2019年6月30日、板門店のランデブー2019/07/01

 G20で日本に来たトランプ米大統領は、日本には安保条約やめるぞと脅す一方で韓国訪問。ソウルに行き、ついでに板門店に脚をのばして金正恩に会った。 日本外交は大混乱。日米安保にしがみつき、米軍にはなんでもドーゾ、アメリカ助けるために兵器も爆買い、それも北朝鮮や中国脅威に備えるためと、国内を誘導してきたのに…。

 さすがにNHKは特番を組んで中継放送。これを落としたら、報道機関としてもうどこにも顔向けができないからだ。それほどこの不意の会見は世界的ニュースだった。「日米同盟は最も緊密」と宣伝する安倍首相と日本政府は、まったくカヤの外だったのだが、それでも報道しないわけにはいかない。だから夜のニュースでもやる。だが、解説となると、さすがにアベ友の岩田某に「東京サミットで安倍首相が助言した」と言わせることはできないが、「拉致問題は取り上げられたのか?」とか、「北朝鮮の完全な非核化という本筋の問題には進展が見えない」とか論評するだけである。

 解説番組や討論番組に出てくる「専門家」たちも言うことの基本は変わらない。日本では、表のメディアではそんな議論しかなされない。だが、トランプの大統領としての振舞いの特異性や、今のホワイトハウスの内部の事情、それに冷戦後以来(あるいはそれ以前から)の北朝鮮とアメリカとの関係とその経緯を考えたら、とてもそんなことではすまされない。「拉致問題」を鬼の首でも取ったかのように前面に出して北朝鮮を指さし非難する(安倍の姿勢)日本は、同時に戦時中の朝鮮人強制連行に頬かむりし、「慰安婦問題」を否認する日本だということを、国際社会は知っている。それに「非核化」とは、冷戦後のアメリカが世界統治のヘゲモニーを維持するために、言うことを聞かない国々を締め上げるための戦略にしかなっていない。「非核化政策」に正当性をもたせるためには、アメリカがまず手本を示さなければならないが、唯一核兵器を実際に使ったこの国は、自分だけは破格の核を持ち続けるのである(今では戦術核の開発さえ再開している)。

 そんなことも分からない(知らないふりをする)「専門家」とは何なのか?
 そもそも北朝鮮が(そしてイランも)核開発を始めたのは、それなしにはアメリカに潰されるからである。核は相互に持てば敵の先制攻撃を防げるというのはアメリカが唱えた抑止力の論理だ(相互確証破壊:MAD)。アメリカが敵視をやめれば、ただでさえ貧しい小国は膨大な負担を負ってまで核開発などする必要はない。だが北朝鮮は冷戦後も残った「共産国=独裁国家」として全世界の敵意にさらされてきた。そして他国が(当時はイラクが)公然と潰されるのを見てきた。だから北朝鮮は核開発を始めたのだ。

 独裁国家に中から「民主化」が起こればいいのか?それが可能ならよいかもしれない。しかしその道はもうひとつの朝鮮戦争を引き起こすことになるだろう(内戦、韓国の介入、そしてその後はテロリスト狩り)。だとしたら(朝鮮半島の住民のことを考えれば)軟着陸しかない。北朝鮮自身がしだいに体制を変えて国が開かれ豊かになる、それを韓国が同胞国として助ける(もちろん日本も)、ということだ。

 一度でもソウルに行ってみれば、韓国では首都からわずか50キロのところに軍事境界線があるという、日常に溶け込んだ緊張の現実がある。それが韓国にとってもずっとのしかかる負担であり、その「南北対立」を口実に軍事政権が長く続き、それを倒すのに民衆の長く厳しい闘いが必要だったのである(「朝鮮問題」の専門家は、その対立の悲劇をメシの種にしてきたから、「融和」の機運が不安なのだろう)。

