2020年の念頭に、トランプの暴挙2020/01/08

★長い間慣習で新年のあいさつをしてきましたが、もうさすがに「おめでとう」とはとても言えなくなった2020年の年明けです。途中で令和元年と塗り替えられた2019年は去ったのか、株価の吊上げと同様、オリンピック機運を虚飾で盛り上げて問題を全部押し退けているが、それが終わるとこの国はどうなってしまうのか?今だけ金だけ自分だけで「後は野となれ山となれ」政権の長期君臨が遺す後の事態を誰が引き受けることになるのか?そして来年は3.11大災害から10年目(世界では9.11後20年)、思うだにとても厳しい年になりそうです…。

 そんな挨拶をしたところ、年頭からトランプの暴挙のニュースが飛び込んできた。これについては語るべきことは尽きないが、FaceBook に挙げた最初の走り書きをこちらにも掲載しておきたい。
 
★イランが戦争態勢に入れば、全世界でアメリカ人が標的になる。戦争と言っても、イランは大西洋上に軍を展開して攻撃ヘリでトランプを奇襲することなどできないからだ(アメリカはいつも相手を「大国」と言うが、せいぜい核ミサイルにカラシニコフだ。)。

 アメリカ選手団や観光客が大挙してやってくる東京オリンピックは格好の標的になる。1972年のミュンヘン・オリンピックが思い出される。「黒い九月」旅団によるイスラエル選手団襲撃事件だ。日本がほんとうにオリンピックを無事すませたいなら、ただちに米イランの仲介に動くべきだろう(ローハニ大統領が訪日したばかりだ)。中東に自衛隊など送っている場合ではない。

 安倍政権にはとてもそんなことはできないだろうが、いま日本がやるべきはそういうことだ。トランプに「理解を示し」たりすれば、いくら「テロ対策」をしてもオリンピックはできない。原発処理をごまかしている上に、アメリカの巻き添えになるオリンピックには参加できない、とする国々もあるだろう。

 「平和の祭典オリンピックを巻き込むな」というのは空しい。アメリカはそんなことにお構いなく、強大な軍事力をかざして、強盗まがいのやり方で世界を望むがままにコントロールしようとするからだ。

* 去年6月ボルトンを抑えたトランプが今回強硬に出たのは選挙のため、つまり国内向けだろう(戦争になると支持率が上がる)。だが、国内を向いて虚勢を示しても、これで背中につく火は消し難い。世界はみんなアベ(トランプのためなら何でもする)ではないのだ。国連事務総長は「世界は新たな湾岸戦争に耐えきれない」とコメント。イスラエルの動きに注目。

2020年、黒いタイタニックの船上で2020/01/12

 「虚飾の時代です。利を得るに手段を選ばず、欺き、殺してまで目先の富を守ろうとする風潮が、世界中で目につきます。"近代"は実を失い、道義の上で既に廃頽しました。経済成長という怪しげな錬金術にすがり、不老不死の夢を追い、自然現象まで、科学技術で制御できるかのような進歩信仰は虚しく、人間の品性と知性は却って退化したようにさえ思われます。」この中村哲さんの言葉を、カルロス・ゴーンを追って取材中のTBS金平キャスターが、「ベイルートの寒空の下にて」とつぶやいていた(1/8)。

 2日前の6日には、アメリカのトランプ大統領が「敵国」イランのスレイマニ司令官をドローンで爆殺する命令を下し、ツイッターに星条旗を掲げたうえで、議会に通告する必要はないと表明した。

 日本の社会(メディアに見えるかぎり)はオリンピック・キャンペーンに染まって、「桜を見る会」さながらに、招致疑惑・ガジノ疑惑も何もかも、不都合なことはシュレッダーにかけて開会式までなだれ込もうという気配。

