グローバル世界の「パパ」―-「帝国」における神の代理人(2)2025/04/26

グローバル世界の「パパ」―-「帝国」における神の代理人(2)
--ヨハネ・パウロ二世、カロル・ポイチワの墓銘に
 (『世界』、2005年6月号掲載)


□カトリック教会の自己改革--第二バチカン公会議

 ヨハネ・パウロ二世とは何だったのかといえば、彼は世界がグローバル化する時代に、カトリック教会のもてる潜在力を最大限に引き出し、教皇の地位と権威を担いきった人、ということになるだろう。もちろん彼は、キリスト教世界を越えて声望をかちえた。けれども、このような教皇を選んだのはバチカン自体なのである。その意味ではバチカンは、二〇世紀末に向かう世界でみずからが何をすればよいかを知っていたということである。事実、ヨハネ・パウロ二世の推進した諸宗教融和による平和の希求は、第二バチカン公会議で決定されたカトリック教会の大方針でもあった。

 カトリック教会も戦争の世紀に大きな試練を受けた。ムッソリーニの時代にバチカンは主権国家(バチカン市国)としての地位を確保するが、第二次世界大戦では状況に翻弄されるだけだった。そして戦後、破滅の前に沈黙した神への失意から人びとは教会を離れ、かつての布教地だった旧植民地も次々に独立してゆく。その一方で核戦争の現実味が増し、人類の危機が論じられるようになった。そのようなときに、カトリック教会は命運をかけて「アジョルナメント(刷新)」を企てたのである。それが一九六二年に召集された第二バチカン公会議の目標だった。そこでは、現代の世界でカトリック教会は何でありうるのか、キリストを生き生きと証しすることができるのか、といった問いが真剣に論じられた。もちろん、教会の「現代化」の試みに対しては、改革派と保守派の対立はあり、その間の確執もあったようだが、会議途中で不帰の人となったヨハネ二三世の後を襲ったパウロ六世も、この方針を引き継いで公会議を終わりに導き、そこでキリスト教諸教会(カトリック、プロテスタント、東方オーソドクス)と、さらに輪を広げた諸宗教融和(エキュメニズム)の大方針がバチカンの公式に路線となった。

 みずからの深刻な危機のなかで、これだけの自己改革を成しえたのはカトリック教会のもつ底力である。そのバチカンがパウロ六世の死後、ヨハネ・パウロ一世のわずか三ヶ月という短い在位を経て、若くして第二バチカン公会議に参加したポーランドの枢機卿カロル・ポイチワを「カトリック教会を新世紀に導く教皇」として選んだのである。
 かつてはロシア正教に対峙するカトリックの北の牙城であり、ナチズムと戦争の惨禍を経験し、ヤルタ会談でソ連支配下に置かれたという、西洋の現代史を集約するような国、ポーランドから選ばれたこの教皇は、教会の危機を世界の危機に同調させうる資質をもち、グローバル化の波の中で指針を失う世界に、ひとつの灯明を掲げることができた。

 もちろん、彼でなくてはなしえなかっただろうこともある。登位後の祖国訪問でわざわざアウシュヴィッツを訪れ、キリスト教世界が千年を超えてひきずってきた反ユダヤ主義を省みるという所作をとったのは、その地からほど遠くないクラカウ近郊に生まれ、ユダヤ人迫害を癒せぬ痛みとともに身近に経験してきたこの教皇ならではのことだっただろう。

 また、キリスト教世界にとって「大聖年」とされた二千年の年、「記憶の浄化」の標語のもとに、かつて教皇の呼びかけで行われた十字軍によるイスラーム世界の侵略とその残虐行為を謝罪するという挙措は、厳密に言えば、教皇の責任を認めたものではないし、謝罪もイスラーム世界に対するというより、神に対して過ちを犯したというキリスト者としての謝罪であるとはいえ、バチカンによる公式の「罪の告白」であり、それ自体が世界を震撼させるに足るものだった。

 ヨハネ・パウロ二世はこのように、キリスト教徒を代表してその過ちを神に謝罪することで、信仰することの根拠を守りつつ、この内向きの儀礼をバチカンの行事として公開することで、世界にカトリック教会の「自浄能力」を示し、イスラーム世界に向けてのメッセージとしたのである。だからこの挙措は、カトリックの信仰を高めると同時に、諸宗教融和に向けての呼びかけとなった。

 それだけではない。二〇世紀の最後の十年は世界のいたるところ(とりわけ戦争の世紀の主役だった先進諸国)で、「戦争の記憶」が問われた時期だった。その中で、バチカンの示したこの挙措は、「過ち」をみずから認めることで自己刷新をはかり、それによって国際社会で正統性の認知をうるという範を示すことになった。教皇はそのような意味でも「正義」を体現することができたのである。それがヨハネ・パウロ二世の傑出した名声に寄与しいてる。

□唯一無二の「神の代理人」

 けれども、このように諸宗教融和を説くことのできるのはカトリックの教皇だけだということに留意しておくべきだろう。キリスト教のうちでもカトリックだけが歴史に根ざしたこのような組織基盤をもち、教皇を擁している。プロテスタントは神との仲介を独占するカトリック教会のあり方を批判して、信仰の私事化をはかった。そのため統一的な組織基盤をもたない。また東方教会は、もともと各地の正教会が分立しており、ビザンツ帝国崩壊の後、ロシアがもっとも強力な正教会となったが、その総主教は単ロシア正教会の代表であるにすぎない。となると、全キリスト教会を代表して発言できるのはローマの教皇だけだとういことである。

 それにまた他の諸宗教を見てみても、もともと神へと向かうヒエラルキーを組込んだ教会のような信者の組織をもつ宗教は他にはない(新興のカルト宗教は、その意味ではみなカトリック教会を模倣しているといってもよい)。教会とはキリスト教の比類ない発明なのである。たとえばイスラームは、教会ばかりか神に仕える聖職者というものをもたない。いるのは神の掟を解釈する法学者で、それには位階があるが、「神の代理人」をもって任ずる代表というものはいない。ユダヤ教にしてもそうである。

 教皇が諸宗教の融和を説くときに、二つの段階がある。それはまずキリスト教の諸教会であり、ついでアブラハムの神に帰依する他の「経典の民」、つまりユダヤ教とイスラームであり、それは同じ唯一神を仰ぐ「信仰上の兄弟」とみなされる。エキュメニズムはそのように拡大されるが、さらにその末端に「信仰なき者たち」が並べられる。けれども「信仰なき者たち」というのは、裏を返せば「いつか神に(それもひとつの神に)帰依すべき者たち」でもある。つまりこの「エキュメニズム」の同心円は、あくまでキリスト教を中心に置いており、そのなかでも中心を占めるのが、唯一キリスト信仰を統括す正統組織たるカトリック教会であって、教皇はそのヒエラルキーの頂点にいる。そして教皇だけが、このような組織に支えられて「神の代理人」を任じている。世界を見わたしてもこのような抜きん出た資格をもつ宗教代表者は他にいない。言い換えれば、諸宗教融和をあらゆる宗教諸派に呼びかけ、みずからその集いを主宰できるのは、他のどんな宗派の代表者でもなく、ローマ教皇ただ一人なのである。

 それほど教皇の地位は特権的である。そしてこの地位はグローバル化した世界でとりわけ有効にはたらく。というのも、近代の国民国家が「祖国のために死ぬ」を信仰箇条とするナショナリズムという世俗的「信仰」の「教会=信仰共同体」であったとするならば、国民国家への「帰依」によって信者を奪われていたカトリック教会は、グローバル化のなかで国家が求心力を減衰させ、市場と国際機関とに権力を委ねてゆく状況のなかで、国家を超えた普遍的権威として再びその存在理由を見出すからである。国家が経済の調整や安全管理にその役割を限定しようとしてゆくとき、競争に委ねられる人びとに希望や保護を与える役割は放棄されるから。そこに国境を越えた救済のための共同体として、カトリック教会はみずからに相応しい役割を見出すことにな。だからバチカンは、いわゆる市場原理主義を批判して、貧困や不正に打ち棄てられる人びとを保護しようとするのである。

□「世界を作り変える」--グローバル化の先駆

 それに実は「グローバル化」とは、元来カトリック教会が構想したものだった。フランスの法制史家ピエール・ルジャンドルがしばしば喚起しているように、「世界を根底から作り変える」とは、中世の教皇権の絶頂期にカトリック教会の謳った使命だった。信仰の用語で言えば「全世界を改宗させる」ということになる。その大事業は宗教改革と「新大陸の発見」の二重の衝撃のもとで、本格的に始まったのである。その結果、南アメリカもアフリカもアジアの一部もカトリックに帰依することになり、教会はそれらの地域に神の光をもたらすとともに、その地の「無信仰者」たちを神のもとにひざまづかせたのである。カトリックは単に世界に広まっただけではなく、神の「真理」によって「世界を作り変えた」のであり、その後西洋から世界に広まる「革命」の思想や「民主化」の思想は、みなこの「世界改造」のモデルに従っている。二十一世紀の今、ブッシュ政権が公然と掲げる「民主化」の戦略の背後にも、このように「世界を作り変えることができる」という想定がある。

 もちろんこの「世界改造」は、単なる武力による征服ではなく、「神の啓示」による「普遍的(カトリックの)真理」のもとに世界を書き換えてゆくことだ。すでに西洋の普遍化によって、世界は半ば書き換えられている。要は現代の世界に、キリストをいかに生き生きと証してみせるかということだが、その務めを「空飛ぶ教皇」は、世界のいたるところに臨在することで果たしたのである。これだけの思想と戦略をもち、長い歴史の遺産を散逸させることなく、自己刷新によってそれを再び賦活しえた組織はもちろん他にはない。まさしくただ一人の「パパ」は、「キリスト教徒すべてのパパ」なのだが、原理的には「人類すべてのパパ」なのである。

 その「パパ」に対して日本の歴史学者が作り出した「教皇」という呼称は、「パパ」の制度的本質を言い当てていて妙である。つまりこの地位は、中世に西ヨーロッパでローマ法の復興が起こったとき、教会の最高権威をかつてのローマ帝国の皇帝になぞらえて作られたものだからだ(ルジャンドル『西洋が西洋について見ずにいること』など参照)。信仰の世界(教会)における皇帝、というその地位を、教皇という呼称は的確に表現している。そしてそこには、信仰の「真理」の領する広がりが「帝国」とみなされることも示唆されている。

 だとすると、市場のグローバル化をベースに、世界がひとつの力の秩序に統合されようとしているとき、その市場の「平和」のために不断の戦争(「テロとの戦争」)を展開する軍事的権力が一方にあるとすると、その力の論理を牽制するもうひとつの権威があるという構図が浮かび上がってくる。力によって一元化される世界の内的秩序を「帝国」と呼ぶとするなら、この「帝国」には二つの車輪があり、ひとつがアメリカ大統領、もうひとつがローマの教皇ということになる。それが当を得た言い方かどうかはわからないが、少なくともカトリック教会は、市場よりも先にひとつの原理によるグローバル化に乗り出しており、数世紀にわたってその動きを先導していたのである。

 教皇ヨハネ・パウロ二世は、カトリック教会の「アジョルナメント」の意味をおそらくもっともよく理解した人物でもあった。それは単に、教会の方針を時代の趨勢に合わせて変えてゆくことではない。そうではなく、ドグマ性に支えられる教会の本質を理解しつつ、世界の深い要請(人びとの救済の要請)にあくまでカトリックの長として対応してゆくということだ。

□カロル・ボイチワの墓
 
 ヨハネ・パウロ二世の「功績」を、傑出した一個人のそれとして語ることはできない。彼はあくまで無比の信仰の制度に支えられ、それを担った存在だった。ただ、その背後には、「聖座」に身を捧げることで「墓場なき死者」となったカロル・ポイチワという一人の人物がいた。

 コンクラーベ(教皇選出選挙)のためにローマに発つ前夜、ボイチワ枢機卿は、通いなれたワルシャワのとある教会の冷たい石の床に身を横たえて、両腕を広げ十字に伏せって一夜そのままの姿で祈り続けたという。それは、教皇に選ばれる(あるいは教皇を選ぶ)とほうもない責任に備え、身を打ちひしぐ苦悩に耐えて世界の重みを測る姿であったようにも思われる。その夜を境として、カロル・ポイチワというひとりの人物は死んだと言っていいだろう。教皇になるとは、おそらく彼にとって、キリスト教世界を睥睨するバチカンの頂点に昇りつめるということであるよりも、一一億といわれる信者の集うカトリックの全組織を担いその権威を維持し高めねばならない、唯一無二の重大な職務に身を捧げきることだった。つまり教皇になること自体が、カロル・ポイチワにとってはほかならぬ教会への殉教だったと言ってもよく、ヨハネ・パウロ二世とはすでに彼の「死後」の姿だったのである。
 無私の教皇として、凶弾を受けても世界を旅し続け、命あるかぎり「神の代理人」としての姿を人びとに見せ続けたのは、ヨハネ・パウロ二世であってカロル・ボイチワではない。そして、教皇ヨハネ・パウロ二世の墓は作られるが、カロル・ポイチワに墓はない。

