『私たちはどんな世界を生きているか』への蛇足2020/10/22

恥ずかしい帯
 初めて、新書という形で本を作る(書くというより)機会があった。それが昨日書店に並んだ『私たちはどんな世界を生きているか』(講談社現代新書)である。むっ?と言われる。新書なのに、タイトルだけでは何の本かが見当がつかないようだからだ。中身を示すタイトルをつけようとしても、こうしかつけられなかった。

 わたしは政治学者でも経済学者でも、また歴史家でもない。もともとは二十世紀フランスの文学・思想を研究し、とりわけ「世界戦争」の時代の極限状況のなかで書くこと・考えることの困難に直面した作家たちの研究から始めて、戦争、死、人間の共同性、宗教、世界史と文明などについて考察することを仕事としてきた者だ。それが、私たちの生きる現代世界の解明と理解に資すると考えて。

 だが、世紀が変わってとりわけアメリカの九・一一があり、世界に「テロとの戦争」のレジームが敷かれた頃から、その変化の捉え方・論じられ方が、メディアの領域ではとかく既成の国際政治の枠組みからの論評に留まって、出来事の深い意味を見損なっている(そして政治的議論を、既存の力によって設定された枠組みに流し込んでゆく)と思われ、アクチュアルな政治・社会的議論にも介入することになった。

 もっとも、ヘーゲルにしてもハイデガーにしても、誰もが自分の生きる時代の中で考え進めたことには違いなく、わたし自身も最初に『不死のワンダーランド』(一九九〇年)をまとめたときから、文学・哲学的考察のなかでつねにアクチュアルな状況を参照しないわけではなかったし、『世界史の臨界』はまさに世界がキリスト紀元二千年代に入るその時を意識してまとめたものである。だから、情況的な議論に加わることもとり立てて唐突なことではなかったはずだ。

 ただ、国際政治についての議論をする場合にも、あるいは現代世界の駆動力になっている経済現象を論じる際にも、世界にはさまざまな人びとがそれぞれの地域の政治構造の枠の中で生きているということ、現代世界が「西洋」と呼ばれる地域文明の世界化によって造形されてきたということ、そこには産業化という形をとる組織的知や制度の体系、さらには技術についての考えの普遍化が含まれているということ、そしてその展開のプロセスの内に政治や経済や宗教、社会性の分節化があったということを、考察の内に組み込まざるををえない。それがわたしのような論者の、あまり理解されがたい特徴にもなる。

 というわけで、わたしは自分自身の仕事を広い意味での哲学や思想史の括りに入れることにしているが(入れてくれるかどうかは別の話だ)、そのことも含めて本書の中身をタイトルに示そうとするとき、やはり「私たちはどんな世界を生きているのか」とするのが適切だと思われた。そこで扱われているのは、私たちの「世界」を規定する政治や経済や社会状況の錯綜する動態だからである。

 内容を紹介するよう求められて書いた一文は、講談社のPR誌『本』11月号で、「何が社会の再身分化を引き起こしたか」というタイトルで紹介されている。

 出発点は、現代がきわめて不確定な時代だということだ。とりわけ「未来」が見えなくなってしまっている。それは一方では、「人間」の輪郭がますます消されてゆき、それを支えていた「時間」の観念(意識の在り方)が変質してしまっているとこと、そしてコミュニケーションの軸である「真理」の足場が掘り崩されているということのためである。それを私たちはどういう社会的・日常的かつ歴史的「現実」として生きているのか、そのことの「人類史」的意味を考えながら確かめる、というのがねらいである。
 
 結論としては、世界史的に見て、フランス革命に極まった西洋世界の平等主義的動きが、その動力となった「啓蒙」の展開そのものによって、つまり科学技術の進歩と経済の自由化の果てに、諸社会の再身分化を引き起こし、解放や平等化の成果をチャラにしようとしている、ということだ。「啓蒙」の運動が世界戦争によって変容し二重化し、その一方が反転していると言ってもよい(ニヒリズム、フェイク、カルトと暗黒啓蒙)。

