インタヴュー「翻訳・戦争・人類学」2018/04/29

『境界を超えて』No.18_2018.03
 立教大学文学部の大学院(文学研究科)比較文明学専攻の特任となって4年がすぎ、今年が最後の年になりました。大学院の比較文明学専攻に対応する学部の専修コースは「文芸・思想」です。
 立教大学文学部は、キリスト教学科、英米文学専修、フランス文学専修、ドイツ文学専修、日本文学専修、文芸・思想専修、史学科、教育学科からなっています。
 ここ20年来にわたる日本の大学教育における人文系(とくに文学部)の縮小・廃統合の流れの中で、もともと人文系を軸としてきた立教大学も、工夫を重ねてさまざまな新学部を展開してきたようですが、文学部本体はそれなりに骨格を残しています。
 ただし、わたしが籍を置く「文芸・思想―比較文明学」というところは、2002年に発足したところで、一見すると何をめざすところかよくわからない感もあります。わたしも当初は、20世紀フランス思想をベースにして思想史全般、あるいは文明論のようなことをやってきたのだからいいのだろう、といったつもりでいました。
 ところで、ここの文学部には哲学科がありません。その代わりにあるのが「文芸・思想専修」なのです。哲学とはもともと、西洋で思考の仕方や作法を鍛え上げる営みでした。それが長い時間と蓄積を経て、今ではその蓄積の中身を研究する専門職になっています。それはそれで重要なのですが、そんな特殊専門研究が多くの人に必要なわけではありません。それに、いま大学で勉強しようとする若い人たちに求められ、かつ期待に応えられるのは、むしろ哲学の本旨である思考の仕方や作法を鍛え上げることの方でしょう。
 考えることの足腰を鍛えるためには、まず言葉を磨かなければなりません。最近ではそんなことも要求されなくなっていますが、自分でやってみればわかるように、ものを考え、それを表現するには、まず言葉が足場です。と同時にまた、語るべきことがなかったら言葉は空虚です(ペラペラの英会話?)。だから、対象や領域は広くとって、言葉で考える・表現することのモチーフに形を与え、そのための足腰を鍛える、それがこの「文芸・思想専修」で目ざされていることのようです(私が決めたのではなく、どうもそのようだ、ということです)。
 だから、いろいろなテーマをもつ学生がいます。真正面から哲学に入ってゆく学生もいれば、物書きを目指す学生もおり、映画などの批評をやりたい学生、あるいは都市について、健康について、労働や社会について考えたい学生、さまざまです。そこに小説家や批評家として活躍する教師がおり(専任教員の他に特任も)、哲学研究や文学研究に長けた教師がおり、学生のテーマに合わせて、またそのテーマやモチーフが形をとるのをサポートし、ものを考え・それを表現するためのいわば「体幹訓練」を行っているのがこのコースです。
 こんなことを書くのは、人文学の危機が言われる時代に、実は大学教育を根幹で支えているのはこういう学部なのではないかと思いながら、それを言う機会がなかなかないからです。実用科学はべつに大学でなくてもいいわけですが、日本ではこの四半世紀、経済界の意を受けた文科省の指導の下、大学は実用科学技術専門学校へと変質させられています。大学の質の低下とか、学生の思考能力の低下とかいう問題は、文科省のこうした方針が引き起こしているわけです。じつは若い人たちにはおのずから、考えたい・表現したいという欲求があります。それを補助して考えることの足腰を鍛える、これこそが現代の人文教育の根本でしょう。文芸・思想専修ではそれをやっています。
  わたしが自分の教歴をこういうところで終えるという得がたいチャンスを与えてくれたのは、この専修にいた旧知の若い(私に較べて)文学研究の同僚たちでした。そして最終年度を前に、今度は新しい専任教員の福嶋亮大(文芸批評家)さんと、こちらは旧知の小野正嗣(小説家)さんが、専修の紀要『境界を越えて』の特集としてインタヴューを企画し、編集の労をとってくれました。それが4月に刊行された18号の巻頭インタヴュー「西谷修『翻訳・戦争・人類学』」として掲載されました。
 全50ページの堂々たる?インタヴューになっています。じつはこれは圧縮したもので、今回「完全版」が福嶋さんや編集の深澤さんのご尽力で「文芸・思想専修」のウェブサイトに3部に分けて掲載されました。電子書籍版としてダウンロードもできるようです。
 最近人前では、立憲デモクラシーの会とか、学者の会とかの関連で話をすることが多いのですが(このブログに書くことも)、そういう場所ではほとんど触れる機会のない、わたしの本来の仕事のエッセンスの紹介にもなっています。もちろん、この他にもとりわけ、現代の死のこと、共同性のこと、宗教のこと、技術のこと、世界史のこと、それを踏まえた世界性と現在の世界のことなど、語るべきことは多くあります。わたしがもう30年以上職業的にやってきたのはこの種のことです。
 今回はお二人のご関心に応じた質問に答えて、このような内容になりました。まだまだ語りたいことは多くありますが、まずはこれを読みいただけたら幸いです。
 http://bungei-shiso.com/
 〈前編〉http://bungei-shiso.com/archives/801
 〈中編〉http://bungei-shiso.com/archives/813
 〈後編〉http://bungei-shiso.com/archives/819

