2月4日沖縄・名護市長選の結果を受けて2018/02/05

名護市長選の結果が出た。二期務めた現職で辺野古基地反対の稲嶺進氏が、自民・公明・維新推薦の渡久地武豊氏に敗れた(16900対20400)。同時に行われた市議補選でも、オール沖縄で臨んだ安次冨浩氏がほぼ同差で落選した。

渡久地氏は、稲嶺市長のもとで地域振興が進まなかったことを批判、「変化」を訴えたとされる。ただし、辺野古新基地に関する姿勢は明らかにせず、行政訴訟に委ねるとして公開討論も避け続けた。

だがこの市長選挙が注目されたのは、そして安倍政権が全力を挙げて介入したのは、辺野古基地建設の障害を除くためだった。それは誰の目にも明らかなはず。そして追い落としたい稲嶺市長は基地反対でまとまる「オール沖縄」の候補、翁長県知事の盟友だ。

だから、争点は言わずもがな辺野古基地だが、自民・公明候補はそれを隠して地域振興だけを売りにした。稲嶺市長の下では名護の生活や経済はよくならなかったが、それは稲嶺市長が基地ばかりにこだわるからと。

ただ、選挙民も本当の課題が基地建設反対か推進かであるのは百も承知のはずだ。政府があからさまに、国の方針に協力しない自治体には交付金を出さないとか、受け容れ自治体にだけ報奨金のような資金を投入するということを、すでに実際にやっているし(名護市にではなく、頭越しに辺野古地区に資金交付している)、選挙中も政府与党関係者がそれをあからさまに言う。

その意味では、地域振興を訴えることは、じつは「争点隠し」にはなっていない。地域振興を進めるということが、交付金を引っ張ってくる、政府・政権の方針に協力し、見返りを得るということに他ならないからだ。けれども、この面だけを強調して、あたかもそれが市民生活のための行政だとして表に出す。だがその裏には、永続基地を抱えることになるという問題が隠される。

たしかに、目先のことだけ考えれば、基地を受け入れれば地域振興のための支援金は入る。施設は作れるし土建業周辺のセクターは仕事に潤う。しかし、基地依存では長期の安定的な地域づくりも豊かさも得られない。それは基地依存時代の沖縄全体が思い知ってきたことだだ(その経験が産業界も含めた「オール沖縄」のベースにもなっている)。

この選挙の光景は、原発立地地域でもよく見られたものだ。政府は交付金で原発(基地)を受け入れさせるが、原発(基地)依存では地域経済は自立の道を絶たれ、永久に依存するしかなくなるのだ。有名な高木元敦賀市長の言葉が思い起こされる。「30年後、50年後のことは知りませんよ、しかし今はやっておいた方が得ですよ、どんどんお金が落ちてきますから…」。

それでも、今回、名護は自民・公明系の候補を当選させた。政府の締付けを受ける稲嶺市政よりも、基地のことなど脇において地域振興を約束する新しい市長を選んだということだ (とはいえ、当確を告げられた渡久地氏は、喜びに湧く周囲をよそに、しばし緊張の面持ちを崩さなかったのはなぜだろうか)。とくに10代20代で渡久地支持が多かったという。渡久地氏の娘が高校の自治会役員で、18才に訴えたということもあったかもしれないが、いまは若者が一般に先の見透しを抱けず、目の前の現実だけが課題になるという、沖縄だけでない一般的状況が影を落としてもいるだろう。

政権は、これで辺野古基地工事が支持を得たというだろう。地元は歓迎していると。そしていわゆるネトウヨは、やっぱり基地反対派は本土から日当もらってやってきた反日派だと、さらなるデマを流すだろう。産経新聞も、それ見たことかと、沖縄二紙(琉球新報・沖縄タイムズ)の「偏向」をあげつらう。

