2月4日沖縄・名護市長選の結果を受けて2018/02/05

名護市長選の結果が出た。二期務めた現職で辺野古基地反対の稲嶺進氏が、自民・公明・維新推薦の渡久地武豊氏に敗れた(16900対20400)。同時に行われた市議補選でも、オール沖縄で臨んだ安次冨浩氏がほぼ同差で落選した。

渡久地氏は、稲嶺市長のもとで地域振興が進まなかったことを批判、「変化」を訴えたとされる。ただし、辺野古新基地に関する姿勢は明らかにせず、行政訴訟に委ねるとして公開討論も避け続けた。

だがこの市長選挙が注目されたのは、そして安倍政権が全力を挙げて介入したのは、辺野古基地建設の障害を除くためだった。それは誰の目にも明らかなはず。そして追い落としたい稲嶺市長は基地反対でまとまる「オール沖縄」の候補、翁長県知事の盟友だ。

だから、争点は言わずもがな辺野古基地だが、自民・公明候補はそれを隠して地域振興だけを売りにした。稲嶺市長の下では名護の生活や経済はよくならなかったが、それは稲嶺市長が基地ばかりにこだわるからと。

ただ、選挙民も本当の課題が基地建設反対か推進かであるのは百も承知のはずだ。政府があからさまに、国の方針に協力しない自治体には交付金を出さないとか、受け容れ自治体にだけ報奨金のような資金を投入するということを、すでに実際にやっているし(名護市にではなく、頭越しに辺野古地区に資金交付している)、選挙中も政府与党関係者がそれをあからさまに言う。

その意味では、地域振興を訴えることは、じつは「争点隠し」にはなっていない。地域振興を進めるということが、交付金を引っ張ってくる、政府・政権の方針に協力し、見返りを得るということに他ならないからだ。けれども、この面だけを強調して、あたかもそれが市民生活のための行政だとして表に出す。だがその裏には、永続基地を抱えることになるという問題が隠される。

たしかに、目先のことだけ考えれば、基地を受け入れれば地域振興のための支援金は入る。施設は作れるし土建業周辺のセクターは仕事に潤う。しかし、基地依存では長期の安定的な地域づくりも豊かさも得られない。それは基地依存時代の沖縄全体が思い知ってきたことだだ(その経験が産業界も含めた「オール沖縄」のベースにもなっている)。

この選挙の光景は、原発立地地域でもよく見られたものだ。政府は交付金で原発(基地)を受け入れさせるが、原発(基地)依存では地域経済は自立の道を絶たれ、永久に依存するしかなくなるのだ。有名な高木元敦賀市長の言葉が思い起こされる。「30年後、50年後のことは知りませんよ、しかし今はやっておいた方が得ですよ、どんどんお金が落ちてきますから…」。

それでも、今回、名護は自民・公明系の候補を当選させた。政府の締付けを受ける稲嶺市政よりも、基地のことなど脇において地域振興を約束する新しい市長を選んだということだ (とはいえ、当確を告げられた渡久地氏は、喜びに湧く周囲をよそに、しばし緊張の面持ちを崩さなかったのはなぜだろうか)。とくに10代20代で渡久地支持が多かったという。渡久地氏の娘が高校の自治会役員で、18才に訴えたということもあったかもしれないが、いまは若者が一般に先の見透しを抱けず、目の前の現実だけが課題になるという、沖縄だけでない一般的状況が影を落としてもいるだろう。

政権は、これで辺野古基地工事が支持を得たというだろう。地元は歓迎していると。そしていわゆるネトウヨは、やっぱり基地反対派は本土から日当もらってやってきた反日派だと、さらなるデマを流すだろう。産経新聞も、それ見たことかと、沖縄二紙(琉球新報・沖縄タイムズ)の「偏向」をあげつらう。

