古えの回顧のなかで受け取った新刊見本2017/12/13

 この秋は年甲斐もなくあちこち飛び回ったり、余分な仕事の引き受けすぎで、さすがに疲れが溜まっていたのだろう、質の悪いかぜを引いてもう何日も外に出られない。何もせずにゴロゴロ過ごす゛無理やりの休養だ。

 今日は起き出して、以前に読んだ宮城谷昌光の一冊を取り出してまた読む。『王家の風日』一九九〇年前の作で、この作家のその後連綿と続く中国古代物の最初の作のはずだ。この後、宮城谷は『天空の舟』で文壇に認められ、『夏姫春秋』で直木賞を受賞、『重耳』、『晏子』、『孟嘗君』、『奇貨居くべし』、『太公望』…と次々とベストセラーとなった古代世界を書き継いでゆく。その扉を開いたのが、漢字を生み出した商(殷)王朝期への特別の思いを込めて、その滅亡を最後の宰相箕子を軸に描いた『王家の風日』だ。ついでに言えば、『天空の舟』は夏を倒して商を建国した天乙(湯)を助け、後に名宰相の範となる伊尹の物語である。

 この時代には文字記録がない。亀甲や竹簡や青銅器の文字が出土しているのは商の後期武丁王の時代以降であり、文字の出現が何を変えたのかは想像するしかない。しかしそれでも、一定の統治の秩序は存在した。そこでの祭祀のあり方、邑の様子や、邑の住人とその他の人びとの暮らし、そうしたものを文字の語らぬ文字そのものの淵をなぞるようにして、少ない資料をもとに、想像しながら一人ひとりの人物をを生きさせその天命を描き出してゆくのが宮城谷の小説である。

 その小説を読みながら、西洋型の近代国家とはまったく違った秩序形成、あるいは統治体制のでき方を、天の観念や黄河という地の条件のもとでの人間(集団)の編成、剥き出しの力と超越との関わり、そして知の差配、あるいは無秩序からの知の生成、といったことから考えてみる、というのが近年のわたしの楽しみでもあった。

 『王家の風日』を取り出したのは、それが宮城谷の「ふるさと」(安吾的な意味で)であるとともに、初めの方で曲阜や徐州のことにも言及されているからだ。つい最近徐州を再訪したが、その街の前身はすでに商の時代にもあった。
 
 前置きが長くなりすぎた。そんな無理やりな休暇を終えるべく三日ぶりに外出したのはこの本を受け取るためだった。
 
 「対談集」などというものを出すのは初めてだが、雑誌『現代思想』編集部の押川淳さんが、この間(「戦後七〇年」を挟んで前後二年ばかり)わたしの関わった対談をまとめることを提案してくれた。対談はもちろん相手があって成り立つものだが、幸い、対談を設定してくれた編集者諸氏の慧眼もあって、そのつどその筋の最適の方々を相手としてお迎えすることができ、それぞれのテーマを口頭の議論としては相当に深められたのではないかと思っている。

 その意味では、この本に意味があるのはひとえに対談者の方々のおかげと言わざるをえないが、それでもわたしがここに収録した対談をするに際してつねに念頭に置いてきたのは、「まえがき」の最後に付記した次のようなことがらである。
 
 ――「想定外」が到来してしまったということは、「未来」がもう来てしまってすでにここにある、ということである。「未来」はすでにここにある、というのが「災厄の後」の基本的構えであるはずだったが、それはたちまち押し流され、何食わぬ顔で先がないことがわかっている過去の枠組みが押し付けられようとし、それに歯止めがかからない、というのがわれわれの置かれている現在の状況である。だからあらゆる場面で実情を糊塗する「フェイク」が重ねられ、「オルタナ・ファクト」がまかり通っている。その「オルタナ・ファクト」の煙幕を払って、いかにして実相を見るか、そしてそれを足場にするか、そのための努力がこれらの対話を支えている。