有権者数5万の市長選、これだけテコ入れすれば負けはない、と政権は自信をもつだろう。動員含めた期日前投票も40パーセント超。選挙近くに米軍ヘリがばんばん落ちても、名護に落ちたわけじゃない(それに去年は「着水」だ)。反対運動は本土警察で弾圧し、お国は動かんぞという問答無用の姿勢を示して諦めさせたら、政権に身を売る口実を少し与えて、最後に選挙アイドル進次郎の投入、あとは「結局お金でしょ」と言えることになる。

辺野古漁港の座り込みはすでに5000日、キャンプ・シュワッブ前での座り込みももう1200日を超える。しかしこれが何の成果も生まないと、一方で「不撓不屈」と自賛しても、他所からは空しくも見える。翁長県政にしてもそうだ。何が起こっても政府は相手にせず、知事の怒りの表明もどこ吹く風、抗議の上京にも応えない。この理不尽な態度が、沖縄の怒りや抗議を空しくさせる。今度の選挙には、その傾きの一端が現れたと見ることもできる。

その意味では「オール沖縄」の翁長県政も「実績」を示してえていない。この構造を突き破る工夫が求められる。それがなければ、秋の県知事選は厳しい試練になるだろう。

「ポスト真実」が言われる時代、沖縄の「正義」や「大義」は「フェイク」というデマや中傷で中和され、その中で時の政権は、あからさまな力と金(交付金だけではなく、金は人も手段も動かせる)でその意図を押し通すことを恥じない。それは「義」を貫こうとする側にとってなかなかに厄介な状況だと言わざるをえない。沖縄でもっとも露骨に表れているとはいえ、これは現在の日本全体の重い課題でもある。


[追伸]「沖縄タイムズ」05日社説から

・「もう止められない」との諦めムードをつくり、米軍普天間飛行場の辺野古移設問題を争点から外し…

・勝利の最大の理由は、一にも二にも自民、公明、維新3党が協力体制を築き上げ、徹底した組織選挙を展開したことにある。

・菅義偉官房長官が名護を訪れ名護東道路の工事加速化を表明するなど、政府・与党幹部が入れ代わり立ち代わり応援に入り振興策をアピール。この選挙手法は「県政不況」という言葉を掲げ、稲嶺恵一氏が現職の大田昌秀氏を破った1998年の県知事選とよく似ている。

・前回…自主投票だった公明が、渡具知氏推薦に踏み切った。渡具知氏が辺野古移設について「国と県の裁判を注視したい」と賛否を明らかにしなかったのは、公明との関係を意識したからだろう。両者が交わした政策協定書には「日米地位協定の改定及び海兵隊の県外・国外への移転を求める」ことがはっきりと書かれている。安倍政権が強調する「辺野古唯一論」と、選挙公約である「県外・国外移転」は相反するものだ。

「ガキでも遊べる」世界政治はどこから?2018/01/04

(科学技術に身を預ける人間社会の諸局面、暫定的ラフ・スケッチ)

 絶滅危惧小国の大将金正恩が、机上にやっと手に入れた核のボタンがあることを誇示すると、トランプはおれのカバンにはもっと凄いのが入ってる、見せてやろうかと自慢する。これが世界最大国家の大統領の振舞いだ。はっきり言って「ガキの遊び」だ。

 そして決め打ちは「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」。つまりアメリカはかつてGREATだったのに、そうでなくなったとの自覚がトランプ政治の軸だということだ(ついでに言えば、それは黒人+リベラル派のオバマのせいだと言いたい)。

 国際政治が「ガキの遊び」レベルになったのは、ツイッターとかのIT通信技術のシンポのおかげだ。情報発信の「民営化」で、誰でも何でも発信できる。それが拡散されるのは「真理」だからでも「適切」だからでも「公共的」だからでもない。興味を惹けばいい。

 アメリカの社会と選挙制度はとんでもない人物に地位と権力を与えたものだ。トランプがガキのたわごとみたいなことを発信すると、こりゃ大変だと、世界中があとを追う。以前はそんなことで政治や統治はできなかったが、いまはこれで皆が走ってくれて、世界が動いてゆく。

