「人新世」と、「アメリカ」によって消された世界2023/05/09

「人新世」って何かというと、人間の生産活動(技術産業経済)が自然の開発を闇雲に進め、それが地球の物質代謝に有意な変化を引き起こすようになったという、地質学的(?)認識でしょう。ただしこれ、科学的認定というより、地質学的変化にも人間を重要なファクターとして加味しなければならなくなった(三葉虫のように)という、自然学者たちの危機感からする「警告」的な意味合いが強いよね。地質学の時標はふつう、中生代約2億年、新生代約6600万年、その終りの方で約160万年前からが新生代第四期(最近258万年前に変更とか、イイカゲン)、現生人類の歴史が約20万年としても、「人新世」って400~500年前からというのだから(いや産業革命の250年前から)。こんな区分が「科学的」であるはずがない(少なくとも人間の自覚という観点が入っている)。

 この認識は、科学的に言うなら、エントロピー増大の原理が発見されて(宇宙は不可避的に熱的死に至る)、じゃあ生命って何だということになり、そりゃエントーピー増大の流れのなかに逆ネジ巻くようなネゲントロピーの系というしかないな、ということで、生命系というのはエントロピーの流れを遡るシジフォスの仕事をするように逆均衡を維持するある閉じた系を作っているということか、等々と考えられ(フロイトは人間に働くエロスとタナトスの傾向を考え、バタイユは限定経済に対する一般経済を考えた)、ついに1970年代にルーマニア出身のニコラス・ジョージェスク=レーゲンが、人間の経済活動を自然との代謝のなかに置いて考え直し、エントロピー経済の中での定常系の維持という観点から「生命経済学」を構想することになった、それに見合う発想である。
 簡単に言うなら、人間の経済活動にエコロジー的観点が必要だと知られるようになり(1960~70年代)、成長の限界が言われ、環境との均衡のなかに人間の生産活動を収めないとまずい、という発想だ。そこから、近代産業経済の「発展」を導いてきた「功利主義・効率原理」に対する批判が生れ(フランスのMAUSSの知的展開、A・カイエ他)、そこから「脱成長」の考え(経済の「成長」神話からの脱却)が生れてきた(S・ラトゥーシュ)。彼らをとりわけ刺激したのは、西洋の近代経済システムに組み込まれて破壊され荒廃し、そこから独自の地域的な経済生活を作り直そうと格闘したいわゆる「第三世界」の試みである(西側ではそれを開発経済とか環境経済という形で追及した)。
 
 だが、マルクス主義にはその発想はあったのか?はっきり言ってまったくなかった。(マルサスの想を受けたダーウィンの「進化論」には感激して著者にお手紙を書いたマルクスが、ジェボンズのように熱力学の第二法則――エントロピー増大法則――に震撼されたという話は聞かない。)マルクス主義は「資本主義」なるものを「敵」と見立てて「階級闘争」を組織し、プロレタリア革命による「資本主義の打倒」を目ざした。あるいは、資本主義の破綻は歴史的必然であるとして、革命が起こっても起こらなくても生産力の増大がやがて資本主義の矛盾を解消して共産主義の条件を整えるであろうと。
 何というオプティミズム!あるいは西洋的盲目!(歴史が階級闘争の歴史であり、その最後の段階としての資本主義という把握の、あまりに人間的、というか、西洋ユダヤ=キリスト教的なヴィジョン。マルクスはヘーゲルを転倒したつもりで「世界史」を語るが、その世界史は「終末において地上に天国が実現する」というアウグスティヌスの「両世界論」の手のひらの上にある。そして「資本主義が終わる」というのも、「終りの日は近い、天国は我らのものである」という福音書(派)の俗悪終末論とどこが違うのか?「資本主義」というのは、「地上の国」(欲望と罪悪の国)の経済主義ヴァージョンにすぎない。だから、いくらそれが「終わる」といっても、信者を慰める司祭たちのタワ言にすぎないのである。
 
 たしかに、19~20世紀の西洋・西洋化世界で、また社会主義成立後のいわゆる国際階級闘争のなかで、他に理論的足場がなかったためマルクス主義を信じて戦った何千万という人びとがいた。その人たちの格闘や苦難を貶めることはできない。しかし、70年代以降のマルクス主義の信用失墜と時を同じくして噴き出したエコロジー問題は、もはや反資本主義や階級闘争では対処できないものだったにもかかわらず、少数の人びとをのぞいて考えを刷新することはできなかった。それに対して「資本主義」の側は、技術・金融のITヴァーチャル化とグローバル化によって「前に逃げる」展望を開いたのだった。「欲望の脱領土化」というイデオロギーがそれを後押しし、新手のマルクス主義者は資本の運動を「加速」することでそこからの「脱出(EXIT)」を試みる(新しいエグゾダス=出エジプト?)。だが、どんなに追い抜こうとしても、資本の運動はその先を行っていて、追い抜くことは不可能なのだ。「資本の運動」は初めから「終りの日」として、つまり決して届かない「未来」として設定されているからだ。そのことに絶望してマーク・フィッシャーは「資本主義のリアル」に呑み込まれて死んだ。そしていま、グローバル規模であらゆる公共性を溶解し、ヴァーチャル化して限界を超えた私的所有権の跳梁のもと、新自由主義と呼ばれる経済統治システムが、一方で俗悪な権力欲のために各所で戦争を準備させ、他方ではエントロピーの侵蝕増大で荒廃する地球を尻目に、「脱出」の夢を見させている。
 