 南北分断が生じ、朝鮮戦争(当事者は南北とアメリカと中国)がいまだ継続状態であることが、現在の半島の状況を歴史的に規定している。ついでに言えば、分断が生じたのは、四十年間半島を統治した日本が朝鮮自治のすべての芽をつみ、挙句に敗戦によって朝鮮を放り出したからである。日本が多少とも大きな顔ができるとしたら、それは南北融和を手助けできたときだろう。ところが日本はずっと朝鮮問題に頬かむりし、冷戦(日米安保)下でアメリカに言われて南(韓国)とは和解したものの、冷戦終結後も北を敵視し続け、とりわけ最近の政治家たちは、むしろ北を間近な「脅威」として自分たちの政治的意図のために徹底的に利用してきたのである。「拉致問題」はそのための格好の道具になった。いまの政府にとっては、それは「北」敵視のためのジョーカーと化し、解決するよりもそのままである方が好都合なのだ。実際、安倍政権はいっさい交渉しないとして(解決の意志がないということだ)、「最大限の圧力」をかけ続けてきた。だから米中接近で今さらながら交渉のそぶりをしたくても、トランプを頼りにするしかないが、北朝鮮は「虫のいい話だ」と言うだけである(北の核政策は日本など眼中になかった)。

 また、ホワイトハウス内部の事情もある。悪徳不動産屋かつヒール・プロレス・ディーラーのトランプは、テレビで受けるコツも知っている。偏見はあるし、傲慢で、自己顕示欲も強いが、カルトチックではない。スティーヴ・バノンを切ったのはそのためだろう。バノンは自分の陰謀妄想に使えると思ってトランプを助けた。しかしトランプはそれが嫌になったのだ。その後も、アメリカ帝国路線のエスタブリッシュメントを嫌って(嫌われて)、はぐれ軍人などを国務長官・国防長官・大統領補佐官・CIA長官にしてきたが、それでもトランプの気まぐれに付き合いきれず次々に辞め、もう人材が払底してポンペオやボルトンのような鼻つまみ者しかいなくなった(というより、空白にボルトンなどが潜りこんだ)。ところが名うてのネオコン・ボルトンがペンスなどと組んで、北朝鮮との融和を潰しにかかる。

 しかしトランプは北朝鮮との関係転換はやりたい。アメリカの外交史上の画期になるし、オバマ政権が続けてきたことをひっくり返すことになる。もちろんそれを外交上の得点として大統領選に使いたいという意図もあるだろう。だがそれだけではなく、「金委員長が好きだ」というのは、外交辞令ではないだろう。自分がツイッターで「ロケットマン」と茶化すと、「老いぼれジジイが…」とやり返してくる、いかにも作り太りで異様な髪形の若い「独裁者」が、トランプは個人的にはほんとうに「うい奴」と思っているのだろう(ゴルフで穴に転げ落ちて見捨てられてもヘラヘラ付いてきて、「親しく突っ込んだ話をして、…完全に一致しました」と会見で発表する、どこかのシンゾーなどとは大違いだ)。この「ヒール役」二人が並ぶとたしかにメディア化した「国際政治」の舞台で絵になる。この個人的思いで(ラブレターのようなものも交わしている)外交してどこが悪い、というのがトランプのやり方ではないか。

 だが、準備して事前に回りに諮るとボルトン等に潰される。だから東京でじかに一か八かのツイッター。文在寅はもちろんこれを喜んでさっそく手配(いや、文在寅がトランプ訪韓の機会をとらえ、歴代大統領のように板門店を訪れるよう勧めて機会を作ったのかもしれない)、疑心暗鬼の金正恩もここは一番のる!とばかり板門店に現れた、ということだ。これでトランプは、自分の手法が通じる相手だと確認、それが「いや金委員長を好きかもしれない」と言わせた。

 双方にとって、二人で始めた北朝鮮と世界との関係の転換は、もし挫折したら二度と訪れない機会である。ネオコンやアメリカ帝国派の路線に戻れば、北朝鮮は今後数十年にわたって今の孤立を続けるほかない。それは「秘境」にホテルを作って半島全域で儲けたいトランプには面白くないし、金正恩にとっては滅亡への道である。去年の核開発後の対米融和への方向転換は、金正恩と北朝鮮にとっては捨て身の選択だった(若い正恩が国内を抑えるのもたいへんだっただろう)。そしてそれは韓国にとっても、千載一遇というより二度とない民族融和(別に国家統合は必要ではない)のチャンスだった。この機運を逃したら、分断国家で敵対し合うという重い枷が韓国にも不変の運命となってしまうのだ。金大中も盧泰愚も失敗したこの道を開く最後のチャンスだ。民主化運動で弾圧され、空挺部隊で鍛え上げられた文在寅にその可能性が託されている。

