トランピズムと西洋的世界秩序の終焉(Nouvel Revue Politique, 2026.03)2026/03/15

「トランピズムと西洋的世界秩序の終焉」(Nouvelle Revue Politique)

Stephane Rozes―オサム・ニシタニ教授、Nouvelle Revue politique としては、今日の国際状況、アメリカに由来して起こっていることについて、貴重な光を投げかけていただいたことに感謝しています。あなたは日本の知的風景の中で、独自の重要な位置を占めておられますが、あなたの考えはどんなふうに形成されたのですか?

N――はじめに断っておけば、私は国際政治や国際関係の専門家ではありません。
私の出発点はジョルジュ・バタイユ研究です。彼はさまざまな意味で西洋的思考の極北まで行き、その極点を「インポッシブル」と表現した人です。そして西洋を呑み込んだ世界戦争のさなかで、「私自身が戦争だ」という意識で『内的体験』を書きました。私の仕事はそれ以来、この世界の破局としての「戦争」とは何だったのか、それは現実的にはどのように起こったのか、その歴史的かつ存在論的な意味は何だったのか?また、それが「歴史の終り」として意味づけられるのならば「世界史」とは何だったのか?等々を問い詰めてきました。
 その過程で「西洋」というものがある時点からの制度的な構築物であるというピエール・ルジャンドルの思考に出会いました。彼は「制度性」ということで主体と社会とが相互形成されることや、信仰と法そして権力や経済活動がどのように西洋という規範的構築物のなかで分節・複合化されてきたのかを示しました。
 
 私はまず「世界戦争」の歴史的かつ存在論的な考察から始めました。そして「世界史の終り」というときの「世界史」について。現代を「世界史の臨界」として捉えたからです。ただ、私が日本語話者であるため、そして日本が一九世紀半ば以来ずっと「西洋化」を果たしてきたため、翻訳を通していつも「西洋の他者」ということを意識させられます。そのため西洋由来の概念についてつねに解釈学的立場をとらざるをえません。それが私が名辞にこだわる理由でしょう。「西洋」という語や、「アメリカ」という名辞のあり方について。とくに名前の創設作用というか、西洋的「名づけ」における「権利」との関係について。
 たとえば、「アメリカ」という名は誰がつけて、どう機能したのか?地図に書き込まれてそれは西洋では自明のものになるが、名づけられた地に生きている人たちにとってはどう作用したのか。そしてそれは世界的に通用するようになったのはなぜなのか、云々。

 というわけですから、私の仕事は日本でもアティピックなものです。ただ、それなりのインパクトはあると思っています。「アメリカ論」も注目されるにはされましたが、日本はご存知のように、戦後は知的にも圧倒的なアメリカの影響下にあるし、現代はあらゆる情報がたちまちデジタル情報の濁流に呑まれてゆくので、慧眼の士をのぞいては、広く影響を持っているとは言えないでしょう。
 
 幸い、フランスにはモンテーニュやモンスキューといった、他者の眼差しを受けとめる知的伝統があります。アメリカを扱った私の著作がフランスに紹介されたのは、それに注目してくれた人がいたからです。その後、アラビア語やスペイン語への翻訳の話もありましたが、このデジタル・コミュニケーション――つまり反読書・反省省略――の時代にはなかなか実現しません。

SR:近年では「西洋」と「グローバル・サウス」との対立が云々されますが、その味方に付いては同意されますか?だとしたらその深い性格はどんなものでしょう?

N:その問いに答えるには、この対立が何を指しているのか、どうして対立項になるのかを考えておかねばなりません。西側というのは西洋先進国ですね。そしてサウスというのはかつて西洋諸国の植民地だった南の国々です。

 現在の国際秩序の元を作ったのは西洋だということは確認しておく必要があるでしょう。というより国際(国家間)秩序というものは西洋でできました。いわゆるウェストファリア体制ですが、その拡大が国連秩序にまでいたる現在の世界の状況を作り出しました。「グローバル・サウス」というのは、自分たちの作ったものではないこの体制の中で、それぞれの困難を抱えながら自立をめざす地域です。そう考えると西洋とグローバル・サウスの対立とは何を意味するのでしょう。

 結論から言ってしまえば、このような対立が想定されるのは、西洋の主導性が試練にさらされている(西側の好みの表現を使えば「挑戦を受けている」)ということの現れでしょう。これは初めてのことではなく、二度目の、そして決定的な時期なのだと思います。
 
 最初の終りは「世界戦争」です(欧州大戦と世界戦争を一連のものとして考える――これを二十世紀の「三十年戦争」と表現する人もいます)。このころ盛んに「西洋の没落」が、あるいは哲学的には「世界の終末」が語られました。
 その結果、二度と世界戦争が起こらないようにと国連体制が組まれ、ヨーロッパ由来の国家間秩序(ウェストファリア体制)は質を変えました。まず、各国の戦争する権利は大きく制約されました(原則、否定)。そして国際法体制は西洋外にも拡張され、旧植民地から独立する国々も主権国家として組み込まれるようになりました。それと同時に、諸国家における人びとの基本的人権も認められるようになりました。戦争する国家が何人であれ人権を尊重しなければならないということが原則になったのです。
 ただし、戦争禁止には例外規定があって、自衛のための戦争(「正当防衛」)は可とされたわけです。それはこの秩序が戦争によってもたらされた、つまり「戦勝国」秩序だったからです(事実上このとき、西洋の主導権はヨーロッパからアメリカ合州国に移りました)。
 そして、世界はすぐに米ソの冷戦情況に入って、全体が二つの陣営で対立し始めました。けれども、冷戦下で独立したアジア・アフリカの多くの国々は、両陣営に組み込まれるのを嫌って、アジア・アフリカ諸国会議に集いました(1955年のバンドン会議)。そこに、合州国の「裏庭」として「北の巨人」の支配を受けていたラテンアメリカ諸国も加わり、「非同盟諸国会議」が作られます。それが「第三世界」と呼ばれました。この国々の意向が、国連体制のなかでしばしば米ソ両国のイデオロギー的意図を阻害するようになります。
 けれども、かつて「西洋の世界化」のプロセスで植民地支配を受けてきて、なおかつヨーロッパの課した統治区分に従って国作りをしなければならなかったこの国々は、基本的に脆弱で貧しく、普遍化した(ポスト西洋的な)国際法秩序の保護なしには存続しえません。内部の脆弱さもありますが、独立後もさまざまなかたちでポスト植民地主義的な支配を受けるわけです。だから、その後も、真に国際法秩序を必要とし、それに守られるがゆえにそれを支えようとするのは、この非同盟諸国の集まりだと言うことができます。

 ソ連の力が衰え、冷戦後も見えてくるようになると、西側先進国はG7を結成して、グローバル化世界の運営をリードしようとします。けれどもこれは同盟関係を前提としています。「西側的価値」を共有しないと加われません。こうしてソ連崩壊後も、欧米は対ソ同盟であるNATOを解消しませんでした。そのG7の国々は国際法を都合よく解釈・運用するし、何より「西側」以外の国々をつねに「潜在敵」として警戒し牽制しようとします。ロシアや中国はつねに「西洋優位」を脅かすものとして警戒されており、西側はその対抗のために、その他の「南」の国々を「グローバルサウス」とまとめて、あたかも指導・管理の対象であるかのように扱っているのです。

 あなたのご質問に戻れば、いまはたしかに「西洋とグローバル・サウス」とが対立するフェーズにあるように見えます。しかしそれは、以上のようなことなのではないでしょうか。

SR:あなたによれば、アメリカ合州国とヨーロッパ(EU)の根本的違いとはどういうものでしょう。

N:重要なご質問だと思います。わたしはその質問に対して本質主義的な議論はしません。制度論的に答えてみたいと思います。

 アメリカも近代ヨーロッパも「オクシデント(西洋=西側)」という出自を共有しています。けれども、オクシデントの世界展開(海外進出)の過程で、アメリカはヨーロッパから離脱する「別世界」として形成されました(ただし、これは北米のUSAのことです)。ヨーロッパ諸国はアフリカ・アジアの国々を領有し支配し、本国の産業経済システムの末端にそれを統合してゆきます。一七世紀にヨーロッパはウェストファリア体制を作りました。これが主権国家間の相互承認体制、国際法秩序です。この体制をもとにキリスト教諸国家の域外拡張として非ヨーロッパ地域は統合されてゆきます。(その姿勢が一般には帝国主義と呼ばれますね)。
 ところが北アメリカには、その「ヨーロッパ公法秩序」内に存在の場をもてなかった「ピューリタン」たちが、「信仰の自由な地」を求めて大西洋の彼方に「脱出」し移住します。そしてそこに、初代ニューイングランド総督の言葉を借りれば、「新しいイスラエル」を作り出したのです。