グローバル世界の「パパ」―-「帝国」における神の代理人(1)2025/04/26

今日、教皇フランシスコの葬儀が行われている。ローマ教皇の代替わりは今ではこれほどの出来事になる。これは世紀を超えて教皇座にあったヨハネ・パウロ二世以来のことである。ヨハネ・パウロ二世の逝去に際して、世界がグローバル化と言われる現代において、不思議な復活を果たしたローマ教皇の地位について、一考をまとめたことがある。これを再掲しておきたい。二回に分ける。
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グローバル世界の「パパ」―-「帝国」における神の代理人(1)
--ヨハネ・パウロ二世、カロル・ポイチワの墓銘に
 (『世界』、2005年6月号掲載)

□「空飛ぶ聖座」

 四月八日にバチカンで執り行われたヨハネ・パウロニ世の葬儀では、世界の主要国の元首や諸宗教の指導者たちをはじめとして、三百万におよぶ人びとがローマに集ったと伝えられる。この異例の参集を見ると、亡くなった教皇の傑出した存在があらためて際立ってくる。けれどもこれは、考えてみれば不思議なことでもある。

 近代は世俗化の時代だと言われた。キリスト教的伝統に立つ社会では、信仰は私事とされて公共の政治の場からは退き、教会の役割も後退して、とりわけ二〇世紀の世界の動向にはほとんど影響力をもたなかった。ところが、最近のこの教皇は、グローバル化の進む世界で、あらゆる国の政治指導者をしのぐほどの声望をもつにいたったのである。

 世界的に「宗教の回帰」が語られるが、そのときしばしば話題になるのはイスラーム原理主義の台頭と、それによる政治の宗教化だ。けれども、宗教が回帰しているのはイスラーム世界ばかりでなく、「文明」を自称するキリスト教世界でも同じだということが、この教皇のもちえた影響力に表れている。ヨハネ・パウロ二世はひとりの人格として声望を集めたわけではない。彼はカトリック教会の首長であり、信仰に支えられた一世界の代表者だったのである。

 「空飛ぶ聖座」という表現がある。バチカンの聖座はもともとバチカンにあり、人びとがそこに足を運んで謁見を求めるべきものだった。けれども五八歳で登位したこの教皇は、百回を超える空の旅をし、世界のいたるところにみずから体を運んだ。そうして彼は、信仰の希薄化が言われる世界の各地に「聖座」を臨在させたのである。ヨハネ・パウロ二世の「革新性」があるとすれば、他のどこにでもなくこの点にあるといってよいだろう。教皇がここにいるという出来事は、そのつどその地のカトリック(だけでなくラテン・キリスト教)信仰を賦活し、救済の希望に息を吹き込んで、バチカンの存在を世界の表面に浮上させた。

 多くの信者たちの集まる教皇の訪問は、そのつど大きなイヴェントとなって世界に放映された。この教皇はいつも、権威を表す荘重な装束ではなく、軽やかな明るい色の法衣をまとって登場する。そして何を語るかということにもまして、彼がそこに身を運ぶということ、そこで祈るということ自体が、強い象徴的な意味をもって作用した。アイドルという言葉はもともと神の像を意味するギリシア語由来の宗教用語だが、ヨハネ・パウロ二世こそは文字通りの「アイドル」であり、現代最高のスーパー・スターだったとも言える。その生身の体の移動は最上のスペクタクルとなり、それがカトリック教会の求心力を高めるのにこの上なく貢献したのである。

 各地の歴訪によって彼はいたるところに救済の希望をもち運んだ。その影響力がカトリック圏ばかりかキリスト教世界を越えて広まったのは、彼が冷戦後の世界でとりわけ諸宗教の融和や和解を説いて平和を訴え、みずからの祈りを、現代世界の多くの人びとの願いや希望と重ね合わせることができたからである。もちろん、そのような教皇は史上に類を見ない。

□ドグマの体現者としての教皇

 けれどもその教皇は、一方ではきわめて保守的で、女性が聖職者になることを頑なに拒み、人工妊娠中絶や、エイズを避けるための避妊も認めず、同性愛も容認しなかった。そのため、若者たちを教会から離反させているといった批判を受けてきた。一方で、世界に向けては「開かれた」融和の姿勢を示し、「力の正義」に対して「言葉の正義」をあくまで貫くことで、イラク戦争開戦時には世界の反戦的世論の後ろ盾ともなったこの教皇が、教義に関して強固な保守性を示すのは、一見すると相容れないと見えるかもしれない。けれども、それが「矛盾」と見えるのは、「進歩的」ないしは「民主的」であることを、そのまま「世情に照らして望ましい」とみなす、一般的風潮への「順応主義」にとってだけだろう。教皇にとっては「正義」を果たすことと、教義の根本原則を守ることとは、同じひとつのことだったのだ。

 ヨハネ・パウロ二世が、出身地ポーランドのカトリックの特質を引き継いでマリア信仰を重んじ、「秘蹟」を信じる神秘主義的傾向をもっていたことはよく知られている。聖母出現の伝説の地ルルドを神聖視し、ポルトガルのファティマの予言にも重要な意味を与えていた。八一年五月に起こった教皇狙撃事件についても、最近になって旧東側の諜報機関の関与が明らかにされたが、世俗的な事実関係がどうであれ、教皇はそれを超える解釈体系をもち(封印されていたファティマの予言の三つ目のものがそれだということ)、彼が深く信じていたのはそちらの方だった。だから彼は、運命の「手」となって罪を犯した犯人を心の底から赦すことができ、そのことに犯人もまた動かされたのである。

 そうした深い信仰があればこそ、彼は老いてなお各地に赴き、病を抱えたその身を受難の具現のごとくさらしながら、世界に臨在する教皇としての務めを果たしえたのだろう。そしてその信念によって、イラク戦争前夜には、その影響力とバチカンのもてるあらゆる手段を動員し、アメリカの力の政策の前に立ちふさがった。それができたのは、「教皇」なればこそのことだ。そして教皇とは、カトリック教会の最高権威であり、カトリックとは他でもない、ドグマに対する信仰を軸とした制度的組織なのである。

 キリスト教は典型的にドグマ的な宗教だが、神と子と聖霊の「三位一体」という基本的ドグマの背後には、マリアの「無原罪懐妊」というもうひとつのドグマが控えている。ここに言う「原罪」とは生殖行為のことである。つまり、人が生まれながらに負っている「原罪」とは、あらゆる人間が男女の性行為によって生まれてきたということである。そのことを免れえない「原罪」とみなし、万人に罪びとの条件を課しておいて、そこからの救済を約束するのが神への信仰だとするのがキリスト教の基本教義である。

 そのドグマを「不合理ゆえに我信ず」として呑み込むところに信仰は成立する。合理的に理解できることなら、それは理解することで足り、信じる必要はない。理解を超えた不合理だからこそ信じなければならず、それを信じる者たちによって「教会」は構成されるのである。つまり教会とは不合理なドグマを担うことで成り立つ信仰の組織なのであり、だとすれば、信仰厚く、それゆえに比類ない信望をえたヨハネ・パウロ二世が、かつてキリスト教会の不倶戴天の敵だった啓蒙思想の延長にある「性の自由化」や「男女平等」を、「誤った道」として認めないのは当然のことだろう。

 日本ではバチカンの聖座に座る者を「教皇」とか「ローマ法王」と呼び、そこに性別の明示はない。けれどもこの人物はイタリアでは「パパ」と呼ばれ、フランス語では「パップ」、英語なら「ポープ」である。「パパ」はもとはギリシア語の「パパス(父)」からきており、ラテン語の「パーテル(父)」ともつながっている。それだけでなく、「パパ」の権威のもとにある教会の聖職者はみな「パーテル(父、日本では教父とか神父と呼ぶ)」である。そしてなにより神はキリストの「父」とされている。ここにはもともと「女」の入る余地はなく、それがこの「教会」という秩序、神と救いを求める人びととの仲立ちをする「教会」という組織の基本的なあり方なのである。

 ヨハネ・パウロ二世は敬愛するが、彼の「保守性」は認められない、といった見方は、「教会」というものと「教皇」のなんたるかを見誤っていると言うべきだろう。彼はあくまでカトリック教会の長であり、カトリック教会は信仰のドグマの上に成り立つ組織であって、単なる慈善団体でも社会福祉機関でもない。カトリック教会が「性の自由」に寛容になったとすれば、それは教会の拠って立つ根拠そのものを揺るがせにすることになり、結局は信仰の秩序を弛緩させてカトリック教会の衰弱を招くことになるだろう。(つづく)

今、アメリカで何が起こっているのか?2025/03/15

今、世界はバニックに陥っているようだ。アメリカに「専制君主(独裁者)」が出現した?そしてアメリカが「西側(西洋)」を裏切った?アメリカは自由と民主主義の国、繁栄する世界のリーダー、文明の未来だったはずなのに。

 世界は「民主主義国と専制主義国」が対立し、専制主義国の野心でヨーロッパでも東アジアでも「戦争の危機」が高まっている、というのが昨日までの「西側」の通念だった。

 ところが、それこそが「ばかな戦争にアメリカを巻き込んで、アメリカ人を踏み台に闇で操り儲ける勢力」があって、「彼らがアメリカ没落の元凶」というのがトランプの主張。それで「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン(MAGA)」のスローガンで選挙に勝利した。アメリカのグローバル展開の影で辛酸をなめた「ラストベルト」出身の J.D.バンスも、西海岸の「エリート社会」の居心地悪さからトランプの主張に共感する。彼らの「敵」は、アメリカをダメにしたエリートたちのシンジケート「ディープ・ステート」だ。

これにうろたえるのは「民主vs.専制」で「危険な専制から民主世界を守る」というイデオロギーを受け入れてきた人びと、つまり「西側」諸国、EU、日本などの民主派の人びとだ。じつはこの図式は、「自由主義vs.共産主義」ついで「文明vs.テロリスト」の焼き直しで、原型は「ナチズムから自由を守る」という、アメリカのヨーロッパ戦線参入のスローガンにある。それまでアメリカは「古いヨーロッパ」の戦争には関わらなかったから、そのモンロー主義を破る欧州介入には理由が必要だったのだ。

だが、トランプはこの図式を認めない。ヨーロッパの戦争への介入が、アメリカを世界秩序の束縛に絡めとり、それを利用したエリートたちのシンジケートがアメリカを没落させたと考えているからだ。一度、MAGAで大方の予想を裏切って大統領になった。だが国家運営の機構のなかで包囲網はきつく、再選はならなかった。そして今回は「神の加護」もあって、アメリカは再び「偉大な大統領」を選んだ。一期目にトランプを追い落としたのは自分が潰そうとして果たせなかった「ディープ・ステート」である。だから今度は、そのシンジケートの解体から仕事を始めている。

今、アメリカに起こっているのは、だからひとつの「内戦」である。その「内戦」をどういう手順で戦うのか、トランプ陣営には準備があったようだ。それが閣僚の布陣によく表れている(ほぼ全閣僚が議会の承認を得られるかどうかわからないほどだったが、トランプは自分が大統領である以上押し切れるとみていたのだろう)。



 アメリカの「内戦」に選挙権をもたない我々は介入できない。すべくもない。なぜプロレスの観客よろしく、逆上してトランプをけなさねばならないのか。ロシア寄りだとか、プーチンに弱みを握られているとか。トランプはかつてプロレス興行に関わっていた。自分もリングに上がって見せ場を作るのは得意である。だから彼は大見えを切るし、客のブーイングさえ稼ぎのネタにする。

 彼を「暴君」と呼ぶのは、「アメリカ」についてあまりに無知と言わねばならない。彼こそが「アメリカの自由」の権化なのだ。アメリカの場合「自由」は基本的に「私的」である。「他者」を軽んじ傍若無人に振舞う。トランプはアメリカの地金なのである。

 アメリカとはどういう国なのか。先住民をいないことにして土地を強奪、私的所有権を金科玉条に、それに基づく「自由の国」を作った。それは「合州国」で、争い合うヨーロッパの諸国家とは成立ちが違う。だからイギリスの支配を排して「独立」し、「古いヨーロッパ」(ウェストファリア体制)に三下り半を突きつけた(モンロー宣言)。

 その後は「フロンティアの西進」で自然の大地すべてを「不動産」に転換した。封建制の束縛はなかった。何でも物件化したら自由処分も売買もできる。所有権が大地にある物すべてを財産にする。その「新世界」建設のキーマンが不動産屋だったのである。



 その頃のアメリカは「偉大」だった。傍若無人でいられたから。ところが「老いたヨーロッパ」は仲間割れで大戦争、イギリスが助けを求める。アメリカは助けに行き、老いぼれに代わって「西洋=西側」の宗主権をもつ。そして世界統治にリーダーとして関与する。初めはよかった。戦争をするのは海外で、アメリカは繁栄する一方だ。ところが冷戦期になると、国がいつの間にか戦争態勢化、軍官学産複合体ができてそれが政治を動かすようになる(アイゼンハワー退任時に警告した)。この複合体は世界に戦争があることで繁栄する。そして世界統治するアメリカ国家を神輿のようにしてしまう。

