トランプの「ドンロー主義」と国際法秩序 (ルモンド・ディプロ日本版) ― 2026/01/26
○世界の「危機」――アメリカの「無法」
いま、アメリカのトランプ大統領の言動をめぐって起きている事柄を、国際政治や解釈理論の常套句・常套論理を離れて、突っ込んで適確な用語で語ってみたい。
まず、トランプの言動は本人がそう言うようにあらゆる国際法を無視している。それでもベネズエラの大統領夫妻を特殊攻撃で拉致して、アメリカ法下の罪人として裁こうとしたり、ベネズエラを「統治」すると公言したり、その資源を我が物として強奪するそぶりをしたりすることが「可能」なのは(事実上やっている)、アメリカがその軍事力と諜報組織、金融システムとグロバールなPR手段をもっていて、それを「無制約」に使っているからである。当然ながらこの種の行為は、強大国家の「権力」の見境のない発露、すなわち力任せの「暴力」行為であり、国家権力の相互抑制システムである「国際法秩序」のあられもない蹂躙である。そのことをまずは国際社会は明言しなければならない。
それと、トランプ大統領のこの「異常さ」は、私的な欲望・願望と公的職務権限とに区別がないことにある(一期目にはこの融合が妨げられたので、二期目は人事でその障害を取り除いた)。これは社会的に診断するならすでに「狂気」と言わざるをえない。「私が大統領なのだから、私の言明・命令は、アメリカ国家の意志遂行の行為である」というのは、私的願望主体と「職務権限」との区別のつかない反社会的「病理」である。
だが、それが通ってしまうのは、現代社会のコミュニケーション・インフラがSNSであるからだ。SNSの基本的特徴は、私的メッセージが、そのままヴァーチャルな「公共」空間に流れることだ。それが「言論の自由」を広げるとして、売りに出されているのがこの主のメディアだ。そしてそこでは「真理にもはや価値はない」(ポスト・トゥルース)。「良貨は悪貨を駆逐する」と言われるように、「受け」さえすればそれが「選ばれたメッセージ」だということになる。そのうえ権力者がそれを使えば、そのメッセージは私的であっても公共的ステイタスをもって流通する。そんなメディア・インフラの性格が、現代政治にトランプ的「病理」を助長することになっている。この「見境がない」という個人的資質と、メディア・インフラの「解放系」とが相まって、トランプの「無規範性・無法性」に実際的効果をもたせている。
だから、いま世界に「危機」があるとすれば、それはパレスチナでもウクライナでもベネズエラでもなく、「最強国」(じつはそれ自体が今では「妄想」なのだが)が「無法者」と化しているというその事態にある。要するに現代世界が直面しているのは、「専制主義国の脅威」などではもはやなく、「アメリカが無法者になった」というこの「問題」なのである(その背景にあるのは、枯渇資源確保の妄執と、ヴァ―チャル世界へのエグジット妄想だが、これについては別に扱おう)。
○「自由の西半球」――ウェストファリア体制からの離脱
しかしじつはこの「無法」はトランプ個人の問題ではない。アメリカ合州国という「国」がいかにして形成されたのかを考えれば、ヨーロッパからの離脱を宣言したいわゆる「モンロー主義」がアメリカの建国原理に根ざしたものであることが分かる。
もともと国際法秩序とはヨーロッパでできたものである。ヨーロッパ全域を戦争に巻き込んだ30年戦争(17世紀前半)の後で、もう宗教を戦争の口実にしない、領土を一元統治する主権国家だけが戦争をすることができる、ただし戦争は正当な決まりに従って行う(戦争を平時とは別の法状態におく)等々 を決めて国家間関係を約定した。これが「戦争と平和」の国際法秩序であり、ウェストファリア体制と呼ばれるものだ。
ところが、ここに場を見出さなかったイギリス清教徒たちが、「海の彼方は自由」という当時のヨーロッパ法理(グロチウス)に期待して大西洋を越えて移住し、そこに「信仰の自由な地」を開こうとした。彼らは英国王の特許のもと、先住民を無視して土地を取得し開発し、いくつかの植民地(州)を作り上げた。その事業はじつは、植民会社という民間企業の事業として展開された(植民者はこの会社の株主でもあり、特許に従って土地を私的所有し、それをもとに「解放された」地域を開発、町や港湾や砦を作る)。この企業は先住民を「不法居住者」として追い立て、反抗を受けると「無法な野蛮人」として掃討し、そこにできた空白を自らの「自由」な事業展開の場として発展した。これが「新しいイスラエル」と称えられた(初代ニューイングランド総督)「新世界アメリカ」である。
そしてやがてそれに税金を課す王権を「特許状違反」と嫌って、英領十三の州が連合して「独立」をめざすようになる。そのために連邦政府ができるが、それは私企業の「統治経営」によってできた各州が、その自由経営権を守るための連合、いわば武装した「持ち株会社」のようなものだった。そして英王権を排して、アメリカ合州国はその自由経営統治権を確立したのである。そしてその仕組みが株主たち(私的所有権者たち)の「民主主義」なのである――そこには所有権の観念をもたない先住民や貧民にはまったく権利がない。