 そこはローマ法にしたがって「無主の地」とみなされ、開拓した入植者たちの所有地になりました(労働が所有の起源というロックの説)。現地の先住民には「土地所有」の観念がなかったので、彼らは外からの到来者を拒みませんでしたが、入植者たちは土地の所有権を盾に先住者たちを追い出したのです。それ以降、土地の権利をもつ「アメリカ人」と、彼らに「インディアン」と呼ばれた先住民たちの抗争が続きます。そして約二世紀かかって、大地のすべてが「アメリカ人」の所有する不動産となる。つまり彼らの資産となって、「生きる土地を返せ」という先住民たちの要求は、無権利者のつまり無法者たちの反抗として制圧され、その存在は抹消されてゆきます。その結果「解放された」世界が、所有者たちの権利を守る「政府」を作ることで「自由の国」アメリカになったわけです。

 そこで注目されるのは、アメリカ植民地諸州は、イギリス国王の勅許を受けた民間会社、それも株式会社による事業として開拓・建設されたことです。入植者はその会社の株主です。国王の勅許は土地取得から、開発事業、そこでの行政組織の整備まで、すべてにわたる権利を含んでいました。いわば植民事業の民間委託ですね。そうして作られたステートが、国王の権限(徴税権)を嫌って、委託契約を破棄して「自立する」、それがアメリカ・ステートの英王国からの「独立」でした。つまり民間統治経営ステートがそれを規制する外部権力を排除して独立したということです。私的所有権に基づく自由経済(決定審級として株主総会がある)ステートがその自立性を確立したわけです。このときステートは13ありましたが、まとまって連邦政府を作りました。それはいわば独立のために「武装した持ち株会社」のようなものですね。
 
 アメリカとヨーロッパの基本的な違いはこの点にあります(征服領土国家と民間開発会社の連合)。アメリカがヨーロッパから離反したのもそのためです。
 ヨーロッパ諸国はもともとゲルマンの征服王朝由来で、それが領土分割線を挟んで互いに争い合い、そこに「秩序」をもたらすために主権国家形態をもとにした「戦争と平和の法」としての国際法秩序を作りました。それがウェストファリア体制です。
 ところがアメリカでは、領土のせめぎ合いなどありません。広大な大地は「自由取得」の対象で、先住民という障害を取り除けば、すべてが(土地に付随するあらゆるもの)所有権システムのもとで自由処分を推奨される資産に、そして資源になります。
 だからアメリカ合州国は、その独立に刺激されてラテンアメリカ諸国がスペインの帝国支配から独立するときに、モンロー教書を発して、ヨーロッパに対して三行半を突きつけたのです。「自由の新世界アメリカに手を出すな」と。新世界アメリカは、領土争いと戦争に明け暮れる古いヨーロッパとは違うのだ、と。

SR:それは新自由主義をめぐる議論を思い起こさせますね。(付加)

N:その通りだと思います。ふつう新自由主義というのは、国家主導の景気政策を動力とするケインズ主義に対抗して登場し、経済のグロ―バル化で標準的になった市場原理主義だと考えられていますが、じつはこれは「新世界」形成のときの社会形成原理だったのではないでしょうか。
 つまり、私権を拘束する政治権力(国王)を排除する、規制はするな、あらゆるものは自由に商品化され、市場がその良し悪しを決定する、それによって社会は最適化されるから、政策もなにも市場の自由に委ねよ、と。
 これが、植民地諸州の経営原理で、その持ち株会社としてのアメリカ合州国の主張ですよね。そのときの「外的規制」というのが、ヨーロッパの主権国家体制であり、「国際法秩序」だったわけです。だからアメリカはそこから離脱する。
 
 ただし、アメリカは第一次大戦後、崩壊しかけたヨーロッパに戻る、というよりそれを管理するために世界統治に関与するようになりました。それと同時に世界経済の中で「大恐慌」に見舞われ、それ以来ケインズ主義政策(市場への政治の介入)を取らざるをえなくなりました。国内的には失業対策を、国際的には軍事を含む支援政策を展開するわけです。冷戦下では東西対立もあって、その関与が深くなりました。そのためにベトナム戦争のころには国家財政が極度に悪化し、肥大化した「公共事業(戦争を含む)」をしだいに「民営化」するようになりました。その手始めは「兵役の民営化」(徴兵制の廃止)であり、ついで「軍事の民営化」(民間軍事会社)です。そして冷戦後の市場一元化の時期には、「国家か市場か」が論じられるほどに、民営セクター、つまりグローバル企業が世界経営(ガバナンス)の大きなアクターになります。それは一般には、経済のグローバル化に伴う新自由主義の規範化というふうに言われますが、なんのことはない、これは冷戦後の世界の「アメリカ化」に伴う「経済外的(政府)権力」の排除だったのではないでしょうか。
 
SR:その観点からすると、第二次トランプ政権とは何なのでしょう?

 合州国は第一次大戦でヨーロッバに派兵するとき、国内の反対を説得するために強力なイデオロギーを必要としました。「戦争のヨーロッパにアメリカの民主主義を」、というものです。アメリカの新しい民主主義(経済原理主義)が古いヨーロッパを救うというわけですね。
 ウェストファリア体制のもとでの戦争は没イデオロギー的だったのですが(宗教は棚上げ)、アメリカは海外派兵するためにイデオロギーを必要とし、それ以後、アメリカの戦争はつねにイデオロギーを掲げるようになります。第二次大戦後の米ソ対立は文字通りイデオロギー戦争でした。諸国家の利権をめぐってせめぎ合うというより、社会形成の原理が対立の原因になったりました(私的所有権にもとずく自由を原理とする社会と、私的所有を排した国家管理の社会)。
 社会主義圏の崩壊で冷戦が終わると今度は、グローバル化した世界に無秩序をもちこむ危険な異物がいる(アラブ・イスラーム圏に)、ということでアメリカはその敵を「テロリスト」と名指して「テロとの戦争」を始めます。これはそれまでの戦争と違って、国家間関係を超えたものとされています(ラムズフェルドは「ウェストファリア体制はもう古い」と公言しました)。そして「テロリスト」とは、人権の埒外に置かれた、存在を認められない、つまり「殺してもよい」とされた非人間のカテゴリーです。(これによって、第二次大戦後に確立されたはずの、国際法も、普遍的人権の理念も無効にされました)。
 このグローバル規模の戦争体制は、アメリカによる世界の管理体制だったのです。けれども、主要先進国(とりわけ西側)が協力したとはいえ、アメリカにとって過剰な負担になっただけでなく、かえって無秩序を拡大して収拾のつかない混乱を引き起こしました。そこで、アメリカ合州国は、自己の負担を軽減するために再び国際関係(国家間秩序)を利用するようになります。それが「新冷戦」ともささやかれた、バイデン政権の打ち出した「民主主義国vs.権威主義国」という図式です。これが最新のイデオロギーで、中国の否定しがたい台頭があって、それを脅威とみなす西側(欧米および日本)諸国にも共有されていました。
 
 そこにトランプ大統領が登場したわけです。彼は「アメリカ・ファースト」を掲げますが、それは単なるアメリカのナショナルなエゴイズムを表明するものではありません。アメリカはもうヨーロッパのために世界秩序の管理などしない、本来のモンロー主義、つまり「自由の西半球」の盟主にもどるということです。
 その意味では、いま世界に起こっている変化は100年規模のものです。しかしそれはたんに世界が強力な国(帝国)の抗争のアリーナに戻ったということではないでしょう。かつて国際法秩序の外に出てできた国(例外国家)が、再びその「例外性」を主張するようになったということです。もはやイデオロギーや同盟関係はアメリカにとってはお荷物でしかない。だから、「先住民抹消のうえに自由の国を作る」という、同じ国家原理をもつイスラエルに関しては、誰が何と言おうと後押しし、中東をコントロール下に置かせます。そして自分は、EU諸国(NATO)を逆なでしながらグリーンランドは領有すると公言し、パナマ運河も自分のものだし、ベネズエラやキューバは「当然アメリカに属するものだから、その資源も何も自分のもの」と主張します。強盗無法国家の面目躍如です。ベネズエラに関して、西側諸国はマドゥロ政権が独裁抑圧体制だという理由で、国内の「民主派」を支持し、経済制裁にも参加してきましたが、トランプは「民主主義」など関係ない。自分のものだった石油を取り戻すのだ、とあけすけに公言します。イデオロギーなどクソくらえというわけです。

 けれどもこれが重大な国際法秩序の無視であり蹂躙であることは明らかなのに、EU諸国はほとんどこれを座視するばかりか、マドゥロは弾圧体制を敷いていたのだから、これでベネズエラも民主主義国になるだろうとばかり、追認する状況です。国連安保理会合の始めにジェフリー・サックスが、この会議のテーマはアメリカのあからさまな国際法違反であって、マドゥロ政権の性格云々ではないと言いましたが、それが効果をもったという話は聞きません。そして今では、キューバが深刻な「人道危機」にさらされています。それに対してアメリカの不当を非難しキューバに支援の手を差し伸べようとするのは、メキシコのシェインバウム大統領ぐらいです。国際法秩序の元祖、ヨーロッパは何をしてるのでしょう。
 今まで同盟国だと信じていたアメリカに手のひらを返されて収拾狼狽、何とかアメリカを繋ぎとめようと、その乱暴狼藉に文句ひとつ言えません(最近多少言うようになりましたが)。
 第一次と第二次のトランプ政権の違いは、第一次では国家機構によって邪魔された私権の行使を、第二次ではその障害を人事で取り除いたということだと思います。それによって、私権と公的職務との区別がなくなったのです。個人の「狂気」(公私の無差別化)が国家の「狂気」になったということですね。
 