 はっきり言っておこう、「人新生」が語られる現在の状況にマルクス主義はまったく対応できないのだ。だからそれを『資本論』の草稿に書かれているとか、マルクスが予言していたとか言うのは、無知でなければ恣意的濫用である。たしかに、今から読めば草稿に現在の認識に結びつけられる記述があるかもしれない。しかし、「人新世」と呼ばれる状況にマルクスで対応できると思うのは、エントロピー経済の由来や、この百年に世界各地でマルクス主義をめぐって起こったことについての、度し難い無知というしかない。それは若い人の善意のなせる業かもしれないが、その「善意」は結局、大きな意味での「歴史否認」につながってしまうだろう。
 ともかく、現代の問題系に対応するのは、西洋近代の原理思想・経済学の枠組みにあぐらをかいたマルクスの認識などではなく、その西洋近代の論理によって文字どおり抹消された(植民地支配を受けたのではなく、存在そのものを抹消された)人びとが、最後の究極の抵抗の前に残したつぎのような表明に籠められた持続的生存の思想だろう。以下は、西洋白人の到来によって二百年に渡って居場所を奪われついには根絶されたスー族の長老タタンカ・イヨタケ(シッティング・ブル)と呼ばれる人物が遺した言葉である。かれらの存在を抹消したのは「アメリカ」と自称する「新世界」だった。
 
 「みよ、兄弟たちよ、春が来た。大地は太陽の抱擁を喜んで受け、やがてその愛の果実が実るだろう!種は一つひとつが目を覚まし、動物たちの生命もまた目覚める。我らもまたこの神秘的な力のお陰で生きて世にある。だからこそ我らは、この広大な大地に住まう権利を、自分たち同様、隣人たちにも、また隣人たる動物たちにも与えるのだ。
けれども、聞いてくれ皆の衆!我らは今、もうひとつの種族を相手にしている。先祖たちが初めて出会った頃には、小さくて弱々しかったが、今では大きく尊大になったあの種族だ。奇妙なことに、彼らは大地を耕そうとする心を持ち、彼らにあっては所有への愛着が病いにまで嵩じている。あの連中はたくさんの決まりを作ったが、その規則は、金持ちは破れても貧乏人は破れない。彼らは、貧しい者や弱い者から税金をとり、統治する金持ちたちをそれで養っている。彼らは、万人に属する母なる大地を、自分だけが使うものだと言い募り、策を築いて隣人たちを締め出す。そのうえ大地を彼らの建物や廃物で台無しにする。この部族は雪解けのなだれといっしょで、川床を飛び出し、行く手のあらゆるものを破壊する。
我らは共に暮らすことはできない。わずか7年前我々は、バッファローの国は永遠に我々に残されることを保証する条約を結んだ。いまや彼らは、それを我らから奪おうとしている。兄弟たちよ、我らは屈服するだろうか?それとも、彼らにこう言うだろうか:私の祖国を手に入れる前に、まず私を倒せ、と。」

*チャールズ・イーストマン(1858-1939):先住民出身で最初に医師資格を取った。『インディアンの英雄と偉大な族長たち』(1918年)
*西谷修『アメリカ、異形の制度空間』(2016年)

[追伸]
 タタンカ・イヨタケは「資本主義」などという言葉も規定も知らない。イヨタケたちの祖先や兄弟たちの土地を奪い彼らの生存を根絶やしにしてくるのは、まったく違った「種族」なのだ。天地がその愛の恵みで生き養われているように自分たちもそこで生き、だからこそ違う種族や生き物にも大地に住まう権利を認める(自然のうちにその一部として生きているがゆえに、支配や独占など主張しない分有の生そのものを分かち合う、それも幾世代にもわたって持続的に…)、そんな自分たちと違って、やってきてやがて尊大になった新しい種族は、とにかく大地を分割して独占し、耕すことで我有化し(J・ロックによる所有権の起源)、病的な所有欲に冒され(土地、毛皮、そして金・ゴールドラッシュ)、規則を作って所有や取引を権利化し、しかし金の力は法律より強く、権力さえ与えて貧乏人を働かせてその上にあぐらをかく。自分のものは策で囲って銃で守り(最初はウォール街)、自然からモノを作って使ってゴミにし、自然の山も川も街も台無しにする。そういう「種族」だ。カワウソともバッファローとも自分たちは共生するが、彼らと「共に生きる」ことはできない。なぜなら彼らは、出会うあらゆるものを自分たちのやり方で根絶しようとするからだ。200年荒らされるままに耐えてきたが、もはや我々には死地しか残されていない、と。そう言ってよければ彼らは、「富の蓄積」や「成長」などとは無縁の、生存を「未来に向けての進歩」の尺度などでは計らない、「七代先の子孫にこの大地の恵みを残す」といった見通しのなかで生きている。それを理念的にではなく現実的にブルドーザーにかけるように押し潰して「すばらしい新世界」にしてゆくのは、人工の有用性と効率という原理にとりつかれた「西洋白人」という種族である。それが「アメリカ人」だ。

 いま「人新世」と呼ばれて示唆されている問題は、他でもないこの「アメリカ人」の登場によって人の住む世界に引き起こされた問題ではないのか。それを「エコロジー的」と言ってもよいが、その「エコロジー的生」は、生存そのものの経済原理化(エコノミー化)によって潰されてきた。ここで「資本主義」が何をしたというのだろうか?「資本主義」などという概念では追いつかない(とても把握できない)事態が起きているのだ。ここにマルクス主義が口出しする余地などまったくないことが明らかだろう。それをマルクス主義者は考え直さなければならない。階級闘争の図式などここでは無力なのだ(西洋世界とその周辺にしか通用しない)。