 そのことを二つの経験的な時間軸を立てて示そうとしてみた。ひとつはフランス革命以後の200余年、もうひとつは明治以降の日本の150年。なぜなら、日本は明治以降に世界史に、言いかえれば国際関係に、独自の時間を作りながら入ったからだ。そしてその二つの時間軸は「世界戦争」において劇的に交錯し、冷戦下で吸収され、グローバル経済の濁流の中で世界の分岐に呼応するようになっている。「私たち」は日本で生きており、抽象的な世界市民として生きているわけではない。この境界は無視できないし、横断はできても消去することはできない。

 日本という繭のなかで自閉的に現代世界を考えることもできるだろう。逆にまた、世界(普遍)の立場に立って、境界を超えたつもりになることもできるだろう。前者をナショナリズムと言うとしたら、後者はユニヴァーサリズムあるいはコスモポリタニズムである。だが、「私たち」の実情を知るためには「境界に立って」考えるということだ。日本と世界、世界の中の日本ということを意識するとき、足場は境界にしか置けない。本書の視点の特徴はといえば、この境界の条件に自覚的であることだ。

 それはわたし自身を「哲学」のカテゴリーから締め出すことになるのかもしれない。哲学は(他のあらゆる諸科学も)普遍主義でしかありえないからだ。だから、わたしはマルクスにもマックス・ウェーバーにも頼らない。形而上学にも普遍(社会)科学にも就かず、その「批判」(カント的意味での批判)を「西洋」批判と結びつけている。頼るとしたら、わたしの頼るのはジョルジュ・バタイユの近代知批判であり、カール・ポランニーの人類学的視点であり、ピエール・ルジャンドルの西洋的ドグマ批判、人間を「話す生き物」とみなすところから出発する人類学である。

 そう言うと抽象的に思われるが、実際に書かれていることは、日ごろ求めに応じて各所で話をする現代社会や私たちの生活を規定する諸条件に関する事柄である。そして結局のところ、ここで提示した世界の見通しには「奇抜な」ところはまったくないだろう。むしろ「ふつう」のものと言ってもいい。だが、「まともさ」にたどり着く途はけっして平坦ではない。それは、現代の日本に生きる日々の社会的経験に照らしてみればすぐに思い当たることだろう。
 
 それでは中身の紹介にはならないから、ひとつだけ参照項を挙げておこう。ちょうど、この本の紹介を書いた『本』11月号の巻頭に、同時期に出る『民主主義とは何か』という政治学者・宇野重規氏の寄稿文がある。宇野氏ははからずもいま菅首相による学術会議会員任命拒否問題の渦中にある学者である。そこでは、民主主義について、現代日本の最良の知見をもつ氏の経験と考察から、民主主義とは何なのかが問われ、整理され、現代にそれを擁護し生かす方向について、明晰かつ平易に書かれている。こういうものが、まともに考えれば異論の余地がないように書かれているのに、曖昧な錯綜したことをなぜ書く必要があるのかというと、私にとっては「民主主義」は土台でも出発点でもないからである。私はむしろ「民主制」という用語を使っている。それは政治理論や政治思想とは少しずれて、むしろ広い意味での法的な正統性の観点から事象を見ているからである。

 宇野氏は(というより政治学と言った方がよいだろう)現代の代表制民主主義が民主主義の典型ではないことを、議会制というものがじつは封建的身分社会から生じてきたこと、そして代表制や選挙が民主主義を支えるものではないことを指摘している。だからそれを踏まえたうえで「民主主義を選び直す」ことを提案していて、それはそれで納得できることである。ただ、ポリス(政治という概念の語源である)という人間の集合形態(共同体)が何を根拠の言説として成り立っているかと問うとき、デモス(民衆)だと答える体制がデモクラシー(民衆統治)だと考えるなら、「民主主義の空洞化」は別の形で語られることになる。それは「共同性」を支えるコミュニケーション空間の変容であり、それは政治的な問題というより、技術と不可分の経済による「政治」の侵蝕であり、アリストテレスの規定した人間の共同体としてのボリスの変質だということになる。私の議論はそのような形で、現代政治学の議論と斜めに交錯することになる。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック