岡本太郎とジョルジュ・バタイユ2020/02/10

 去年夏、岡本太郎記念館の平野暁臣さんに頼まれて、パリ時代の岡本太郎を想起して彼にとってアートとは何だったのかを考えるために、太郎が深く関わったジョルジュ・バタイユについて三・四時間レクチャーをしました。もとは、関根光才監督が『太陽の塔』を作るとき、素材として三時間ほど話をしたのですが、そこに平野さんも立ち会っていて、その時の印象が強かったらしく、もう一度やってくれというわけです。

 わたしも、最近は誰もバタイユの話などしないし、自分でもまとまったものを書いたこともなかったので、お役に立てるなら、と引き受けさせていただきました。平野さんのご質問に答える形で、岡本太郎を魅了したバタイユについて、あるいは彼が生きていてた当時のパリの知的状況について、わたしの想念の中にあるエッセンス――見てきたような鷲掴み――をお話ししました。わたしにとってもとてもよい機会になりました。それがほぼ全文書き起こされて、今、岡本太郎記念館のホームページの「Play-Taro」というスペースに掲載されています。よろしかったら覗いてみてください。わたしの本職(ほんとうの顔?)の一端です。

http://playtaro.com/blog/2020/01/06/osamunishitani1/?fbclid=IwAR2fK5IKudxO1oVAWpXrAG4mEv5Qeb8ydRCIba2JpGaaPe84gf_DL8u93HI

 また、若い関根監督の『太陽の塔』もたいへん濃密な力作です。現代アートを考えるうえでもこのうえなく刺激的です。

2020年02月20日、アベ禍クルーズ船内の日本2020/02/20

[FB] に載せたものをそのまま転載。ちょうどこの日付、まずいことが集中的に現れていると思うので。
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投稿はできるだけ控えようとしてきたが、今日はもう歯止めが効かない。とんでもないことばかり起きて(それも一連の出来事の一コマ一コマだ)これは欠かせないとつい連投。

コロナウィルス対策の、前から言った「阿呆船化」の迷走が今日の「下船」に至り、その迷走ぶりを居直りごまかすだけが政府の役割になっていることが露呈しているが、その迷走居直りさえ、他の重大悪事の煙幕に使われている。もはやどれが煙幕か、泥沼の引っ掻き回しかの区別もつかない状態で悪事だけが、官邸とそれにしがみつく自民党とヒラメ官僚たちによって押しくらまんじゅうのように進められている。

 今日は籠池裁判の判決日だった。大阪地裁は国や大阪府から補助金を「詐取」したとして有罪判決、懲役5年だ。しかし、なぜ国有地が格安で売られ、そんな補助金まで出たのか。それは国や大阪府の役人が、アベやアキエのお墨付きをもつ人物に破格の便宜を図ったからであり、これは「首相案件」だった。だから、この件で重要なのは、アベやアキエへの忖度から国有地を二束三文で払下げ、補助金まで付けた国や大阪府の役人たちの「背任」だったはずだが、それはすでに「全員不起訴」になっている(その間、汚れ仕事をやらされた国税職員が自殺している)。そして、結果、アベに盾つくことになった籠池夫妻だけが懲罰を受けることになった。検察も裁判所も、公正や正義より、国家機関の末端として政権を守るべく(政権に触れないように)振舞ったということだ。

 そして、「桜を見る会」前夜祭のアベの国会答弁が野党質問に対するANAホテルの回答で明確に否定され、さすがに「これで詰み」と見られていたその翌日、自民党がANAホテルに猛圧力をかけ、ANAは一日で屈服することになった。そうして日本中ニューオータニ化(へえ、お上の言うことに間違いはございません。お上の言うことですから。以後もよろしくお引き立てを)。自民党は総力をあげて幼稚な全能感(わたしが総理なのだから)に浸るアベの不正を守っている。自分たちの地位も利権の甘み(甘利?)も、今ではアベの無法・権力私物化にかかっているからだ。

 さらに、東京地検検事長の定年延長問題をめぐり、独立性を保つはずの人事院でさえ、アベの意向を守ろうとする森法相の圧力で前日の答弁撤回、黒川検事長の定年延長根拠に関して、法務省の見解との齟齬をなくそうとした。

 官僚はヒラメと言われるがそんなに生易しくない。和泉洋人首相補佐官とスイート・タッグを組む大坪寛子大臣官房審議官などは我が世の春、週刊誌でもアイドルなみ、今も厚生行政に私権を振るって、何の咎めを受けていない。(下村、萩生田入試・教育利権も)