エントロピー露出の時代に、脱却すべきマルクス『資本論』に戻ることの倒錯2023/05/12

*あらかじめ断っておきますが、ここに書かれたことはいわゆる「反共」(ヘイト)とは何の関係もありません。マルクス主義の理論的呪縛を解き、その崇拝を停止せよと言うだけです。
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 なぜ私がマルクスを嫌いになったかといえば、それは古い話だ。
 
 若い頃、実存マルクス主義といわれるちょっとした潮流があった。それは思想というよりも、熱病のようなもので、マルクス主義の経済理論とそれと表裏一体の歴史観が疑いえない真理だとしたら、それを無の中の自由意思で選び取って実践しなければならない、つまり階級闘争に加わる主体とならなければならない、という考えだ。いうまでもなくそれはサルトルがマルクス主義を選びとった(奉じた)ときの論理で、世界のマジメな若者の間ではこれが熱病のように広がった。
 
 日本には、戦後マルクス主義者の間で(共産党とはかぎらない)「主体性論争」(梯明秀、梅本克己等から黒田寛一まで)というものが起き、なかなか高密度の論議が交わされていて、それが反代々木派の形成にも大きな影響を与えていた(北のチェチェ思想にも)。その素地もあって、ヨーロッパ由来の実存マルクス主義は容易に受け入れられた。いわゆる全共闘運動の盛り上がりも、それに支えられていたところが大きい(存マル+吉本)。
 
 マルクス主義の階級闘争史観は、フロイトの無意識理論にも似て、一度受け入れると抜け出るのがむずかしい。無意識理論に反発すると、それは君が無意識の欲望を抑圧しているからだ、と言われる。つまり反論すると、その否認はあらかじめ無意識理論で説明されているのだ。フロイト派はメタというよりインフラの足場(といっても足を取られる沼のような地歩)をもっていて、反論すること自体を症状として解釈することができる。だからそこで議論すると、出口のない全体化理論のように働く。階級闘争史観もそういうところがあり(「越えられない地平」とサルトルは言った)、反論すると、君がプルジョア意識に憑りつかれているからだと言う。だから階級意識に目ざめよと、それは必然だと(ルカーチ)。あるいは「お前は罪深い、だから悔い改めよ!」と。

 マルクス主義は経済学という科学理論を基盤にしていて、そんな意識性は夾雑物だと主張する「科学者=経済学者」たちもいた。だが、そう言えたのは、彼らがすでに経済学批判(資本論)を聖書とする教会の聖職者だったからだ(バチカンが間近に見えるイタリア共産党本部の屋上で、、悲劇的事件を起こす前のアルチュセールは、われわれはこの懐のうちにあるのだよと、あっけらかんと漏らしていた)。
 
 こうして、「存マル」はマジメな若者を追いつめて崖から飛び下ろさせる倫理的脅迫のように働くのである(「ここがロドスだ、ここで跳べ!」というのは革マル得意の脅し文句だったし、中核にはその悲壮を抒情に変える「遠くまで行くんだ」派(…僕らのすきな人びとよ、妬みと妬みとを絡み合わせても、貧しい僕らの生活からは、名高い恋の物語は生れない…、吉本)というのもあった)。
 「飢えた20万人の前に文学が何ができるか…」(サルトル、偽善的な金持ちインテリが、バカな貧乏人を脅す――このエリート知性が、メルロ=ポンティやカミュを貶めるためにボーボワールや手下と組んでどんな画策をしたことか)とか、「抑圧され、野垂れ死にしてゆく世界のプロレタリアートの前に…」とかのこのリンリ的脅迫は何なのか? ひどい、あまりにひどい、というのも、マルクス主義を真理として奉り、その真理を盾に、いまそれぞれの生を生きようとする(生きねばならない)者たちの生の犠牲を要求するのだから。これはほとんど絶望的な、実存的怒りを呼び起こした。

 倫理的脅迫は、人を地獄に突き落とすことの責任をみずからは負わない、むしろみずからの他者への無理強いを権利(正義)として倒錯的に正当化するものだからだ。
 (ハイデガーの存在論に対して、第一哲学は他者への出会いから始まる「倫理」だ、としたレヴィナスに深く触発されながらも、その「存在の倫理化」に拒否反応が働いたのもそのためであるし、その後、生命科学等の議論のなかで、「倫理」がもちだされることにも拒否感があった。倫理と呼ばれるものは掲げられるものではなく、言語化もされずに生きられるだけのものだと考えるからだ。倫理そのものに対する拒否ではなく、「倫理」を原理として掲げることへの拒否感だ――仁義ならいい?。生命科学等で語られる「倫理」、医療倫理とは、じつは倫理というよりも社会的な価値計算調整になってしまっている。)
 
 さかしらの連中は逃げる。マルクス主義ではない、マルクスそのものなのだと。「マルクスの可能性の中心」を引き出す?冗談はよしてくれ、だ。マルクス主義運動とマルクスその人を区別して、マルクスを救い出そうとしても、そこにあるマルクスの「正しさ」を疑わない姿勢(マルクス理論への屈服)がマルクスを権威化し、「マルクス主義」の運動を引き起こして、それが歴史的「罪業」を生み出してきたのは変わらない。マルクス主義とマルクスを切り離し、自分はマルクスを評価しているのだという主張は、「教会」体制に異を唱えてイエスの信はローマ教会とは違うというプロテスタントの姿勢に通じている(あるいはドストエフスキーの「大審問官」?)。所詮、キリスト教会内部の話でしかないということだ(ルネ・ジラールは徹底していてごまかしは言わず、「啓示」は「世の初めから隠されていた」絶対普遍的真理だと断言していた)。
 
