年」の東京オリンピックだ。それ以外のことは見てもいけない、見せてはいけない、冷や水さすのは「ヒコクミン」といった勢いだ。

 そして五月一日、東京の目立つ場所には「#2019自民党」の著名アニメ・イラストレーターによる大広告が現れた。この期に乗じて「ワイルドに進める」改憲論議(萩生田)が打ち出された。もちろん三日の記念日には、自民大広告に似ても似つかぬ姿に描かれた(このメディアPRフェイク、ウソでも何でも大丈夫!)安倍晋三自身が、某会議に「改憲論議」を進めるビデオ・メッセージを送ったという。もちろん憲法を「改良」しようというのではなく、嫌いな憲法を好きなものに置き換えようということだ。「改元」を仕切った勢いにのって、彼はほんとうに「世」を変えようとしているようだ。

 PRメディア・コミュニケーションが、いま中身を抜き取られた「人間」の空洞を埋めて、ヴァーチャルな「宗教」にとっての「信仰」の代用を果たしている。何とも面妖な日本の2019年5月ではある。(ふと、永井荷風が短編「花火」で描いた「日比谷焼き討ち」の遠景を想う。)