アメリカ原理時代の終焉と"脱西洋"の新しい時代――グローバル化による破壊と混迷を立て直す力(下)2023/12/23

★「ガザ最終戦争」とアメリカ

 アメリカがグローバル・レジームとして打ち出した「テロとの戦争」を真っ先に歓迎したのが、他でもないイスラエルだ。当時、第二次インティファーダ(民衆蜂起)で、ガザだけでなく、ヨルダン川西岸でもイスラエル占領軍に対して石を投げて抵抗するパレスチナの民衆を軍事弾圧していた。
 ブッシュ宣言に意を強くした当時のシャロン首相は「まさにわれわれがやってきたのがテロとの戦争だ」として、パレスチナ民衆の軍事制圧を正当化した。自分の安寧秩序を脅かすものは「絶対悪」であり、抹消する権利があるという論理だ。これでムスリム団体出自のハマスを堂々と駆除できるようになり、ハマスの戦闘員を生み出すガザの住民たちは「テロの温床」として壁に閉じ込められ、いつでも爆撃されるようになった。
 この「テロとの戦争」から、アメリカ軍中央司令部による日々の戦果発表は「テロリスト〇〇人殺害」と報じられるようになる。それによる一般民衆の被害すらも「コラテラル・ダメージ(副次的被害)」として、やむを得ないものと規定される。テロリストを匿ったりする者は「人間の盾」であり、ぶっ飛ばして当然というのが「テロとの戦争」だ。そしてこの戦争は、目標が「敵の殺害」であることを隠さない。
 今まさにイスラエルはそれを対ハマス「最終戦争」、ガザ最終戦争としてやっている。戦争犯罪の代名詞である「ジェノサイド(大量虐殺、集団殺戮)」とは、ラテン語の「人種」と「殺害」を意味する言葉を組み合わせて生まれた用語だが、語源の「ジェノス」には「生まれてくる者」「生まれをともにする者」という意味がある。つまり、放っておくと大きくなってテロリストになるから、サナギのうちに全部焼いておくというのがジェノサイドだ。それが病院攻撃だ。
 「ハマスの殲滅」とは、ガザの全滅を意味する。それは国家同士が衝突する「戦争」などでなく、国家なき難民の居留地の殲滅作戦でしかない。実際、イスラエル軍は米軍関係者との非公式協議で「アメリカは日本を降伏させるために広島と長崎に原爆を落としたではないか」といってガザ完全破壊を正当化し、それを実行に移している。
 そして、アメリカはあくまでイスラエルを擁護し、支持し続ける。今でこそ抑制的にはなっているが、それでもイスラエルの戦争を止めることなく、国連安保理の停戦決議にも一貫して反対し、拒否権を行使する。
 その理由について、メディアの解説ではいろいろ取り沙汰される。アメリカのユダヤ人コミュニティの圧力とか、ナチスから守って作らせた国だからとか…。冷戦下でイスラエルは石油地帯であるアラブ諸国に対する押さえとして、西側の橋頭堡でもあった。だが、今回のように、イスラエルの「戦争」が、国際社会の大半の支持を失っても、アメリカはイスラエルの「自衛戦争権」を支持し続けている。それはアメリカの基本外交姿勢だと受け入れる前に、それはなぜなのかを問うてみる必要がある。

★先住民の殲滅

 一つは、先述したようにイスラエルが遂行しているものが、アメリカ自身が「新世紀」のレジームとして打ち出した「テロとの戦争」だからである。相手は「テロリスト」であり人間ではないのだから、秩序の保持者がなんとしてでも殲滅する。相手は国家ではない不法な武装集団だから、国際法など意味がない。地の果てまでも追い詰めて抹消する――それを文明の名において行うのがアメリカが唱える「テロとの戦争」だった。(これが二〇年かけて最終的に失敗し、アメリカはアフガニスタンから撤退するのだが、敵をテロリストと名指しする習慣はとどめ、法的保護の外において、他の国々がそれに追従している)。だからアメリカは今さらイスラエルのやり方を批判できない。
 だが問題の根はもっと深い。実はイスラエル国家の成り立ちは、アメリカ合衆国とまったく同型なのだ。イスラエルは、欧州で迫害されたユダヤ人たちが旧約聖書を根拠にしてパレスチナの地につくったものだが、アメリカの場合は、イギリス本国で迫害されたピューリタン(清教徒)が、信仰の自由な地を求めて大西洋を横断し、アメリカ大陸に入植してできた国だ。彼らにとってキリスト教徒がいないということは、誰もいないのと同じだった。「自由の地」とは彼らにとってのフリー・ゾーンであり、土地所有の観念のない先住民を塀を作って追い出し、弓しかもっていない彼らを撃ち殺し、「在ったものを無かったこと」にして創った「新世界」だ。
 これを二〇世紀の現在、再現しているのがイスラエルだ。イスラエルはホロコーストの犠牲者であることを誇示するが、反ユダヤ主義やユダヤ人差別というのは、欧州のキリスト教世界の縮痾である。だが、アラブの地にイスラエルという国をつくったためにユダヤ人のような「国なき民」を膨大に生み出し、今度は彼らを「テロリスト」と名指して根絶する。「二度と潰されないユダヤの国」をつくると主張し、それをイスラエルの根拠にしたことによって、ユダヤ人、流浪の民であるということを徹底的に否定する。これは自分自身への敵対にほかならない。これを世界史上最大の倒錯と言わずしてなんだろうか。
 今、世界中のZ世代が、ガザの状況を目撃して「イスラエルはジェノサイドやめろ!」「パレスチナのために!」とデモをしている。各国の為政者たちはあたふたし、フランス政府はこれらのデモを反ユダヤ主義だといって禁止した。だがこれこそが倒錯である。反ユダヤ主義というのはヨーロッパがやったことであり、パレスチナ人の抵抗はまったく別のレジスタンスだ。そのことがZ世代にはよくわかるようだ。
 だがアメリカは絶対にイスラエルを擁護する。なぜなら、パレスチナ人(先住民)を抹消して更地にし、そのうえに「自分たちの自由」の領野をつくろうとするイスラエルを否定することは、アメリカ国家自体の存在の根拠を否定することになるからだ。アメリカの「原罪」を語るなら、それは奴隷制や黒人差別の歴史ではなく、先住民の抹消である。広島・長崎の原爆を落とし、その後もそれを誇示して世界に君臨しようとするアメリカは、この先住民の殲滅を認めざるを得ない。

★西洋化を拒否する第三世界

 ヨーロッパの世界史展開における植民地征服のやり方は、自分の力を誇示し、戦えば死ぬことを相手に悟らせ、いうことを聞かせて奴隷にする。そして、主人(欧州)は働かずして奴隷に働かせてもうけるというものだ。これをヘーゲルは「主人と奴隷の弁証法」といった。主人は富をつくるための労働をせず、奴隷に依存しているが、奴隷は労働によって自立する。それによって権力は空洞化されるというパラドックスを説いた。そのような欧州諸国の世界進出は、主人同士が競合し、常に争い、新興国との間でも矛盾が起きて欧州全体の戦争を招いた。これが「西洋の没落」といわれ、そこから反省が始まる。
 だが、「老害たち(欧州)のような面倒なことはやらない。我々のように根絶やしにすれば自由は盤石なのだ」というアメリカがグローバル化の盟主として登場した。それを現代に象徴しているのがイスラエルであり、その最終段階として、「先住民」の根絶を堂々とやろうとしている。これまで欧州が避けてきたこと、覆い隠してきたことを身も蓋もなく演じるイスラエルにアメリカは慌てている。
 だが、多くの国は気がつき始めた。このレジームは、「先住民」を根絶することで自分たちの文明を押し出してゆくというものだ、と。だから「第三世界」と呼ばれる国々、欧州の植民地化を受け、アメリカの裏庭にされて、破壊と収奪をし尽くされてきた地域の人々は、このレジームを礼賛できない。その手の内が見えるからだ。
 現在のいわゆる国際法や国連体制は、欧州による世界戦争の反省と自覚からでてきたものだが、第三世界の国々はこれが自分たちを守ってくれるものだとわかっている。欧州の自己制約から生まれたものだからだ。だがアメリカは、それを古いものとして「テロとの戦争」を先導する。しかし、自分たちはまさにそのような破壊を生き延びてきたのだという自覚のある地域の人々は、それにはついていかない。さまざまな意味でのサバイバーたちが、それを今はっきり表明し始めている(地球温暖化についても同じだ)。
 対ハマス最終戦争は、この転換を画す世界史上の出来事だ。あったものをなかったこと(更地)にして新世界を創る――これをアメリカ原理というとすれば、アメリカ原理の終わりの時代だ。アメリカという「新世界」ができて以来、その「新世界」とは人類の歴史にとって何だったのかということが問われる事態を呼び出している。

★世界史の節目となる変化

 一般的な国際関係の議論のなかでは近年、アメリカ単独主義が多極化によってそうはいかなくなっているという言い方がされたり、中国との関係も同じ文脈で語られ、「米中対立」などと言われる。だが、明治日本の「脱亜入欧」の時期から、中国は日本と欧米に徹底的に食い尽くされ、それをはね除けたら今度は共産主義だからといって封鎖され、封鎖が効かなくなってアメリカが中国を承認した後も、ずっと敵視と封じ込めの対象だ。
 しかし、グローバル経済のなかで、中国のGDPが数年後にはアメリカを超えることがほぼ確実なものになった。アメリカはこれが許せない。なんとしてでもこれを妨げ、遅らせることがアメリカのその後の国家戦略になる。だから、五〇年前に台湾の国民党政府を捨ててでも中国とやった「国交正常化」などなかったかのように、常に中国を悪者にし、ふたたび台湾を足場に挑発する。それはかえってアメリカの危機感を露呈させている。
 ウクライナとロシアの戦争についても、欧米はロシアをグローバル経済から切り離して封じ込めようとしたが、経済制裁とは「持つ者」が「持たざる者」を絞め上げるもので、経済や資源が「敵」に依存していれば、制裁する方の首が絞まる。
 アメリカには余裕があっても、欧州や日本などは完全に首が絞まる側であり、エネルギー危機、物価高、経済変動という混乱になっている。すべて対ロシア制裁の結果だ。アメリカはついにノルドストリーム(ロシアの天然ガスを欧州に供給する海底パイプライン)の破壊までやったが、ロシアはもう「助けてくれ」とはいわない。
 付言すれば、日本でもウクライナ戦争について「小国に対する専制主義国家の侵略」というアメリカとメディアが作ったフェイクに乗る風潮が吹き荒れたが、すでに明らかなように、係争地である東ウクライナはもともとロシア語話者が多く、マイダン革命以降に政権をとった西ウクライナにとってはお荷物であり、そこですでに「エスニック・クレンジング(民族浄化)」が起きていた。
 二〇一四年からいわゆるアゾフ大隊(民兵団)がひどい住民殺戮をやってきたし、その記録は国連報告にも残っている。そんなことまで無視し、口を拭って、ロシアの一方的な侵略と言い募り、「ゼレンスキー頑張れ」というが、そのゼレンスキーは今回真っ先に「ネタニヤフ頑張れ」とイスラエルの蛮行を支持している。これがすべてだ。
 トルコやインドなどこれまで散々好きなようにやられてきた国々はむしろロシアを守る。中国は大国の自覚から表に出ないようにしているが、上海条約機構や一帯一路などで着実にそれぞれの国々を繋げていく。その結果、ウクライナ戦争でロシアを孤立させようとした米欧側が孤立してしまった。
 だから、米欧は「グローバルサウスを味方に付けなければいけない」などと今ごろになって言い始めたが、もはやこの地域はついていかない。アメリカの統治・ヘゲモニーからの、それぞれの地域の自立を目指しているからだ。国と言わず地域と言うのは、これらの国は、欧州が机上で線(国境)を引いて分割したことによって独立させられたのであり、国になる自然根拠はない。中にさまざまな問題を抱えながらも、それを受け入れてやってきたが、米欧が一度でも助けてくれたのか、ということだ。そういうこともウクライナ戦争で炙り出された。

★ラテンアメリカ 先住民復権

 第二次大戦から八〇年、何千万もの犠牲を出して作り出してきた人類の「遺産」をご破算にするアメリカの「歴史修正主義」は、この二つの戦争の失敗によって崩壊しかけている。欧州、アメリカによって二重に起きた「西洋の世界化」が破綻しているわけだが、それを何が破綻させているかといえば、世界各地で起きている先住民族の復権だ。
 西洋の圧倒的な力で上から覆われ、ブルドーザーで生活形態を刈られながらも生き延びてきた人たちこそが、「瓦礫の中に残った世界で人はどう生きるか」ということを体現している。それがイスラーム地域であり、パレスチナであり、インドやトルコで起きていることもそれを示している。
 それが近年もっとも典型的に表れているのが、「アメリカの裏庭」にされてきたラテンアメリカだ。キューバせよ、ベネズエラにせよ、世界史的な状況の中でマルクス系の社会主義理念を掲げざるをえなかったという事情はあるが、結局キューバを守ってきたものが何かといえば、あそこに残ったクレオール世界の自足的な自立なのだ。封鎖されていなかったらもっと外にと開いていけたはずだが、アメリカによって事実上七〇年間、経済封鎖を受けている。
 だが近年、アメリカのキューバへの経済制裁解除を要請する国連決議が圧倒的多数で成立するほど、欧米諸国の植民地支配を受け、独立してからもその軛(くびき)を負わされてきた国々は米欧の独善を受け入れなくなっている。
 またボリビアは、インディオスの先住民系住民の割合が多く、近年は国の主要な役職に女性(国会議員の約半分が女性)が多く就き、新しい国の方針や精神的な検証を出している。その中心はインディオ(先住民族)の復興だ。欧米の植民地化によって殲滅されたが、この二〇〇年の世界史の波を被り、なおこの先どうしていくかを考えたとき、やはりインディオの生き方で現代社会を再編していくことではないか――そういう長期を見据えた方向性を国が示している。
 西側から「左翼」のレッテルを貼られるモラレス元大統領も先住民系であり、新自由主義に対するたたかいにおいて先住民復権を掲げた。それでもアメリカはCIAを使って何度も潰そうとしてきた。今回のガザ侵攻に関してボリビア政府は、イスラエルとの断交を表明している。この動きは、南アフリカでも共通しており、グローバルサウスと呼ばれる世界の半分以上を占める地域で同様の変動が今後さらに加速するだろう。
 アメリカ原理の時代の終わり――世界はようやくそれを告げようとしている。だが、それを受け入れないアメリカはさらに攻撃的な自壊へと突き進もうとする。これが現代世界の混迷の由来である。
 日本人のわれわれとしては、長らくの「脱亜入欧」の悪癖を捨てて、サバイバーたちが編成し直す「脱西洋」の新たな世界に参画すべく努めないといけないのではないか。