また、この本は久しぶりに菊地信義さんに装幀していただいた。いつもながら絶妙の文字使いと刷り上がり。お礼申し上げたい。

だいぶ昔のフランス思想の「最後の授業」2017/11/28

*最近、昔の学生(今ではいい大人だ)数人から連絡をもらった。そこでふと思い出したこと――

 大学の校門を入ってゆくと、学生課からの注意喚起のカンバンが出ている。「試験期間、亡くして困るのは財布と学生証!」と。老婆心というものだろう。

 教室に入ると200名を超す学生がズラリ並とんで席についている。もちろん設問はあるが、この授業、何か知識を与えて、どれだけ身に付けているか試すといった類のものではない。ものを考えるということがどういうことかを理解し、納得してくれればいい。フランス思想はそのための素材だ。

 二つばかりそれらしい設問を即席で作ったが、毎回授業に来るわけではなく、その時間を他所で潰していたり、文学や哲学なんて馴染まない、という学生がいてもいい。その学生がむりに枠に合わせて身につかない受け売りのご託を並べる必要もない。

 そういう学生たちのために、余分な選択課題をひとつ出した。

 「今日、この教室に来るときに、きみたち、学生課の掲示を見たでしょう。学生証がないと試験が受けられないから、忘れないようにという注意喚起だよね。でもきみたち、深刻に受け取る必要はないですよ。財布なんて落としても困らない。どうせ大した額は入ってないでしょう。昼ごはん食べられなかったら、ちょっとちょっがまんすればいい。それに、学生証も紛失届を出せば再発行してもらえます。

 しかし絶対にそうはいかないものもある。ほんとうに亡くしたら困るもの、取り返しのつかないものは何でしょう。それは何か、書いて理由を説明しなさい。」

 学生たちはいっせいに、それぞれ思案し始める。そして筆記具の音がし始める。しばらくして様子見に机の間を回ってみた。そうしたら、多くの学生が最後の設問を選び、同じようなことを書いている。そこで中断させた。

 「ちょっと待ってください。見回ってみたらたいていの人が同じようなことを書いている。試験も授業の延長ですから、これも最後の短い講義として聴いてください。みなさん、なくして困るもの、取り返しのつかないもの、と問われて、命、それも自分の命と書いています。たしかに、命を落としたら取り返しがつかない。お父さん・お母さん、それに友だちも悲しみますね。でも、それでみんな、ほんとうに困るかな? 

 だって、死んじゃったら死んだ本人はもういないんだから、ちっとも困ることなんかないじゃない。昔の人たちは、これでやっと労苦から解放されるとか言って、待ち望んだりしたものですよ。とくに、生きることが罪を負って労苦することだと教えられたキリスト教社会なんかではね。詩人のボードレールも死は解放だと言っています。ともかく、死んだ当人にはもういっさいの思い煩いはないんですよ。もう当人がいないんだから。労苦や悲しみは生きているからある、生きている者にだけあります。だから、自分の命をなくしても、何も慌てることも、困ることもない。

 なくして困る、どうしようもなく困るのは、他人の命でしょう。これは困ります。取り返しがつかない。置き換えがきかない。どこに届けても再発行してくれない。そのことを掛け替えがないと言います。絶対的な、埋め合わせの効かない喪失です、癒しようのない痛手です。だから他人の命は亡くすと困る。

 これは頓智でもなんでもありません。あたりまえと思っていることを、ふっと振り返ってみると、「あたりまえ」の床板からその床板の実相が見えてきます。自分ということも、死ということも、無反省でいると思い違いをします。他人を思い遣るとか大事にするというのは、自分が寛大だからとか優しいからなのではなく、他人たちこそが自分の生を支え豊かにしているからなのです。だから人は、自分を犠牲にして人を助けたりするし、それは誰もが非難できません。

 実はこのことは、主体を軸に世界や人間を考える近代思想では忘れられていて、世界戦争後に哲学者たちが本格的に考え直すようになった、いわゆる「他者論」の根本です。今学期の後半でそんな話題を取り上げましたが、ちょうど今日、格好の入口に出合いました。いまの話をもとに、授業で話したことをもういちど振り返ってみてください。これを今学期の最後の授業にします。では皆さん、考えて答案を書き直してください。」

 三十分ほど経つと、終了のチャイムが鳴った。

いわゆる「アベノバンカー脱出失敗」映像について2017/11/12

(2017/11/12 FB投稿の転載です。)