 大統領がこれだからたいへんだが、自分のことしか考えない連中は、この状況をうまく利用すればよい。財界も軍も、面倒な民主的手続きとか、公共的議論とかはぜんぶ飛ばせる。それに気に入らない情報はみんな「フェイク・ニュース」だと言って吹き飛ばせばいい。自分の言うこと、発信することは、アメリカ大統領の言うことなのだから、これが「正しい」(アベもそんなこと言ってた)。他に誰が「正しさ」「公正さ」を決められるというのだ。その「正しさ」を発信できるのがツイッターだ。

 IT技術が加速度的に発達し、コミュニケーション状況が一変すると、一国ばかりか世界の人々の運命を左右する政治が「ガキの遊び」レベルの簡単なものになった。SNSは公式声明のあり方をも変質させる(パレスチナの状況を見よ)。便利になったものだ。大金持ちで、テレビの顔で、良くても悪くてもインパクトがあるとそれが牽引力になり、妄想の市場で自分の売り込みに成功すれば、誰でもとほうもない権力を手に入れられる。あとは世界のすべてをオモチャにしてでも、その権力を保持すればいい。トランプのやっているのはそんなことだ。

 こんな世界の実現に大きく貢献したのは、IT通信革命だ。それはたんに技術の一分野の進化ではない。人間社会のコミュニケーション条件の全般的な変容だ。いわゆるアナログからデジタルへの変化だが、デジタル化が技術上の要請からアナログ的なものを駆逐するために削ぎ落しただけのものが、人間を単純化することになりった。+/-の記号に還元できない部分は意味がないとして削ぎ落され、あらゆるものが計測可能な因子に落とし込まれ、コンピューター処理される。そのコンピューターはAI化し、加速度的に発達してやがて「特異点」を超えるとみなされている。人間社会はこれを採用することで(したつもりで)、いつの間にかこの機構に身を預けたことになり、いまではその存在全体を計算処理してもらえるつもりでいる。だから権力志向の人間は「ガキ化」し、やがて幼児化してゆくことになる。

 アリストテレスは人間を「言葉を使う存在」で、したがって「ポリス的存在」だと言った。それが「政治的存在」と訳されている。言葉を話すということは、すでに個別の共同的存在だということだ。言語は単一でも普遍的でもなく、つねに個別的である(いろいろな言語がある)。その個別性を枠づけるのが古代ギリシアでは「ポリス」だった。だからその維持や運営に関わる事柄が「ポリティクス」と言われる。それが日本では「政治」と訳されている。

 やがてキリスト教という唯一の創造神をもつ信の体系が西洋世界の鋳型となるが、神への信が世界理解に間に合わなくなるころ、ライプニッツが登場して「普遍言語」の構想に思いいたる。近代の「政治」が登場するのはその頃からだが、ライプニッツの構想はその「政治」をも不要にする射程をもっていた。この構想によれば、あらゆる事柄は記号処理に還元されることになり、人間社会の生々しい政治も機械的な計算処理に置き換えられることになる。社会的事象としては「政治」は「経済」にとって代わられるということだ。

 世界はその後、科学技術の「離陸」をもってその方向にまっしぐらに進み(それが西洋近代文明の世界展開ということだ)、いまでは公然と「この道しかない」と言われている。しかし「この道」は、あろうことかトランプのような世界の大統領(彼を「政治家」とは呼ぶまい)を生み出してしまった。それが「この道」の主導者たち(たとえばクリントン)によって「想定外」ではあったとしても、「政治」のカテゴリーを失効させてしてしまったのは彼らなのだ。

 いわゆる科学技術の進歩がトランプのような権力者を生み出した。そのことを核開発以降の科学者はもっと考えるべきではないのか。自分たちが何をしているのかを(といっても付ける薬はないかもしれない。そもそも、AIの開発がサイバネティクス計画から始まったとき、主たる動機は、核エネルギーのようなすばらしい技術を、欲得や感情に左右される人間に任せておくわけにはいかないから、完璧に合理的に管理できる人工知能に任せたい、ということだったようだから。科学者は、あるいは科学的思考は根っから「人間」を不完全なものとして排除したがっているのかもしれない。

 だから科学技術のシンポに任せておくと、「ガキでも扱える」社会ができる?

