言論工房 fushino_hito 開設のごあいさつ2014/05/01

 店開きのご挨拶をさせていただきます。

 2010年4月から大学のサーバーを使って「西谷修―Global Studies Laboratory」というブログを開いていましたが、この3月末で14年間勤めた東京外国語大学を退職し(定年延長1年)、4月から立教大学・文学研究科に特任教授として勤めることになりましたので、これまでのブログを停止し、新たにこのブログを開くことにいたしました。

 あまり使い方には通じていませんが、これまで通り、なかば自分の覚え書きとして、なかば公開のために、都合のつく限り折にふれて投稿してゆこうと思っています。

 GSLブログは「時事的なコメント、関連企画のお知らせ、その他西谷の仕事に関連する公開用ノートなどを、雑誌のコラム感覚(?)で公表しています」というふれ込みでしたが、これは基本的には変わりません。「コラム感覚」というと違う、とご指摘をいただいたこともありますが、要は、公開する以上、あまり長くない枠内で、要点を明確に示しておくよう努める、といった含みです。とりわけ、読んでいただく方々に、読ませてご迷惑になることのないよう心がけております。

 3月いっぱいあちこち動いて忙しく過ごし(最後は福島視察)、4月は新学期の始まりと、研究室の主な荷物である書籍の整理処分と引っ越し等でバタバタする中、日仏学院での日仏翻訳シンポジウム、立憲デモクラシーの会の創設会見やシンポジウム、そして「沖縄の問いにどう応えるか」のシンポジウムと、関係するイヴェントが立て続けにあり、このブログ移転が最後になってしまいました。

 「言論工房」というのは、「思想」ないしは「思考」、あるいは「哲学」でも「言説」でもよかったのですが、あえて一般的な手垢のついた表現を、「言葉で論じる」という文字どおりの意味で用いたいと考え、そのための「工房」をめざすということです。また、「Fushino_hito」というのは…(…どうやらこの箇所のデータが消えてしまったようです…、GSLの方を参照していただければ幸いです)…、元気のあるかぎりやって行こうと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。

 最初の記事は、GSLブログの最後の記事(「二つのシンポジウム報告」)を再掲させていただきます。

二つのシンポジウム報告2014/05/01

4月25日(金)の夕方から法政大学で「立憲デモクラシーの会」の旗揚げシンポジウムがあり、26日(土)には同じ法政大学のさったホールで「沖縄の問いにどう応えるか ―北東アジアの平和と普天間・辺野古問題」と題するシンポジウムが行なわれた。(IWJインターネット・ウェブ・ジャーナル 2014/04/26)
 
 両方のシンポジウムが法政大学で開かれたことは偶然ではあるか、理由のないことではない。前者は、奥平康弘さんとともに共同代表になった山口二郎さんが、今年度から中心メンバー法政大学に移り、そこにはもうひとりの中心メンバー杉田敦さんがいて、法政のボワソナード記念現代法研究所が共催で場所を提供してくれた。また、沖縄シンポの方は、法政大学には沖縄文化研究所があり(屋嘉宗彦所長)、普天間・辺野古問題を訴えるアピールを出したグループがシンポ企画を立てていたとき、共催を引き受けてくれたということである。
 
 ふたつはまったく別に準備されたものだが、奇しくも法政大学にはこうした企画を受け入れる人文社会学系の研究所がいくつもあり(大原社会問題研究所も法政にある)、今回二つの企画の受け皿になりえたということだ。それに、この4月からは、江戸文化研究者で率直な発言でも知られる田中優子さんが総長に就任した。田中さんがスゴイのか、法政がススンデいるのか、こういう人が「総長」(つい『総長賭博』などというかつての東映映画を思い出してしまうが)を張れる大学でもあるということだ。
 
 大江健三郎さんが最初の基調講演をしたということもあるが、沖縄シンポではその田中総長が、例の着物姿で冒頭のあいさつをしてくれた。
 
 わたしは両方のシンポに関わったが、この二つは別のものではない。
 「立憲デモクラシーの会」は、現在の安倍政権が、金融緩和からメディア規制から法解釈憲法解釈まで、あらゆる禁じ手を繰り出して日本社会を軍事化の方向に引っ張ってゆこうとする状況に危機感をもち、近代国家の基本ルールにしたがい、憲法に基づいて熟議で事を進めることを要求する学者たちの集まりで、とりわけ、時の政権の恣意で解釈によって憲法を空文化する「解釈改憲」に反対する、法学(とくに憲法学)、政治学、行政学等の学者が中心になっている。

