「一夜明けて…」(選挙戦の終り)2016/07/10

 なんの翌日だというのか、目覚めるとともに「一夜明けて…」とふと思う。昨日は雨模様、それほど強くは降らなかったが傘が手放せない一日だった。ところが今日は、すっきりとは言えないが晴れている。そのせいもあるだろうか。だが、ひょっとしたら、いつになく多くの人たちがこんな感慨を抱きながら目覚めたのではないかと思う。今日が投票日だ。

 昨日まで、ともかくみんな走ったようだ。それぞれの歩調で。参議院選挙は衆議院総選挙と較べれば、任期6年の議員を半数選ぶだけの限定的なものだ。だが、多くの人びとが、2016年7月のこの選挙を特別の選挙と受けとめ、投票するだけでなく、状況を変えるためにみずから関わった。ツイッターで呼びかけるだけでなく、支持候補の選挙事務所にヴォランティアとして出かけ、街頭演説の手伝いもした。かつてない選挙と言ってもいいだろう。

 それでもメディアは投票率50パーセント、改憲勢力2/3との予想を伝える。これまでの予測があまりはずれないことを考えると、実情はそうなのかもしれない。だとしたら、去年の夏の安保法制反対の国会前抗議以来の持続的な活動と、多くの人びとが積極的に参加した今回の選挙模様をも帳消しにする、さまざまな力学が働いているということであり、状況はすでにそこまで来ているということだ。

 その状況への対応もまた不断に続けてゆかねばならない、と思い直す「一夜明けて…」。

 参院選期間中に起きたいくつかの出来事を想起しておこう。
 ・フランスで今も捜査中の東京オリンピック買収疑惑
 ・舛添都知事不品行で辞職
  →3・11後4度目の都知事選(石原、猪瀬、舛添、?)
 ・福島で小児甲状腺ガン患者約160人
 ・バングラデシュの「テロ」で日本人7人の犠牲
 ・尖閣周辺で中国機の異常接近や、選挙前日の北朝鮮ミサイル発射
  ・アメリカで人種問題(黒人と白人警官)先鋭化

選挙のためにできること2016/07/03

 しばらく遠ざかっていたブログだが、いままた怠惰に鞭打って書かなければと思う。あふれるネット情報のカオスのなかで、小さなゴミのように流されるだけだとしても。
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 参議院選挙が始まったある日、大学からの帰り、思い立って近くにあるはずの野党候補の事務所に寄ってみた。参議院議員比例区に立候補している有田芳生さんの選挙事務所。この人はいつもヘイトスピーチ・デモの現場に立ち、国会でつい最近実現した「ヘイト対策法」の成立に尽力してきた民進党の議員だ(デモの現場には他に共産党の池内さおりさんがいつもいた)。

 ヘイトスピーチは一見、小さく特殊なテーマのように見える。しかし「在日●●人を殺せ、叩き出せ!」と叫ぶデモには、日本と近隣諸国の関係とその歴史についての無知(隠蔽)にあぐらをかき(蓋をし)、そこに居直って日本社会が生み出した弱者を露骨にいじめ、そうすることに快感をもつという、もっとも下卑た心性の誇示があり、それを公共化することで排外主義の風潮を煽るという毒がある。そしてなにより、権力の姿勢を背に、この国に住む人びとを日常の地平で感覚的に脅かすという害毒がある。

 それを放置すると社会は日々の生活の地平から腐食される。そしてそこは、ただでさえ弱い立場の人びとを、その弱さゆえに傷つけ抹消しようとする、あらゆる差別の力学がもっとも具体的かつ社会的に働く現場である。さらにそれは、日本の一部の歪んだ歴史認識(歴史の否認や美化や居直り)の上に立ち、現在の「右傾化」を体現する安倍政権を下から支えるものになっている。だから一見マイナーに見えるこの問題は看過できないのだ。

 何の規制もないなか、数年前からいわゆるカウンターの運動がこのヘイトスピーチに対峙してきた。しかしこれには法規制が必要だ。こういうことが許されないという社会的規範表示が必要だ。有田さんはいつもカウンターの現場に立ち、国会でヘイト規制を法制化すべく粘り強い取り組みを続けてきた。さまざまな錯綜する事情はあったが、ともかくつい先ごろ反ヘイト法は成立し、ただちにデモが規制されるという変化も表れてきた。