賀すべきか、「呪殺」の年2018/01/02

 呪術というとき、「呪」は巫祝の行うことばによる呪詛だが、「術」は動物霊を用いる方法である。(…)呪術には多く獣皮が用いられた。動物の皮をはりつけて悪霊を祓う。(…)祟りをなす動物を門などにうつ形は「殺」の字形にも残されている。ただし「殺」は殺すことが目的なのではなく、これによって相手の行う呪詛の効果を減殺するのである。「殺」は呪霊を放逐するのが原義だからである。(白川静『漢字』による。図は父丁の廟に犬牲を施したことを印す金文、殷代)

 殷の時代には犬牲が墓室にも葬られ、犬皮がこのような護りのために使われたという。簡単にいえば、犬を犠牲として呪霊の侵入を防ぎ墓を守らせ、また、犬の皮を柱にかけて、敵からの呪詛を無力化する。犬はそのような功徳をもつ獣だったということだ。

 今年は巡り来た犬年、犬の霊験によって現代の仕組まれた邪蠱(虫を器に詰めたものを用いて呪詛する、この場合は現在の日本に巣食う魑魅魍魎の悪だくみ)を祓いたいものです。

『越境広場』第4号、目取真俊の闘い2017/12/18

 言うまでもなく沖縄は、日米安保を盾にした日本政府、とりわけ近年の安倍官邸権力による傲岸無比の扱いによって日々無情に押しひしがれ、翁長知事が行政を担う県庁から、無名の人びとが座り込みを続ける辺野古その他の現場に至るまで、あらゆるレベルで繰り返され続けられる抗議や抵抗をせせら笑うかのように、政府は相次ぐ事故を引き起こす米軍機にはほとんど無条件で空を明け渡し、機動隊が座り込みを排除するキャンプシュワッブでは、日々ダンプカーで運び込まれる大量の砂利で大浦湾が埋立てられている。

 最近では、米兵の犯罪が起こり、オスプレイ他のヘリ事故が起こるたびに、やり場のない怒りの抗議集会が開かれると、それを中国のスパイだとか、金をもらっているとかいった恥知らずの誹謗中傷が公然と行われ、街宣車の大音響で集会を妨害することさえ横行している。上からは各種行政機関を使った問答無用の露骨な権力行使(そして政府、最高責任者はけっして顔を出さない)、下からはゲス根性の汚水掻きまわして撥ね飛ばすドブネズミたちの嫌がらせ、そして違法として逮捕されるのは体一つで座り込みする人たちなのだ。法は強権遂行の道具になり、無法状態を囲い込んでいる。何より権力が無法者たちの手にあるからだ。

 年々更新されるそんな状況の切迫のなかで、沖縄に生きることは日々この事態に抗い闘うことだ。その抗いの軸をたしかめ、変わらぬ構造を射貫くべく、思念や行動を言葉にすべく刊行され続けているのが思想誌『越境広場』だ。

 この冬は第4号、目取真俊の特集だ。巻頭の仲里効×目取真俊のクロス・トーク「行動すること、書くことの磁場」。仲里の歴史構造的批評意識と、目取真の身体感覚的直言とが、妥協なくぶつかり合い相互のエッジを際立たせる。何もできないまま考えあぐねるしかない者の臓腑をえぐる圧巻の20ページ。ぜひ手に取ってみられたい。豊里友行の写真がまたいい。

古えの回顧のなかで受け取った新刊見本2017/12/13

 この秋は年甲斐もなくあちこち飛び回ったり、余分な仕事の引き受けすぎで、さすがに疲れが溜まっていたのだろう、質の悪いかぜを引いてもう何日も外に出られない。何もせずにゴロゴロ過ごす゛無理やりの休養だ。