*『境界を越えて』は立教比較文明学会が編集発行する紀要です。

小森陽一編著『「ポスト真実」の世界をどう生きるか』2018/04/15

 小森陽一編著『「ポスト真実」の世界をどう生きるか』(新日本出版社)が出ました。これは小森さんが4人のそれぞれ違う分野の論者を相手に、「ポスト・トゥルース」がキーワードとなるような社会の情況のなかで何が問題になるのかを多角的に照らし出そうとしたものです――香山リカ(差別とヘイト)、日比嘉高(ネット社会)、浜矩子(フェイク経済)と西谷。

 フェイク(ウソやでっち上げや隠蔽)がまかりとおるばかりか、それが政治や社会運営の強力な手段となるのはなぜなのか、それで実際には何が行なわれるのか、あるいは、なぜ「ウソ」は通用力をもつのか、受け入れられるのか、むしろ求められるのか、その「ウソ」に対して知るべき真実とはどこにあるのか、何がごまかされるのか、それに対して真実は足場となるのか、それはどうして価値なのか、どうしたらこの「ウソの壁」を突き破れるのか、等々。

 昨日(4月14日)は、森友・加計問題の真相解明と安倍内閣の退陣を求めて、国会前に数万人が集まり、デモンストレーションを行いました。関西でも二千人のデモがあったと伝えられます。その背後にある憲法改正(安倍改憲)や自衛隊の問題も、「フェイク」の上に組みあげられていることが、最近また露呈されてきました(政府・防衛省が何を隠し、ウソの論議をやらせているか…)。

 実はこの「フェイク」は、それを通用させるために「ヘイト(憎悪・蔑視)」を必要としています。安倍首相はそれでも選挙戦で公然の場だから少していねいに「あんな人たち」と言って指差しました。つまり権力者がこうして差別の線を引き、それへの「ヘイト」を煽る。その上に「フェイク」はまかり通ります。いや、それは一体のものだと言ってもいいでしょう。日本でのその典型は「在日特権」というものです。その主唱者はいまではトランプにならって「日本第一党」(日本ファースト党)を名乗っています。そのような「ヘイト」が「美しい国」というまったくの「フェイク」を必要とし支えるわけです。

 この日本の「フェイク」政治風潮は、アメリカやヨーロッパの風潮と呼応しています。ひとことで言えばグローバル化した世界の政治・経済・社会・人びとの意識を巻き込んだ、全般的な流れのなかにもあります。つまり世界史的な流れの中で、アメリカにはアメリカの、日本には日本の、固有の条件を帯びて現れてきているのです。

 このことを知っておくのは無駄ではないと思います。知ること自体は直接的には無力かもしれませんが、力の源ではあります。いまはまさに、「真相」を知ることと「フェイク」ですますこととが、まさにぶつかり合う時代になっているのですから、なおのことでしょう。

 ということで、小森さんのこの企画にわたしも積極的に参加しました。香山さん、日比さん、浜さんの対談とあわせてぜひお読みいただければと思っています。わたしとの対談の内容見出しを紹介しておきます。

第4章 歴史の書き換えはいかにして起こるか
 1 IT社会は真実をどう書き換えるか
  ポスト・トゥルース言説と排外主義
  心能コントロールの系譜
  IT化で生じる「真実性の代わり」
  信実はなぜ価値と言えるのか
  歴史を書き換えたい人々との関係
 2 近代の歩みの中から見えるポスト・トゥルース問題
  アメリカ社会の歴史
  差別とのたたかいと歴史修正主義
  ポスト・トゥルースに溺れた者の没落
  靖国をめぐるフェイクと神社の真実
第5章 言葉の危機をどうのりこえるか(小森)

佐川喚問の後、ほとぼりが…?もうやめてくれ!2018/04/02

 佐川喚問の後、ほとぼりを冷ましながら「外交で支持率回復」?といった声も聞こえる。ほんとうか?(FBに挙げたものをこちらにも掲載)

 ほんとに酷い話ばかりで呆れるしかない。
 「ウソアベアソウ」という回文もあるとか。こういう下劣な人間が集まって権力をとり(もちろんそれを担ぐ連中がいる)、働く者や弱者を絞り上げる一方で、後先考えずに札束刷って財界を儲けさせ、それを批判する勢力はネトウヨを使って嫌がらせ、挙句に選挙で腐れウヨクの議員を増やし、権力行使でカルト発言、マスコミ攪乱、あちこち恫喝でゲスな圧力。目ざすは改憲または緊急事態だ。これさえあれば合法独裁できるから。