SR:あなたは現在のヨーロッパあるいはフランスの状況をどのようにお考えでしょう。

 ヨーロッパについて、あるいはフランスについて、私が述べる立場にはないと思います。その代わりに、日本の状況について少しお話ししたいと思います。
 日本はこの激変の中で、悲喜劇的な情況をさらしています。日本は非戦憲法をもつことで、戦後の国際秩序(国連体制)に迎え入れられました。しかし冷戦下のアメリカは日本を対ソ連・対中国の防波堤として使うため、日本に再軍備を許可し、世論を醸成するため戦前の勢力の復活を許しました。それによって戦前からの「反中」姿勢を促されたのです。
 日本政府はつねに「日米同盟」のもとで世界的役割を果たす、と強調してきました。今の女性首相は米軍艦に乗ってトランプの隣で飛び上がり、「日米同盟の高みで輝く」とアピールします(誰に向かって?)。そして「台湾有事」では日本軍が介入する、とまで国会で発言します。この首相の哀しいところは、「日米同盟」などと日本がいくら強調しても、アメリカの外交政策全般のなかではそれがごく一部でしかないということがわかっていないこと、それに日本がどれだけ軍事力をそろえても、戦争事態かどうかを決める権限は日本にはないということ、さらにアメリカが戦争事態だと認定したときには、日本軍は米軍指揮下に編入されるということ、つまり日米安保条約が完全な従属契約であることさえ分かっていないのです。
 日本は原爆を受けて降伏した敗戦国です。軍備を備えることを許されるとしたら、日米安全保障条約(および地位協定)にしたがって、主要兵器はアメリカから買い、かつ軍が動くときには米軍指揮下に入るということが条件なのです。
 いま日本では多くの人びとが、戦争ができないような国は主権国家ではない、もっと言えば、中国を怖れているようでは自立国家でないと考えているようですが、日本はアメリカの許可なしには、あるいはアメリカの一部隊としてしか戦争はできないというのが実情です。
 日本がこのグローバル化した世界で、ほんとうに自立性・独立性を確保しようとするなら、頼るものは国際法秩序と「諸国家の信義」しかありません。ただしその国際法秩序とは、冒頭にふれたような「脱西洋化」した法秩序のはずです。日本は近年、「西側と価値を同じくする」ことを主張し、EU・NATOに参加する意向を隠しませんが、それはまったくの歴史的錯覚というものです。むしろ日本は、西洋の世界化という大きな歴史的プロセスのなかで特有の位置取りをとって「発展」した国ですが、戦後の、そして冷戦後には無条件になるアメリカへの隷従姿勢のなかで、その発展の遺産をすべてすり潰してしまい、その経験のもとで、むしろ非同盟諸国とのつながりを作るのがその役割だと思います。
 
 ヨーロッパについて、あるいはフランスについて、私が述べる立場にはないと思いますが、それでも言うとしたら、現在がアメリカの離反によって「西洋」が崩壊した「西洋的世界秩序の終焉」のときであることを自覚し、かつ世界の中心であるという意識を捨てて、他者との競争や戦争だけが基本という姿勢も捨てて、ヨーロッパがロシアにも中国にも開かれた公正な国際法秩序の軸になる地域として役割を見いだすべきだと思います。
 要するに、その点では私の立場はいわゆるアルテル・モンディアリストと親和的かと思います。


https://nouvellerevuepolitique.fr/le-trumpisme-et-la-fin-de-lordre-mondial-occidental-entretien-du-professeur-osamu-nishitani-avec-stephane-rozes/?fbclid=IwRlRTSAQO0zRleHRuA2FlbQIxMQBzcnRjBmFwcF9pZA8xNzM4NDc2NDI2NzAzNzAAAR68IA9V0DNiKm6UnNCR_gxWBsjgiubfl3yZfp4_sbI2KtoGeksriH4SR2tHIA_aem_wVkRq04pc6CXKERbafASCQ

トランプを制することができるのは国際法ではなく合州国憲法2026/03/05

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 3月4日にトランプは前日の予告どおりまたイランに爆撃の「大波」を被らせた。
 最初にハメネイ師とその家族、会議に集まった軍幹部40人を一挙に爆殺し(イスラエルの情報提供で、ついでに女学校も爆撃)、それでもすぐに反撃があったから5日後には今度は「指導者後継選び」の会議を目がけて大空爆(B52も参加)、要するにイランの統治指導層とその候補らを文字どおり「殲滅」。これでイラン(人口9千万超、テヘラン900万)の人びとが「大混乱」に陥らない方がおかしい。トランプはその「始末」をどうつけるつもりなのか?(プランがないとは言われている)。
 
 だがトランプは「鎮圧・制圧」のための地上軍は送れない。去年6月に核施設(だけか?)破壊でやったように「外科的介入」だけですむと思っていたのだ(トランプもヘグゼスも戦争はシロウト)。地上軍派遣となれば、正真正銘の「戦争」であり、議会に諮る必要がある。議会を超えて「開戦」したということになれば、ただちに大統領越権の「弾劾」が始まることになるだろう(始まらなかったら、アメリカはトランプをアンタッチャブルな主人と認めたことになる)。
 
 トランプにとっては国連も国際法も何ものでもない(だから国連安保理会合の議長にメラニアを送り込んだりする)。アメリカは「例外的」最強国なのだから、弱者のための国際法など守る必要もない(じっさいこの間、対ベネズエラ、対キューバでもそう振舞ってきた)。だがアメリカの「大統領」(職務)である以上、合州国の憲法や法律には従わなければならないのだ(憲法はそのためにある)。
 
 アメリカでは宣戦布告の権利は議会にある。緊急だったとしてもすみやかに事後承認をえなければならない。わずか5日でこんな惨状(敵の指導部――つまり交渉相手――殲滅、イランの反撃で戦争周辺に拡大、エネルギー地帯で世界経済大混乱、そしてイランは踏みにじられる…)を生み出した「軍事行動」(交渉途中で不意打ち攻撃)を議会が認め、トランプの大統領としての行動を追認したら、そのときには世界は、アメリカが最大の「無法国家」とみなすだろう。そして国際法秩序・国連体制は事実上瓦解する。*逆にいえば、今、世界の安定のために国際法秩序を必要とし、支えようとしているのは事実上「非米・非西側」の国々なのだ。
 
 だが最近、「トランプ関税」も「その権限なし」と連邦最高裁に判定され、トランプは経済的威圧のために他の手段を探らざるをえなくなった。この「戦争」に関しても、「越権」ないし「権限逸脱」で国家に損害を与えたということになれば、トランプは「弾劾」されることだろう(前の任期末での「議事堂乱入使嗾」に続いて)。ただ、そのときアメリカ国家が大統領の不法行為によってイランとイランの人びとに引き起こした「甚大な損害」に対し、どのような「保証」をできるのかはまた大問題だが、アメリカはそれを果たさなければ、金輪際「国際社会のリーダー」などとは言えなくなるだろう。
 
 もちろん、今回の「イラン破壊作戦」が不正行為だったなどということは、イスラエルが(アメリカ議会にも)認めさせないだろう。アメリカが「海外派兵して戦争するなどバカバカしい浪費だ」と言っていた(そしてノーベル平和賞をよこせと言っていた)トランプを唆して、この「破壊作戦」をやらせたのはネタニヤフのイスラエルであって(証拠も挙がっている)、何としてでもイランを潰す(イランの存在自体が「存立危機事態」)というのは、けっして「ふつうの国」にはなれない選民国家イスラエルの執念だ。その要請をトランプはかわすことはできないだろう(「エプスタインの罠」も関係している)。
 
 唯一のよき兆候は、アメリカ国際法学会の次期会長(4月就任)が、すでにベネズエラ・ハイテク軍事強盗・大統領拉致事件のときに、このトランプ政権の行為があからさまな国際法違反だと表明している。そしてこの2日には、同学会現会長が今回のイラン攻撃がはっきりと国際法違反だと表明したことである。アメリカ大統領の国際法違反(無視・蹂躙)を、国際社会(国連)は裁くことができない――強者の力が事実を作る(アメリカ例外主義)というのだから――が、トランプも合州国の法には従わねばならないのである(従わねばクーデターになる)。
 
・ついでに言っておけば、フランスのマクロン大統領はバカである。この事態を受けて(あるいはウクライナ問題も重ねて)、ヨーロッパの「抑止力」のためにフランスの核弾頭を増やすという。そして今度は地中海に原子力空母を派遣するという。

