汚泥に沈み込む前に(論考2015-⑫)2016/01/06

*以下が「論考2015」の最終回です。

 パリの風刺週刊紙シャルリエブド本社などが襲撃されたニュースで明けた今年は、再びのパリ襲撃の余波のなかで暮れようとしている。世界は過激派組織「イスラム国」への空爆で慌ただしい。

 ▽全人類の敵

 エジプトでのロシア機墜落を「イスラム国」のテロと断定したロシアがシリアで爆撃を始め、パリ襲撃後はフランスも攻勢を強める。慎重派の英国も加わった。トルコ軍機によるロシア軍機撃墜もあり、シリアやイラクをめぐる混迷は深い。その陰で「最悪」の底を踏み抜くようなパレスチナの民衆弾圧はほとんど報じられず、欧州連合(EU)に殺到した数百万人規模の難民も、寒さのなかに置き去りの様相だ。

  「テロとの戦争」を率いる米国のオバマ大統領は、パリ襲撃の直後に「普遍的価値を共有する全人類への攻撃だ」とする声明を出した。だとするなら、世界はいま「人類の敵」との戦争に向かっていることになる。

 その「戦争」が守ろうとする「文明世界」では、自由主義経済の美名のもとで多国籍企業の群れが巨大な権力をもつ。

 人類は昔ながらの農耕に替え、遺伝子組み換えで効率的、工業的につくった食品を摂取し、薬品やサプリメントで「健康」を保ち、先端医療で病気を撲滅して寿命を延ばそうとする。人口増加や高齢化の問題は、「文明を享受すべき者」と「死ぬべき者」を経済で選別することで解決される。後者は戦場や飢餓や感染症の現場に送られ、情報技術(IT)で快適に保たれた「安全保障」のカプセルの中で富裕者が安らぐ。それが近未来図だとしたら「文明」とは何と倒錯的なことか。

▽文明が倒錯

 折しもパリで開かれた国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)で、有効な合意ができなかったのも、ある意味で当然だ。なにしろ主要国である米国の代表は、米国を牛耳る集団の、つまりは多国籍企業群の利害を代表している。その企業群が他でもない「文明」の推進役なのである。

 その担い手たちは目先の業績しか考えず、将来のことなど眼中にない。その権利を「自由」の名において主張し、公的な規制に公然とあらがう。抗議する人びとを「テロリスト」呼ばわりする。だが、実際に全人類や次世代のことを考えているのは、権力をもたない市民たちの方なのだ。

 「価値を共有する」と安倍晋三首相は言う。その相手は「文明」の担い手たちなのだろう。その価値を守る「テロとの戦争」には終わりがない。そのため「戦時体制」は恒常化する。それは国内統制の最も容易な手段でもある。「安全保障」の大義を掲げる政府が国民・市民の「自由と民主主義」をまるごと吸い上げていく。

 温暖化対策やコストの問題があるから原発はやめられない、と安倍政権は言う。だが人間のコントロールできない放射能を生む原発は最悪の公害源でもある。汚染物質は化学で処理できても、放射線被ばくは無害化できない。それでも巨大な利権と核兵器製造の潜在能力を保つために、原発に固執する。

 ▽現代の危機

 「棍棒での決闘」と題するゴヤの絵がある。土中に足を埋めた2人の男が殴り合う。フランスの哲学者ミシェル・セールは、この絵が現代の危機を示していると解釈した。闘いが熱を帯び、観衆が熱狂するにつれて足元がぬかるみ、いつしか誰もが身動きできず、泥土に沈み込んでいく…。

 これは「文明」と自然との闘いであり、人間同士の闘いでもある。その決着がつく前に、闘いの枠組みそのものが崩れてしまう。科学技術の野放図な発達やグローバル経済の専制によって、人類はそのような抜き差しならない状況に至っているというのだ。2015年の世界が「戦争」の気配を醸しているとするなら、セールの寓意は、ますます現実味を帯びていると言わざるをえない。