 年に一度の会合でいまフランスにいる。あちこちから人が来るが、今回ほど日本人であることに居心地悪い思いがしたことはない。

 まず、北朝鮮の核ミサイル開発はまったく防衛的なもので、日本やアメリカへの攻撃を意図したものではない。攻撃は即、北朝鮮自体の破滅だからだ。

 トランプも、一人ならやりかねないが、アメリカを背負っていると、口で言うほどバカなことはできない。だから危機を煽りながらこの時期にアジア歴訪して、やったのは日本と韓国に莫大な武器を買わせ、中国との間には超大規模な商談を成立させるということ。「北朝鮮危機」など、それを成り立たせるためのお膳立てでしかない。このやり方で、どうだ、とばかりトランプは、アメリカ自身を満足させ、国内でくすぶるロシア・ゲート問題を吹き飛ばす。たしかにすご腕だ。

 そして、首尾よくすんだら、今度は金正恩とも友だちになりたい、などと涼しい顔でツイートする。

 キタチョウセン、キタチョウセンと、Jアラートを鳴らし、アメリカの「超圧力方針」と完全に一致(日米同盟がこれほど強固になったことはない?)などと言挙げした安倍首相はどうするのか。「親密な関係」を演出とかでミサイルごっこならぬゴルフごっこを仕立てたが、この有り様。

 こんなビデオを広めて人のぶざまさを嗤いたくはないが、これが「わが国の首相」であり、この一コマは現在の日本の姿、とりわけ日米関係をあからさまに象徴しているといわざるをえない。われわれをはそれを認識する必要がある。だが、この姿を隠すことも含めて、日本の「危機」を国内の「空気」の繭に閉じ込め、そこで権力をほしいままにすることだけがこの人物のねらいであるようだ(森友・加計問題、元TBS記者犯罪もみ消し問題、改憲問題etc.)。

 「改憲」論議もその域を出ない。自分があらゆる課題を活用して権力の座にあり続け、首相最長不倒記録を作るというさもしい狙いの道具立てでしかない。世界の現状や、その中での日本の位置どりや、さまざまな困難の中でのこの国の行く末を真面目に考えることなど、この人物にとっては関心外。日本がこういう人物を首相にしているということ、それこそが今日の日本の最大の問題だということを、つくづく感じさせられる異国の秋だ。

「野党再編」ではなく、国会での「野党共闘」を2017/10/30

 前原代表が党ごと「無理心中」させようとした民進党がまだ存続しているのだそうだ。そこから「野党再編」とかの話が出ているというが、冗談はいい加減にしてほしい。
 FaceBookに友人が2年前のリテラの記事を引き出していた。これを見ると、今回の「解党劇」の根が深いことがわかる。もうゴタゴタ言うつもりもないが、はっきりさせるためにひとことだけ。
 
 民進党は前原・細野・長島らに衆議院議員を身売りされたのであり、もう解党・消滅するしかない。無所属クラブと参院民進党は党籍だけの民進党を延命させるより、希望への城明け渡し(それはもうやられている)後の身の振り方を自分で決めるべきだろう。
 
 希望への見請けをよしとせず、脱藩した者たちが作ったのが立憲民主党。急遽枝野新党ができたら、これまで「民主党はあてにできないが、それでも反自民で投票する」としていた「無党派市民」、国会前や全国の抗議集会に集まっていた人びとが、おっとり刀と手弁当・ねじり鉢巻き・割ぽう着で、立憲民主の選挙を支え、これを野党第一党にした。
 
 立憲民主党の支持率は民主党・民進党が超えられなかった域に達している。
 
 これがすでに、党代表の権限を使って仕掛けられた「野党再編」の結果なのである。この期に及んで、また無所属議員を軸に「再結集」を図るなど、前原の強引な失敗がなかったかのようにして、またぞろ同じことを繰り返すことにしかならない。有権者の方をまったく見ていないからこういう仕儀になる。何のための政党か。有権者の方を見て多少の整理をしようとするなら、立憲民主党を軸にすべきだ。
 
 とりあえず必要なのは、懲りない「野党再編」ではなく、国会での「野党共闘」だ。それぞれの立場があるだろう。だが、そこでもまた、共産党と共闘はできないなどと言う連中がいるとしたら、それはもはや野党ではない。民進ゾンビがやろうとしているのは「与党再編」、「与党と共闘」にしかならないだろう(実際にはもうそうなっているかも)。

