コロナ禍明けたら(明ける前から)勘違い対中「開戦前夜」2021/04/18

「コロナ後の世界」がさまざまに語られる。だが、どうやらコロナ後の世界のもっとも深刻な変化は「世界分断の深化」のようである。単純にいえば「米中対立」だ。すでに「開戦前夜」を思わせる。

 トランプ大統領は紫禁城に迎えられてまんざらでもなさそうだったが、あるときから(再選戦略を立てる頃)中国に対して敵対的姿勢を公然化するようになった。ファーウェイ副社長をカナダで逮捕してGAFAM制覇に堰を立てる中国IT企業のグローバル展開を牽制、さらに中国からの輸入品に懲罰的関税をかけ始めた。これに中国も対抗措置で応じたが、トランプ政権はさらに関税を加重、やがては経済スパイ容疑で領事館閉鎖も打ち出した(中国はもちろんこれに対抗)。

 その間に、コロナウィルスが武漢ウィルス研究所から出たものだとして中国を非難、パンデミックに対しては国際協調が第一としてこれを否定するWHOのテドロス事務局長の辞任を要求して、アメリカはこの国際機関に拠金支出を拒否(すでにアメリカはユネスコの拠金も停止している)。欧米でのコロナ禍の蔓延に対して、中国の劇的な武漢封鎖などの「成功」は「専制国家」ゆえと批判し、折からの香港問題にも介入、台湾にも米中国交回復(1972年の北京政府承認)以来初の高官派遣に踏み切り、さらに新疆ウィグル自治区の「統合政策」問題を「虐殺」と規定して、国際的な「中国非難」を高め(「人権外交」?)、その孤立化を図ろうとしてきた。

 それに対して中国は、同じくアメリカからの圧力を受けているイラン等との連携を深める一方、コロナ禍に対しては「国際協力」を打ち出しワクチン供給を提案するが、それは自陣営に引き込むための「ワクチン外交」だとして非難される。

 これらの中国敵視・非難は、ここ数年で顕在化し、あからさまになってきた。もちろん、中国のGDPがあと十年足らずでアメリカを凌駕するという予測がすでに長らく出されており、それに対する警戒は以前からアメリカの底流にあった。だからこそトランプは、その流れに乗ることを再選戦略の基軸に据え、「模範国」としてはふつうはできない手荒なやり方で中国「制裁」を行ってきた。その最後の手が例の「虐殺」認定である。

 「法と秩序」のフェイク先導で選挙を乗り切ろうとしたそのトランプを破って当選したバイデン大統領は、アメリカの国内政策に関しては、トランプがオバマ前大統領の基本政策をことごとくお払い箱にしたように、閣僚任命からして次々にトランプ路線からの政策転換を打ち出し、外交に関しても「アメリカ利己主義」をやめて「国際協調」に戻ることを鮮明にしたが(といっても歩みは早くない)、こと対中国に関しては、トランプの傍若無人なやり方の「成果」にむしろ便乗して、中国脅威論・敵視をアメリカ(と西側世界)の自明の前提のようにして振舞い始めた(それがBLMからの玉突き現象のようにシノ・フォビア――アジア人差別を生み出している)。

 それをあからさまに示したのが、バイデン政権最初の対中会合アラスカ会議である(3月18-19日)。アメリカは中国代表を辺地アラスカに呼び出し、冒頭から中国を譴責した(アメリカ側からはブリンケン国務長官とサリバン大統領補佐官、中国側からは楊潔チ中共中央政治局委員と王毅外相が出席した)。ブリンケンは、新疆ウィグル・香港・台湾・サイバー攻撃・他国への経済圧力を取り上げ、それに対する懸念を話し合う…と切り出した。まるで植民地宗主国が保護国の内政を指導するかのような姿勢であり、それをバイデン政権は「当たり前」あるいは「国際社会の支持」があるかのように表明する。