 そして日本ではいま、「政治」の枠組みが崩されようとしている。戦争は政治の破綻から起こる。「戦争」に向かって身構える日本、「戦争」へとなだれ込む世界、この流れを食い止めるには、まずはそれぞれの国の「政治」の回復が欠かせない。そのための努力を惜しむようなら、私たちは汚泥に沈んでいくことになるだろう。

凡庸な、あまりに凡庸な初日の出2016/01/02

 (伊良湖岬にて)

 去年も今年も、同じように陽は昇る。いや、一度として同じ陽はない、永劫回帰はたんなる反復ではない、と言った人もいる。そう言うのもいいだろう。ただ、今年の初日の出はことのほか「凡庸」に見えた。この世の中で何が起ころうとおかまいなく、いつもの正月と同じよう初陽は昇るのだと。

 ふと脳裏に浮かんでいたのは、暮れの集中講義の資料としてみた「水俣病の17年」というNHKアーカイヴスの終りのシーン。チッソとの直接交渉を求めて熊本から上京し、大手町のチッソ本社前にテントを張って、公害企業の不当と患者の要求への支持を訴える声をしり目に、みぞれ降る師走の街を人びとは立ち止まることもなく行きすぎてゆく。

 その行きすぎてゆく人びとのように、今年も元日の陽は昇る。

 日本では一昨年の夏、黒を白と読み替えて憲法をないがしろにする閣議決定がなされ、去年はそれに基づく安保一括法制が「無理」をさらして「人間かまくら」で通ったことにされ、これで政府は「日の丸部隊」を米軍の御用達に供しうることになった。

 一方で政府は最悪の公害企業と手を組んで、福島第一の「緊急事態」に蓋をし、「除染」でお茶を濁しながら住民の帰還を促し、原発問題はもうすんだかのようにして再稼働に走るばかりか、原発輸出とさらには軍需産業のテコ入れに精を出す。

 「経済成長」を目指すというこの政府は、無理やり株価だけは釣り上げたが(それももう限界だと言われている)、国内に貧困は広がり、一人当たりのGDPは下落の一途をたどっている(27位だそうだ)。労働条件は劣悪化し、定職についてもうつ病が待っている。大学を卒業したら600万~1000万の借金を負うとはどういう国か?

 そして「テロとの戦争」の泥沼にはまってゆく世界で、軍隊を出せると虚勢をはり、「従軍慰安婦」の旧悪も、隣国の弱みに付け込んで金を出すから身内を黙らせろと脅し、ますます世界で評判を悪くし、国民の肩身が狭くなるのを自慢している。

 そんな政府与党(自民党と公明党、それにおおさか維新が加わる)が、この夏の参院選挙(ひょっとしたら衆参同日選)でも議席を増やしそうだという。そうなったら改憲だが、それ以前に、こんな政府が支持されている(あるいは存続できる)というのはいったいどういうことなのか?日本社会は、どんな道理も無理で潰せる、そして無理を押し通す者たちが政府に君臨しうる「ならず者国家」に成り下がった、ということか。

 それでも陽は昇る。初日の出をこれほど白々と見たことはない。陽は昇ってもよい。いや昇るのがいい。だが、来年はその昇る陽を、もっと心に受けとめられるような正月を迎えたい。

「論考2015」のまとめ、その他2015/12/28

 今年1年、共同通信の「論考2015」というシリーズを担当した。掲載されたのは全国の地方紙だ。

 年始に日本の置かれた状況(「ガレー船国家」に向かう)を書き、2月には年頭を騒がせたパリの事件と後藤さんら「人質」の悲報を受けて「テロとの戦争」について書き、3月は辺野古新基地新設強行に揺れる沖縄の状況(歴史の再確認)、4月は日本の社会を蝕む「雇用」と「法人」の問題、5月は中国にまったく背を向けたワシントンでの「戦後70年」首脳会談。