10月衆議院選挙の結果を受けて2017/10/23

10月21日夕、新宿バスタ前、撮影は奈良巧さん
 衆院選挙の結果がほぼ出た。自公の与党は改憲発議に必要な3分の2の議席を確保。解散の正当性もないまま、ひたすら森友・加計疑惑から逃れるために臨時国会での冒頭解散を打った安倍首相は、これでまた堂々と居座れることになる。だがそうか? 議席数大幅減(80議席減)も覚悟して、当初安倍首相は勝敗ラインを与党過半数(233)と設定した。それからすると、タナボタのような自民党の圧勝である。
 
 最大の「功労者」は、つい先ごろの都議選で自民党を震え上がらせた小池東京都知事と、小池氏が選挙間際に立ちあげた「希望の党」に、独断で自党を城ごと譲り渡そうとした前原民進党代表だろう。これが野党側に大混乱を巻き起こし、何とか重ねていた準備態勢をも瓦解させて、野党は急ごしらえの間に合わない状況で選挙になだれ込まねばならなかった。有権者はあれよあれよのドタバタに呆れ不信をもって自民党に戻り、あるいは棄権する、といったところだったろう。その結果が、無法で強引な解散だったにもかかわらず、自民党が圧勝することになった。

 だが、この勝利がタナボタにすぎないことは自民党内部でも受けとめられている。だから安倍流のやり方がこのまま続けられるわけではないだろう。
 
 今度の選挙のもっとも注目すべきことは、希望の党への合流を拒否して、枝野幸男がまず独りで旗揚げした立憲民主党が、わずか数日で78人の候補をそろえ、民進党流れを抱え込んで全国に235人を擁立した希望の党を凌いで、野党第一党の地位を獲得したことだ。もちろん50議席しかもたない小さな政党だ。しかし、野党第一党ということは、与党がまず第一に協議しなければならない勢力だ。

 この党には新しい特徴がある。それは、既存の大政党でもなく、政治家の数合わせで離合集散する政党でもなく、市民が作らせた政党だということでだ。このことは枝野代表や福山幹事長が演説のたびに言っている。それは大衆受けをねらった美辞麗句ではない。3年ほど前から始まった新しい市民運動がある。それは安倍政権による安保法制強行の際に大きな盛り上がりをみせ、国会前を10万の人で埋め尽くした。どんな組織の動員でもない人びとが集まり、安倍政権の政策やそのやり方、日々の生活の足場からに怒りの声を挙げた。

 その運動は、安倍政権の強行採決を食い止めるために「野党の共闘」を要求し、法案成立後は昨年の参議院選挙で「野党共闘」を呼びかけ、一人区での野党候補の統一を実現した。そのために、多くの人びとが生れてはじめて選挙運動に手弁当で参加したのである。

 その人びとは多くは無党派市民だった。野党第一党の民進党に対しては、たいていは手厳しかった。民進党の姿勢がはっきりしなかったからだ。だから彼らは国会前の集会に出てくる野党議員たちを、党を超えて後押しした。

 ところが今度の選挙を前にして、民進党の前原代表は希望の党への合流という方針を出した。だが小池氏の私設政党のような希望の党は、得体が知れないだけでなく、安保法制や憲法問題に関して自民党と本質的な違いがない。民進党にもそんな議員たちが巣食っていたから、市民運動は民進党を全面的に支持できなかったのだ。しかし民進党が解消されてしまうと野党の軸がない。だからそうならないことを願う、安倍政権とはっきり対峙しうる野党を求める、強い市民の要望があった。

 前原代表や希望組は、いわゆる永田町の論理の中で、民進党の不評(支持が伸びない)の原因をまったく勘違いしていたのだ。

 枝野幸男の背中を押し、旧来の政党から一歩踏み出すよう促したのはそういう市民の声であり、その声は政治家としての身を託すに足るという思いである。いつも国会前の集会にきて市民の声を背に国会内で闘うことをアピールしていた福山哲郎には、その実感があっただろう。

 だから枝野は「立憲民主党」という党名を選んだ。「立憲主義」とは、この間、立憲デモクラシーの会などの喚起によって流布した憲法に関する考え方だ(近代国家は憲法を軸にした法治体制をとるが、憲法は国民を拘束するのではなく、権力者の恣意から国民を守るためにある)。そしてデモクラシー、つまり国家でも党でもなく、市民が主役の市民のための政治ということだ。