 テレビで解説・論評する「専門家」なら、そんなことを知らないわけではないだろう。しかしそんなことがあたかもないかの如く、「日本にとっては拉致問題が第一」とか「北朝鮮の完全な非核化が本筋」とか、シャアシャアと言ってのけ、それだけを言い続ける。外から見たらみんな政府のスポークスマン、安倍の敷いた路線でしかものを言わない、そうして世論を誘導する。つい最近も国連報告者デビット・ケーが、日本の「報道の自由」についてまた警告を発し、政府と話し合う用意がある、とさえ言ったと伝えられるが、世界では北朝鮮とそう変わらないとみなされている日本の「報道の不自由」は、あからさまに弾圧されるということではなく、このようにメディアがまともなことを問題にせず、政権の方針=国の方針=日本の基本了解と考えて、それに合わせてしかものを言わない、そう言わないと場が与えられず、忖度して世論誘導することが、報道としてまかり通っている(ネトウヨ産経から、まともが売り物の朝日まで、それは変わらない)という状況から生まれているのだろう。  

   *   *   *

 要は、「非核化」が問題なのではない。問題は北朝鮮の国際社会への統合なのだ。「非核化」は北朝鮮に対する一方的な無力化要求であり、経済制裁はすでに大国の小国に対する戦争行為と変わらない(そうして小国を苦境に陥れ、内戦状況を作り出すことで、これまでアメリカはいくつの国々を破壊し支配下に置いてきたことか)。北朝鮮が核武装を目指したのは、他でもないその道を避けるためだ。
 
 「朝鮮問題」に解決があるとすれば、それはまず朝鮮戦争を終結させ、朝鮮民主主義人民共和国をアメリカが承認する(すると自動的に西側諸国、つまり現在の主導国は北朝鮮を国家承認する。そうして朝鮮半島の南北対立を解消し、韓国・北朝鮮双方に史上初めて自立国家としての地位を保証する。そうして初めて、北朝鮮の「独裁体制」解消への道も開ける。冷戦後も世界から孤立を強いられた北朝鮮は、独裁体制によってしか生き残れなかったのだ。その「世界からの排除」が、あの奇異な世襲独裁国家を作り出している(それは戦前その地を絶対的に統治していた天皇制国家のコピーだと、日本では誰も思わないのだろうか?)。
 
 その「ならず者国家」北朝鮮は、世界を軍事によって統治しようとするアメリカやその真似をする国々にとって、戦争を正当化する軍事的緊張の源として必要とされてきた。それを一方的に追いつめ排除する方策が国際的な「非核化政策」なのである。その「成功」とは、北朝鮮の国家的な暴発でしかない。しかしその暴発は2500万国民(だけでなく韓国も巻き込んで)の惨劇にしかつながらない。イラクやシリアのような悲劇が東アジアでも生じるだけだ。そのときに日本海は難民船で溢れるだろう(日本の一部政治家はそれを銃で追い払えと言っている)。
 
 トランプという異例の(とはいえアメリカの「私的自由」を剥き出しにした)大統領が登場し、初めて北朝鮮との和解に動きだしたというのは、千載一遇のチャンスである。これから起こることは、何としてでも北朝鮮という「危険物」を保存して、自国や世界のなかでの軍事統治を維持しようとする勢力と、その状況を変えようとする勢力とのせめぎ合いになるだろう。アメリカでトランプ・金の「逢瀬」を邪魔する者たちは、ネオコンや軍事秩序維持派、とりわけ東アジアに利権をもつ勢力だろう。トランプは彼らをなだめながら、この「歴史的偉業」を進めなければならない。前途はけっして楽観できない。だからノーベル賞でも何でもくれてやるのがいいだろう。

 最後に、この時期にトランプが日米安保の「不公平」を言い出したのは特別なことではない。それはトランプの持論であり、安倍首相が「トランプとの親密な関係」を懸命に演出し、おかげで「日米同盟は最も深化」と国内向けに言い募っていることが、まったくのフェイクだということを露わに示したに過ぎない。残念なことに安倍首相はトランプが金正恩を「好き」なようにはまったく「好かれて」いないし、むしろはっきり愚弄されているのだ。言うことも言えず、脅せばありえない土産をすぐにもってくる。トランプも「ディール」の腕の示しがいがないから、絞りとるだけ搾り取ろうというだけだ。そんな首相が長期政権だから、日本もいいとこ舐められているに違いない。