 6月は安保法制の異常と「抑止論」の虚妄、7月は安倍政権による「規範の私物化」、8月はSEALDsと憲法・民主主義意識、9月は安保法制論議から見えたこと(対米従属下の"威勢")、10月は「一億総活躍」と日本の「ブラック国家」化、11月は憲法空洞化と進む軍事化、そして12月は、戦争化する世界と「政治」の溶解(泥沼に沈む前に政治の回復を)。

 現代の世界(そして日本)で考えるべきテーマを、時事に絡めて1年間でいろいろな形で取り上げようと思っていたが、まさに今年は「安保法制の年」で、とくに後半はそのことばかりを論じることになった。いま紙面を使わせてもらうなら緊急性からして安倍政権の日本を問題化する他ないだろう、という思いだった。

 それでも、最後の12月分は、再び起こったパリ襲撃事件を枕に、グローバル化のもとで「テロとの戦争」になだれ落ちてゆく世界の危険な予兆と、それによって守られるとされる「文明世界」の抱えるカタストロフ(気候温暖化、核管理等)の予測のなかで、各地域での「〈政治〉の回復」にしか出口はないという、総論めいたことで括った。

 付け加えるなら、盲目の〈経済〉原理のグローバルな猖獗によって、押し流され傀儡化された〈政治〉――ポリスの運営――を、専門家(プロやテクノクラート)でない〈民衆〉(ふつうの市民と言ってもいい)の手で作り直すこと、それだけが希望であり、可能性だということである。日本にとっても世界にとっても。

 昨日ちょうどNHKでスペインの新しい政治団体ポデモスの躍進を紹介する番組があった(「ドキュメンタリーWAVE▽若者の声を政治に届けたい~スペイン議会選挙」)。イタリアには「五つ星運動」があり、ギリシアでは「シリザ」がすでに登場している。これらの新しい政治運動は、マルクス主義の影響をまったく受けていない。グローバル化がドラスティックに変えた経済による政治の溶解、それによる各国社会の社会性の解体、その惨禍のなかから登場し、その状況に生きる場から対応しようとする新しい政治運動だ。まだ十分な理論化はなされていない。理論化より現実への現場の対応が新しいものを作り出しているのだ(その点でも従来の社会主義運動とは違う)。

 日本でもSEALDsが登場した。これは恒常的な政治団体というより、「自由と民主主義のための学生緊急行動」だ。参院選後の解散もすでに表明されている。だが、SEALDsは日本に新しい民主政治の土壌を開き、政治のあり方を照らし出す役割を果たした。そこから先はまた別の運動がいろいろなかたちで現れてくるだろう。

※関連して、年末にお勧めしたい本を二点と、番外の報告を以下に挙げておきます。

*タイトルはイマイチだが、この軽便な本をかつての『毛語録』のように広めたい。ひとり一冊、岩波ブックレット『いまこそ民主主義の再生を!――新しい政治参加への希望』中野晃一、コリン・クラウチ、エイミー・グッドマン(C・クラウチの世界の現状把握には深く共感、中野晃一の政治分析も)

*『2015年安保、国会の内と外で、民主主義をやり直す』奥田愛基・倉持麟太郎・福山哲郎、岩波書店。この本に「政治の杭を打ち直す」という序文を寄せるチャンスをえた。今年の夏の出来事の意味を再確認させる鼎談。問題は違憲の安保法制だけではなく、それを通すメチャクチャな政治のやり方、「いい加減にしろ」ということ。

*まさに「いい加減にしろ」を合言葉にしたのが西アフリカはセネガルの「ヤナマール」運動。「ヤナマール」は「もううんざり、いい加減にしろ」という意味(フランス語を訛らせたセネガルの表現)。その運動の中心になったのがヒップホップ・グループの「クルギ(家)」。これがすでに20年の経歴をもつセネガル流の「新・政治運動」。
 グローバル経済のアフリカ侵蝕が生み出した「表現しコミュニケートする政治」の担い手。秋も深まった頃、このグループを東京外大の研究仲間(真島一郎・中山智香子)が日本に招き、東京外大の学園祭でライブ+シンポジウムを行うとともに、福島・仙台、沖縄でワーク・ショップを開いた。この秋、チョー刺激的で熱かった企画を何らかの形でまた紹介したいと思っている。とりあえず、以下の「真島一郎研究室」ブログに満載の報告をどうぞ。http://ichiromajima.blogspot.jp/