 しかしその内実は、たんに「オレたちが殿さま」の情実政治。一時代早かったのでポスト真実(ウソ・デマ社会)に間に合わず、主流になれなかった石原ジジイも、森友なんかよりもっと大事な国事が…と言うが、戦争をしてはいけない時代に戦争準備態勢とは、たんに権力集中を正当化してやりたい放題できる状態を作ること、つまり森友加計で露見したことがその実態だ。

 権力強化は、戦争するよりむしろこっちが狙い目。官僚に文書は破棄させ、メディアには寿司を食わせて、司直にも手回し、これが「強い政権」のカラクリだ。要するに政治の私物化・国事の私物化、その口実が「お国のため」。「国民のための政治」なんて言わせてはおけない、国民は国に奉仕すべき、そう言って国家(権力)は自分たちのものにすればいい、と思い込んでいるのが現代のウヨクだ。

 中国・北朝鮮の分断敵視もそのため。グローバル化以来世界の状況は大きく変わっている。もう米ロの時代ではない。にもかかわらず、単純な「強いニッポン」幻想に閉じこもり、あわよくば国をガレー船状態(奴隷国民が漕ぐ軍船)にして乗り回そうとする。

 だがその実態は、「アメリカ様」(宮武外骨)への貢ぎ・抱きつきの国売りだ。アメリカの庇護の下でないと自分らの権力は維持できない。戦後のウヨクはみなアメリカの岡っ引き。だから被爆国なのに、倒錯的に核戦略までしっかりやってくれとおねだりする。

 そうこうするうちに、日本はもはや世界の三等国に成り下がってしまったのが実情だ。もはや国民は豊かでもなく、自由でもなく、国際的にはまったく信頼・信用もない。国内は社会分断・教育破壊で技術も産業も未来も真っ暗、それでもいまの政権は、オリンピックまでもたせればいいと思っている。それがアベアソウ政権6年(それ以上?)の実態ではないか。「もうやめてくれ」が民の切実な声、いや悲鳴。

今日のスピーチ「日本政治のグロテスク!」2018/03/28

 昨日(3月27日)、佐川元国税庁長官の証人喚問があり、文書改竄に官邸は関係ない、あとは刑事訴追の恐れありと証言拒否。要するに刑事訴追されるようなことを官邸のためにした、と言っているようなものだ。

○首相夫人には、責任はあっても責任能力が…

 これではますます疑惑が深まったから安倍昭恵総理夫人の喚問が必要だ、といった声がある。しかし、迫田元理財局長や谷査恵子元夫人秘書官なら話は別だが、総理夫人の喚問はまったく無駄だとしか思えない。というのは、この人は「私には首相夫人という立場がある。何かやろうとする時は利用していいよ」と言いまわるような人(週刊文春)。それが悪いことだとはまったく思っていない。「森友」が何でこんなことになってしまったのか、ほんとに分からないのかもしれない。「私に神通力がついただけなのに」とか言いそうだ。

 だから何を追及されても、「私の方が分かりません、しっかりカイメイしてください…」なんて答えるだけだろう(佐川のように法理を計算したりしない)。さすがに喚問する議員たちも苛立って、あげくに脱力し、「これじゃ、喚問にならないじゃないか!」(昨日の小池議員のように)と匙を投げるに違いない。するとアキエ夫人はひとこと、「私…祈ります…」(籠池夫人への最後のメッセージ)。法的論理どころか、合理的な論議など通じない人のようだから、喚問はまったく無意味だろう。

○ウソとゴマカシで国を引きずる政権

 真相解明のために喚問はやるべきだろうが(特に、今井、谷ら実際に動いた補佐官たち)、それは首相や関係者が辞めた後の話だろう。そもそも財務省が決算文書の改竄を認めた時点で、この政権は政治的には決定的にアウトなのではないか。去年の三月段階での国会質疑は、森友学園への土地払下げ案件が「特例」であることの事情を記した決裁文書がありながら、当時の財務省の佐川理財局長は、それを隠して首相答弁に合わせて虚偽を繰り返し、その答弁と齟齬をきたさないよう四月初めまでに決裁文書を改竄したということなのだから。喚問はその確認のためにすぎない。
 
 財務省がなぜかそんなことをしたのかと言えば、安倍首相が森友案件に「いっさい関係していない」と大見えを切ったからだ。「お仕えする人」(太田理財局長)にどこまでも尽すという官僚精神(役人根性とも言う)を発揮したため、というのは誰にでもわかる事情だ。フェイクどころか、ウソとゴマカシと下への圧力だけが今の政権を支えている。それが分からないのは、たんなる理解能力の欠如である。