 それ以来私は、マルクスを持ちだす、マルクスに頼る人びとを基本的に信頼しない、そして自分でもマルクスには頼るまいと心にきめてきた。その理論や、理論に傾倒した人たちの努力を否定するわけではない。西洋一九世紀後半から百年ほどの間は、そこでは強力な有効性をもち、西洋の世界化とともに歴史を動かす大きな威力を発揮もしたが、それがみずからの限界(西洋一九世紀の産物)を忘れて普遍的真理であるかのように機能し働くことによって、人びとを際限のない錯誤に陥れることになったのである。

 ヘーゲルは「世界精神」を語った。(自然の)闇の中に登場した「否定性」が向き合うあらゆる事象を対象化し、言説のうちに同化・統合して、認識・把握された「現実世界」の全体性の内に自己を実現するというプロセスそしてその成就として「絶対知」の哲学的世界を描き出した(『精神現象学』)。そのとき「歴史の主体=全体世界」となったのだが、じつはそれは「西洋文明・知性・理性」の運動であり、発展プロセスの「自覚」(自分はこういうものだという自己意識)だった。つまりその世界の全体性とは「西洋」の全体化だったのである。マルクスの史観もこのヘーゲルの史観の枠組みを踏襲している。ヘーゲルは世界史を「闘争の歴史」として、論理的には弁証法的プロセスとして描き、それを「精神」の自己実現だとした。マルクスは『哲学の貧困』としてそれを「唯物論的に転倒する」として、これは「主と奴」の階級闘争の歴史だったのだとする。

 だが、そこで想定されていた「歴史」も「世界」も「西洋キリスト教的世界」だという限定は彼らの視野になかったのである。ただ、一九世紀に「西洋の世界化」(西洋が世界進出し、「世界」になる)という事態が実際に進行し・展開されており、経済学システムとしての「資本主義」や「世の初めからの階級闘争」といった観点そのものも世界に輸出されて、それぞれの社会や国際関係の錯綜が、その図式によって絡めとられることになった(じつはマルクス主義は、西洋近代経済化社会の矛盾に対応する理論的認識ではあっても、オールマイティの世界理論などではなかったのである)。
 ましてや、中世の「教皇革命」の遠い、そうは見えない核反応の産物である「新世界」が何たるかなど、マルクスは思いもつかなかった。
 
 そのことを劇的に示したのはマルセル・モースのアメリカ先住民社会研究であり(その結実が『贈与論』)、西洋社会システムの混乱倒錯のなかで異文化社会(古代ギリシア・アフリカ)の様相を参照しながら近代経済学を人類学的視野の中に「埋め戻そうとした」カール・ポランニーである。彼らが、近代西洋の経済システム(マルクスが「資本論」の対象としたもの、いわゆる「資本主義」)をその閉域を開いて考え直さねばならないことを示した。それと並行して、近代経済システムが物質生産消費のサイクルとして考慮されているのなら、そのサイクルそのものが人間の生存を超えた宇宙的なエントロピー法則との関係でどうなっているのかを考えねばならないという潮流も生まれていた。
 マルクス主義は、そうした意識なしに「西洋の世界化」の展開とともに世界に「階級闘争的」図式を広めて「問題設定・解決」を押しつけていった。ロシアにソ連を生み、国際階級闘争を広めていったのも、むしろ「西洋化」の一環である。そこでさまざまな軋轢を生じるし、倒錯的な「闘争」に人びとを犠牲にしていった。
 
 「資本論」によって資本主義というものが確定された。それ以降、経済学批判から生まれた「資本主義」が終わるはずの(あるいは革命によって倒すべき)「敵」として指名され、階級闘争がヘーゲルの西洋=世界史観のなかで「歴史の原動力」と考えられる。しかし結局、それはアウグスティヌスの両世界論の焼き直しにすぎない「地上の国」の原理でしかなかった。

 端的に言ってそこでは「植民地問題」がまったく視野にない。アフリカ人奴隷は階級闘争のプロレタリアートではない(マルクス理論の中ではそう処理されるしかないが)。先住民のあり方はなおさら視野にない(先住民の世界には「階級闘争」などなかったし、計量化される生産経済とはまったく違う社会の組織化があった)。
 それに気づいて経済を違うヴィジョンのもとに考えようとしたのがマルセル・モースであり、経済学を開くかたちでそこから西洋経済学を相対化しようとしたのがカール・ポランニーだった。マルクス主義はその「人類学的」ヴィジョンのなかで相対化されねばならなかった。ところがマルクス主義は一九世紀から二十世紀初頭に原理主義的理論になったため、逆のことをやってきたのだ。教会になってしまったからには避けられなかったが。
(そのことを勘案してマルクスのシェーマをグローバル世界に広げて世界システムを考えたのはE・ウォーラーステインだった。だから彼は最後に「ヨーロッパ的普遍主義」を問われぬ問いとして提起することになる。)
 
 マルクス主義は普遍教会(世界の共産党)を作りだし、階級闘争を世界に広げて、世界戦争の後、所有権に基づく自由を原理とするアメリカシステムと対立し(決定的「イノヴェーション」たる核兵器の脅威の下で)、冷戦に入るが、結局そこでの課題が、労働者階級の解放などではなく、二つの国家体制の経済効率競争だったことが露呈し、国際社会的現実のなかでの失効を暴露した。マルクス主義の歴史的役割はここで決定的に終わったのである。
 
 しかし、世界のマルクス主義政党に依拠した多くの人びとや、マルクスを理論的に真とし拠りどころとしてきた人びとは、そのような自己を解体再編することができず、マルクスの亡霊を抱えながら生きてきた。「人新世」をマルクスは先取りして見透していた、『資本論』の草稿にはそれを示す断片がある。今こそマルクスに『資本論』に立ち返らなければならない。そうして、「気候変動」や「脱成長」の時代の問題・課題を整理した若い研究者の登場に、亡骸を抱えて途方に暮れていた人びとが快哉を叫んで元気づいたのは想像に難くない。かくてこの若者はヨーロッパの瀕死のマルキストたちに回春剤を提供したことになり、彼らの称賛を受けて、その勲章をもって日本のメディア・プレス業界に凱旋することになった。
 