 10年のベトナム戦争、南米各地での政権転覆工作(CIA)、ソ連崩壊後には、EUの自立を抑えてNATO(北大西洋軍事同盟)存続、そして湾岸戦争、以後、世界の警察官が負担になると、皆でやれ!と「テロとの戦争」…。あちこちに戦争地雷をしかけて、その実「民営化・私物化」で儲けるというアメリカ・エリート・シンジケートが、国内の「アメリカ人」の衰退と凋落を招いてきた。その戦争屋連中が、世界にいい顔をするために人権だとか弱者保護とか多様性だとか言う。そのために「アメリカ人」が割を食い見捨てられている。だから「アメリカ・ファースト」、「アメリカを再び偉大に」と言うわけだ。それが見えない有権者たちの支持をえて、トランプはいま彼らのチャンピオンになった。



 そのトランプの標的は、まず国内の「グローバル民主派」であり、対外的にはヨーロッパなのである。アメリカを「国際秩序」に引き込んで凭れるからだ。トランプは世界を都合よく分断するイデオロギーを認めない(それはエリートたちのすること)。中国と敵対するのは、周辺で「人権抑圧」する専制主義国だからではなく、たんに「アメリカの偉大さ」を曇らせる最大のライバルだからだ。だから宗主国デンマークを無視してグリーンランドを買うという(アラスカも昔ロシアから買ったものだ)。カナダも51番目の州にする。戦争ではなくディールでやるから問題ない、と。

 国内の「グローバル民主派」言いかえれば「世界秩序関与派」は、トランプを「危険な獣」のように見る。そしてヨーロッバ(今ではEU)は、アメリカはNATOで縛って冷戦後も自立を許さなかったのに、そのNATOをお荷物だとかタカリだとか言われ、命綱を切られた思いで悲憤憤慨する。さらにウクライナのゼレンスキーに至っては、「戦争をやめろ」というトランプに、「援助がなければ戦争ができない」「止めるから金よこせ」としがみつく(もとはと言えば英米がけしかけた戦争なのに、と)。EUもロシア憎悪で戦争を10年は続けるつもりだった。それでは話にならない、と大混乱。



今、アメリカで起こっているのはそういうことだ。

では、日本はどうすればいいのか。これははっきりしている。今アメリカは「同盟国だなんて甘ったれるな、もう凭れるな」と言っているのだから、これを機会に日本はほんとうに「自立」すべきである。じつは冷戦後にその機会があった。ところがその頃は「世界の一強」アメリカに盲従するしか能がなく、構造改革から軍拡まですべて言われるままで、その結果が「失われた30年」。今こそ自立し、グローバル化した世界の中での新しい位置を見出すべきだろう。そのとき間違ってもまたまた「脱亜入欧」をやってはならない。G7(西洋先進国)の一画などと見掛け倒しの難破船に縋りついていては破滅だ。むしろ、BRICS+諸国と新たな関係を構築し、アメリカの頼りにならない世界、ポスト西洋の時代に積極的に貢献すべきだろう。今、アメリカとヨーロッパが再分裂し、西洋の世界制覇の時代が終わろうとしているのだから。

*もうひとつ重要なのは、デジタルIT産業が世界をどこに連れてゆくかということだ。その意味で、イーロン・マスクの役割と振舞いは要注意。それと、AALAとの関係では、マルコ・ルビオが表の権力を得たのが最大の警戒事項だろう。

2025.03.01ホワイトハウス、ゼレ・トラ60分一本勝負の観戦記2025/03/02

トランプは戦争を終わらせたい(アメリカに金がかかるから)。
ゼレンスキーは「今はやめない、勝つまで金(支援)を出せ」」と言う。
トランプはもうこれ以上金を出したくない。
EU、「アメリカが引いたらウクライナが勝てないじゃないか」とブーブー。

- 戦争を止めるということは「ロシアが勝つ」ということ?
- そんなことはないだろう、プーチンはもう死にそう、ロシア軍もボロボロ、経済も青息吐息…ウ軍に領土とられた、石油基地もドローン食らった、とメディアでは盛んに解説していたじゃないか。「ロシアは勝って」いないのでは? じゃ、そろそろ止めたら?
- それではロシアに有利になる。
- えっ、ロシアはボロボロって言ってたじゃない。全部ウソなの?

ウクライナは「ヨーロッパと民主主義(西側的価値)」のために戦っているのか?EUは「侵略者ロシア」を懲らしめるために?
- この15年、ロシアにさんざん嫌がらせし圧迫してきたのは誰だ?(米ブッシュ等とNATO、ロシアからクリミア取って牙を抜く…、ウクライナ人のことなど考えていない。)
- ウクライナを「反ロ親西」にしたのは誰だ?(オリガルヒと民族右派)
- 仕掛けたのは?(V.ヌーランドやマケインやH.バイデンら「民主化工作」派=ネオコン)

トランプは、戦争で儲けてアメリカをダメにしてきた「民主化工作」派と戦って選挙(内戦)に勝ち、「アメリカを取り戻した」。
ウクライナもEUもその「民主化工作」派頼りにロシアに喧嘩を売って「勝とう」とした (「ロシアの侵略がまずはじめ」、というのは端的にウソ)。
しかし、トランプのアメリカは、もう縋りつくな、たかるな、自分で勝てなきゃ喧嘩するな(戦争やめろ)、出した金も返せ(ブツでよこせ)と言うので、アメリカ頼みだったウクライナもEUもバニックで逆上している、の図。

トランプはそのことを見せるために会談を公開でやった(CIAの工作嫌いとプロレス趣味)。
うまくいったか? 西側のひいき役者ゼレンスキー、西側観客あてに悲劇のヒーロー好演。トランプ、セコンド・バンスの介入もあってちょっと悪役にされる。

トランプは「ロシア寄り」なのではなく、アメリカ頼みで戦争する「古いヨーロッパ」EUが嫌い。それがアメリカ衰退の元だと言う。

EUはもう10年支援計画なんか立てたから、戦争やめさせるつもりはない。でもトランプは、もうたくさんだと言う。たしかに、アメリカもEUもその間戦費を膨大に使い、ロシアも使うはずだから、世界的にまったく無駄な浪費。そのうえウクライナは潰れてしまう。人もいなくなってしまう(日本が世銀融資の保証国になっている復興計画なんて「夢のリビエラ」みたいなもの)。
EUとトランプ、この点ではどっちがまともなのか?

*問題はバレスチナ!!
それと陰でマルコ・ルビオがキューバに最後の手を伸ばしている。キューバ、いま戦争でもないのにたいへんみたい。ハバナでも一日数時間しか電気がないとか(長い経済制裁と金融遮断のせい――こっちは西半球でアメリカ、失うものがないから)。

フィガロ紙インタヴュー「アメリカ人はトランプが世界で不動産屋として振舞うとは思っていなかった」2025/01/28

フィガロ紙2025年1月26日付

1)ル・フィガロ――ドナルド・トランプは就任前演説の中で、パナマ運河を取り戻しグリーンランドを併合したいという願望をあらためて示しました。そしてカナダに経済的圧力をかけると脅し、アメリカの51番目の州になってはどうかとも言いました。あなたはこうした発言に驚きましたか?あなたはそれを、ご著書(『アメリカ、異形の制度空間』講談社メチエ、仏語版 L'Imperialisme de la Liberte, Seuil, 2022 で描き出されている合州国の古い帝国的野心の再燃と見ますか?

西谷修――いかにも厚顔な言い方ですが、トランプ氏は自分がアメリカ大統領である以上、こんなふうに言って当然だと思っているのでしょう。彼のとっては、他国を脅したり空かしたりできるのも、アメリカの「偉大さ」の証なのでしょう。これがショッキングに聞こえる理由は、彼が新しい領土や運河の支配を、国際法の問題ではなく私法(権)の問題であるかのように語っているからです。

じつはそれがアメリカの伝統に沿ったものでもあるのですが。注意すべきことは、アメリカの「帝国主義」は、一般的なモデルになっているヨーロッパのそれとは根本的に異なるということです。それは、領土化し植民地にするためにある地域の住民を服従させるのではなく、土着の住民を抹消してそこを空にし、領土を「解放」するというものです。

だいたいアメリカ自体が、先住民を排除してそれを自らの「自由」の(フリーな)領域にするということから始まりました。この「解放」の力学は、その後海外にも広がっていった。アメリカが1898年に「帝国支配からの解放」の名のもとに行った対スペイン戦争によって、フィリピン、グアム、プエルトリコの支配権を2000万ドルで獲得することができたのです。こうして、これらの旧植民地は「古い西洋」の支配から「解放」され、私有財産権に基づく「自由の体制」に服して、アメリカ市場の領域に組み込まれました。こうして、「所有権に基づく自由の帝国主義」はアメリカ大陸を越えて広がり始めました。それが、「古いヨーロッパ」の帝国的支配から領土を「解放」し、アメリカの支配圏に統合するという新しい世界統治の方法なのです。

この新しい手法はじつは不動産業者が使うものと似ており(地上げや転がし)、ドナルド・トランプが政界入りする前にこの職業で財を成したことを忘れてはなりません。国際政治へのこの手法の導入は、彼の最初の任期中には多くの障害に遭遇しました。

しかし今回の選挙で、彼は正当性を獲得した。選挙というのはドメスティック(国内的)なもので、当然ながらアメリカの有権者が選んだのは自分たちの大統領であって、世界全体の大統領ではありません。ところが、アメリカの影響力が絶大であるため、世界中の市民たちは「世界に開かれた大統領」がホワイトハウスに入ることを期待していました。その期待は、選挙に関する国々のメディアの報道にも表れていました。しかし、米国は再びトランプ氏を大統領に選出した。多くの人が「MAGA」に応えたのです。これはソーシャルネットワークなどの影響もあるでしょうが、いずれにせよ、米国は今後しばらくは自国重視の姿勢を打ち出し、大統領も同じように振る舞うということです。

2)新大統領は、メキシコ湾の名称を「アメリカ湾」に変更することも約束しています。「何て美しい名前だ!まったく相応しいじゃないか」と言いながら。これは、あなたが著書で引用しているステファン・ツヴァイクがアメリゴ・ヴェスプッチの伝記に書いた言葉を思い起こさせます。アメリカという名前は「征服する言葉だ。この言葉のうちには暴力性があり(中略)、年々、より大きな領域を併合していく」。なぜアメリカ合州国は大陸全体の名前をとったのでしょう?これは領土拡大の兆候だったのでしょうか?

西谷――確かに、完全母音にはさまれて明るく生き生きとした響きをもつこの名前は美しい。ドイツの若い地理学者ヴァルトゼーミュラーは、この名前を提案した後、自分の「早とちり」を認めて、自身の世界図からこの名前を撤回したのですが、たぶんその響きの良さのため、たちまちヨーロッパに広がり、誰も修正に応じませんでした。そしてこの名称は、ヨーロッパ人が大西洋の彼方に「発見」したすべての土地を覆って指すようになりました。スペインとポルトガルによって大陸南部に植民地化された国々は、ヨーロッパの帝国主義的なやり方で植民地化されました。そして独立後、これらの国々は「ラテンアメリカ」と総称されるようになりますが、どの国も国名に「アメリカ」という修飾語は採用しなかった(多くは現地語を用いた)。

一方、北半球では「アメリカ」は、「処女」とみなされた土地の先住民(インディアン)を排除してゼロから作り出されました。つまり、「私有財産に基づく自由」という「制度的空間」が「新世界」としてここに建設された。その「新世界」の名が「アメリカ」だったのです。
当初、それぞれ「ステート」を名乗っていた東部の13植民地は連携して独立を宣言し、アメリカ合州国を作りました。その後、フランスからルイジアナを買い取り、先住民を追い出して併合します。それから、メキシコからテキサスとカリフォルニアを奪い、あるいは買い取り、いわゆる「フロンティア」を太平洋岸まで伸ばしました。この「フロンティア」は、実際には「拡大するアメリカ」の前線だったわけです。さらに、アメリカはロシアからアラスカを買い取った。そしてスペインとの戦争時には、ついに太平洋のハワイ諸島を併合しました。それ以来、アメリカ合州国を構成する州(ステート)は50を数えるようになっています[これは開かれていて、さらに増えうるわけです]。

ステファン・ツヴァイクは、ナチスに支配された祖国を逃れ、「旧世界」の混沌から遠く離れた「ヨーロッパの未来」を象徴するはずのアメリカ大陸へと向かいました。しかし、ツヴァイクがそこで見たものは、物質的で人工的な文明の繁栄であり、むしろ野蛮で虚栄に満ちたもので、彼が大切にしてきたヨーロッパの未来ではなかった......。同じように、哲学者のアドルノとホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』(フランス語では『Dialectique de la raison』という不正確なタイトルで翻訳されている)を書きました。その中で彼らはアメリカ文明を批判し、「過剰な光は目を焼きつぶし、暗黒を作り出す」と言っています。

ツヴァイクは「アメリカ」を「征服する名前」と呼びました。私はそれが何を意味するのか、この名前は実際には何を指しているのか、それを考えてみたのです。制度的な用語で言えば、この名称はterra nulliusというローマ法の概念を、ヨーロッパ人にとって未知の土地に投影したものです。それは、処女地であり、持ち主がおらず、自由に処分可能であると想像される大地の規定です。それがまず「アメリカ」と呼ばれました。先住民は、自分たちの先祖代々の土地が不動産として商品のように扱われることを想像できなかったから、ヨーロッパ人がそれを獲得し所有権を設定するのは容易でした。彼らは自分たちを土地の所有者と宣言し、権利をもたない「インディアン」を追い出して、文明の「フロンティア」をさらに西へと押し進めました。そのように、大地とそこに属するすべての豊かさを私有財産に変え、譲渡可能で証券化可能な不動産に変えたことが、「アメリカ」を特徴づけています。

「新世界」とはそういうものだったのですね。大地を商品に転換して売買することが不動産業者のコアビジネスです。だから、トランプ氏が大統領になったときには、アメリカに新たな土地を割り当て、その土壌を執拗に掘って、掘って、掘りまくる(ドリル、ドリル、ドリル!)と呼びかけるのは容易に理解できます。

[3]アフガニスタンでのアメリカの失敗の後、そしてウクライナでの中途半端なコミットメントにもかかわらず、これはアメリカが19世紀にそうであったように、アメリカ大陸の周辺部に再び焦点を当てようとしていることを意味するのでしょうか?