 公文書改竄は財務省自身が認めたのだからもう明らかだ。そしてその事情も透けて見える。にもかかわらず、財務省のトップ(麻生財務相)が責任もとらないし、現場のトップだった佐川は、喚問でも「自分は勉強しただけ」、と暗に部下に責任を押しつける始末だ。

○日本政治のグロテスク

 その佐川証人喚問前の自民党役員会で、当の安倍首相が「しっかりと全容を解明し、うみを出し切ることが重要だ」とシャーシャーと述べている。「行政の長として、…国民の信頼を揺るがす事態となっていることの責任を痛感している。真摯(しんし)な反省のうえに、二度とこうしたことが起こらないように組織を根本から立て直し、総理大臣として責任を必ず果たす」とも言った。

 もちろん、「うみはおまえだろうが!」という罵声の一つも飛んでいいところだが、、並み居る党の要人はムッツリ聞き入るばかり。これが政権与党だ。「真摯な反省」と言い、「総理としての責任を果たす」と言うのなら、その場で内閣総辞職しかないだろう。ふつうの組織なら必ずそうなる。

 ウソの隠蔽の上に国会を引きずり、会期が切れると、憲法上の請求も無視して国会を開かず、日本など標的にしていない北朝鮮ミサイルで騒ぎ立てて「国難」と言いつのり、解散総選挙までして事態をチャラにしようとした。これは首相の国務に対する背任であり、虚偽と隠蔽逃れの職権乱用以外の何ものでもない(解散権自体も問題視されている)。
 
 その首相がこの後に及んで居座り、「うみを出し切る、職責を果たす」とのたまわる。この状況を何と言ったらいいのか? グロテスク!というしかない。政治用語は、こんなひどい事態を想定していないから、他に言いようがない。政治はいまやグロテスクな茶番と化してしまったが、それを誰も糺せない。それがこの国の政治の現状である。
 
○外交孤立と置いてきぼり

 だから、世界では誰もアベなど相手にしない。アベが「国難」と言い、解散総選挙の口実にした「北朝鮮危機」も、東アジアには迷惑以外の何ものでもないアベ日本抜きで急展開している。その足元をみて、アベの頼みのトランプが日本締め上げのユスリにかかっている(鉄鋼他の輸入制裁でFTP強要)。アベは「得意の外交」に逃げようとしているようだが、それも妄想だ。このままアベが外交をやっていたら、置いてきぼりの日本はアメリカにいいように食いつくされることになる。

 何の取引か、今日この政権の来年度予算案が通されてしまったようだが、国会で今すべきは、山本太郎議員が行ったような質疑だけである。彼は冒頭、「総理、いつ辞めていただけるんですか?」と質問した。国会ですべき質問はもうこれしかない。全議員(野党議員)がこれに習うべきだろう。「総理、いつ責任を取るのですか?」と。
 
○「災害」政治と国の「根腐れ」

 将棋なら、もう詰んでいるのに、かってにルールを無視して(アベは行政府の長はそれができると思っている)、ゲームを続ける。それどころか、崖が崩れると、その追及から逃げようとして、違うところにもっと大きながけ崩れを仕掛ける。森友逃れに共謀罪を上程し、加計が加わっていっそう危なくなると、横から九条改憲論議、それが安倍政治のやり口である。
 
 いわゆる「改憲」話も、何でもいいから戦後憲法に手を付けるというこの政権の宿願で、初めは搦手九六条からだったが、「緊急事態」もうまくゆかず、自分の起こした雪崩にかまけて、とうとう都合よく「九条加憲」にたどり着いたということだ。もはや、どんな論議ももう不要、語るに落ちるとはこのことだ。前代未聞とよく言われるが、、まともな国の政府の体をなしていない。これが今の日本政治の「根腐れ」の実態なのである。

 こういう政権は、こんな政治のやり方ともども、地下四メートルだか九メートルだかの森友用地のありもしないゴミの代わりに、地中深く処分してしまおうではないか(ついでに原発も核廃棄物も)。

 もう三年以上、こうして毎日国会前、官邸前、議員会館前で大ぜいの人たちが抗議の声を上げているのに、何の効果もない? では、どうやって、この政権を処分できるのか?…そこから先は「刑事訴追を受ける恐れがありますので、答弁を控えさせていただきます」。

森友疑惑終盤にみる現代日本政治の病理2018/03/23

 財務省が国会に提出した決裁文書が改竄されていた。これは何を意味するのか?税で運営される国家で、その出納を扱う役所が公的文書を書き換える。これ自体で国家的犯罪である。官庁の役人(公僕)が国務を果たさないどころか、国務を損なう。これでは国が成り立たない。

 ただし、役人自体にはそうするメリットがない。みずからの存在理由に反するからだ。だから役人は、自分がその一部として働く政府、それを現在統括している政権からの指示がなければそんなことはしない。現在の国家機構の中では、政権(内閣)が役人の上司に当たるからだ。直接には財務大臣、最終的には総理大臣である。