その意味で、アメリカ合州国とは、私企業の連合統治体であり、ヨーロッパ国際秩序を作った主権領邦国家とは成立ちがまったく違う。そのため、合州国に刺激されてラテンアメリカでも独立運動が起こると、「古い帝国」支配下にあったラ米諸国の独立を支持して、合州国はヨーロッパとの相互不干渉政策、いわゆるモンロー宣言を打ち出す。つまり、アメリカはヨーロッパ的な国際法秩序に従わないとして、「自由の西半球」を宣言したわけである。
○アメリカの対外戦争
アメリカには初めから「原資」があった。先住民から奪った土地がそのまま不動産という資産となり、それに付属する資源も何もすべて企業家の私有財産になったからだ。
こうして封建制のしがらみもなく、建国半世紀で北米大陸中央のすべてが資産となり、初めから近代産業体制が成立して(黒人や後の移民が豊富な労働力)、一九世紀末には世界一の工業国になった。「フロンティアの消滅」で先住民掃討の主役だった騎兵隊の仕事がなくなると、それを海外上陸用の部隊・海兵隊に組み替えて、まずスペインの植民地だったキューバ(ついでにフィリピン)を「解放」、つまり「自由市場」に解放して属国化し、ラテンアメリカ全域を「アメリカ化」しようとする矢先、ヨーロッパが植民地獲得競争(帝国主義)の仲間割れから「欧州大戦」に陥った。そこでアメリカ合州国はモンロー主義を捨てて、西洋的世界秩序にかぶさり、以後、世界統治に関与するようになる。
ただしそのとき、国内での抵抗が強かったため(古いヨーロッパなど捨ておけ、西半球の解放で十分だ…)、ウィルソン政権は参戦(海外派兵)のための強力なイデオロギーを打ち出さざるをえなかった。それが「アメリカの民主主義をヨーロッパへ」だった(アメリカの民主主義とは、国王や帝権を廃した民間企業家たちの独自政体だ)。
それ以来、アメリカの戦争(海外派兵)はたんなる権益をめぐる抗争ではなくイデオロギー戦争になる(そのためPR会社が活躍する)。第二次世界大戦は「ファシズムから民主主義を守る」、冷戦期は「共産主義対自由主義」(国家管理対私的所有権体制)、そうして冷戦後「西側の自由と民主主義」が勝利したことになって、グローバル市場一元化が達成されるとアメリカ原理(新自由主義)が規範のバッスク・アメリカーナの時代になる。だが、9・11で初めてアメリカ本土が襲撃され、「核抑止」体制そのものが破られたため、アメリカは「新たな敵」を「テロリスト」と指定し、人権の埒外においてグローバル規模でその殲滅戦を始める。いわゆる「テロとの戦争」だが、その構造はグローバル規模での「インディアン戦争」であり、無法を法とする超法規戦争だった。しかし、そのコストがあまりに高かったため(敵が見えないので限界も見えない)、バイデン政権のときにアメリカは、冷戦秩序を焼き直して「民主主義対専制主義」という対立図式を作り、「専制主義国の危険」で世界を戦争管理しようとする。
それが国際法秩序を抱え込んだアメリカ合衆国の振舞いだった。
○国連(UN)、第三世界、NATO
この間に国際法秩序の行方に関して重要なことが三つあった。
ひとつは国際連合の形成。これは破綻したウェストファリア体制の原理を変更して普遍化しようとするものだった。この西洋的国際法秩序は、主権国家の戦争権を軸に作られていたが、主要国がすべて産業化され、戦争になれば総動員・総力戦で双方に甚大な被害が出るうえに、原爆まで開発されてしまった。だから戦争を前提としては破滅の秩序しかできないというわけで、新しい国際法体制は「非戦」を原理とすることになった(ただし、それを最強国は受け入れないので「自衛のための戦争」だけは可とする)。さらに各国は国を超えて「人権」を擁護しなければならないことになった。そこから、相互承認・協調・互恵の原則が生まれる。
ただし、この体制は米ソの「冷戦」対立によって骨抜きにされていた。それを実質化しようとしたのが、旧西洋植民地から続々と独立したアジア・アフリカの国々だった。AA諸国は1955年に初めての会合を開く(バンドン会議)。そこにやがて、アメリカ合州国の「裏庭」とされた国々が加わり、「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国会議」となる。それまで世界秩序形成の主体となったことのなかったこの国々は、米ソいずれの超大国にも与せず「非同盟」の連携でそれぞれの国の独立・協調・発展のために協力する形をとった。後に言われる「第三世界」である。
その数の多さで国連体制のなかで重きを増してくると、ソ連の崩壊を見越した西側主要国は国連の外に「G7」を結成し、冷戦後の世界の「管理・運営」にあたろうとした。「西側」はそうて冷戦後にはその存在意義をなくそうとしたのである。その一方でアメリカは冷戦後も反ソ同盟NATOを解消しようとしなかった。それはEU諸国がロシア・中国と新たな関係を作り出して合州国を海の向こうに孤立させるようなことにならないよう、EUをつなぎとめるためである。だから冷戦後も「北大西洋同盟」は残って「西側」を支えることになった。
○トランプの「ドンロー主義」とは何か?