 それに対して「普天間・辺野古問題を考える会」は、以前から沖縄のさまざまな問題に関わってきた学者たちが中心で、代表の宮本憲一滋賀大元学長は、日本の公害問題に取り組んで環境経済学を主導し、沖縄の基地問題にもその観点から取り組んできた大ベテランで、国際政治、開発経済、憲法学、行政学、歴史学、思想史などの専門家が加わっている。

 この二つがじつは直結しているのは、安倍政権が進める「解釈改憲」による「集団的自衛権」行使の第一の想定現場が尖閣諸島、ということは沖縄県であり、「立憲デモクラシーの会」が取り組む課題の具体的照準が沖縄に当たっているからである。日中対立を背景に「解釈改憲」を進めて自衛隊の軍事行動の歯止めを外すことは、「集団的自衛権」をもちだすまでもなく、「個別的自衛権」の発動だけでも、沖縄を再び前線にすることになる。辺野古新基地建設は、それが米軍のためであれ、じつは自衛隊が使うためであれ、沖縄諸島の前線化を想定している。

 言い添えれば、そこにも現在の日米間の意図の齟齬があり、アメリカが日本の自衛隊を活用したいのは「対テロ戦争」つまりはアフガンやイラクのような戦争を想定しての話だが、安倍政権は日米安保を対中戦略を軸に考えている。だが、今後の世界統治戦略のために中国との協調をかかせないと考えるアメリカは、じつは日中間の対立に引き込まれたくはないのだ。そこを日米安保で抱き付いて、TPPで譲歩してでも、アメリカに日中対立の後ろ盾になってもらおうというのが安倍政権である(だが、TPPで国をアメリカの多国籍企業に売り渡するようなことをすれば、この政権にとって守るべき「国」とは何か?ということになる)。

 とりわけインパクトが強かったのは我部さんの、東アジアの危機について、日本はアメリカに頼り沖縄に負担をおっかぶせて済ませるのではなく、「当事者意識をもて」という指摘と、島袋さんの、沖縄に凭れるのが日本の「病理」で、沖縄が日本に甘えるなどとは片腹痛く、日本こそ沖縄に頼らず自立することに目覚めよ、という呼びかけだった(これは、本シンポジウムの「衝撃」の要所を語った稲垣正弘さんのブログからのパクリだが、たしかにその通り「衝撃」だった。ただ、稲垣ブログではわたしが過大にもちあげられているので、面はゆい)。

 沖縄は2013年1月に全市町村長の署名をもってオスプレイ強行配備に抗議する「建白書」を政府に提出した。そのオール沖縄の抗議表明と名護市長選で再度示された民意を押し潰すようにして、その2日後に安倍政権は工事のための資材搬入を開始した。そしてそれをアメリカへの「ご進物」にしようとしたのである。しばらく前から沖縄はもう日本にも日本政府にも何も期待しない(見放す)ような空気が濃くなっており、様々なレヴェルで「自立」の道を探り、国際的な働きかけを広げようとしている。この会で発言した島袋純琉球大教授は、専門は行政学だが、今年住民投票を控えたイギリス・スコットランド独立事情を研究しているという。

 このシンポジウムも、そんな気配のなかで、日本の抱える「沖縄問題」の現状を確認し、世界からの見方の報告も受け(海外知識人声明の取りまとめをしたガバン・マコーマック氏)、さらに沖縄の観点からの現状認識と問題についての報告を受け(我部政明琉球大教授、佐藤学沖国大教授、島袋純・上記)、われわれが考えるべきいくつかのポイントについて5人の論者からの指摘があった。

 前日の立憲デモクラシーの会シンポジウムは約600人の人びとが参会し、300人収容の教室から別室にビデオ中継で伝えるという盛況だったが、この日も600人の人びとがさったホールを埋め、熱心な聴衆が会の緊張を支えてくれた。この模様はIWJ(インディペンデント・ウェブ・ジャーナル、岩上安身責任編集)のサイトで見られる。合計3本あり、最初のものは大江健三郎さん、我部正明さん、ガバン・マコーマックさんの講演、次が島袋さん、遠藤誠治さん(国際政治、成蹊大学)、川瀬光義さん(地方財政、京都府立大)、古関彰一さん(憲法史、獨協大学)、西川潤さん(開発経済、早稲田大名誉教授)、和田春樹さん(歴史学、東京大名誉教授)、3本目は最後の宮本憲一さんのあいさつになっている。ごらんいただければ幸いです。

「集団的自衛権」を言い換える2014/05/15

 一昨日、東京新聞特報部の電話取材を受けた。「集団的自衛権」をどう言い換えれば誰にでもわかるようになるか、という質問だった。たしかに「集団的自衛権」というと、何やら抽象的な話になる。これでは井戸端で議論というわけにもいかないだろう。いったい何のことなのか、分かりやすくする必要はある。

