佐川喚問の後、ほとぼりが…?もうやめてくれ!2018/04/02

 佐川喚問の後、ほとぼりを冷ましながら「外交で支持率回復」?といった声も聞こえる。ほんとうか?(FBに挙げたものをこちらにも掲載)

 ほんとに酷い話ばかりで呆れるしかない。
 「ウソアベアソウ」という回文もあるとか。こういう下劣な人間が集まって権力をとり(もちろんそれを担ぐ連中がいる)、働く者や弱者を絞り上げる一方で、後先考えずに札束刷って財界を儲けさせ、それを批判する勢力はネトウヨを使って嫌がらせ、挙句に選挙で腐れウヨクの議員を増やし、権力行使でカルト発言、マスコミ攪乱、あちこち恫喝でゲスな圧力。目ざすは改憲または緊急事態だ。これさえあれば合法独裁できるから。

 しかしその内実は、たんに「オレたちが殿さま」の情実政治。一時代早かったのでポスト真実(ウソ・デマ社会)に間に合わず、主流になれなかった石原ジジイも、森友なんかよりもっと大事な国事が…と言うが、戦争をしてはいけない時代に戦争準備態勢とは、たんに権力集中を正当化してやりたい放題できる状態を作ること、つまり森友加計で露見したことがその実態だ。

 権力強化は、戦争するよりむしろこっちが狙い目。官僚に文書は破棄させ、メディアには寿司を食わせて、司直にも手回し、これが「強い政権」のカラクリだ。要するに政治の私物化・国事の私物化、その口実が「お国のため」。「国民のための政治」なんて言わせてはおけない、国民は国に奉仕すべき、そう言って国家(権力)は自分たちのものにすればいい、と思い込んでいるのが現代のウヨクだ。

 中国・北朝鮮の分断敵視もそのため。グローバル化以来世界の状況は大きく変わっている。もう米ロの時代ではない。にもかかわらず、単純な「強いニッポン」幻想に閉じこもり、あわよくば国をガレー船状態(奴隷国民が漕ぐ軍船)にして乗り回そうとする。

 だがその実態は、「アメリカ様」(宮武外骨)への貢ぎ・抱きつきの国売りだ。アメリカの庇護の下でないと自分らの権力は維持できない。戦後のウヨクはみなアメリカの岡っ引き。だから被爆国なのに、倒錯的に核戦略までしっかりやってくれとおねだりする。

 そうこうするうちに、日本はもはや世界の三等国に成り下がってしまったのが実情だ。もはや国民は豊かでもなく、自由でもなく、国際的にはまったく信頼・信用もない。国内は社会分断・教育破壊で技術も産業も未来も真っ暗、それでもいまの政権は、オリンピックまでもたせればいいと思っている。それがアベアソウ政権6年(それ以上?)の実態ではないか。「もうやめてくれ」が民の切実な声、いや悲鳴。

小森陽一編著『「ポスト真実」の世界をどう生きるか』2018/04/15

 小森陽一編著『「ポスト真実」の世界をどう生きるか』(新日本出版社)が出ました。これは小森さんが4人のそれぞれ違う分野の論者を相手に、「ポスト・トゥルース」がキーワードとなるような社会の情況のなかで何が問題になるのかを多角的に照らし出そうとしたものです――香山リカ(差別とヘイト)、日比嘉高(ネット社会)、浜矩子(フェイク経済)と西谷。

 フェイク(ウソやでっち上げや隠蔽)がまかりとおるばかりか、それが政治や社会運営の強力な手段となるのはなぜなのか、それで実際には何が行なわれるのか、あるいは、なぜ「ウソ」は通用力をもつのか、受け入れられるのか、むしろ求められるのか、その「ウソ」に対して知るべき真実とはどこにあるのか、何がごまかされるのか、それに対して真実は足場となるのか、それはどうして価値なのか、どうしたらこの「ウソの壁」を突き破れるのか、等々。