 そうしたことすべてが今後も永久に咎められないよう、つまりやったこともやっていることもすべて問題化されることがないよう、この状態が「正常化」されるよう、黒川検事長の検事総長就任が公然と準備されているのだ。それをチェックできる人事院が今日落ちた。答弁する女性職員を、茂木何とか大臣が後ろからヤジる。

 これが、「解釈改憲」閣議決定5年後の日本の姿である。これを糺すすべがいまの日本の社会にはないのか。
まさに暗黒、ダーク極まる日本だ。そのダークをかき消すと思われているのがオリンピック、原発事故(事故はあれで終わったのではなく始まったのだが)を忘れさせる、そのオリンピックにコロナウィルスも押し流して突入しようとしている…、熱暑が予想される東京湾のドロ海を扇風機で掻き回して…。

遠くかすかに、贈賄以来、ロンドンが代替開催地として静かにスタンバイ…と聞こえるが、どうなることか打つ手なしで瓦解の道になだれ込む、嗚呼我故国……

「立憲デモクラシーの会」声明についての私見2020/02/23

  折から、NHK/ETVの「100分de名著」で、東大の阿部賢一さんがワーツラフ・ハベル『力なき者たちの力』を紹介・解説している。ハベルはチェコの暗黒時代(六八年~八九年)に演劇活動などを通じて市民の対抗文化の導き手となり、体制転換後の大統領に選ばれた人物だ。

 その番組の三回目に「権力はアプリオリに(はじめっから)無罪である」という命題が紹介された。ハベルはこれを「ポスト全体主義」の特質だとして言っている。ポスト全体主義だろうがポスト・モダンだろうが何でもいいが、むき出しの権力がけっして咎められることがないということを言っている。裏返せば、何でもできる、「全能」だといってもいい。ただし、神のように積極的に「全能」だというのではない。そうではなく、統治の権力が本来なら必要とする「正統性の試練」を免れるということだ。

 権力は昔から、それが権力であるために「正統性」を必要としてきた。なぜ、そこを統治できるのかということの理由であり根拠である。その根拠をもつことで権力は正統化される。人びとはそれに従わざるをえなくなるのだ。

 昔はそれが血縁だったり、神の権威だったりした。近代にはそうしたものが排除され、民意に従ったとされる法秩序が権力に正統性を与える。選挙で選ばれて構成される議会が法を作り、その法秩序の枠内で権力機構が構成され(内閣、行政機関)それが統治を担うことになっている。

 ところが、いまの日本のアベ首相は、違憲の疑いのある法案の逸脱を指摘され、「私の言うことが正しい、だって私は総理大臣なのだから」と当たり前のように言う(2015年のことだが、基本的に変わらない考えのようだ)。そうして議論の余地のある重要事項は議会を通さず「閣議決定」する。内閣で決めたらそれはそのまま国の決定であるとして通用させる。この発言は、「私アベ」の恣意的な考えや無体な思い込みが、「総理大臣」という正統性を必要とする権力行使の役職と、アベ氏自身のなかで癒着して区別がなくなっている、ということを表している。

 しかし、そのことが理解できないアベ氏は、それを受け容れない者たちを政敵として排除するだけでなく、官僚たちの役割はアベ内閣に盲従して支えることだとし、人事権を握って信償必罰を徹底、逆らわない(あるいは私利私権のために利用する)者たちだけを取り立ててきた。そのため今では(だいぶ前からだが)、自民党の議員たち、官僚機構だけでなく、あらゆる役所の出先にまで「忖度」という言葉が行き渡り、言われてもいなのにアベとその取り巻きの意向を先取りして、事を処理するようになっている。そうして、アベ氏が「私の言うことは正しい」(あるいは「私も妻も関与していない、関与していたら総理大臣を辞める」)と言うと、国会で追及されて官僚たちはアベの言ったことがウソにならないように、彼の「正しさ」をでっち上げるために、総力を挙げるのである。

 それ以前に「特定秘密保護法」なるものを作り、あらかじめの隠蔽基盤は作ってあったが、その後、安保法制時の自衛隊派遣日記問題から、森友問題、加計問題における国有財産私物化疑惑、そして最近の桜を見る会問題にいたるまで、官僚たちは公文書の隠蔽、改竄、破棄(虚偽)、果てはもう最初から記録を残さないという工作に邁進している(そこで不正の実務をやらされることに耐えきれず自殺する者が出ても、このアベ無罪化マシンは無視して動き続ける)。