 「気候変動問題」や「資本主義批判」はいま「良心的」な世間に一定受けるからだ。それに百年間世界の資本家・支配層、あるいはその統治機関と化したブルジョア諸国家との戦いで、たしかにマルクス主義は大きな役割を果たしてきた。そして実績と威光を得てもきた。しかしそれは、エコロジー問題や成長の限界が問われるようになったとき以来、あるいは旧植民地諸国の独立が問題になったとき、そのような問題を自分たちの戦略的政治のもとに周辺化する対応しかしてこなかったのである。

 だからエコロジーやエントロピー経済への志向は、いわゆる正統な「資本主義」研究としての経済学のなかで、みずからを「異端派」として位置づけるしかなかった。経済学の主流は、いまでも「資本主義研究」なのである。そしてその経済学は「資本主義は終わる、終りの日は近い」と唱え続けている。経済学が「資本主義研究」なのは、マルクスが経済学批判を「資本論」としてまとめて以降である。だが、エコロジー経済やエントロピー経済の研究では、「資本主義」などというものは必要な概念ではない。問題は人間と自然(フュシス)との関係、その代謝の社会的発現にどう対処するかという課題である。そこで問われるのは人間の欲望の自由とそれによって組織され技術・産業・経済システム、それを律する有用性・効能原理であり、人間世界の異なる関係組成の可能性なのである。
 
 そのすべてがマルクスのうちにあったとなどと言うのは、あまりの素朴さ(知的・歴史的無知)かペテンとしか言いようがない。受け取れるのは、著者の個人的には「罪のない」ピュアなマルクス信仰だけだからだ。知的(情報的)処理能力はたいへん高そうに見えるだけに、その「罪のなさ」は悪効果を生み出す。

 話を「マルクス嫌い」から始めてしまったために、ここで展開したことが私的な好みの問題に切り下げられてしまいそうだが、ねらいはそうではないし、ましてや、今日の「リベラル左派」の論議にいらぬ「分断」を持ち込むなどということもまったく私の意図ではない。私は前々から隠さないように、リベラルでも左派でもない。「マルクスに頼らない」というのを信条にしてきた以上、世間の分類枠にはあてはまらないからだ。そんな分類よりも、人間について、歴史について、世界について、どんな流派にも与せず、できるだけ適切に考えようとしている。そして考えるのは何のためかといえば、売れる商品(思想)を作るためでもなければ、イイネをたくさんもらうためでもなく、ただ単によりよく生きるため、そして人びとのよりよい生を洗い出すためである(その点でわたしもプラトンの徒だ)。その観点からして、「人新世」(というとりあえずの考え)の諸課題を、いまではあまりに限界が確認されてしまったマルクスに回収するということが、いかなる混乱を引き起こすのかということ(人びとを無知やペテンに、いまならポスト・トゥルース状況に巻き込むということ)を看過できないと思ったからだ。

 マルクスはその「可能性の中心」(もうだいぶ古くなったが)など引き出すよりも、そのきわめて限定された歴史的役割を標定することの方が、現在の知的状況の中でははるかに意義のあることだということだ。

P・ルジャンドル再訪(2)日本への導入2023/05/26

 このような私的とも言える事情をあえて書き記そうとするのは、日本にルジャンドルの仕事が導入されたのはどのようなコンテクストにおいてだったのかということを示しておくことも無意味ではないと考えたからだ。フランス国内においても彼の仕事は比較的閉じた専門家のサークルを通して議論され、精神分析学会では著作の出版によってじつは強烈なインパクトを与え来はしたが、メディア化されてモードとなることもなく、いわば知識界の深層においてのみ受容されていた(九十年代に、彼が研究主任を務めていた高等研究実践院の外で私が導入されたサークルは、地方の社会崩壊の現実に直面する判事や弁護士たちあるいは聖職者といった「実務家」たちの集まりだった)。それはこの法制史家・精神分析家の問いや繰り広げる理論的開拓が、既成の知的論議の流通回路にそのままでは流れない質のものだったからでもある。それがたまたま、上記のような文学・哲学の境界に位置するようなテーマを抱えていた私の関心に強く響き、自分が関心をもった以上、それを自分の仕事の足場である日本にも紹介しなければならない立場に置かれてしまったということだ。
 それまでの私の関心は、バタイユやブランショやハイデガーに対する関心は、結局のところ西洋的思考の限界に身を置くということだった。それが「世界戦争論」であり、クレオールへの関心であり、また「世界史論」だった。その限界からはみ出る「不可能」が、日本語で考えるわれわれの「分有」(ジャン・リュック・ナンシー)しうるものであり、また「足場」ともしうるところだと漠然と予感していたが、結局のところルジャンドルは一神教の神(学)のような普遍性を装っていた「西洋」というものの限界を確定してくれたのである(それは後になってはっきりすること、ルジャンドルが『西洋が西洋について見ないでいること』にまとめられた三つの講演を携えて来日したことで明確になったことだ)。
ただ、その私が日本にルジャンドルを導入するという役目を十分果たせたかというと、広く思考に関心をもつ人びとを説得することには遠く及ばず(だいたい主要著作とくに『講義』シリーズの翻訳さえできなかった)、結局は九十年代半ばから続けていた大学の枠を超えた私的なゼミのようなもの(私的というには共同的なゼミ)に吹き溜まりのように集まった少数の有為の学生たちと、その仕事をそれぞれに血肉化する作業を地道にすることしかできなかった。そして多少の紹介をしても、この狭い(けっして閉じられてはいなかったが)サークル以外から新たな研究者が出てくるということもなかった。フランス思想の研究においても、同時代のフーコー、ドゥルーズ、デリダについては多くの研究者が世代を継いで生まれてきたが、ルジャンドルの研究者が現れたという話はついに聞かなかった。(例外は、いわゆるSEALs系ともいうべき、私にとっては孫にあたる世代から、何人かの向学の士たちが現れたことである。特筆すべきは、彼らのほとんどは佐々木中の著書を通してルジャンドルを知ったということだ。佐々木中も上記のゼミのメンバーの一人だった。彼の『夜戦と永遠』はルジャンドルとラカンとの関係を問い詰め、またルジャンドルに照らしてフーコーの発想を相対化するというフランスでも誰も手を付けない力作だったが、ルジャンドル理解の根本において私には許容できない一面があり、疎遠になっていた。だが、若い世代が佐々木中の著作に刺激されてルジャンドルに関心を持つようになったというのは、彼の仕事が日本でのルジャンドルの受容に貢献しているということである。だから、今回の追悼特集にも参加を求めたが、残念ながら彼自身の現在の諸状況がそれを許さなかった。)