西谷――イエスでもありノーです。なぜなら、グローバリゼーションの中でその「周辺地域」というのは消えしまうからです。世界情勢には変遷がありました。まず、第一次世界大戦でアメリカは西半球という繭のからを破ってヨーロッパに回帰し、次に第二次世界大戦では主導的な役割を果たして、やがて冷戦が終り、さらにはグローバリゼーションが起こります。アメリカももはや19世紀には戻れません。

トランプはいま、中国やロシアと対峙する姿勢をとっていますが、しかし、それはイデオロギー的対立あるいは理想主義的戦略にもとづくものではありません――それが冷戦時代からのアメリカの姿勢だったのですが。そうではなく、世界統治をめぐって争い合う競合相手として向き合っているのです。その点ではデンマークやカナダも同じ扱いですが、ただ、彼は中国やロシアを買いとったりすることは不可能だと知っているわけです。それはコストがかかりすぎるから、「ディール」になりません。

3)ドナルド・トランプやイーロン・マスクも最近、ヨーロッパにさかんに圧力をかけています。これは、アメリカがつねに自らを「新しい西洋」として提示し、人類を「旧世界」のくびきから「解放」したいという願望を公言してきたことをあらためて示すものなのでしょうか?合州国とヨーロッパとの最近の関係と力関係をどのように考えておられますか。

西谷――その問いにはまず別の問いを立てることで答えましょう。なぜトランプはイーロン・マスクと手を組んだのか?トランプは元不動産業者であるだけでなく、ひとつのポストを求める希望者同士を戦わせ、徐々に排除していくリアリティ番組『アプレンティス』の司会をしていました。一方マスクはデジタル・テクノロジー企業のオーナーであり、プロモーターです。[ほんとうはトランプがプロレスリングの興行者だったことを使いたかったが、フランスではプロレスの話は通じないので、テレビのリアリティー・ショーの話にした。要は、リアルとフェイクの境を取っ払った見世物です。]

イーロン・マスクは、さまざまな技術のフロンティア、特にヴァーチャル化技術で開かれつつある空間、あるいはそのコントロールを私的に独占しようとしているのです。彼は(他のテック企業のオーナーたちと同様)「表現の自由」を楯にとります。そしてそれに関するあらゆる規制を撤廃しようとする。政府効率化省の話もありますが、これは結局のところ、コンピューター化、デジタル化された時代における人間の私的な欲望追求に関するあらゆる制限を無力化するための彼の戦略なのではないでしょうか?
このような「自由」の概念は、典型的にアメリカ的なものです。それは「フリーパス」の要求であって、私権や私物化を優先して公的な制約をすべて取り払うための権限です。実際もうアメリカではあらゆるテクノロジーがすべて「プライバタイズ」で推進されているわけですが、身体を自由にするバイオテクノロジー、人間の思考を無用にする人工知能技術、第二の惑星への新たな「脱出(エグゾダス)」を目指した宇宙開発技術など…。彼は、デジタル化され、ヴァーチャル化されるすべての新資源を自分が「自由に」開発利用できる権利を要求しているのです。このようなプロジェクトは、「新世界」創出(草創期のアメリカ)に関するトランプの願望と一致していると言えます

EUはアメリカ連邦政府に匹敵する規模と経済力を持つ国々の連合体です。だから、トランプ氏はそれを無視して、欧州各国に個別に脅しをかけ、自らの「取引術(ディールの闘技場)」に引き込もうとしているわけです。イーロン・マスクに関しては、欧州諸国のいわゆる極右勢力に公然と肩入れしています。「極右」という定義が今日でも有効かどうかについては疑問ですが、いずれにせよ、彼はトランプ主義者のスローガン「自国第一」に共鳴するすべての人々に呼びかけており、それはEUの軛から抜け出よと言っているようなものです。あたかもEUが彼らにとっての「古い帝国」だと言うかのように。ヨーロッパを揺るがすこの状況は、ソ連崩壊時の旧東欧圏諸国を彷彿とさせます。彼らはヨーロッパ連合への加盟を要求しながらも、「古いヨーロッパ」を嫌ってよりアメリカ的な「新しいヨーロッパ」を要求していました。

4)暗殺未遂事件後、ドナルド・トランプは自身の当選が宗教的で預言的な次元にあることを主張しました。あなたは著書の中で、現代アメリカの神学的・政治的起源を喚起しています。ドナルド・トランプが政権に返り咲いたことで、米国の「明白な運命」の思い込みはさらに強化されると感じますか?

西谷――トランプへの狙撃は、おそらくトランプ氏自身にとっては一種の啓示的意味をもったでしょうが、それは非常に個人的なものにとどまったと思います。彼はもう少しで命を落とすところだった。だから彼は神が自分を守ってくれていると思ったのかもしれない。しかしこの出来事によって、彼が救世主的運命に目覚めたとは思えません。この出来事は、「不当に」奪われた大統領の座を取り戻したいという彼の願望を正当化するとともに、より強化されたことは確かでしょう。そこで果ててしまっては、汚名を被ったままで、そのままにしておくわけにはいけません。それにあの「不屈の男」を絵にかいたような写真があります。あれは印象的だったでしょう。
たしかに、トランプは就任演説で、「マニフェスト・デスティニー(明白な運命)を星まで追い求める」と宣言しました("We will pursue our Manifest Destiny into the Stars")。ただし、彼はそのとき聖書に手を置いていませんでした[彼に信仰心などないということ]。

5)ご著書のなかで、あなたは「北米では最初の入植が失敗した後、ヴァージニア植民会社が設立されて、植民地の設営は民間の商業的企業のイニシアチヴで行われた」ということを指摘しています。この歴史に照らして、トランプ大統領と彼の "Art of the Deal "によってアメリカ外交に商業論理が戻ってきたことをどう分析されますか。これはまさに回帰ということなのでしょうか?

西谷――その通りと言うか、そこは大事な点です。アメリカ植民地の開発は、基本的に私的セクターの主導で行われました。マサチューセッツ植民会社、ニューイングランド植民会社…、みな国王の特許状をもって植民地建設を行いました。特許のもとで数年間開墾すると、そこは私有地になる。
そうして開発され、発展した各植民地は、王権の軛(課税)をきらって独立することになったわけです。
だからアメリカ植民地の独立とは、王の帝国的権力を除去して、市民の共和国を作る、言いかえれば私企業が連合して政治権力を排除したようなものです。それがアメリカ国家の基本的性格を規定しています。つまり私企業の連合国家、組合国家だということです。

アメリカは戦後、国際秩序の盟主になることで、秩序のパートナーとして責任も負うことになりました。冷戦期には社会主義圏と対抗する上でそれは必要な負担でもありました。ところがその束縛が解けると、つまり世界全体がアメリカの覇権のもとに置かれると(冷戦の勝利)、もはやアメリカはみずからの国家的本質を全世界の規範とすることができます。それが国家の私企業化です。
アメリカは私企業の連合体であったときに大発展し、世界の主導国になりました。しかし国際秩序の制約と責任で衰退した。だから「MAGA」というわけですが、それは私企業の神輿という性格を取り戻すということでもあるでしょう。

そして、忘れてはならないのは、アメリカの企業は「法人」ですが、アメリカでは「法人」は生身の人間とまったく同じ権利を享受すると定められています。そして企業の目的は株主の利益を守り促進することと定められています。いわゆる「新自由主義」の大原則ですが、その「自由」とは私的存在の欲望追及の自由であり、その自由が法権利として保障されているというのが「新世界」の特徴なのです。だから新自由主義の「新」とは、「新世界」の「新」でもあるのです。

トランプ氏は企業家といっても、前に言ったように不動産屋です。つまり「自然物」を法権利の対象とし、その転換を媒介するのが仕事でした。イーロン・マスクを始めとする「ビッグ・テック」のリーダーたちは、情報革命とインターネット解放後の、あらゆる財のデジタル・ヴァーチャル化で、人間世界に新たなフロンティア、言いかえれば市場の沃野を作り出し、その開発で天文学的利益を独占的に挙げる新しい企業家たちです。彼らの独占的利益は、デジタル・テクノロジーとその活用の私物化によってしか保証されません。だから彼らは、トランプの乱暴な「私権の自由」を標榜する統治(ディール)に合流するわけです。

6)長い孤立主義の伝統を持つ日本から見て、ドナルド・トランプ氏のホワイトハウス復帰はどのように映りますか?

西谷――何世紀もの間、日本は西洋の膨張主義的で「解放する」文明から身を守るために、自国に引きこもる道を選びました。しかし、そのような時代は過ぎ去り、私たちは西洋の近代性を受け入れて久しく、むしろその恩恵を十分に受けてきました。だからもはや昔の伝統に戻ることはできません。

しかし、アメリカの大統領にトランプ氏が返り咲いたことは、アメリカの属国であることに慣れすぎてしまった(アメリカの51番目の州だと言われたこともあります)我が国にとって、歴史的なチャンスとなるかもしれません。このような依存的な関係がアメリカにとって負担が大きすぎるというのであれば、現在200以上の国が存在するこのグローバル化した世界にあって、私たちは依存し・束縛される立場を脱して自立することを学ぶべきでしょう。すでに冷戦が終わったとき、私たちは変化した世界のなかで新たな立ち位置を求めるべきでした。ところが、私たちがしたことは勝利に酔いしれる「帝国」アメリカにひたすら追従しただけでした。それから30年以上が経ち、日本ではしばしば「失われた30年」が語られました。戦後のある時期にアメリカの保護下で獲得した経済的・技術的名声をこの30年間ですっかり失ってしまったということです(公式の理解は逆ですが)。

今日求められているのは、アメリカ合州国との関係を「正常化」すること、そしてそれは必然的に、中国、ロシアだけでなくアジアやアフリカの国々との関係も「正常化」することです。もし米国がもはや国際的な責任を負わないということならば、我々は米国の優位性のない世界に備えなければなりません。これは私たちにとってとてもよい機会です。日本政府はたいへん臆病ながら、それでもその準備をしているように見えます。

「ドナルド・トランプ米大統領就任記念」フィガロ・インタヴュー2025/01/24

Marianneに続いてFigaroからインタヴューを受けた。
二年前にフランスで出版されたL’impérialisme de la liberté, un autre regard sur l’Amérique, Seuil, 2022)――『アメリカ、異形の制度空間』(講談社メチエ,2016年)の仏訳版――をベースに、トランプのアメリカ大統領就任について見解を聞きたいというのだ。ヨーロッパの人びとは、このようなアメリカの分析の仕方をまったくしたことがないようで(日本でも同じだと思う)、両誌(紙)の編集者とも、たいへん啓発されたと喜んでくれた。
Figaroのこのインタヴューは1月25日に本紙とウェブに掲載されることになっているが、私の私的なつごうもあり、半日早くなるが、日本語訳をここに掲載させてもらう。
(翻訳は面倒なのでDeepLに頼ったが、働いてもらったAIくんには悪いが、やっつけ仕事丸出しでとてもひと様に見せられるものではなく、だいぶ手を入れざるをえなかった。)
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○「ドナルド・トランプ米大統領就任記念」フィガロ・インタヴュー

1)ル・フィガロ――ドナルド・トランプは就任前演説の中で、パナマ運河を取り戻しグリーンランドを併合したいという願望をあらためて示しました。そしてカナダに経済的圧力をかけると脅し、アメリカの51番目の州になってはどうかとも言いました。あなたはこうした発言に驚きましたか?あなたはそれを、ご著書で描き出されている合州国の古い帝国的野心の再燃と見ますか?