 今日は起き出して、以前に読んだ宮城谷昌光の一冊を取り出してまた読む。『王家の風日』一九九〇年前の作で、この作家のその後連綿と続く中国古代物の最初の作のはずだ。この後、宮城谷は『天空の舟』で文壇に認められ、『夏姫春秋』で直木賞を受賞、『重耳』、『晏子』、『孟嘗君』、『奇貨居くべし』、『太公望』…と次々とベストセラーとなった古代世界を書き継いでゆく。その扉を開いたのが、漢字を生み出した商(殷)王朝期への特別の思いを込めて、その滅亡を最後の宰相箕子を軸に描いた『王家の風日』だ。ついでに言えば、『天空の舟』は夏を倒して商を建国した天乙(湯)を助け、後に名宰相の範となる伊尹の物語である。

 この時代には文字記録がない。亀甲や竹簡や青銅器の文字が出土しているのは商の後期武丁王の時代以降であり、文字の出現が何を変えたのかは想像するしかない。しかしそれでも、一定の統治の秩序は存在した。そこでの祭祀のあり方、邑の様子や、邑の住人とその他の人びとの暮らし、そうしたものを文字の語らぬ文字そのものの淵をなぞるようにして、少ない資料をもとに、想像しながら一人ひとりの人物をを生きさせその天命を描き出してゆくのが宮城谷の小説である。

 その小説を読みながら、西洋型の近代国家とはまったく違った秩序形成、あるいは統治体制のでき方を、天の観念や黄河という地の条件のもとでの人間(集団)の編成、剥き出しの力と超越との関わり、そして知の差配、あるいは無秩序からの知の生成、といったことから考えてみる、というのが近年のわたしの楽しみでもあった。

 『王家の風日』を取り出したのは、それが宮城谷の「ふるさと」(安吾的な意味で)であるとともに、初めの方で曲阜や徐州のことにも言及されているからだ。つい最近徐州を再訪したが、その街の前身はすでに商の時代にもあった。
 
 前置きが長くなりすぎた。そんな無理やりな休暇を終えるべく三日ぶりに外出したのはこの本を受け取るためだった。
 
 「対談集」などというものを出すのは初めてだが、雑誌『現代思想』編集部の押川淳さんが、この間(「戦後七〇年」を挟んで前後二年ばかり)わたしの関わった対談をまとめることを提案してくれた。対談はもちろん相手があって成り立つものだが、幸い、対談を設定してくれた編集者諸氏の慧眼もあって、そのつどその筋の最適の方々を相手としてお迎えすることができ、それぞれのテーマを口頭の議論としては相当に深められたのではないかと思っている。

 その意味では、この本に意味があるのはひとえに対談者の方々のおかげと言わざるをえないが、それでもわたしがここに収録した対談をするに際してつねに念頭に置いてきたのは、「まえがき」の最後に付記した次のようなことがらである。
 
 ――「想定外」が到来してしまったということは、「未来」がもう来てしまってすでにここにある、ということである。「未来」はすでにここにある、というのが「災厄の後」の基本的構えであるはずだったが、それはたちまち押し流され、何食わぬ顔で先がないことがわかっている過去の枠組みが押し付けられようとし、それに歯止めがかからない、というのがわれわれの置かれている現在の状況である。だからあらゆる場面で実情を糊塗する「フェイク」が重ねられ、「オルタナ・ファクト」がまかり通っている。その「オルタナ・ファクト」の煙幕を払って、いかにして実相を見るか、そしてそれを足場にするか、そのための努力がこれらの対話を支えている。

また、この本は久しぶりに菊地信義さんに装幀していただいた。いつもながら絶妙の文字使いと刷り上がり。お礼申し上げたい。

だいぶ昔のフランス思想の「最後の授業」2017/11/28

*最近、昔の学生(今ではいい大人だ)数人から連絡をもらった。そこでふと思い出したこと――

 大学の校門を入ってゆくと、学生課からの注意喚起のカンバンが出ている。「試験期間、亡くして困るのは財布と学生証!」と。老婆心というものだろう。

 教室に入ると200名を超す学生がズラリ並とんで席についている。もちろん設問はあるが、この授業、何か知識を与えて、どれだけ身に付けているか試すといった類のものではない。ものを考えるということがどういうことかを理解し、納得してくれればいい。フランス思想はそのための素材だ。