トランプ政権は「アメリカ・ファースト」を掲げて登場した。これは他の小国の「自国ファースト」と似ているようでじつはまったく違う。アメリカは「古いヨーロッパを延命させる世界統治などに関わって、持ち出しだけが多く自国の豊かさ強さは蝕まれてしまった。もう世界統治などには関わらない。国際法秩序などは関係ないのだ。アメリカはもともとその外部に出て、束縛を受けない"自由"を獲得したのだから」というモンロー主義回帰宣言なのである。
他の言い方をすれば、もはやイデオロギーで戦争の管理はやらない、強奪が「力の正義」だからだということだ(力で粉砕すれば敵はおとなしくなる。つまり「平和」になる。だからトランプは「ノーベル平和賞」を受ける資格があると思っている)。
「アメリカの衰退」はどこに現れているのか?アメリカ社会内部の脆弱化がその表れだが、何よりも明らかなのは、アメリカが「西側」の面倒を見ているうちに、古いチャイナが強く大きくなってしまったではないか、バイデンたちは「東アジア危機」とかを作って封じ込めようとしてきたけれど、もはや中国には関税もかけられないのが実情だ。つまり中国はもうアメリカが国際法のイデオロギーで抑え込める「敵」ではない。だからもう山賊・海賊同士のディールしかない、というわけだ。
だからアメリカは今や本来の「西半球」に注力する。そして「西半球」が「自由の領域」であることを足場に海賊船を出す、ということだ。ついでに言えば、中東は石油確保(国家としてというよりメジャー企業がそれで儲ける)ができればよいから、統治支配はイスラエルに任せる。何よりイスラエルは、先住民抹殺の上に「自由の国」を作ったアメリカと同じ原理を押し通す国だから。
カナダは51番目の州にするし、グリーンランドは北極圏を抑えるための要所、西半球の一部だ。これはEUが何といおうと(どうせ植民地支配じゃないか)金で「解放する」(ダボス会議でゴタゴタ言う連中をこうして初めから脅しておく)。
ベネズエラの石油は当然アメリカのもの、どんなことをしてでも「取り戻す」。力で脅せばみんなトランプ・アメリカになびかざるをえないだろうと。
○新たな「国際法秩序」の担い手
要するにトランプ・アメリカとは、その国家形成原理に立ち戻り、国際法秩序の「外」に出たアメリカなのである。
それを、「手のひらを返された」と思うEUは「法と秩序」とか「自由貿易」とか今さらのように言う。しかし、合州国の庇護のもとにEU諸国は世界ヘゲモニーを維持しようとしてきたが、植民地支配の遺産を食いつぶしてからは、地球温暖化の問題やデジタルIT化による社会解体などで、じつはもう世界をリードする力を実質的には失っている。にもかかわらず、G7などと称して世界統治のかじ取りを担うと主張してきたのである。
いま世界史規模で起きているのは米・欧が結んだ「西洋」の分裂と崩壊である。
そこで「国際法秩序」を最も必要として、それを尊重し尊重させざるを得ないのは、力で世界を制覇したことのない国々、するべくもない国々、「西洋的秩序」につごうよくとり込まれるか・あるいは締め出されてきた旧「第三世界」の国々である。それだけが今、国連を必要とし、国連を支えようとする(国連総会を軸にして)国々であり、「核抑止力」など持たないがゆえに国際法秩序を正統的に要求しうる勢力である。
いま、アメリカのトランプ大統領の言動をめぐって起きている事柄を、国際政治や解釈理論の常套句・常套論理を離れて、突っ込んで適確な用語で語ってみたい。
まず、トランプの言動は本人がそう言うようにあらゆる国際法を無視している。それでもベネズエラの大統領夫妻を特殊攻撃で拉致して、アメリカ法下の罪人として裁こうとしたり、ベネズエラを「統治」すると公言したり、その資源を我が物として強奪するそぶりをしたりすることが「可能」なのは(事実上やっている)、アメリカがその軍事力と諜報組織、金融システムとグロバールなPR手段をもっていて、それを「無制約」に使っているからである。当然ながらこの種の行為は、強大国家の「権力」の見境のない発露、すなわち力任せの「暴力」行為であり、国家権力の相互抑制システムである「国際法秩序」のあられもない蹂躙である。そのことをまずは国際社会は明言しなければならない。
それと、トランプ大統領のこの「異常さ」は、私的な欲望・願望と公的職務権限とに区別がないことにある(一期目にはこの融合が妨げられたので、二期目は人事でその障害を取り除いた)。これは社会的に診断するならすでに「狂気」と言わざるをえない。「私が大統領なのだから、私の言明・命令は、アメリカ国家の意志遂行の行為である」というのは、私的願望主体と「職務権限」との区別のつかない反社会的「病理」である。
だが、それが通ってしまうのは、現代社会のコミュニケーション・インフラがSNSであるからだ。SNSの基本的特徴は、私的メッセージが、そのままヴァーチャルな「公共」空間に流れることだ。それが「言論の自由」を広げるとして、売りに出されているのがこの主のメディアだ。そしてそこでは「真理にもはや価値はない」(ポスト・トゥルース)。「良貨は悪貨を駆逐する」と言われるように、「受け」さえすればそれが「選ばれたメッセージ」だということになる。そのうえ権力者がそれを使えば、そのメッセージは私的であっても公共的ステイタスをもって流通する。そんなメディア・インフラの性格が、現代政治にトランプ的「病理」を助長することになっている。この「見境がない」という個人的資質と、メディア・インフラの「解放系」とが相まって、トランプの「無規範性・無法性」に実際的効果をもたせている。
だから、いま世界に「危機」があるとすれば、それはパレスチナでもウクライナでもベネズエラでもなく、「最強国」(じつはそれ自体が今では「妄想」なのだが)が「無法者」と化しているというその事態にある。要するに現代世界が直面しているのは、「専制主義国の脅威」などではもはやなく、「アメリカが無法者になった」というこの「問題」なのである(その背景にあるのは、枯渇資源確保の妄執と、ヴァ―チャル世界へのエグジット妄想だが、これについては別に扱おう)。
○「自由の西半球」――ウェストファリア体制からの離脱
しかしじつはこの「無法」はトランプ個人の問題ではない。アメリカ合州国という「国」がいかにして形成されたのかを考えれば、ヨーロッパからの離脱を宣言したいわゆる「モンロー主義」がアメリカの建国原理に根ざしたものであることが分かる。
もともと国際法秩序とはヨーロッパでできたものである。ヨーロッパ全域を戦争に巻き込んだ30年戦争(17世紀前半)の後で、もう宗教を戦争の口実にしない、領土を一元統治する主権国家だけが戦争をすることができる、ただし戦争は正当な決まりに従って行う(戦争を平時とは別の法状態におく)等々 を決めて国家間関係を約定した。これが「戦争と平和」の国際法秩序であり、ウェストファリア体制と呼ばれるものだ。
