★なぜ「Goto」はダメなのか?2020/12/02

 コロナで誰もが出控えると、各地の観光業とその周辺で生活する人たちの経営が破綻し困窮する。その人たちの数は半端ではないから、地方にとっては(都市圏にとっても)重要だと言われる。だから、人びとがコロナを恐れず積極的に旅行して消費するよう促すのがこのキャンペーンである。そのために旅行や旅先での消費に半額近くの支援をする。その支援が旅行者の消費として交通・宿泊・飲食業者たちの売り上げになるということだ。

 だが、一方でコロナ感染が広がりを見せ、病院が逼迫し始めているのに、人びとの移動(それも団体が多い)や行楽を推奨する(誘い出す)というのは、政策としてまず倒錯している。文字どおりアクセルとブレーキを一緒に踏む政策だ(一方で「我慢の三連休」とか言い、同時に「Goto」は「適切に推進する」と言う)。

 それに、なぜ困窮者・困窮業界に直接支援しないのか。たとえば、ここ三年間の営業実績のたとえば七五%までを補填支援するとかは、税務署の申告に照らせばすぐにできることだろう(還付の届け出口座を使えば振込みも適切かつ容易にできる)。

 それを観光クーポンのような形をとろうとするのは、"経済"があくまで個人の欲望にもとづく"消費"によって回る、という新自由主義的な考え方のためである。そこでは購買行動は、あくまで個人の自由にもとづくもの、そして自己責任である。自己責任で「自由」に動いてもらう。それによって"経済"を回すというのだ。

 だがそれは、暑いから扇風機を回したいというときに、電流を通してモーターを回すのではなく、風を待っている人たちに団扇を配って扇風機を扇がせるようなものである。扇風機はトロトロと回るかもしれないが、それでは少しも涼しくないし、すぐにまた止まってしまう。

 なぜそんなバカげた政策に固執するのか? ひとつには、直接給付は利権を生みにくいという今の政治家たちの都合がある。それと、観光業インフラの維持は新自由主義化した国の経済にとっては至上命題だからである。

 だいたい、なぜ地方はここまで観光業に依存するようになってしまったのか?地場産業は非効率で競争力がないというので淘汰させ、地域商業も衰退させて、地方にはもはや自力で経済を成り立たせる構造はなく、あるもの(地域遺産)をPRで粉飾し、呼び込みで"観光客"の足を運ばせてヴァーチャル商品を"消費"してもらうしかないのである。
 (元々、これは世界的には七十年代のユネスコの世界遺産指定から始まった。観光業とは、原料の要らない、"消費"だけで成り立つ最後のインダストリーなのである。)

 国内でいえば首都圏・都市部と地方だが、日本はいま国としてもそのような段階に入っている。もう作って売るものがない。だから国を挙げて「インバウンド」頼み、「オリンピック」はその実情を糊塗して花火をあげる「観光業化」のあられもない姿だ。

 このコロナ禍のさなかでも、日本の地域農業に決定的な打撃を与える「種苗法改悪案」が国会を通過した。グローバル化に適合するとしてこの間採られてきた日本の経済政策が、コロナ禍下でも相変わらずの路線として進められている。

 「デフレ脱却」を掲げて、日銀がどんなに円札を刷りまくっても、"消費"は伸びず、物価は上がらない。そして7年経ってもインフレ目標2%は永遠に達成できないのだ。それもそのはず、"消費"しようにも大多数の人びとにはその余力がなく(賃金抑制、非正規雇用増)、大企業は内部留保を増やし、国策株高の恩恵を受ける資産家や小金持ちだけが奢多品を消費するだけだからだ。

 ついでに言っておけば、政府はこの春から医療充実にほとんど手を打っていない。むしろ決まっていた医療の合理化・スリム化をそのまま進めている。それも、"受益者負担"の考えに立つ新自由主義的「改革」だ。

 だから「コロナ危機」は、「命か経済か」つまり、保健衛生か経済対策かという二者択一のジレンマを引き起こす。その時点で国の行政は破綻しているといってもいいのだが、だから一方で「自粛」つまり「自己責任」論理で脅しながら、コロナに委縮せずどんどん旅行に行きなさい、といった倒錯的な政策が出てくることになる(そして政府「専門家」たちは、それに異を唱えられずにオロオロし、子供でも分かるマスクの使い方を「専門家」として訴えている)。首相が誰であろうが、今の自民党政府はこの出来上がったレールの上で走ることしかできないのだ。