(長周新聞 2023年12月18日付 https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/28554

アメリカ原理時代の終焉と"脱西洋"の新しい時代――グローバル化による破壊と混迷を立て直す力(上)2023/12/23

(長周新聞 2023年12月18日付 https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/28554
 
 ウクライナとガザ――世界を巻き込む二つの戦争が錯綜して進行するなかで、私たちはどんな世界を生きているのか、日本に生きる私たちはそれをどう把握し、新しい時代を展望するか。地理歴史的な世界の展開の現在地における自分と世界の認識を、私なりの観点で照らし出してみたい。
 結論的にいうと、二〇世紀はアメリカの世紀であり、戦争の世紀あるいは戦争と革命の世紀といわれた。それは世界中に戦争が広がったからだが、それは常に欧州から始まり、それによって世界は一つになった。これには二段階あったが、まずは欧州諸国による世界の植民地化、それが破綻するとついで起こったのがアメリカ統治原理によるグローバル化だ。いまはその二度目の「西洋化」が破綻する時代になっているといえよう。
 西洋諸国の世界展開で、世界の多くの場所は植民地化され、そうでないところに、もともとの生活や習俗をすてて近代化=西洋化し、近代の諸価値、とりわけ、豊かさや富を生産する産業経済システムを支える諸価値が旧来の社会を大きく変えるようになった。植民地化されたところは、西洋諸国の繁栄や発展のために、人も資源も社会的資産も獲り尽され、荒廃した砂漠、世界の貧困地帯として残った。
 近代以降の日本は、西洋化の圧力のなかでみずから西洋を試み、西洋的世界システムの中でのプレーヤーたらんとしてきた。西洋化の波に呑み込まれるのはまずいが、この流れに乗っていくしかないということで、中央集権国家を作り、殖産興業や富国強兵をやり、食いつくされる中国などを尻目に、「脱亜入欧」に突き進む。遅れたアジアを脱し、西洋に合流するということだ。そして事実、無理して二度の対外戦争をやり、開国半世紀後には二つの植民地を得て「アジアで初の植民地帝国」となる。アジアは西洋諸国と争って食い尽くすべき素材なのである。
 だがその頃、ヨーロッパでは、それとは知らずして始めた戦争が欧州全体を呑み込む第一次世界大戦になってしまい、それが四年間も続くなかで混乱を極めた。そこから、これまでのように力の論理で奪い合う戦争をやっていては、世界に冠たる文明を誇る西洋そのものが自壊し、没落してしまうという反省が生まれる。だから戦後初めて、戦争が罪悪視されるようになり、不戦条約の試みや軍縮交渉を始めるが、日本は「そんなことは知らない。自分たちはこれからだ」とばかり征服や拡大の方針を突っ走ることになる。
 米国もそれまでの欧州の世界進出にともなう植民地戦争に深くは関わっていない(むしろ「解放」してきた)。欧州混乱の体たらくを見て、調停機関である国際連盟を作るが、そこに米国自身は入らなかった。「古いヨーロッパはこれでやれ。俺は知らない」とばかり。
 そして一九二二年、社会主義ソ連が誕生。欧州諸国の抗争で一番打撃を受けたところから、恨みの怪物のようにしてナチズムが出てくる。そこから始まった世界戦争(第二次世界大戦)は、アジア・アフリカの植民地も全部ひっくるめておこなわれた。その最後に登場した核兵器は、それまでの戦争を不可能にした。戦争は相手を負かして、いうことを聞かせてものを奪うものだったが、原爆を落せば何も残らなくなる。原爆は、戦争を不可能にさせる事実上の「最終兵器」となった。

★「西側」とは何か?

 第二次大戦を終わらせたのは、一度も戦争に懲りていないアメリカだった。アメリカはただちにソ連と核を掲げての冷戦に突入する。ここからはイデオロギー戦争の時代だ。
 建国以来アメリカは、私的所有の上に「自由」をつくる国だった。ヨーロッパのように、住民を奴隷にして自分が主人になるというような面倒なことはしない。先住民(インディアン)を追い出し殲滅して、それで「誰もいない土地」を作り出し、そこに不可侵の私的所有権を設定し、それを基盤に「持てる者の自由の国」(J・ロック)をつくるのだ。
 一方のソ連は、私的所有の廃止を掲げる。それが現実的にどのような社会制度を生み出したかは関係なく、私的所有を考え方として否定する。この不倶戴天の敵同士による冷戦は、世界に拡大し、植民地独立闘争も巻き込んで「所有の自由vs社会統制」のイデオロギー戦争となる。
 この東西の冷戦は、ソ連の自己解体によって終わる。いわゆる「自由・民主主義」を掲げた「西側」が、壁の向こうの強権と専制の「東側」(社会主義圏)を解体し、その諸要素(人・モノ・組織)を自由市場に「解放」して、一九九〇年以降のグローバル化と呼ばれる時代を開いた。解体された東欧・ソ連では、西側の市場原理が導入され(IMFや世銀の構造調整が入り)、旧体制の特権層が国有財産を私物化して富裕化する一方、一般の人々は泥沼のなかに打ち捨てられる形で塗炭の苦しみを強いられた。
 これにより世界は「西側の原理」でグローバル化する。だが、対抗勢力がいないのだから、それがそのまま世界のスタンダードとして浸透し溶け込んでいくかといえば、そうはならなかった。
 そもそも「西側」とは何か?米英語では「ウエスト」といわれるのが常だが、元はラテン語由来の「オクシデント」だ。日本語では西洋と訳されるもので、ここには米国も含まれる。米ソ冷戦の東西区分は、ヤルタ会談で決められた欧米とソ連との影響圏の分割によるものだが、実は歴史宗教的にみれば、キリスト教世界を東西に分けたローマ・カトリックと東方正教との境界とほぼ重なっており、さらに遡ればローマ帝国の東西分裂が元になっている。欧州は二〇世紀前半までは世界史の一つの「主体」領域だったが、世界戦争以降は「新しい西洋」としてアメリカが台頭し、アメリカはソ連とのイデオロギー戦争も「西洋(西側)」の名の下に行った。そのため欧州はそこに組み込まれざるをえない。冷戦後も米国は、欧州とロシアの関係が修復されることを阻むため、ワルシャワ条約機構の解体で存在意義がなくなったはずのNATO(北大西洋条約機構)を維持し、欧州を米国に繋ぎ止めるための鎹(かすがい)とした。だからその後、NATOを東方拡大して対ロシアの圧力として使うのである。それはじつは欧州をも困らせている(ロシアと協力できない)が、ウクライナ戦争の淵源も明らかにここにある。

★イスラム世界とイラン革命

 アメリカ的体制、世界統治を拡大していくためには常に敵が必要となる。「敵の殲滅」を掲げることで軍事力も経済力も維持でき、それによって世界を制することができる。社会主義崩壊の後に、次なる敵として名指ししたのがイスラームだった。
 九〇年代以降、世界のグローバル化において、それに異を唱えるものは全部「テロリスト」とされ、抹消の対象となった。その発端となったのがイラン革命(一九七八年)だ。
 イラン革命とは、単にイスラームが政治化して神権政治をつくったというような話ではない。この二〇〇年来の西洋の支配とは、一つは資本主義、もう一つは社会主義だ。双方とも西洋から持ち込まれ、社会を西洋的に世俗化し、合理的な人間統治をするという考え方だ。それが植民地化とか信託統治領という形でアラブ・イスラーム世界をずっと圧迫していた。
 当時のイランは、皇帝の血筋であるレザー・シャーが、アメリカの全面サポートで強引な近代化を進めていた。アメリカにとっては中東の石油地帯を掌握するためだ。だが、それは徹底的な独裁近代化路線であり、都市部が近代化して華やかになる一方で、取り残された農村地域では飢餓や貧困が蔓延する。そのとき、誰からのサポートも受けることのない彼らの生活や日常生活の意識を支えてきたのが、イスラームの共同体だった。
 イスラームには、キリスト教のように政教分離という考え方はない。政教分離とはキリスト教独自のもので、プロテスタントが生まれて宗派対立が激しさを増したときに、宗教はそれぞれの心の中で信じればよいのだから、そこに相違があっても公共領域である政治に持ち出してはいけないという考え方としてつくられた。それを世俗化という。つまり、政治は世俗の欲と原理で動けばよく、合理的に考えてもうまくいかないときには教会で懺悔すればよいというものだ。
それはイエスが神と人間との仲介にあるというしくみとも重なっている。アウグスティヌスが「神の国」「地上の国」と説いた両世界論がキリスト教の根幹だ。「地上の国」は欲や罪にまみれた世界だが、そこに啓示の光が蜘蛛の糸のように垂れると「神の国」に目覚めて信仰するようになる。その恩寵の光にあずかったときにこそ人は悔い改めて天国に行ける。あらゆる人間がこの神の啓示に目覚め、恩寵の光に照らされて信者になれば、地上に「神の国」が生まれたのと同じだという考え方だ。
 だが、イスラームはそうではない。神は隔絶しているから、この世(世俗)のことは人間が責任を持つ。世俗のことを神の責任にするのは罰当たりであり、世俗のことは人間がやるという考え方だ。「アッラーフ・アクバル(アッラーは最も偉大なり)」というのは、神に助けを乞うというものではなく、神が自分たちを罰しようが見捨てようが、それは偉大な神の力であって仕方がない。そういう世界の下にわれわれは生きているのだから、すべては神に委ねている。そして世俗で生きることが神の掟に従って生きることなのだ。
 だから世俗のことは人間が共生しておこない、日々そのように生活することが神への奉仕となる。だから貧者には喜捨しなければならないし、富める者は助ける。お互いに助け合わなくてはいけない。
 そもそも苦しいとき助け合う共助精神がなかったら、貧しい地域で人は生きていけない。そのように生活し、助かった人たちは「神は偉大だ」といって生活する。だから、彼らにとってムスリム(神に帰依した人)であるということは、十字架を掲げるとかそんなことではなく、毎日お茶を飲むようにみんなと共同して生きるという生活様態そのものなのだ。
だからイスラームは習俗化するのである。
 そこに近代化と称して西洋から資本主義や社会主義がやってきて、どっと一元的な体制を敷かれると共助のしくみも壊れてみんな生きていけなくなる。そういう目に散々あって来ているから、アメリカ傀儡のシャー体制に立ち向かったイラン革命では、人々は米国製の戦車に撃たれても撃たれても立ち向かっていく。一回のデモで二〇人殺されると、次には倍する人数が出てきて、二〇〇人死ぬとまた倍する人数が田舎からも続々と出てくる。そして、ついにシャー体制は崩れる。
 そのときの指導層には、マルクス主義者やトロキツスト、欧州的民主主義者もいたが、追放されていたアーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー(シーア派指導者)がフランスから帰ってくると大衆は熱狂し、結局イスラム集団が権力をとった。それがイラン・イスラーム革命だ。
 イラン革命は、資本主義か、社会主義かという話ではなく、一五〇年間の西洋的近代化(西洋の支配)によって生活やモラルの基盤まで全部が崩され、きわめてポルノグラフィックな消費的文化にとって替えられるなかで、生活を崩されてきたこの地域全体の人たちが、壊されてきた自分たちの生活、つまりイスラームこそが「俺たちの生活だ」ということを表明し始める転機となる出来事だった。

★「テロとの戦争」

 先述したように、イスラームは本来、政治運動でもイデオロギーでもないが、西側からの弾圧、抹消の対象となる。典型的なのがエジプトだ。エジプトは四度にわたる中東戦争の結果、イスラエルと和解する代償として軍事政権になった。だが、それを実行したサダト大統領はイスラム過激派青年に暗殺される。そこから権力を継承したムバラクは、サダト暗殺直後から二〇一三年の「アラブの春」まで三〇年間戒厳令を敷いた。そのもとでおこなわれてきたのは、イスラーム意識をもって生きていた民衆、そこから生まれた政治勢力(イスラーム同胞団)の徹底的な弾圧だった。
 この時代に弾圧によって、この地域の生活様態にすぎなかったイスラームは「イスラミズム(イスラム主義)」と呼ばれる政治運動を生み出す。そこから出てきたのが、後にアルカイーダの指導者となるアイマン・ザワヒリだ。彼はエジプトの牢獄に入れられ、エジプトのこの現状を生んだ元凶はアメリカであり、アラブ世界でイスラーム勢力を徹底的に潰したアメリカであるとして国際旅団(ジハード団)を組織し、その後ウサマ・ビン・ラディンらと繋がっていく。
 この時期、中東全域のイスラーム化が起きる。それは過激化したテロリストたちが登場したということではなく、イスラームを基盤に生きてきた民衆が、自分たちの意思や好みを堂々と表明するようになり、選挙で必ずイスラーム勢力が勝つほどそれが席巻していたからだ。だが西側は、その選挙を「無効」として認めず、軍隊まで送り込んで弾圧する。
 そして二〇〇一年、日本では「同時多発テロ」と呼ばれる「九・一一」が起きる。その直後からアメリカは「テロとの戦争」を宣言し、アフガニスタンやイラクに一挙猛爆撃で潰しにかかる。これまでの戦争は少なくとも国と国がやるため、お互いの言い分が言い合えるし、国家の軍事力に直接関与しない市民は守らなければならないなどの約束事(戦時国際法や国際人道法)があった。これは欧州の近代がつくってきた戦争のルールだ。
 だが、アメリカは「そんなものは古い」とし、相手はもはや国ではなく、テロリスト=見えない敵であり、われわれが「テロリスト」と認めたものは徹底的に爆撃して殺してよいという新しいレジームをつくった。しかも相手には当事者能力を認めないから、交渉などしない。こんな「戦争」は近代以降かつてなかった。
 つまり、最先端の武器やテクノロジーをもった力のある国が、敵と名指しした者を虫ケラのように踏みつぶしていく――ただそれだけだ。こんなものは戦争とはいえないが、それがあたかも新しい時代の戦争であるかのように喧伝され、「非対称戦争」などと概念化までされるようになった。それ自体、壮大なフェイクである。