 昨日(4月14日)は、森友・加計問題の真相解明と安倍内閣の退陣を求めて、国会前に数万人が集まり、デモンストレーションを行いました。関西でも二千人のデモがあったと伝えられます。その背後にある憲法改正(安倍改憲)や自衛隊の問題も、「フェイク」の上に組みあげられていることが、最近また露呈されてきました(政府・防衛省が何を隠し、ウソの論議をやらせているか…)。

 実はこの「フェイク」は、それを通用させるために「ヘイト(憎悪・蔑視)」を必要としています。安倍首相はそれでも選挙戦で公然の場だから少していねいに「あんな人たち」と言って指差しました。つまり権力者がこうして差別の線を引き、それへの「ヘイト」を煽る。その上に「フェイク」はまかり通ります。いや、それは一体のものだと言ってもいいでしょう。日本でのその典型は「在日特権」というものです。その主唱者はいまではトランプにならって「日本第一党」(日本ファースト党)を名乗っています。そのような「ヘイト」が「美しい国」というまったくの「フェイク」を必要とし支えるわけです。

 この日本の「フェイク」政治風潮は、アメリカやヨーロッパの風潮と呼応しています。ひとことで言えばグローバル化した世界の政治・経済・社会・人びとの意識を巻き込んだ、全般的な流れのなかにもあります。つまり世界史的な流れの中で、アメリカにはアメリカの、日本には日本の、固有の条件を帯びて現れてきているのです。

 このことを知っておくのは無駄ではないと思います。知ること自体は直接的には無力かもしれませんが、力の源ではあります。いまはまさに、「真相」を知ることと「フェイク」ですますこととが、まさにぶつかり合う時代になっているのですから、なおのことでしょう。

 ということで、小森さんのこの企画にわたしも積極的に参加しました。香山さん、日比さん、浜さんの対談とあわせてぜひお読みいただければと思っています。わたしとの対談の内容見出しを紹介しておきます。

第4章 歴史の書き換えはいかにして起こるか
 1 IT社会は真実をどう書き換えるか
  ポスト・トゥルース言説と排外主義
  心能コントロールの系譜
  IT化で生じる「真実性の代わり」
  信実はなぜ価値と言えるのか
  歴史を書き換えたい人々との関係
 2 近代の歩みの中から見えるポスト・トゥルース問題
  アメリカ社会の歴史
  差別とのたたかいと歴史修正主義
  ポスト・トゥルースに溺れた者の没落
  靖国をめぐるフェイクと神社の真実
第5章 言葉の危機をどうのりこえるか(小森)