西谷修――いかにも厚顔な言い方ですが、トランプ氏は自分がアメリカ大統領である以上、こんなふうに言って当然だと思っているのでしょう。彼のとっては、他国を脅したり空かしたりできるのも、アメリカの「偉大さ」の証なのでしょう。これがショッキングに聞こえる理由は、彼が新しい領土や運河の支配を、国際法の問題ではなく私法(権)の問題であるかのように語っているからです。じつはそれがアメリカの伝統に沿ったものでもあるのですが。

注意すべきことは、アメリカの「帝国主義」は、一般的なモデルになっているヨーロッパのそれとは根本的に異なるということです。それは、領土化し植民地にするためにある地域の住民を服従させるのではなく、土着の住民を抹消してそこを空にし、領土を「解放」するというものです。だいかいアメリカ自体が、先住民を排除してそれを自らの「自由」の(フリーな)領域にするということから始まりました。

この「解放」の力学は、その後海外にも広がっていった。アメリカが1898年に「帝国支配からの解放」の名のもとに行った対スペイン戦争によって、フィリピン、グアム、プエルトリコの支配権を2000万ドルで獲得することができたのです。こうして、これらの旧植民地は「古い西洋」の支配から「解放」され、私有財産権に基づく「自由の体制」に服して、アメリカ市場の領域に組み込まれました。こうして、「所有権に基づく自由の帝国主義」はアメリカ大陸を越えて広がり始めました。それが、「古いヨーロッパ」の帝国的支配から領土を「解放」し、アメリカの支配圏に統合するという新しい世界統治の方法なのです。

この新しい手法はじつは不動産業者が使うものと似ており(地上げや転がし)、ドナルド・トランプが政界入りする前にこの職業で財を成したことを忘れてはなりません。国際政治へのこの手法の導入は、彼の最初の任期中には多くの障害に遭遇しました。しかし今回の選挙で、彼は正統性を獲得した。

選挙というのはドメスティック(国内的)なもので、当然ながらアメリカの有権者が選んだのは自分たちの大統領であって、世界全体の大統領ではありません。ところが、アメリカの影響力が絶大であるため、世界中の市民たちは「世界に開かれた大統領」がホワイトハウスに入ることを期待していました。その期待は、選挙に関する国々のメディアの報道にも表れていました。しかし、米国は再びトランプ氏を大統領に選出した。多くの人が「MAGA」に応えたのです。これはソーシャルネットワークなどの影響もあるでしょうが、いずれにせよ、米国は今後しばらくは自国重視の姿勢を打ち出し、大統領も同じように振る舞うということです。

2)新大統領は、メキシコ湾の名称を「アメリカ湾」に変更することも約束しています。「何て美しい名前だ!まったく相応しいじゃないか」と言いながら。これは、あなたが著書で引用しているステファン・ツヴァイクがアメリゴ・ヴェスプッチの伝記に書いた言葉を思い起こさせます。アメリカという名前は「征服する言葉だ。この言葉のうちには暴力性があり(中略)、年々、より大きな領域を併合していく」。なぜアメリカ合州国は大陸全体の名前をとったのでしょう?これは領土拡大の兆候だったのでしょうか?

西谷――確かに、完全母音にはさまれて明るく生き生きとした響きをもつこの名前は美しい。ドイツの若い地理学者ヴァルトゼーミュラーは、この名前を提案した後、自分の「早とちり」を認めて、自身の世界図からこの名前を撤回したのですが、たぶんその響きの良さのため、たちまちヨーロッパに広がり、誰も修正に応じませんでした。そしてこの名称は、ヨーロッパ人が大西洋の彼方に「発見」したすべての土地を覆って指すようになりました。スペインとポルトガルによって大陸南部に植民地化された国々は、ヨーロッパの帝国主義的なやり方で植民地化されました。そして独立後、これらの国々は「ラテンアメリカ」と総称されるようになりますが、どの国も国名に「アメリカ」という修飾語は採用しなかった(多くは現地語を用いた)。

一方、北半球では「アメリカ」は、「処女」とみなされた土地の先住民(インディアン)を排除してゼロから作り出されました。つまり、「私有財産に基づく自由」という「制度的空間」が「新世界」としてここに建設された。その「新世界」の名が「アメリカ」だったのです。

当初、それぞれ「ステート」を名乗っていた東部の13植民地は連携して独立を宣言し、アメリカ合州国を作りました。その後、フランスからルイジアナを買い取り、先住民を追い出して併合します。それから、メキシコからテキサスとカリフォルニアを奪い、あるいは買い取り、いわゆる「フロンティア」を太平洋岸まで伸ばしました。この「フロンティア」は、実際には「拡大するアメリカ」の前線だったわけです。さらに、アメリカはロシアからアラスカを買い取った。そしてスペインとの戦争時には、ついに太平洋のハワイ諸島を併合しました。それ以来、アメリカ合州国を構成する州(ステート)は50を数えるようになっています[これは開かれていて、さらに増えうるわけです]。

ステファン・ツヴァイクは、ナチスに支配された祖国を逃れ、「旧世界」の混沌から遠く離れた「ヨーロッパの未来」を象徴するはずのアメリカ大陸へと向かいました。しかし、ツヴァイクがそこで見たものは、物質的で人工的な文明の繁栄であり、むしろ野蛮で虚栄に満ちたもので、彼が大切にしてきたヨーロッパの未来ではなかった......。同じように、哲学者のアドルノとホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』(フランス語では『Dialectique de la raison』という不正確なタイトルで翻訳されている)を書きました。その中で彼らはアメリカ文明を批判し、「過剰な光は目を焼きつぶし、暗黒を作り出す」と言っています。

ツヴァイクは「アメリカ」を「征服する名前」と呼びました。私はそれが何を意味するのか、この名前は実際には何を指しているのか、それを考えてみたのです。制度的な用語で言えば、この名称はterra nulliusというローマ法の概念を、ヨーロッパ人にとって未知の土地に投影したものです。それは、処女地であり、持ち主がおらず、自由に処分可能であると想像される大地の規定です。それがまず「アメリカ」と呼ばれました。先住民は、自分たちの先祖代々の土地が不動産として商品のように扱われることを想像できなかったから、ヨーロッパ人がそれを獲得し所有権を設定するのは容易でした。彼らは自分たちを土地の所有者と宣言し、権利をもたない「インディアン」を追い出して、文明の「フロンティア」をさらに西へと押し進めました。そのように、大地とそこに属するすべての豊かさを私有財産に変え、譲渡可能で証券化可能な不動産に変えたことが、「アメリカ」を特徴づけています。「新世界」とはそういうものだったのですね。大地を商品に転換して売買することが不動産業者のコアビジネスです。だから、トランプ氏が大統領になったときには、アメリカに新たな土地を割り当て、その土壌を執拗に掘って、掘って、掘りまくる(ドリル、ドリル、ドリル!)と呼びかけるのは容易に理解できます。

3)ドナルド・トランプやイーロン・マスクも最近、ヨーロッパにさかんに圧力をかけています。これは、アメリカがつねに自らを「新しい西洋」として提示し、人類を「旧世界」のくびきから「解放」したいという願望を公言してきたことをあらためて示すものなのでしょうか?合州国とヨーロッパとの最近の関係と力関係をどのように考えておられますか。

西谷――その問いにはまず別の問いを立てることで答えましょう。なぜトランプはイーロン・マスクと手を組んだのか?トランプは元不動産業者であるだけでなく、ひとつのポストを求める希望者同士を戦わせ、徐々に排除していくリアリティ番組『アプレンティス』の司会をしていました。一方マスクはデジタル・テクノロジー企業のオーナーであり、プロモーターです。[ほんとうはトランプがプロレスリングの興行者だったことを使いたかったが、フランスではプロレスの話は通じないので、テレビのリアリティー・ショーの話にした。要は、リアルとフェイクの境を取っ払った見世物である。]

イーロン・マスクは、さまざまな技術のフロンティア、特にヴァーチャル化技術で開かれつつある空間、あるいはそのコントロールを私的に独占しようとしているのです。彼は(他のテック企業のオーナーたちと同様)「表現の自由」を楯にとります。そしてそれに関するあらゆる規制を撤廃しようとする。政府効率化省の話もありますが、これは結局のところ、コンピューター化、デジタル化された時代における人間の私的な欲望追求に関するあらゆる制限を無力化するための彼の戦略なのではないでしょうか?

このような「自由」の概念は、典型的にアメリカ的なものです。それは「フリーパス」の要求であって、私権や私物化を優先して公的な制約をすべて取り払うための権限です。実際もうアメリカではあらゆるテクノロジーがすべて「プライバタイズ」で推進されているわけですが、身体を自由にするバイオテクノロジー、人間の思考を無用にする人工知能技術、第二の惑星への新たな「脱出(エグゾダス)」を目指した宇宙開発技術など…。彼は、デジタル化され、ヴァーチャル化されるすべての新資源を自分が「自由に」開発利用できる権利を要求しているのです。このようなプロジェクトは、「新世界」創出(草創期のアメリカ)に関するトランプの願望と一致していると言えます

EUはアメリカ連邦政府に匹敵する規模と経済力を持つ国々の連合体です。だから、トランプ氏はそれを無視して、欧州各国に個別に脅しをかけ、自らの「取引術(ディールの闘技場)」に引き込もうとしているわけです。イーロン・マスクに関しては、欧州諸国のいわゆる極右勢力に公然と肩入れしています。「極右」という定義が今日でも有効かどうかについては疑問ですが、いずれにせよ、彼はトランプ主義者のスローガン「自国第一」に共鳴するすべての人々に呼びかけており、それはEUの軛から抜け出よと言っているようなものです。あたかもEUが彼らにとっての「古い帝国」だと言うかのように。ヨーロッパを揺るがすこの状況は、ソ連崩壊時の旧東欧圏諸国を彷彿とさせます。彼らはヨーロッパ連合への加盟を要求しながらも、「古いヨーロッパ」を嫌ってよりアメリカ的な「新しいヨーロッパ」を要求していました。

4)暗殺未遂事件後、ドナルド・トランプは自身の当選が宗教的で預言的な次元にあることを主張しました。あなたは著書の中で、現代アメリカの神学的・政治的起源を喚起しています。ドナルド・トランプが政権に返り咲いたことで、米国の「明白な運命」の思い込みはさらに強化されると感じますか?

西谷――トランプへの狙撃は、おそらくトランプ氏自身にとっては一種の啓示的意味をもったでしょうが、それは非常に個人的なものにとどまったと思います。彼はもう少しで命を落とすところだった。だから彼は神が自分を守ってくれていると思ったのかもしれない。しかしこの出来事によって、彼が救世主的運命に目覚めたとは思えません。この出来事は、「不当に」奪われた大統領の座を取り戻したいという彼の願望を正当化するとともに、より強化されたことは確かでしょう。そこで果ててしまっては、汚名を被ったままで、そのままにしておくわけにはいけません。それにあの「不屈の男」を絵にかいたような写真があります。あれは印象的だったでしょう。たしかに、トランプは就任演説で、「マニフェスト・デスティニー(明白な運命)を星まで追い求める」と宣言しました("We will pursue our Manifest Destiny into the Stars")。ただし、彼はそのとき聖書に手を置いていませんでした[彼に信仰心などないということ]。

5)ご著書のなかで、あなたは「北米では最初の入植が失敗した後、ヴァージニア植民会社が設立されて、植民地の設営は民間の商業的企業のイニシアチヴで行われた」ということを指摘しています。この歴史に照らして、トランプ大統領と彼の "Art of the Deal "によってアメリカ外交に商業論理が戻ってきたことをどう分析されますか。これはまさに回帰ということなのでしょうか?

西谷――その通りと言うか、そこは大事な点です。アメリカ植民地の開発は、基本的に私的セクターの主導で行われました。マサチューセッツ植民会社、ニューイングランド植民会社…、みな国王の特許状をもって植民地建設を行いました。特許のもとで数年間開墾すると、そこは私有地になる。
そうして開発され、発展した各植民地は、王権の軛(課税)をきらって独立することになったわけです。
だからアメリカ植民地の独立とは、王の帝国的権力を除去して、市民の共和国を作る、言いかえれば私企業が連合して政治権力を排除したようなものです。それがアメリカ国家の基本的性格を規定しています。つまり私企業の連合国家、組合国家だということです。

アメリカは戦後、国際秩序の盟主になることで、秩序のパートナーとして責任も負うことになりました。冷戦期には社会主義圏と対抗する上でそれは必要な負担でもありました。ところがその束縛が解けると、つまり世界全体がアメリカの覇権のもとに置かれると(冷戦の勝利)、もはやアメリカはみずからの国家的本質を全世界の規範とすることができます。それが国家の私企業化です。
アメリカは私企業の連合体であったときに大発展し、世界の主導国になりました。しかし国際秩序の制約と責任で衰退した。だから「MAGA」というわけですが、それは私企業の神輿という性格を取り戻すということでもあるでしょう。

そして、忘れてはならないのは、アメリカの企業は「法人」ですが、アメリカでは「法人」は生身の人間とまったく同じ権利を享受すると定められています。そして企業の目的は株主の利益を守り促進することと定められています。いわゆる「新自由主義」の大原則ですが、その「自由」とは私的存在の欲望追及の自由であり、その自由が法権利として保障されているというのが「新世界」の特徴なのです。だから新自由主義の「新」とは、「新世界」の「新」でもあるのです。

トランプ氏は企業家といっても、前に言ったように不動産屋です。つまり「自然物」を法権利の対象とし、その転換を媒介するのが仕事でした。イーロン・マスクを始めとする「ビッグ・テック」のリーダーたちは、情報革命とインターネット解放後の、あらゆる財のデジタル・ヴァーチャル化で、人間世界に新たなフロンティア、言いかえれば市場の沃野を作り出し、その開発で天文学的利益を独占的に挙げる新しい企業家たちです。彼らの独占的利益は、デジタル・テクノロジーとその活用の私物化によってしか保証されません。だから彼らは、トランプの乱暴な「私権の自由」を標榜する統治(ディール)に合流するわけです。

6)長い孤立主義の伝統を持つ日本から見て、ドナルド・トランプ氏のホワイトハウス復帰はどのように映りますか?