 その間、アベ氏は近い警察官僚を重用し、身近から出た破廉恥罪の逮捕状まで握りつぶさせるということまでしているが(被害者証言や状況証拠からして確実にそう言えるし、アベの側からは何の反論もない)、このところもう一つのことに気がついた。つまり、この間のあらゆる官僚たちの涙ぐましい「忠誠」(それは異例の出世で報われている)も、権力のうま味吸う子飼いの議員たちの不始末も、犯罪として立件されたら、いくら日本の裁判所が行政権には手を出さないという伝統(統治行為論以来の)を強化しているとはいえ、これはまずい。議員や官僚から次々逮捕者が出たりすればさすがに政権はもたない。それだけではない。アベ政権が終り、アベ氏が権力を体現できなくなったら何が起こるか? それを押さえておかねばならない。

 というので最近「閣議決定」されたのが、これまでさまざまな案件(甘利疑惑以来)が不問に付されてきた陰の功労者、黒川東京検事長を「異例」の処遇で定年延長させ、8月に検事総長に据えるという目論見である(定年延長後、検事総長に就きうるということも、答弁書として閣議決定されている)。そのために、公務員法や検察官の定年規定などを違法に「解釈変更」している、というのがこの間のコロナ・ウィルス騒動にもみ消されようとしている画策である。

 「立憲デモクラシーの会」は、この政府の「解釈変更」の違法性の重大さに鑑みて、その違法性を明かにする声明を発表した。声明はそのコンテクストには触れず、この特定検察官の特例扱いの「違法性」を明示し、それが立憲主義を危ぶめることに警告を発する、抑制的なものに止めている。立憲主義以外の政治的意図を排するためである。

 だが、実際にある以上のようなコンテクストをふまえて制度論的に考えるなら、最後に検察を手中に収めることは、「私は総理大臣なのだから、私の言うことが正しい」を現実のものにする仕上げであり、「権力は何をしてもアプリオリに無罪」を保証する最後の詰めなのである。もはや「正統性」を問いうる最後のコマを押さえることになるのだから。もちろん他の検事総長が検察を動かすかどうかは分からない。しかし、検察がいささかでも自立性を確保していれば、行政権力の担当者は違法行為に関してつねに牽制を受けていることになる。しかし、アベ氏がその分身ともいえる黒川氏を検事総長として残してゆけば、政権終焉までのあらゆる「犯罪」は立件されることもなく、事後的に正統化されることになるだろう。そしてその状態が日本社会の規範的(ノーマルな)あり方になるのである。森友・加計も桜を見る会も、あらゆる利権誘導も、国有資産の私物化も、官僚たちのウソや偽造も、なんら問題なかったことになる。そしてアベシンゾウは、アメリカ擦り寄りとはいえ、中国を睨んで国を軍事大国化し、格差社会で日本を再身分化の美しい国にした、21世紀の偉大な宰相ということになる。それは日本にとって醒めない悪夢と言わざるをえないだろう。

五輪を待たず、咲かぬ桜は散りぬるを2020/02/25

隣の韓国では、新型コロナ検査を1日13000人規模でできる態勢をとったという。日本では、というよりアベ政権下では、検査をやろうとしない。ひたすら感染者「数」を抑えようとしているようだ。それで「市中感染」(経路不明)がじわじわと増える。ニュースでは「感染者数世界第二位の韓国では…」。

理由はただ一つ、東京オリンピックに影響させないということだろう。それと、一昨年・去年の災害対策と同じで、そんなことに金をかけたくないのだ(韓国などと較べてひどい対策予算)。軍事やテロ対策とかでは金に糸目をつけないが、災害が起きても側近と宴会をやっている。つまり抜本的な対応をしたがらない。だからアベは対策会議を作っても、テレビ用にちょっと顔を出すだけ、毎日仲間やメディアと会食ざんまい。そこでやっているのはメディア操作と批判派ディスりの発注だ。

政府が検査をやらせない(極めて消極的)というだけでなく、府県や市、病院、会社も検査をしたがらない。感染者が出れば病院はたいへんな対応を迫られるし、客が敬遠して来なくなる(「風評被害」というやつ)。会社や工場も操業停止しなければならない。だから、感染者が出ることに戦々恐々としている。人間より組織大事というわけだ。