「ハマス問題の最終的解決」とイスラエル国家――なぜ、アメリカは支持するのか?――2023/11/29

  10月7日のハマスによる最大規模の越境攻撃以来、イスラエルは「国家の安全」を脅かしたハマス撲滅を掲げてガザ地区を完全封鎖し、生活インフラである電気・水・食料も断って大規模な空爆を開始し、ガザの「人道状況」悪化を訴える支援機関の抗議や国連総会での停戦要請決議などを無視して、2週間後には地上侵攻も始めた。連日の空爆ですでに一万人以上の死者が出ているようだが、家を失った人びとが身を寄せる学校や病院なども、ハマスの地下基地があるということでむしろ攻撃の主要標的にされる。31日には10万人以上が登録するガザ北部のシャバリア難民キャンプが爆撃され、50人以上が死に多数の死傷者が出た。イスラエル軍はこの空爆で7日の攻撃の首謀者を含む多数のハマス軍事部門幹部を殺害したと「戦果」を発表、一般の被災者については「退去を催告済み」と取り合うそぶりもない。

 10月末にガザ最大のシファ病院が攻撃されると、通信の遮断にもかかわらずAFPやアルジャジーラの独自回線で、保育器が使えない新生児がシーツの上で弱ってゆく光景も全世界に放映され、すでに15000人と言われる死者のうち6000人以上が子供という状況に、国連のグテーレス事務総長も「ガザは子供たちの墓場になっている」と悲痛な訴えをする。エジプト国境のラファ検問所からようやく支援物資が運び込まれるようになったが(国連が必要だとする量の10分の1)、それを配布する施設に群衆(難民)が押し寄せ、乱取り状態になって閉鎖せざるを得ないという。「秩序崩壊」と言うが、ガザ地区は人間として生きられる場所ではなくなっているのだ(それをイスラエルは「人間獣」と呼ぶ)。もはや限界を超えて助けようにも組織的支援さえできない、まさに飢餓と混乱の地獄である。

 イスラエルのネタニヤフ首相は「戦争」継続をあらためて表明する。ハマスのロケット弾の攻撃で1200人の死者を出し、キブツ襲撃では200人の人質まで奪われた。これは建国以来の危機だとして、この機会にイスラーム組織ハマスの殲滅、「最終戦争」を打ち出している。
 
 
○「戦争」ではなく難民居留地の殲滅

 だが、これは「戦争」とは言えない。パレスチナ人は国家をもてず、とりわけガザ地区は、イスラエルが違法占領を解く代わりに高く強固な壁で封鎖して管理している、これも違法の(アバルトヘイトと言われる)難民の居住地だ。ハマス(イスラーム抵抗運動)は本来ならこの地の準政府で(2006年のバレスチナ自治政府の評議会選挙でPLOを抑えて勝利したが、西側諸国がこの結果を認めず、やむなくガザ地区だけを管理下においた)、軍事部門はイスラエルに対する抵抗のために組織されており、ハマスをこの地の住民(バレスチナ難民)と厳密に区別することはできない(メディアが死者発表などで「ガザ保健当局」と呼ぶのはハマスの政治部門のことだろう)。だから、イスラエルがハマスを殲滅するというのは、ガザ全体を破壊するということになる。それは国家同士が衝突する「戦争」などではなく、国家なき難民集団の殲滅戦でしかない。

 実際イスラエル軍はそう考えているようで、米軍関係者との非公式協議では、市民の犠牲を抑制してという米軍に対して、日本を降伏させるために広島・長崎に原爆を落としたことを引き合いに出してガザ完全破壊を正当化したという。また、イスラエルは200万人の難民をシナイ半島のキャンプに「強制移動」させることも検討と伝えられた。「ガザ・パレスチナ問題の最終的解決」だ。

 ガザの地位とその扱いについては国際法上の議論もある。国連の見解も出ている。しかしイスラエルはすべて無視、それをアメリカが支えている。今度の「戦争」もアメリカはイスラエルを背中に隠して(人道的一時停戦とか言いながら――喫煙者も一日何時間かは「禁煙」している)、やれるところまでやらせるだろう。

 「パレスチナ問題」の発端はもちろん、アラブ人住民を排除した「ユダヤ人国家イスラエル」の建国にある。これによってアラブ・イスラエルの対立が生れ、今日までの「パレスチナ難民」が作り出された。この状況の大きな転機となったのは、冷戦後の「オスロ合意」(1993年)だ。そこでイスラエル・バレスチナの相互承認と両国家共存のプランが歩み出すが、この和平案を受け入れたイスラエル首相イツハク・ラビンはすぐに同国で暗殺され、プランは頓挫する。そして次の転機はアメリカが始めた「テロとの戦争」だった。

○アメリカはなぜイスラエルを擁護するのか

 それにしても、全世界で(西側諸国でも)「ガザを救え」の大規模なデモが繰り広げられる中、アメリカ(合州国)はなぜこれほどまでにイスラエルを擁護し支持し続けるのか?

 メディアの解説ではいろいろ取り沙汰される。アメリカのユダヤ人コミュニティーの圧力とか、ナチスから守って作らせた国だからとか…。冷戦下では石油地帯であるアラブ諸国に対する抑えとして、西側の橋頭保でもあった。だが、今回のように、イスラエルの「戦争」が、国際社会の大半の支持を失っても、アメリカはイスラエルの「自衛戦争権」を支持し続けている。それはアメリカの基本外交姿勢だと受け入れる前に、それは何故なのか、と問うてみる必要がある。

 ひとつは、イスラエルが遂行するのが「テロとの戦争」だからである。21世紀初頭からアメリカはこれをグローバル・レジームとして打ち出した。敵はもはや国家ではなく「テロリスト」だ、「テロリスト」は人間ではないから秩序の保持者が何としてでも殲滅する。戦争を規制する国際法はもはや通用しない。いや意味がない。相手は国家ではない不法な武装集団だから。他国領だろうがどこだろうが地の果てまでも追い詰めて抹消する(とはいえ国内は爆撃できないから、国内には監視体制を敷く)。「テロリスト」を支援する国も同じだとしてアフガニスタンもイラクも一挙猛爆撃で潰す。それを文明の名において行うのが「テロとの戦争」だった(それが20年かけて最終的に失敗し、アメリカはアフガニスタンから撤退したのだが、「敵」を「テロリスト」と名指す習慣はとどめている。アメリカがテロリスト指定をして、法的保護の外に置き、他の国々がこれに追従している。)

 9・11後、ブッシュ大統領がそれを打ち出したとき、真っ先にそれを歓迎したのがイスラエルだった。当時のシャロン首相は、「我々がやってきたのはまさにテロとの戦争なのだ」とインティファーダーの軍事制圧を正当化した。その時以来、ムスリム団体出自のハマスは「テロリスト」として堂々と駆除できるようになり、ハマスの戦闘員を生み出すガザの住民たちは「テロの温床」として壁に閉じ込められ、いつでも爆撃されるようになったのである。だからアメリカは今さらイスラエルのやり方を批判することはできない。

○同型の国家の成立ち

 だが、問題の根はもっと深い。イスラエルは「自衛(国家防衛)」の名の下にバレスチナ人の地上からの抹消を目指しているが、じつはイスラエル国家の成立ちはアメリカ合州国とまったく同型なのだ。「テロとの戦争」のひとつの節目としてウサマ・ビンラディンの襲撃殺害があった(2011年)。そのとき米軍が用いた「標的」のコードネームは「ジェロニモ」である。合州国(とアメリカ人)に最後まで抵抗した著名なインディアン(先住民)が「テロリスト」のコード名に使われたのである。それは現代アメリカ人(国家指導者たち)にとって、インディアンが何であったのかを逆に照らし出している。

 「アメリカ」は、まずイギリスの宗教的迫害を逃れたピューリタンたちが、大西洋を越えて「自由」に土地を取得できる新大陸に渡り、開拓地に所有権を設定して、土地所有の観念のない先住民を追い出し、しだいに所有地を広げて街を作ることで開かれ始めた。そのためすぐさま先住民との争いが起こるが、馬も銃もなかった「未開」の「インディアン」(そう呼んだのはヨーロッパ人だ)は太刀打ちできない。さらにその「自由」を、移住者が自分たちで独占するためにイギリスから独立して合州国ができた。そして百年足らずで大陸を横断する一大国家になったが、それと同時に先住民はほとんど消滅したのである。「好戦的」だとされたアパッチ族を率いて最後まで抵抗したのがジェロニモだった。合州国には黒人奴隷の問題もあったが(それは南北戦争で一応解消されたことになる)、それ以前にこの国が「自由」の国であるのは、先住民をほぼ抹消したからである(だから大地はフリーになった)。そしてその大地と自然をすべて資産化したから、合州国は一九世紀末には、そしてとりわけヨーロッパが大戦で没落した後には世界一富裕でかつ強大な国になったのである。

 イスラエルは、旧約聖書を根拠にパレスチナに国を作ろうとして入植したユダヤ人たち(シオニスト)が、二度の欧州大戦のドサクサの中で、そこに住んでいたアラブ人を排除し追放してユダヤ人国家を作った。それに反発したアラブ諸国との間で戦争になるが、米欧の強力な支援があって、第四次戦争後は現在のような国家になった。ただ、イスラエル建国で追放された人びと(先住民!)は、住む土地を失い国ももたない難民となり、うしなった土地の名でパレスチナ人と呼ばれ、その末裔の一部がいまガザという「保留地」の住人になっている。

 付け加えるなら、初期ピューリタンたちにとって、大西洋横断は「出エジプト(エグゾダス)」に例えられ、移民たちは新天地に「新しいイスラエル」を作る、世界から仰ぎ見られる「丘の上の町を築く」という希望を糧に苦難に耐えたのである(以上の発言をしたのは、マサチューセッツ植民地初代総督J・ウィンスロップだが、こうした「建国神話」はまともなアメリカ史を見れば重要事跡として書かれている)。

○米欧の独善を受け入れない世界

 だからアメリカはイスラエルを否定できない。イスラエルを否認することは自らの存立の根拠を否認することになるからだ。パレスチナ人とは新国家建設のために土地を奪われた現代の「インディアン」なのであり、その亡霊にアメリカは「テロリスト」という名をつけて、「恐怖との戦争」を正当化しているのである。アメリカがかつて建国のためにしたことを、20世紀半ばにイスラエルが再現している。だからアメリカは「新しいインディアン」をイスラエルが撲滅することを止めることができない。ヒロシマ・ナガサキに原爆を落とし、その後も抑止力をかざして世界に君臨しようとするアメリカは、この「先住民(土俗民)」の殲滅を認めざるを得ないのである。

 だが今、かつてヨーロッパ諸国の植民地支配を受け、独立してからもその軛を負わされた国々が、米欧の独善を受け入れなくなりつつある。とりわけ中国、インド、トルコ等はアメリカにとって脅威になりつつある。ラテン・アメリカでもブラジルが自立しつつあり、キューバに対する70年に渡るアメリカの経済制裁の解除を要請する国連決議も圧倒的多数で成立している。そして「先住民」の復権をもっとも先進的に打ち出しているボリビアは、ガザ空爆に抗議してイスラエルと断交を表明した(南アフリカも)。

 いま、世界はようやく「アメリカの時代」が終わったことを告げようとしているのだが、もちろんアメリカはそれを受け入れない。それが現代の混乱の由来である。

*重要なこととしてヨーロッパの「反ユダヤ主義」の中東への「輸出」についてはこではふれられなかったが、それについては当ブログの10月13日の記事「再びの(しかし最大の)ガザ緊迫に何を思うか?」を参照されたい。

再びの(しかし最大の)ガザ緊迫に何を思うか?2023/10/13

Ven. 13.10.2023

 朝のNHKワールドニュース、France 2やドイツZDFを見て状況の救いのなさにあらためて唖然とする(アルジャジーラは残念ながら見てない)。
 仏・独国籍のイスラエル人が数多く南部キブツのフェスティバルに参加していた(ヨム・キプール戦争の勝利を記念したフェスとも伝えられる)。そこでハマスのコマンドの襲撃を受け、死傷多数、その上200人近くが女子供も老人も含め人質としてガザに連れ去られた。SNSに襲撃シーンの映像が溢れ、家族がパニック状態で救出を政府に訴える会見の模様、「テロリスト」ハマスの「暴虐」と「残虐さ」が浮かび上がる。かつてない集中砲撃を受けたイスラエルの市民の恐怖と怒りそして憎悪も。その憎悪はパレスチナ人に向けられる。