西谷――何世紀もの間、日本は西洋の膨張主義的で「解放する」文明から身を守るために、自国に引きこもる道を選びました。しかし、そのような時代は過ぎ去り、私たちは西洋の近代性を受け入れて久しく、むしろその恩恵を十分に受けてきました。だからもはや昔の伝統に戻ることはできません。

しかし、アメリカの大統領にトランプ氏が返り咲いたことは、アメリカの属国であることに慣れすぎてしまった(アメリカの51番目の州だと言われたこともあります)我が国にとって、歴史的なチャンスとなるかもしれません。このような依存的な関係がアメリカにとって負担が大きすぎるというのであれば、現在200以上の国が存在するこのグローバル化した世界にあって、私たちは依存し・束縛される立場を脱して自立することを学ぶべきでしょう。すでに冷戦が終わったとき、私たちは変化した世界のなかで新たな立ち位置を求めるべきでした。ところが、私たちがしたことは勝利に酔いしれる「帝国」アメリカにひたすら追従しただけでした。それから30年以上が経ち、日本ではしばしば「失われた30年」が語られました。戦後のある時期にアメリカの保護下で獲得した経済的・技術的名声をこの30年間ですっかり失ってしまったということです(公式の理解は逆ですが)。

今日求められているのは、アメリカ合州国との関係を「正常化」すること、そしてそれは必然的に、中国、ロシアだけでなくアジアやアフリカの国々との関係も「正常化」することです。もし米国がもはや国際的な責任を負わないということならば、我々は米国の優位性のない世界に備えなければなりません。これは私たちにとってとてもよい機会です。日本政府はたいへん臆病ながら、それでもその準備をしているように見えます。

仏誌「マリアンヌ」インタヴュー、「アメリカの自由」について2025/01/08

西谷修:「地球を商品と考えたのはアメリカ人が最初」
インタビュー:サミュエル・ピケ
公開日時:2025/01/07 21:00

*DeepLの自動翻訳にだいぶ手を入れました(とくに後半)。

日本の哲学者である西谷修は、そのエッセイ《L'impérialisme de la liberté, Un autre regard sur l'Amérique》(Seuil)――邦題『アメリカ、異形の制度空間』(講談社メチエ)――の中で、西洋、とりわけ米国に鏡を差し出しているが、そこに映った像はいささか心乱すものである。 ドナルド・トランプが大統領に就任しようとしている今、この本は示唆に富んでいる。「マリアンヌ」は彼にインタビューした。

《L'Imperialisme de la liberte》(Seuuil)の中で、日本の哲学者である西谷修は、アメリカ合州国の誕生と、自ら主張する所有権に基づくアメリカ・モデルの輸出について、非常に批判的な視線を向けている。 キリスト教ヨーロッパも免除されているわけではないが、著者はアメリカの例外性、つまり現地住民の同化の試みもなく、自由という偽りの理念を広めるために好戦的な拡張主義をとったことを強調している。 マリアンヌが彼にインタビューした。

マリアンヌ:クリストファー・コロンブスが上陸した大陸が "アメリカ "と呼ばれていたという事実は、なぜその発展を理解する上で重要なのでしょうか?

西谷修:アメリカとは何よりまず、ヨーロッパ人によって発見された未踏の地、「新大陸」という西洋の想像上の存在を指す名前だからです。何千年来そこに住んでいた人びとは、自分たちを「アメリカ人」だとは、ましてや「インディアン」だとは認識していませんでした。アメリカは、彼らを追い出すか絶滅させることでしか築けなかったのです。ヨーロッパ人到来以前のあらゆる人びとの生活は「新大陸」の「新しさ」に反するものでした。「アメリカ」という名づけそのものが、「新大陸」の発見をフィレンツェの航海士アメリゴ・ヴェスプッチによるものと早とちりしたドイツ人地図製作者の思い込みの産物でした。それに、誰がアメリカ人なのか? それはこの新大陸に定住したヨーロッパ人とその子孫たちであって、「インディアン」ではない。彼らにとって「アメリカ人」とは、彼ら自身を父祖から受け継いだ土地を奪いそこから追い出した連中だったのです。

彼らは虐殺され、あるいは有名な「フロンティア」を越えて西へ西へとどんどん押し出されていった。なぜなら、フロンティアは、フランス語のそれとはいささか違って、アメリカ人の領土拡張に限界(国境)を設けるどころか、先住民の「野蛮さ」に対抗する「文明」の前線を示すものだったからです。 この前線が太平洋岸に達したとき、北の大陸の「アメリカ化」は完了しました。

マリアンヌ:あなたは「アメリカ・インディアン」の運命を説明するのに、「強制的かつ合法的に追放された」という表現を使っていますが、この明らかな矛盾をどう説明するのですか?

西谷:「インディアン」はアメリカ人に「法主体」として認められていませんでした。「法」というのはローマ法に由来する概念で、いまでも多くの非ヨーロッパ言語へは翻訳しにくいものですが、いったん彼らが「法」の外に置かれると、その扱いはもっぱら力関係に左右されます。そして「インディアン」は「法の外」にいるのだから、アメリカ人が土地を所有することを妨げるものは何もありません。一方、彼らの「野蛮人」の観点からは大地は誰のものでもなく、翻って誰もそこに住むことを禁じられてはいないわけです。

言い換えれば、先住民は土地の私的所有という考えを持っていなかった。彼らの目には、自然や生存のための環境は誰かが占有すべきものではなく、逆に生きる人間にあらゆる恩恵を与えてくれるものでした。だから彼らは新参者を頭から拒絶せず、むしろ受け入れて定住を許した。けれども、やがてアメリカ人となる入植者たちは、土地を所有の対象とし(初めは国王の領有)、法的・経済的資産として、その排他的な占有と開拓をもって、いわゆる個人の「自由」の基盤としたのです。入植者の数が増え続けるにつれて、土地の独占所有を受け入れない「インディアン」との公然の衝突は避けられなくなり、それがまた、彼らの「野蛮で無法」な性質が確認されることになり、野生動物と同じように「合法的かつ力づくで追放」されるようになったのです。

そこは、アメリカのいわゆる帝国主義がヨーロッパ列強の帝国主義から根本的に逸脱している点でもあるでしょう。 基本的に、ヨーロッパ諸国は世界の他の地域を征服し、統治し、同化させ、統合し、自国の領土に併合しようとしました。

屈服させるだけでなく、植民地化した民族の習慣や風習を勘案しながら(これが人類学の第一の目的だったわけです)、自分たちの文化、西洋文化を押し付けようとした。だから、フランスが残した刻印は、イギリス、スペイン、ポルトガル、オランダ、ロシアが残したものと同じではありません。だが、アメリカ人は大地を最初に商品化した。彼らの最初の行動は、植民地化された土地を「処女地」と宣言し、「テラ・ヌリウス」という法規定を適用することでした。ローマ法に由来するこの概念は、人が住んでおらず、開発もされていない土地を指します。だから、最初に手をつけた者が正当な所有権を主張できる(先占取得)。

だからアメリカは、そこに住み着くようになったヨーロッパ人にとって、「自由(空いている)」で、個人的自由に好都合な世界だとみなされたのです。所有者もいないし、ヨーロッパの土地関係を支配していた封建的なしがらみもない世界でしたから。ドナルド・トランプ大統領自身、不動産業で財を成した人物ですが、彼が米国はグリーンランドを領有すべきだと主張するとき、このような歴史と完全に軌を一にしているわけです。

マリアンヌ:あなたはしばしばヨーロッパを「キリスト教徒」や「キリスト教」という言葉で定義します。なぜですか?

西谷:1492年にクリストファー・コロンブスがグアナハニ島に上陸したとき、何世代にもわたってこの島に住んでいたタイノ人は、自分たちを「発見」しにきたヨーロッパ人を素朴ながら手厚く歓迎しました。一方、コロンブスは、彼らの先祖代々の土地を領有すると宣言し、サンサルバドル島(聖救世主)というキリスト教的な新しい名前を付けたのです(キリスト教徒はそれを「洗礼」と言う)。

コロンブスの目には、ローマ教皇やスペイン国王の目と同様に、カトリックの信仰を広めることが、こうして発見された、あるいはまだ発見されていない大地の植民地化を正当化するものとして映りました。ラテンアメリカでは、「征服者」たちによって「発見」された土地は、ヨーロッパの神学的・政治的秩序に強制的に併合されたわけです。

北アメリカでは事情が異なって、征服はヨーロッパ的な「旧世界」から脱却して「新世界」を建設するという救済史的な意味を与えられました。英国国教会の迫害から逃れるために17世紀に入植した清教徒たちは、北米を新たな「約束の地」と見なしていたのです。紅海を渡った選ばれし民のように、彼らは「キリスト教の自由」という新しい掟を確立することを自分たちの使命としていました。1620年にメイフラワー号で大西洋を横断したピルグリム・ファーザーズは、19世紀にはアメリカの建国神話となり、やがて「明白な運命」の象徴となりました。

これらの歴史はすべて、宗教、政治、法律、経済が密接に結びついていることを明らかにしています。その結びつきがその思考のシステム自体の特徴なのですが、ヨーロッパでは「世俗化」以来、そのことがしばしば忘れられています。ともかく、ヨーロッパ人は常に、他の「野蛮な」民族に対して、キリスト教的であること、あるいは文明的であることで自分たちを正当化してきたのです。

マリアンヌ:米国が誇る「自由」を支えているのは、どのような概念だと思われますか?

西谷:清教徒たちは二つの理由から、アメリカが自由の地であると思い描きました。まず、英国国教会のくびきから自由であり、そこを耕し、実り豊かにすれば、完全に占有することができたからです。すべての個人がそこでは自由に信仰ができるし、大地を耕すことで自分のものにすることができます。耕せば権利が生ずる、それも聖書に書いてあって、経済学者たち、とくにジョン・ロック(1632-1704)が「自由」のベースとしたことです。
イギリスからの独立闘争において、自由はこうして「私的所有に基づく個人の自由」として肯定されました。このように考えられた自由は、人や物を本来の状態から解放し、商業的交換に適した経済的存在(財)に変えます。これが、インディアンの土地を取引可能な「不動産」に転換し、その最初の「証券化」の場がウォール街だったわけです。そしてその後、この原理(自由化と解放)は、水、知的財産、遺伝子など、考えうるあらゆる「資源」に適用・拡大してゆきます。

北アメリカを発祥の地とし、それ以来世界のあらゆる地域に広がり続けている「所有権に基づく自由の空間システム」の基本構造はこのようなものです。西部のフロンティアが太平洋にまで到達すると、この「自由のシステム」はラテンアメリカ諸国を古いヨーロッパの帝国主義から解放しますが、それは言いかえればアメリカが支配する「自由市場」に統合するということで、モンロー・ドクトリンとは、「古いヨーロッパ」を離れて西半球に「自由世界」を開くという、その教書だったわけです。だからその動きは南へと向かいますが、世界戦争後は、今度は太平洋を越えて、まず日本を呑み込みます。

「アメリカの本当の原罪は奴隷制度ではなく、原住民の排除だった」。

ヨーロッパ型の日本帝国主義が広島と長崎で粉砕されて以来、日本は欧州連合(EU)のように、アメリカの意向に従う「自由の帝国主義」のアジアにおける代理人になりました。けれども、この「自由」を、世界人権宣言がすべての人間に認めている自由や人権と混同してはならないでしょう。私有財産に基づくものである以上、この「自由」は弱者の権利によって妨げられてはならず、所有者一人ひとりに、それを守るために武装する権利を与えているのです。

マリアンヌ:あなたは「 アメリカの自由には『原罪』がある」と書いています 。それは何ですか?

西谷:バラク・オバマ大統領は2008年の演説で、奴隷制度はアメリカの「原罪」であると言い、憲法の宗教的側面を再活性化させました。しかし、黒人奴隷貿易が忌むべきものであったことは事実ですが、この「罪」は米国だけのものではありません。三角貿易に従事したヨーロッパの船主たちや、自らの同朋を売ったアフリカの首長たちによって可能になったもので、アメリカはその最大の「消費地」でした。

アメリカの本当の「原罪」は先住民の抹殺であり、それなしには「私的所有権に基づく自由」は太平洋岸まで広がることはできず、さらにその先に、グローバリゼーションによって全世界に押し付けようとすることもできなかったでしょう。その先に、今では、イーロン・マスクの企てる宇宙空間の私的(民間)開発があります。

マリアンヌ:今日、アメリカは世界でどのように受け止められているのでしょう?そのオーラは失われたのか?日本ではどう見られているのでしょうか?