 この扱いに中国代表は一歩も引かなかった。むしろ、これが客をもてなし話し合いをしようという姿勢か(アメリカはその前日に新たな経済制裁も課していた)と反論し、メディアを前にアメリカ代表と堂々と渡り合って、この会談が対等の国同士の会談だということを世界に示したのである。

 ここに現在の米中の関係と相互の姿勢とがあからさまに表れていた。折から今年は、中国共産党100周年と義和団の乱鎮圧後の「屈辱」の北京議定書120周年にあたっている。義和団の乱は西洋列強(と日本)による中国進出を排そうとする勢力が清朝を「扶ける」べく蜂起したいわば「攘夷」運動だったが(「扶清滅欧」)、列強の出兵で鎮圧され、清の西太后も廃されるという、中国にとっては屈辱的な結果に終わった。そしてその後10年で、今度は孫文らの「辛亥革命」によって清朝が内から倒され(「革命」というのは中国古来の観念だ)、初めて「中華」を名乗る「民国」が成立する。

 しかし、帝政を廃したそのときから、西洋列強(ととりわけ日本)の圧力の下で、近代中国の苦難が始まる。混乱のまま突入した世界戦争(中国では抗日戦争)後は、共産党政権が中国全土を再統一したため、アメリカは冷戦下で蒋介石の籠った台湾を保護下において大陸と敵対を続けるが、ついに1972年に台湾と断交して北京政府を国家承認せざるをえなくなった。国連の議席(常任理事国)も北京政府が引き継ぐ。だからその後は、台湾とは公式の「国交」をもつことはできなかった(非公式の接触・関係は継続)。だが、歴史的経緯もなにも無視するトランプは、自分の対中強硬姿勢を誇示するためわざわざ高官を送り込んで台湾を国家扱いした。

 この間、鄧小平の「開放改革」転換以来、中国は市場経済に舵を切り、ソ連社会主義圏の崩壊をも乗り越えてグローバル経済に参入、米欧が更なる経済成長のために広大な中国市場とその労働力を必要としたこともあって、それなりに順調な発展成長を続け(国内的ないびつさはあれ)、2010年にはGDPで日本を抜き(これが日本にはトラウマになる)、20年代にはアメリカに追いつくことも予見されている。経済指標だけでなく成長の基盤とされているテクノロジー面でも大きく成長し、いまや世界の最先端に並んでいる。

 このことには世界史的に大きな意味がある。この500年、世界は西洋諸国によって統合され、西洋文明あるいは西洋的諸価値や組織原理がいまではすっかり世界標準となった。西洋的原理はそれだけが「普遍性」をもつものであり、世界はそこに同化され、今では共有されているというわけである。その世界化の運動は西洋諸国の競争的展開によって担われてきたが、その帰結としての「世界戦争」以後は、アメリカが唯一の超大国としてその指導性を継承している。ところが中国の台頭というより復活、いわば「世界史への回帰」によって、現在アメリカが代表するその西洋普遍の世界編成の時代が終わる、少なくとも相対化されるのである。

 この歴史ある「大国」の復興や発展は、グローバル化の「共栄」の時代には避けがたいことである。しかし、このことに対して、アメリカには本能的と言ってよいほどの警戒感というよりむしろ拒否感がある。だからこの間、中国への警戒というより敵対姿勢がしだいにあからさまになってきた。現在の「米中対立」の構造は、アラスカ会議に見られるようにほとんど「開戦間際」の状況である。これが「開戦」に至らないのは、あらゆる「悪」の元凶とされている中国が自制しているからだと言ってもよい。

 アメリカは「人権問題」を言い立てて香港・台湾・新疆ウィグル(かつてはチベット)を中国攻撃の橋頭保にしているが、アメリカ自身は内にBLMとして噴出する構造的人種差別を抱えているだけでなく、かつてはベトナムに、またチリに代表される南米諸国に、意向に沿わない政権が生れると傍若無人に(あるいはCIAの工作で陰険に)それを潰して従わせようとしてきた国である。そのために制圧される国の国民は苦難の道を歩まされている。近くはアフガニスタン、イラクに対してもそうだし、今でもキューバやベネズエラに対する姿勢もそうである(グローバル・メディアはアメリカの側に立っているが)。

