フェイクな「ニッポンすごい!」の妄想の果て…2020/11/12

「民主主義」の議論もいいが…

近頃、どんなニュースに接しても、メディアの取り上げ方がまず「ニッポンすごい!」なのが茨の絨毯のようにザラつく。とくにNHKのキャスター(しかし他のメディアも基本は同じ)。

筆頭が『鬼滅の刃』。もちろん大ヒットしたのはいい。しかし、日本美徳の「自粛」の中の大ヒット、すぐに世界にも注目されて、「アニメ日本・オタク文化の世界トレンド入り」みたいな話になる。

今年はノーベル賞がとれなかったので(科学でも、恒例の村上春樹も)『鬼滅…』のブレイクはひとしおなのか。ノーベル賞報道は、どんな分野のどんな人が?ではなく、中身はどうでもいい「日本人が獲るか?」が興味の的である。日本人がいなければ「ガッカリ」で終わる。その裏にはまた、中国人や韓国人なんかに獲らせないといったオーラも出ている。ノーベル賞の「権威」(これがまた曲者だが)を奉り、それを「ニッポンすごい!」気分の機会にする。

ホンダが自動車の「自動運転レベル3」発表(自動車の自動運転ってどういう倒錯か、という話もあるが)。これも「世界初」。今では世界の企業ランキング50の後ろの方に国策企業トヨタしか入っていない日本(「失われた30年」)、自動車健在なんだの安心ニュース仕立て。

でも、自動運転はITビッグデータの世界だから、結局、巨大IT企業(GAFA)の生簀を広げるだけ。その中で日本企業は荷車製造「世界一」。
この機運を「そこのけそこのけお馬が通る」式に進める舞台装置が「2020東京オリンピック」。誰もが「オモテナシ(裏ばかり)」で「ニッポンすごい!」を言って当然、言わないとシカトの「自粛」圧力。

それに乗っての強権政治。法やルールは自分たちのために蔑ろ、「ニッポンすごい!」は彼らの意図(国を私物化する)の隠れ蓑。

「ワクチン競争」も同じ。今回ほど、「科学」が政治化されたことはない。まともな「科学」によれば、ワクチンは「全能の武器」ではない。毒をもって毒を制す、ということ。それを政治の武器にするが(トランプが筆頭、日本が追従)、目先の「国益」に囲い込まれた今の日本の「科学」では間に合わず、米系企業から買い漁り、値段吊り上げる。「科学者」製薬企業ほくほく。(デジタル化しようにも民営化=私物化された国策企業に任せるとボロばかり)

それにしかスガれない人たちは、嫌中・嫌韓ヘイトでその「強い国フェイク」を支えようとする。日本の「私物化」政治を世界の舞台で大胆にやってくれたのが「フェイク・トランプ」。だからまた、彼らが必死でトランプ・フェイク大統領を支えようとする。

これ、全部つながっている。日本のメディアは「ニッポンすごい!」のフェイクに乗るだけ(オリンピック協賛企業だから)。そうして、「不都合な真実」を「前に進める」(たとえば原発再稼働)で「亡国」の道まっしぐらの自民現権力支持(アメリカ・メディアのように、政府発表に「これは虚偽です」なんてテロップとてもつけられない)。五輪中止ならどうなる?

 「失われた30年」で「亡国の危機」という現実を見ないと、ほんとに「亡国」。その「亡国」の元は「美しい国」「ニッポンすごい!」妄想。それ自体フェイクだから。
 
 今日の朝日新聞社会部に「笑い声で消されたクリスマスの物語、命絶った中3のメモ」という記事があった。踏み込みの足りない記事だが、ネタは象徴的。
https://digital.asahi.com/articles/ASNCB6SVKNCBULOB00P.html?iref=pc_ss_date

アメリカ大統領選、「分断」とは何なのか(緊急、未整理)2020/11/04

アメリカで起きている、ほんとうのこと(民主主義、全体主義、ファシズム、右翼、左翼、リベラルなどの分類用語は使わず…)

・今回の選挙は何が「異例」なのか。
・トランプとトランプ支持者の行動によって。
・恣意的・独善的「自由」vs. 法に基づく「自由」
(「根っからのアメリカ」vs.「不純でヤワなアメリカ」)
・「取り戻したアメリカ」は手放さない(大統領が失権を認めない)
・トランプの「無法」が広く支持されるアメリカ。
(日本におけるその模倣・追従者たち)
・他の現象(政治・経済・社会政策、国際統治…)はそこから出てくる