 同時に、激しい空爆を受けるガザの様子も伝えられる。イスラエル南東の片隅、縦40キロ、横10キロほどの狭い地域には220万の人びとが住む(人口密度は世界一)。周囲は高い分離壁に囲まれ、いくつかある出口はもちろん封鎖、その付近には侵攻に備えて戦車・装甲車が待機する。ドローン撮影した壁の中の様子は、これまでの度重なる爆撃で破壊された街にこの数日でさらにまた多くのビルが爆破され、巨大な穴が瓦礫に埋まっている。すでに30万人以上が住居を離れて避難しているというが、行くところもない(学校も病院もハマスの軍事拠点の隠れ蓑ということでむしろ爆撃の標的になる)。すでに電気が断たれ、水が回らない。生活水もなく食糧も封鎖で断たれた中、傷ついた子供を抱えた人びとが右往左往・呆然自失する。

 もともとガザ地区の封鎖そのものが国際法違反だが(分離壁もアパルトヘイトと言われる)、事実上、封鎖された難民キャンプ地帯であり、そこを空爆することもまた国際法で禁じられている。だから国連で当然出されるイスラエルに対する非難決議は、つねに米国の拒否権行使で斥けられてきた。米国がつねにイスラエルの「自衛権」を守ってきた。

 ハマスは「ガザを実効支配するイスラーム武装組織」として米国やイスラエルに「テロリスト」認定されている。だが、ハマスはアルカイダのような国際(無国籍)戦闘集団ではない。もともとは、PLOが「パレスチナ解放闘争」を主導していた頃からその「国際主義」に距離を置いて、この地域の人びとの生活を支えてきたイスラーム互助組織(イスラーム同胞団)だ。それが冷戦後のPLOの「変節」とともに「過激化」し、「軍事部門」を設けてとくにガザで対イスラエル闘争の前面に立つようになった(世界的に、いわゆる社会主義圏が崩壊し、アラブ世界ではイラン革命で顕著になったイスラーム回帰が言われた時代だ)。だからこの組織は地域生活に基盤をもち、イスラエルの強圧的軍事支配(恒常的占領支配)に対する民衆の怒りの爆発(インティファーダ)の支えにもなった。インティファーダーは「占領地」難民の若者たちから起こった抵抗運動だ。するとイスラエル当局は、ハマスを最悪の敵とみなし(PLOはすでに屈している)、ガザ民衆の畏敬を集めていた老指導者ヤシン師を、モスクの出口で車椅子ごとミサイルで爆殺したのである(2004年3月)。

 日本でも「ハマス」としか呼ばれないが、ハマスの本義は「イスラーム抵抗運動」である(PLOはバレスチナ解放機構)。しかし米国はじめ西側諸国が「テロリスト」認定しているため、つまり政治的正統性を剥奪しているため、メディアでも「イスラーム抵抗運動」という呼び方を斥けて使わない。

 2006年のパレスチナ評議会選挙ではハマスはPLOを抑えて多数派となった。ところが、国際監視下で行われたこの選挙結果を、イスラエルはもちろん西側諸国は認めなかった(米欧は他地域に「民主化」を求めながら、都合の悪い結果が出ると民主的でない、不正があった等々としてその「自主決定」を認めないのだ)。その結果ハマスは、パレスチナ内部の分裂を避けて、ガザ地区のみの統治に甘んじることになった。それ以降、西側はヨルダン川西岸のPLO(アッバス)のみを「交渉相手」とし、イスラーム抵抗運動(ハマス)を「ガザを実効支配するイスラーム武装勢力」と呼ぶ。しかしハマスは事実上選挙で選ばれたガザ地区の「政府」なのであり、ガザ住民の生活全般に責任をもっており、それが学校や病院その他の施設を維持し運営するのは当然のことである(それをニュースは、ハマスが学校も病院も運営しており、そこも軍事拠点になっており、ハマスだけを攻撃するのは難しい、などと解説する。ということはガザ住民には政府をもつ権利はなく、イスラエルに管理される家畜であれ、と言うようなものである。ただし、「ガザ当局によれば死者は〇○人」とは伝える。その「ガザ当局」とはハマス政治部門のことなのだ。だからイスラエルは、死者がどれだけ出ようと「その発表は信用できない」と居直る。)

 西洋諸国(米欧)はイスラエルが「ホロコースト」を体験したユダヤ人の作った国だからということで、その「歴史的負債」があるからイスラエルの「権利」をまず擁護する。各国のユダヤ人たちも、祖国をもたなかったために迫害された自分たちが初めて得た「祖国」だということでイスラエルに愛着し、そのイスラエルを「憎悪」し敵対するアラブ人たち(パレスチナ人も含めて)を、ナチスに重ねて「反ユダヤ主義」として非難する(とりわけ、いまやユダヤ原理主義と化した感のあるイスラエル国家はそう主張する)。

 だが、反ユダヤ主義とはキリスト教的伝統に立つヨーロッパが生み出したものであり、その歴史的縮痾として抱えていたものである。そして誤魔化してはいけないが、ナチズムも世俗化したキリスト教的西洋が生み出したものである。戦前から、まさにその反ユダヤ主義を嫌ってバレスチナに入植したユダヤ人たち(シオニスト)は、ヨーロッパでのホロコーストを見た後、そこに住んでいたアラブ人を追い出して「ユダヤ人の国」イスラエルを建国した。それがこの地域でのアラブ人とイスラエルとの抗争の発端だった。「パレスチナ人」というのはこのとき住む土地を奪われ、保護する国もなく「難民」となった人びとの呼び名である。爾来、繰り返しアラブ・イスラエルの戦争が繰り返され、東西の「冷戦下」で中東地域の情勢も幾多の変遷を見たが、米欧諸国は一貫してイスラエルを支持し、国をもたないパレスチナ人の「解放闘争」を(初めは親ソ連のPLOに指導され、やがてムスリム組織に指導されるようになる)イスラエルを脅かす不法なものとして抑え、いまでは「テロリスト集団」の暴挙として非難するようになった。

 そしていつかアラブ側のイスラエルへの敵対を新しい「反ユダヤ主義」と批判するのである(実際、とくにヨーロッパ諸国ではアラブ系移民が「ユダヤ人憎悪」をはけ口にするときがあるが)。つまりヨーロッパ(米欧)は、イスラエルをパレスチナに建国させそれを擁護することで、大戦後は資源の面でも冷戦下の地政学的にも重要だった中東に楔を打ち込むとともに、ヨーロッパの縮痾だった「ユダヤ人問題」を、まんまとアラブ世界に転移して厄介払いしたことになる(国内では法的に「反ユダヤ主義」は禁じられている)。

 冷戦終結後、尾羽打ち枯らしたPLO(アラファト)が米欧の仲介で、イスラエル国家(その既得権)を承認するのと引き換えに、イスラエル領内に将来のパレスチナ国家への試行として自治政府を作るという「オスロ合意」を受け入れた(1993年)。しかしその「約束」は果たされるどころか、中東の「イスラーム化」とともに「パレスチナ人」への西側の圧力や隔離・分断は強くなり、21世紀に入ってアメリカがアラブ・イスラーム世界を念頭に「テロとの戦争」を打ち出すと、イスラエル(アリエル・シャロン)は「我々はすでにテロとの戦争を遂行していた」と豪語して、「バレスチナ人」そのものを消滅させる意図を隠さない勢いになった。

 もちろん、パレスチナ側がいつも無辜の犠牲者だったわけではない。ヨム・キプール戦争まではアラブ諸国がイスラエルと戦ったし、一九七〇年前後には度重なるハイジャックを起こし、ミュンヘン五輪時にはイスラエル選手団を襲撃した。だが、少数のコマンドによるそれらの「テロ」事件の背後には、ヨルダン難民キャンプ襲撃や、名高いサブラ・シャティーラの大虐殺などがあった。そこで犠牲になったのはコマンドではなく老弱男女の難民たちである。

 それは今ガザに暮らしている220万と同じような人々だということだ。難民といえども、限られた地域で社会生活を営んでいる。ここ20年来その社会性をまがりなりにも支えてきたのがハマスである(もちろん、ガザには国際支援もあるし、このような状況下でハマス統治に問題がないわけではないが、少なくとも「ガザ当局」は外から来たジハード団などとは違う)。だから、たしかにハマスをガザの住民と区別することはできない。「ふつう」に生きられる「ふつうの市民」などここにはいないのだ。みなイスラエルの「占領下」で、国家に保護されることのない「難民」として生きている。その状態はすでに20年以上にわたって続いており(バレスチナ難民について言えば、イスラエル建国以来すでに70年以上)、子供たちに「将来何になるの」と問うと、日本の子供たちなら「野球の選手」と言うようにして「カミカゼ」になると答える(もちろん全員ではないが)。しかしそれがヒーローの姿だし、「天国」への、「自由」への道だからだ。しっかりした女の子たちの「夢」は赤新月社の看護師(ナイチンゲール?)になることだ。しかしすでに2002年の初めに初の女性「カミカゼ」が登場した。彼女は赤新月社の看護師だったという。彼らは幼い頃から年長の家族がイスラエルの刑務所に引き立てられ、日々屈辱の生活に耐えるのを見て育つ。時々、街は爆撃で瓦礫になるし、高い壁で空さえ切り詰められていて、検問所以外に出口はない。それがガザでは「ふつう」の生活なのだ。そこからハマスの戦闘員は出てくる(「テロ」「テロリスト」という用語自体が、「生存のための抵抗」を圧殺する創成国家の暴力を正当化するために作られたものだ。)

 パレスチナ国家に割り当てられながら、年々歳々そして日々、ユダヤ人入植者に蚕食され、彼らを守るというイスラエル軍に抑えられているヨルダン川西岸の状況(国連決議も無視している)にはここでは立ち入らないとしても、数百万の人びとがこのような「牢獄」での生存を幾世代にもわたって強いられているような状況を何とかしないかぎり、今回のような「衝突」はいつまでも繰り返すだろう。今回のハマスの「蜂起」は文字どおり明日のない「自爆攻撃」のようなものだが、それを「残酷なテロ」と言ってみても何も始まらない。ましてや「徹底的な報復」を唱えるようでは。ガザでは大量の人びとが日々その地獄を日常として生きさせられているのだから。

 解決の方途はひとつしかない。欧米がより公正なかたちで中に入り、イスラエル・パレスチナ双方に相互承認を再確立させ、双方に安住の国を保証することだ。それができるのは憎悪の連鎖の原因を持ち込みながらそれをごまかし続けるアメリカとヨーロッパしかない。そして反ユダヤ主義をアラブ人に押しつけず、みずからその歴史的責任をとることだ。中国やトルコではそれができないし、仲介しようとすること自体が別の意図を勘繰られてアメリカによって邪魔されるだろう。

 だが、それができなければ、今回の抗争がレバノン、シリア、イランにまで広がり、中東は解消不能の大混乱に陥ることだろう(イスラエルは核兵器を備えており、核を持とうとしているイランにいつでも先制攻撃できる態勢をとっている)。それとも、「パレスチナ人」というイスラエル国家によって弾き出された「民族」が、現代世界の無くもがなの「亡霊」として地上から抹消されてゆくのを世界は座視することになるだろう。

 世界情勢に明るいとか、国際問題に通じているとかいう「専門家」たちは、そんなことはありえない、中東のテロリストたちは相手にしてはいけないし、米欧がそんなふうに動くはずがない、現に中国やインドやロシアや何よりイランの脅威が…とか何とか、「現実」を見よと言うだろう。だが、アメリカの国際問題に関するいわゆる「リアリスト」たちは、国内の「イデアリスト(ネオコン等)」たちの独善に手を焼きながら、むしろアメリカのイニシアチブを世界の「安定」に向けて発揮すべきだと言うだろう。目先の「民主主義vs.専制主義(あるいはテロ支援国家)」などいう図式を振り回していると、長い(といってもせいぜい世界戦争後の7、80年だ)時間の経緯を重ねて生じている事態を、ただ力で押し潰すことになる。リアリストたちは、基本的には力関係で世界を見るが、現在の「リアル」の深みをいつも勘案して、その上でアメリカの地位を保とうとしている。

 ついでに言えば、いつも米国に右向け右の日本が、今回は米欧の「イスラエル支持」の唱和に加わらず、「双方に自制を求める」立場をとっているようだ。イスラーム国に日本人フリージャーナリスト(後藤健二さん)が捕えられたとき、そんなのは非国民だとばかり見殺しにして、訪問先のエジプトで(?)翌日イスラエルへの大規模な経済協力を発表したモリカケ首相の時代と、外務省の姿勢が少しは変わったのだろうか?だとしたら、近年イスラエルと親密になった日本は、「テロとの戦争」以前のアラブ諸国との関係をおぼつかない資産として、双方に働きかける地歩をもっているのかもしれない。外務省にはそう動いてほしいと思う。それがすぐに大きな功を奏すとはあまり期待はできないが、それでも、それができれば日本の国際社会における評価と地位は各段によくなることだろう。

ルジャンドル再訪(1)モナスティールでの出会い2023/05/26

*雑誌『思想』(岩波書店)でピエール・ルジャンドル追悼号が出た(第1190号、2023年6月号)。だが、紙数にも制約があり、ルジャンドルのテクスト翻訳や多くの若い論者に場所を譲るべく、この機会にまとめた私の私的な手記はここに掲載することにした。というわけで、以下は、『思想』追悼号の「余白に」ということで――