*即刻FBに走り書きしたコメントを補足して。
https://www.facebook.com/onishitani

『自発的隷従論』ちくま文庫版について2019/07/27

 Amazon(これについての問題はいまは置いて)のリストで、わたしの関わっている本(著者、訳者、監修者 etc.)はふつうネトウヨのけちつけ以外はあまりコメントがついていないのですが、この本には30近いコメントがついています。それはひとえに、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの原テクストのインパクトによるものでしょう。この古い小さなテクストが現代の日本でこれだけの好評をえたことをたいへんうれしく思っています。訳者で詳細な訳注と解題を用意された山上浩嗣さんの篤実なお仕事も報われたことでしょう。
 
 ただ、少し残念だと思ったのは、この本の刊行に「監修者」として関わったわたしの「解説」がまったく的外れで無意味だ(「蛇足なので一点減」:安富)とか、「監訳者独自の見解を、無関係な表象(「戦争」など)と関連させて、ジコチュウで一方的に語っている」とか、果ては「翻訳者の上に君臨するものとしての「監修者」が存在し、その監修者が、翻訳の栄誉をむしりとるかのごとく語っています。まるでボエシの仮説「自発的隷従」が、この本を出版する小さなサークルにおいても、存在する証明のように。」(柴田)といったような文言が、恥ずかしげもなくしたり顔で書き込まれていることです。
 
 沖縄の辺野古でデモにいったり座り込んだりする人たちに、よく「日当をもらっている」という根も葉もない中傷が浴びせられます。しかしそうしたデマ中傷を口にする人たちの多くは本気でそう思っているようで。なぜなら、自分たちがヘイトデモをするときにはどこかから資金が出ていて、動員に日当が出ているからでしょう。だから、警察に手荒く扱われたりごぼう抜きにされたりする座り込みの人たちが、ただで来るわけがない、ゼッタイに日当が出ているに違いないと思うわけです。このように、人に対する中傷は、逆に自分のふだんの心根を写し出してしまうことが多いのです。そういうのを「ゲスの勘ぐり」と言います。
 
 『明かしえぬ共同体』(ブランショ、何も共有しない者たちの結びつき、明かすべき共通利害などもたない者たちの協労。この本もちくま学芸文庫で出ています)を旨としているわたしは、監修と翻訳と編集部との間に、役割分担があってもヒエラルキーがあるなどとは思っていません。それでも、外からはそう見えるとしたら、この本の出版に関してはそれを甘受する(どうにでも受け取ってくれ)ことにした、というに過ぎません。
 
 事情の大筋は「解説」に書いたはずですが、安富氏などは「西谷氏は、本当に本文を読んで解説を書いたのだろうか?」(これが『東大話法』?)などと宣っておられるので、よく分かるように事情を少し説明しておきます。
 
 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシのこのテクストはフランスではよく知られた古典で、2000年代に入って大学入学資格試験のテーマに採用されたりもしています。しかし日本ではごく狭い専門家(とくにフランス文学・思想関係)にしか知られておらず、翻訳も1960年代に出た筑摩世界文学大系に他の著作家のものといっしょに紹介されていた程度でした。しかしわたしは、このテクストは2000年代の日本でこそ読まれるべきだと思いました。そこに近代以降の思想的枠組みに囚われていない視点からの、権力機構の「不易」のあり方が示されていると考えたからです。
 
 幸い、共通の知人のいたルネサンス研究の山上浩嗣さんが、同好の士とともに研究会をして訳文と注解を作り、大学の紀要に発表していたのを知りました。そこでわたしは山上さんに会い、この原稿を出版しないかともちかけたのです。山上さんはこのテクストにたいへん愛着をもち、訳者解題に示されているように子細な研究をしていたのですが、それはあくまで古典研究としてであって、このテクストが今日の出版事情のなかで(売れない人文系出版の困難)出せるとは考えていなかったのです。
 