パリに出現した「戦場」2015/11/15

 昨日(14日)の朝、パソコンを開けたからそこに第一報があった。パリの友人からのメッセージ、「私たちは前線にいる。パリ10、11区、サッカー・スタジアム襲撃、外出禁止、国境閉鎖…」と。すぐにリベラシオンとル・モンドのサイトを見て状況を知る。現地時間は真夜中過ぎ、犯人が立て籠もったバタクラン劇場周辺はまだ騒然としていた。

 最初の印象は「これは戦争だ!」というものだ(15年前、9・11に際してブッシュが「これは戦争だ」と言明したときには、「これは戦争ではない!」と反論したが、今回は違う)。パリは戦場になった。

 というのは、去年1月のシャルリ・エブド襲撃事件を契機にオランド大統領のフランスは「テロとの戦争」への関与を深め、シリアやイラク空爆のために原子力空母シャルル・ド・ゴールを地中海東海域に送った(そのときに、オランドは空母上からアピールを発し、これが低迷していた支持率の上昇につながったと言われる)。その空母を最近はペルシャ湾に送って空爆を強化していたのである。

 つまり、フランスは戦争をしているのだ。その攻撃対象はIS(イスラーム国)であり、だとしたらフランスは当然ながらイスラーム国の「敵」である。イスラーム国は戦闘機も爆撃機ももたないから別の闘い方をする。それは戦闘員を敵国に送り込む、あるいは敵国にいる潜在的予備軍を組織して活動させるということになる。それ以外に攻撃手段がないから。そしてそれが実行されたのが今回の事件だ。

 シャルリ・エブド襲撃事件はまだ、ISその他のイスラーム過激組織に影響された国内の過激分子による行動という趣があった。それは「表現の自由」に対する「テロ事件」ですませられただろう。だから「テロには屈しない」「自由を守ろう」「フランスは怖れない」の大衆行動が沸き起こる。

 だが、今回はそうはいかない。フランスは間違いなく「テロとの戦争」の当事国であり、いま戦争の渦中にあるのだ。「敵」に空襲の能力はない。その代り、密かにコマンドを敵国首都に送り込んで、金曜日の繁華街で空爆にかわる「カミカゼ(特攻)」を敢行する。そのコマンドはアメリカがイラクやシリアに送り込んでいる特殊部隊やCIA工作員と同じだ(現場からルポするフランスのジャーナリストが、自爆犯のことを「カミカゼ」と呼んでいたのが印象的だった)。

 だから今回は、「私たちは皆フランス人」と言って連帯を表明することはできない。たんなる「テロ」ではなく「これは戦争」だからだ。「テロとの戦争」とは攻撃する「敵」の存在や資格をあらかじめ認めず、「文明国」による「敵」の一方的殲滅を正当化する概念である。この言い方は、それ自体が戦争であることをごまかす概念でもある。だが、それが戦争だとしたら、「敵」からの反撃は当然ある。あたりまえのことだ。

 空爆だけでなく、ドローンやロボット兵器、遠隔操作の可能なあらゆる手段を使って「テロとの戦争」は遂行されている。最近アメリカでは、ドローンによる攻撃の9割近くは誤爆だと検証されたという。この無人機攻撃によって誰が殺戮されているのか? 空爆でどれだけの人間が住む場所を破壊されているのか? ヨーロッパに押し寄せる数百万の難民はみなそうして生きる場所を失った人びはである。もちろん米欧による空爆だけが生活世界の破壊の原因ではない。中東地域に広がる戦乱のあらゆる関与勢力がこの「災厄」を広げている。けれども自称「文明国」の空爆は、アフガニスタン空爆から考えれば、この「人の生きられない荒野」創出の第一原因だと言わざるをえない。