有権者数5万の市長選、これだけテコ入れすれば負けはない、と政権は自信をもつだろう。動員含めた期日前投票も40パーセント超。選挙近くに米軍ヘリがばんばん落ちても、名護に落ちたわけじゃない(それに去年は「着水」だ)。反対運動は本土警察で弾圧し、お国は動かんぞという問答無用の姿勢を示して諦めさせたら、政権に身を売る口実を少し与えて、最後に選挙アイドル進次郎の投入、あとは「結局お金でしょ」と言えることになる。

辺野古漁港の座り込みはすでに5000日、キャンプ・シュワッブ前での座り込みももう1200日を超える。しかしこれが何の成果も生まないと、一方で「不撓不屈」と自賛しても、他所からは空しくも見える。翁長県政にしてもそうだ。何が起こっても政府は相手にせず、知事の怒りの表明もどこ吹く風、抗議の上京にも応えない。この理不尽な態度が、沖縄の怒りや抗議を空しくさせる。今度の選挙には、その傾きの一端が現れたと見ることもできる。

その意味では「オール沖縄」の翁長県政も「実績」を示してえていない。この構造を突き破る工夫が求められる。それがなければ、秋の県知事選は厳しい試練になるだろう。

「ポスト真実」が言われる時代、沖縄の「正義」や「大義」は「フェイク」というデマや中傷で中和され、その中で時の政権は、あからさまな力と金(交付金だけではなく、金は人も手段も動かせる)でその意図を押し通すことを恥じない。それは「義」を貫こうとする側にとってなかなかに厄介な状況だと言わざるをえない。沖縄でもっとも露骨に表れているとはいえ、これは現在の日本全体の重い課題でもある。


[追伸]「沖縄タイムズ」05日社説から

・「もう止められない」との諦めムードをつくり、米軍普天間飛行場の辺野古移設問題を争点から外し…

・勝利の最大の理由は、一にも二にも自民、公明、維新3党が協力体制を築き上げ、徹底した組織選挙を展開したことにある。

・菅義偉官房長官が名護を訪れ名護東道路の工事加速化を表明するなど、政府・与党幹部が入れ代わり立ち代わり応援に入り振興策をアピール。この選挙手法は「県政不況」という言葉を掲げ、稲嶺恵一氏が現職の大田昌秀氏を破った1998年の県知事選とよく似ている。

・前回…自主投票だった公明が、渡具知氏推薦に踏み切った。渡具知氏が辺野古移設について「国と県の裁判を注視したい」と賛否を明らかにしなかったのは、公明との関係を意識したからだろう。両者が交わした政策協定書には「日米地位協定の改定及び海兵隊の県外・国外への移転を求める」ことがはっきりと書かれている。安倍政権が強調する「辺野古唯一論」と、選挙公約である「県外・国外移転」は相反するものだ。

「最初は悲劇、二度めは茶番」2017/06/16

※共謀罪成立前に書いた未定稿で、遅いと言えば遅いけれど、基本認識は変わらないので今日、ここに挙げておきます。
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 国会会期末が迫り、共謀罪法案採決をめぐって与野党の攻防が緊迫している。
 安倍政権は2014年末の秘密保護法以来、集団的自衛権をめぐって閣議決定による憲法解釈変更、安保関連法制、自衛隊の南スーダン派遣、そして共謀罪法案と、日本の国のあり方を変えるような政策を次々に採ってきた。これはいわゆる「戦後レジームからの脱却」という安倍政治の具体化だが、そこであからさまになってゆくのは、目指すのがたんに「戦争のできる国」というだけでなく、民主主義や国民の主権を解消し、国家権力の圧倒的優位を確立する方策だということである。
 
 しかしそれだけではない。「最初は悲劇、二度めは茶番」だと言うが、まさに大日本帝国は破綻、無条件降伏で国民は多大な犠牲を強いられた。しかしいま強引に準備されている「二度め」は、明治以来の国家体制の形成ではなく、国民が権力にかしづく体制づくりによって、その国権を私物化する連中が初めから馬脚を現しているという事態である。
 