西谷:他の国と同様、日本においても、米国はかつてのオーラを失っています。ベトナム戦争ですでに失い、ソビエト連邦崩壊後に部分的に取り戻しましたが、その後、アフガニスタンからの無様な撤退は、全世界を解放する(自由化する)ことで「原罪」を贖うというアメリカの衝動の決定的な挫折を意味するものだと思います。

先住民を抹殺することで「約束の地」を解放するというこのダイナミックな衝動にいまだに関与しているのは、アメリカの支援の下にあるイスラエルの極右とそのシンパだけでしょう。MAGA[「アメリカを再び偉大に」]の波の高まりは、この失敗の認識と、新自由主義的・新保守主義的グローバリズムの放棄を物語ってもいます。
ドナルド・トランプ大統領は、この事業がアメリカ人を犠牲にしすぎたと考え、栄光を取り戻すためには、アメリカは自国の利益の追及保持と、そのために障害となる中国という唯一の「敵」に焦点を当てているようですが、それを打ち負かすのはどう見ても不可能です。

日本では、ヨーロッパ主要国と同様、多くの人々が自国の運命がアメリカのそれと切り離しうるとは考えておらず、それゆえ「ポスト・アメリカ」の世界における自国の位置どりなどを考えてもいないようです。たしかに、アメリカの支配がない世界を想像するのは難しいですが、じつはそれが現代のもっとも枢要な課題でしょう。

「ボスト・トゥルース」勝利の時代――兵庫県知事選2024/11/18

 ことの起こりは、3月に元西播磨県民局長が、斉藤知事(当時)のバワハラや贈答品受け取りなどの疑惑を匿名で内部告発。知事は告発者を特定しようとし、県幹部を叱責。追いつめられた県民局長はなぜか「死亡」(内部告発者は法的に保護されることになっているが、ここでは告発された知事が職権でまず告発者の特定を部下に命じた――明らかな法令違反)。

 疑惑内容などを調査するため、県議会は調査特別委員会(百条委員会)を設置。県議会は86人の全会一致で不信任案を議決。しかし斉藤知事は辞職せず、失職することを選んだ。不信任議決を受けて辞職すると次の県知事選には出にくいが、「意に反して辞めさせられた」なら出直し選に出られる。議会より自分が正しかったのだと主張して。
 失職当日の朝から、斉藤元知事はJR須磨駅前に立って通勤客に1人で頭を下げた。
 そこで始まった「県政出直し選挙」。
 選挙には稲村和美元尼崎市長が立候補、斉藤前知事を組織的に推した維新の会からは元参議院議員の清水貴之が立ち、その他4人が立候補したが、なかでもNHK党創設以来選挙荒らしを続けてきた立花孝志が、斉藤を勝たせるためといって出てきた。

 この選挙は、パワハラ等内部告発者を追い詰めて自殺させるような知事は辞めてもらって代わりにまともな知事を選ぶための選挙だったはずだ。ところが私は悪くなかったという知事(改心のかけらもない)が、途中から実は悪くなかった、はめられたのだ、彼の志を遂げさせよう、という機運がしだいに盛り上がり、斉藤前知事が汚名を晴らす選挙になってしまった。
 
 どうしてこんなことになったのか?
 「斎藤は、失職したその日からほぼ毎日、県内各地の駅前に立った。
スーツ姿で多くは語らず、駅へ向かう人にただひたすら深々と頭を下げ続けた。
 最初のころは立ち止まる人がまばらだったが、斎藤の街頭活動をよく見に来る10人ほどがいた。のちにこのメンバーを中心に斎藤を支援するボランティアグループが結成された。
 メンバーによると、SNSで斎藤の活動の様子や失職の経緯などを積極的に拡散したのだという。また別のグループでも斎藤の動画や写真を頻繁に投稿する動きがあったと話した。
 失職から1週間ほどたったころには、神戸などの都市部では斎藤のまわりに多くの人が詰めかけるようになり、サインを求める人まで相次いだ。」(NHK WEB特集)
 
 具体的には、立花孝志が斉藤の前後の演説で「マスコミはウソばかり」「斉藤さんは県議にはめられた」と訴え、「パワハラなどなかった、告発した県職員は調査で自分の不倫問題がバレるのを恐れて自殺した…」などと主張し――内部告発者を誹謗中傷するのはいつも権力が使う違法手段――、それをYoutubeで発信するだけでなく、例の統一教会系の『世界日報』が印刷媒体で広めた。そう、統一教会だ。
 「斉藤を支援するボランティアグループが結成された」というが、このグループには「同級生」だけでなく、選挙を技術戦略的にサポートする集団も入っていただろう。たとえば、東京都知事選で石丸某を押し立てて蓮舫を一敗地に塗れさせた選挙プランナーのような。
 
 斉藤は一見ワルのようには見えない。それに自分が悪いとは思っていない。自分は適切に振舞ってきた。知事になったらその地位・権力は当然備わっているものなのだから、部下(単なる職員)が自分の意向に従うのは当然だ。それに自分は賢い。そう言われてきたし率直だとも言われてきた。だから物わかりの悪い(あるいは旧弊にばかり従う)部下を叱ったり足蹴にしたりするのは「教育」だ…。そう素直に(?)思っているから、腹に含むところのあるワルには見えない。ただ、「反省」というものが根っから欠けているだけなのだ。

 だから、「県議の陰謀にはめられた」とか、県民のためによいことをやろうとしたから邪魔されたんだ、「内部タレこみなんかするのはロクな奴じゃない」とか言われると、同じく素直な選挙民は、えっ、そうなのか、じゃ、サイトウがんばれ、とついついなる。最初一人二人だった演説の場にも、十人、二十人と熱心な聴衆が集まる(それはいわゆるサクラだろう、そして動員力があるのは…)。それはやがて数百人、千人となる。これは、石丸現象のときにも使われた手だ。
 そうこうするうちに、危うい雲行きに焦った対抗陣営は、斉藤批判を強め、知事としての資質を問題にする。そうなると斉藤推し陣営の思うつぼだ。そうやって斉藤を陥れたんじゃないかと疑われ。
 これが選挙期間内にできれば、斉藤、雪辱の凱旋である。
 
 しかしこの当選は斉藤自身の力によるものではまったくない。斉藤をサポートする「ボランティア・グループ」というのが、この人物を再当選させることで、日本の選挙政治を自分たちの意のままに操作し、そういう人物を使って日本の政治の動向に大きな影響力をもつ、そのような利害が一致していただけである。つまりSNSと生劇場の相乗効果でブームを作る選挙プロ、いわば公共的正義の論理で失職させられた人物を、フェイク情報汚染で掻き乱して逆に当選させる、そのことで正義の論理を攪乱し、その攪乱を影響力にする立花のような人物、それにカルト動員で支援して、いわゆる左翼潰しをはかる統一教会、彼らは示し合わせていなくても連携プレーができたのである。斉藤はその神輿にすぎない(政策論義などにはほとんど意味がない)。『世界日報』はXで折も折、こんな投稿もしている、「トランプ圧勝、日本も左翼思想を押し返せ、トランプが巻き起こす保守主義の潮流に我が国も乗り遅れるな…」。
 
 この選挙は県知事選挙ながら、日本の選挙政治の歴史を画するものになる。選挙は今まで、いわゆる「民主主義」の実効メカニズムだと思われてきた。しかし「民意」はいかようにでも操作される。人びとは進んで操作されるのだ。SNSコミュニケーションに侵蝕されたメディア網を通じて。その最大の特徴は「真実(ほんとうのこと)」にはもはや何の価値もないということだ。ウソだろうがデタラメだろうが、必死で訴える「真実」だろうが、断片的に受け取る人びとにとっては違いがなく、ほんとうらしいこと、受けとめたいこと(願望に適うこと)だけが、イイネつきで拡散される。そして「推し」の頻度が高いものだけが(質とか何とかには関係なく)流通力・伝搬力をもつ。それをもう15年以上前に「ポスト・トゥルース」状況と呼んだ人がいるが、その語を「ほんとかどうかにはもはや意味も価値もない」という情報流通のレジームだと理解するなら、今度の知事選は日本の「ポスト・トゥルース状況」の勝利を画する選挙だった。
 
 『世界日報』が引きつけているように、アメリカの「トランプ現象」もそれと無縁ではないが、簡単に同一視することはできない。Xの社主であるイーロン・マスクがトランプ現象に公然と参画していることにも表れているように、アメリカでは「ポスト・トゥルース」はすでに「リアル」と一体化してしまっているからだ(トランプはウソを言いまくっているわけではない、バンスが道化に過ぎないとしても「ヒルビリー」にも響いてしまっている)。

11月3日『ガザ・ストロフ――パレスチナの吟(ウタ)』上映後トーク2024/11/05

・サミール・アブダラ/ケリディン・マブルーク監督、2011年仏バ合作

*見てくれる人はごく少ないと知りつつ、いつもは一応ひとまとまりになるように書いている。今回は内容が今までに書いてきたことと重なることもあり、途中からメモ書きのまま掲示してしまった。それでも掲示したのは、この映画を配給しているグループの人たちがこのブログをときどき見てくれていたということ。そしてアフタートークでは用意していったことの半分も語れなかったということもあって、その埋め合わせに未完のままの草稿を掲示することにした。
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 この映画が日本で上映されるようになったいきさつの中に、すでにこの作品の意義とインパクトが織り込まれているが、それについては配給グループShkranの二口愛莉さん、大谷直子さんの対談(https://diceplus.online/feature/482)に譲り、ここでは、イスラエルによるガザ住民殺戮と抹消の作戦がもはや期限なしに続けられており(米大統領選までは)、過去の映画など観ている時間はないと状況が切迫する中でも、それでも古くないタイムカプセルのようにここに開かれた映像とことばが、何を開示してくれるかをだけ、記すことにしよう。それが映像とともに別の時間にいる人びとにも分かち合われることを願って。
 
 2008年12月27日、イスラエル軍がガザ地区を空爆・砲撃(イスラエルの安全を脅かすテロリスト集団ハマスを掃討するという口実で)、翌1月3日には地上軍が進行し、二週間で一応撤退した。この映画は直後にパレスチナ救援センターのスタッフとともにガザに入って、破壊の後に残された人びとの証言を集めてそれをもとに構成されたものだ。イスラエルはこれを「キャストリード作戦」と名づけ、当時としてはガザにおける最大・最悪の軍事侵攻だった。それでも部分的だったため、ガザの推定死者は約1500人(対してイスラエル市民は13人)だった。

 今日に較べれば、軽い前菜のようなものである。だが、この出来事をガザに生きる人びとは「黙示録」的戦争、つまり世界終末の「啓示」のように生きていた。ただし戦争といってもガザ武器も持たないガザ住民にとっては応戦することもできない一方的な攻撃で、彼らにとっては受難以外のなにものでもない(受難、この用語をユダヤ・キリスト教徒たちはバビロン捕囚や、とりわけイエスの刑死と殉教に宛ててのみ使うが)。
 この時には一応の停止があった。20日ばかりで天から火の玉が落ちてくる日々は終わったのだ。それを人びとは「勝利」つまり「平和」の回復として地獄の悲嘆と闇の空虚にあっても言祝ぐ。ただし、その脇からは、あと二回勝利したらガザには人間はいなくなるだろう、と笑う声が聞こえる。

 この人びとの声を聴いて、2024年10月の今、ガザの人びとは二度とこのような「勝利」を語れないように、終わりのない地獄(2000ポンド爆弾で口をあけたクレーターのように底の抜けた地獄)に追い落とされているのだということを知る。ネタニヤフの言う「ガザ最終戦争」とは、どれだけ雪隠詰めにされ押し潰されても、生きかえって子を産み育て、またオリーブの樹を飢えて生き続けるガザの人びとが、二度とこのような「勝利」を語ることができないよう口を封じ、命を封じるための、生きる人間の「絶滅戦争」なのだ(ちなみに、15年前ガザの人口は16、70万だったが、2023年秋には230万と言われた。ここは西洋型近代社会ではない)。
 15年近く前に作られたこの映像は、当時のイスラエル軍による侵攻がガザの人びとによって「世界終末戦争(ハルマゲドン)」のように生きられたことを伝えているが、その進攻は終末ではなく、さらにその先があったのだということを、今、観る者に思い知らせる。つまり、今起こっていることは、「世の終り」という「終り」の枠を突き崩して果てしない殺戮(あるいは抹消)に道を開いたイスラエルの国家的暴力の大氾濫なのだと。

 アメリカ(米国)はこの暴力の奔流に強力兵器を不断に供給し、西洋諸国はこの洪水を後押しし、周辺諸国もみずから濁流の氾濫に呑み込まれることを恐れて身を護りながらわずかに抗議の声を上げるだけだ。

映画の中で、オリーブの樹を植えイチゴを栽培する農夫は、空爆の合間に仲間の農夫たちと闇の中でわずかな電灯を囲んで語り合う。ペスト猖獗による「世の終り」を避けて田舎に籠り、この世の名残りに艶笑潭を語り合ったのはデカダンス貴族の『デカメロン』だったが、ガザの農夫は「神の勝利」の夢ではなくリアルを語る(吟ずる――じつは私は詩吟をたしなむ)。