 ルジャンドルは結局、大方が関心をもつに値しない周辺的な(あるいはその特異さがきわめて私的な性格をもつ、一回的に消え去っても仕方のない、それが運命であるような)思想家なのだろうか?あたかもそうであるかのように、知が情報化しデジタルIT処理され、それが「差異」の商品市場でふるいにかけられる風潮は進んでゆく。そしてその流れに掉さすことが思想の新しい展開だとみなされている。だが、ルジャンドルはその流れそのものに異を立て堰き止め知の流れ方を(あるいは流れる知の性質そのものを)変えようとしていたのである。だからこの流れはその勢いの中にルジャンドルを呑み込んでゆくのだが、底流ではその堰の生み出す偏流が表層の流れに変調を起こさせている。ルジャンドルが静かに世を去ったこのとき、その変調が世界の様相を大きく変化(むしろ混乱)させようとしている。そんな時だからこそ、まさに現代にこそルジャンドルの開いてきた「未踏の」思想的営為の意義をもういちど確認しようと、少数の有志がフランスで「ルジャンドルへの再導入」のための論集を編んだ。それを機に、日本でももう一度その思考に光をあててみようという企画が本号である。それがはからずも追悼号になることになったが、「レヴナント」という言葉がある。戻り来る者、甦る者である。もちろん甦るのは死者の魂である。クレオール世界には「レヴナント」がつきものだし、潰えた先住民の世界を生かすのも「レヴナント」である(イニャリトゥの映画はそれを少しズラして使っているが)。そのさまざまな歴史事情の響きも込めて、本号がルジャンドルが生涯続けた「書く」という弛まぬ労苦の「レヴナント」たらんことを願っている。

 最後に付け加えておけば、ルジャンドルの著作の日本語訳としてはまだ『ロルティ伍長の犯罪(第Ⅷ講)』、『真理の帝国(第Ⅱ講)』、『ドグマ人類学総説』、そして三冊の講演集と『ルジャンドルとの対話』しかない。初期の『検閲者の愛』、『権力を享受する』、『他者たらんとする情熱』などや十巻を数える『講義』シリーズもまだ翻訳がない。たしかにそれは大きな欠落だが、『講義』シリーズの主要部分の執筆・刊行がなされた頃、二〇〇三年の秋に私は東京外国語大学の研究プロジェクトの一環としてルジャンドルを日本に招聘した。そのときルジャンドルに、法制史や精神分析の知識もなく、ルジャンドルの名も聞いたことのない日本の聴衆にあなたのしてきたことが分かるように、通じるように、三つの講演を連続したものとして準備してほしいと、きっとそれまで誰も彼にしたことのないような要求をした。彼はそれを受けて、無前提に人に解らせるようなかたちで、三つの講演を準備してくれた。それまで、ほとんど挑戦的に知の慣習など蹴散らしながら書いてきたルジャンドルは、おそらくこのとき初めて自分のしてきたことを振り返りながら、一般公衆に向けて「解り易く」語ることを始めたと言っていいだろう。そして帰国後、初めて「ドグマ人類学の要諦」のような本を書く(それが『テクストとしての社会』だ)。また、随所からの要請に応えて講演をするようになり、その講演は二、三をまとめてそのつど出版されるようになった。日本語に翻訳されたのは、日本講演集を最初として、『同一性の謎(原題:向う傷)』、『西洋をエンジンテストする(原題:固定点)』がある。その他に『ドグマ的論議』、『人間という動物』、『未踏の道』などがある。言いたいのは、これらの講演集はルジャンドルにとって付随的なものではなく、アカデミズムの論争環境や道を切り開く時につきものの自己の内外での格闘の力技の負荷を削ぎ落してエッセンスを直に描き出す、そんな語り(書き物)になっているということだ。だからそれはいわば彼の思考のいくつもの到達点を描き出している。その意味でこれらの翻訳もまた重要な意義をもつということだ。
今回訳出した、あまり人目につくことのない論文は、その逆に、未訳の重要著作の欠を埋めるような初期著作を生み出した思考の道程をまとめ直したものと言ってもよい。