 森友学園、加計学園問題で露わになったのはそのことである。安倍政権は、自分の姿勢に共鳴しその名を冠した神道小学校を作ろうとした森友学園が、財務省から9億円相当の国有地をタダ同然で払下げを受けられるよう、また異例の認可が受けられるよう計らった。またアベノミクスの目玉とされた「経済特区」制度によって、「岩盤規制をドリルでこじ開け」て、地元自治体を巻き込んで「刎頸の友」(じつは親族)に合理性も展望もない「獣医学部」を新設させ、そこに数十億円の公費を流し込む算段を、文科省・総務省を巻き込んで工作した。そればかりか新たな疑惑も持ち上がっている。政権・首相官邸は白を切るが、加計学園には官邸出入りの人物やその家族が役職者に名を連ねており、これが仲間内の利益供与であることは明らかである。
 
 そればかりか、安倍よいしょ本を出版しようとしていた元TBSワシントン支局長が起こした準強姦事件を、官邸につながりのある警察官僚を使って「上から」逮捕状を取消し、不起訴処分にしたことも、被害者の告発で明らかになった。また、その警察官僚は、2年前TBSの報道番組コメンテーターが外されたとき、TBSに圧力をかけたのと同一人物であることも判明した。
 
 また、前文科次官前川氏の発言から、政府のさまざまな有識者会議から、官邸が意向に沿わない人物を外していることも明らかになった。そのうえ、政府は内部告発者を探して処分しようとしている(そう言ったのが、何と北星余市出身を売り物にして自民議員になった義家某だが、彼も雑巾がけをさせられているのかもしれない)。いま、官僚は国家・国民のために仕事をするのか、安倍の走狗となるのかが迫られている。
 
 この間に明らかになったのは、国民の国家への服従と献身を求める安倍のようなウヨク政治家が理想としているのは、国家権力が強化され、その権力を私物化して自分の妄想に国民を従わせる、そして仲間内で自由に国を引きまわせる、そんな体制だということだ。そんな体制に人びとがひれ伏す国を、無私の国民の「美しい国」と言っているわけだ。言いかえれば、日本ではウヨク国体思想とは、国家を私物化したい連中の隠れ蓑にすぎないということだ。これが「二度めは茶番」の茶番たるゆえんだ。
 
 北朝鮮の危機は現実ではないか?中国の脅威は?
 冗談はよしてほしい。北朝鮮は弱小国。それにミサイル見せつけるのはひたすらアメリカ向け。そして北朝鮮問題の直の当事国は韓国だ。朝鮮半島は日本の敗戦による「復光」の直後、始まった冷戦の煽りで約七〇年前に南北に別れて同じ民族同士が数百万の犠牲を出して戦い合ったのだ。そして分断されたまま、今でも分離線は挟んで対峙している。その両当事国を置いて話は進まないはずなのに、北朝鮮は世界の親玉アメリカに存在を認められずには存続できない。だから核武装国家になろうとする。そして存続が究極目的だから、暴発はできない。それが基本状況だ。

 日本など眼中にない。相手をしている余裕はない。ひたすらアメリカとの直接交渉を求めている(相手がトランプならチャンスがある。トランプも同じような手法の親玉だからだ)。だからミサイルが飛んでも韓国は騒がない。危険なのは暴発だが、それを防ぐには交渉しかないことを、韓国は十分わかっているからだ。北の暴発でまた何百万の犠牲を出し、何百万の難民を受け容れなければならないのは韓国だから。

 それなのに、安倍は国内向けに「北朝鮮危機」をひたすら煽る。国の軍事化に使えるからだ。安倍は拉致被害者のことなどもうまったく考えていない。国内に北朝鮮危険の世論を作ることに成功したから、もうどうでもいいのだ。実際、安倍政権ではこの問題は一歩も進んでいない。

 教育勅語を学校で教えて、国民に臣従を植え付け、このIT・サイバー戦争の時代に銃剣道でトツゲキ精神を教え、ミサイル攻撃に備えて防空頭巾の避難訓練をさせ、韓国が騒ぎ過ぎと苦言を言う中で東京の地下鉄を止めて「危ない」と思わせる。それが今の政権の「戦時」認識なのだ。そのくせ、NHKが「忖度」で北朝鮮ミサイル大騒ぎのキャンペーンをはっている間、当人は疑獄渦中の夫人同伴でGWの海外遊行。ばかばかしいにもほどがある。