 「抑止力」とは「核の脅し」で「敵」が攻撃を控えるという都合のよい妄想だが、そんなものに意味がないというのを示したのが「九・一一」だったし、ロシアもNATOの「抑止力」に挑戦してウクライナに侵攻した。相手の「核」を「使わせない」という想定の下で、やたらに戦費をつぎ込むだけが戦争国家の妄執である。だが、軍需産業というのは、人を殺し街や村を破壊してそれだけのために「消費」される製品作りであり、戦争がないと維持できない。そしてその製品は戦争で人間社会を消耗させるためにしか役立たないのだ。それが「役に立つ」と思わせ、人間社会の命運を無視して「経済システム」を「成長」させるという妄想を支えるのが「抑止力」理論だ。

 フランスは、いま地中海に原子力空母を派遣して何になるのか?アメリカとイスラエルを「抑止する」つもりか?まさか、そんなことはありえない。だとしたらイランの混乱した「反撃」を制圧するためか?だったら初めからそう言えばいい。この先の中東利権確保のためだと(イギリスでさえ今度の米イの戦争には加わらないと言っているし、スペインははっきり米イの戦争への加担を拒否した)。
 
※アメリカにおいて宣戦布告の権利が議会(連邦議会)に属することは、アメリカ合衆国憲法 第1条 第8節(Article I, Section 8, Clause 11)で明確に規定されている。

アメリカという裁き手を名乗る強盗国家――「体制転換」のあられもない実態2026/01/04

 権力の行使に歯止めがないトランプならほんとうにやりそうだが、軍事圧力をかけてベネズエラ国内の動揺と混乱を誘い(そのためにすでにCIAに作戦命令を出してある)、それを口実に米軍が「人道的介入」と称してマドゥロ政権制圧に乗り出してゆくのだろうと思っていたが、体裁を気にしない「無頼」の不動産屋トランプは、新年早々首都カラカス他に「大規模な」攻撃をしかけて、マドゥロ大統領夫妻を拘束し国外に拉致したという(発表はトランプがSNSで、ルビオは米国内で裁くと言っている――1989年のバナマのノリエガのときのように)。

 これだけのことをされても(大国が強盗のように国に押し入って大統領を拉致した)、ベネズエラ(政府)はアメリカに対して宣戦布告するなどできない(圧倒的な軍事力の差、公式に戦争状態になればベネズエラはひとたまりもない)。国連に訴え、国際社会に米国のこの暴挙を抑えてもらうしかない。だが、ロシアがウクライナに侵攻したとき万雷の拍手でロシア非難を議決したように、とりわけ影響力をもつはずの「西側」諸国は米国を弾劾するだろうか? それにもともとアメリカは国連のパトロンのように振舞っている。

 では、どうなるのか?ベネズエラ政府がマドゥロの臨時代行を立てても、アメリカがそれを認めなければ、軍事圧力や経済制裁が続き、統治機構がうまく働かなくなる。そこでノーベル賞のマチャドが、去年の大統領選で「勝った」と主張するスペイン亡命中のゴンザーレスを連れ戻して「正統大統領」とし、それをアメリカが承認して(すでに承認している)ベネズエラの「民主化」が果たされたとして、石油利権なども含めた新「安保」条約を結んで庇護下におく。そうすればベネズエラはチャベス登場以前の「親米国」になる。それがアメリカの描いている筋書きだろう(トランプのやり方は酷いが、ことがこう進めば誰も基本的に文句は言わない)。

 コロンビアやメキシコが「主権侵害」を訴えトランプを非難してもトランプには痛くも痒くもない。ロシアやイランが批判しても両国はもともとアメリカにとって制裁の対象だ。では中国は?中国とてアメリカを抑える有効な手はないだろう(トランプを個人的に脅すことはできるかもしれないが)。エプスタイン文書問題や経済失政問題を抱えるトランプに「偉大なアメリカ」を示す格好のチャンスであるこのベネズエラ案件を諦めさせるのは至難のわざだろう。

 となると、アメリカの筋書き通りになるしかないのか?だが、今のマドゥロ体制を支えてきたのは、その「強権支配」でも「独裁」でもなく、主権意識に目ざめた全国幾千ものコムーナに集う人々の活動である。コムーナは地域生活共同体で、その相互協力で多くの人びとの生活が成立ち、だからアメリカによる強力な経済制裁やコロナ封鎖があっても、多くの人びとが生き残ることができたのだ。個人の持てる者の自由の体制の下では貧困にあえぐしかなった貧民窟や地方の荒廃した農村の人びとは、小規模の地域生活共同体を組織することで、通常の経済システムとは相対的に自立した地域で社会生活を営むことができるようになったのだ。彼らはマチャドのような「野党」勢力代表がアメリカの後ろ盾で戻ってきたら、それこそ2002年にチャベスがクーデター派に拉致された時のように、全国から集まってその政権を倒すことだろう。だがその時には、アメリカに武装された「自由派政権」とコムーナの民衆との間で再び「内戦」が起こるだろう。その戦いにアメリカが「テロとの戦争」と称して再介入したら、ベネズエラの混乱は長く続くことになる(現代のベトナム戦争のようになるのだ)。

 だからここは、アメリカが引くしかない(マドゥロ夫妻を返し、カリブ海に展開する軍も撤収する)が、トランプ(とルビオ、ヘグゼス)にかぎってそれはないだろう。アメリカ国内でその横紙破りの「違法性」に非難が高まり、エプスタイン文書の追及も相まってトランプが進退窮まらないかぎり。国連でも、ヨーロッパ諸国は「西半球」のことには口出ししにくいという米欧関係の歴史的事情もあり、ウクライナ問題と違ってヨーロッパの利害にじかに関わるわけではないから、トランプの機嫌をいたずらに損ねるのには躊躇するといったところだろう(それに以前から、ベネズエラの体制を「強権支配」だとして批判してきた)。
 
 こんなことは、トランプ政権でマイアミ・マフィアのマルコ・ルビオが国務長官になったときから、そして夏以降カリブ海での動きが不穏になったときにはほぼ確実に予測されたことだ。とはいえトランプがこれほどあられもなく見境もなく抜け抜けとアメリカ大統領として「強盗行為」を仕掛けるとはさすがに思わなかった。それほどトランプが焦っている(歳も歳)ということでもあるだろうが、どんなに自分が見越していても、世に訴える手段もなく(メディアでは西側フェイクの情報ばかりが流れる)、この暴挙を実行を前に悲憤慨嘆するとともに、ただただベネズエラの人びとの巻き込まれる混乱を思うと、非力に胸潰れるばかりである。

*長周新聞「アメリカはなぜベネズエラを嫌うのか――ボリバル革命とコムーナ」(2025年11月7日)をぜひ参照されたい。
https://www.chosyu-journal.jp/kokusai/36290

老いぼれヨーロッパ(EU)の認知症2024/06/08

今年のGデイ(ノルマンディー上陸記念日――連合軍の対ナチス勝利を決定づけたと言われる)は、英米仏メディアでは大きくとりあげられた。アイゼンハワーが率いたこの作戦、ヨーロッパをナチスから取り戻すという作戦がいままたクローズアプされている。EU首脳が「レコンキスタ」を口にする時代だ(共同通信がそれに乗って特集を組んでいる――しかしやっているうちにその「倒錯」にも気が付いてきたようだ)。つまりヨーロッパは今、アラブ・アフリカのイスラーム勢力や東方のスラブ人からの侵蝕を受けている(移民難民問題・テロリズム、ウクライナ問題)。キリスト教ヨーロッパがその「失地回復=再征服」をすべき時、という意識だ。米軍に押されてのノルマンディー上陸作戦が、その端緒になるという意識。

 何という倒錯!全世界を植民地として支配し、遅れから解放するとして「自由」を押しつけてきたのは欧米である。そこから「自立」を求める国々が台頭すると(国では動けないから民がばらばらに動くと)、自分の地位が脅かされる、安全安心が脅かされると言って(イスラエルも同じ)拳を振り上げる。

それに、ナチス・ドイツはヨーロッパ自身が生み出したものではないか。その身内を倒したからといって、世界に自慢できる話ではない。そしてそれをヨーロッパの外に投影するなど、盗人たけだけしいと言わざるをえない。

従来はDデイの式典に、ベルリン陥落の主力だったソ連(その後継のロシア)も招かれていたが、いまはロシアは呼ばない(プーチンがヒトラー?笑止)。代わりにウクライナのゼレンスキーが招待され、老米兵の手を握って労をねぎらった。ゼレンスキーこそが、かつてナチスと協力して対ソ戦を戦った旧ウクライナ民族主義の末裔に脅し踊らされている道化だというのに。

「反ユダヤ主義」が復活している?だとしても、それはキリスト教ヨーロッパの縮痾であって、イスラエルに対する反発や批判はそれとはまったく違う性格のものだ。アメリカが悪魔として嫌う「共産主義」も近代ヨーロッパが生み出した思想であり、確執があるなら自分たち(西洋先進国)の間で処理すればいい。それを世界の問題だとして「再征服」のラッパを鳴らすとは、老いぼれ脳軟化(認知症、歴史修正)もはなはだしい。こういう年寄りにはなりたくないものである。