 有田さんは拉致問題にも長くかかわってきた。ただしそれは、安倍政権によって狡猾に利用されてきたこの問題を、ひたすら被害者の立場に寄り添い、国家の恣意を炙り出すという関わりだ。

 その有田さんは、6年前はとくにオウム事件で活躍したジャーナリストとして知られており、高得票で当選したが、どちらかというと地味な人で、まったくプロの政治家らしからぬ、取柄としては地べたの課題に這って取り組むことだけのようだから、とても選挙に強いとは思えない。そのうえ、安倍政権の別動隊のようなヘイトマニア・ネトウヨの目の敵にされ、執拗な攻撃に晒されている。

 路上と国会で地道な活動に没頭して、かつての知名度はすっかり色あせている。他の議員たちのようには選挙のための活動をしてこなかったのではないかと危ぶまれる。

 けれども(だからこそ?)、有田事務所にはいつも人が集まってくる。有田さんの活動を助けてきた人たち、その活動に実際に助けられた人たち、たまたま近くに住んでいて手伝いたいと思い立ったひとたち。みんな「微力な」人たちだが(去年ノーベル文学書を受けたベラルーシのスヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチが「小さな人びと」と呼んだような人たち)、少しでもできることをと、集まってくる。新潟から数日、大阪からの出張ついでという人もいる。もちろんみんなボランティアだ。有田さんが落ちると、ヘイト集団を喜ばせ勢いづけることになる(その代表者はこんど東京都知事選にも立候補するという)。だから何としてでも有田さんを国会に送りたい、そう思う人たちが一時間でも二時間でも事務所に立ち寄って、自分にできることをやってゆく。

 3年に1度の参議院議員選挙だが、今度の選挙には、安保法制、軍需産業・軍事研究推進、尖閣危機を煽っての軍事体制強化、年金等資産の投機投入、TPP推進による国売り(支配層だけ稼ぐための)、福島事故を洗い流して原発再稼働、等々重要課題が懸かっており、そのすべてが改憲をめざした参院2/3確保に集約されている。

 憲法を無視し、法律も恣意的に曲げ、メディアも抱き込み(言うこと聞かなければ排除し)、日本という国を自分たちの思うように変えてしまおうとする(その先には「亡国」しかないことを歴史が示している)いまの安倍自民・公明政権に、ブレーキを掛けられる機会はさしあたりいましかない。いま何かしなかったらもう遅いという段階に来ている。

 わたしは有田芳生という人をほとんど知らない。一二度ことばを交わしたことがあるだけで、あとは新聞や雑誌を通してその活動の一端を見聞きしているだけだ。けれども、はっきりわかっているのは、こういう人を落としてはいけないということだ。ちょうど事務所が勤め先の近くにあった。望ましい結果を得るためにできることは、ただ投票することだけではない。選挙運動には細かいルールがあって、ポスターに法定シールを貼ったり、はがきに宛名シールを貼ったりするのには相当の人手がいる。ポスター貼りや街宣の手配もある。資金も組織からの支援もない候補の運動を支えるのは、その人手になるポランティアの人たちだ。ふだんは大学の教室で講釈するのが仕事のわたしも、今回はこのような人たちとともに有意な「人手」になりうることをひそかに誇りに思っている。

汚泥に沈み込む前に(論考2015-⑫)2016/01/06

*以下が「論考2015」の最終回です。

 パリの風刺週刊紙シャルリエブド本社などが襲撃されたニュースで明けた今年は、再びのパリ襲撃の余波のなかで暮れようとしている。世界は過激派組織「イスラム国」への空爆で慌ただしい。

 ▽全人類の敵

 エジプトでのロシア機墜落を「イスラム国」のテロと断定したロシアがシリアで爆撃を始め、パリ襲撃後はフランスも攻勢を強める。慎重派の英国も加わった。トルコ軍機によるロシア軍機撃墜もあり、シリアやイラクをめぐる混迷は深い。その陰で「最悪」の底を踏み抜くようなパレスチナの民衆弾圧はほとんど報じられず、欧州連合(EU)に殺到した数百万人規模の難民も、寒さのなかに置き去りの様相だ。