 中国についてはまたにしよう。

ムハンマド戯画事件を想起する2015/01/11

 「シャルリ・エブド」襲撃を機に、「西側」の世界で「"表現の自由"に対する暴力」を糾弾する動きが高揚している。フランスだけで言えば、フランスの固有の価値、共和国理念が、この一点に集約され、右から左までの団結ないし連帯の軸として掲げられている。

 だが、今回の事件の深刻さの要所はそこだろうか?襲撃されたのは風刺紙本社だけではなく、警官とユダヤ人用商店も同時に攻撃された。要するに、何であれ「反イスラーム」とみなされたものが標的になっている。とくに目立っていたのが「シャルリ・エブド」だったということだ。

 だから今回の事件を「"表現の自由"に対する攻撃」と括ってしまうことには賛成できない。ただ、そう括れば、西洋社会=西側世界では「満場一致」が作り出される。それに乗って、秘密保護法を強行した安倍首相でさえ、「言論の自由を守る」といった空々しい発言ができるし、ついでにヘイト・クライムも「表現の自由」だという話になりかねない。

 ここには、現代世界を理解するうえでの重要な論点が隠れているが、いますぐにそれを包括的にまとめる余裕がないので、西洋とイスラーム世界の関係にかぎって、2006年に「ムハンマド戯画事件」が起こっていたとき共同通信の依頼でまとめた文章を、参考までに再掲しておきたい。
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《誰が「表現の自由」を必要としているのか?》

 欧州のメディアに掲載されたムハンマドの戯画をめぐる抗議行動は、いまやイスラーム世界の全域に拡がって死者さえ出ている。

 デモが暴動化する事情は単純ではないようで、国によっては、民衆の西洋に対する反発を政治的に利用しようとする意図もうかがわれる。とはいえ、新たな「イスラーム冒涜」に対して、大衆的な怒りが広まっていることは否定できない。

 騒ぎに便乗して戯画を転載するメディアもあるなかで、国際ニュースで定評のあるフランスの週刊誌「クーリエ・アンテルナショナル」は、「これほどの騒動に値するものか」と問うかたちで、ウェブ版にあえて一二枚の戯画を紹介した。

 それを見てみると、たしかにわれわれにはそれほどショッキングな印象も与えない。けれども、一歩踏み込んで考えると、そこにおそらく西洋的社会がイスラーム世界に相対するときに陥る落とし穴があるのだ。

 西洋型の社会では国家と教会、政治と宗教は区別される。そして公共的な議論を保証するために「表現の自由」が要請されている。ただし、「自由」も無制限というわけではない。今回の議論でもイスラム側から逆用されるように、ドイツやフランスではホロコーストを否定することは法律で禁じられている。

 なぜかといえば、ナチの国家的犯罪の再来を防ぐため、犠牲者が侵すべからざるものとして「聖化」されているからだ。ドイツやフランスでは、そのことが公的な価値観の準拠になっている。だから「表現の自由」もそこには踏み込めない。

 その反面、宗教的権威は揶揄しても罰せられない。西洋社会はあらゆるタブーを解消しようとし、それを「自由」の証しとしてきたが、別の形で禁止を設定しているということだ。

 けれどもイスラーム世界では事情が違う。そこでは宗教は私的な信仰というより、すでにして日常の規範であり、世界観の枠組みでもある。現在の多くの国家が西洋の支配下で作られたという事情もあり、人びとのアイデンティティにとって国家よりもイスラームの方が意味をもつことが多い。とりわけ現在のように、それぞれの国の政府が西洋主導の国際秩序のなかで自立性を保ちがたいときにはそうだ。だからイスラームの宗主の冒涜は、ただでさえ傷つけられた人びとの共同的な自尊心を逆なですることになる。