クルーズ船の失敗もよく検証する必要があるが(実際の対応は神奈川県がやっていたという)、ひどいことに、無能政治家官僚の下で船内対応していた医療関係者が、務めに戻ったら職場でさえ「ばい菌」と呼ばれていじめられるような社会だ(中国では情宣とはいえ献身を称えられた)。日本はいつの間にかそんなふうになってしまった。

国会でのいくつもの疑獄案件や検察違法人事の追及を払いのけるためか、ニュースは時間稼ぎのようにコロナ対策一色だが、さすがにその無責任ぶりに経済界も不安になり、ダウ平均今日は一気に1000円安。それでもアベ官邸は黒田に任せたつもりで、異次元の緩和で対応させるだろう。ところがそれはもう目いっぱい、打つ手なく、これで底が抜ける(もうしのぐ禁じ手も使い尽した)。

その一方で、アベ擁護を最大の保身と心得るウヨ有名人たちが、武漢肺炎と呼び、中国に補償してもらえとか言い出して、自分たちが求めるアベ政権の無能を中国に責任を転嫁しようとする。彼らアベ太鼓持ちこそ、日本を中国の冊封国にしたいのだ。

中国は全人大も延期して強力な「臨戦態勢」を敷いている。それも問題があるが(日本のウヨ太鼓持ちはそれに倣って緊急事態の予行演習をやるとか言っている)、NHKのニュースが「…という思惑があるものとみられます」といつも敵国の勘ぐり気取りで言うように、中国はこの事態を全力で制御して、避けがたい経済的打撃(ただでさえトランプの強引な制裁で打撃を受けている)を覚悟でしのぎ、抑えて一気に再編回復できる態勢を取ろうとしている。

ところが日本は、というよりはっきりアベ政権は、と言おう――いま日本では官邸にすべてが集約されていて、世論より国会審議より行政実務集団(官僚)より裁判所より、決めるのは閣議決定という異常な状態にあるのだから――、アベ政権はひたすらオリンピック大事である。ぼろぼろ無法権力化で、もうそれしか大義がないからだ(無理筋承知で子飼いのクロを検事総長に据えようとしているのもそのためだ――そうしないと続々逮捕だ)。

だから、検査せず、感染者を洗い出さず、抜本対策をとらず、実情みせなきゃやり過ごせる、国民の皆さん協力をとか言っている。そしてウヨ世論が、緊急時に政府批判をするな、厚生大臣もセキしながらマスクなしで頑張っている、批判するのは国賊だ、悪いのは中国だ、と援護射撃。食わせた鮨の効果でメディアは「両論併記」。

が、アベノミクスでてなづけた経済界がとうとう株を落として脅しをかけた。もともと株高は「上級国民」の私利私欲で成り立つ。それが心配し始めたのだ。

しかしそれより、この間の日本政府の姿勢は、今までは冷笑しているだけだった国際社会に深い不信を植え付けることになった。文書隠蔽・改竄・不作製は国内問題だから、他国は冷笑していればよかったが、感染症はそうはいかない。自国にも伝播してくるからだ。だからこの件で、肝心な対応はせずWHOに金だけ出して感染者数を減らしてもらうという初期対応以来、クルーズ船の「培養シャーレ化」 と政府の無策で、日本への不信はますます深まっていることは覚悟しておいた方がいい(感染初めのイタリアの対応をみよ)。そのつけも、アベ政権のすべての悪行の結果とともに、われわれ国民が払うことになる。

まず、オリンピック盛り上げ騒ぎを止めること、そして感染防止治療対策に全力を挙げる姿勢を示すこと、そうしないと世界から引導渡されて、かえってオリンピックは開けなくなるだろう。

日本の「脱原発」、10年の節目を前に(1)2020/02/29

NO NUKES Vol.026 に寄稿した「日本の「脱原発」、10年の節目を前に」が刊行・公開されたので、ここにも掲載しておきます(2回に分けて)。
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少し気が早いけれど、オリンピックの火が落ちれば来年はもう福島第一の原発事故からはや10年。事故から2年弱で自民党政権が「日本を取り戻し」、事故の結果に蓋をしながら原発政治のアクセル踏んだ再稼働、図々しくも他国が撤退した後で輸出促進、さすがにもんじゅは諦めたが、核燃料サイクル計画は展望のないまま惰性で続けている。