  「テロとの戦争」を率いる米国のオバマ大統領は、パリ襲撃の直後に「普遍的価値を共有する全人類への攻撃だ」とする声明を出した。だとするなら、世界はいま「人類の敵」との戦争に向かっていることになる。

 その「戦争」が守ろうとする「文明世界」では、自由主義経済の美名のもとで多国籍企業の群れが巨大な権力をもつ。

 人類は昔ながらの農耕に替え、遺伝子組み換えで効率的、工業的につくった食品を摂取し、薬品やサプリメントで「健康」を保ち、先端医療で病気を撲滅して寿命を延ばそうとする。人口増加や高齢化の問題は、「文明を享受すべき者」と「死ぬべき者」を経済で選別することで解決される。後者は戦場や飢餓や感染症の現場に送られ、情報技術(IT)で快適に保たれた「安全保障」のカプセルの中で富裕者が安らぐ。それが近未来図だとしたら「文明」とは何と倒錯的なことか。

▽文明が倒錯

 折しもパリで開かれた国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)で、有効な合意ができなかったのも、ある意味で当然だ。なにしろ主要国である米国の代表は、米国を牛耳る集団の、つまりは多国籍企業群の利害を代表している。その企業群が他でもない「文明」の推進役なのである。

 その担い手たちは目先の業績しか考えず、将来のことなど眼中にない。その権利を「自由」の名において主張し、公的な規制に公然とあらがう。抗議する人びとを「テロリスト」呼ばわりする。だが、実際に全人類や次世代のことを考えているのは、権力をもたない市民たちの方なのだ。

 「価値を共有する」と安倍晋三首相は言う。その相手は「文明」の担い手たちなのだろう。その価値を守る「テロとの戦争」には終わりがない。そのため「戦時体制」は恒常化する。それは国内統制の最も容易な手段でもある。「安全保障」の大義を掲げる政府が国民・市民の「自由と民主主義」をまるごと吸い上げていく。

 温暖化対策やコストの問題があるから原発はやめられない、と安倍政権は言う。だが人間のコントロールできない放射能を生む原発は最悪の公害源でもある。汚染物質は化学で処理できても、放射線被ばくは無害化できない。それでも巨大な利権と核兵器製造の潜在能力を保つために、原発に固執する。

 ▽現代の危機

 「棍棒での決闘」と題するゴヤの絵がある。土中に足を埋めた2人の男が殴り合う。フランスの哲学者ミシェル・セールは、この絵が現代の危機を示していると解釈した。闘いが熱を帯び、観衆が熱狂するにつれて足元がぬかるみ、いつしか誰もが身動きできず、泥土に沈み込んでいく…。

 これは「文明」と自然との闘いであり、人間同士の闘いでもある。その決着がつく前に、闘いの枠組みそのものが崩れてしまう。科学技術の野放図な発達やグローバル経済の専制によって、人類はそのような抜き差しならない状況に至っているというのだ。2015年の世界が「戦争」の気配を醸しているとするなら、セールの寓意は、ますます現実味を帯びていると言わざるをえない。

 そして日本ではいま、「政治」の枠組みが崩されようとしている。戦争は政治の破綻から起こる。「戦争」に向かって身構える日本、「戦争」へとなだれ込む世界、この流れを食い止めるには、まずはそれぞれの国の「政治」の回復が欠かせない。そのための努力を惜しむようなら、私たちは汚泥に沈んでいくことになるだろう。

凡庸な、あまりに凡庸な初日の出2016/01/02

 (伊良湖岬にて)

 去年も今年も、同じように陽は昇る。いや、一度として同じ陽はない、永劫回帰はたんなる反復ではない、と言った人もいる。そう言うのもいいだろう。ただ、今年の初日の出はことのほか「凡庸」に見えた。この世の中で何が起ころうとおかまいなく、いつもの正月と同じよう初陽は昇るのだと。