スリムな医療キャパと検査をしない行政2020/04/11

[共同通信 04/10]――新型コロナウイルス感染の有無を調べるPCR検査が、さいたま市では2カ月で171件にとどまったことについて、市の西田道弘保健所長は10日、記者団の取材に「病院があふれるのが嫌で(検査対象の選定を)厳しめにやっていた」と明らかにした。

埼玉だけではない。日本で検査が少ない(してもらえない)のはひとえにこのためのようだ。もともと病院に余裕がない。感染が増えたらすぐにパンクする。だから病院が機能していると見せるために、感染者数は増やせない。その縛りを行政出先の保健所がやる。政府専門委員の医師たちも、病院態勢が円滑であることを求める。自分たちの立場を守り維持することになるから。だから、3月末になって慌てて「緊急事態宣言」を政府に求めた。しかし自民党にくっついてきた医師団体だから正面切った批判はできず、ぎりぎり持ちこたえているとは言い続ける。

だがもう医療態勢はパンクしている。東京では呼吸困難で救急で運び込まれても、もう受け入れられる病院はないのだ。病床だけの問題ではない。医療スタッフにはまったく余裕がない(経営効率のいい病院だから)。ICUで人を取られたら、もう通常医療はできない。救急患者はもちろん受け入れられない。それはもう現実になっている(さすがに今日10日のNHKではとくに設備面を表に出して扱っていた)。

 これまで何をしていたのか。本末転倒。検査を進めて感染状況を把握するというのではなく、「効率的」な病院体制の都合に合わせて検査を絞ってきたのだ。感染の現実に対する関心よりも、病院のキャパがこれだけだから、それを溢れるような感染者を出さない、つまり極力検査をしない。それが日本のこれまでの医療行政の対応だったということだ。保健所長はそのために働き(それが厚生省医療行政の下での有能な役人)、専門委員の医師教授たちは政府の機嫌を損なわないよう、やきもきしながら揉み手でお願いしてきた。医療現場はそれでも起こる事態に対応を迫られる(→逼迫)。

 中国政府は初めは混乱があったものの、1月20日過ぎにSARS対応で功績のあった鍾南山氏の進言で武漢を封鎖、そこに全国から5000人の医療スタッフを募って送りこみ、1000床の臨時病棟を作って対応し、つい先日4月8日に封鎖が解けるまでにもってきた。一党独裁だからできたのではない。政府が優れた専門家の進言を受け入れ、「経済的影響」など二の次にしてとにかく感染制圧のために人・モノ・情報のすべてをつぎ込んだからだ。それを日本でやれとは言わないが、既存医療行政組織が無能政府に従うばかりのいまの日本では、国民(外国人は言うまでもなく)は政府行政に何も頼ることができないようだ。

日本では、3月に和歌山県が独自判断で的確な対応をしたが、その時にはまだ周囲に余裕があった(検査等で他府県に応援を求められた)。いまはもうどこも他所を助ける余裕がない。急遽仮設病院を作ろうにも、日本の医療キャパ(とくに人、頭数はもちろん、その医療従事者たちが感染症対応にはりつけるような生活のサポートなど)そのものが限界なのだ。

 ともかく、もう症状が出ても病院で治療を受けられないことは覚悟しておかなければならない。

季節外れでも、雪は「自粛」を要求しない2020/03/29

「政府(都)が自粛を要請」という言い方がまかり通るのをみて、気分が悪くなるわたしです。お上が命じ、メディアが伝令よろしくそれを伝えると、ほらほら自分で止めないといけないんだと世間は応じ、出歩く人びとを後ろ指さして牽制しあう。「自粛」とはみずから進んで(自分の意志で)行動を辞めることだ。行政府がそれを要請するとは、個人の意思に手を突っ込むこと。行政府はそれを権力行使だとはしないから(言うとみんな進んで従う)、それに責任があるとも思わない(だが近代国家は働くことを禁じたら、カナダのようにそれを保障するものだ)。「自粛要請」とは、現代社会(新自由主義)の用語で言えば「自己責任」ということになる。言うこと聞けよ、ただし勝手にやめるんだろ、と。

 そんな気分の悪い3月末の日曜に、首都には季節外れの雪が降り、シンとした気配のなか(雪は「自粛」など要求しない)、はじめて私的公的「政治利用」なく日本で傾聴できる「コロナ対策」に関する意見をみました。イギリスでジョンソンが撤回した「集団免疫論」の日本版という話もありますが、いやいや…。何でもスタンダードと化している西洋的統治の論理に合わせる必要はない。

 以下です。東大法学部・米村滋人教授(医師)
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【新型コロナウイルス感染症について】
■■皆さんに呼びかけます。冷静な行動をお願いします。■■
■■手洗い・うがいなどをしっかりするように心がけて ■■
■■下さい。

私はこれまでも、コロナウイルス感染症に対する政府・専門家会議の対応を批判し、世間の風潮に懸念を表明してきましたが、ここ数日の動きは異常です。私は、医師として、一般の皆さんにあくまで適切な感染対策の実施をお願いするとともに、冷静な行動を呼びかけたいと思います。

・今まで日本は、ほぼ無策だった
私は、2月末に相次いで出された、学校全休・大規模イベント自粛の要請が感染対策として不十分だということを批判してきました。それは、感染症対策として意味がないことに加え、リスクの低い子どもや一部の国民に不公平な負担を強いる結果になるからです。
専門家会議は「クラスター対策」と言っていましたが、一部の目立つクラスターについて「自粛要請」しただけで、普通に満員電車や繁華街の狭い飲食店などの営業を容認していたわけですから、実質的にはほとんど感染対策になっていませんでした。

・「普通の感染対策」が何よりも重要
ところが、日本での感染者数の拡大はずいぶん抑えられてきましたし、今でも爆発的な増え方はしていません。これほど「クラスター対策」が不十分なのにこの状況になっている原因は、十分に説明されていません。
私は、手洗い・うがい・マスク着用という「普通の感染対策」に大きな意味があるからであると考えています。ヨーロッパで爆発的な感染拡大が起こっているのは、これらの基本的な感染対策が全く市民に浸透せず、誰もマスクを着用しないことが「文化的な問題」として片付けられてきたからだと考えています。私はかつてドイツに住んでいましたが、ドイツ人はフランス人やイタリア人に比べればまだしも衛生感覚があるものの、手洗いやマスク着用の習慣がないのは同じです。日本は、世界のどの国よりも、これらの基本的な感染対策が市民に根付いています。
専門家会議は、「クラスター対策」を過剰に重視していますが、全くおかしいと思います。医療機関は大変な「クラスター」です。狭い空間に多数の患者がいて、盛んに会話をしています。それにもかかわらず、大規模な院内感染は数えるほどの病院でしか起こっていません。それは、とりもなおさず、病院では手洗い・うがい・マスク着用等の感染対策が徹底して行われているからです。私自身、医師として、院内感染対策としては手洗い・うがい・マスク着用を徹底して行ってきましたし、一般の医師・医療機関も同じ考えで行動してきました。専門家会議は、これまでの一般的な医療機関の感染対策が無効であったとでも言うのでしょうか。

・「感染爆発の危機」という言い方はおかしい
これまでの日本の無策の状況を踏まえれば、もっともっと増えても良いはずの感染者が、ここまで少ないということ自体、驚異的なことです。今後、感染者数は次第に増えるでしょう。しかしそれは、今後爆発的に増えるということを意味するわけではありません。
これまで不十分だった「クラスター対策」を徹底するようにする、というのは、悪いことではあリません。不要不急の外出を控える、無駄に人の集まるところには行かない、というようなことは、やった方がよいだろうとは思います。しかしそれ以上に、手洗い・うがい・マスク着用などの「基本的な感染対策」をこれまで以上に徹底して行うべきです。そしてそれをすれば、過剰な行動制限をかけなくても、感染症のコントロールは十分にできるというのが私の見立てです。

・人類はコロナウイルスに敗北せざるを得ない
皆さん、「がんばればウイルスに勝てる」と思っていませんか? 「この1,2週間を耐えれば大丈夫になる」と思っていませんか?あえて言いますが、今回のコロナウイルスは、1,2週間耐えればいなくなってくれるような相手ではありません。そればかりか、そもそも人類が正面から戦って勝てる相手ではありません。どうがんばっても、感染の拡大を防ぐことは無理なのです。既にほぼ全世界に感染が拡大している状況が、それを証明しています。私たちは、「どうしたら被害の少ない『負け方』ができるか」を考えなければならないのです。
一時的に急激に重症患者が出現すれば、医療体制が追いつかなくなり、十分な医療が受けられない患者が出てきます。それは絶対に避けるべきです。しかし、ウイルスを完全に制圧し、「誰もこれ以上感染しない状態」を作り出すことはできません。感染の拡大のスピードを遅らせることしかできないのです。
むやみに行動制限をかけ続けると、私たちの生活が崩壊します。このウイルスの感染拡大を防ぐ取り組みは、おそらく、今後1年、2年は続くと思われます。その間、ずっと自宅にこもっていられるでしょうか。イベントや集会を禁止し続けられるでしょうか。
私たちは、爆発的な感染拡大を起こさず、かつ、何年も継続可能で社会を崩壊させない感染対策を目指さなければなりません。それは非常に難しいのですが、上で述べたとおり、カギは「基本的な感染対策」にあります。つまり、とにかく、手洗い・うがい・マスク着用を徹底するのです。