 フランスでルジャンドルの没後に出たいくつかの追悼記事も、ルジャンドルのかの地での評価(批判)を示すものとして紹介したかったが、そのための紙数の余裕はなかった。

ルジャンドル再訪(1)モナスティールでの出会い2023/05/26

*雑誌『思想』(岩波書店)でピエール・ルジャンドル追悼号が出た(第1190号、2023年6月号)。だが、紙数にも制約があり、ルジャンドルのテクスト翻訳や多くの若い論者に場所を譲るべく、この機会にまとめた私の私的な手記はここに掲載することにした。というわけで、以下は、『思想』追悼号の「余白に」ということで――

 知が情報商品と化して久しく、売れるものがよいもの、という判定のもとに淘汰されるか、あるいはますますせばまる市場のなかでほとんど場をもてないのが…
 そのピエール・ルジャンドルも九十歳を超え、その仕事に触発されてきた数少ない有志が、それぞれの仕事の足場からもう一度ルジャンドルのもたらしたものを再提示しようと、ドイツの文学者カトリン・ベッカーとフランスの社会学者ピエール・ミュソを編者とする論集『ピエール・ルジャンドルの仕事への導入』をようやく出版したのが今年の二月だった。同じ思いのもとで、この論集に協力した私は、日本でもルジャンドルの重要な業績と現代の思想にとっての貢献を再提示する必要があると考え、本誌『思想』で特集号を組むことを提案し、去年の冬から準備にはいっていた。
 そしてフランス語の『導入』の見本が手元に届いたころ、ルジャンドル危篤の報せが入り、パリのさる緩和病棟でこの三月二日、ドグマ人類学の異貌の泰斗はとうとう帰らぬ人となった。二〇二一年にすでに『日の終りのひとつ手前』という回想録をまとめ、コロナ禍の日々をフラン・ブルジョワ街の書斎兼自宅に伴侶とともに籠って、徐々に衰弱していったらしいルジャンドルは、三カ月ばかりの入院の果てに、表立った苦痛もなく静かな最期を迎えたという。そんなわけで本誌の特集号ははからずも追悼号の意味を担うことにもなった。

 一九九一年の四月から翌年三月にかけて、勤めていた大学から初めて研究休暇というものをもらってパリで過ごしたが、その滞在も残りの月数が気になり出したころ、縁あって知己となったピエール・バイヤール(パリ第八大学で精神分析批評を講じていた『読んでない本について堂々と語る方法』の著者)が、お前に合わせたい友人がいる、精神分析仲間のチュニジア人だと言う。それはいい、引き合わせてくれ言うと、ちょっと待て、お前は湾岸戦争についてどう思っているか、と尋ねるので、あれはアメリカが一強世界秩序を敷いて西洋的支配を継続するという軍事的意志表示だ、と言うと、オーケー、じゃ今度連れてくるということになった。
 そこでやってきたのがフェティ・ベンスラマだった。すぐに気さくに何でも話せる闊達なチュニジア人で、関心もいろいろ重なっており、話は尽きなかった。何より二人でお互いに強く納得したのは、知の伝搬・拡散の歴史地理的な構造についてだった。大学などでさまざまな国からきた学者たちと話していてもあまり気にならなかったことだが、差向いで話して如実に感じ取ったことがある。マグレブ(北アフリカ、西アラブ)出身のベンスラマと、アジアの東端の島国から来たわたしとが、ほとんど同じようなものを読み、似たような知的遍歴を経て、ここパリでランボーを語り、ドストエフスキーを語り、フロイトと精神分析について語り、バタイユやレヴィナス、それにハイデガーを語っているのだ。
 つまり、日本のわたしも自国の近代化の過程を経て西洋的なものへアプローチし、ベンスラマはまたマグレブからパリに「上る」ことで知的な自己形成を遂げて、そこで西洋の知的ヘゲモニーにある違和を抱きながら、マグレブとは何なのかを考えている。そのとき私(たち)は気がついた。私はパリに来るまで、ほとんど現実のアラブ世界を知らなかった。そしてパリでマグレブから来たベンスラマに会っている。それは偶然ではなく、近代化する世界のなかでパリは(少なくともフランス語圏の)ひとつの中心であり、われわれは出合うのに、マグレブや日本でじかに出合うのではなく、パリを中心にした放射状の牽引構造のなかで、傘の骨の一本一本が中心に集まるようにして出会うのだ。広く言えば、西洋の世界化という大きな動きのなかで生じた、この近代世界におけるコミュニケーションの地理・歴史的な構造は、われわれの世界の見方・考え方の視野をも規定している。だから、どこで何を考えるのも同じだということにはならず、知の普遍性などというものもじつは成り立たない。それぞれの地理・歴史的位置でなんらかのバイアスがかかっており、少なくともわれわれ(西洋以外の出身者)はそのバイアスをパリで無意識に矯正することによって、了解を成り立たせているのだ。そのことをわれわれは相互照射で知ることができるが、この知の流通構造のなかで、ヨーロッパはみずからの中心性を自覚することはできるが(西洋中心主義?)、中心にいることから逃れることはできないだろう。それを教えてやれるのはわれわれしかいない、というのが、湾岸戦争後の時代の気配のなかでわれわれが到達した一致点だった。
 たしかそれは二月ごろだったが、当時ベンスラマは、同じく同じくチュニジア出身の詩人・批評家アブデルワハブ・メデブとともに『アンテルシーニュ』という先鋭的な雑誌を出しており、四月にチュニジアの古都モナスティールで三日間の国際コロックを準備していた。湾岸戦争後のアラブ世界では、西洋(欧米)に対する自立(アラブ世界の主体性)を強調すると、原理主義の罠にはまりがちで、その歯止めとして「市民性」のような足場が必要だという観点から、「主体と市民性」がテーマになっていた。このコロックには政治学・法学から哲学までの主だった学者たちが、アメリカ、フランス、マグレブ、エジプト、イランなどから参加することになっていた。けれども、全体として地中海をはさんで西洋とアラブ世界の差向いという構図になってしまい、そこに日本からの発言があるとこの構図をずらす視点を持ち込むことができるだろうというので、日本の近代化・西洋化の経験から何か話してくれないか、と言われた。それなら、多少は役に立つことができるだろうとその申し出を引き受けて準備したのが「日本における主体形成の冒険」(『世界史の臨界』所収)である。