 けれどもわたしは、いまだからこそ出す意義がある、それも図書館の棚に眠る専門書としてではなく、できるだけ広く流通する一般書として出したいと思っていました。そこで、ちくま学芸文庫の旧知の編集者に相談したのです。けれども、モンテーニュの親友とはいえ16世紀の夭逝した法務官の遺した小著(実務的にみてもそれだけでは本にしにくい)を、文庫で出すことには当然躊躇がありました。そこでわたしは、この本を普及しやすいかたちでいま出版することの意義をあらゆる角度から説明し、説得を試みました。編集者もまた編集会議で自分の企画として通さなければならないからです。
 
 その結果、以下のような形が文庫での出版には必須だということになりました。
・訳文は一般読者に読みやすいように徹底的にあらためる(好評の訳文については、山上さんと編集者の町田さんとの無私の協労がありました)。
・たぶん一度しか出せないから、専門書としても通用するように、山上さんの解題を詳細に収録する。
・また、原テクストが短いこともあり、これが稀有の古典として20世紀の著述家たちにも深い影響を与えたことを示すいくつかの短い論を実例的として併録する(S・ヴェーユ、P・クラストルまで、C・ルフォールの論は大部すぎる)。
・現代日本の読者に、この「自発的隷従論」がただの文化的骨董品ではなく、グローバル化の時代にこそ読まれるべき生きたテクストであること示すための「解説」を西谷が書く(これがないと出版の話が成り立たなかった。)

 だからこの本は、そのような共同作業の成果として出版されたのです。結果として本は詰込みのようになりました。それでもかさばるほどではありません。理想をいえば、テクストと解題だけで簡素に出すのが古典としての「品格」かもしれません。しかしそれでは、誰も(どの出版社も)この本をいま出版しようとはしないし、ましてやそれが読者にインパクトを与えるなどとは予想していなかったのです。

 ド・ラ・ボエシのテクストは石ころのように落ちていた。わたしはそれを拾って驚き、この石ころは多くの人の糧になるはずだ、なんとかこれを日本の読者にも届けたい、と強く思い、そのために尽力しただけです。あえて言えば、それはまずわたしの思想的糧になった。そしてわたしの思想の骨肉にもなったのです。バタイユは「思想とは、人の考えたことを、レンガのように積み直すことだ」と言っています。独自の思想などというものはない、わたしもそう考えています(近代の著作権の制度はありますが)。だからド・ラ・ボエシの思想を呈示することは、それ自体がわたしの思想の所作でもあります。
 
 こういう事情を、出版に関わりのある人ならある程度分かるだろうに(「解説」にもあまり内輪話にならない程度には書いてあります)、そんなことには一顧だにせず「解説」が不要だと言うのは、この「石を拾う」行為を否定することになるし、自分がおいしいものにありつけたその見えない事情を、うるさいから切捨てよということでもあります。「解説」の中身を批判するのは構わないでしょう。現代世界の捉え方やには異論もあるだろうし、専門知識をひけらかしたい人もいるでしょう。それはネットで言いっ放し、ご勝手に、ということです。ただ、この本の場合、いちばんのネックはとにかく「出版を実現する」ということでした。それは果たされた。後はすべて読者に委ねるということです。
 
 このことを今書いたのは、現代の時代状況を標定しようとするとき、この本にあらためて着目する必要があると感じているからです。『自発的隷従論』の論旨がインパクトをもつ(日本だけでなく世界的に)ということは、裏返して言って、啓蒙的近代以後の社会的条件が変質していることに対応している、言いかえれば「ポスト・モダン」と言われた状況は、身分制社会への再編の露払いだったのではないか、と考えるからです。逆戻りということではなく、経済による世界的な社会再編が、結果として身分制復興と同じ役割を果しているように思えます(アメリカのSF的想像力はかなり以前からそのことを自明視していたようですが――「ブレード・ランナー」、「ガタカ」、「トータル・リコール」、「マトリックス」など)。だから、もう一度『自発的隷従論』に立ち返ろうと思っています。
 
 それと、参議院議員選挙が終わりました。ここに書いたような事情で、わたしは安富歩という人の「東大話法」を信用しませんが、彼を擁立していた山本太郎の「れいわ新選組」をひそかに応援していたので、選挙中は控えました。ただ、彼が今後も政治を変えようとその道に進むのなら、応援しようとも思っています。なにはともあれ、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』にまっ先に反応してコメントを寄せてくれた人ですから。