・マスク着用にも一定の効果がある
マスクについて、少し補足しておきます。一般的に、マスクには感染予防の効果はありません。しかし、今回のコロナウイルスに関しては、自分で気づかないうちに感染して他人に広げる感染者がいることが、感染を拡大させる大きな要因になっています。そのような感染を防ぐには、「全員がマスクをつける」ことが十分な対策になります。マスクは、自分を守るためではなく、「自分が感染していた場合に身近な人を守る」ためのものなのです。その意味で、私は皆さんに、マスク着用を呼びかけたいと思います。

・冷静な行動を
最後にもう一度言います。冷静に行動して下さい。そして、手洗い・うがい・マスク着用などの「基本的な感染対策」を徹底して行って下さい。大規模な行動制限は、短期間はできますが、長期にわたってはほぼ無理です。国民の皆さんが行動制限に耐えられなくなったときに、再び感染拡大の危機が訪れないようにするためにも、上の「基本的な感染対策」が重要なのです。ウイルス対策は何年にもわたって行う必要があるということを覚悟して、できることをしっかりやって下さい。

コロナウイルス対応、日本の倒錯した現在2020/03/05

*急ぎ、基本的考えをまとめてみた。

 アベ首相が会見で「全小中学校休校」の要請を出し、緊急事態のマネごとをして以来、日本社会には異様な気配が漂っている。コンビニ・薬屋の店頭からマスクが消え、トイレットペーパーも消え始め、街や電車でマスク(手に入らない)をせずに軽く咳するといっせいに白眼視、大観衆の集まるイヴェントだけでなく、あらゆる種類の会合が「自粛」され、街は閑古鳥(そこに行き場のなくなった小中学生がふらつく)、北海道では知事が「非常事態事態」を宣言し(どういうことか?)、週末も人びとは自宅に閉じこもる。
 
 背景には、政府のコロナウィルス対策への迷走がある。クルーズ船横浜入港以来の政府の胡乱な対応だ。政府は水際対策として、クルーズ船の入港・乗客上陸を拒否しようとしたが、感染者を含む4000人の載る船を洋上に追放することはできない。そこでどういう対応をしたかはしだいに明かになる。結局、船内では20%近くの罹患者を出しただけでなく、対応スタッフをも感染させ、そのあげくに、アメリカなどに洋上封印を批判されて、今度は乗客をまったく無防備に散解させてしまった。

 この間、はっきり見えた政府の方針らしきものは、WHOに働きかけ(研究資金も提供して)、クルーズ船の罹患者を日本の患者発生数とは別扱いにするということだけだ。その甲斐あってか、発生後一月経った三月初めの今でも、WHOはその区別を維持し、その発表によれば、日本の患者発生数はいまだ300人余程度で、他の国々(韓国、イタリア、イラン、フランス等)と較べても、際立って少なくなっている。日本は感染抑止に成功しているのか?
 だが、官邸メディアと揶揄されるNHK報道でも、しばらく前からクルーズ船罹患者(日本領内で発生したことは否定できないから)も含めてカウントし、三日には1000人を超えた(1022人)と伝えている。この違いは何か?NHKは少しはまともになったのか?いや、あまり数が少ないと、コロナウイルスの流行が深刻でないことになり、いざというとき「緊急事態」などと言い出せないからだ。

 その矛盾のからくりは、昨日の読売新聞が明かしている。日本政府は「コロナ感染の危険が高い」というイメージが世界に広がることを懸念し、3日にも政府は、世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長が「日本など4か国を最大の懸念だ」と述べたことについて、事実に基づいて発言するよう申し入れ、それを受けテドロス氏は「中国以外の症例の8割は、韓国、イラン、イタリアだ」と発言を軌道修正した、とのことだ。

 要するに、見かけ操作だけが一貫している。それも国外と国内とでは違う対応。世界には「日本は安全」と働きかける。もちろんそれは、当座は7月に迫った東京オリンピックのためだろう(当座というのは、そのオリンピックも「ニッポンよいとこ美しい国!」の情宣機関となった外務省の仕事の目玉ということだが――その「美しい国」の裏面が韓中ヘイトだ)。オリンピック実施の決定権はIОCがもっている。そのIОCも、実施してナンボの営利団体胴元だから、何とか実施を後押しする。

 ところが、安倍政権は、今年の冒頭から「桜吹雪」で大わらわ。利益供与先に責任すべて押しつけようとするが、次々にボロが出て、もはや文書(領収書)の隠蔽・破棄・改竄も通りこし、あからさまな無法を数で押し通すしかなくなっている。もう何度目か。それも「証書チリ紙吹雪」は単発ではなく、経産相・法相は疑惑で辞任、そこにIRカジノ利権疑惑で議員逮捕(あとは放置されている)、官邸子飼い議員の選挙違反騒動(自民党内抗争)、おまけに国会ガチンコ稽古化の無能閣僚漫才、そうして無理だしの奥の奥の手、検察を無法化する異常人事、と重なって、いくらなんでも日本の政治は「アベの末世」を隠せない。

 だからこそ、首相周辺からはコロナウイルス禍を「神風邪」と喜ぶ声も出る。疫病対策に名を借りて、「国難だ」「挙国一致だ」と言えば何でもできる。四の五の言っている場合ではないと「桜吹雪」を後景に押し退ける。あろうことか、みずからの無能が引き起こした混乱(冒頭の社会不安)に乗じて、「緊急事態」を法制化しようと言うのである。この政権はいくもそうだが、騒ぎを引き起こしては、そのドサクサを権力強化に利用する(森友・加計問題に火がつくと、「共謀罪」で火をつけてまんまと通す)。

 言うまでもなく「緊急事態」は、非常時だからとして私権(自由や権利)を制限し国家に権限を集中するための法令である。これを持ち出すためには、事態が深刻だとして社会不安を作らなければならない。つまり今なら、コロナウイルス禍が一般の不安を広げていないとまずいのだ。だから国内では罹患者1000人越えを認める(学者にも、実際にはこの10倍と言わせる)。

 要するに安倍政権は、コロナ対策をはなからしまいまで、みずからの権力維持の政治的配慮によってしか行っていない。そして、それを合法化することになるのが「緊急事態」云々なのだ(民主党政権時に成立したインフルエンザ対応法の改正として出す、といっても本質は変わらない)。黒川某の定年延長と同じである。「桜吹雪」政権が出してくるその法案成立に、主要野党が協力するというのだから目も当てられない。国会休止の権限与えるのか。合法独裁だ。
 
 基本を言えば、疫病対策はむしろ福祉案件であって、管理統制(安全保障)案件ではない。近代国家は初めから「公衆衛生」を「管理統治」のパラダイムと見なしてきた。しかしそれがいわゆる全体主義国家の骨組みとなったのである(ナチズムの生物学主義)。だからこれを分離するのが、それ以後の国家あるいは政治の課題だったはずだ。そのことが、グローバル新自由主義下のマネージメント国家化によってまったく見失われている。
 
 政府の対策会議に加わっている医師でさえ、北海道の患者数が認定発表で88人という時期に、実数は900人超でしょうねと言っていた(NHK)。限定的にしか検査をしていないということが織り込まれているからだ。だとしたら現在、全国では患者は優に一万を超えていると見なければならない。
 韓国やイタリアで急速に罹患者数が増えたのは、ともかく検査をしているからである。検査をしなければ実情が把握できない。それでは対策のしようもないだろう。もちろん特効薬はないが、感染拡大を防ぐためにも、患者の救済のためにも、実情把握がまず第一であるはずだ。ところが日本政府は、態勢が整わないとかで検査を受けさせない。症状が出ていて医師が求めても、条件に合わないからと検査を拒まれる。罹患者数が少ないのはあたりまえである(3月初めまでで東京都の検査件数は350件―NHK)。
 
 その理由が、厚生省と結びついた保険医療体制の縄張り争いに絡む官僚体質にあるのか、検査方針を策定した厚生行政(政府)の意図にあるのかについては、すでにいろいろ情報が出ているが、ともかく感染の広がりを抑えるより、数値を増やさないことに政治の優先配慮があることは明らかである。アベ政権の下での官庁の文書改竄・隠蔽・捏造・廃棄体質と根は同じで、数値操作が「対策」の軸になっているということだ。
 