 ふと脳裏に浮かんでいたのは、暮れの集中講義の資料としてみた「水俣病の17年」というNHKアーカイヴスの終りのシーン。チッソとの直接交渉を求めて熊本から上京し、大手町のチッソ本社前にテントを張って、公害企業の不当と患者の要求への支持を訴える声をしり目に、みぞれ降る師走の街を人びとは立ち止まることもなく行きすぎてゆく。

 その行きすぎてゆく人びとのように、今年も元日の陽は昇る。

 日本では一昨年の夏、黒を白と読み替えて憲法をないがしろにする閣議決定がなされ、去年はそれに基づく安保一括法制が「無理」をさらして「人間かまくら」で通ったことにされ、これで政府は「日の丸部隊」を米軍の御用達に供しうることになった。

 一方で政府は最悪の公害企業と手を組んで、福島第一の「緊急事態」に蓋をし、「除染」でお茶を濁しながら住民の帰還を促し、原発問題はもうすんだかのようにして再稼働に走るばかりか、原発輸出とさらには軍需産業のテコ入れに精を出す。

 「経済成長」を目指すというこの政府は、無理やり株価だけは釣り上げたが(それももう限界だと言われている)、国内に貧困は広がり、一人当たりのGDPは下落の一途をたどっている(27位だそうだ)。労働条件は劣悪化し、定職についてもうつ病が待っている。大学を卒業したら600万~1000万の借金を負うとはどういう国か?

 そして「テロとの戦争」の泥沼にはまってゆく世界で、軍隊を出せると虚勢をはり、「従軍慰安婦」の旧悪も、隣国の弱みに付け込んで金を出すから身内を黙らせろと脅し、ますます世界で評判を悪くし、国民の肩身が狭くなるのを自慢している。

 そんな政府与党(自民党と公明党、それにおおさか維新が加わる)が、この夏の参院選挙(ひょっとしたら衆参同日選)でも議席を増やしそうだという。そうなったら改憲だが、それ以前に、こんな政府が支持されている(あるいは存続できる)というのはいったいどういうことなのか?日本社会は、どんな道理も無理で潰せる、そして無理を押し通す者たちが政府に君臨しうる「ならず者国家」に成り下がった、ということか。

 それでも陽は昇る。初日の出をこれほど白々と見たことはない。陽は昇ってもよい。いや昇るのがいい。だが、来年はその昇る陽を、もっと心に受けとめられるような正月を迎えたい。

「論考2015」のまとめ、その他2015/12/28

 今年1年、共同通信の「論考2015」というシリーズを担当した。掲載されたのは全国の地方紙だ。

 年始に日本の置かれた状況(「ガレー船国家」に向かう)を書き、2月には年頭を騒がせたパリの事件と後藤さんら「人質」の悲報を受けて「テロとの戦争」について書き、3月は辺野古新基地新設強行に揺れる沖縄の状況(歴史の再確認)、4月は日本の社会を蝕む「雇用」と「法人」の問題、5月は中国にまったく背を向けたワシントンでの「戦後70年」首脳会談。

 6月は安保法制の異常と「抑止論」の虚妄、7月は安倍政権による「規範の私物化」、8月はSEALDsと憲法・民主主義意識、9月は安保法制論議から見えたこと(対米従属下の"威勢")、10月は「一億総活躍」と日本の「ブラック国家」化、11月は憲法空洞化と進む軍事化、そして12月は、戦争化する世界と「政治」の溶解(泥沼に沈む前に政治の回復を)。

 現代の世界(そして日本)で考えるべきテーマを、時事に絡めて1年間でいろいろな形で取り上げようと思っていたが、まさに今年は「安保法制の年」で、とくに後半はそのことばかりを論じることになった。いま紙面を使わせてもらうなら緊急性からして安倍政権の日本を問題化する他ないだろう、という思いだった。

 それでも、最後の12月分は、再び起こったパリ襲撃事件を枕に、グローバル化のもとで「テロとの戦争」になだれ落ちてゆく世界の危険な予兆と、それによって守られるとされる「文明世界」の抱えるカタストロフ(気候温暖化、核管理等)の予測のなかで、各地域での「〈政治〉の回復」にしか出口はないという、総論めいたことで括った。