 それが前段で、じつはこのモナスティールのコロックでもうひとつ重要な出会いがあった。コロックに主催者はフランスからエティエンヌ・バリバール、ジャン=リュック・ナンシー、フィリップ・ラクー=ラバルト、エリザベート・フォントネー、そしてイタリアからジョルジョ・アガンベンらの哲学者の他に、ピエール・ルジャンドルという法・精神分析学者を招聘していた(他にはアメリカの大学やアラブ諸国の政治学者や法学者など)。出かける前に参加者リストをピエール・バイヤールに示すと、彼はルジャンドルの名を指さして、この人物とはチャンスがあれば知り合うといい、とっつきにくく気難しい人物だが、たいへん重要な仕事をしている興味深い人だ、と教えてくれた。
 チュニスの空港からモナスティールに向かう迎えのミニバスの中で、ダリウシュ・シェイガン(Dariush Shayegan, 1935-2018, 現代イランと中東で最も重要な思想家と目され、2009年にGlobale Dialogue Prizeを受けている)というイラン人と隣り合わせ、彼が何度かの訪日で関心をもったという日本の神社建築などについて話をしていると、ひとつ前の座席で赤いジャケットを着てお茶の水博士のような頭をした紳士が、どうやら聞き耳を立てている。途中バスが休憩をとったとき、コーヒーを飲む席でその紳士に声をかけて自己紹介すると、それがピエール・ルジャンドルだった。
 コロックでは彼が哲学者たちのセッションの司会を担当したが、まとめの冒頭で「日没の地(ヨーロッパ)を彩るペシミズムに浸りきった、変わらぬナルシスティックな繰言を…」とか切り出す。何ということを…、と呆気にとられたが、内心、よくここまで本当のことを公然と言うものだという思いもあり、会議の合間に言葉をかけ、失礼ながらあなたのことをまったく知らなかったが、先ほどの司会ぶりには強く印象付けられた、よかったらどんなお仕事をされているのかご教示願えないか、と尋ねてみた。
 すると強面のこのご仁は、知らないと言われて気を悪くしたそぶりもなく、ソファーに身を起こしながらひとつ例を挙げて説明してくれた。カナダの裁判所で最近こんな判決があった。性転換した父親が、子供(娘)に母と呼ばれる権利を求めて訴訟を起こした。裁判所はその権利を認める判決を下し、娘に対しては「あなたの父親は死んだ」と告げた。すると娘は以後父親を「母」と呼ばざるをえなくなるが、こうして突然父親を「亡くし」二人の「母」をもつことになった娘は、結局その「激変」を処理しきれず精神病院に入ることになってしまった。西洋の法システムは今やこのような問題に対処できなくなっているのだが、それが私の取り組んでいる領域だと言う。そのとき私がこの例からどれだけのことを理解したのかは分からないが、なるほど法と精神分析と、そして身体を操作するテクノロジーが関わるマターであることはすぐに分かった。そこで私は、自分が「世界戦争の時代の死の不可能性」を文学・哲学の方面から考究しており、近年日本では「脳死と臓器移植」の可否が議論されていて、技術のもたらす可能性と人間の存在条件、そしてその法制化の問題を考えている。人間のあり方と技術そして法制度との関係ということでは、響き合うところがあるようだ、と応じて、読むべきいくつかの本を紹介してもらった。
 二日間のコロックの日程が終わると、主催者の二人は他の参加者たちを送り出した後、ルジャンドルと私を誘って古都カイルワンへの一日旅行に連れ出してくれた。北アフリカ・イスラームの古い中心地で、この地域最古のモスクとオスマン時代の青いタイルのモスクとがある。ルジャンドルは宗教についても独自の考えをもっており、主催者たちは西洋とアラブ世界との現代の錯綜を論じるためのコロックの後で、ルジャンドルにフロイトが避けた「もうひとつの一神教」のマグレブ的な伝統についてふれさせたかったのだろう。おかげで私は、モスク巡りの道すがら、宗教というものについて、仏教や神道も含めてさまざまな宗教について、一日よもやま話に交えてルジャンドルと語り合うことができた。
 日本に帰ると、ルジャンドルから数冊の本が送られてきた。そのページを繰りながら、私の関心はしだいにルジャンドルに引寄せられ(そういえばしばらく前からナンシーやベンスラマの関わる論集(たとえば『ユダヤ人は夢をみない』)にルジャンドルも寄稿していた)、バタイユ、ブランショ、レヴィナス、ハイデガーを通して「戦争」を、そしてクレオール文学の発見から「世界史論」へと広がっていた私の関心は、ルジャンドルによってこそ深められるという確信に変わっていった。そしてまずたどり着いたのは『ロルティ伍長の犯罪』の翻訳である。これが適切な選択だったかどうかはわからない。しかし九十年代にはすでに膨大になりつつあったその著作の紹介は、どこから手を付けるべきか分からなかったのだ。この本は法制史と信仰と権力の問題を精神分析で扱う、規定しがたいルジャンドルの思考が、カナダで実際に起きたスキャンダラスな事件を実地に扱っているという点で、それも「規範システムの崩壊」の時代に「父とは何か」という剣呑な問題を直に扱っているという点で、よきにせよ悪しきにせよ、広く関心を引きやすいのではないかと考えたからだ。