 この間、市民運動が諸政党に求めてきたこと、その求めに応じることを自らの支えとしてこの党は「希望」から「排除」された政治家たちによって結成され(…世界から締め出される前に独力で世界を締め出し…、清水旭)、短期間で候補をそろえ、そのまま選挙戦に突入して二週間の選挙戦の末に一気に野党第一党になった。それはまさに、政治家たちの力によるのではなく、こういう政党を待ち望んでいた市民たちがそれぞれに全力で応援したからだ。とくに国会前のデモを牽引していた若者たちが。あるいは、全国でも悪天候をついて投票所に行った人びとがいた。

 永田町の政治家たち、あるいは政界情報屋たちには、広範な市民が何を求めているのかがまったくわかっていない。だから、今日の開票速報でも、風が吹いたとか、吹かなかったとかで話をすませようとする。だが、都議選での「都民ファースト」の躍進が「風」のせいだったとしても、そして「希望の党」に一瞬寄せられた期待が「風」だったとしても、立憲民主党の「躍進」は「風」のせいなどではない。立憲民主党はその立上げによって、現実に生まれたばかりの党を支える大勢の市民を湧きあがらせた。その市民たちがこの党を一気に成長させたのだ。

 これは一時の現象で、選挙後にはまた野党再編があるだろう、といった声もある。だが、それはないだろう。この党にはすでにしっかりした基盤がある。周囲で離合集散する諸勢力があっても、野党の軸になりこそすれ、その離合集散に巻き込まれることはない。だいたいこの党は、その茶番劇を振り払うことで登場したのだから(ついでに言うなら、小沢一郎氏を「成仏」させるために登場した?)。

 だからこそ、安倍自民党は立憲民主党を最大の脅威とみなしている。とりわけ、安倍親衛隊のネトウヨ集団はこの新しい党を標的にしている。遠からず自民党にとって真の脅威になるのはこの党だからだ。

 今回の選挙は、安倍政権が不当にしかけた選挙だったにもかかわらず、安倍政権に褒美を与えるような結果になってしまったのは、受け止めなければならない日本の現状だ。それを変えるために、この混乱と下からの整理のプロセスが必要だったと言えなくもない。このプロセスを経なければ立憲民主党のような政党は生れなかったのだ。もちろん理想の政党であるはずがない。しかし従来の政党とは根本的にでき方が違う、新しい政党、日本の民主主義=政治を作り変える資質をもった政党だと言うことはできるだろう。いまはこの政党に野党第一党としての存在感を示してほしいと願うほかはない。

 ただ、付言すれば、ひとつ気がかりなのは、「野党共闘」を積極的に担ってきた日本共産党が今回議席を減らしたことだ。だがそれは60人以上の候補者を取り下げたからではない。立てても「共倒れ」を増やすだけで、さらに自民党や希望の党を利しただろう。

 この間、共産党に投票していた有権者のいくらかが立憲民主党に流れたというのは確かだろう。しかし「野党共闘」を棄てれば、野党で票を食い合って自民・公明支配を安泰にするだけである。移るのは共産党のコアな支持者ではない。いわゆる無党派の有権者だ。

 「野党共闘」を支えたことによって共産党への理解や支持は確実に増えている。共産党の党勢拡大には、この一般的支持を足場に、コアな支持者を増やすほかはないだろう(あるいは共産党が変わるしかない)。共闘を進め、翼を広げなければ、共産党の望むような政治状況(いまなら安倍自公政権を追い落とす)は生れない。志位委員長はその点は十分に踏まえているようで、開票速報番組でのコメントは揺るぎないものだった。

[追伸]
 自公が3分の2を確保し、依然として改憲発議が可能であるだけでなく、希望の党も「改憲派」だとすると、改憲論議が活発になる。それに今度の選挙は「北朝鮮情勢」を表に出して「改憲」を公然の争点とした選挙でもあった。そのことについてまったく触れなかったのは、立憲民主党の新しい性格を重視したかったからだ。この党の重要性は、「護憲政党」だという点にあるのではない。枝野代表も憲法論議は拒むとは言っていない。むしろ変える必要があればそれは議論するというスタンスだ。