○舞い散る桜と札束

そのころは、技術的にも経済的にも原発が立ち行かないのは明らかで(だからドイツをはじめ賢い国は撤退した)、政府がどんな政策をとろうとも早晩「脱原発」は実現するとも言われていた。だが甘かった。合理で日本は動かない。自民党政府・安倍官邸と経産省は、はじめは目立たず、しかし次第に公然と積極的に(武器を防衛装備と言い換えたあたりから)、災害より原発「復興」を経済・軍事両面で進めるようになる。

本家アメリカでも私企業が原発の経済性に見切りをつけ、それをわざわざ買いに出てババを引いた「世界の東芝」はとうとう沈没寸前、イギリスその他の国々も、かさばるコストを負いきれず次々に撤退し、アベ日本は愚かにもその空白を占めようと政府肝入りでセールスしたが、もう終わった市場、ここにきてすべてがとん挫した。

さすがに、原発正当化はもうできないと思われたところに去年の関電疑惑。国策電力会社、地元自治体、大手ゼネコン、御用学者が「顔役」に仕切られる、かつて「原子力ムラ」と言われた社会の闇に根を張った利権構造の露見だ。これでは原発が止まるはずがない。技術的難題や経済見通しがどうであろうと、国や社会の将来がどうであろうと、原発は儲かるという「反社会的」利害関係が、原発政策を維持推進していたのだ。まさに、かつての敦賀市長高木某(「パンツ大臣」のオヤジ)が言ったように、先のことはわかりませんよ、しかしとにかく今はやっておいた方がいい…。その「今」だけのため、官僚は辻褄合わせし、学者は都合のよいデータを出し、裁判所まで追従する。そして、この構造で私利を貪る者たちが、原発推進をヤドカリの殻のように守り、その上に政権が君臨している。

辺野古の新基地建設強行も、米軍のためは表向き、事業の実態は原発と同じだということがもう隠せない。そのような現在の日本の「統治」のあり様を集約的に露見させたのが「桜を見る会」だ。権力のうま味を仲間の供応で吸い尽くす。そして有象無象――特に感染力をもつエンタメ興行関係――を利権構造に取り込むことで裾野を広げる。その表のお題目になっているのが「改憲」だ。改憲の狙いは、「美しい国」つまり「国民が文句を言わずに国家に尽すようなお国柄」にすること、そして自分たちが国家を乗っ取って(「上級国民」?)、従順で逆らわない国民に税金を払わせ、命を差し出す気構えまで要求し、担がせた神輿に乗ってこの国の「真ん中に輝く」、そんな、わが世の春のミニ演出が「桜を見る会」だ。

ある意味で「改憲」を掲げた意図はすでに実現している。だからほんとうは安倍政権は目標を失っていると言ってもいい。にもかかわらず原発政策が捨てられないのは、まさにこの惰性の維持によってしか、この政治構造が成り立たないからだ。

ということは、この先にはもはや破綻しかない。それが約束されているのが「オリンピックの翌日」である。札束刷り散らして株価を支え、人間をすり潰して法人企業を助け、資産家・投資家だけを肥やすアベノミクス。アメリカに市場も明け渡し武器も爆買いして、自分だけ本家に認めてもらう国売り外交。それで崩れゆく日本をもはや誰も支えられない。誰もがそれを予測しているが、ともかく「お祭り」までは、ということで突っ走っている。その「洪水の後」に残される世代には、あらかじめ自助要求(自己責任)、ボランティア精神、でなければいじめに道徳教育…で、文句を言わないように備えている。そしてオリンピック明けは大災厄の10年目、この10年の日本を主導した安倍政権は消えてゆくが、誰も責任を問わない、問われない。こうして10年目に「大災厄」が拡大反復される…。われわれはそれに備えなければならない。(続く)

★日本の「脱原発」、10年の節目を前に(2)2020/02/29

○自由市場の聖火が消えるころ

世界の来歴を振り返り、現代の発端に目を凝らすと…。18世紀前後にヨーロッパ(イギリス)で、天賦の大地が私有化されて、追い出された人びとが都市周辺に吹き溜まり、勃興する産業の窯の焚き木(安価な労働力)となったことはよく知られている。そのころ、大陸の哲学者ライプニッツは、アウグスティヌス以来の「悪」の問題(全能にして善なる神の御業であるこの世界に悪が満ち満ちているのはなぜなのか?)に「合理的」な解答を与えた。個々の観点からすると「悪」と見えることも、全体としての世界が「善」であることに貢献しており、神はあたうかぎり最善の世界を造ったのだと(予定調和説)。これによって「神の国(善)」と「地上の国(悪)」とは、無限を全体に転化する微積分計算によって通約され、全体システムを語る近代世界の視野が開かれた。