ところが、ここに場を見出さなかったイギリス清教徒たちが、「海の彼方は自由」という当時のヨーロッパ法理(グロチウス)に期待して大西洋を越えて移住し、そこに「信仰の自由な地」を開こうとした。彼らは英国王の特許のもと、先住民を無視して土地を取得し開発し、いくつかの植民地(州)を作り上げた。その事業はじつは、植民会社という民間企業の事業として展開された(植民者はこの会社の株主でもあり、特許に従って土地を私的所有し、それをもとに「解放された」地域を開発、町や港湾や砦を作る)。この企業は先住民を「不法居住者」として追い立て、反抗を受けると「無法な野蛮人」として掃討し、そこにできた空白を自らの「自由」な事業展開の場として発展した。これが「新しいイスラエル」と称えられた(初代ニューイングランド総督)「新世界アメリカ」である。
そしてやがてそれに税金を課す王権を「特許状違反」と嫌って、英領十三の州が連合して「独立」をめざすようになる。そのために連邦政府ができるが、それは私企業の「統治経営」によってできた各州が、その自由経営権を守るための連合、いわば武装した「持ち株会社」のようなものだった。そして英王権を排して、アメリカ合州国はその自由経営統治権を確立したのである。そしてその仕組みが株主たち(私的所有権者たち)の「民主主義」なのである――そこには所有権の観念をもたない先住民や貧民にはまったく権利がない。
その意味で、アメリカ合州国とは、私企業の連合統治体であり、ヨーロッパ国際秩序を作った主権領邦国家とは成立ちがまったく違う。そのため、合州国に刺激されてラテンアメリカでも独立運動が起こると、「古い帝国」支配下にあったラ米諸国の独立を支持して、合州国はヨーロッパとの相互不干渉政策、いわゆるモンロー宣言を打ち出す。つまり、アメリカはヨーロッパ的な国際法秩序に従わないとして、「自由の西半球」を宣言したわけである。
○アメリカの対外戦争
アメリカには初めから「原資」があった。先住民から奪った土地がそのまま不動産という資産となり、それに付属する資源も何もすべて企業家の私有財産になったからだ。
こうして封建制のしがらみもなく、建国半世紀で北米大陸中央のすべてが資産となり、初めから近代産業体制が成立して(黒人や後の移民が豊富な労働力)、一九世紀末には世界一の工業国になった。「フロンティアの消滅」で先住民掃討の主役だった騎兵隊の仕事がなくなると、それを海外上陸用の部隊・海兵隊に組み替えて、まずスペインの植民地だったキューバ(ついでにフィリピン)を「解放」、つまり「自由市場」に解放して属国化し、ラテンアメリカ全域を「アメリカ化」しようとする矢先、ヨーロッパが植民地獲得競争(帝国主義)の仲間割れから「欧州大戦」に陥った。そこでアメリカ合州国はモンロー主義を捨てて、西洋的世界秩序にかぶさり、以後、世界統治に関与するようになる。
ただしそのとき、国内での抵抗が強かったため(古いヨーロッパなど捨ておけ、西半球の解放で十分だ…)、ウィルソン政権は参戦(海外派兵)のための強力なイデオロギーを打ち出さざるをえなかった。それが「アメリカの民主主義をヨーロッパへ」だった(アメリカの民主主義とは、国王や帝権を廃した民間企業家たちの独自政体だ)。
それ以来、アメリカの戦争(海外派兵)はたんなる権益をめぐる抗争ではなくイデオロギー戦争になる(そのためPR会社が活躍する)。第二次世界大戦は「ファシズムから民主主義を守る」、冷戦期は「共産主義対自由主義」(国家管理対私的所有権体制)、そうして冷戦後「西側の自由と民主主義」が勝利したことになって、グローバル市場一元化が達成されるとアメリカ原理(新自由主義)が規範のバッスク・アメリカーナの時代になる。だが、9・11で初めてアメリカ本土が襲撃され、「核抑止」体制そのものが破られたため、アメリカは「新たな敵」を「テロリスト」と指定し、人権の埒外においてグローバル規模でその殲滅戦を始める。いわゆる「テロとの戦争」だが、その構造はグローバル規模での「インディアン戦争」であり、無法を法とする超法規戦争だった。しかし、そのコストがあまりに高かったため(敵が見えないので限界も見えない)、バイデン政権のときにアメリカは、冷戦秩序を焼き直して「民主主義対専制主義」という対立図式を作り、「専制主義国の危険」で世界を戦争管理しようとする。
それが国際法秩序を抱え込んだアメリカ合衆国の振舞いだった。
○国連(UN)、第三世界、NATO
この間に国際法秩序の行方に関して重要なことが三つあった。
ひとつは国際連合の形成。これは破綻したウェストファリア体制の原理を変更して普遍化しようとするものだった。この西洋的国際法秩序は、主権国家の戦争権を軸に作られていたが、主要国がすべて産業化され、戦争になれば総動員・総力戦で双方に甚大な被害が出るうえに、原爆まで開発されてしまった。だから戦争を前提としては破滅の秩序しかできないというわけで、新しい国際法体制は「非戦」を原理とすることになった(ただし、それを最強国は受け入れないので「自衛のための戦争」だけは可とする)。さらに各国は国を超えて「人権」を擁護しなければならないことになった。そこから、相互承認・協調・互恵の原則が生まれる。
ただし、この体制は米ソの「冷戦」対立によって骨抜きにされていた。それを実質化しようとしたのが、旧西洋植民地から続々と独立したアジア・アフリカの国々だった。AA諸国は1955年に初めての会合を開く(バンドン会議)。そこにやがて、アメリカ合州国の「裏庭」とされた国々が加わり、「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国会議」となる。それまで世界秩序形成の主体となったことのなかったこの国々は、米ソいずれの超大国にも与せず「非同盟」の連携でそれぞれの国の独立・協調・発展のために協力する形をとった。後に言われる「第三世界」である。
その数の多さで国連体制のなかで重きを増してくると、ソ連の崩壊を見越した西側主要国は国連の外に「G7」を結成し、冷戦後の世界の「管理・運営」にあたろうとした。「西側」はそうて冷戦後にはその存在意義をなくそうとしたのである。その一方でアメリカは冷戦後も反ソ同盟NATOを解消しようとしなかった。それはEU諸国がロシア・中国と新たな関係を作り出して合州国を海の向こうに孤立させるようなことにならないよう、EUをつなぎとめるためである。だから冷戦後も「北大西洋同盟」は残って「西側」を支えることになった。
○トランプの「ドンロー主義」とは何か?