 それでは感染の広がりは抑えられないが、その倒錯したやり方を上塗りするかのように、安倍首相は唐突に「学校休止」を要請し(事実上の「緊急事態」を表明だ)、日本中を混乱に陥れた。昨日(3/4)の院内集会の模様は「一斉休校の発表後現場は地獄、保育施設関係者が訴え」と伝えられた。何の準備もなく、それまでの対応(感染は低く抑えられていると宣伝)とは矛盾したやり方で、社会的な混迷を深めている。このうえ「緊急事態」を敷く権限を政府に与えることに何の意味があるのか。「緊急事態」と言うならまず政権が退場しなければならない。この政権の権力拡大を許すことはできないし、政権自体が抱えている混乱と無法をまずは排除しなければならないからだ。
 
 そして、「国を挙げて」踏まえなければならないのは、疫病は「戦争」ではなく「災害」だということ、必要なのは「国家による統制」ではなく「救援・介護」の体制をまず整備するということである。具体的には、①まず検査させる ②実情把握 ③地域別対応。国は予算つけて地方行政と医療体制を支援、それと研究、全般対応だ。今の政府はまったく逆のことしかしていない。

(現実味がないとすぐに言われるだろう。次の内閣ができないから、と。そんなものはとりあえずどうでもよい。官僚たちをアベ権力への「自発的隷従」の軛から解き、国民のためにもてる能力を発揮してもらう。地方に対応権限を委譲し予算も出し、現場から必要な対策治療をやってもらう、等々、があれば国の態勢は持ち直す。アベ自民党が権力を握っているかぎり、日本が泥海に沈むのは避けがたい。

 何でもアベのせいにする、という声が聞こえてくる(先日も近くの主婦に言われた)。だが、それが事実だから仕方がない。それを認めない人びとがアベ長期政権をここまでもたせてきた。その結果、もはやアベが退陣しても問題は片づかないほど広がり根をはっている。それでも元凶は除去しなければ後が始まらならないのだ。)

★日本の「脱原発」、10年の節目を前に(2)2020/02/29

○自由市場の聖火が消えるころ

世界の来歴を振り返り、現代の発端に目を凝らすと…。18世紀前後にヨーロッパ(イギリス)で、天賦の大地が私有化されて、追い出された人びとが都市周辺に吹き溜まり、勃興する産業の窯の焚き木(安価な労働力)となったことはよく知られている。そのころ、大陸の哲学者ライプニッツは、アウグスティヌス以来の「悪」の問題(全能にして善なる神の御業であるこの世界に悪が満ち満ちているのはなぜなのか?)に「合理的」な解答を与えた。個々の観点からすると「悪」と見えることも、全体としての世界が「善」であることに貢献しており、神はあたうかぎり最善の世界を造ったのだと(予定調和説)。これによって「神の国(善)」と「地上の国(悪)」とは、無限を全体に転化する微積分計算によって通約され、全体システムを語る近代世界の視野が開かれた。

すぐ後にロンドンに登場するのが精神科医(魂の医者)バーナード・ド・マンデヴィル。彼は私欲の「罪」に悩む患者(とうぜん金持ち)を治すため、次のような処方を与えた。あなたの悪行は、実は世の中にたいへん貢献している。社会は分業で成り立つ。強盗がいなければ鍵屋は商売にならない。医者もそのおかげで繁盛する。建具屋も、警察だって仕事にありつける。だから、あなたの所業は世を潤し、全体の繁栄に大いに役に立っている。ほら、ロンドンの街をごらんなさい。ドブや掃溜めから異臭が立ちのぼり、浮浪者や犯罪者が跳梁して、物騒なことはなはだしいが、売春宿は今日も繁盛、都会の灯は華やかです。私欲の発露、それこそが社会の原動力、それを束縛してはいけない、自由にやりなさい。「私悪、すなわち公益」と(『蜂の寓話』)。

マンデヴィルの処方はこうして、私欲を思うさま羽ばたかせる「自由」を勧奨した。当時のイギリスの自由主義者たちは、ジョン・ロックが定式化したように、「自由」とは所有に基づくと考えていたから、貧民に自由がないのは当然だとみなしていた。だから貧民救済の社会的措置にも厳しく反対した(ポランニーが問題にした「救貧法」批判)。しかし、慈悲を叱って売春を奨励したマンデヴィルは、あまりに不埒(ひと聞きが悪い)というので禁圧され、後はアダム・スミスが道徳形而上学でガーゼに包んで、「みえざる手」で調整される市場経済をそれらしく理論化した。マルクスはそのカラクリを暴いたが、20世紀にマックス・ウェーバーが「プロテスタンティズム」の勤勉・節制の精神が資本主義を生んだという誤解を広めると、資本家やその追従者たちは、そうだ、それが近代化の原動力で、自由と民主主義のシステムを世界に広めたのだと「プロ倫」を持ち上げた。

だが、社会主義的管理統制の登場を踏み台に、フリードリヒ・ハイエクが留め金を外す。彼はあらゆる制度的拘束や政治の介入を否定し、「個」の無制約な「自由」を主張した。だが、そんな「自由」な市場は存在しない。だから腕づくで作り出すしかない。その「理想」を弟子のミルトン・フリードマンが、クーデターで軍事政権下に置かれた南米チリに適用する。それが現代のグローバル世界を席巻する新自由主義の発端である。

しかしこの「新」自由主義は実はまったく新しくない。というのは、私的欲望の無制約な発露がシステム全体の最適化を生み出すというヴィジョンは、マンデヴィルがあからさまに語っていた「現実」だったから。グローバル化のいまそれが装いを変えて実現してしまったのは、デジタル情報化革命があったからである。人間社会のあらゆる現実が、差異と境界を越えニュートラルな因子に還元され、とめどない情報の奔流に流し込まれる。何から何まで財とされ売り物にされる「全面市場化」の世界である。だが、デジタル情報ネットで「統治」される社会でも、現実に生きる人びとは、まさにマンデヴィルの世界を生きていることになる。そのモーターが核エネルギーであり、デジタル情報技術であり、生命科学他の先端テクノロジーなのである(イノヴェーションが要請する)。

ましな政権をもつ国では、国民・市民の存続のためには原発はやらなくなる。しかし、日本のようにドブ川の目先の餌で身を保つ者たちが国を「取り戻した」ところでは、国は泥船と化して濁流に呑まれるがままに任される。それをごまかすために、視界の悪い行き先に残りの火薬をつぎ込んで祭りをやる。それが都会の賑わいの最後の花火というわけだ。

そんな10年後になるとは誰も予想しなかっただろう。まさに「想定外」である。このように行方を見失った日本の10年の災厄のなかで、ひとり反原連は毎週金曜日に官邸前で、食いつぶされかき曇る「未来」への松明を灯し続けてきた。うす闇の空の下で、今日も「再稼働反対、再稼働反対」とリズミカルに声を上げる黒いシルエットが浮かびあがる。大災厄の翌日のヴィジョンから、ひとつの方向を指す燈明のように、世界の闇からの出口を指して。脱原発、そこがまず動かすべき梃子だから。(了)

日本の「脱原発」、10年の節目を前に(1)2020/02/29

NO NUKES Vol.026 に寄稿した「日本の「脱原発」、10年の節目を前に」が刊行・公開されたので、ここにも掲載しておきます(2回に分けて)。
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少し気が早いけれど、オリンピックの火が落ちれば来年はもう福島第一の原発事故からはや10年。事故から2年弱で自民党政権が「日本を取り戻し」、事故の結果に蓋をしながら原発政治のアクセル踏んだ再稼働、図々しくも他国が撤退した後で輸出促進、さすがにもんじゅは諦めたが、核燃料サイクル計画は展望のないまま惰性で続けている。

○舞い散る桜と札束

そのころは、技術的にも経済的にも原発が立ち行かないのは明らかで(だからドイツをはじめ賢い国は撤退した)、政府がどんな政策をとろうとも早晩「脱原発」は実現するとも言われていた。だが甘かった。合理で日本は動かない。自民党政府・安倍官邸と経産省は、はじめは目立たず、しかし次第に公然と積極的に(武器を防衛装備と言い換えたあたりから)、災害より原発「復興」を経済・軍事両面で進めるようになる。

本家アメリカでも私企業が原発の経済性に見切りをつけ、それをわざわざ買いに出てババを引いた「世界の東芝」はとうとう沈没寸前、イギリスその他の国々も、かさばるコストを負いきれず次々に撤退し、アベ日本は愚かにもその空白を占めようと政府肝入りでセールスしたが、もう終わった市場、ここにきてすべてがとん挫した。