 それが「文明」の名のもとに行われている。「テロとの戦争」と言えば、国家のあらゆる破壊行為や殺戮行為が「正義」の行使として正当化されるが、それが「戦争」だというなら、当然「敵」との交戦がある。そしていまパり(だけでなく世界中いたるところ)が戦場になってしまった。

 アメリカのオバマは、いち早くこの攻撃が「たんにフランス国民だけでなく、人類全体に対する、普遍的価値を共有する人類に対する」攻撃だ、として支援を約束した。それは「文明対野蛮」という対立によって「テロとの戦争」の野蛮さを覆い隠すための必死の手当てだったと言っていいだろう。

 この出来事は、当然ながら「戦争ができる態勢」を整えつつある日本にもさまざまに影響を及ぼすだろう。今日はとりあえず、最初の印象だけを記しておきたい。

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 これを出発点に、「"テロとの戦争"という文明的倒錯」を書きました。『世界』2016年1月号。

「すばらしくてふるえる」SEALDs本2015/10/17

 先日、高橋源一郎×SEALDsの『民主主義ってなんだ?』が出た。だいぶ注目されたようだが、こんどはSEALDsによるシールズ本『SEALDs 民主主義ってこれだ!』が出た。これが真打、以前からグループが準備しているときいていた本だ。コンセプトからコンテンツ、編集、撮影、ブックデザイン、みんなSEALDsの仲間が作ったはず。

 これがすばらしく、かつおそるべき本になっている。戦慄!
 手にとる本のカバーは、夜の国会前のデモとコールの、少し劇画調(?)に焼き込んだ写真。そこに「SEALDs」「This is democracy looks like. 民主主義ってこれだ!」の白抜き文字。帯は白に一行赤く、あとはふつうの黒い文字。カバーをはずすと、下には表が白、背がピンクと、文字と色を入れ違えた、まったく明るいすっきりした冊子の表紙。
 そしてイントロダクションの、浸み込んでゆくような碧空の下、緑の土手を背景に、砂のプールの縁に立ち遊ぶ二人の若者のかげ、シールズ調満開の写真だ。

 戦慄!

 そう思うのはわたしが浅はかだからかもしれない。じっさいわたしも、夏の初めにメールの依頼を受けてこの本に一文を寄せた。それはイントロ口絵の写真を思いっきり真に受けたような「SEALDs讃江」といった文章だ。そのときは圧倒的にポジティヴな短文を書こうと思った。

 それも含めてわたしは浅はかだと認める。その浅はかさは、SEALDsの若者たちの、これで(これが)いいじゃん、という力まかせのノリに一見呼応している。だが、この明るさは、たぶん3・11で炙りだされた日本社会(だけではない)の泥溜まりのようなタールの夜を潜って出てきたものだ。かれらの真っすぐに突き出される声とことばの背後には、その楽し気な笑いの背の向こうには、どうしようもなく息苦しい泥溜まりの闇がある。それが表紙カバーの写真の周囲にも焼き込まれている。

 スポットライトを浴び、フラッシュを浴びて、こいつらここまでやるかと思わせるほど満身のコールを続けたあと、それでも戻ってきたタールの夜の底で、人気のない街路のゴミを拾い集める、その身振りの内に沈む名状しがたい感情がある。たしかに、この本のカラフルな中身は、二枚の真っ黒な内表紙に包まれているのだ(そこに、黒に白抜きの匿名のエッセイ)。

 纏いつく汚泥の闇のなかから身を起こしているのに、かれらはまるで真水のプールから出てきたように、プーッと息を吐いて顔を出す。水面を破って出るその思い切り、その「覚悟」の一瞬が戦慄させる。