「どちらに勝利の女神が…」というほどアホらしいコメントはない。起きているのはすでに通常の選挙(ルールのゲーム)ではないからだ。
今日、日本のどこかで、信号で止まったところ、後ろからきた車の運転者が突然飛び出してきて、前の車のドアを開けてどなり込み、いきなり一発お見舞い、という事件があった。あるいは、去年騒がれためちゃくちゃな煽り運転。トランプの強固な支持層はそんな事件を思い起こさせる。実際、バイデンの乗った遊説バスを何十台ものジープのような車(白いイスラーム国か?)で取り囲んで威嚇する。10月初めにはミシガン州でコロナ・ロックダウンした女性知事の拉致計画が未遂で発覚した。

今回の選挙戦は異常だと言われた。というのは、現職大統領トランプが敗北しても認めないのではないか、大統領自身が郵便投票を「不正」だと言い、裁判までもつれ込むと言われ、さらには、多くのトランプ支持者は負けたら騒乱を起こし、武装蜂起するのではないか、とまで言われている。つまり、負ける選挙は「不正」だからホワイト・ハウスを銃で死守するというわけだ。各地の投票所にはトランプ支持派が集まって、負ければ暴動を起こす構えで、警官隊も出ているという。もちろん、それに対してバイデン支持者も対抗し、衝突も起きている。このことは軽視していいエピソードではなく、むしろ今回の「選挙」の本質を表している。トランプとその支持者は、勝ったらそれは素晴らしい選挙、負けたらそんなのは「不正」だ、と主張しているのだ。自分が勝つ選挙しか認めない。これはすでに精神病理の問題である。

「異常」なのはそのことである。これは政治家トランプ対バイデンの選挙戦でも、共和党と民主党の戦いでもなく、トランプ支持者とトランプを「アメリカ」の代表にはしたくないという人びととの戦いだ。恣意と権力妄想の権化を自分たちの代表として求める「アメリカ人」と、政治の枠をそれでも守ろうとする他の「アメリカ人」との対立といってもいい。だから、ある意味で選挙の枠組みはすでに否定されている。タガが外れたまま、かろうじて境界線として浮遊しているだけだ。

そしてこの結果に懸っているのは、「アメリカ」がどのような国なのかということだ。アメリカでは恣意的な無法が正当権力として認められるのか、あるいは、それでも秩序と議論が枠を作るのかということだ。(日本の今と似ている)。

要するにこの選挙は、銃や斧で「敵」を追い払ってそこを自分の「自由の土地」にした「根っからのアメリカ人」と、殺し合いになるし体裁が悪いから協議して何とかしようという「妥協したアメリカ人」との対決だ。選挙制度そのものは「妥協」のシステムだ。それに縛られて(相手も縛って)銃を振りかざす権利を主張するグループとその支持者、それをルールで縛ろうとする人びととが対立している。

前者は、「アメリカ」は自分たちが作ったと思っている。その仲間うちでの「自由」の配分はやったが、後でやって来た移民連中や奴隷だった黒人たちが「権利」をよこせという。それを認めないと、世界に進出する「アメリカ」は立ちいかない。世界に進出するには「内向き」ばかりではいられないからだ。そこで奴隷だった黒人にも、色のついた移民たちにも「権利」を認めてやらなければならない。彼らヘナチョコは、みずから銃をとって土地を奪い取ったわけではないのに――銃社会への固執。それに「国際社会」とか言うが、どうせ負け犬で、強国にすがって甘い汁を吸うだけではないか(特に日本)。おかげでアメリカは、しょうもないそんな国の貧民たちにも援助しなければならない。

そのせいで「アメリカ」は弱くなり、そんな政府の下で「俺たち、私たち、アメリカ人は割を食ってきた」。そう思う「根っからのアメリカ人」は、「外国勢力」に弱腰で妥協して「アメリカ」をダメにした「反米アメリカ人」(中国のスパイ――得意の表現だ)から「アメリカを取り戻した」。不動産屋ドナルド・トランプを大統領に押し上げたのはそんな機運だった。「アメリカ・ファースト」「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」が、そんなバカな、とアメリカに幻想をもつ「世界の良識」に反して勝利したのだ。

それがトランプのアメリカだった。だから銃をもって「腕っぷしの強い」支持は強固である。「根っからのアメリカ人」は、長い艱難辛苦や抑圧を跳ね返し、やっと取り戻した「正統権力」をぜったいに手放さない。アメリカのいわゆる保守層は、それを利用することにした。「アメリカのホンネ」を問答無用でゴリ押ししてくれるからだ。