トランプ政権は「アメリカ・ファースト」を掲げて登場した。これは他の小国の「自国ファースト」と似ているようでじつはまったく違う。アメリカは「古いヨーロッパを延命させる世界統治などに関わって、持ち出しだけが多く自国の豊かさ強さは蝕まれてしまった。もう世界統治などには関わらない。国際法秩序などは関係ないのだ。アメリカはもともとその外部に出て、束縛を受けない"自由"を獲得したのだから」というモンロー主義回帰宣言なのである。
他の言い方をすれば、もはやイデオロギーで戦争の管理はやらない、強奪が「力の正義」だからだということだ(力で粉砕すれば敵はおとなしくなる。つまり「平和」になる。だからトランプは「ノーベル平和賞」を受ける資格があると思っている)。
「アメリカの衰退」はどこに現れているのか?アメリカ社会内部の脆弱化がその表れだが、何よりも明らかなのは、アメリカが「西側」の面倒を見ているうちに、古いチャイナが強く大きくなってしまったではないか、バイデンたちは「東アジア危機」とかを作って封じ込めようとしてきたけれど、もはや中国には関税もかけられないのが実情だ。つまり中国はもうアメリカが国際法のイデオロギーで抑え込める「敵」ではない。だからもう山賊・海賊同士のディールしかない、というわけだ。
だからアメリカは今や本来の「西半球」に注力する。そして「西半球」が「自由の領域」であることを足場に海賊船を出す、ということだ。ついでに言えば、中東は石油確保(国家としてというよりメジャー企業がそれで儲ける)ができればよいから、統治支配はイスラエルに任せる。何よりイスラエルは、先住民抹殺の上に「自由の国」を作ったアメリカと同じ原理を押し通す国だから。
カナダは51番目の州にするし、グリーンランドは北極圏を抑えるための要所、西半球の一部だ。これはEUが何といおうと(どうせ植民地支配じゃないか)金で「解放する」(ダボス会議でゴタゴタ言う連中をこうして初めから脅しておく)。
ベネズエラの石油は当然アメリカのもの、どんなことをしてでも「取り戻す」。力で脅せばみんなトランプ・アメリカになびかざるをえないだろうと。
○新たな「国際法秩序」の担い手
要するにトランプ・アメリカとは、その国家形成原理に立ち戻り、国際法秩序の「外」に出たアメリカなのである。
それを、「手のひらを返された」と思うEUは「法と秩序」とか「自由貿易」とか今さらのように言う。しかし、合州国の庇護のもとにEU諸国は世界ヘゲモニーを維持しようとしてきたが、植民地支配の遺産を食いつぶしてからは、地球温暖化の問題やデジタルIT化による社会解体などで、じつはもう世界をリードする力を実質的には失っている。にもかかわらず、G7などと称して世界統治のかじ取りを担うと主張してきたのである。
いま世界史規模で起きているのは米・欧が結んだ「西洋」の分裂と崩壊である。
そこで「国際法秩序」を最も必要として、それを尊重し尊重させざるを得ないのは、力で世界を制覇したことのない国々、するべくもない国々、「西洋的秩序」につごうよくとり込まれるか・あるいは締め出されてきた旧「第三世界」の国々である。それだけが今、国連を必要とし、国連を支えようとする(国連総会を軸にして)国々であり、「核抑止力」など持たないがゆえに国際法秩序を正統的に要求しうる勢力である。
民主主義を取り戻すために ― 2017/04/03
ピエール・ロザンヴァロン『カウンター・デモクラシー』について――
民主主義の根を絶ちかねない「共謀罪=テロ等防止」法案が国会に上程されようとしている折も折、岩波書店からピエール・ロザンヴァロン(仏)『カウンター・デモクラシー』の翻訳が刊行されました。もちろん、悠長に本など読んで勉強している余裕もない昨今で、いい加減うんざりさせられますが、それでもなお、なぜデモが必要なのか、どうしてそれがわれわれの権利なのかを納得させてくれる本です。民主主義の歴史をつぶさに検討しながら、今日もどこかで声をあげることの必要と正当性を確認させてくれます。
巻末に、この本の意義を説く解説を書かせていただきました。広く目をとおしていただきたく、一部をここに掲載します。
●監視し、阻止し、裁く――民主主義を取り戻すために
・安倍政権下の官邸独裁(略)
・民主主義を実効化する智恵(略)
・「不信のまなざし」はなぜ必要か
民主主義を実のあるものにするためには選挙以外にさまざまな方途が必要である。選挙はつねに信任の手続きだが、いったん選ばれてしまうと代表はその信任を離れやすい。だから権力を委ねる代表にはつねに「不信」のまなざしをもつ必要がある。
権力の振舞いはできるだけ可視化し、それを監視しなければならない。そして権力の逸脱が見られるときには、さまざまな手段で抗議の意志を表明しなければならない。それがなければ民主主義は形だけのものに止まるだろう。多くの人びとが集まって意志表示するデモンストレーションはその重要な形態である。それはまたメディアによって可視化されなければならない。ここにこれだけの「民意」の直接表明があると。メディアが権力の補完物でないとしたら、それもメディアの役割である。