 もちろん、イランの国家体制はイランの人びとにとっても望ましいものではないだろう。しかしアメリカの目ざす「解放」はイランの人びとのためというより、アメリカの市場にその国の富を「解放」するための圧力であり戦争である。中国についても、アメリカがつねに「解体」への圧力をかけ続けるから、中国政府としてはそれに対する防衛態勢を取らざるをえない。喧伝される中国の軍事拡大、東シナ海進出なども、そうしなければアメリカ的秩序に呑み込まれることになるからである。だから、中国の「進出」姿勢は、アメリカ的圧力秩序に対する反動でもあると見なければならない。それをアメリカが「中国の野心」などと言えた立場ではけっしてないのだ。

 コロナ禍(パンデミック)に際してのトランプ・アメリカ政権のWHOに対する姿勢がそのミニチュアである。健康上の国際協調のためにであるWHOを、「中国寄り」だとしてボイコットするのが「協調」を基調にする国のすることだろうか。もちろん、最近の中国の姿勢全般に対して、「協調」を要求するのは国際世界の一致した考えだろうが、それを要求できるのはアメリカではないのだ。むしろアメリカこそ、中国をグローバル秩序に 対等のメンバーとして受け容れる姿勢をもつべきではないか。

 日本政府の右往左往、あるいは目に余るみっともない「アメリカ抱きつき」は、このようなコンテクストの中で、日本(の統治層)が一度も国際社会での「自立」を考えたことがないその習性のつけである。


*21世紀はフェイク・メディアの時代だが、それはグローバル化が歴史をチャラにして平気なこととも関係している。そこでは、かつての自由主義ヒステリー「反共」は、みずからを自由民主主義と規定し、フォビアの対象を「赤い恐怖」ではなく「専制主義」と呼び変えている。その点では化粧直しの「マルクス」とハイエナ「ハイエク」とが結託するという喜劇が演じられ、手を携えて「専制主義」と「ポヒュリズム」を批判する。だが、中国の「幸福な全体主義」と日本政府の陰険な「デジタル監視化(技術なし)」とどちらが民主的なのか?

追悼、「来るべきこと」の詩人若松丈太郎2021/04/25

 若松丈太郎さん、じつはもう「生きて」いなかったのかもしれない。
 
 『北緯37度25分の風とカナリア』を上梓したのが2010年。この詩集には、柏崎刈羽と福島第一を結ぶ線上の「歌枕」を長年かけて行脚したような詩がまとめられている。かつて平安の昔ならここから先は「越せない」辺地、だから都人が感慨を込めて歌を残したり、邪の怖れをなだめるかめの社が作られたりしている。そこが昭和の時代には首都圏に電力を供給するためにダムが作られ、やがては原発が作られる境になる。それが北緯37度25分あたりだという。
 
 この地で1000年を超えて刻まれてきた言葉、それを現代の報道の言葉と織り合わせ、それを生きる不穏な意識の海に浮かべて、日常の浅くもあり闇を穿ったりする意識の表層に紡ぎ出す。カナリアは炭鉱で不穏を告げる小さな生き物だ。若松さんはこの境界上のカナリアとして聞く人の耳に届く歌を歌い続けた。
 
 その巻末近くに、海の広げる「気の遠くなるような時間」を視ながら
 
 世界の音は絶え
 すべて世はこともなし
 あるいは
 来るべきものをわれわれは視ているか
 
 というリフレーンを含む、「みなみ風吹く日」が収められている。
 (まだ自覚もない「人新世」の初めに、詩人は歌うことができた――
 また見つかったよ。
 何がさ?――《永遠》
 太陽といっしょに
 行ってしまった海のことさ (鈴村和成訳をレタッチ)
 
 しかし、「千の太陽よりも明るい」とロベルト・ユンクが形容した「人工の火」が陽光を翳ませる現代では、福島の海に立つとき、そこに広がる「永遠」はまったく別の様相を帯びざるをえない。「来るべきものをわれわれは視ているか」と。
 
 その詩集を上梓して一年が経ったころ、「来るべきもの」が来てしまった。「未来」が、「永遠の時」として詩人の(わたしたちの)「現在」に陥没してきてしまったのだ。それ以来、「気の遠くなる時間」は放射能の半減期としてわれわれの「起きてしまった未来」になる。
 
 その後に、詩人は何を語りうるのだろうか。それでも「黄泉」を潜るように語り続けたものが2014年に『わが大地よ、ああ』(土曜美術社出版販売)から出されている。2012年に一度南相馬でお会いする機会があった。しかし、ほとんど何も語り合えなかったような気がする。ただ、『…風とカナリア』の詩人は「来るべきもの」の襲来を超えて、なお語り続けようとしていた。(バタイユの「禁止と侵犯」の描写を思い起こす。侵犯によって禁止は廃絶されるのではなく、再び地平のかなたに現れる。言葉はこうしてまた禁止に向かって打ち寄せるのだ。)
 
 ただ、それ以後は、若松さんにとっては「来てしまった"来世"」だったと言えなくもない。とはいえ、若松さんはずっと高校の教師をしていた(日本の教育では、「国語」という教科が、子どもたちに表現と思考との手ほどきをし鍛える唯一の科目になっている)。その子どもたちと接していたからこそ、若松さんは"来世"からも語り続けたのだ。
 
*この詩集と詩人の存在を私に教えてくれたのは、あるときふと出会った小森陽一だった。福島を考えているとき若松さんの詩は目を開かせるようなものだった。小森には感謝している。あまり機会はなかったが、『アフター・フクシマ・クロニクル』(ぷねうま舎、2014年)に収録した「地震(ない)に破られた時間、または手触りのある未来」(初出、『世界』2012.01臨時増刊)は若松さんの詩に多く触発されて書いた。

カズオ・イシグロの新作『クララとお日さま』2021/04/28

子供のパートナー用として販売されるAIフレンドの話。どうやらこの作品世界(近未来?あるいはオルタナ世界?)では、「優秀」でありたい(親がそうしたい)子供は「向上措置」(遺伝子操作)を受けるらしい。それがうまくいかないと病弱(不具合)になる。そんなジョジーという女の子のサボートのために(あるいは欠損を埋めるために)買い与えられるのがクララだ。今ふうに太陽光を糧として「生きて」いる(『私を離さないで』のクローンとは違う)。

クララがどういうふうに「新型製品」として作られたのかは分からない。ディープラーニングで環境世界・人びとへの対応にみずから適合化する段階までは作られているようだ。クララはその理解適性が高いようだ。その能力によって、ジョジー、その母親、友人リュックとその母親、ジョジーの父親等々の関係のなかで、ジョジーを守りその生を豊かにする(?)役目を練り上げながら(たぶんそこにはアルゴリズムはない)、ジョジーのいる世界の媒介的役割を深めてゆく。けれども太陽光(エネルギーではなく光だ)で「生きて」(「機能している」とは言うまい)いるためか、陽光を燃料以上の、存在の恵の源とみなしていて、それが太陽信仰にまでなるようで、ジョジーを「救う」ためにその功徳(効能ではなく)を発揮させる。この点で、このAIロボットはカルト的なのだ。そしてジョジーを決定的に救う(「向上措置」の失敗を癒す)と、ジョジーはクララのサポートなしで自分の生を生きてゆくようになる。「ミッション・コンプリート」(『私を…』では明示されていた)。クララのミッションとは、自分を必要とした女の子が、自分なしに生きてゆけるまで支えることだったかのように。あるいは周囲にとっては、「代わり」としての自分が無用になるまでに人びとの関係の綻びを埋め合わせする。いわばAF(人工友だち?)としての自己の無化、あるいはサクリファイス。そして最後は、自分が使命を果たしたことに充足しながら、廃品置場で、クララがこの世に出る媒介を果たした「店長」の訪問を受けて、もはや「物語」は尽きる。