 付け加えるなら、盲目の〈経済〉原理のグローバルな猖獗によって、押し流され傀儡化された〈政治〉――ポリスの運営――を、専門家(プロやテクノクラート)でない〈民衆〉(ふつうの市民と言ってもいい)の手で作り直すこと、それだけが希望であり、可能性だということである。日本にとっても世界にとっても。

 昨日ちょうどNHKでスペインの新しい政治団体ポデモスの躍進を紹介する番組があった(「ドキュメンタリーWAVE▽若者の声を政治に届けたい~スペイン議会選挙」)。イタリアには「五つ星運動」があり、ギリシアでは「シリザ」がすでに登場している。これらの新しい政治運動は、マルクス主義の影響をまったく受けていない。グローバル化がドラスティックに変えた経済による政治の溶解、それによる各国社会の社会性の解体、その惨禍のなかから登場し、その状況に生きる場から対応しようとする新しい政治運動だ。まだ十分な理論化はなされていない。理論化より現実への現場の対応が新しいものを作り出しているのだ(その点でも従来の社会主義運動とは違う)。

 日本でもSEALDsが登場した。これは恒常的な政治団体というより、「自由と民主主義のための学生緊急行動」だ。参院選後の解散もすでに表明されている。だが、SEALDsは日本に新しい民主政治の土壌を開き、政治のあり方を照らし出す役割を果たした。そこから先はまた別の運動がいろいろなかたちで現れてくるだろう。

※関連して、年末にお勧めしたい本を二点と、番外の報告を以下に挙げておきます。

*タイトルはイマイチだが、この軽便な本をかつての『毛語録』のように広めたい。ひとり一冊、岩波ブックレット『いまこそ民主主義の再生を!――新しい政治参加への希望』中野晃一、コリン・クラウチ、エイミー・グッドマン(C・クラウチの世界の現状把握には深く共感、中野晃一の政治分析も)

*『2015年安保、国会の内と外で、民主主義をやり直す』奥田愛基・倉持麟太郎・福山哲郎、岩波書店。この本に「政治の杭を打ち直す」という序文を寄せるチャンスをえた。今年の夏の出来事の意味を再確認させる鼎談。問題は違憲の安保法制だけではなく、それを通すメチャクチャな政治のやり方、「いい加減にしろ」ということ。

*まさに「いい加減にしろ」を合言葉にしたのが西アフリカはセネガルの「ヤナマール」運動。「ヤナマール」は「もううんざり、いい加減にしろ」という意味(フランス語を訛らせたセネガルの表現)。その運動の中心になったのがヒップホップ・グループの「クルギ(家)」。これがすでに20年の経歴をもつセネガル流の「新・政治運動」。
 グローバル経済のアフリカ侵蝕が生み出した「表現しコミュニケートする政治」の担い手。秋も深まった頃、このグループを東京外大の研究仲間(真島一郎・中山智香子)が日本に招き、東京外大の学園祭でライブ+シンポジウムを行うとともに、福島・仙台、沖縄でワーク・ショップを開いた。この秋、チョー刺激的で熱かった企画を何らかの形でまた紹介したいと思っている。とりあえず、以下の「真島一郎研究室」ブログに満載の報告をどうぞ。http://ichiromajima.blogspot.jp/

パリに出現した「戦場」2015/11/15

 昨日(14日)の朝、パソコンを開けたからそこに第一報があった。パリの友人からのメッセージ、「私たちは前線にいる。パリ10、11区、サッカー・スタジアム襲撃、外出禁止、国境閉鎖…」と。すぐにリベラシオンとル・モンドのサイトを見て状況を知る。現地時間は真夜中過ぎ、犯人が立て籠もったバタクラン劇場周辺はまだ騒然としていた。

 最初の印象は「これは戦争だ!」というものだ(15年前、9・11に際してブッシュが「これは戦争だ」と言明したときには、「これは戦争ではない!」と反論したが、今回は違う)。パリは戦場になった。