監視し、阻止し、裁く。こうした権力への対応を本書の著者ピエール・ロザンバロンは「カウンター・デモクラシー」と呼んでいる。それは言うまでもなく民主主義に対抗するものではなく、代表選出だけではけっして完結しない民主主義を実質化する、民主主義のための不可欠の要素なのだ。
もちろん、代表を選んだら基本的には彼らにすべてを任せておきたい。議員はそのために強い職権と手厚い保護を与えられているのだから。だが、往々にして彼らは裏切る。民主主義が選びを手続きに組み込んでいるからといって、それをある種の「選民」思想に横領しようとする連中さえいる。彼らは手続きさえ踏めばこの仕組みを「選民統治」に変えてしまおうとする。だからこそ「不信のまなざし」は欠かせない。
民主主義とは多数多様の人びとの意志を集約する仕組みである以上、もともと一元的ではありえない。むしろ声の複数性を前提としている。それを代表の枠に強引に一元化するとき、民主主義は専制や独裁に転化する。それを防ぐためには、選挙に還元されない、選挙で決まったことにされない、このような多角的な「カウンター」が必要なのだ。それなしに民主主義は実現しえない。
本書の著者はそのことを、近代の民主主義の成立の理念から、また多様な歴史的経験をたどりながら、つぶさに描き出している。折しも、冒頭で述べたように日本ではいま民主主義が最大の危機に瀕している。憲法違反が明かな決定が閣議でなされ、政権周辺から法的整合性は二の次だという声が公然とあがり、その閣議決定に基づいた安保法制が強行採決されても、ほとんどの主要メディアは政権に懐柔されて批判的監視の姿勢を置き忘れ、積み重ねられる不法は既定のものとなり、異常なことは何も起こっていないかのような気配だけが漂う。そしてあちこちで抗議の声が上がっても、そんなふうに騒ぐ方がおかしいといわんばかりの状況である。
だが、日々の生活をひたひたと侵す不安に気づいた若者たちが、国会前に集まり抗議の声を上げる。そして「民主主義って何だ?――これだ!」とコールする。それをメディアは伝えるのを忌避し、町行く人びとは騒々しい連中がいるようだとしか思わない。沖縄の基地反対運動にいたってはさらに極端だ。何度も表明された民意をそのつどあからさまに振り払って、辺野古基地建設の強行が続く。その民意を「頑迷」だとか「過激」だとみなす気配まで作り出されている。
いまやこの国では権力が監視されるどころか、権力の横暴に背を向けて抗議する人びとを白眼視する傾向さえある。もはや民主主義は足元どころか腰まで朽ちかけている。その現状の深刻さに目を覚ますためにも、民主主義とは何かをつぶさに確認するこの本は大いに役に立つだろう。民主主義を選挙だけに止めておいてはいけない。民主主義は危機のときにこそ、日々の「カウンター」によって支えられる。民主主義って何だ?これだ!と。
民主主義の根を絶ちかねない「共謀罪=テロ等防止」法案が国会に上程されようとしている折も折、岩波書店からピエール・ロザンヴァロン(仏)『カウンター・デモクラシー』の翻訳が刊行されました。もちろん、悠長に本など読んで勉強している余裕もない昨今で、いい加減うんざりさせられますが、それでもなお、なぜデモが必要なのか、どうしてそれがわれわれの権利なのかを納得させてくれる本です。民主主義の歴史をつぶさに検討しながら、今日もどこかで声をあげることの必要と正当性を確認させてくれます。
巻末に、この本の意義を説く解説を書かせていただきました。広く目をとおしていただきたく、一部をここに掲載します。
●監視し、阻止し、裁く――民主主義を取り戻すために
・安倍政権下の官邸独裁(略)
・民主主義を実効化する智恵(略)
・「不信のまなざし」はなぜ必要か
民主主義を実のあるものにするためには選挙以外にさまざまな方途が必要である。選挙はつねに信任の手続きだが、いったん選ばれてしまうと代表はその信任を離れやすい。だから権力を委ねる代表にはつねに「不信」のまなざしをもつ必要がある。
権力の振舞いはできるだけ可視化し、それを監視しなければならない。そして権力の逸脱が見られるときには、さまざまな手段で抗議の意志を表明しなければならない。それがなければ民主主義は形だけのものに止まるだろう。多くの人びとが集まって意志表示するデモンストレーションはその重要な形態である。それはまたメディアによって可視化されなければならない。ここにこれだけの「民意」の直接表明があると。メディアが権力の補完物でないとしたら、それもメディアの役割である。
監視し、阻止し、裁く。こうした権力への対応を本書の著者ピエール・ロザンバロンは「カウンター・デモクラシー」と呼んでいる。それは言うまでもなく民主主義に対抗するものではなく、代表選出だけではけっして完結しない民主主義を実質化する、民主主義のための不可欠の要素なのだ。
もちろん、代表を選んだら基本的には彼らにすべてを任せておきたい。議員はそのために強い職権と手厚い保護を与えられているのだから。だが、往々にして彼らは裏切る。民主主義が選びを手続きに組み込んでいるからといって、それをある種の「選民」思想に横領しようとする連中さえいる。彼らは手続きさえ踏めばこの仕組みを「選民統治」に変えてしまおうとする。だからこそ「不信のまなざし」は欠かせない。