インタヴュー「翻訳・戦争・人類学」2018/04/29

『境界を超えて』No.18_2018.03
 立教大学文学部の大学院(文学研究科)比較文明学専攻の特任となって4年がすぎ、今年が最後の年になりました。大学院の比較文明学専攻に対応する学部の専修コースは「文芸・思想」です。
 立教大学文学部は、キリスト教学科、英米文学専修、フランス文学専修、ドイツ文学専修、日本文学専修、文芸・思想専修、史学科、教育学科からなっています。
 ここ20年来にわたる日本の大学教育における人文系(とくに文学部)の縮小・廃統合の流れの中で、もともと人文系を軸としてきた立教大学も、工夫を重ねてさまざまな新学部を展開してきたようですが、文学部本体はそれなりに骨格を残しています。
 ただし、わたしが籍を置く「文芸・思想―比較文明学」というところは、2002年に発足したところで、一見すると何をめざすところかよくわからない感もあります。わたしも当初は、20世紀フランス思想をベースにして思想史全般、あるいは文明論のようなことをやってきたのだからいいのだろう、といったつもりでいました。
 ところで、ここの文学部には哲学科がありません。その代わりにあるのが「文芸・思想専修」なのです。哲学とはもともと、西洋で思考の仕方や作法を鍛え上げる営みでした。それが長い時間と蓄積を経て、今ではその蓄積の中身を研究する専門職になっています。それはそれで重要なのですが、そんな特殊専門研究が多くの人に必要なわけではありません。それに、いま大学で勉強しようとする若い人たちに求められ、かつ期待に応えられるのは、むしろ哲学の本旨である思考の仕方や作法を鍛え上げることの方でしょう。
 考えることの足腰を鍛えるためには、まず言葉を磨かなければなりません。最近ではそんなことも要求されなくなっていますが、自分でやってみればわかるように、ものを考え、それを表現するには、まず言葉が足場です。と同時にまた、語るべきことがなかったら言葉は空虚です(ペラペラの英会話?)。だから、対象や領域は広くとって、言葉で考える・表現することのモチーフに形を与え、そのための足腰を鍛える、それがこの「文芸・思想専修」で目ざされていることのようです(私が決めたのではなく、どうもそのようだ、ということです)。
 だから、いろいろなテーマをもつ学生がいます。真正面から哲学に入ってゆく学生もいれば、物書きを目指す学生もおり、映画などの批評をやりたい学生、あるいは都市について、健康について、労働や社会について考えたい学生、さまざまです。そこに小説家や批評家として活躍する教師がおり(専任教員の他に特任も)、哲学研究や文学研究に長けた教師がおり、学生のテーマに合わせて、またそのテーマやモチーフが形をとるのをサポートし、ものを考え・それを表現するためのいわば「体幹訓練」を行っているのがこのコースです。
 こんなことを書くのは、人文学の危機が言われる時代に、実は大学教育を根幹で支えているのはこういう学部なのではないかと思いながら、それを言う機会がなかなかないからです。実用科学はべつに大学でなくてもいいわけですが、日本ではこの四半世紀、経済界の意を受けた文科省の指導の下、大学は実用科学技術専門学校へと変質させられています。大学の質の低下とか、学生の思考能力の低下とかいう問題は、文科省のこうした方針が引き起こしているわけです。じつは若い人たちにはおのずから、考えたい・表現したいという欲求があります。それを補助して考えることの足腰を鍛える、これこそが現代の人文教育の根本でしょう。文芸・思想専修ではそれをやっています。
  わたしが自分の教歴をこういうところで終えるという得がたいチャンスを与えてくれたのは、この専修にいた旧知の若い(私に較べて)文学研究の同僚たちでした。そして最終年度を前に、今度は新しい専任教員の福嶋亮大(文芸批評家)さんと、こちらは旧知の小野正嗣(小説家)さんが、専修の紀要『境界を越えて』の特集としてインタヴューを企画し、編集の労をとってくれました。それが4月に刊行された18号の巻頭インタヴュー「西谷修『翻訳・戦争・人類学』」として掲載されました。
 全50ページの堂々たる?インタヴューになっています。じつはこれは圧縮したもので、今回「完全版」が福嶋さんや編集の深澤さんのご尽力で「文芸・思想専修」のウェブサイトに3部に分けて掲載されました。電子書籍版としてダウンロードもできるようです。
 最近人前では、立憲デモクラシーの会とか、学者の会とかの関連で話をすることが多いのですが(このブログに書くことも)、そういう場所ではほとんど触れる機会のない、わたしの本来の仕事のエッセンスの紹介にもなっています。もちろん、この他にもとりわけ、現代の死のこと、共同性のこと、宗教のこと、技術のこと、世界史のこと、それを踏まえた世界性と現在の世界のことなど、語るべきことは多くあります。わたしがもう30年以上職業的にやってきたのはこの種のことです。
 今回はお二人のご関心に応じた質問に答えて、このような内容になりました。まだまだ語りたいことは多くありますが、まずはこれを読みいただけたら幸いです。
 http://bungei-shiso.com/
 〈前編〉http://bungei-shiso.com/archives/801
 〈中編〉http://bungei-shiso.com/archives/813
 〈後編〉http://bungei-shiso.com/archives/819

*『境界を越えて』は立教比較文明学会が編集発行する紀要です。