 地方で観光業で生活している人びとも、「Goto」に期待などせず(それでは長期的にも暮らしていけない)最も妥当な直接給付を求めるべきだろう。そして長期的には、観光業一辺倒から脱却する道を探らなければならない。予算が…という言い訳は、日銀に無制約に札を刷らせ、年金資金も株に投入している政府の言えることではない。

(経済の細かいことはわからないが、大筋は間違っていないと思う。ぜひ、経済学に詳しい人に詳述してもらいたい。)

★舵の効かない「Go to」五輪2020/12/03

もう12月、明ければオリンピックだそうだ。コロナ下でのオリンピック強行開催(準備をコロナ下で進めなければならない)。大勢の選手団や関係者に来てもらわねばならない。「オモテナシ」のために、政府はワクチン接種を入国条件とせず(一部の国しか間に合わない!)、交通機関の利用にも制限をかけないという。ただ、感染監視アプリを義務付けると。それで、大量の五輪観光客を受け入れ「移動の自由と感染対策の両立を目ざす」のだそうだ。

日本の政治環境はそれで通っても(そんなことを政府が平気で発表できる!)、世界のまともな人びとも政府も、デタラメさと無理やり五輪開催国の無責任ににあきれるばかりだろう。世界に混乱を招くばかりだからだ(「Go to」観光客はいざ知らず、国も選手たちも困惑する)。

オリンピックはアベ・スガ政権の性格というより、今の成長戦略会議に引き継がれたこの間の日本政府(野田内閣以来!)のグランド・デザインに従って、アベ内閣が目玉として据えたプランで、この間の日本政府の全般政策の牽引車、やるしかないものになっている。もはや路線変更ができない、その能力がないのだ(だから「インパール作戦」にもなぞらえられる)。

コロナ禍は降って湧いたその障害。だからこのパンデミックに際して、日本では対策は初めからオリンピックに支障をきたさないことだった(クルーズ船の頃)。2020年にできないから中止というのでなく、無理やり延期に持ち込んだ(4年毎に一度というのはオリンピックのアイデンティティ)からなおのこと、世界に何と言われても実施を目ざすだけ。

だからコロナ対策は、基本すべてオリンピック実施対策。それがすべてに優先する。コロナなど迷惑でしかない。四の五の言うな、下々はみんな自分で「自粛」し合ってコロナを抑えろ、お国はオリンピックにまっしぐら、「Go to 五輪」の一点張り。その無理も半分わかっていても、もう誰も舵を切れない。

その政治の盲点は、アベ・スガ日本がトランプに期待したように、政権自体がもう内向きになっていて(支持率高いから)、世界からどう見られるかがまったくわかっていないことだ(外務省は臆面もなくドイツ都市の慰安婦像設置に抗議したりするし)。トランプにすり寄れば、その時点で世界からは顰蹙を買うのに、その草履もちになることを「影響力がある」と勘違いする外交感覚だから。

いま世界で、オリンピックに関心を向けている国などひとつもない。みんなコロナ対策が最優先課題だから。スポーツの記録競争より、ワクチン開発・獲得競争。それはそれで、倒錯的ないわゆる「科学の政治利用」だが、とにかく国民の健康・生命維持が第一課題ということで、日本にオリンピックをやってくれなどと誰も期待していないのだ(競馬馬のように目によそ見禁止の覆いをつけている選手たちは別として、というと競馬馬に失礼か、馬は好きだが、人間のアスリートは馬ではないだろう)。

人工知能に鮫の皮――「おぢいさんのランプ」に寄せて2020/12/27

 私たちが小学校の頃は、年に二、三度、学校で映画の上映会があった。もちろん、文部省推薦映画とお墨付きのあるものだ(その頃の文部省は多少ともまともに「教育」に向き合っていた)。筑豊炭田で父を失い極貧を生きる在日少女の手記を映画化した『にあんちゃん』(今村昌平)などもその機会に観た。ほとんどは忘れてしまったが、その後何度も思い出し、いまでも印象を刻んでいるのは『ランプ屋おじいさん』という映画だ。いや、後で知った新実南吉の原作通り『おぢいさんのランプ』だったかもしれない。