 そこで、取材を受けた皆さんが何と答えたかは14日付けの東京新聞の「こちら特報部」で紙面になっている。そのときのわたしの話を少し敷衍しておこう。
 
 「集団的自衛権」ということの中身は要するに、日本が直接攻撃されなくても、いわゆる同盟国が攻撃を受けたときには、助けに行って一緒に戦いたいという話だ。日本が攻撃されるときには助けてもらうから、同盟国が攻撃されたときはこっちも助けるべきだ。ひいてはそれが日本を守ることになるから、と。それがこんな訳のわからない術語で言われるのは、「戦争放棄」を謳った日本国憲法でも「自衛権」は否定されていないはずだから、その「自衛権」の延長でこれに何とか理屈をつけて「権利」として認めさせたいという意図かあるからだ。

 それを一般理論風な言い方にする。だが、具体的に考えたとき、日本はアメリカしか同盟国(トモダチ)がいない。戦争の後遺症で、近隣諸国をみな「敵」に回しているからだ。だから、同盟国といったらアメリカのことだ。ということは、「集団的自衛権」というのは、ぶっちゃけて言えば「アメリカの戦争を手伝う権利」、ということになる。アメリカ以外の戦争なら、同盟もないから「自衛」にならない。「日本の国益」(対立構図を作るのに便利な言葉だ)がかかっているなら、「集団的」にやる必要もない。

 たしかにアメリカは、世界中に軍を展開してもう手が回らないしお金もない。だからアフガンでもイラクでもその他でも、日本に手伝わせたかった。今でも半分はそう思っているだろう。アメリカは世界に対する軍事的な影響力を維持したい。けれども、その「平和」を享受する国は応分の負担をせよというわけだ。ただしそのとき、アメリカは日本が独自の軍事力を展開することを望んでいるわけではない。あくまでアメリカ軍の手足となって働く軍隊が欲しいというだけだ(小泉時代の日米安保のガイドライン等はその方向――自衛隊の米軍との「一体化」で作られている)。

 ところが「私」が決めたがる安倍首相は「私が指揮する兵力」を欲しがっている。そしてその兵力は戦争をすることのできる軍隊でなければならない。おまけに安倍はその「私」が日本国家を体現しているかのように振舞っている。そしてアメリカにダメだと言われても靖国に参拝する。だが、そういう安倍の求めるような日本軍(靖国に体現される「殉国」の精神をもつ日本軍!)を、アメリカは求めているのではない。

 むしろそれは迷惑なのだ。安倍政権のやり方は中国や韓国と対立して東アジアを分裂させるが、中国はいまなアメリカの世界統治の重要な「パートナー」であって、国債もいちばん買ってもらっているし、アメリカは中国とこじれたくない。だが、安倍の日本は対中関係をどんどん悪化させながら、日米安保をかざして「同盟国アメリカ」に抱きついてくる。アメリカにとっては迷惑千万といったところだろう。

 要するに、アメリカが日本の軍事力に期待するのは、その世界統治に奉仕(肩代わり)する手駒なのだが、安倍とその仲間が「交戦権」に道を開くことで、第一に考えているのは尖閣問題に集約される日中対立なのだ。アメリカが「集団的自衛権」を支持していると言っても、まずそういうたすきの掛け違いがある。

 戦後の日本は日米安保だけで、つまりアメリカ一辺倒でやってきた。悪いことに、それを頼りに近隣諸国との関係をないがしろにしてきた。だから、よけいに追いつめられていっそうアメリカに頼ることになる。だが、そのアメリカにも嫌がられているが、その実情を隠しての「集団的自衛権」の主張。だから、これは「手を出すなと言われても、手を出すその権利」(その代り、アメリカさんしっかり助けてね!)というといいかもしれない。

 では実際に、中国と戦争ができるのか? わずかな想像力さえあれば、このグローバル化した世界で大国同士が戦争することは事実上できないと思わざるをえない。核兵器ばかりではない。原発攻撃、サイバー攻撃(金融ネットとか電力供給システムとか、社会を混乱させる標的には事欠かない)、生物化学兵器(鳥インフルエンザとかサーズとか、みんな兵器に使える)…。何千万と人が死んでいいのか?(人口問題の解消?でも、少子化や人口減にひどく輪がかかるじゃないか!)