 二つばかりそれらしい設問を即席で作ったが、毎回授業に来るわけではなく、その時間を他所で潰していたり、文学や哲学なんて馴染まない、という学生がいてもいい。その学生がむりに枠に合わせて身につかない受け売りのご託を並べる必要もない。

 そういう学生たちのために、余分な選択課題をひとつ出した。

 「今日、この教室に来るときに、きみたち、学生課の掲示を見たでしょう。学生証がないと試験が受けられないから、忘れないようにという注意喚起だよね。でもきみたち、深刻に受け取る必要はないですよ。財布なんて落としても困らない。どうせ大した額は入ってないでしょう。昼ごはん食べられなかったら、ちょっとちょっがまんすればいい。それに、学生証も紛失届を出せば再発行してもらえます。

 しかし絶対にそうはいかないものもある。ほんとうに亡くしたら困るもの、取り返しのつかないものは何でしょう。それは何か、書いて理由を説明しなさい。」

 学生たちはいっせいに、それぞれ思案し始める。そして筆記具の音がし始める。しばらくして様子見に机の間を回ってみた。そうしたら、多くの学生が最後の設問を選び、同じようなことを書いている。そこで中断させた。

 「ちょっと待ってください。見回ってみたらたいていの人が同じようなことを書いている。試験も授業の延長ですから、これも最後の短い講義として聴いてください。みなさん、なくして困るもの、取り返しのつかないもの、と問われて、命、それも自分の命と書いています。たしかに、命を落としたら取り返しがつかない。お父さん・お母さん、それに友だちも悲しみますね。でも、それでみんな、ほんとうに困るかな? 

 だって、死んじゃったら死んだ本人はもういないんだから、ちっとも困ることなんかないじゃない。昔の人たちは、これでやっと労苦から解放されるとか言って、待ち望んだりしたものですよ。とくに、生きることが罪を負って労苦することだと教えられたキリスト教社会なんかではね。詩人のボードレールも死は解放だと言っています。ともかく、死んだ当人にはもういっさいの思い煩いはないんですよ。もう当人がいないんだから。労苦や悲しみは生きているからある、生きている者にだけあります。だから、自分の命をなくしても、何も慌てることも、困ることもない。

 なくして困る、どうしようもなく困るのは、他人の命でしょう。これは困ります。取り返しがつかない。置き換えがきかない。どこに届けても再発行してくれない。そのことを掛け替えがないと言います。絶対的な、埋め合わせの効かない喪失です、癒しようのない痛手です。だから他人の命は亡くすと困る。

 これは頓智でもなんでもありません。あたりまえと思っていることを、ふっと振り返ってみると、「あたりまえ」の床板からその床板の実相が見えてきます。自分ということも、死ということも、無反省でいると思い違いをします。他人を思い遣るとか大事にするというのは、自分が寛大だからとか優しいからなのではなく、他人たちこそが自分の生を支え豊かにしているからなのです。だから人は、自分を犠牲にして人を助けたりするし、それは誰もが非難できません。

 実はこのことは、主体を軸に世界や人間を考える近代思想では忘れられていて、世界戦争後に哲学者たちが本格的に考え直すようになった、いわゆる「他者論」の根本です。今学期の後半でそんな話題を取り上げましたが、ちょうど今日、格好の入口に出合いました。いまの話をもとに、授業で話したことをもういちど振り返ってみてください。これを今学期の最後の授業にします。では皆さん、考えて答案を書き直してください。」

 三十分ほど経つと、終了のチャイムが鳴った。

いわゆる「アベノバンカー脱出失敗」映像について2017/11/12

(2017/11/12 FB投稿の転載です。)