 このコンパクトでファッショナブルな「本」(拡散する共同の工房から生まれた重層的なイメージと言葉の収蔵体――たぶんこれには本とは別の名前が必要だろう)にはそんな経験のすべてが凝縮されている。「本」のあり方も変える戦慄すべき本だ。

*SEALDs『民主主義ってこれだ!』(大月書店、10月20日発売)。どこから出ていようと関係ない。かたちもコンテンツも含め、こういう本を作れるのがSEALDsだ。

訂正とお詫び:「三菱鉛筆」について2015/09/18

 9月16日の午後9時過ぎ、国会正門前で安保法案に関連する短いスピーチを行いましたが、その際、安倍政権の下で軍需産業が推進されていることを念頭に、誤って「三菱鉛筆」を旧財閥の三菱グループの仲間と混同し、「ミツビシの製品は、エンピツ一本も買ってはいけない」といったことを述べてしまいました。
 しかし、ご指摘を受け確認したところ、三菱鉛筆株式会社の三菱とスリーダイヤの商標は、三菱財閥(現・三菱グループ)より10年早く1901年に登録されており、まったくの別会社です。
 軽率に両者を結びつけて、聴衆の方々に無用な誤解を与えたことと、なにより三菱鉛筆株式会社にご迷惑をおかけしたことを謹んでお詫びするしだいです。三菱鉛筆社の文具等は安心してお買い求めください。

[追記] なお、「不買運動を訴えた」とのご指摘もあるようですが、それは本旨ではありません。主旨は、産業の軍事進出には経済活動の健全化のためにもとくに警戒してゆく必要があるということです。誤解を生じたとしたら、不十分な表現をお詫びいたします。ご了解いただければ幸いです。

「手漕ぎの軍船」化2015/09/08

[FaceBook(9月8日)より転載]

今日もひどい事の山積み!

自民党総裁選はどうでもいいが、参議院厚生労働委員会で改悪派遣法の強行採決(明日本会議で採決)、これも公明党がいっしょだ!ファッショ小判ザメ政党!そして議事運営委員会では、地方公聴会を飛ばして15日中央公聴会の抜き打ち決議。政府はろくな答弁をしていないし(実質的には無以下)、肝心な「軍部独走」幕僚長の証人喚問もやっていない。そして16日、本会議(日本会議か?)でこれも強引な採決をするつもりだ。

今年の初め、日本はこのままでは安倍一党が乗り回すガレー船国家になる、と書いた(共同通信配信「論考2015」)。ガレー船とは奴隷を使った手漕ぎの軍船だ。文字どおりそうなりつつある。国憲を無視し、国民を奴隷にして自分たちがのさばろうとする悪党たちにこの国は乗っ取られようとしている!こんな「国難」はかってなかった。あらゆる人びとがスパルタカスにならなければならない!

――その「ガレー船化」の記事を転載しておこう。

◎戦争へ加速する年の初めに
 展望なき政権が迷走
 戦後70年の課題重く

 「戦後70年」の節目をわれわれは「戦後レジームからの脱却」をめざす政権の下で迎えることになった。「戦後レジーム」とは、敗戦によってできた「非戦」の体制のことだとすれば、それを「脱却する」とはとりもなおさず、戦争の準備をすることを意味する。その変化が加速されようとしている。そんな年の初めにあたって、まずは国の内外の状況を俯瞰しておきたい。

 ▽人より法人

 「経済成長」をうたう安倍晋三政権の政策は、大企業を支援し、株高で富裕層を潤わせるが、企業優遇は雇用や労働の条件を劣化させ、多くの人を恒常的な貧困へと追い落とす。そのしわ寄せは若者や女性に集まり、それが子どもの貧困に拍車をかける。衆院選が終わった途端、法人税減免と生活保護費の切り下げが打ち出された。保護されるのは人ではなく法人ばかりだ。