 だが、立憲主義を否認する「安倍改憲」には反対する、という姿勢を明かにしている。立憲主義を尊重したうえでの改憲論議は避ける必要はない。改憲論議やその他の具体的な政策については、立憲・民主主義からの帰結がある。「安倍改憲阻止」というのも立憲主義によって「政治を立て直す」「まともな政治をする」という主張を基に生まれてくる。「安倍改憲」がなぜダメなのか。それは安倍政治が、森友・加計問題に体現されるような国家と権力の私物化を合法化するための「改憲」だからだ。立憲デモクラシーが問題にするのはその点である。

アベノ「突破解散」総選挙にあたって2017/10/10

 衆議院選挙が公示された。この選挙の争点は、北朝鮮対応でも、消費税の使い道でも、改憲でもない。モリ・カケ逃れにそんな解散を打ち、北朝鮮危機まで煽ってごまかす、国権私物化の安倍政権を許すかどうかが争点。他の問題は、まずこんな政権をお払い箱にしてから議論すべきこと。

 安倍の「一億総活躍」よりずっとソフトで無内容な「キボウ」が澱みに浮び出て、そこに野党第一党が呑み砕かれ、政界図式が激変した。だが、それでも選挙の基本争点は変わらない。安倍は「与党過半数なら続投」と言う。87議席失っても辞めないということだ。こんな政権にとにかく消えてもらう、それがまず第一の課題。続けさせてはいけない。

 以下は選挙スピーチの際に念頭に置くことの覚え書。
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 8日のネット上での党首討論で安倍は「この国を守り抜く」という標語を掲げた。 「この国」とは、自分が私物化している「この国」だろう。それを守り抜くための「突破解散」だ。つまり、森友・加計問題が露見し、その追及を逃れるため、開いた臨時国会をいっさい議論させずに解散した。それで四百億かかるそうだ。

 この政権による国の私物化はそれだけではない。官僚の人事権を握って言うことをきかせ(安倍に尽した者だけが露骨に出世する)、裁判所にも空気を読ませ、メディアも手なづけ脅し岡っ引きを送り込んでなびかせる。行政も司法もメディアも汚染、それが今のこの国の基調を決めている。

 そして「外患」を使って「内憂」から目を逸らさせる。「北朝鮮危機」をトランプの尻馬に乗って煽っているのは安倍自身である。歴史的経緯にも蓋をし、弱小孤立独裁国家を「暴発」に追い込む火遊びに、国民も国の名誉も引きずり込もうとする。

 核兵器とIT・AI戦争のこの時代、「国を守る」最も基本的なことは、戦争をしない・させない努力だ。起こったら終わりだから。

 それでも自民・キボウの候補の40パーセント近くが、トランプ・アメリカの武力行使の選択支持だという。米による攻撃は北の必至の反撃を誘い、とりわけ韓国、そして米軍基地日本に多大な被害を出すことは明らかだ。

 トランプは世界から無思慮で危険な指導者と見られている。それに嬉々としてくっついているのが安倍、金正恩といいコンビと見られている(トランプも「ロシア・ゲート」をごまかしたい)。

 アベノミクスはどうか? 日銀に札束を次々刷らせ、金融市場をダブつかせて株価を吊り上げ、好景気を演出する。円の価値が下がって輸出企業はホクホク、しかし儲かるのは資産家だけ。「企業の活躍しやすい国」にするため働く者は搾り取られ、「女性の活躍」と称して女性も低賃金・非正規雇用で働かせる。結局、貧富の格差は拡大され、若者には希望がなくなり、老人は切り捨てられ、さまざまな社会的弱者はお荷物として扱われる。

 実は日本の「豊かさ」とは、敗戦後の日本人が「戦後レジーム」のもとで営々と築いてきたものだった。それを破壊するのが「戦後レジームからの脱却」。だから安倍自民党はもはや「保守」などではなく、復古幻想がまつわりついた破壊と転覆の「反動」勢力なのだ。

 安倍「改憲」とは、国家の私物化を制度化すること。つまり、国民のために権力の恣意を縛るはずの憲法、その憲法を「みっともない」として廃棄し、国民が国家に尽すことを命ずる憲法に変えようということである。その憲法の下で、国家の私物化を恣にするというのが安倍「改憲」の願望であり、このような「改憲」を求めるあらゆる勢力は、この憲法のもとで国家を代弁し、国民を自分たちのために拘束しようとする連中である。