 年に一度の会合でいまフランスにいる。あちこちから人が来るが、今回ほど日本人であることに居心地悪い思いがしたことはない。

 まず、北朝鮮の核ミサイル開発はまったく防衛的なもので、日本やアメリカへの攻撃を意図したものではない。攻撃は即、北朝鮮自体の破滅だからだ。

 トランプも、一人ならやりかねないが、アメリカを背負っていると、口で言うほどバカなことはできない。だから危機を煽りながらこの時期にアジア歴訪して、やったのは日本と韓国に莫大な武器を買わせ、中国との間には超大規模な商談を成立させるということ。「北朝鮮危機」など、それを成り立たせるためのお膳立てでしかない。このやり方で、どうだ、とばかりトランプは、アメリカ自身を満足させ、国内でくすぶるロシア・ゲート問題を吹き飛ばす。たしかにすご腕だ。

 そして、首尾よくすんだら、今度は金正恩とも友だちになりたい、などと涼しい顔でツイートする。

 キタチョウセン、キタチョウセンと、Jアラートを鳴らし、アメリカの「超圧力方針」と完全に一致(日米同盟がこれほど強固になったことはない?)などと言挙げした安倍首相はどうするのか。「親密な関係」を演出とかでミサイルごっこならぬゴルフごっこを仕立てたが、この有り様。

 こんなビデオを広めて人のぶざまさを嗤いたくはないが、これが「わが国の首相」であり、この一コマは現在の日本の姿、とりわけ日米関係をあからさまに象徴しているといわざるをえない。われわれをはそれを認識する必要がある。だが、この姿を隠すことも含めて、日本の「危機」を国内の「空気」の繭に閉じ込め、そこで権力をほしいままにすることだけがこの人物のねらいであるようだ(森友・加計問題、元TBS記者犯罪もみ消し問題、改憲問題etc.)。

 「改憲」論議もその域を出ない。自分があらゆる課題を活用して権力の座にあり続け、首相最長不倒記録を作るというさもしい狙いの道具立てでしかない。世界の現状や、その中での日本の位置どりや、さまざまな困難の中でのこの国の行く末を真面目に考えることなど、この人物にとっては関心外。日本がこういう人物を首相にしているということ、それこそが今日の日本の最大の問題だということを、つくづく感じさせられる異国の秋だ。

「野党再編」ではなく、国会での「野党共闘」を2017/10/30

 前原代表が党ごと「無理心中」させようとした民進党がまだ存続しているのだそうだ。そこから「野党再編」とかの話が出ているというが、冗談はいい加減にしてほしい。
 FaceBookに友人が2年前のリテラの記事を引き出していた。これを見ると、今回の「解党劇」の根が深いことがわかる。もうゴタゴタ言うつもりもないが、はっきりさせるためにひとことだけ。
 
 民進党は前原・細野・長島らに衆議院議員を身売りされたのであり、もう解党・消滅するしかない。無所属クラブと参院民進党は党籍だけの民進党を延命させるより、希望への城明け渡し(それはもうやられている)後の身の振り方を自分で決めるべきだろう。
 
 希望への見請けをよしとせず、脱藩した者たちが作ったのが立憲民主党。急遽枝野新党ができたら、これまで「民主党はあてにできないが、それでも反自民で投票する」としていた「無党派市民」、国会前や全国の抗議集会に集まっていた人びとが、おっとり刀と手弁当・ねじり鉢巻き・割ぽう着で、立憲民主の選挙を支え、これを野党第一党にした。
 
 立憲民主党の支持率は民主党・民進党が超えられなかった域に達している。
 
 これがすでに、党代表の権限を使って仕掛けられた「野党再編」の結果なのである。この期に及んで、また無所属議員を軸に「再結集」を図るなど、前原の強引な失敗がなかったかのようにして、またぞろ同じことを繰り返すことにしかならない。有権者の方をまったく見ていないからこういう仕儀になる。何のための政党か。有権者の方を見て多少の整理をしようとするなら、立憲民主党を軸にすべきだ。
 
 とりあえず必要なのは、懲りない「野党再編」ではなく、国会での「野党共闘」だ。それぞれの立場があるだろう。だが、そこでもまた、共産党と共闘はできないなどと言う連中がいるとしたら、それはもはや野党ではない。民進ゾンビがやろうとしているのは「与党再編」、「与党と共闘」にしかならないだろう(実際にはもうそうなっているかも)。