 というのは、去年1月のシャルリ・エブド襲撃事件を契機にオランド大統領のフランスは「テロとの戦争」への関与を深め、シリアやイラク空爆のために原子力空母シャルル・ド・ゴールを地中海東海域に送った(そのときに、オランドは空母上からアピールを発し、これが低迷していた支持率の上昇につながったと言われる)。その空母を最近はペルシャ湾に送って空爆を強化していたのである。

 つまり、フランスは戦争をしているのだ。その攻撃対象はIS(イスラーム国)であり、だとしたらフランスは当然ながらイスラーム国の「敵」である。イスラーム国は戦闘機も爆撃機ももたないから別の闘い方をする。それは戦闘員を敵国に送り込む、あるいは敵国にいる潜在的予備軍を組織して活動させるということになる。それ以外に攻撃手段がないから。そしてそれが実行されたのが今回の事件だ。

 シャルリ・エブド襲撃事件はまだ、ISその他のイスラーム過激組織に影響された国内の過激分子による行動という趣があった。それは「表現の自由」に対する「テロ事件」ですませられただろう。だから「テロには屈しない」「自由を守ろう」「フランスは怖れない」の大衆行動が沸き起こる。

 だが、今回はそうはいかない。フランスは間違いなく「テロとの戦争」の当事国であり、いま戦争の渦中にあるのだ。「敵」に空襲の能力はない。その代り、密かにコマンドを敵国首都に送り込んで、金曜日の繁華街で空爆にかわる「カミカゼ(特攻)」を敢行する。そのコマンドはアメリカがイラクやシリアに送り込んでいる特殊部隊やCIA工作員と同じだ(現場からルポするフランスのジャーナリストが、自爆犯のことを「カミカゼ」と呼んでいたのが印象的だった)。

 だから今回は、「私たちは皆フランス人」と言って連帯を表明することはできない。たんなる「テロ」ではなく「これは戦争」だからだ。「テロとの戦争」とは攻撃する「敵」の存在や資格をあらかじめ認めず、「文明国」による「敵」の一方的殲滅を正当化する概念である。この言い方は、それ自体が戦争であることをごまかす概念でもある。だが、それが戦争だとしたら、「敵」からの反撃は当然ある。あたりまえのことだ。

 空爆だけでなく、ドローンやロボット兵器、遠隔操作の可能なあらゆる手段を使って「テロとの戦争」は遂行されている。最近アメリカでは、ドローンによる攻撃の9割近くは誤爆だと検証されたという。この無人機攻撃によって誰が殺戮されているのか? 空爆でどれだけの人間が住む場所を破壊されているのか? ヨーロッパに押し寄せる数百万の難民はみなそうして生きる場所を失った人びはである。もちろん米欧による空爆だけが生活世界の破壊の原因ではない。中東地域に広がる戦乱のあらゆる関与勢力がこの「災厄」を広げている。けれども自称「文明国」の空爆は、アフガニスタン空爆から考えれば、この「人の生きられない荒野」創出の第一原因だと言わざるをえない。

 それが「文明」の名のもとに行われている。「テロとの戦争」と言えば、国家のあらゆる破壊行為や殺戮行為が「正義」の行使として正当化されるが、それが「戦争」だというなら、当然「敵」との交戦がある。そしていまパり(だけでなく世界中いたるところ)が戦場になってしまった。

 アメリカのオバマは、いち早くこの攻撃が「たんにフランス国民だけでなく、人類全体に対する、普遍的価値を共有する人類に対する」攻撃だ、として支援を約束した。それは「文明対野蛮」という対立によって「テロとの戦争」の野蛮さを覆い隠すための必死の手当てだったと言っていいだろう。

 この出来事は、当然ながら「戦争ができる態勢」を整えつつある日本にもさまざまに影響を及ぼすだろう。今日はとりあえず、最初の印象だけを記しておきたい。

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 これを出発点に、「"テロとの戦争"という文明的倒錯」を書きました。『世界』2016年1月号。

「すばらしくてふるえる」SEALDs本2015/10/17

 先日、高橋源一郎×SEALDsの『民主主義ってなんだ?』が出た。だいぶ注目されたようだが、こんどはSEALDsによるシールズ本『SEALDs 民主主義ってこれだ!』が出た。これが真打、以前からグループが準備しているときいていた本だ。コンセプトからコンテンツ、編集、撮影、ブックデザイン、みんなSEALDsの仲間が作ったはず。