 福島の避難民の救済や汚染水処理を置き去りにした原発再稼働も、各方面から反対の根強い環太平洋連携協定(TPP)も「経済成長」のためといわれる。だが「経済成長」の追求が、社会を潤さず、むしろ人びとを貧困化するのは、いまでは随所に明らかだ。人件費を抑えて競争するグローバル市場の構造と「成長神話」は行き詰っている。この路線は、つまるところ社会全体に不公正や不寛容をまき散らし、人びとを分断して生きにくさせる。

 ▽時代錯誤

 安倍政権は「成長」をかざす一方で、もうひとつの国家改造を目指している。それは「戦争ができる国」を「取り戻す」ということ、軍事力を背景に国際秩序のアクターとなるということだ。だが、それにはいくつもの障害がある。ひとつは国内の抵抗、もうひとつは近隣諸国の反発、それに米国との関係だ。

 国内の抵抗に対しては、選挙や政治の争点をひたすら「経済」にすることではぐらかし、議論を排除する。近隣諸国の反発には無視で対抗しながら、その後ろ支えを日米安保と軍事化に求める。「戦争ができる国」は日米安保が前提で、米国の一部がそれを後押ししている。ただし、米国は「肩代わりに使える兵力」を求めているのであって、独自の日本軍を求めているのではない。そこに米国との食い違いがある。

 首相は就任以来、延べ50カ国以上を回り、援助の約束をばらまいて国連の安保理入りも画策する。それで米国の「強力なパートナー」になろうというのだろう。日米同盟で世界を仕切る? それが夢かもしれないが、いかにも時代錯誤の夢想というしかない。

 ▽手こぎの軍船

 いま、世界の経済と軍事の状況はどうなっているのだろう?
 リーマン・ショックとその後の金融恐慌を経て、資本主義システムの破綻がさまざまに語られている。資源や環境の問題もあり、とくに地球温暖化への対処は急務になっている。「成長」が繁栄をもたらし、人びとを豊かにするという古典的な見方はもはや成り立たず、根本的な考え方の変更が求められているのだ。

 他方、輪郭も制約もない「テロとの戦争」の動向は、軍事力が世界秩序安定の解決にはならないことを示している。

 石油利権を背景に「解放と民主化」を掲げた米国の戦争は、とうとうイラクとシリアに「イスラム国」を生み出すことになった。一方的な空爆や無人機攻撃はウイルスのように「敵」を変異させる。いまでは米国でさえ戦争に「勝つ」ことはできない。日本が手伝っても、世界の混迷を深めるだけだろう。

 安倍政権のめざす二つの方向は、いずれにしても展望がない。それでも「この道しかない」というなら、日本は徒刑囚を使役するガレー船(手こぎの軍船)のような国家となって、秩序の見えない世界をダッチロールし、やがて難破するのがおちだろう。船をこぐのは広範な貧困層、運営主は富裕層だ。そしてその仕組みが内部で露見しないように、すでに特定秘密保護法も用意されている。