すぐ後にロンドンに登場するのが精神科医(魂の医者)バーナード・ド・マンデヴィル。彼は私欲の「罪」に悩む患者(とうぜん金持ち)を治すため、次のような処方を与えた。あなたの悪行は、実は世の中にたいへん貢献している。社会は分業で成り立つ。強盗がいなければ鍵屋は商売にならない。医者もそのおかげで繁盛する。建具屋も、警察だって仕事にありつける。だから、あなたの所業は世を潤し、全体の繁栄に大いに役に立っている。ほら、ロンドンの街をごらんなさい。ドブや掃溜めから異臭が立ちのぼり、浮浪者や犯罪者が跳梁して、物騒なことはなはだしいが、売春宿は今日も繁盛、都会の灯は華やかです。私欲の発露、それこそが社会の原動力、それを束縛してはいけない、自由にやりなさい。「私悪、すなわち公益」と(『蜂の寓話』)。

マンデヴィルの処方はこうして、私欲を思うさま羽ばたかせる「自由」を勧奨した。当時のイギリスの自由主義者たちは、ジョン・ロックが定式化したように、「自由」とは所有に基づくと考えていたから、貧民に自由がないのは当然だとみなしていた。だから貧民救済の社会的措置にも厳しく反対した(ポランニーが問題にした「救貧法」批判)。しかし、慈悲を叱って売春を奨励したマンデヴィルは、あまりに不埒(ひと聞きが悪い)というので禁圧され、後はアダム・スミスが道徳形而上学でガーゼに包んで、「みえざる手」で調整される市場経済をそれらしく理論化した。マルクスはそのカラクリを暴いたが、20世紀にマックス・ウェーバーが「プロテスタンティズム」の勤勉・節制の精神が資本主義を生んだという誤解を広めると、資本家やその追従者たちは、そうだ、それが近代化の原動力で、自由と民主主義のシステムを世界に広めたのだと「プロ倫」を持ち上げた。

だが、社会主義的管理統制の登場を踏み台に、フリードリヒ・ハイエクが留め金を外す。彼はあらゆる制度的拘束や政治の介入を否定し、「個」の無制約な「自由」を主張した。だが、そんな「自由」な市場は存在しない。だから腕づくで作り出すしかない。その「理想」を弟子のミルトン・フリードマンが、クーデターで軍事政権下に置かれた南米チリに適用する。それが現代のグローバル世界を席巻する新自由主義の発端である。

しかしこの「新」自由主義は実はまったく新しくない。というのは、私的欲望の無制約な発露がシステム全体の最適化を生み出すというヴィジョンは、マンデヴィルがあからさまに語っていた「現実」だったから。グローバル化のいまそれが装いを変えて実現してしまったのは、デジタル情報化革命があったからである。人間社会のあらゆる現実が、差異と境界を越えニュートラルな因子に還元され、とめどない情報の奔流に流し込まれる。何から何まで財とされ売り物にされる「全面市場化」の世界である。だが、デジタル情報ネットで「統治」される社会でも、現実に生きる人びとは、まさにマンデヴィルの世界を生きていることになる。そのモーターが核エネルギーであり、デジタル情報技術であり、生命科学他の先端テクノロジーなのである(イノヴェーションが要請する)。

ましな政権をもつ国では、国民・市民の存続のためには原発はやらなくなる。しかし、日本のようにドブ川の目先の餌で身を保つ者たちが国を「取り戻した」ところでは、国は泥船と化して濁流に呑まれるがままに任される。それをごまかすために、視界の悪い行き先に残りの火薬をつぎ込んで祭りをやる。それが都会の賑わいの最後の花火というわけだ。

そんな10年後になるとは誰も予想しなかっただろう。まさに「想定外」である。このように行方を見失った日本の10年の災厄のなかで、ひとり反原連は毎週金曜日に官邸前で、食いつぶされかき曇る「未来」への松明を灯し続けてきた。うす闇の空の下で、今日も「再稼働反対、再稼働反対」とリズミカルに声を上げる黒いシルエットが浮かびあがる。大災厄の翌日のヴィジョンから、ひとつの方向を指す燈明のように、世界の闇からの出口を指して。脱原発、そこがまず動かすべき梃子だから。(了)