 孤児の巳之助が初めて都会に行ったとき、ランプの街並みに魅せられ、ひとつ安く譲ってもらって以来、町の行燈屋に恨まれながらランプを売り、店を構えるまでになる。それで繁盛して生活も安定するが、あるとき町に電気が引かれるようになり、ランプはまったく顧みられなくなる。巳之助は悔しさのあまり、区長の家に火をつけようとするが、マッチ代わりにもってきた火打石では火がつかない。古い道具は役に立たないと思った己之吉ははっとして憤りから醒めた。その夜、仕入れていたランプをみんな池の端の木に吊るし、石を投げて割るが、それも途中でやめて、街に出て新しい商売を始める。

 倉の中からランプを見つけて遊ぶ孫をつかまえて、そんな昔話を聞かせるおぢいさんがその己之吉だったという話だ。

 文明開化の時代に、目ざとく灯油ランプを売って財をなした者が、それを駆逐する新しい電気を憎むが、自分が成功したのもじつは新規の技術が普及すると見込んだためだったと気づくのだ。映画のメッセージは、子供の記憶の中で、高度成長期の花形企業(文字どおりナショナルの)松下電器の創業者松下幸之助とも重なった。文明開化と技術革新によって進歩し変わる世の中にどう向き合うかという教訓がそこに生まれる。

 ただ、若い新実南吉(二十九歳で没している)の老いた主人公は、時代に従うべく電器屋になるのではなく、灯りの革新とは縁のない(明かりのもとで読まれるわけだが)本屋になる(そのことは今回確認するまで忘れていた)。

 この話が近年とみに脳裏に去来するのは、「おぢいさん」と呼ばれるにふさわしくなった私自身が、技術革新と時代の波にいま思想上で逆らおうとしているからである。ひとことで言えば、デジタルIT化の趨勢に「生きたからだ」を押し立ててさからおうとしているのだ。その趨勢は、「この道しかない」と言われた(そして事実世界がそれを受け入れている)「新自由主義」のレールと不可分である。

 別の言い方をすれば、ドゥルーズ以来のマシニックな欲望の解放の理論と、認知科学を思考に置き換える科学主義への、時代遅れと言われもする「無駄な」抵抗である。このことを、「人工知能に鮫の皮」と表現したら(春秋社ウェブ連載『疫病論』)、昔から信頼しているある知人に「それでは誰にも分からない、理解されない」と言われた。その表現の発想自体が「おぢいさん」のものということでもあるだろう。言いたかったのは、コロナ禍を奇貨として加速し(ドゥルーズ的加速主義!)世界を舐め尽すデジタルIT化の津波に、鮫の皮をあててワサビのように擦り下ろすということだ。

 そんなことをすれば、かつては「ラッダイト運動」(資本主義化する世界の最初のテロリスト)とバカにされたことだろう。だが、核エネルギー技術と遺伝子工学によっていわゆるテクノロジーと人間との関係が根本的に代わり、人間がヴァーチャル次元に呑み込まれつつある現在では、「技術への抵抗」しか人間の生き延びる道はないのである。

 けれども、その危惧も、脱皮について行けない古い人間の古い思考としかみなされない。進化論に従えば「ポスト・ヒューマン」は不可避だというわけだ。あるいは、ヘーゲル以来の保守的・内在的な「人間主義」に止まることなると。しかし、その言い方こそが、西洋啓蒙思想の懲りない「進化」、それが目標とする「リアル(もの自体?)」からの「エグジット」(脱出主義)を正当化している。

 すでに70年も生きてきたのだから、四の五の言わずに何もできなかったことを認めながら世の中から「引退」するのが「大人の道」とも思うのだが、思考の世界でも、ヴァーチャル化の流れに掉さす連中ばかりが「新しさ」を売り物に跋扈する「今」を見て、だからこそ死ぬわけにはいかない(誰のため?)と、ひたすら鮫の皮を磨く毎日である。

 新実南吉は早くから腎臓病を患い、わずか二十九歳で亡くなっているが、死の前年に『おぢいさんのランプ』を出版した。彼は若くして晩年を知り、電器が世界を変えてゆく一時代を生きた「おぢいさん」に、技術革新とはとりあえず縁のない本屋を開かせた。読み書く世界だ。いま、その「読み書き」がデジタル・ヴァーチャル化によって淘汰されようとしている。そのとき「おぢいさん」は晩年を永遠の「若さ」として淘汰される世界にあくまで留まろうとするのである。