ここで一言注釈しておけば、イスラームは〈神〉をユダヤ・キリスト教と分かち合っているが(アブラハムの信仰)、民衆のイスラームは人間の共同生活の基本的規範の維持とその儀礼化で成り立っている。だから西洋的近代化の圧力が巨大なブルドーザーのように土着の貧しいながらも素朴な生活環境を崩してゆくときに、彼らの生存の最後の支えがウンマ共同性であり、アメリカによるイランの強引な西洋化(当時は反共政策)が地域住民を路頭に迷わせたとき、それに対する抵抗と「革命」は、イスラーム革命になってしまったのである。ユダヤ・キリスト教は科学技術とそれをもとにした軍事力で「世界を変え」ようとする。そしてそれを「文明の進歩」「開花」と言う。それが「政教分離」で世俗化した西洋における「神の摂理」の合理化であり、他の地域の人びとの生き方を、遅れたとか愚かなとか野蛮だと蔑んで否定し、果ては悪魔化して「文明」という名の独善の暴力で破壊しようとする「西洋」の振舞いである。その自信の絶対性を象徴するのが核兵器であり、それで世界を屈服させようとする「抑止力」である。

それに対してパレスチナの人びとは、「無力」に、仕掛けられる「ハルマゲドン(最終戦争)」の後の「勝利」を信じる。その勝利の名こそ「平和」である。たとえ今の自分たちが死に果てても、オリーブの樹はまた生え、自分たちの子供たちもまたその樹に養われて生きる。それが「平和」であり、「神の勝利」だ。この地のイスラームとは、そのようなアラブの土着の民の不壊の希望を支える「信仰」、生活そのものの土壌なのだ(原理主義とは、近代のキリスト教原理主義の非人間的な攻撃に対する狂気の反動に過ぎない)。

―具体的に語ろう。今回は、米欧(西洋)がウクライナで「異教徒」退治に大わらわになる中、訴追逃れのネタニヤフ政権がヨルダン川西岸のイスラエル化を推進、それに危機感を抱いた抵抗組織ハマスが、イスラエルに未曾有の越境攻撃をしかけた。それが2024年10月17日。それを待ってましたとばかり「ホロコースト以後最大のユダヤ人の受難」と喧伝して、イスのネタニヤフは「ガザ最終戦争」を打ち出した。

 以来、すでに1年以上、封鎖されたガザ地区を破壊と殺戮と飢餓で消滅させようとするこの「戦争」は終わることなく、国連機関や世界世論のジェノサイド非難をよそに、イスラエルは戦線をレバノンにも拡大、イランを引き込もうとかけ引きする一方で、ガザ掃討を続けている。

 イスラエルは「ハマス殲滅」と「人質解放」が目標だと主張し、ハマスとの戦争だと主張するが、大規模な爆撃や砲撃で犠牲になるのは住民ばかり(それも女性・子供が6割以上、すでに4万5千人?の犠牲者)。そこで生きている(生活している)こと自体が悪いとみなされ、破壊の対象とされる。初めから水も電気も食糧も、医薬品も搬入遮断され、国連運営の学校・病院も避難所なればこそ攻撃対象にされる(保育器を出された赤子たち…)。何人死のうと(すでにインフラ破壊で生きられない状態)かまわない、そこにいるのが悪い、それがアメリカと共有する「テロとの戦争」の論理だ。

 メディアは「ハマスとの戦争」と言い、「停戦交渉」云々と言うが、イスラエルはその交渉相手であるはずのハマスの指導者を――国外にいても――次々に暗殺(爆殺)してゆく。はじめから「交渉」の意志などないのだ(「テロリストとは交渉しない」、それが「テロとの戦争」の論理)。
実際に起こっているのはどういう事態か?それは他所(ヨーロッパ)からの移住者が、土地を奪って建国し、先住民を追放(パレスチナ人の発祥)、それが居住権を求めて帰ってくると国家の安全を脅かすものとして殲滅しようとする、そういう専横国家の「先住民抹消」衝動の激発ということである。

映画でガザの人びとは何と言っているか?「どれだけ殺されても、我々はこの地を去らない、けっして売り渡さない」と。イスラエルはこの「最終戦争」で、かれらの「地上の天国」(自由の国)を築こうとしている。

イスラエルの国家暴力は「ホロコースト」を受けた民の国が「安全安心」を得る権利として主張され擁護される(米欧諸国のいう「自衛権」、しかし占領建国は誰が?)。
 だが歴史的な「ユダヤ人差別・迫害」は普遍的なものではなく、キリスト教ヨーロッパに特有のことだ(「ベニスの商人」から「マラーノ」そして東欧「ポグロム」まで)。

 そして「反ユダヤ主義」とは、その世俗化版であり、近代ヨーロッパ(ナショナリズム国家)の縮痾である。「国なき民」(ユダヤ人)への蔑視・憎悪、その果てがナチズムと「アウシュヴィッツ」だった。
 シオニストは聖書の記述にしたがい、中東パレスチナの地(シオンの地)にユダヤ人国家を作ろうとした。それを英欧は「ユダヤ人問題の最終的解決」として後押ししたのである。これで自分の縮痾(癒しがたい持病)を中東に移転させることができるということで。そして世界戦争が終わると、「イスラエル」建国、それは当時の英仏の中東管理政策にとってはやっかいだったが――石油産出アラブ諸国との関係で――、イスラエルはパレスチナ人の追放・抹消を強行(1948年、「ナクバ」)、それを追認せざるをえなかった。

イスラエル国家は、ユダヤ人が「国なき民(自由人)」であることを否定してヒトラーもうらやむ最強民族国家を作ろうとしたという点で、国家に帰属しないがゆえに受難の中でも豊かに育まれたユダヤ的伝統を、唾棄し嫌悪する傾向をもち、とりわけ新たに生れた「国なき民」パレスチナ人を恐れ憎悪する。
そのときから、パレスチナ人の長い受難とサバイバルの苦闘が始まった。
段階としては、冷戦下の中東戦争時代、そしてアラブ民族主義が米英に屈する冷戦後期(1974年エジプト離脱/軍事政権化以降)、さらに冷戦終結後のオスロ合意(1992年)以降、と国際政治の変容のなかで変化するが、社会主義圏の崩壊後、パレスチナ人の抵抗を支えるものはいわば土着のイスラーム共同体しかなくなる。それが民衆の生存の支えだったから。そこで抵抗運動はイスラーム化する。イランが後ろ楯と言われるのはそれ以後のことだ。

あとは駆け足でたどろう。
ヨーロッパ諸国(とくに英仏独)はアラブ・イスラームの側から出るイスラエルへ反発と抵抗を「反ユダヤ主義」として非難する。戦後ヨーロッパはナチスを倒したというのがEU諸国の正義規範で、国内では「反ユダヤ主義」の表明を法的に禁止している。だからと言って、「反ユダヤ主義」がキリスト教ヨーロッパの専売特許であることは消せない。ナチズムも近代ヨーロッパが生み出した鬼子だ。それをヨーロッパはイスラエルとともに中東に「輸出」して、アラブ・イスラームの「反シオニズム」を「反ユダヤ主義」と呼んで厄介払いしている。これに関する当のドイツの倒錯ははなはだしい(詳しくは市野川溶孝の諸論考を参照)。

アメリカはなぜ全世界から孤立してもイスラエルを擁護するのか?
 (対アラブ・イスラーム管理政策、ユダヤ人ビュローの要求もある…、メディアの言)
 しかし根本は、イスラエルの「戦争」がアメリカ国家の「建国」原理と基本的に同じだから。
 ピルグリム・ファーザーズ以来のアメリカの建国神話は以下の通り――
本国(英)での宗教弾圧―→信仰の自由を求めて大洋越え「エグゾダス(出エジプト)」―→「新しいイスラエル」、「(世界が仰ぎ見る)丘の上の町を創る」(J・ウィンスロップ)

土地を私的所有権の下に置き、先住民を「無権利者」として締出し、抗議や反抗を野蛮な暴力として制圧、所有権制度、建国から100年足らずで「フロンティア消滅」
先住民抹消の上に白紙(自由)の大地を不動産・資産化、自然収奪・社会の産業化、
黒人奴隷の導入―→世界一の産業国・消費国・軍事大国へ=「自由の帝国」
これがアメリカ合州国(United States of America)@新世界
ヨーロッパ方式:征服・植民地支配、アメリカ新方式:先住民掃討・自由の新世界
*前者の征服支配の「民(私)営化」から後者が生れる。
(以上、『アメリカ、異形の制度空間』を参照のこと)

だとすると、「イスラエル」は世界戦争後に中東に作られた新しい「小アメリカ」
 むしろ「先祖返り」の新国家(ともに旧約聖書:ユダヤ・キリスト教にもとづく)
 冷戦後、国家(連合)的「敵」を失ったアメリカは非国家的「敵」を名指して戦争
 =「テロとの戦争」
 イスラエルはこれに合流して「先住民掃討・絶滅」を正当化。
 追われた先住民の反発や抵抗は国家の「安全保障」の敵―→根絶へ
 アメリカはそれをイスラエルの基本権として承認(トランプもバイデンも)

―この映画の語り手たちは、このような国際歴史状況に巻き込まれていることを知悉
 だが、求めるのはイスラエルの滅亡でも何でもなく、ただ「平和」、人びとが共に(多少はこづき合いながらも)生きてゆける「平和」。
それが彼らの祈る「神(アッラー)」の真の名←―西洋キリスト教世界(政教分離社会)による癒しがたいイスラーム偏見。
 「ガザ最終戦争」「ハルマゲドン」はユダヤ・キリスト教の『聖書』にしかない。
 彼ら(西洋ユダヤ・キリスト教徒)にとってはその後に「神の国」が降臨するが(=ガザを「中東のドバイ」にする計画!)
 パレスチナの人びとにとっては、またオリーブの樹(私たちの糧)が生える。それが彼らの「神(アッラー)の栄光」。

[参考文献]
・マフムード・ダルウィーシュ『パレスチナ詩集』(四方田犬彦訳、ちくま文庫、2024年)
・西谷修『アメリカ、異形の制度空間』(講談社メチエ、2016年)
・西谷修対談集『いま「非戦」を掲げる』、「非戦争化する戦争」(青土社、2018年)
・西谷修『戦争論・R・カイヨワ、文明という果てしない暴力』(NHK出版、2024年)

「ガザ殲滅戦」の最終段階_国連機関UNWARの締出し2024/11/02

 10月29日、イスラエル国会はUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)のイスラエル国内および占領地東エルサレムでの活動を3カ月間禁止する法案を圧倒的多数で可決した。
 イスラエルが言う「国内」とは、国際的にバレスチナ自治区とされているガザ地区とヨルダン川西岸を含む(国連も認定)。

 今、ガザ地区ではすでに1年以上イスラエルによって生活インフラを遮断され、度重なる猛爆撃・地上軍進攻で、学校・病院も破壊され、5万人近くが死に、埋葬もできない(墓地も破壊された――米国の供給する2000ボンド爆弾でできるクレーターがそのまま墓穴だ)。その中で180万人近くが日々飢餓線上にいるが、その救援活動を担っているのがUNRWAである(他の支援組織の活動も国連機関であるUNRWAがイスラエルとの間――検問通過などを仲介をする)。

 UNRWAは国際社会の意志でバレスチナ難民救済のためにすでに半世紀以上活動している。イスラエル国家が生み出した難民の救済だとしたら、本来はイスラエルがすべき事業だ。
 そのUNRWAの活動を禁止するとはどういうことか?具体的にはあらゆる救援の道を断って、すでに1年以上戦火と飢餓に苦しむ200万のガザ住民(壁で封鎖され検問所も閉ざされて外部に逃げることもできない)を、このまま瓦礫の荒野の中で死なせろ、ということだ。

 ただでさえガザは「天井のない強制収容所」だと言われてきた。絶望的な状況の中で、子供たちさえイスラエル兵に石を投げるようになる。するとイスラエルは反抗奴隷を制裁するかのように、封鎖を強化しアメリカがふんだんに供給する爆弾の雨霰を降らすのだ。「イスラエルの不朽の栄光」の名のもとに。
 これが国際人道法を蹂躙する独善国家の暴虐である。遠回しにそれを指摘する国連関係者に、イスラエルは繰り返し辞任を要求する。アメリカはそれを黙認支援する(そして国連改革が必要だと主張する――イスラエル・アメリカが国際社会の基準となるように)。

 イスラエルによる今回の国連支援機関の締出しは、この「例外国家」の傲慢な倒錯を映し出している。これはイスラエルの国内法だ。その国内法は国際法(国際社会)の要請を「禁止」する。そしてその効果は国内パレスチナ人(難民)の集団殺戮(野垂れ死に)、いわゆる「民族浄化」である。
 それをアメリカは後押ししている(一年で二兆五千億円分の砲弾・巨大爆弾・誘導ミサイル供給――両国の首脳が誰であれ変わらない、それが両国国家の姿勢だ)。

 ともかく、イスラエルの「ガザ殲滅戦」は最終段階に入った。世界は200万パレスチナ人の強制的な飢餓野垂れ死にを目前にしているのである。それが「ハルマゲドン」後に訪れるとされる「ユダヤ・キリスト教のパラダイス」だ――イスラエルの示す「10年後のガザ復興計画」を見よ。