民主主義とは多数多様の人びとの意志を集約する仕組みである以上、もともと一元的ではありえない。むしろ声の複数性を前提としている。それを代表の枠に強引に一元化するとき、民主主義は専制や独裁に転化する。それを防ぐためには、選挙に還元されない、選挙で決まったことにされない、このような多角的な「カウンター」が必要なのだ。それなしに民主主義は実現しえない。
本書の著者はそのことを、近代の民主主義の成立の理念から、また多様な歴史的経験をたどりながら、つぶさに描き出している。折しも、冒頭で述べたように日本ではいま民主主義が最大の危機に瀕している。憲法違反が明かな決定が閣議でなされ、政権周辺から法的整合性は二の次だという声が公然とあがり、その閣議決定に基づいた安保法制が強行採決されても、ほとんどの主要メディアは政権に懐柔されて批判的監視の姿勢を置き忘れ、積み重ねられる不法は既定のものとなり、異常なことは何も起こっていないかのような気配だけが漂う。そしてあちこちで抗議の声が上がっても、そんなふうに騒ぐ方がおかしいといわんばかりの状況である。
だが、日々の生活をひたひたと侵す不安に気づいた若者たちが、国会前に集まり抗議の声を上げる。そして「民主主義って何だ?――これだ!」とコールする。それをメディアは伝えるのを忌避し、町行く人びとは騒々しい連中がいるようだとしか思わない。沖縄の基地反対運動にいたってはさらに極端だ。何度も表明された民意をそのつどあからさまに振り払って、辺野古基地建設の強行が続く。その民意を「頑迷」だとか「過激」だとみなす気配まで作り出されている。
いまやこの国では権力が監視されるどころか、権力の横暴に背を向けて抗議する人びとを白眼視する傾向さえある。もはや民主主義は足元どころか腰まで朽ちかけている。その現状の深刻さに目を覚ますためにも、民主主義とは何かをつぶさに確認するこの本は大いに役に立つだろう。民主主義を選挙だけに止めておいてはいけない。民主主義は危機のときにこそ、日々の「カウンター」によって支えられる。民主主義って何だ?これだ!と。
戦争の近未来 ― 2014/05/18
「センソウ」と簡単に言っても、今ではそう簡単に戦争はできない。ただ、あちこちで内戦(内乱)が起こっているから、きな臭くはある。それに、戦争はあっと思ったときにはもう始まっている。日本では「ゼロ戦」の時代の気分だとか、子供を連れたお母さんを米軍が助けるとか、大時代的なイメージがまき散らされているが、しばらく前(ウクライナの混乱が生じた頃)に『毎日新聞』の求めに応じて「21世紀の戦争」について書いた。目にした人もそんなにいないと思うので、ここに転載させてもらう。
* * * *
ソチの冬季五輪が終わった。ここは「テロ」のホット・スポットに近く、テレビに映らない会場の外では厳戒態勢が敷かれていた。今では「平和の祭典」を行うにも「臨戦態勢」が必要とされる。
二十一世紀に入って戦争の基本形態は「テロとの戦争」になった。それは国家間の戦争ではない。「見えない敵」を想定して国家が軍事行動を展開することをいう。その場合「敵」は外国ばかりでなく国内にも想定され、監視や予防の網の目が張られる。国境はもはや敵と味方の境界ではなくなるのだ。
「テロ」の危険を呼び寄せるのは、経済的繁栄の象徴(マンハッタンのツイン・タワー)だけではない。産業のインフラは狙われやすいし、原発はそれ自体が危険物だから格好の標的になる。だからそれを守るために地対空ミサイルさえ配備される。
それだけでなく、各国が競って開発する先端技術は、小型核兵器と同様「敵」の武器になるとみなされる。サイバー攻撃のためのIT技術、生命科学技術も同様である。新型インフルエンザがどのように発生したのかについては議論があるが、その研究はウィルスが生物兵器になりうるという疑惑のもとで行われている。先端技術が「テロ」に悪用される危険と表裏だということは、現代の技術と社会との危うい関係を示唆している。「見えない敵」を設定したとき、あらゆる技術的可能性が自分に向けられた潜在的な兵器でもあるということが露呈した。
現代の戦争の条件は、「敵」の姿を消しただけではなく、国家の輪郭をも消してしまった。だから今では誰が誰を監視しているのかもわからない。その一方で、破壊や殺人は人間の経験から遠ざけられる。地上にはロボット兵器が投入され、偵察・爆撃も遠隔操縦の無人飛行機が行う。だから、どれほど現場が悲惨でも、攻撃する側には人的被害が出ない。「文明国」は無傷で「テロリスト」を殲滅するというわけだ。
すでに半世紀以上、大国同士の戦争は起きていない。起きないというより起こせないのだ。兵器の破壊力が過大になり、甚大な損害が混乱が予想される。だからこそ戦争は「テロとの戦争」になった。つまり大国が小国や非国家的勢力を「テロリスト」(あるいはその仲間)と名指して殲滅しようとする。そこに圧倒的な軍事力の差があるからこそ「戦争」が仕掛けられる。いま先進国の人々がなじんでいる戦争のイメージは、この種の「戦争」で作られたものだ。