 知が情報商品と化して久しく、売れるものがよいもの、という判定のもとに淘汰されるか、あるいはますますせばまる市場のなかでほとんど場をもてないのが…
 そのピエール・ルジャンドルも九十歳を超え、その仕事に触発されてきた数少ない有志が、それぞれの仕事の足場からもう一度ルジャンドルのもたらしたものを再提示しようと、ドイツの文学者カトリン・ベッカーとフランスの社会学者ピエール・ミュソを編者とする論集『ピエール・ルジャンドルの仕事への導入』をようやく出版したのが今年の二月だった。同じ思いのもとで、この論集に協力した私は、日本でもルジャンドルの重要な業績と現代の思想にとっての貢献を再提示する必要があると考え、本誌『思想』で特集号を組むことを提案し、去年の冬から準備にはいっていた。
 そしてフランス語の『導入』の見本が手元に届いたころ、ルジャンドル危篤の報せが入り、パリのさる緩和病棟でこの三月二日、ドグマ人類学の異貌の泰斗はとうとう帰らぬ人となった。二〇二一年にすでに『日の終りのひとつ手前』という回想録をまとめ、コロナ禍の日々をフラン・ブルジョワ街の書斎兼自宅に伴侶とともに籠って、徐々に衰弱していったらしいルジャンドルは、三カ月ばかりの入院の果てに、表立った苦痛もなく静かな最期を迎えたという。そんなわけで本誌の特集号ははからずも追悼号の意味を担うことにもなった。

 一九九一年の四月から翌年三月にかけて、勤めていた大学から初めて研究休暇というものをもらってパリで過ごしたが、その滞在も残りの月数が気になり出したころ、縁あって知己となったピエール・バイヤール(パリ第八大学で精神分析批評を講じていた『読んでない本について堂々と語る方法』の著者)が、お前に合わせたい友人がいる、精神分析仲間のチュニジア人だと言う。それはいい、引き合わせてくれ言うと、ちょっと待て、お前は湾岸戦争についてどう思っているか、と尋ねるので、あれはアメリカが一強世界秩序を敷いて西洋的支配を継続するという軍事的意志表示だ、と言うと、オーケー、じゃ今度連れてくるということになった。
 そこでやってきたのがフェティ・ベンスラマだった。すぐに気さくに何でも話せる闊達なチュニジア人で、関心もいろいろ重なっており、話は尽きなかった。何より二人でお互いに強く納得したのは、知の伝搬・拡散の歴史地理的な構造についてだった。大学などでさまざまな国からきた学者たちと話していてもあまり気にならなかったことだが、差向いで話して如実に感じ取ったことがある。マグレブ(北アフリカ、西アラブ)出身のベンスラマと、アジアの東端の島国から来たわたしとが、ほとんど同じようなものを読み、似たような知的遍歴を経て、ここパリでランボーを語り、ドストエフスキーを語り、フロイトと精神分析について語り、バタイユやレヴィナス、それにハイデガーを語っているのだ。
 つまり、日本のわたしも自国の近代化の過程を経て西洋的なものへアプローチし、ベンスラマはまたマグレブからパリに「上る」ことで知的な自己形成を遂げて、そこで西洋の知的ヘゲモニーにある違和を抱きながら、マグレブとは何なのかを考えている。そのとき私(たち)は気がついた。私はパリに来るまで、ほとんど現実のアラブ世界を知らなかった。そしてパリでマグレブから来たベンスラマに会っている。それは偶然ではなく、近代化する世界のなかでパリは(少なくともフランス語圏の)ひとつの中心であり、われわれは出合うのに、マグレブや日本でじかに出合うのではなく、パリを中心にした放射状の牽引構造のなかで、傘の骨の一本一本が中心に集まるようにして出会うのだ。広く言えば、西洋の世界化という大きな動きのなかで生じた、この近代世界におけるコミュニケーションの地理・歴史的な構造は、われわれの世界の見方・考え方の視野をも規定している。だから、どこで何を考えるのも同じだということにはならず、知の普遍性などというものもじつは成り立たない。それぞれの地理・歴史的位置でなんらかのバイアスがかかっており、少なくともわれわれ(西洋以外の出身者)はそのバイアスをパリで無意識に矯正することによって、了解を成り立たせているのだ。そのことをわれわれは相互照射で知ることができるが、この知の流通構造のなかで、ヨーロッパはみずからの中心性を自覚することはできるが(西洋中心主義?)、中心にいることから逃れることはできないだろう。それを教えてやれるのはわれわれしかいない、というのが、湾岸戦争後の時代の気配のなかでわれわれが到達した一致点だった。
 たしかそれは二月ごろだったが、当時ベンスラマは、同じく同じくチュニジア出身の詩人・批評家アブデルワハブ・メデブとともに『アンテルシーニュ』という先鋭的な雑誌を出しており、四月にチュニジアの古都モナスティールで三日間の国際コロックを準備していた。湾岸戦争後のアラブ世界では、西洋(欧米)に対する自立(アラブ世界の主体性)を強調すると、原理主義の罠にはまりがちで、その歯止めとして「市民性」のような足場が必要だという観点から、「主体と市民性」がテーマになっていた。このコロックには政治学・法学から哲学までの主だった学者たちが、アメリカ、フランス、マグレブ、エジプト、イランなどから参加することになっていた。けれども、全体として地中海をはさんで西洋とアラブ世界の差向いという構図になってしまい、そこに日本からの発言があるとこの構図をずらす視点を持ち込むことができるだろうというので、日本の近代化・西洋化の経験から何か話してくれないか、と言われた。それなら、多少は役に立つことができるだろうとその申し出を引き受けて準備したのが「日本における主体形成の冒険」(『世界史の臨界』所収)である。

 それが前段で、じつはこのモナスティールのコロックでもうひとつ重要な出会いがあった。コロックに主催者はフランスからエティエンヌ・バリバール、ジャン=リュック・ナンシー、フィリップ・ラクー=ラバルト、エリザベート・フォントネー、そしてイタリアからジョルジョ・アガンベンらの哲学者の他に、ピエール・ルジャンドルという法・精神分析学者を招聘していた(他にはアメリカの大学やアラブ諸国の政治学者や法学者など)。出かける前に参加者リストをピエール・バイヤールに示すと、彼はルジャンドルの名を指さして、この人物とはチャンスがあれば知り合うといい、とっつきにくく気難しい人物だが、たいへん重要な仕事をしている興味深い人だ、と教えてくれた。
 チュニスの空港からモナスティールに向かう迎えのミニバスの中で、ダリウシュ・シェイガン(Dariush Shayegan, 1935-2018, 現代イランと中東で最も重要な思想家と目され、2009年にGlobale Dialogue Prizeを受けている)というイラン人と隣り合わせ、彼が何度かの訪日で関心をもったという日本の神社建築などについて話をしていると、ひとつ前の座席で赤いジャケットを着てお茶の水博士のような頭をした紳士が、どうやら聞き耳を立てている。途中バスが休憩をとったとき、コーヒーを飲む席でその紳士に声をかけて自己紹介すると、それがピエール・ルジャンドルだった。
 コロックでは彼が哲学者たちのセッションの司会を担当したが、まとめの冒頭で「日没の地(ヨーロッパ)を彩るペシミズムに浸りきった、変わらぬナルシスティックな繰言を…」とか切り出す。何ということを…、と呆気にとられたが、内心、よくここまで本当のことを公然と言うものだという思いもあり、会議の合間に言葉をかけ、失礼ながらあなたのことをまったく知らなかったが、先ほどの司会ぶりには強く印象付けられた、よかったらどんなお仕事をされているのかご教示願えないか、と尋ねてみた。
 すると強面のこのご仁は、知らないと言われて気を悪くしたそぶりもなく、ソファーに身を起こしながらひとつ例を挙げて説明してくれた。カナダの裁判所で最近こんな判決があった。性転換した父親が、子供(娘)に母と呼ばれる権利を求めて訴訟を起こした。裁判所はその権利を認める判決を下し、娘に対しては「あなたの父親は死んだ」と告げた。すると娘は以後父親を「母」と呼ばざるをえなくなるが、こうして突然父親を「亡くし」二人の「母」をもつことになった娘は、結局その「激変」を処理しきれず精神病院に入ることになってしまった。西洋の法システムは今やこのような問題に対処できなくなっているのだが、それが私の取り組んでいる領域だと言う。そのとき私がこの例からどれだけのことを理解したのかは分からないが、なるほど法と精神分析と、そして身体を操作するテクノロジーが関わるマターであることはすぐに分かった。そこで私は、自分が「世界戦争の時代の死の不可能性」を文学・哲学の方面から考究しており、近年日本では「脳死と臓器移植」の可否が議論されていて、技術のもたらす可能性と人間の存在条件、そしてその法制化の問題を考えている。人間のあり方と技術そして法制度との関係ということでは、響き合うところがあるようだ、と応じて、読むべきいくつかの本を紹介してもらった。
 二日間のコロックの日程が終わると、主催者の二人は他の参加者たちを送り出した後、ルジャンドルと私を誘って古都カイルワンへの一日旅行に連れ出してくれた。北アフリカ・イスラームの古い中心地で、この地域最古のモスクとオスマン時代の青いタイルのモスクとがある。ルジャンドルは宗教についても独自の考えをもっており、主催者たちは西洋とアラブ世界との現代の錯綜を論じるためのコロックの後で、ルジャンドルにフロイトが避けた「もうひとつの一神教」のマグレブ的な伝統についてふれさせたかったのだろう。おかげで私は、モスク巡りの道すがら、宗教というものについて、仏教や神道も含めてさまざまな宗教について、一日よもやま話に交えてルジャンドルと語り合うことができた。
 日本に帰ると、ルジャンドルから数冊の本が送られてきた。そのページを繰りながら、私の関心はしだいにルジャンドルに引寄せられ(そういえばしばらく前からナンシーやベンスラマの関わる論集(たとえば『ユダヤ人は夢をみない』)にルジャンドルも寄稿していた)、バタイユ、ブランショ、レヴィナス、ハイデガーを通して「戦争」を、そしてクレオール文学の発見から「世界史論」へと広がっていた私の関心は、ルジャンドルによってこそ深められるという確信に変わっていった。そしてまずたどり着いたのは『ロルティ伍長の犯罪』の翻訳である。これが適切な選択だったかどうかはわからない。しかし九十年代にはすでに膨大になりつつあったその著作の紹介は、どこから手を付けるべきか分からなかったのだ。この本は法制史と信仰と権力の問題を精神分析で扱う、規定しがたいルジャンドルの思考が、カナダで実際に起きたスキャンダラスな事件を実地に扱っているという点で、それも「規範システムの崩壊」の時代に「父とは何か」という剣呑な問題を直に扱っているという点で、よきにせよ悪しきにせよ、広く関心を引きやすいのではないかと考えたからだ。

P・ルジャンドル再訪(2)日本への導入2023/05/26

 このような私的とも言える事情をあえて書き記そうとするのは、日本にルジャンドルの仕事が導入されたのはどのようなコンテクストにおいてだったのかということを示しておくことも無意味ではないと考えたからだ。フランス国内においても彼の仕事は比較的閉じた専門家のサークルを通して議論され、精神分析学会では著作の出版によってじつは強烈なインパクトを与え来はしたが、メディア化されてモードとなることもなく、いわば知識界の深層においてのみ受容されていた(九十年代に、彼が研究主任を務めていた高等研究実践院の外で私が導入されたサークルは、地方の社会崩壊の現実に直面する判事や弁護士たちあるいは聖職者といった「実務家」たちの集まりだった)。それはこの法制史家・精神分析家の問いや繰り広げる理論的開拓が、既成の知的論議の流通回路にそのままでは流れない質のものだったからでもある。それがたまたま、上記のような文学・哲学の境界に位置するようなテーマを抱えていた私の関心に強く響き、自分が関心をもった以上、それを自分の仕事の足場である日本にも紹介しなければならない立場に置かれてしまったということだ。
 それまでの私の関心は、バタイユやブランショやハイデガーに対する関心は、結局のところ西洋的思考の限界に身を置くということだった。それが「世界戦争論」であり、クレオールへの関心であり、また「世界史論」だった。その限界からはみ出る「不可能」が、日本語で考えるわれわれの「分有」(ジャン・リュック・ナンシー)しうるものであり、また「足場」ともしうるところだと漠然と予感していたが、結局のところルジャンドルは一神教の神(学)のような普遍性を装っていた「西洋」というものの限界を確定してくれたのである(それは後になってはっきりすること、ルジャンドルが『西洋が西洋について見ないでいること』にまとめられた三つの講演を携えて来日したことで明確になったことだ)。
ただ、その私が日本にルジャンドルを導入するという役目を十分果たせたかというと、広く思考に関心をもつ人びとを説得することには遠く及ばず(だいたい主要著作とくに『講義』シリーズの翻訳さえできなかった)、結局は九十年代半ばから続けていた大学の枠を超えた私的なゼミのようなもの(私的というには共同的なゼミ)に吹き溜まりのように集まった少数の有為の学生たちと、その仕事をそれぞれに血肉化する作業を地道にすることしかできなかった。そして多少の紹介をしても、この狭い(けっして閉じられてはいなかったが)サークル以外から新たな研究者が出てくるということもなかった。フランス思想の研究においても、同時代のフーコー、ドゥルーズ、デリダについては多くの研究者が世代を継いで生まれてきたが、ルジャンドルの研究者が現れたという話はついに聞かなかった。(例外は、いわゆるSEALs系ともいうべき、私にとっては孫にあたる世代から、何人かの向学の士たちが現れたことである。特筆すべきは、彼らのほとんどは佐々木中の著書を通してルジャンドルを知ったということだ。佐々木中も上記のゼミのメンバーの一人だった。彼の『夜戦と永遠』はルジャンドルとラカンとの関係を問い詰め、またルジャンドルに照らしてフーコーの発想を相対化するというフランスでも誰も手を付けない力作だったが、ルジャンドル理解の根本において私には許容できない一面があり、疎遠になっていた。だが、若い世代が佐々木中の著作に刺激されてルジャンドルに関心を持つようになったというのは、彼の仕事が日本でのルジャンドルの受容に貢献しているということである。だから、今回の追悼特集にも参加を求めたが、残念ながら彼自身の現在の諸状況がそれを許さなかった。)