 そのことが西洋には理解されず、イスラームには「自由」がないと批判される。そして西洋はみずからの流儀をイスラーム世界にも通用させようとする。けれどもそれは、ムスリムにとっては侮辱でしかない。結局そのしぐさが「文明の衝突」を仕掛けることになる。

 ただしこう言うのは、女性の抑圧などイスラーム社会にしばしばある因習を擁護するためではない。強調したいのは、「自由」や「権利」の要求は、それを欠く者にとってこそ正当であり、力をもつ者たちがかざすとき、おうおうにして恣意や横暴に流れるということだ。

 「テロとの戦争」以降、イスラーム世界は「テロの温床」として公然とマークされるようになった。その影響は西洋諸国内の移民たちにも及び、つい最近フランスではパリで暴動が爆発した。その一方で、アフガニスタン、イラクに続いて、いまイランが核開発をめぐって「文明世界」の制裁の標的にされようとしている。そんな中、最悪の占領状態が止まるところを知らず悪化していたパレスチナでは、最近の選挙で民衆はイスラーム原理主義のハマスを選んだ。

 西洋社会が「この程度で」と思うような戯画のために、人びとが怒りにまかせて大使館に火を放ち、あげくに警察の発砲で死者を出す。その不幸な光景は、力任せに「解放」を押しつける西洋によって苦汁をなめさせられる、現在のイスラーム世界の隘路を映し出している。

 この力関係のなかで、「表現の自由」を必要としているのは実は誰なのか。イスラームを気楽に揶揄する者か、それとも生傷に塩をすりこまれる思いに耐える人びとか、よく考えてみる必要がある。

(2006年2月8日、共同通信配信)

「2022年、おれもラマダンだ」―戯画紙襲撃事件2015/01/09

 1月〇日

 正月早々によくないい風邪を引いたがなんとか収まり、ちょうど催促もあったので、半ばに三鷹市の市民グループが企画する研究会での事前配布用資料を準備し始めた。テーマは「イスラーム国と中東の液状化」。

 中東専門家でもイスラーム研究者でもない者がなぜこのテーマで話をするのかは、不思議に思う人もいるかもしれない。きっかけは1990年前後のラシュディ事件の頃、この事件をめぐる論議に、西洋とアラブ・イスラーム世界との長い歴史と精神史をふまえた独自の視点から介入し、いわゆる「表現の自由」の問題を脱構築したフェティ・ベンスラマの小著『物騒なフィクション』を訳したことだった(1994年 筑摩書房)。

 それ以来、とくに宗教と政治の分節と錯綜、社会の定礎、グローバルな近代化などの観点から、西洋とイスラーム世界との関係には注目してきた。2001年11月末にBS・NHKで臼杵陽、酒井啓子両氏と『徹底討論 アメリカはなぜ狙われたのか、同時多発テロ事件の底流を探る』(岩波ブックレットに同題で収録)に参加したのも、それを知るプロデューサーに請われてだった。

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 その朝、なにげなくネットでフランス2のニュースを見たところ、6日午後8時のニュースに、いささか物議をかもす新作を発表したばかりのミシェル・ウエルベック(Michel Houellebecq)が招待されていた。レユニオン生まれの異貌の作家の新作は『服従(Soumission)』という近未来政治社会小説で、2022年の大統領選でイスラーム政党が勝利し、フランスにイスラーム政権ができるという話だ。学校で女生徒がスカーフをかぶるのはもちろん、一夫多妻制も認められるようになる。

 フランスでは今イスラーム人口が増えている。それに対する不安が移民排斥傾向をもつ極右政党国民戦線への支持を増やしている。そこにEU統合深化がもたらす社会解体の圧力もあり、フランス的価値を掲げる反EUの国民戦線にはますます票が集まる。現に、去年の地方議会選でも躍進し、欧州議会選挙では、保守・革新の主要政党を抑えてついに第一党になった。