ところが、戦争をしようとする人間の想像力は旧来のままのようだ。あるいは、先進技術の威力や破壊の規模に想像力が追いつかない。そして人間の知性も、強力なテクノロジーを使うのにますます不釣り合いになっている。難解なことや通常の尺度を超えたことはすべてコンピュータや機械に任せようとする。人間は考えることも想像することも省略し、単純な憎悪や報復の感情だけに身を任せて、安易に戦争を語ろうとする。だが、世界はもはやゼロ戦や戦艦大和の時代ではないのだ。
それでも、国家間の緊張を高め、軍事態勢を押し進めようとする傾向もある。だが、現実的に考えて大国間の戦争ができないとすれば、戦争への気運が煽られる意図と効果はおのずと明らかだ。外部に「敵」を想定すると内部の締め付けが可能になる。実際の戦争を起こすより、こちらの方が現実的な効果だ。「テロとの戦争」が「戦争の内戦化」だというのはこの意味だ。つまりそれは、見えない外敵と戦うより、見やすい「内部の敵」を排除して統治を強化することにつながる。
二十一世紀の戦争はこのように、世界秩序の主要部での「内部の統制」と、周辺の無秩序化として恒常化する傾向をもつ。それを放置すれば、世界は次の世紀を展望する必要そのものを失いかねないだろう。
(毎日新聞、3月3日夕刊、「パラダイムシフト、2100年への思考実験」第3部、紛争と国家の行方⑥、"テロとの戦争"が招く真の危険 )
* * * *
ソチの冬季五輪が終わった。ここは「テロ」のホット・スポットに近く、テレビに映らない会場の外では厳戒態勢が敷かれていた。今では「平和の祭典」を行うにも「臨戦態勢」が必要とされる。
二十一世紀に入って戦争の基本形態は「テロとの戦争」になった。それは国家間の戦争ではない。「見えない敵」を想定して国家が軍事行動を展開することをいう。その場合「敵」は外国ばかりでなく国内にも想定され、監視や予防の網の目が張られる。国境はもはや敵と味方の境界ではなくなるのだ。
「テロ」の危険を呼び寄せるのは、経済的繁栄の象徴(マンハッタンのツイン・タワー)だけではない。産業のインフラは狙われやすいし、原発はそれ自体が危険物だから格好の標的になる。だからそれを守るために地対空ミサイルさえ配備される。
それだけでなく、各国が競って開発する先端技術は、小型核兵器と同様「敵」の武器になるとみなされる。サイバー攻撃のためのIT技術、生命科学技術も同様である。新型インフルエンザがどのように発生したのかについては議論があるが、その研究はウィルスが生物兵器になりうるという疑惑のもとで行われている。先端技術が「テロ」に悪用される危険と表裏だということは、現代の技術と社会との危うい関係を示唆している。「見えない敵」を設定したとき、あらゆる技術的可能性が自分に向けられた潜在的な兵器でもあるということが露呈した。
現代の戦争の条件は、「敵」の姿を消しただけではなく、国家の輪郭をも消してしまった。だから今では誰が誰を監視しているのかもわからない。その一方で、破壊や殺人は人間の経験から遠ざけられる。地上にはロボット兵器が投入され、偵察・爆撃も遠隔操縦の無人飛行機が行う。だから、どれほど現場が悲惨でも、攻撃する側には人的被害が出ない。「文明国」は無傷で「テロリスト」を殲滅するというわけだ。
すでに半世紀以上、大国同士の戦争は起きていない。起きないというより起こせないのだ。兵器の破壊力が過大になり、甚大な損害が混乱が予想される。だからこそ戦争は「テロとの戦争」になった。つまり大国が小国や非国家的勢力を「テロリスト」(あるいはその仲間)と名指して殲滅しようとする。そこに圧倒的な軍事力の差があるからこそ「戦争」が仕掛けられる。いま先進国の人々がなじんでいる戦争のイメージは、この種の「戦争」で作られたものだ。
ところが、戦争をしようとする人間の想像力は旧来のままのようだ。あるいは、先進技術の威力や破壊の規模に想像力が追いつかない。そして人間の知性も、強力なテクノロジーを使うのにますます不釣り合いになっている。難解なことや通常の尺度を超えたことはすべてコンピュータや機械に任せようとする。人間は考えることも想像することも省略し、単純な憎悪や報復の感情だけに身を任せて、安易に戦争を語ろうとする。だが、世界はもはやゼロ戦や戦艦大和の時代ではないのだ。
それでも、国家間の緊張を高め、軍事態勢を押し進めようとする傾向もある。だが、現実的に考えて大国間の戦争ができないとすれば、戦争への気運が煽られる意図と効果はおのずと明らかだ。外部に「敵」を想定すると内部の締め付けが可能になる。実際の戦争を起こすより、こちらの方が現実的な効果だ。「テロとの戦争」が「戦争の内戦化」だというのはこの意味だ。つまりそれは、見えない外敵と戦うより、見やすい「内部の敵」を排除して統治を強化することにつながる。
二十一世紀の戦争はこのように、世界秩序の主要部での「内部の統制」と、周辺の無秩序化として恒常化する傾向をもつ。それを放置すれば、世界は次の世紀を展望する必要そのものを失いかねないだろう。
(毎日新聞、3月3日夕刊、「パラダイムシフト、2100年への思考実験」第3部、紛争と国家の行方⑥、"テロとの戦争"が招く真の危険 )
最近のコメント