 これがすばらしく、かつおそるべき本になっている。戦慄!
 手にとる本のカバーは、夜の国会前のデモとコールの、少し劇画調(?)に焼き込んだ写真。そこに「SEALDs」「This is democracy looks like. 民主主義ってこれだ!」の白抜き文字。帯は白に一行赤く、あとはふつうの黒い文字。カバーをはずすと、下には表が白、背がピンクと、文字と色を入れ違えた、まったく明るいすっきりした冊子の表紙。
 そしてイントロダクションの、浸み込んでゆくような碧空の下、緑の土手を背景に、砂のプールの縁に立ち遊ぶ二人の若者のかげ、シールズ調満開の写真だ。

 戦慄!

 そう思うのはわたしが浅はかだからかもしれない。じっさいわたしも、夏の初めにメールの依頼を受けてこの本に一文を寄せた。それはイントロ口絵の写真を思いっきり真に受けたような「SEALDs讃江」といった文章だ。そのときは圧倒的にポジティヴな短文を書こうと思った。

 それも含めてわたしは浅はかだと認める。その浅はかさは、SEALDsの若者たちの、これで(これが)いいじゃん、という力まかせのノリに一見呼応している。だが、この明るさは、たぶん3・11で炙りだされた日本社会(だけではない)の泥溜まりのようなタールの夜を潜って出てきたものだ。かれらの真っすぐに突き出される声とことばの背後には、その楽し気な笑いの背の向こうには、どうしようもなく息苦しい泥溜まりの闇がある。それが表紙カバーの写真の周囲にも焼き込まれている。

 スポットライトを浴び、フラッシュを浴びて、こいつらここまでやるかと思わせるほど満身のコールを続けたあと、それでも戻ってきたタールの夜の底で、人気のない街路のゴミを拾い集める、その身振りの内に沈む名状しがたい感情がある。たしかに、この本のカラフルな中身は、二枚の真っ黒な内表紙に包まれているのだ(そこに、黒に白抜きの匿名のエッセイ)。

 纏いつく汚泥の闇のなかから身を起こしているのに、かれらはまるで真水のプールから出てきたように、プーッと息を吐いて顔を出す。水面を破って出るその思い切り、その「覚悟」の一瞬が戦慄させる。

 このコンパクトでファッショナブルな「本」(拡散する共同の工房から生まれた重層的なイメージと言葉の収蔵体――たぶんこれには本とは別の名前が必要だろう)にはそんな経験のすべてが凝縮されている。「本」のあり方も変える戦慄すべき本だ。

*SEALDs『民主主義ってこれだ!』(大月書店、10月20日発売)。どこから出ていようと関係ない。かたちもコンテンツも含め、こういう本を作れるのがSEALDsだ。

訂正とお詫び:「三菱鉛筆」について2015/09/18

 9月16日の午後9時過ぎ、国会正門前で安保法案に関連する短いスピーチを行いましたが、その際、安倍政権の下で軍需産業が推進されていることを念頭に、誤って「三菱鉛筆」を旧財閥の三菱グループの仲間と混同し、「ミツビシの製品は、エンピツ一本も買ってはいけない」といったことを述べてしまいました。
 しかし、ご指摘を受け確認したところ、三菱鉛筆株式会社の三菱とスリーダイヤの商標は、三菱財閥(現・三菱グループ)より10年早く1901年に登録されており、まったくの別会社です。
 軽率に両者を結びつけて、聴衆の方々に無用な誤解を与えたことと、なにより三菱鉛筆株式会社にご迷惑をおかけしたことを謹んでお詫びするしだいです。三菱鉛筆社の文具等は安心してお買い求めください。

[追記] なお、「不買運動を訴えた」とのご指摘もあるようですが、それは本旨ではありません。主旨は、産業の軍事進出には経済活動の健全化のためにもとくに警戒してゆく必要があるということです。誤解を生じたとしたら、不十分な表現をお詫びいたします。ご了解いただければ幸いです。