 それでも戦争したがるふりをする。なぜか?「戦争」というのは、全体の前に個が圧倒的に黙らされる状況だ。戦争となれば、支配層は国民を好きなように強制できる。一人ひとりの国民は逆らえない。結局、今の政府が求めているのは日本をそういう国にすることだ。それならSF的「日中戦争」よりはるかに現実味がある。

*『美味しんぼ』が「炎上」している。これに関する発言は多いが、雁屋哲にはちょっと恩義がある。というよりこれはおっとり刀で駆けつけたい。いや、自分の喧嘩だから、と固辞されたら、あとは俵星玄蕃の気分だ。近々、何とかしたい。

戦争の近未来2014/05/18

 「センソウ」と簡単に言っても、今ではそう簡単に戦争はできない。ただ、あちこちで内戦(内乱)が起こっているから、きな臭くはある。それに、戦争はあっと思ったときにはもう始まっている。日本では「ゼロ戦」の時代の気分だとか、子供を連れたお母さんを米軍が助けるとか、大時代的なイメージがまき散らされているが、しばらく前(ウクライナの混乱が生じた頃)に『毎日新聞』の求めに応じて「21世紀の戦争」について書いた。目にした人もそんなにいないと思うので、ここに転載させてもらう。

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 ソチの冬季五輪が終わった。ここは「テロ」のホット・スポットに近く、テレビに映らない会場の外では厳戒態勢が敷かれていた。今では「平和の祭典」を行うにも「臨戦態勢」が必要とされる。

 二十一世紀に入って戦争の基本形態は「テロとの戦争」になった。それは国家間の戦争ではない。「見えない敵」を想定して国家が軍事行動を展開することをいう。その場合「敵」は外国ばかりでなく国内にも想定され、監視や予防の網の目が張られる。国境はもはや敵と味方の境界ではなくなるのだ。

 「テロ」の危険を呼び寄せるのは、経済的繁栄の象徴(マンハッタンのツイン・タワー)だけではない。産業のインフラは狙われやすいし、原発はそれ自体が危険物だから格好の標的になる。だからそれを守るために地対空ミサイルさえ配備される。

 それだけでなく、各国が競って開発する先端技術は、小型核兵器と同様「敵」の武器になるとみなされる。サイバー攻撃のためのIT技術、生命科学技術も同様である。新型インフルエンザがどのように発生したのかについては議論があるが、その研究はウィルスが生物兵器になりうるという疑惑のもとで行われている。先端技術が「テロ」に悪用される危険と表裏だということは、現代の技術と社会との危うい関係を示唆している。「見えない敵」を設定したとき、あらゆる技術的可能性が自分に向けられた潜在的な兵器でもあるということが露呈した。

 現代の戦争の条件は、「敵」の姿を消しただけではなく、国家の輪郭をも消してしまった。だから今では誰が誰を監視しているのかもわからない。その一方で、破壊や殺人は人間の経験から遠ざけられる。地上にはロボット兵器が投入され、偵察・爆撃も遠隔操縦の無人飛行機が行う。だから、どれほど現場が悲惨でも、攻撃する側には人的被害が出ない。「文明国」は無傷で「テロリスト」を殲滅するというわけだ。

 すでに半世紀以上、大国同士の戦争は起きていない。起きないというより起こせないのだ。兵器の破壊力が過大になり、甚大な損害が混乱が予想される。だからこそ戦争は「テロとの戦争」になった。つまり大国が小国や非国家的勢力を「テロリスト」(あるいはその仲間)と名指して殲滅しようとする。そこに圧倒的な軍事力の差があるからこそ「戦争」が仕掛けられる。いま先進国の人々がなじんでいる戦争のイメージは、この種の「戦争」で作られたものだ。

 ところが、戦争をしようとする人間の想像力は旧来のままのようだ。あるいは、先進技術の威力や破壊の規模に想像力が追いつかない。そして人間の知性も、強力なテクノロジーを使うのにますます不釣り合いになっている。難解なことや通常の尺度を超えたことはすべてコンピュータや機械に任せようとする。人間は考えることも想像することも省略し、単純な憎悪や報復の感情だけに身を任せて、安易に戦争を語ろうとする。だが、世界はもはやゼロ戦や戦艦大和の時代ではないのだ。

 それでも、国家間の緊張を高め、軍事態勢を押し進めようとする傾向もある。だが、現実的に考えて大国間の戦争ができないとすれば、戦争への気運が煽られる意図と効果はおのずと明らかだ。外部に「敵」を想定すると内部の締め付けが可能になる。実際の戦争を起こすより、こちらの方が現実的な効果だ。「テロとの戦争」が「戦争の内戦化」だというのはこの意味だ。つまりそれは、見えない外敵と戦うより、見やすい「内部の敵」を排除して統治を強化することにつながる。

 二十一世紀の戦争はこのように、世界秩序の主要部での「内部の統制」と、周辺の無秩序化として恒常化する傾向をもつ。それを放置すれば、世界は次の世紀を展望する必要そのものを失いかねないだろう。

(毎日新聞、3月3日夕刊、「パラダイムシフト、2100年への思考実験」第3部、紛争と国家の行方⑥、"テロとの戦争"が招く真の危険 )