 かりに直接指示がなかったとしたら、実務担当として国会での答弁作成や説明を要求される役人は、政権の表明・答弁を支える対応をしなければならない。そう、いまの役人たちは考えているようだ(太田理財局長は答弁で「お仕えする方々…」と言った。本来なら、役人が「仕える」のは国であり国民であるはずだ。だが、内閣人事局が官僚人事を仕切り、政権を守る答弁に徹した官僚が「適材適所」とされて出世するという現状では、官僚は政権に「お仕えする」という意識になるのだろう)。だから、「有能な官僚」であるためには、政権の意向を汲んで先回りしてでも対応しなければならない(「部下」の「自発的隷従」ということだ)。そうしたら、役人にあるまじきことまでしてしまった、ということだ。そうさせるのが安倍政権だ。

 「ソンタク」どころの話ではない。意向通りにやれという暗黙の強制力がついてくる。だが、最初の決裁文書(改竄前)に、「森友学園への国有地特例払下げ」の事情について事細かな記述があるのは、財務省の役人たちがこの「特例」扱いに関して、自分たちでも申し開きができる事情を記録しておく必要があると考えた(自分たちの意志でやったのではない)からだろう。「特例扱い」の事情を示しておく必要がある。そのために、省内では詳しい文書が決済されたのだ。

 しかしそれは、政権側としては国会に出されては困るものだった(記録された事実は明るみに出されては困るし、それ以上に「…関係していたら議員も辞める」という首相答弁が跳ね返ってきてしまう)。だから「書き換え」が命じられる。実際には、官僚経験者の前川喜平氏が言うように、政権と官庁の役人のつなぎ役(経産省からの今井尚也首相補佐官)が財務省担当者に指示したと見るのが順当だろう。

 そして「書き換え」は財務省、それも担当部署の理財局が独断で行ったこととされ、その責任が一年前のこの案件の発覚時の国会対応で「論功行賞」を受けた佐川国税庁長官(確定申告期間中に辞任)に押しつけられ、「佐川事件」とまで決めつけて(そう言ったのは西田議員だが、当の麻生財務相も「サガワ、サガワ」と呼び捨てにしていた)官邸から切り捨てられることになった。稚拙さ丸出しだが、この内閣はそれで通せると思っているようだ。

 佐川局長(当時)がその「有能さ」を官邸に示すために、省内でどのような暴圧を振るったのかは知らないが、財務省はこの間少なくとも2人の自殺者まで出している。死人に口なしと言うが、死ぬこと自体は雄弁である。下で働く者が生きていられないほどの圧迫を受けていたということだ(この問題ではすでにごみ処理業者が自殺している)。

 この件に関しては財務省だけでなく国交省も片棒をかついでいるようだが、財務省は決裁文書(国の行政記録となる公文書)の改竄まで行った。これは前代未聞と言われるように、国家行政の根幹を崩す不法行為である。いかなる政権もそれはやらなかった。財務省がそれだけの不祥事を起こしても、財務大臣が辞表も出さない。これがまた国家行政の責任体制を腐らせている。と同時に、この政権が官僚たちを飼い犬のようにしか扱っていないということも表している。。財務省の統括責任者なのに、権限だけ振るって自分のせいではないと居直るのだから。

 「総理夫人」がものを言ったということ、近畿財務局では「安倍事案」として扱われていたこと、等々が明るみに出ても、直接の指示を出していないから「関係していない」で通せると思う首相、それがまだ30%もの支持を得て、国の最高指導者・責任者を辞めずにいられるということ、これがこの国のもっとも深刻な病理である。

 まずは与党の自民・公明の問題であり、それが国会で3分の2を占めるという怪奇である。そしてこの期に及んで公明党が安倍政権を支え続けているということである。

 かつては田中角栄が、森友学園80億、加計学園300億と較べれば「わずか3億」の賄賂で政権を追われ訴追された。隣国韓国では元大統領の汚職も追及されている。日本で検察や司法はどうなっているのか。もちろん警察も含めて、この政権は人事を握って官僚と同じように「犬に餌を与えて」いる。つまり権力になびく者を重用し機構全体をなびかせている。こういう権力政治を何と言ったらよいのだろうか。

 たしかに、窮地に立ちはした政権は、不意に放送法改正を言い出した(3月22日)。「自由化」するのだと。テレビもネットと同列に扱い競争させると。これが曲者である。ふつうの法律のように扱えるが、それが「ポスト真実」の仕掛けなのだ。でっちあげもデマも中傷も、まともな情報と同じ池に入れて掻きまわす、というのだ。

