戦争の近未来2014/05/18

 「センソウ」と簡単に言っても、今ではそう簡単に戦争はできない。ただ、あちこちで内戦(内乱)が起こっているから、きな臭くはある。それに、戦争はあっと思ったときにはもう始まっている。日本では「ゼロ戦」の時代の気分だとか、子供を連れたお母さんを米軍が助けるとか、大時代的なイメージがまき散らされているが、しばらく前(ウクライナの混乱が生じた頃)に『毎日新聞』の求めに応じて「21世紀の戦争」について書いた。目にした人もそんなにいないと思うので、ここに転載させてもらう。

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 ソチの冬季五輪が終わった。ここは「テロ」のホット・スポットに近く、テレビに映らない会場の外では厳戒態勢が敷かれていた。今では「平和の祭典」を行うにも「臨戦態勢」が必要とされる。

 二十一世紀に入って戦争の基本形態は「テロとの戦争」になった。それは国家間の戦争ではない。「見えない敵」を想定して国家が軍事行動を展開することをいう。その場合「敵」は外国ばかりでなく国内にも想定され、監視や予防の網の目が張られる。国境はもはや敵と味方の境界ではなくなるのだ。

 「テロ」の危険を呼び寄せるのは、経済的繁栄の象徴(マンハッタンのツイン・タワー)だけではない。産業のインフラは狙われやすいし、原発はそれ自体が危険物だから格好の標的になる。だからそれを守るために地対空ミサイルさえ配備される。

 それだけでなく、各国が競って開発する先端技術は、小型核兵器と同様「敵」の武器になるとみなされる。サイバー攻撃のためのIT技術、生命科学技術も同様である。新型インフルエンザがどのように発生したのかについては議論があるが、その研究はウィルスが生物兵器になりうるという疑惑のもとで行われている。先端技術が「テロ」に悪用される危険と表裏だということは、現代の技術と社会との危うい関係を示唆している。「見えない敵」を設定したとき、あらゆる技術的可能性が自分に向けられた潜在的な兵器でもあるということが露呈した。

 現代の戦争の条件は、「敵」の姿を消しただけではなく、国家の輪郭をも消してしまった。だから今では誰が誰を監視しているのかもわからない。その一方で、破壊や殺人は人間の経験から遠ざけられる。地上にはロボット兵器が投入され、偵察・爆撃も遠隔操縦の無人飛行機が行う。だから、どれほど現場が悲惨でも、攻撃する側には人的被害が出ない。「文明国」は無傷で「テロリスト」を殲滅するというわけだ。

 すでに半世紀以上、大国同士の戦争は起きていない。起きないというより起こせないのだ。兵器の破壊力が過大になり、甚大な損害が混乱が予想される。だからこそ戦争は「テロとの戦争」になった。つまり大国が小国や非国家的勢力を「テロリスト」(あるいはその仲間)と名指して殲滅しようとする。そこに圧倒的な軍事力の差があるからこそ「戦争」が仕掛けられる。いま先進国の人々がなじんでいる戦争のイメージは、この種の「戦争」で作られたものだ。

 ところが、戦争をしようとする人間の想像力は旧来のままのようだ。あるいは、先進技術の威力や破壊の規模に想像力が追いつかない。そして人間の知性も、強力なテクノロジーを使うのにますます不釣り合いになっている。難解なことや通常の尺度を超えたことはすべてコンピュータや機械に任せようとする。人間は考えることも想像することも省略し、単純な憎悪や報復の感情だけに身を任せて、安易に戦争を語ろうとする。だが、世界はもはやゼロ戦や戦艦大和の時代ではないのだ。

 それでも、国家間の緊張を高め、軍事態勢を押し進めようとする傾向もある。だが、現実的に考えて大国間の戦争ができないとすれば、戦争への気運が煽られる意図と効果はおのずと明らかだ。外部に「敵」を想定すると内部の締め付けが可能になる。実際の戦争を起こすより、こちらの方が現実的な効果だ。「テロとの戦争」が「戦争の内戦化」だというのはこの意味だ。つまりそれは、見えない外敵と戦うより、見やすい「内部の敵」を排除して統治を強化することにつながる。

 二十一世紀の戦争はこのように、世界秩序の主要部での「内部の統制」と、周辺の無秩序化として恒常化する傾向をもつ。それを放置すれば、世界は次の世紀を展望する必要そのものを失いかねないだろう。

(毎日新聞、3月3日夕刊、「パラダイムシフト、2100年への思考実験」第3部、紛争と国家の行方⑥、"テロとの戦争"が招く真の危険 )