 彼らはときに「国家主義者」と呼ばれるが、たいていは「国家」の名の下に人びとに「愛国心」を押しつけて、私欲を粉飾する夜郎自大である。だから彼らは、いつも人に戦争を押しつけて、自分たちは大本営で命令だけしようとする(あるいは、その権力に群がって保身を追及する。

 では、この選挙にどう向き合うべきか。言うまでもなく、ここで安倍自民が「勝つ」ことがあれば、「破壊と転覆」にフリーハンドが与えられたも同然になる。ここは「右・左」でもイデオロギーでもなく、まず「まともな政治」を取り戻すことが喫緊の課題である。あらゆる議論はその条件ができてからだ。そのために夜郎自大を一人でも多く追い落とし、「まともな議員」を一人でも多く当選させなければならない。それがこの総選挙の単純な課題だ。

 小池東京都知事も例に漏れない。「キボウ(化粧品の商標か?)ってなんか感じ悪いよね」という直感を大切にしたい。

政治家も多くのメディアも読み違えていた秋の陣2017/10/07

 舛添辞任、小池知事登場後の都議選で、森友・加計疑惑を隠す安倍自民党が大敗(57→23)、小池知事の作った新党「都民ファースト」(米トランプの標語にあやかった命名)が大勝して55、民進党も少ない議席を減らした。民進5に対して共産党は2増の19だった。

 この結果を見て、共産党にも大きく水をあけられた民進党は焦ったのだろう。評判の芳しくなかった蓮舫代表は、国籍問題も持ち上がって野田幹事長とともに辞任し、内閣改造、閉会中審議のあった夏をかけて代表選を行い、前原新代表を選んだ。二重国籍を問題にしたのはもちろん右派だった。井出栄策の消費増税再分配理論に傾倒した前原は、ネオリベから社民的考えに変わったとも言われて、一部に多少の期待ももたせた。

 (前原は民主党政権の失敗を踏まえ、財政再建のための消費増税を貫くことで「責任政党」たる軸を打ち出すつもりだったのだろう。だが、井出理論は階層化容認のうえ、現在の日本の行政機構や財政執行体制を考えれば空論でしかない。それに、現在焦眉の政治の争点はそこではなく、安倍政権の体質と憲法・安保問題なのだが、前原はそこをかわして代表になった。)

 永田町で右往左往する政治家たちの間では、旧維新と合同した民進党が求心力を持てないのは、共産党に引きずられて中途半端な「リベラル」路線に流されているからだ、改憲問題や安保法制で「現実的」な路線を打ちだせず、「反対政党」に留まって「責任政党」としての姿勢を打ちだせないからだ、といった固定観念があったのだろう(それも「民主党政権「失敗」のトラウマだ)。だから、安倍自民の乱暴な政権運営に批判が強くなっても、その批判票の受け皿に民進党がなれないのだ、と。

 だから前原代表は、この解散を千載一遇のチャンスと見て小池都知事の立ちあげた新党に合流することを考えた。相手は「小池人気」しかない新党、民進党のそれでも残っている基盤と人材と資金があれば、風船のような新党の実質を取ることで民進党の「衣替え」ができると。そのための最大限の手土産が、民進からは候補を出さない、つまり党を解消して「希望」に移るという、いわば身売りだった。

 しかしそうは行かないのはその後の経緯が示す通りだった(先に民進を見限って「希望」に移った連中が、閻魔大王よろしく民進候補者に「踏み絵」を課した等の詳細にはここでは踏み込まない)。

 前原や永田町で浮足立つ者たちは見誤っていた。政治を報道し論評するメディア関係者たちもそうだ。この五年の「安倍の天下」でしだいに湧き起ってきた「反安倍」の機運は、もはや「サヨク」の反対ではない。多数を頼んだ強引な権力行使と、森友・加計で露呈した政治のあからさまな私物化、それへの批判を権力やメディア操作で押し流そうとする、盗人猛々しいやり方への怒り、そんな政権が国や国民の命運を思いのままにしようとする事態への、ふつうの市民の怒りや不安や危機感だったのだ。