 経済でも「良貨は悪貨を駆逐する」というが、情報の市場でもそうである。ドブ池を作って流し込んでやれば真水も濁る。色と甘み(金や餌)を薄くつけておけば大方はなびくというわけだ。だが、そこで掻きまわされるのは「公共性」と「私利・私欲・私怨」であり、パブリックとプライベートの区別だ。もちろんすべてを「私」のレヴェルに落とし込む。ただし自分(たち)は公権力をもち、その「私」の汚濁の中で圧倒的な力を振るう。それを「社会の鏡」たるメディア環境で実現しようとする。

 その最終目的が憲法なのは(現実にそれが安倍政権にとって必須と思われていようといまいと――実質的に憲法は骨抜きにされているし、何の歯止めにもなっておらず、蹂躙され続けている)、それでも現憲法がそのような社会や政治を斥けることを原理としており、それを崩すことで、いまの自分たちの権力のあり方を妨げるものがなくなるからだ。

 このような政治のあり方の下では、どんな改憲論議も泥土流の決壊に手を貸し、汚泥の濁流に飛び込むことにしかならない。いま求められるのは、森友・加計疑惑の徹底究明と、それによる安倍的政権の本質暴露、そしてその跋扈を許した日本社会の病理の究明であり、このような政治が継続したり再登場したりする盲点に手当てすることである。グローバル化とIT情報化による社会の変容のなかで、「まともな国」への望みを取り戻すために。

2月4日沖縄・名護市長選の結果を受けて2018/02/05

名護市長選の結果が出た。二期務めた現職で辺野古基地反対の稲嶺進氏が、自民・公明・維新推薦の渡久地武豊氏に敗れた(16900対20400)。同時に行われた市議補選でも、オール沖縄で臨んだ安次冨浩氏がほぼ同差で落選した。

渡久地氏は、稲嶺市長のもとで地域振興が進まなかったことを批判、「変化」を訴えたとされる。ただし、辺野古新基地に関する姿勢は明らかにせず、行政訴訟に委ねるとして公開討論も避け続けた。

だがこの市長選挙が注目されたのは、そして安倍政権が全力を挙げて介入したのは、辺野古基地建設の障害を除くためだった。それは誰の目にも明らかなはず。そして追い落としたい稲嶺市長は基地反対でまとまる「オール沖縄」の候補、翁長県知事の盟友だ。

だから、争点は言わずもがな辺野古基地だが、自民・公明候補はそれを隠して地域振興だけを売りにした。稲嶺市長の下では名護の生活や経済はよくならなかったが、それは稲嶺市長が基地ばかりにこだわるからと。

ただ、選挙民も本当の課題が基地建設反対か推進かであるのは百も承知のはずだ。政府があからさまに、国の方針に協力しない自治体には交付金を出さないとか、受け容れ自治体にだけ報奨金のような資金を投入するということを、すでに実際にやっているし(名護市にではなく、頭越しに辺野古地区に資金交付している)、選挙中も政府与党関係者がそれをあからさまに言う。

その意味では、地域振興を訴えることは、じつは「争点隠し」にはなっていない。地域振興を進めるということが、交付金を引っ張ってくる、政府・政権の方針に協力し、見返りを得るということに他ならないからだ。けれども、この面だけを強調して、あたかもそれが市民生活のための行政だとして表に出す。だがその裏には、永続基地を抱えることになるという問題が隠される。

たしかに、目先のことだけ考えれば、基地を受け入れれば地域振興のための支援金は入る。施設は作れるし土建業周辺のセクターは仕事に潤う。しかし、基地依存では長期の安定的な地域づくりも豊かさも得られない。それは基地依存時代の沖縄全体が思い知ってきたことだだ(その経験が産業界も含めた「オール沖縄」のベースにもなっている)。

この選挙の光景は、原発立地地域でもよく見られたものだ。政府は交付金で原発(基地)を受け入れさせるが、原発(基地)依存では地域経済は自立の道を絶たれ、永久に依存するしかなくなるのだ。有名な高木元敦賀市長の言葉が思い起こされる。「30年後、50年後のことは知りませんよ、しかし今はやっておいた方が得ですよ、どんどんお金が落ちてきますから…」。

それでも、今回、名護は自民・公明系の候補を当選させた。政府の締付けを受ける稲嶺市政よりも、基地のことなど脇において地域振興を約束する新しい市長を選んだということだ (とはいえ、当確を告げられた渡久地氏は、喜びに湧く周囲をよそに、しばし緊張の面持ちを崩さなかったのはなぜだろうか)。とくに10代20代で渡久地支持が多かったという。渡久地氏の娘が高校の自治会役員で、18才に訴えたということもあったかもしれないが、いまは若者が一般に先の見透しを抱けず、目の前の現実だけが課題になるという、沖縄だけでない一般的状況が影を落としてもいるだろう。

政権は、これで辺野古基地工事が支持を得たというだろう。地元は歓迎していると。そしていわゆるネトウヨは、やっぱり基地反対派は本土から日当もらってやってきた反日派だと、さらなるデマを流すだろう。産経新聞も、それ見たことかと、沖縄二紙(琉球新報・沖縄タイムズ)の「偏向」をあげつらう。