 そんなとき、三宅雪子さんという元民主党女性議員の死が報じられた。その訃報に接して、伊藤和子さん、井戸まさえさん他、多くの人ツイッターやFBで他人事ではないといったコメントを出している。ネット上で執拗に罵倒され、否定され、それと果敢に戦いもしたが、疲れてボロボロになるし、やはりダメージは深かったのだろう。最後のツイートに「…タイタニック、最後の座席を譲る用意がある…」とあったが、そんな思いのある人ほど、このネット・コミュニケのドロ沼には生きられる場がなかったようだ。「批判ではなく誹謗中傷、風説の流布、嘲笑、罵倒、脅迫、これらを数年間毎日執拗にですよ」、といったコメントもある。煎じ詰ていえば、日本社会ミゾジニーの闇は深い…。

 三宅さんの自死が気に留まったのは、深い闇がそこから垣間見られたからだ。新自由主義(欲望の無制約な解放)、デジタル情報化社会、生きた身体や存在そのものの情報化とその消費財(商品)化、あらゆる規範(制度的枠組み)の解体、ポスト真実と歴史修正、それを利することを知らない「弱者」たちと、流れに掉さす体制エリートたちの居直りまたは「脱出」志向…。
 
 「消えろ」と言われた人が嫌でも追いつめられて、みずから消えてゆく。それを「否認の暴力」の方は、ネットの泥闇に浸りながら嗤うのか。SNSはいじめ社会と同じように、そんな言葉の暴力のアリーナになっている。人間の心の闇を開くSNSがどうして開発され、革新と宣伝され、すごいと求められ、疫病のように一気に世界に広まって、未来のコミュニケーション・ベース(絆?)のようになったのか?それはもちろんどこでも(アメリカでも中国でも、アフリカの小国でも)国家的にも推進されている。

 「悪貨は良貨を駆逐する」というのは経済の鉄則で、今では貨幣もデジタル情報化し、情報も市場では「悪貨が良貨を駆逐する」。そして見せることだけを商品として市場を組織する生産工程のいらない「観光業」(ポルノ産業?)と同じように、掃溜めに溜まった「劣情」が価値あるものとしてヴァーチャルな「情報市場」に解き放たれる。SNSはそれを可能にするインフラだ。

 そんなことで(ひとりの悲劇)デジタル情報化は否定できない。この技術が人間を解放し、別次元に連れてゆく。生命技術もナノテクノロジーも、これなしには生れなかった。技術は人間の可能性そのものだ。そう言う文明論者たちが見ようとしないのは、その技術の作り変える世界を生きるのは一人ひとりの人間だということだ。技術はひとりでに進化するわけでなはない。今のような方向に人間社会を変えてゆくのは、「イノヴェーション」を必要とする「経済成長」への衝迫である。そしてそれも、個々の人間のあさはかな欲望に担われている。

 そこでは産業化の初めに見透された、「私悪すなわち公益」というバーナード・マンデヴィルのシニカルであけすけな教えがあからさまな事実となる。マンデヴィルは神学を近代化したライプニッツの同時代人である(続く世代)。スミス・マルクスの理論化以来「資本主義市場」として隠された私欲というドブ川の蓋が、社会主義を踏み台にハイエクによって取り外され、やがて濁流となって世界を呑み込むにいたった。ハイエクの主張した無制約の「自由」、あらゆる「社会性」を否定し個を解き放つ「理想」。それを実質的に可能にしたのがデジタル技術なのである。しかしそれは個をも解体し、味噌もクソもの粒子状の欲望と絶望の奔流の中に「人間」を流し込もうとしている(だからもう「人間」は時代遅れだ、と言われる――そう言うのはとりわけニーチェ・ドゥルーズ)。自ら作り出したその絶望的(つまり未来がない)状況を、妄想的に抜け出ようとするのが、シリコンバレー成金由来でいま注目されつつある「暗黒啓蒙」の思想だ。
 
 年寄りに出番はないとも思うが、一方で75才まで働けとも言われている。この気候変動とそれに目を背けて私利を追及する(だから「社会」などないという)者たちの作り出す不毛の旱魃地帯に、命の水を供給するような仕事を、それでも少しは続けたいと思う。