 ルジャンドルは結局、大方が関心をもつに値しない周辺的な(あるいはその特異さがきわめて私的な性格をもつ、一回的に消え去っても仕方のない、それが運命であるような)思想家なのだろうか?あたかもそうであるかのように、知が情報化しデジタルIT処理され、それが「差異」の商品市場でふるいにかけられる風潮は進んでゆく。そしてその流れに掉さすことが思想の新しい展開だとみなされている。だが、ルジャンドルはその流れそのものに異を立て堰き止め知の流れ方を(あるいは流れる知の性質そのものを)変えようとしていたのである。だからこの流れはその勢いの中にルジャンドルを呑み込んでゆくのだが、底流ではその堰の生み出す偏流が表層の流れに変調を起こさせている。ルジャンドルが静かに世を去ったこのとき、その変調が世界の様相を大きく変化(むしろ混乱)させようとしている。そんな時だからこそ、まさに現代にこそルジャンドルの開いてきた「未踏の」思想的営為の意義をもういちど確認しようと、少数の有志がフランスで「ルジャンドルへの再導入」のための論集を編んだ。それを機に、日本でももう一度その思考に光をあててみようという企画が本号である。それがはからずも追悼号になることになったが、「レヴナント」という言葉がある。戻り来る者、甦る者である。もちろん甦るのは死者の魂である。クレオール世界には「レヴナント」がつきものだし、潰えた先住民の世界を生かすのも「レヴナント」である(イニャリトゥの映画はそれを少しズラして使っているが)。そのさまざまな歴史事情の響きも込めて、本号がルジャンドルが生涯続けた「書く」という弛まぬ労苦の「レヴナント」たらんことを願っている。

 最後に付け加えておけば、ルジャンドルの著作の日本語訳としてはまだ『ロルティ伍長の犯罪(第Ⅷ講)』、『真理の帝国(第Ⅱ講)』、『ドグマ人類学総説』、そして三冊の講演集と『ルジャンドルとの対話』しかない。初期の『検閲者の愛』、『権力を享受する』、『他者たらんとする情熱』などや十巻を数える『講義』シリーズもまだ翻訳がない。たしかにそれは大きな欠落だが、『講義』シリーズの主要部分の執筆・刊行がなされた頃、二〇〇三年の秋に私は東京外国語大学の研究プロジェクトの一環としてルジャンドルを日本に招聘した。そのときルジャンドルに、法制史や精神分析の知識もなく、ルジャンドルの名も聞いたことのない日本の聴衆にあなたのしてきたことが分かるように、通じるように、三つの講演を連続したものとして準備してほしいと、きっとそれまで誰も彼にしたことのないような要求をした。彼はそれを受けて、無前提に人に解らせるようなかたちで、三つの講演を準備してくれた。それまで、ほとんど挑戦的に知の慣習など蹴散らしながら書いてきたルジャンドルは、おそらくこのとき初めて自分のしてきたことを振り返りながら、一般公衆に向けて「解り易く」語ることを始めたと言っていいだろう。そして帰国後、初めて「ドグマ人類学の要諦」のような本を書く(それが『テクストとしての社会』だ)。また、随所からの要請に応えて講演をするようになり、その講演は二、三をまとめてそのつど出版されるようになった。日本語に翻訳されたのは、日本講演集を最初として、『同一性の謎(原題:向う傷)』、『西洋をエンジンテストする(原題:固定点)』がある。その他に『ドグマ的論議』、『人間という動物』、『未踏の道』などがある。言いたいのは、これらの講演集はルジャンドルにとって付随的なものではなく、アカデミズムの論争環境や道を切り開く時につきものの自己の内外での格闘の力技の負荷を削ぎ落してエッセンスを直に描き出す、そんな語り(書き物)になっているということだ。だからそれはいわば彼の思考のいくつもの到達点を描き出している。その意味でこれらの翻訳もまた重要な意義をもつということだ。
今回訳出した、あまり人目につくことのない論文は、その逆に、未訳の重要著作の欠を埋めるような初期著作を生み出した思考の道程をまとめ直したものと言ってもよい。

 フランスでルジャンドルの没後に出たいくつかの追悼記事も、ルジャンドルのかの地での評価(批判)を示すものとして紹介したかったが、そのための紙数の余裕はなかった。

エントロピー露出の時代に、脱却すべきマルクス『資本論』に戻ることの倒錯2023/05/12

*あらかじめ断っておきますが、ここに書かれたことはいわゆる「反共」(ヘイト)とは何の関係もありません。マルクス主義の理論的呪縛を解き、その崇拝を停止せよと言うだけです。
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 なぜ私がマルクスを嫌いになったかといえば、それは古い話だ。
 
 若い頃、実存マルクス主義といわれるちょっとした潮流があった。それは思想というよりも、熱病のようなもので、マルクス主義の経済理論とそれと表裏一体の歴史観が疑いえない真理だとしたら、それを無の中の自由意思で選び取って実践しなければならない、つまり階級闘争に加わる主体とならなければならない、という考えだ。いうまでもなくそれはサルトルがマルクス主義を選びとった(奉じた)ときの論理で、世界のマジメな若者の間ではこれが熱病のように広がった。
 
 日本には、戦後マルクス主義者の間で(共産党とはかぎらない)「主体性論争」(梯明秀、梅本克己等から黒田寛一まで)というものが起き、なかなか高密度の論議が交わされていて、それが反代々木派の形成にも大きな影響を与えていた(北のチェチェ思想にも)。その素地もあって、ヨーロッパ由来の実存マルクス主義は容易に受け入れられた。いわゆる全共闘運動の盛り上がりも、それに支えられていたところが大きい(存マル+吉本)。
 
 マルクス主義の階級闘争史観は、フロイトの無意識理論にも似て、一度受け入れると抜け出るのがむずかしい。無意識理論に反発すると、それは君が無意識の欲望を抑圧しているからだ、と言われる。つまり反論すると、その否認はあらかじめ無意識理論で説明されているのだ。フロイト派はメタというよりインフラの足場(といっても足を取られる沼のような地歩)をもっていて、反論すること自体を症状として解釈することができる。だからそこで議論すると、出口のない全体化理論のように働く。階級闘争史観もそういうところがあり(「越えられない地平」とサルトルは言った)、反論すると、君がプルジョア意識に憑りつかれているからだと言う。だから階級意識に目ざめよと、それは必然だと(ルカーチ)。あるいは「お前は罪深い、だから悔い改めよ!」と。

 マルクス主義は経済学という科学理論を基盤にしていて、そんな意識性は夾雑物だと主張する「科学者=経済学者」たちもいた。だが、そう言えたのは、彼らがすでに経済学批判(資本論)を聖書とする教会の聖職者だったからだ(バチカンが間近に見えるイタリア共産党本部の屋上で、、悲劇的事件を起こす前のアルチュセールは、われわれはこの懐のうちにあるのだよと、あっけらかんと漏らしていた)。
 
 こうして、「存マル」はマジメな若者を追いつめて崖から飛び下ろさせる倫理的脅迫のように働くのである(「ここがロドスだ、ここで跳べ!」というのは革マル得意の脅し文句だったし、中核にはその悲壮を抒情に変える「遠くまで行くんだ」派(…僕らのすきな人びとよ、妬みと妬みとを絡み合わせても、貧しい僕らの生活からは、名高い恋の物語は生れない…、吉本)というのもあった)。
 「飢えた20万人の前に文学が何ができるか…」(サルトル、偽善的な金持ちインテリが、バカな貧乏人を脅す――このエリート知性が、メルロ=ポンティやカミュを貶めるためにボーボワールや手下と組んでどんな画策をしたことか)とか、「抑圧され、野垂れ死にしてゆく世界のプロレタリアートの前に…」とかのこのリンリ的脅迫は何なのか? ひどい、あまりにひどい、というのも、マルクス主義を真理として奉り、その真理を盾に、いまそれぞれの生を生きようとする(生きねばならない)者たちの生の犠牲を要求するのだから。これはほとんど絶望的な、実存的怒りを呼び起こした。

 倫理的脅迫は、人を地獄に突き落とすことの責任をみずからは負わない、むしろみずからの他者への無理強いを権利(正義)として倒錯的に正当化するものだからだ。
 (ハイデガーの存在論に対して、第一哲学は他者への出会いから始まる「倫理」だ、としたレヴィナスに深く触発されながらも、その「存在の倫理化」に拒否反応が働いたのもそのためであるし、その後、生命科学等の議論のなかで、「倫理」がもちだされることにも拒否感があった。倫理と呼ばれるものは掲げられるものではなく、言語化もされずに生きられるだけのものだと考えるからだ。倫理そのものに対する拒否ではなく、「倫理」を原理として掲げることへの拒否感だ――仁義ならいい?。生命科学等で語られる「倫理」、医療倫理とは、じつは倫理というよりも社会的な価値計算調整になってしまっている。)
 
 さかしらの連中は逃げる。マルクス主義ではない、マルクスそのものなのだと。「マルクスの可能性の中心」を引き出す?冗談はよしてくれ、だ。マルクス主義運動とマルクスその人を区別して、マルクスを救い出そうとしても、そこにあるマルクスの「正しさ」を疑わない姿勢(マルクス理論への屈服)がマルクスを権威化し、「マルクス主義」の運動を引き起こして、それが歴史的「罪業」を生み出してきたのは変わらない。マルクス主義とマルクスを切り離し、自分はマルクスを評価しているのだという主張は、「教会」体制に異を唱えてイエスの信はローマ教会とは違うというプロテスタントの姿勢に通じている(あるいはドストエフスキーの「大審問官」?)。所詮、キリスト教会内部の話でしかないということだ(ルネ・ジラールは徹底していてごまかしは言わず、「啓示」は「世の初めから隠されていた」絶対普遍的真理だと断言していた)。
 
 それ以来私は、マルクスを持ちだす、マルクスに頼る人びとを基本的に信頼しない、そして自分でもマルクスには頼るまいと心にきめてきた。その理論や、理論に傾倒した人たちの努力を否定するわけではない。西洋一九世紀後半から百年ほどの間は、そこでは強力な有効性をもち、西洋の世界化とともに歴史を動かす大きな威力を発揮もしたが、それがみずからの限界(西洋一九世紀の産物)を忘れて普遍的真理であるかのように機能し働くことによって、人びとを際限のない錯誤に陥れることになったのである。

 ヘーゲルは「世界精神」を語った。(自然の)闇の中に登場した「否定性」が向き合うあらゆる事象を対象化し、言説のうちに同化・統合して、認識・把握された「現実世界」の全体性の内に自己を実現するというプロセスそしてその成就として「絶対知」の哲学的世界を描き出した(『精神現象学』)。そのとき「歴史の主体=全体世界」となったのだが、じつはそれは「西洋文明・知性・理性」の運動であり、発展プロセスの「自覚」(自分はこういうものだという自己意識)だった。つまりその世界の全体性とは「西洋」の全体化だったのである。マルクスの史観もこのヘーゲルの史観の枠組みを踏襲している。ヘーゲルは世界史を「闘争の歴史」として、論理的には弁証法的プロセスとして描き、それを「精神」の自己実現だとした。マルクスは『哲学の貧困』としてそれを「唯物論的に転倒する」として、これは「主と奴」の階級闘争の歴史だったのだとする。

 だが、そこで想定されていた「歴史」も「世界」も「西洋キリスト教的世界」だという限定は彼らの視野になかったのである。ただ、一九世紀に「西洋の世界化」(西洋が世界進出し、「世界」になる)という事態が実際に進行し・展開されており、経済学システムとしての「資本主義」や「世の初めからの階級闘争」といった観点そのものも世界に輸出されて、それぞれの社会や国際関係の錯綜が、その図式によって絡めとられることになった(じつはマルクス主義は、西洋近代経済化社会の矛盾に対応する理論的認識ではあっても、オールマイティの世界理論などではなかったのである)。
 ましてや、中世の「教皇革命」の遠い、そうは見えない核反応の産物である「新世界」が何たるかなど、マルクスは思いもつかなかった。
 
 そのことを劇的に示したのはマルセル・モースのアメリカ先住民社会研究であり(その結実が『贈与論』)、西洋社会システムの混乱倒錯のなかで異文化社会(古代ギリシア・アフリカ)の様相を参照しながら近代経済学を人類学的視野の中に「埋め戻そうとした」カール・ポランニーである。彼らが、近代西洋の経済システム(マルクスが「資本論」の対象としたもの、いわゆる「資本主義」)をその閉域を開いて考え直さねばならないことを示した。それと並行して、近代経済システムが物質生産消費のサイクルとして考慮されているのなら、そのサイクルそのものが人間の生存を超えた宇宙的なエントロピー法則との関係でどうなっているのかを考えねばならないという潮流も生まれていた。
 マルクス主義は、そうした意識なしに「西洋の世界化」の展開とともに世界に「階級闘争的」図式を広めて「問題設定・解決」を押しつけていった。ロシアにソ連を生み、国際階級闘争を広めていったのも、むしろ「西洋化」の一環である。そこでさまざまな軋轢を生じるし、倒錯的な「闘争」に人びとを犠牲にしていった。
 
 「資本論」によって資本主義というものが確定された。それ以降、経済学批判から生まれた「資本主義」が終わるはずの(あるいは革命によって倒すべき)「敵」として指名され、階級闘争がヘーゲルの西洋=世界史観のなかで「歴史の原動力」と考えられる。しかし結局、それはアウグスティヌスの両世界論の焼き直しにすぎない「地上の国」の原理でしかなかった。