有権者数5万の市長選、これだけテコ入れすれば負けはない、と政権は自信をもつだろう。動員含めた期日前投票も40パーセント超。選挙近くに米軍ヘリがばんばん落ちても、名護に落ちたわけじゃない(それに去年は「着水」だ)。反対運動は本土警察で弾圧し、お国は動かんぞという問答無用の姿勢を示して諦めさせたら、政権に身を売る口実を少し与えて、最後に選挙アイドル進次郎の投入、あとは「結局お金でしょ」と言えることになる。

辺野古漁港の座り込みはすでに5000日、キャンプ・シュワッブ前での座り込みももう1200日を超える。しかしこれが何の成果も生まないと、一方で「不撓不屈」と自賛しても、他所からは空しくも見える。翁長県政にしてもそうだ。何が起こっても政府は相手にせず、知事の怒りの表明もどこ吹く風、抗議の上京にも応えない。この理不尽な態度が、沖縄の怒りや抗議を空しくさせる。今度の選挙には、その傾きの一端が現れたと見ることもできる。

その意味では「オール沖縄」の翁長県政も「実績」を示してえていない。この構造を突き破る工夫が求められる。それがなければ、秋の県知事選は厳しい試練になるだろう。

「ポスト真実」が言われる時代、沖縄の「正義」や「大義」は「フェイク」というデマや中傷で中和され、その中で時の政権は、あからさまな力と金(交付金だけではなく、金は人も手段も動かせる)でその意図を押し通すことを恥じない。それは「義」を貫こうとする側にとってなかなかに厄介な状況だと言わざるをえない。沖縄でもっとも露骨に表れているとはいえ、これは現在の日本全体の重い課題でもある。


[追伸]「沖縄タイムズ」05日社説から

・「もう止められない」との諦めムードをつくり、米軍普天間飛行場の辺野古移設問題を争点から外し…

・勝利の最大の理由は、一にも二にも自民、公明、維新3党が協力体制を築き上げ、徹底した組織選挙を展開したことにある。

・菅義偉官房長官が名護を訪れ名護東道路の工事加速化を表明するなど、政府・与党幹部が入れ代わり立ち代わり応援に入り振興策をアピール。この選挙手法は「県政不況」という言葉を掲げ、稲嶺恵一氏が現職の大田昌秀氏を破った1998年の県知事選とよく似ている。

・前回…自主投票だった公明が、渡具知氏推薦に踏み切った。渡具知氏が辺野古移設について「国と県の裁判を注視したい」と賛否を明らかにしなかったのは、公明との関係を意識したからだろう。両者が交わした政策協定書には「日米地位協定の改定及び海兵隊の県外・国外への移転を求める」ことがはっきりと書かれている。安倍政権が強調する「辺野古唯一論」と、選挙公約である「県外・国外移転」は相反するものだ。

「ガキでも遊べる」世界政治はどこから?2018/01/04

(科学技術に身を預ける人間社会の諸局面、暫定的ラフ・スケッチ)

 絶滅危惧小国の大将金正恩が、机上にやっと手に入れた核のボタンがあることを誇示すると、トランプはおれのカバンにはもっと凄いのが入ってる、見せてやろうかと自慢する。これが世界最大国家の大統領の振舞いだ。はっきり言って「ガキの遊び」だ。

 そして決め打ちは「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」。つまりアメリカはかつてGREATだったのに、そうでなくなったとの自覚がトランプ政治の軸だということだ(ついでに言えば、それは黒人+リベラル派のオバマのせいだと言いたい)。

 国際政治が「ガキの遊び」レベルになったのは、ツイッターとかのIT通信技術のシンポのおかげだ。情報発信の「民営化」で、誰でも何でも発信できる。それが拡散されるのは「真理」だからでも「適切」だからでも「公共的」だからでもない。興味を惹けばいい。

 アメリカの社会と選挙制度はとんでもない人物に地位と権力を与えたものだ。トランプがガキのたわごとみたいなことを発信すると、こりゃ大変だと、世界中があとを追う。以前はそんなことで政治や統治はできなかったが、いまはこれで皆が走ってくれて、世界が動いてゆく。

 大統領がこれだからたいへんだが、自分のことしか考えない連中は、この状況をうまく利用すればよい。財界も軍も、面倒な民主的手続きとか、公共的議論とかはぜんぶ飛ばせる。それに気に入らない情報はみんな「フェイク・ニュース」だと言って吹き飛ばせばいい。自分の言うこと、発信することは、アメリカ大統領の言うことなのだから、これが「正しい」(アベもそんなこと言ってた)。他に誰が「正しさ」「公正さ」を決められるというのだ。その「正しさ」を発信できるのがツイッターだ。