 作家にとっての冒険は、この機械的製造物に「生きた」主観をもたせることだったはずだ。冒頭から語りはAFクララだ。それは「物語」が成立するほどには十分にできているし、そこから見える世界も、感覚の学びのプロセスもそれらしく描き出されている。いささかアニメーション風ではあるが。「不思議」は、自分の生成過程を知らない(それにはまったく意識が向かない)クララが、初めから店のショーウインドーに立ち、外界にしか志向をもたない意識を展開してゆくことだ。その意識は「自己」に回帰することがない。つまり「反省(リフレクション)」がない。しかし周囲を観察し、標定し、推理し、それがクララの「意識」を作ってゆく。つまり「自己」のない意識、けっしてエゴイズムにならない、その能力が高いのだ。

 200年前のメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』や、100年前のカレル・チャペックの『ロボット』は、「自己」を持ってしまい、そのために前者は悲劇的な破綻の物語となり、後者は叛乱と破滅を引き起こす。だが、現代のAFクララには自己がない。あるとしたらそれは、自己という形をとらない存在への「信」、太陽光への祈願だけだ。それがクララを「人間らしく」している。

いずれにしても、これが文学的想像力によるものである以上、現実の技術的可能性云々について論じる必要はないわけだが、その作品世界の設定には、作者の科学技術的可能性に関する認識や、それに対する想像が取り込まれているはずだ。そのうえで、願望や実現されている事態を、人がどう生きるかということを軸に物語が繰り広げられる。『フランケンシュタイン』は、製造された「怪物」が、言葉を獲得し感情をもち思考し、そのように「成長」しても人間世界では「異物」としてしか存在しえないことの悲劇を語り出していた。創造への介入は愛すべき「こども」ではなく悲劇の「怪物」を生んでしまったというのだ。『ロボット』の方は、人間の目的志向によって作られた「労働機械」が、その意図を超えた存在になって(自ら意志をもつことでそうならざるを得ず)、「人間的(支配)世界」そのものに働きかける(破壊と叛乱)情況を、非人間化のイデオロギーの逆説とともに語り出した(チャペックは演劇化してみせた)。

 だが『クララとお日さま』はAI化・遺伝子改良世界の眺望から、ひとつのヴァーチャル・ファミリー・ファンタジーを生み出したという風情だ。AI化世界はたんなる風景または素材で、そのこと自体は物語の外におかれている(それは『私を離さないで』も同じ)。最後まで読んで、しばらくして思い至ったのは、これも「執事小説」(『日の名残り』)だ、ということだ。自己犠牲と自己充足とが区別されない、ミッション・コンプリート。もっとも「内密」な物語だが、ここには「自己」がなく、物語は逆にクララの関わったジェジーたちの世界を締め出している。だから最後に、クララは用済みになった自分を何事でもないように見出す(再利用の可能性もないようだ、中古品は売れないのか)。ただ、夕陽を前にして執事が浸った無上の愉悦はない。それでも、クララに何の陰りもない充足があることはたしかだ。それはクララの「内面」世界が、主人たちの世界を吸収すべき素材としてしか扱っていなかったから。