 そのことが、民進党の議員たちには届かなかった。民進党はむしろ自民党や主要メディアからの、「責任政党」になれという批判に応えようとした。その結果が、安保法制や改憲への「現実的対応」であり、そのために「リベラル」派を黙らせ排除するという前原の選択だった。

 それでは、この間、身銭を切り時間も割き文字どおりボランティアで安倍批判の声を挙げてきた広範な市民たちの思いを受け止めることはできない。むしろそういう政党をなくすことになってしまう(共産党はあるが、共産党は「共産」の旗を降ろすことのできない政党だ)。市民は「まともな政治」を目指してくれる、そして多くの市民の思いを反映してくれる政治勢力を渇望していた。そういう思いの広がりを読み取れず、逆に前原らはそれに応える党内勢力を潰そうとしたのだ。

 総選挙準備のドタバタのなか、違憲安保法制反対を市民とともに闘った議員たちが急遽作った立憲民主党は、その思いをを受けとめて誕生した。だからケンミンは一気に結集軸へと押し上げられたのである。

 いずれにせよ今度の解散総選挙、安倍政権の作り出した「国難」(国権の私物化・政治の崩壊と、トランプ・アメリカへの国売り、それをごまかす北朝鮮危機と軍事化)を「突破」するために、わざわざ安倍が投げ出してくれた機会である。

 多くの市民が求めるのは、こういう政治状況を打破すること、そのために小選挙区制のもとでともかく野党が共闘し、ひとつでも自公議席を減らして打撃を与えることである。政策論議はその後でいい。むしろ、まともな論議(憲法・税制・外交・社会構想等々)を成立させるためにも、いまの「安倍の国難」をまず切り抜けなけなければならない。妄想と嘘とごまかしと居直りの、こんな政治は続かないということを安倍一党に思い知らせなければならない。

オルタナ時代、「無理心中…夜の婿入り」の顛末2017/10/02

 情況はもう見えている(10/02朝)。
 
 キボウは50ないし60を擁立し、民進からの合流は150ないし160と伝えられるが、民進は前回惨敗で落選した多くの候補を抱えていた。キボウへの合流は前回落選のまともですぐれた候補たちにも節(安保法制廃止・非戦・反TPP等)を曲げさせ、あるいは路頭に迷わせ、挙句に合流から締め出されるリベラル派に選挙区でキボウの対抗馬を立てさせることになる。
 
 これでは、モリカケ逃れで無茶な「突破」解散を仕掛けた安倍自民を追い落とすのではなく、安倍政権を追い詰めたリベラル勢力を政界から締め出す結果になってしまう。前原代表はそれでよいのか?最初の政権交代を果たした民主→民進党の歴史的遺産を、最終的に沼(米追従で民を操る戦後政治のなれの果て)に沈める墓堀人になってしまっていいのか?

 いまリベラル新党の動きが進んでいるという。だがほんとうは新党ではなく、出てゆくべきは前原とキボウに合流する人たちだろう。いまから新党はたいへんだし、無所属では比例候補も立てられず、政見放送もできず、厳しい選挙戦を強いられる(それに民進の政党交付金は?)。そして選挙区には自公だけでなくキボウの候補が立つ。これが代表に選ばれた前原氏の(当人の意図いかんに関わらず)賭けの結果だったということだ。

 だが結果として、これでリベラル市民は腰の定まらぬ民進の尻を叩くためにイライラして無駄な力を割く必要はなくなる。立憲野党の後押しに集中すればいいからだ。

 去年、自公・民進・連合を相手に新潟県知事に当選した米山氏が的確な私見を発信しているようだ。昨日の武蔵野市長選も松下玲子さんが当選した。前原氏、賭けるのなら、この流れに賭けてほしかった。

 なお、われわれ(この見解を共有してくれる潜在層)にとって問題は、政治党派の離合集散や綱領云々の話ではない。日本の政治に立憲主義・民主主義を貫こうとする政治勢力の結集を求めているということだ。

*以上「無理心中・日本の秋、飛んで火にいる夜の婿入り」の結末。
 小池新党が「希望」だというのはオルタナ・ファクト(置き換え事実)でしょう。だから「キボウ」と表記します。日本もまったく「ポスト真実」の時代です。
*あと「リベラル」とは何かを明確にしなければなりません。これは難しいことではない。すぐやります。