 端的に言ってそこでは「植民地問題」がまったく視野にない。アフリカ人奴隷は階級闘争のプロレタリアートではない(マルクス理論の中ではそう処理されるしかないが)。先住民のあり方はなおさら視野にない(先住民の世界には「階級闘争」などなかったし、計量化される生産経済とはまったく違う社会の組織化があった)。
 それに気づいて経済を違うヴィジョンのもとに考えようとしたのがマルセル・モースであり、経済学を開くかたちでそこから西洋経済学を相対化しようとしたのがカール・ポランニーだった。マルクス主義はその「人類学的」ヴィジョンのなかで相対化されねばならなかった。ところがマルクス主義は一九世紀から二十世紀初頭に原理主義的理論になったため、逆のことをやってきたのだ。教会になってしまったからには避けられなかったが。
(そのことを勘案してマルクスのシェーマをグローバル世界に広げて世界システムを考えたのはE・ウォーラーステインだった。だから彼は最後に「ヨーロッパ的普遍主義」を問われぬ問いとして提起することになる。)
 
 マルクス主義は普遍教会(世界の共産党)を作りだし、階級闘争を世界に広げて、世界戦争の後、所有権に基づく自由を原理とするアメリカシステムと対立し(決定的「イノヴェーション」たる核兵器の脅威の下で)、冷戦に入るが、結局そこでの課題が、労働者階級の解放などではなく、二つの国家体制の経済効率競争だったことが露呈し、国際社会的現実のなかでの失効を暴露した。マルクス主義の歴史的役割はここで決定的に終わったのである。
 
 しかし、世界のマルクス主義政党に依拠した多くの人びとや、マルクスを理論的に真とし拠りどころとしてきた人びとは、そのような自己を解体再編することができず、マルクスの亡霊を抱えながら生きてきた。「人新世」をマルクスは先取りして見透していた、『資本論』の草稿にはそれを示す断片がある。今こそマルクスに『資本論』に立ち返らなければならない。そうして、「気候変動」や「脱成長」の時代の問題・課題を整理した若い研究者の登場に、亡骸を抱えて途方に暮れていた人びとが快哉を叫んで元気づいたのは想像に難くない。かくてこの若者はヨーロッパの瀕死のマルキストたちに回春剤を提供したことになり、彼らの称賛を受けて、その勲章をもって日本のメディア・プレス業界に凱旋することになった。
 
 「気候変動問題」や「資本主義批判」はいま「良心的」な世間に一定受けるからだ。それに百年間世界の資本家・支配層、あるいはその統治機関と化したブルジョア諸国家との戦いで、たしかにマルクス主義は大きな役割を果たしてきた。そして実績と威光を得てもきた。しかしそれは、エコロジー問題や成長の限界が問われるようになったとき以来、あるいは旧植民地諸国の独立が問題になったとき、そのような問題を自分たちの戦略的政治のもとに周辺化する対応しかしてこなかったのである。

 だからエコロジーやエントロピー経済への志向は、いわゆる正統な「資本主義」研究としての経済学のなかで、みずからを「異端派」として位置づけるしかなかった。経済学の主流は、いまでも「資本主義研究」なのである。そしてその経済学は「資本主義は終わる、終りの日は近い」と唱え続けている。経済学が「資本主義研究」なのは、マルクスが経済学批判を「資本論」としてまとめて以降である。だが、エコロジー経済やエントロピー経済の研究では、「資本主義」などというものは必要な概念ではない。問題は人間と自然(フュシス)との関係、その代謝の社会的発現にどう対処するかという課題である。そこで問われるのは人間の欲望の自由とそれによって組織され技術・産業・経済システム、それを律する有用性・効能原理であり、人間世界の異なる関係組成の可能性なのである。
 
 そのすべてがマルクスのうちにあったとなどと言うのは、あまりの素朴さ(知的・歴史的無知)かペテンとしか言いようがない。受け取れるのは、著者の個人的には「罪のない」ピュアなマルクス信仰だけだからだ。知的(情報的)処理能力はたいへん高そうに見えるだけに、その「罪のなさ」は悪効果を生み出す。

 話を「マルクス嫌い」から始めてしまったために、ここで展開したことが私的な好みの問題に切り下げられてしまいそうだが、ねらいはそうではないし、ましてや、今日の「リベラル左派」の論議にいらぬ「分断」を持ち込むなどということもまったく私の意図ではない。私は前々から隠さないように、リベラルでも左派でもない。「マルクスに頼らない」というのを信条にしてきた以上、世間の分類枠にはあてはまらないからだ。そんな分類よりも、人間について、歴史について、世界について、どんな流派にも与せず、できるだけ適切に考えようとしている。そして考えるのは何のためかといえば、売れる商品(思想)を作るためでもなければ、イイネをたくさんもらうためでもなく、ただ単によりよく生きるため、そして人びとのよりよい生を洗い出すためである(その点でわたしもプラトンの徒だ)。その観点からして、「人新世」(というとりあえずの考え)の諸課題を、いまではあまりに限界が確認されてしまったマルクスに回収するということが、いかなる混乱を引き起こすのかということ(人びとを無知やペテンに、いまならポスト・トゥルース状況に巻き込むということ)を看過できないと思ったからだ。

 マルクスはその「可能性の中心」(もうだいぶ古くなったが)など引き出すよりも、そのきわめて限定された歴史的役割を標定することの方が、現在の知的状況の中でははるかに意義のあることだということだ。

「人新世」と、「アメリカ」によって消された世界2023/05/09

「人新世」って何かというと、人間の生産活動(技術産業経済)が自然の開発を闇雲に進め、それが地球の物質代謝に有意な変化を引き起こすようになったという、地質学的(?)認識でしょう。ただしこれ、科学的認定というより、地質学的変化にも人間を重要なファクターとして加味しなければならなくなった(三葉虫のように)という、自然学者たちの危機感からする「警告」的な意味合いが強いよね。地質学の時標はふつう、中生代約2億年、新生代約6600万年、その終りの方で約160万年前からが新生代第四期(最近258万年前に変更とか、イイカゲン)、現生人類の歴史が約20万年としても、「人新世」って400~500年前からというのだから(いや産業革命の250年前から)。こんな区分が「科学的」であるはずがない(少なくとも人間の自覚という観点が入っている)。

 この認識は、科学的に言うなら、エントロピー増大の原理が発見されて(宇宙は不可避的に熱的死に至る)、じゃあ生命って何だということになり、そりゃエントーピー増大の流れのなかに逆ネジ巻くようなネゲントロピーの系というしかないな、ということで、生命系というのはエントロピーの流れを遡るシジフォスの仕事をするように逆均衡を維持するある閉じた系を作っているということか、等々と考えられ(フロイトは人間に働くエロスとタナトスの傾向を考え、バタイユは限定経済に対する一般経済を考えた)、ついに1970年代にルーマニア出身のニコラス・ジョージェスク=レーゲンが、人間の経済活動を自然との代謝のなかに置いて考え直し、エントロピー経済の中での定常系の維持という観点から「生命経済学」を構想することになった、それに見合う発想である。
 簡単に言うなら、人間の経済活動にエコロジー的観点が必要だと知られるようになり(1960~70年代)、成長の限界が言われ、環境との均衡のなかに人間の生産活動を収めないとまずい、という発想だ。そこから、近代産業経済の「発展」を導いてきた「功利主義・効率原理」に対する批判が生れ(フランスのMAUSSの知的展開、A・カイエ他)、そこから「脱成長」の考え(経済の「成長」神話からの脱却)が生れてきた(S・ラトゥーシュ)。彼らをとりわけ刺激したのは、西洋の近代経済システムに組み込まれて破壊され荒廃し、そこから独自の地域的な経済生活を作り直そうと格闘したいわゆる「第三世界」の試みである(西側ではそれを開発経済とか環境経済という形で追及した)。
 
 だが、マルクス主義にはその発想はあったのか?はっきり言ってまったくなかった。(マルサスの想を受けたダーウィンの「進化論」には感激して著者にお手紙を書いたマルクスが、ジェボンズのように熱力学の第二法則――エントロピー増大法則――に震撼されたという話は聞かない。)マルクス主義は「資本主義」なるものを「敵」と見立てて「階級闘争」を組織し、プロレタリア革命による「資本主義の打倒」を目ざした。あるいは、資本主義の破綻は歴史的必然であるとして、革命が起こっても起こらなくても生産力の増大がやがて資本主義の矛盾を解消して共産主義の条件を整えるであろうと。
 何というオプティミズム!あるいは西洋的盲目!(歴史が階級闘争の歴史であり、その最後の段階としての資本主義という把握の、あまりに人間的、というか、西洋ユダヤ=キリスト教的なヴィジョン。マルクスはヘーゲルを転倒したつもりで「世界史」を語るが、その世界史は「終末において地上に天国が実現する」というアウグスティヌスの「両世界論」の手のひらの上にある。そして「資本主義が終わる」というのも、「終りの日は近い、天国は我らのものである」という福音書(派)の俗悪終末論とどこが違うのか?「資本主義」というのは、「地上の国」(欲望と罪悪の国)の経済主義ヴァージョンにすぎない。だから、いくらそれが「終わる」といっても、信者を慰める司祭たちのタワ言にすぎないのである。
 
 たしかに、19~20世紀の西洋・西洋化世界で、また社会主義成立後のいわゆる国際階級闘争のなかで、他に理論的足場がなかったためマルクス主義を信じて戦った何千万という人びとがいた。その人たちの格闘や苦難を貶めることはできない。しかし、70年代以降のマルクス主義の信用失墜と時を同じくして噴き出したエコロジー問題は、もはや反資本主義や階級闘争では対処できないものだったにもかかわらず、少数の人びとをのぞいて考えを刷新することはできなかった。それに対して「資本主義」の側は、技術・金融のITヴァーチャル化とグローバル化によって「前に逃げる」展望を開いたのだった。「欲望の脱領土化」というイデオロギーがそれを後押しし、新手のマルクス主義者は資本の運動を「加速」することでそこからの「脱出(EXIT)」を試みる(新しいエグゾダス=出エジプト?)。だが、どんなに追い抜こうとしても、資本の運動はその先を行っていて、追い抜くことは不可能なのだ。「資本の運動」は初めから「終りの日」として、つまり決して届かない「未来」として設定されているからだ。そのことに絶望してマーク・フィッシャーは「資本主義のリアル」に呑み込まれて死んだ。そしていま、グローバル規模であらゆる公共性を溶解し、ヴァーチャル化して限界を超えた私的所有権の跳梁のもと、新自由主義と呼ばれる経済統治システムが、一方で俗悪な権力欲のために各所で戦争を準備させ、他方ではエントロピーの侵蝕増大で荒廃する地球を尻目に、「脱出」の夢を見させている。
 
 はっきり言っておこう、「人新生」が語られる現在の状況にマルクス主義はまったく対応できないのだ。だからそれを『資本論』の草稿に書かれているとか、マルクスが予言していたとか言うのは、無知でなければ恣意的濫用である。たしかに、今から読めば草稿に現在の認識に結びつけられる記述があるかもしれない。しかし、「人新世」と呼ばれる状況にマルクスで対応できると思うのは、エントロピー経済の由来や、この百年に世界各地でマルクス主義をめぐって起こったことについての、度し難い無知というしかない。それは若い人の善意のなせる業かもしれないが、その「善意」は結局、大きな意味での「歴史否認」につながってしまうだろう。
 ともかく、現代の問題系に対応するのは、西洋近代の原理思想・経済学の枠組みにあぐらをかいたマルクスの認識などではなく、その西洋近代の論理によって文字どおり抹消された(植民地支配を受けたのではなく、存在そのものを抹消された)人びとが、最後の究極の抵抗の前に残したつぎのような表明に籠められた持続的生存の思想だろう。以下は、西洋白人の到来によって二百年に渡って居場所を奪われついには根絶されたスー族の長老タタンカ・イヨタケ(シッティング・ブル)と呼ばれる人物が遺した言葉である。かれらの存在を抹消したのは「アメリカ」と自称する「新世界」だった。
 
 「みよ、兄弟たちよ、春が来た。大地は太陽の抱擁を喜んで受け、やがてその愛の果実が実るだろう!種は一つひとつが目を覚まし、動物たちの生命もまた目覚める。我らもまたこの神秘的な力のお陰で生きて世にある。だからこそ我らは、この広大な大地に住まう権利を、自分たち同様、隣人たちにも、また隣人たる動物たちにも与えるのだ。
けれども、聞いてくれ皆の衆!我らは今、もうひとつの種族を相手にしている。先祖たちが初めて出会った頃には、小さくて弱々しかったが、今では大きく尊大になったあの種族だ。奇妙なことに、彼らは大地を耕そうとする心を持ち、彼らにあっては所有への愛着が病いにまで嵩じている。あの連中はたくさんの決まりを作ったが、その規則は、金持ちは破れても貧乏人は破れない。彼らは、貧しい者や弱い者から税金をとり、統治する金持ちたちをそれで養っている。彼らは、万人に属する母なる大地を、自分だけが使うものだと言い募り、策を築いて隣人たちを締め出す。そのうえ大地を彼らの建物や廃物で台無しにする。この部族は雪解けのなだれといっしょで、川床を飛び出し、行く手のあらゆるものを破壊する。
我らは共に暮らすことはできない。わずか7年前我々は、バッファローの国は永遠に我々に残されることを保証する条約を結んだ。いまや彼らは、それを我らから奪おうとしている。兄弟たちよ、我らは屈服するだろうか?それとも、彼らにこう言うだろうか:私の祖国を手に入れる前に、まず私を倒せ、と。」