イシグロはこうして「同じ」小説を書き続けている。クローンはいいだろう。クローンは基本的に人間と同じで、人間として生育し、成長し、言葉を身につけて私になり、他者たちの間で社会化してゆく。だからペールシャムの学校は「培養・育成」学校として子どもたちの充実した世界になる(として語り出せる)。けれども人工フレンド(AF)だとどうだろう。その「私」(発話主体)はどう始まり(起動し)どう成長してきたのだろう。小説はクララが製品として店頭にならぶところから始まる。クララは周囲を認知し、世界の事物をよりよく理解しようと観察し受容するが、そのことをどのように「意識」しているのだろう。イシグロはその過程と構造は作品外に置いて、まずクララが店に置かれたところから始める。だからそれ以前は、そしてクララの生成は問われない(それが「自己」がないということだ)。そのことがこの小説を冒頭からファンタジーにしている。その根や根拠を作品の「外」に、背後に「ない」ものとしているかぎりで、クララに「理性=根拠」はない。クララの「お日さま信仰」はそのためでもある。自分にエネルギー(生)を恵み与える陽光は、クララの意識にとっては対象意識や認知能力・理解力の外にある「恵み」の源として、「信」の対象でしかありえないのだ。だから「理知」的なはずのクララは、同時にカルト的でもある。ただし絶対孤独・自己充足の。

 邦訳の解説者は触れていないが、ジェジーの病気とは「向上措置」(遺伝子操作)による支障だろう。それはすべての生命の源である太陽光の「特別な計らい」によって治癒(克服)される。これは福岡ハカセ的な生命観だと言っていいだろう(生命とは諸組織の機能の複合ではなく、全体であることに宿る)。

 ミッションを果たしたクララが最後に自分を見出すのは、不要品置場(捨て場)である。そこではAFはもう自分で動けないよう処置されて横たえられているらしく、「店長」は低いブリキのような箱をもってきて座り、覗き込むようにしてクララに語りかける。自分の製造過程を意識の外にしているクララは、この身の上にも何の不満も不当も感じてはおらず(人工知能的に「理解」しているのだろう)、青い空を背景に、振り向くことなく立ち去る「店長」を見送る。それで途切れる語りに、というより残される沈黙の余白に戸惑って淡い悲しみを感じるのは、ただ読者だけだということだろうか。

 提示されたファンタジーの世界というより、イシグロの物語の紡ぎ方が逆光のなかに浮かび上がる、そんな作品だった。

[追記] クララが、視覚(超精密センサー感受)の惑乱を超えて未知の原野を横切り、「マクベインさんの小屋」で溢れるお日さまの光に包まれるところでは、『風の谷のナウシカ』がオームの無限の触手のなかで蘇生する場面を想起せずにはいられないが(あるいは、神秘主義的な「受胎告知」、またはバタイユの「…天啓の照射に照り輝く…」を)、クララはAI的被製造物、ナウシカははじめから「いのち(生き物)」として想定されている。「マクベインさんの小屋」は、クララにとっては「受肉」の場所であるかのようだ。そして陽光が、テクノロジーの埋め込まれた世界(映画『ガタカ』のように、「処置」を受けているかどうかで人が選別されるされる世界)で、その埋め込みの失敗によって衰弱したジェジーを復活させる。そしてジェジーは締め出されようとしていたその世界に復帰してクララのもとを去る。しかし、クララにとってはそれが「ミッション・コンプリート」だ。逆説的な「達成感」が居場所のなくなるクララを満たしている。もはやクララはクララと呼ばれる必要もない。固有名詞はいらない、ただ一個のB2型AFだ。しかし、名を失ったクララは、二つの透過するパラレル世界(製造する側と享受する側)をいわば「非-知」によって繋ぎまとめるこの作品によって、神話的な名を受けることになるだろう。「クララとお日さま」そのタイトルから響いてくるのは、あらゆる負荷を洗われたあの名前「アマテラス」ではないだろうか。

*『私を離さないで』にはたいへん衝撃を受けると同時に舌を巻いて、「思い出をもつことの無惨」という批評を書いた(『理性の探究』岩波書店、2009年)。それほど本格的にではないが、挑戦するイシグロに敬意を表して今回もその作品について考えてみた。