 在来の保守系や社会党は親EUで共和主義、そのためイスラーム系住民は投票先がなく、独自のイスラーム政党を作って自分たちの立場を代表させようとする。その結果、2022年の大統領選では、第一回投票で勝ち残り、国民戦線のマリーヌ・ルペン党首と一騎打ちになり、とうとう勝利するというのだ。決選投票では投票率も下がるだろうが、それでも多くの有権者は、人種差別やファシズムを思い起こさせる国民戦線より、近代原理を受け入れた穏健イスラームを選ぶということか。

 この小説、ものはまだ手に取ってないが、この設定だけでもかなり興味深い。移民問題を近隣諸国問題、EU問題を対米問題と置き換えると、だいたい日本でも似たことが起きている。ただし、日本では保守党が右に吸収されて、もう「国民戦線」のような政権ができてしまっているのだが。

 フランスの事情についていえば、すでに二十年も前に一年間パリに住んだとき、向いのアパートの典型的なパリ小市民が、隣の部屋のマグレブ系住民を念頭に置きながらかどうか、「うちの息子たちは大きくなったらコーランを覚えなくちゃならなくなるよ」と言っていたのが思い出される。人口増の移民二世はフランスでは自動的に選挙権をもつ。そんな状況に対する大衆的な不安がそのままこの「フィクション」にリアリティを与える。

 それに、文学のあり方としても興味深い。選挙予測のパラドクスというのもあるが、世論調査が結果に影響を与えるのをどう制御するかということが話題になる。が、このような「人気作家」の作品が社会の成り行きに影響を及ぼさないわけにはいかないだろう。もはや純粋なフィクションというのはありえず、この「近未来」物語もわれわれの現実の時間にじかに介入し、絡んでくる作りになっている。

 タイトルについて触れておこう。「服従」というのはそのまま「イスラ―ム」を含意している。キリスト教やユダヤ教とは違ってイスラームは「イムズ」では呼ばない。「イスラミズム」と言うと、政治化したイスラーム運動のことを言う。ムハンマド教とも呼ばない。ムハンマドは神ではなく預言者だからだ。「イスラーム」とは唯一絶対無限の神に対する、有限で非力な人間の「服従」「絶対帰依」を意味する。あるいは無限の神の前に「身を投げ出す」ことを。「絶対帰依」はそのまま無限の神の肯定であり、これが信仰の姿勢なのである。だからこの信仰は「イスラーム」と呼ばれる。

 ウエルベックは「服従」というタイトルの背後にこの「イスラーム」を響かせているが、同時にそれはイスラームに対する「服従」ないし「屈服」を響かせる。

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 パリの風刺週刊紙『シャルリ・エブド(Charlie Hebdo)』の本社事務所が襲撃されたという衝撃的なニュースが入ったのはその翌日だった。折から7日付けの同紙の表紙は「魔術師ウエルベックの予言」と題するその作家のカリカチュアで、「2015年、おいら歯がなくなってるぜ」、「2022年、おれもラマダンだ」という吹き出しがある。
 
 オランド大統領はただちに「共和国に対する攻撃、表現の自由に対する攻撃だ」と非難し、7日の夜には11区の現場から遠くないレピュブリック(共和国)広場に10万を超える人びとが集まり、「私はシャルリ」と書いたパネルを手にして12人の犠牲者への連帯を示した。
 
 「表現の意志は暴力は屈しない」、街頭壁画のバンクシーもすぐに一枚のデッサンをネットに流した。一本の鉛筆、ボッキリ折られた鉛筆、しかし折られた端からまた芯が出て鉛筆は二本、になっている。
 
 ただ、なぜ『シャルリ・エブド』なのか――もちろん2006年のいわゆる「モハンマド戯画事件」以来の同紙の「懲りない」姿勢があげられる――、は考えてみたい。それに、今度の「襲撃」が、ただの強盗のたぐいではなく、明らかに「戦闘経験」のある私的なコマンド(おそらく背後の組織的関係などはない)によるものだということも。
 
 この事件に、「イスラーム国」の資料をそろえているときに遭遇してしまった。(つづきは別稿)

*7日付けの同紙はたちまち売り切れ、ネット上で7万ユーロ(990万円)の値がついているという。何でもすぐ金にする(市場に出す)連中がばっこするのも当世だ。