*チャールズ・イーストマン(1858-1939):先住民出身で最初に医師資格を取った。『インディアンの英雄と偉大な族長たち』(1918年)
*西谷修『アメリカ、異形の制度空間』(2016年)

[追伸]
 タタンカ・イヨタケは「資本主義」などという言葉も規定も知らない。イヨタケたちの祖先や兄弟たちの土地を奪い彼らの生存を根絶やしにしてくるのは、まったく違った「種族」なのだ。天地がその愛の恵みで生き養われているように自分たちもそこで生き、だからこそ違う種族や生き物にも大地に住まう権利を認める(自然のうちにその一部として生きているがゆえに、支配や独占など主張しない分有の生そのものを分かち合う、それも幾世代にもわたって持続的に…)、そんな自分たちと違って、やってきてやがて尊大になった新しい種族は、とにかく大地を分割して独占し、耕すことで我有化し(J・ロックによる所有権の起源)、病的な所有欲に冒され(土地、毛皮、そして金・ゴールドラッシュ)、規則を作って所有や取引を権利化し、しかし金の力は法律より強く、権力さえ与えて貧乏人を働かせてその上にあぐらをかく。自分のものは策で囲って銃で守り(最初はウォール街)、自然からモノを作って使ってゴミにし、自然の山も川も街も台無しにする。そういう「種族」だ。カワウソともバッファローとも自分たちは共生するが、彼らと「共に生きる」ことはできない。なぜなら彼らは、出会うあらゆるものを自分たちのやり方で根絶しようとするからだ。200年荒らされるままに耐えてきたが、もはや我々には死地しか残されていない、と。そう言ってよければ彼らは、「富の蓄積」や「成長」などとは無縁の、生存を「未来に向けての進歩」の尺度などでは計らない、「七代先の子孫にこの大地の恵みを残す」といった見通しのなかで生きている。それを理念的にではなく現実的にブルドーザーにかけるように押し潰して「すばらしい新世界」にしてゆくのは、人工の有用性と効率という原理にとりつかれた「西洋白人」という種族である。それが「アメリカ人」だ。

 いま「人新世」と呼ばれて示唆されている問題は、他でもないこの「アメリカ人」の登場によって人の住む世界に引き起こされた問題ではないのか。それを「エコロジー的」と言ってもよいが、その「エコロジー的生」は、生存そのものの経済原理化(エコノミー化)によって潰されてきた。ここで「資本主義」が何をしたというのだろうか?「資本主義」などという概念では追いつかない(とても把握できない)事態が起きているのだ。ここにマルクス主義が口出しする余地などまったくないことが明らかだろう。それをマルクス主義者は考え直さなければならない。階級闘争の図式などここでは無力なのだ(西洋世界とその周辺にしか通用しない)。

ChatGPTとお遊び2023/04/18

誰かが、自分のよく知っていることで試してみると分かる、と言っていたので試してみた。

Q―西谷修という学者について教えてください。
A―西谷修(にしたに おさむ)は、日本の情報学者であり、慶應義塾大学SFC研究所教授を務めています。西谷修は、人工知能、機械学習、自然言語処理、データマイニング、情報検索、情報科学などの分野において、多数の論文や著書を発表しています。特に、自然言語処理の分野では、日本語の形態素解析や構文解析などの研究で知られています。
また、西谷修は、情報科学に関する普及活動にも積極的に取り組んでおり、テレビ番組やメディアでの解説なども行っています。
西谷修は、日本学術会議会員や情報処理学会フェローなどの資格を持っています。

*「間違っている」わけではない。ChatGPTは「正しい」答えを提供しようとしているのではなく、ただ、それらしい「答え」を集積データから何でもいいから作ろうとしている。忠犬と言えば忠犬。

Q―そうではなく、元東京外国語大学教授の西谷のことです。
A―申し訳ありません。おっしゃる通り、私の回答には誤りがありました。西谷修といえば、東京外国語大学の元教授であり、専門はアジア言語文化学です。主に中国語の研究を行っており、中国語の音声や音韻、音楽との関係などについて研究を発表しています。また、近年は、中国語教育にも力を注いでおり、日本における中国語教育の発展に尽力しています。

*間違っていると指摘されたら、指摘にあわせて新しい答えを作る。しかしこれも「答えを作ってみた」レベルのフェイク。

Q―ちょっと違うようですね。哲学者ですよ。彼についての経歴等を知りたいのですが。
A―申し訳ありません、私の前回の回答には誤りがありました。おっしゃる通り、西谷修といえば哲学者であり、専門は現代思想と倫理学です。
西谷修は、1955年に生まれ、東京大学文学部哲学科を卒業後、同大学院に進学し、哲学の修士号および博士号を取得しました。その後、東京大学、京都大学、パリ第十大学、オックスフォード大学などで教鞭を執り、現在は東京大学名誉教授の地位にあります。
西谷修は、現代思想や倫理学の分野で幅広く研究を行っており、ヘーゲルやニーチェ、フーコー、デリダなどの哲学者についての著作が多くあります。また、日本の現代思想や文化にも精通しており、『日本的』『ポストモダンの文化論』などの著作もあります。
西谷修は、日本学術会議会員、日本哲学会理事などの資格を持っています。

*違うと(答えに不満だと)言われると、すぐに直せる(素直)。ただし、指摘を受けてそこからまた別のデタラメを平気で作り出す。経歴だけでくな著書さえ捏造。学術会議会員(どういうわけかこだわってる)なんだ、知らなかった。でも、これが情報工学的には「最適解」なんだ。

Q―いいかげんではないですか? どうやって答えを出しているんですか。
A―申し訳ありません。私の前回の回答には、複数の誤りがありました。私は、AIの言語処理によって回答を生成しているため、一部の情報が誤っていることがあります。しかし、私たちは常に正確性と品質の向上に取り組んでおり、より正確な情報を提供するために努力しています。もし、私の回答に誤りがあった場合は、遠慮なく指摘していただけますと幸いです。

Q―わかりました。でも、確信がなかったら、答えを出さない方がいいと思いますよ。
A―おっしゃる通りであり、私たちは常に情報の正確性を確認し、最大限の努力をして正確な回答を提供するように努めています。ただし、AIの自動生成回答は、時に限界があることもあり、確認が必要な情報については、正確性を確認できるまで回答を控えるように改善してまいります。ご指摘いただきありがとうございました。

○結論、学生諸君、論文書くにはWikipediaの方がずっといいよ(ただし、日本のwikiの現存人物は荒らされてるからサイテイ、フェイクの方がまし)。


[付録]
もっと著名な人ならデータ学習できているかな、と思ってタメシ(浅田さん、ごめんなさい)。

Q―浅田彰という学者について教えてください。
A―浅田彰(あさだ あきら)は、日本の社会学者であり、東京大学大学院総合文化研究科教授を務めています。専門は現代日本社会学、メディア論、文化社会学などです。
浅田彰は、1985年に東京大学文学部社会学科を卒業し、1992年に同大学大学院総合文化研究科社会学専攻博士課程を修了し、博士(社会学)の学位を取得しました。博士論文の題目は「現代日本のモノクローナル抗体産業――バイオテクノロジーの社会史的研究」です。
浅田彰は、東京大学大学院総合文化研究科にて教鞭をとりながら、日本のポピュラー音楽、テレビ、広告などの文化現象を社会学的な視点から分析してきました。また、現代日本社会の多様な問題についても取り上げ、社会現象の背後にある社会構造や文化的背景を深く掘り下げた研究を行っています。
浅田彰は、著書『平成カルチャー論』(1995年)、『スポーツと文化――ヒーローと共同体の社会学』(1997年)、『マス・コミュニケーション入門』(2002年)、『現代日本文化論』(2003年)、『グローバル・ポピュラー音楽論――アジアを中心に』(2008年)など、多数の著書を執筆しています。

Q―ほんとかな? 浅田彰ってポストモダンの旗手ですよ。『構造と力』の著者。その経歴について教えてください。
A―申し訳ありません。私の前回の回答は誤りでした。浅田彰という学者は存在しません。おっしゃる通り、『構造と力』の著者であるフランスの哲学者ジャック・デリダはポストモダン思想の代表的な人物の一人であり、ポスト構造主義の先駆者として知られています。
私の回答に混乱を与えてしまったことをお詫び申し上げます。ご指摘いただきありがとうございました。以下、ジャック・デリダの経歴についてお伝えいたします。
ジャック・デリダは、1930年にフランスのエルビルで生まれました。彼は、ソルボンヌ大学で哲学を学び、後にアルジェ大学で教えるようになりました。彼は、哲学における構造主義や存在主義に対して独自の批判的なアプローチを持ち、ポスト構造主義の先駆者として知られています。
デリダは、多数の著書を発表しており、その中でも最も有名なのは『差延』(1967年)や『限界の状況』(1981年)などが挙げられます。彼は、哲学、文学、政治、芸術など幅広い分野において影響力を持ち、その思想は世界中の哲学者や文化批評家に影響を与えています。デリダは2004年に逝去しましたが、その思想は今なお多くの研究者や批評家によって議論され、その影響力は未だに続いています。

Q―ありがとう。だいぶ正確になりましたね。
Aはなく、トラブル信号か?―Something went wrong. If this issue persists please contact us through our help center at help.openai.com.

国葬、歴史修正(粉飾)の戴冠式――カルト権力の功罪?2022/07/15

 岸田首相が昨日、安倍晋三の国葬を閣議決定した(誰より祟りが怖いのか)。日本における歴史修正主義の勝利の勝鬨がこだまする。

 安倍晋三は冷戦後に、歴史修正主義の申し子として登場した。修正主義とは「あったことをなかったことにする、不名誉な歴史を嘘だといいくるめる」姿勢・主張だ。歴史がまだ生々しかった時代、傷を抱える人びとが多く生き残っていた時代、この主張は顰蹙を買って社会的軋轢を引き起こした。だが戦後50年を経てしだいに過去の記憶が薄れるにつれ、また新しい世代がそれを重荷に思うようになるころ、北朝鮮の拉致問題が表に出て、「何だ、日本は悪くない、悪いのはあいつらだ」という機運が盛り上がって、「歴史」はほぼ中和されることになる。

 そこで安倍晋三は自由民主党の総裁となり、いったんの挫折を経て以後8年近くにわたって首相を務める。その間安倍は権力を全能化し(「私は総理大臣なのだから、私の言うことが正しい」)、周囲はその身境のないやり方に魅了され、行政府も行政機関もその「正しさ」を支えるためにあらゆる規則・プロセスを捻じ曲げ、官僚はその「功績」で出世し、警察・検察も「首相の汚点」を拭き回る犬たちに権限をもたせ、「あったことをなかったことにする」ために邁進する。メディアも「あったこと」には触れずに蓋をしたり、論点は違うと目先を逸らしたりすることで問題化を避けるのに広く貢献する。
 その首相は、森友・加計疑惑の追及のなかで首相園遊会の安倍ちゃんよいしょ会化を公的地位の私物化の極みとして追及され、コロナ対策もすべて利権中抜きのためにしかやっていないことがあからさまになって、もはや国会も開けなくなって(いつも避けていた)またも病気を理由に退任する。しかしすぐに元気満々、歴史修正の「画竜点睛」たる憲法改訂に意欲を燃やしていたようだ。
 その安倍晋三が、長らく胡乱な関係にあった旧統一教会(日米韓を拠点とする、英語名はCharchだ)との関係のため、霊感商法の被害で人生を壊されたと言う青年の怨嗟の的となり、選挙応援演説中に狙撃され命を落とした。
 この事件を、自民党政府やマスコミはいっせいに「民主主義に対する暴挙」として非難し、民主主義とはほど遠かった権力私物化の権化ともいうべき元首相への批判をいっせいに封じて、「大勲位」を贈るばかりか「国葬儀」で遇するという。これも国会議論の必要のない閣議決定だ。
 閣議決定で国会を超えて国事が裁断できるというのは、集団的自衛権をめぐる「解釈変更」で安倍元首相が「成し遂げた」荒業である。ある憲法学者はこれを実質的な「クーデター」と称した。これも元首相の子供じみた全能感(「私が総理大臣なのだから…」)、がもたらしたもので、じつは公私混同の極み――ぼくちゃんと首相の公職との区別がつかない――なのだが(「首相夫人は私人」の決定など)、自民党政権や極右カルト(ほとんど宗教集団だ)勢力にとっては、これが比類ない「大政治家」の証しとなった。法治も民主主義もへったくれもない、見境のない権力行使、すばらしいというわけである。
 その人物を法的根拠もない国葬で遇するというのは、このような権力行使を国家的に顕彰するということ、そしてそれを内外に示すということである。日本はそういう国(カルト神の国)であることを公式に示すということだ。これこそは歴史を超えた「修正主義」の極みである。これを政府にやらせていいのだろうか。
 もちろんアメリカは安倍氏の「民主主義への貢献」を称える。アメリカにとっては、トランプにであれ誰であれ自国に媚びへつらい貢いでくれる国は何でも「民主主義」なのだから(「反米」はならず者国家、「反アベはテロリスト」、なんだ、同じじゃん)。

 誰であれ、命を落とした人の死を悼むのは当然である。しかし安倍晋三氏は長期に日本の首相――公人中の公人――を務めた。彼が、政治家として、首相として、最高権力者として、なしてきたことは日本人一人ひとりの在り方を巻き添えにしている。その「業績」の評価は、死の私的側面とは別に厳しく検証されねばならない。その「業績」の評価を問答無用で押し流そうとする(そして歴史を抹消する)のが、彼を「偉大な政治家」として寿ぐ「国葬儀」であり、それは「歴史修正」を完成させる祝儀である。世界、とりわけアジア諸国はこの祝儀を執り行う日本をどのように受けとめるだろうか。そしていま改めて軍事基地化されている沖縄は。