 難破を、いやその前にガレー船化をくいとめるため、われわれは何ができるのか。重い課題が山積している。

近況、8月30日2015/08/31

日々雑事に忙殺され、まとまったことが書けないので、ときどき紙つぶてのようにFace Bookに投稿しています(https://www.facebook.com/onishitani)。昨日、今日の「紙つぶて」をこちらに加筆転載。
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[8月30日、国会包囲行動とメディア]
 もう東京新聞しかない。東京で新聞とっている人、東京新聞でないとだめですよ!
 毎日や朝日ではこれでトップ記事ではない(1面の左で国会前の人の海を写真入りで取り上げてはいるが、これでは「桜の開花情報」みたい)。東京は2、3面で会場が霞が関一帯に広がっていたことも地図入りで報じている。毎日・朝日は相変わらず「ディズニーランドにこんなに人が…」みたいな扱い。地方のデモのことも多少は報じているが、社会面、つまり三面記事だ。たぶん朝日の紙面づくりは政治意識の大衆的広がりについてゆけないのだろう。その結果、構えがNHKとそんなに変わらない姿勢になる。それでも、いまのNHKと較べるのは公正を欠くが。
 だが、なぜこの歴史的な事件がトップじゃないんだ!現役首相がこれほどの大群衆に「アベ辞めろ!」のコールを受ける。国会前だけじゃない。霞が関エリアの人もすごかった(その意味では、評判のよい毎日の国会前写真も、起きていたことの実態を狭める。せっかくヘリを飛ばしたのなら、霞が関一帯も伝えないと)。東京新聞は全国の様子も含めて5面を割いている。なんか、百田や自民議員が「潰したい」という沖タイ・新報に似てきたね。ついでに日経では、アメリカに〇つけてもらった「談話」で内閣支持率40パー代に「回復」だと!
 東京新聞以外、メディアは意図的にか不作為でか、そろって昨日の出来事の衝撃を受け流そうとしている(トップ扱いじゃない!というのがすでに報道機関としてのメッセージだ!)。それが自公を安心させ、強行採決を促すことになる。中野晃一が26日の大記者会見で、「この民主主義の危機に、全法曹、全学者・大学が立ち上がった。全報道はどこにいるんですか?」と報道陣に向かって問いかけた。そこに来ていた記者たちの責任ではないだろうが(かれらに紙面・番組づくりの権限があるわけではない)、今日の紙面を見るに残念なことである。
 問題はネット上でどれだけ情報が拡散・交換されるかではなく、その「炎上」が世間(社会)に広がって空気を変えること。12万人(霞が関を含めれば確実にもっといた!)の「呪」(悪い意味じゃないですよ、「祝」と通じてるんだから)が日本社会の風や空の気配を変えること。

[「呪」について]
かつて昭和の公害時代に「公害企業主呪殺祈祷僧団」というのがあったが、それが40年ぶりに「再稼働・安保法案への反対を掲げて再結成され(JKS47)、8月27日に経産省前で「祈祷」を行った。
折から29日、立教大・上智大有志の呼びかけで、キリスト教系大学の反安保法制の集いが神谷町聖アンデレ教会で行なわれた。司会は立教の香山リカさん。その香山さんがふれた上記「祈祷」の一件を受けて、わたしはその場で以下の主旨のコメントをさせてもらった。これもFBから転載。

 「呪」とは元は福利をもたらしたり災難を祓ったりする力をそなえた言葉。「呪殺」とはそれによって、災いをもたらす「悪(煩悩)」を払い去ること(俗にいう「五寸釘で呪い殺す」とは大ちがい)。
 宮城谷昌光の『太公望』三巻に、望の先導する周と召の軍が、商(殷)の大軍と決戦におよぶ場面がある。そのとき、祭政一致の商の軍勢の最前には隈取りをした無数の巫女が居並び、祈祷を行ったという。これが仏教にはるかに先立つ「呪殺」の原型だ。巫女たちは敵兵に呪いをかけるわけではなく、「呪(祈り・願い)」によって、天や風や大地の利を引き寄せ、その加護で戦に有利な状況を開こうとする。
 国会の議席数で採決の結果はあらかじめ見えている。政権与党にとって審議はどれほど追いつめられても、はぐらかし、恥知らずな答弁でともかくやり過ごして時間を使えばよいという手続かもしれない。しかし、決着はこのプロセスたけで着くわけではない。
 日々、いたるところで声を上げる人びとの集いが全国に広がっている。その声が大きくなり、響き渡り、天や風ならぬ社会の空気を変えてゆく。そういう事態が急速に広がっている。それが採決さえ強行できない状況を作り出すかもしれない。
 今日は10万といわず20万、30万、そして全国では100万を超える声があがる。これこそが、戦いの帰趨を決める現代の「呪殺」でなくてなんだろうか。
 デモとは現代における巫覡ないしは巫祝の言挙げなのではないか。その集いと声の力が、たんなる議席の数による決定を超える。