★デジタル化の津波に制動を…2020/05/30

宇佐美圭司の連作『制動・大洪水』(部分)
《デジタル化の津波に制動を…》

コロナ感染拡大の危機感は、一時的とはいえ社会的コンタクトの遮断を必要とさせた。その結果、社会生活は停滞し、経済の流れが滞る。行政府はこの措置の致命性を回避しつつ、感染経路の封じ込めを課すしかなかった。

このとき政治の質は、その行政能力で測られる。パンデミックへの対応は、政治体制の違いによるのではなく、行政の処理能力や、さもなくば政府への民の信頼に依存する。経済社会はじつは人々の生存を前提としており、行政がこの危機にどう対処しうるかの能力だ。

この半世紀にわたる資本主義の新展開で、国家は公共社会部門の民営化を進め、権力は私権の保護と領土経営をもっぱらとするようになってきた。これが「自由」の拡張とされ、これまで権力に課されていた制約・負担は軽減された。ある意味では、権力そのものが民営化=私事化されているのである(これは日本では倒錯的な形で見られる)。そのコインの裏側のように、「社会」の解体によって「解放」された個人が、みずからの存在の脆弱さを恐れて「強い」国家を求めるという現象がある。

国際レベルでは、グローバルな経済秩序を維持する「テロとの戦争」が、新たな世界的レジームとなっている。「見えない敵」の侵入に予防的に対処する「例外状態」である。この「例外」がいまや「安全保障」の名の下に「通例」になっている。このような状況下で、重ねての「非常事態宣言」は、政治権力を倒錯させるだけである。まるでそれが感染症であるかのように、社会をあらかじめ「クラスター」化してゆく。

では、この危機を打開するにはどうすればいいのか?すでに「解決策」は提示されている。日本では、「親心」を隠さない「専門家たち」が「新しい生き方」を提案している。すでに「自粛」を内面化した社会に、さらに「社会的距離」を押し付けようとする。学校はオンラインで授業し、企業はテレワークを進める。この方策が一般化すれば、経済社会システムはもはや感染症で障害を受けることを少なくなるだろう。技術と経済はすでにこの方向に向かっている。無駄な政治論議は脇に置き、人間社会はデジタル・ヴァーチャル化を大きく進めている。

これが「解決」(この用語はエフゲニー・モロゾフから借りた)と見なされるかどうかが、実はこん回のパンデミックによって提起された最大の問題だろう。これは、経済的には進んでいる世界の二極化を、一層の形で推進することになる。コロナウイルス禍は世界を変えるのか?おそらく。ただそれは以前からの変化を少し加速させるだけだろう。これは良いことなのか悪いことなのか。悪いに決まっている。この変化はそんな価値判断の無効化につながるからだ。そういう判断は、もはや脆弱で間違いやすい生き物に任せるべきではないと。善悪を考えるのが人間である。だが、技術科学=経済は、そんな判断をすり抜け、「陳腐化した人間性」(G・アンダース)を後に置いてゆく「解決」へと向かっている。

明日の特徴が、できの悪い身体性の一層の放棄であるならば、世界はますます「便利」だが、味気なく生きにくい、惨めな、あるいは活力のないものになるだろう。「自粛」のメンタリティは、コロナ以上に社会に感染する。それは政治権力にその責任を免除させるが、その無力さ無能さは、禅の伝統における不作為の功徳とは遠くかけ離れている。

このいささか憂鬱な見通しに抗う方法はないのだろうか。存在論的に言うなら「存在しない」。しかし、見えない潜在的な力がつねにある。それが政治を刷新し、経済と科学技術の結託に対抗して生きている人間の次元を担いつつ、寄せては返す計量的理性の大津波に制動をかけることだろう。

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*フランスのナント高等研究院から「アフター・コロナ」の論集を緊急に作るというので、4000字の小論を書いた。あまり読みやすくないのは、論を凝縮し過ぎたこともあるが、フランス語の原文を翻訳ソフト(DeepL)にかけ、それをベースに日本語に直したからだ。まだまだ翻訳ソフトではきつい(翻訳ソフトは意味を読めないから)。とはいえ、人の文章のようでおもしろくなくもない。ただし、中身は日本語でも披露しておきたかったので、ここに掲載する。
*原題は"La possibilite d'un barrage contre le Tsunami numerique"、文字どおりには、「デジタル化の津波に立てる堤防の可能性」ということになる。M・ウエルベックの代表作『ある島の可能性』と、M・デュラス『太平洋の防波堤』を想起しつつつけた。
日本語なら、2012年に亡くなった宇佐美圭司の最期の連作『制動・大洪水』を念頭においている。