 IT技術が加速度的に発達し、コミュニケーション状況が一変すると、一国ばかりか世界の人々の運命を左右する政治が「ガキの遊び」レベルの簡単なものになった。SNSは公式声明のあり方をも変質させる(パレスチナの状況を見よ)。便利になったものだ。大金持ちで、テレビの顔で、良くても悪くてもインパクトがあるとそれが牽引力になり、妄想の市場で自分の売り込みに成功すれば、誰でもとほうもない権力を手に入れられる。あとは世界のすべてをオモチャにしてでも、その権力を保持すればいい。トランプのやっているのはそんなことだ。

 こんな世界の実現に大きく貢献したのは、IT通信革命だ。それはたんに技術の一分野の進化ではない。人間社会のコミュニケーション条件の全般的な変容だ。いわゆるアナログからデジタルへの変化だが、デジタル化が技術上の要請からアナログ的なものを駆逐するために削ぎ落しただけのものが、人間を単純化することになりった。+/-の記号に還元できない部分は意味がないとして削ぎ落され、あらゆるものが計測可能な因子に落とし込まれ、コンピューター処理される。そのコンピューターはAI化し、加速度的に発達してやがて「特異点」を超えるとみなされている。人間社会はこれを採用することで(したつもりで)、いつの間にかこの機構に身を預けたことになり、いまではその存在全体を計算処理してもらえるつもりでいる。だから権力志向の人間は「ガキ化」し、やがて幼児化してゆくことになる。

 アリストテレスは人間を「言葉を使う存在」で、したがって「ポリス的存在」だと言った。それが「政治的存在」と訳されている。言葉を話すということは、すでに個別の共同的存在だということだ。言語は単一でも普遍的でもなく、つねに個別的である(いろいろな言語がある)。その個別性を枠づけるのが古代ギリシアでは「ポリス」だった。だからその維持や運営に関わる事柄が「ポリティクス」と言われる。それが日本では「政治」と訳されている。

 やがてキリスト教という唯一の創造神をもつ信の体系が西洋世界の鋳型となるが、神への信が世界理解に間に合わなくなるころ、ライプニッツが登場して「普遍言語」の構想に思いいたる。近代の「政治」が登場するのはその頃からだが、ライプニッツの構想はその「政治」をも不要にする射程をもっていた。この構想によれば、あらゆる事柄は記号処理に還元されることになり、人間社会の生々しい政治も機械的な計算処理に置き換えられることになる。社会的事象としては「政治」は「経済」にとって代わられるということだ。

 世界はその後、科学技術の「離陸」をもってその方向にまっしぐらに進み(それが西洋近代文明の世界展開ということだ)、いまでは公然と「この道しかない」と言われている。しかし「この道」は、あろうことかトランプのような世界の大統領(彼を「政治家」とは呼ぶまい)を生み出してしまった。それが「この道」の主導者たち(たとえばクリントン)によって「想定外」ではあったとしても、「政治」のカテゴリーを失効させてしてしまったのは彼らなのだ。

 いわゆる科学技術の進歩がトランプのような権力者を生み出した。そのことを核開発以降の科学者はもっと考えるべきではないのか。自分たちが何をしているのかを(といっても付ける薬はないかもしれない。そもそも、AIの開発がサイバネティクス計画から始まったとき、主たる動機は、核エネルギーのようなすばらしい技術を、欲得や感情に左右される人間に任せておくわけにはいかないから、完璧に合理的に管理できる人工知能に任せたい、ということだったようだから。科学者は、あるいは科学的思考は根っから「人間」を不完全なものとして排除したがっているのかもしれない。

 だから科学技術のシンポに任せておくと、「ガキでも扱える」社会ができる?

賀すべきか、「呪殺」の年2018/01/02

 呪術というとき、「呪」は巫祝の行うことばによる呪詛だが、「術」は動物霊を用いる方法である。(…)呪術には多く獣皮が用いられた。動物の皮をはりつけて悪霊を祓う。(…)祟りをなす動物を門などにうつ形は「殺」の字形にも残されている。ただし「殺」は殺すことが目的なのではなく、これによって相手の行う呪詛の効果を減殺するのである。「殺」は呪霊を放逐するのが原義だからである。(白川静『漢字』による。図は父丁の廟に犬牲を施したことを印す金文、殷代)

 殷の時代には犬牲が墓室にも葬られ、犬皮がこのような護りのために使われたという。簡単にいえば、犬を犠牲として呪霊の侵入を防ぎ墓を守らせ、また、犬の皮を柱にかけて、敵からの呪詛を無力化する。犬はそのような功徳をもつ獣だったということだ。

 今年は巡り来た犬年、犬の霊験によって現代の仕組まれた邪蠱(虫を器に詰めたものを用いて呪詛する、この場合は現在の日本に巣食う魑魅魍魎の悪だくみ)を祓いたいものです。