さすがに、原発正当化はもうできないと思われたところに去年の関電疑惑。国策電力会社、地元自治体、大手ゼネコン、御用学者が「顔役」に仕切られる、かつて「原子力ムラ」と言われた社会の闇に根を張った利権構造の露見だ。これでは原発が止まるはずがない。技術的難題や経済見通しがどうであろうと、国や社会の将来がどうであろうと、原発は儲かるという「反社会的」利害関係が、原発政策を維持推進していたのだ。まさに、かつての敦賀市長高木某(「パンツ大臣」のオヤジ)が言ったように、先のことはわかりませんよ、しかしとにかく今はやっておいた方がいい…。その「今」だけのため、官僚は辻褄合わせし、学者は都合のよいデータを出し、裁判所まで追従する。そして、この構造で私利を貪る者たちが、原発推進をヤドカリの殻のように守り、その上に政権が君臨している。

辺野古の新基地建設強行も、米軍のためは表向き、事業の実態は原発と同じだということがもう隠せない。そのような現在の日本の「統治」のあり様を集約的に露見させたのが「桜を見る会」だ。権力のうま味を仲間の供応で吸い尽くす。そして有象無象――特に感染力をもつエンタメ興行関係――を利権構造に取り込むことで裾野を広げる。その表のお題目になっているのが「改憲」だ。改憲の狙いは、「美しい国」つまり「国民が文句を言わずに国家に尽すようなお国柄」にすること、そして自分たちが国家を乗っ取って(「上級国民」?)、従順で逆らわない国民に税金を払わせ、命を差し出す気構えまで要求し、担がせた神輿に乗ってこの国の「真ん中に輝く」、そんな、わが世の春のミニ演出が「桜を見る会」だ。

ある意味で「改憲」を掲げた意図はすでに実現している。だからほんとうは安倍政権は目標を失っていると言ってもいい。にもかかわらず原発政策が捨てられないのは、まさにこの惰性の維持によってしか、この政治構造が成り立たないからだ。

ということは、この先にはもはや破綻しかない。それが約束されているのが「オリンピックの翌日」である。札束刷り散らして株価を支え、人間をすり潰して法人企業を助け、資産家・投資家だけを肥やすアベノミクス。アメリカに市場も明け渡し武器も爆買いして、自分だけ本家に認めてもらう国売り外交。それで崩れゆく日本をもはや誰も支えられない。誰もがそれを予測しているが、ともかく「お祭り」までは、ということで突っ走っている。その「洪水の後」に残される世代には、あらかじめ自助要求(自己責任)、ボランティア精神、でなければいじめに道徳教育…で、文句を言わないように備えている。そしてオリンピック明けは大災厄の10年目、この10年の日本を主導した安倍政権は消えてゆくが、誰も責任を問わない、問われない。こうして10年目に「大災厄」が拡大反復される…。われわれはそれに備えなければならない。(続く)

「令和」の夏、「嫌韓」戦争化する日本(『myb』)2019/10/18

*「myb」という小さいが個性的な雑誌がある。三省堂から独立した伊藤雅昭氏がやっているみやび出版の社誌だ。この雑誌にはこだわりがあって「団塊の世代の明日へ」というのがキャッチフレーズ、この10月に出たのが終刊号だ。「令和への伝言2019」という。伊藤さんの志をわたしは尊ぶが、じつはわたしはいわゆる「団塊の世代」だけでなく「世代」へのこだわりというのが嫌いである(かくいうわたしは1950年3月生れで、どちらとも言えない)。だが、伊藤さんへの敬愛から何度かこの雑誌にも寄稿してきた。終刊号への寄稿も依頼され、ともかく寄稿したのが、夏に何らかの形で書いておこうとした「令和初年の日本」の診断である。『世界』に寄稿したものも同じような認識に立っているが、この稿、ブログに掲載しておきたかったので、雑誌が刊行された今、掲載することにする。
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 「令和」という元号が何の議論もなく定められ(一九七八年に作られた元号法という形式的な法律だけが根拠だ)、新しい天皇が即位し「世が改まった」とされて、後は開催まで一年と迫ったオリンピックに向けての機運盛り上げだ。「ニッポンがんばれ!」と皆が言えるスポーツ・イヴェントにメディアは収斂し、東京湾の汚染水を隠して盛り上げムードがあたりを埋め尽くし、酷暑も高校球児の活躍にならって、打ち水や新潟からの雪輸送で乗り越えようとキャンペーン、誘致買収のニュースもやり過ごして、「レイワ・ニッポン」の一体感が醸し出されている。

 だが、そんなとき、「上手の手から水が漏れる」ではなく「下手な手からダダ漏れ」で、この一体感が押し潰そうとしている日本社会の分断が噴き出てしまった。

 分断のひとつのドライブは、社会の二階層化を不可逆的に進めるネオリベ的経済社会政策だが、その分断を逸らして束ねるのが「歴史修正」(フェイク、捏造・居直り・文書破棄)圧力だ。「日本人でよかった!」。もちろん日本でこの二重操作をやっているのは安倍政権だが、じつは「世界戦争」後四半世紀、世界中のあちこちの国で同じようなことが起きている。その解き明かしはまたにして、ここでは日本の夏の風景だ。

 去年からのくすぶりに火をつけて、この夏いちばんの世相の花火になったのは(ただしこの花火、火は落ちても空は燃え続ける)言わずと知れた「韓国叩き」。日本が荒稼ぎした朝鮮戦争以来、朝鮮(北)・韓国(南)に分裂しているからトリックが使いやすいが、ともかくまとめて、明治以来の「アジアに冠たる」近代日本の十八番だ。

 平成から令和の移行に先駆けるように、安部政権の「キタチョーセン」非難は、不意に「韓国敵視」にコンバートした。平成末期には、北朝鮮言うところの「ロケット」が飛ぶたびに、「核弾頭ミサイル」だと非難して、国内で「座布団頭に避難」の訓練を指示していた安倍政権は、令和のいまでは、「我が国に脅威のない飛翔体」とか言って、何度飛んでもゴルフを続けて涼しい顔だ。これは、アメリカのトランプ大統領が、身内からの脚とりもかわして、北朝鮮融和策を採っているから、ペンキの剥げた一枚看板の「拉致問題」で協力してもらうためにも、また「日米は完全に一致」に反しないためにも、ここはトランプ様の意向に合わせないといけない、というわけだ。

 そこで安倍政権は、北非難に代えて「韓国けしからん」を強く打ち出すようになった。どっちにしても「チョーセン」だ。きっかけは韓国最高裁の元徴用工判決だが、これを安部政権は日韓条約の包括合意に反するとして非難、なんとかしろと文在寅政権にかみつく。それ以来、戦闘機が日本艦船に照準を合わせたとか(こんなのは問題化しないためむしろ現場で処置するべきと、田母神先生も言っている)、そして令和に入ると、韓国経済の中軸を狙って半導体部品の輸出制限を打ち出し、韓国を「ホワイト国」から除外するという閣議決定までした。これはもはや経済的な敵対宣言である。
 
 もちろんその前哨には、前の朴槿恵政権で手打ちしたつもりの「慰安婦合意」を、民衆デモから生まれた現文在寅政権が見直す姿勢をとってきたことがある。慰安婦問題は、日本軍の名誉を貶めるものとして、その否定ないしは棄却が日本の歴史修正主義の中心課題となってきた。安部政権の中核支持母体はその歴史修正主義である。だから、その問題にもつながる元徴用工判決で、一気に韓国への強圧姿勢を示したということだ(その効果には大いに疑問があるが)。

 元徴用工問題は、財界を守るという意味をもつ。それも新日鉄や三菱系など、戦前からの軍需産業に関わる企業だ。だから安倍政権の姿勢は財界の支持を得やすい。それに、民主化運動から生まれた文在寅政権は、企業利益最優先の新自由主義的経済運営をやっていない。それが日本の財界は気に入らないから、その「失敗」を挙げつらい、韓国経済をけなすのが常態になっている。そこには、さまざまな悪条件を抱えながらも、IT・半導体産業などでも日本を凌駕してきた韓国経済に対する不安や警戒が働いている。

 というので、この「対韓強硬」姿勢はメディアでもオリンピックなみの支持を受けているようだ。ある世論調査によれば「ホワイト国指定除外」に対する支持は8割以上という。そんなときに、8月には「あいちトリエンナーレ事件」だ。韓国で慰安婦問題の象徴になっている「少女像」が展示されるというだけで、開始前日から大物ネトウヨが号砲、2日目には名古屋市長が会場に押しかけて「日本人が貶められる」と唸ると、夥しい数の恐喝電話やメールやファックス(「ガソリンを撒く」)が、たちまち展示を中止に追い込んだ。 他方で東京都知事は、今年も関東大震災時の朝鮮人虐殺慰霊祭へのあいさつを送るのを拒んだという。日本はすでにその時代のようだ。「戦時体制」を敷くのに、じっさいにミサイルや戦闘機を飛ばす必要はない。非常時だと、緊急事態だと言い募ればよい。そうすれば、ウソとフェイクで国民を走らせ食い物にする夜郎自大の天下は安泰だ。といっても「外交」は鬼門だ。都合よく「歴史修正」の効かない「他者」がいるからだ。この引っ込みのつかない「最悪の日韓関係」は、日本の「国盗りども」に吉と出るか凶と出るか。