「アメリカ黙示録」時代の「思想地図」2020/12/27

 ――イギリスの民間調査機関が、コロナ・ショック後の予測として、2028年には中国がGDPでアメリカを凌駕するという調査結果を発表した。5年前の調査では、その時期は2033年だった。(NHKウェブ・ニュース)

 たぶんこれ、実はショッキングなニュース(「アメリカ」は発狂するかも)。トランプの中国強硬策が選挙運動に使われたのも、バイデン政権がその方針を踏襲するらしいのも、中国が経済的に米国を凌駕することに「アメリカ」は耐えられないから。

 戦争はやってみないと分からない(と思われている)が、経済は自分たちの作った指標で数値が出てしまう。世界に冠たる「アメリカ」が、アジアの蒙昧なチャイナの腐れ年寄りが若返りを狙って歪な共産主義で復活して、とうとう「文明(=西洋)の頂点」アメリカを凌駕する!これを「アメリカ」は許せない。

 だから最近の中国叩き・中国敵視(しかし、90年代のアメリカIT企業転換にも、その後のリーマンショックから立ち直るためにも、中国の「成長」があったからこそアメリカ経済は進展してきたのに、それが許せないというのはいかにも理不尽な独善だと言わざるをえない)。いわゆる「西側世界」はそれに乗り、いっしょになって制裁姿勢。

 中国が軍事大国化するのは、この百年ずっと西洋諸国に食い物にされ、復興するにもつねに封じ込められて、その上、台湾を使って喉元にミサイル突きつけられ、東シナ(!)海も米第七艦隊で我が物顔の圧力をかけられてきたから当然のこと。習近平の独裁志向に国内向けの偏りが強いとしても、それが可能になる(いわゆる民主化が進まない)のは、米枢軸の西側圧力が攻撃的なため(中国人なら、中国が外圧で圧迫・解体されるのを望まないのは、この百年を歴史を知っていればこそあたりまえ)。

 日本のいわゆる識者・解説者等は、骨の髄まで「アメリカ」に染まっているので、西洋による世界化のプロセスも、アジアのこの百年の歴史も一顧だにしない。現在の世界構成(歴史なき地政学)を天与のものと思い込んでいる。

 西側世界が追従する「アメリカ」の独善は、西洋白人文明の卓越という「近代」普遍主義から来ている。だが「アメリカ」は異民族抹消の空白の上に築かれた「自由」の人工世界。その成立には、異物のラジカルな蔑視と略奪と他者抹消を当然の「権利」とする、根本的倒錯がある。その倒錯を「啓蒙」のネオンの光で粉飾し、世界を魅了したのが二十世紀に世界の鑑(自由と民主主義!)となった「アメリカ」である。

 その「アメリカ」が虚飾を維持できなくなる。その時が近いという「発表」だ。「終りの日が近い」、アメリカにとって今は「黙示録」的時代なのである。だからこそ「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」のトランプが大統領になり、そのフェイクがあからさまになった今、「アメリカの精神」は完全にカルト化して「トランプ・アゲイン」のネット・メディア地下水脈に広がっている。

 その上澄みできらめくのが「暗黒啓蒙」の思想(ニック・ランド)、筋金入りの西洋文明至上主義であり(ポピュラーなレヴェルではあらゆる類の「ヘイト」現象として発現)、その上にヴァーチャル・テクノロジーの天蓋をかけて世界を引っ張っりつつ、みずからは「世界」からの「エグジット(脱出)」を試みる、シリコンバレーの「自由主義者」たちの使い走りたる「加速主義」であり(マルクス・ドゥルージアン)、さらに涼しい顔で世界のデジタルIT化を加速して「公私」を混淆させ、虚構の富を掌中に収めて世界の「生きたアイコン(偶像)」となっているのが、IT企業長者たちである。彼らは「思想」(人間が考えること)を解消したため、名前がない。だがそれにみごとに名付けた者もいる、「シリコンバレーの解決主義」と。

 これが現在の「アメリカ終末論」の「思想地図」である。

*「アメリカ」に括弧を付けたのは、「アメリカ」は国の名前ではないからだ。それは「新しい西洋」として作られた「制度的空間」の名前である。『アメリカ、異形の制度空間』(講談社メチエ)参照。