だから、一般的なトランプの政策のデタラメさやフェイク発信での国際社会の混乱など意に介さない。とくに「中国敵視」は「偉大なアメリカ」を足元から脅かす脅威であり、それを悪者にし叩くことは、文字どおり「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」になる。MSやグーグルが全世界の情報をかき集め、アメリカに(NASAに)貯め込んで監視していても、それはアメリカがやるのは当然(世界の盟主だから)、中国なんかがそれをやるのはけしからん。全世界に駐留軍を置き、海も空もコントロールするのはアメリカだけで、中国は世界秩序の敵だ(ただしその論理は「妥協するヤワなアメリカ」にも共有されている)。

それと、黒人が警察官に警戒されるのは当然、黒人はもともと邪悪だからだ。住んでるところもスラム、無秩序と犯罪の温床だ。警察はそれを抑えて「アメリカ人」が安心できるようにしている。「法と秩序」だ。だから警察はぜったいに擁護する。「だめなアメリカ」のもとはそんな黒人や後からやってきて原住民撲滅に貢献していない雑種たちだ。移民の女はみんな売春婦、金と権力に媚びるもの(西部のカウボーイ世界)。うるさいね「ミー・トゥー」…。

そういう「アメリカ」を取り戻すヒーローになったのがドナルド・トランプだった。その気もなかったのに、選挙戦を画策して当選させたのが、カルト陰謀論者のスティヴ・バノンだ。彼らがSNSとPR情宣でトランプを政権の座につけた。それが今度は、「Qアノン」のような名うての終末・救済カルト、トランプ教団体を生み出す。

「自由の未来」のパイオニア、シリコンバレーはどうしているのか?フェイクのヴァーチャル情報化でますます繁栄するから涼しい顔。さすがにそのエグさを批判されて、ザッカーバーグやツイッターは「検閲」のまねごとするけれど、混乱すればするほどヴァーチャル情報化は儲かり発展する。コロナも「電脳化の未来」へのスプリングボードだ。それはさておき…。

だから今度もどうしてもトランプを大統領にしたい。選挙もメディアも「だめな、裏切者の、反米アメリカ」の陰謀である。だから選挙も銃で守る。敗北の結果はありえない。それは陰謀だ。「アメリカ」がトランプを選ばないはずはないから。敗北は「不正」だ。それは銃で取り返さねばならない。

いわゆる「保守派」はいま、「アメリカの凋落」に不安を抱いている。そして社会政策などやる民主党よりはトランプの方がよいと考える。国際的にもそうだし、ともかく黒人街は怖い。貧困や無秩序は信用できない。移民も問題だ。トランプだって女性をだいじにしてくれるじゃないか。というので、表向きには言わないが、結局のところトランプの方がいい、ということになる。

だから今度の選挙戦は、異例の選挙戦になった。
政治のタガを受け入れるアメリカと、そのタガを捨てようとするアメリカだ。だから「政治」の範囲内にある戦いではなく、政治をはみ出した戦い、選挙(議論)で統治を選ぼうとするアメリカと、その軛を振り払おうとするアメリカ、その戦いなのである。だから、一方は敗北を受け入れる用意があるが、他方は選挙を認めない。だからトランプ陣営は、票数で不利だったら最高裁に持ち込む。もちろん明らかな敗北だったら、暴動が起きるだろう。準備をしている多数の人たちがおり、トランプが呼びかければそれに火がつく。山火事?枯れ葉を掃除しておけばいいだろう、というわけだ。そのとき、連邦軍はどうするのか?それはすでに分かっている。連邦軍は内乱に出動するのを拒否した。しかし、大統領命令があったら?というわけで、その混乱をおそれて民主党は譲歩するだろうか(ゴアは譲歩したが、バイデンは?)

しかし、トランプが勝利したらどうなるか。
「公人」もウソは言いたい放題、でたらめ勝手はやりたい放題。黒人は警官なら殺しても大丈夫(それで黒人はおとなくしなる、これが選挙で追認されたことになる)、「アメリカ人」で金や権力があればレイプもお好きなように、ただし、二等国民は「アメリカ人」と認めない。そういう国になるということだ。そしてそれが世界最強国、強者に媚びる国はみんなそうなる。

しかし、どこかで見たことばかりだ。アベの日本、憲法、法律無視、勝手に「解釈」、公文書は破棄、隠蔽、とうとう作らず…。そう、だからアベはトランプに気に入られた(金正恩もだが)。トランプと較べると太鼓持ちだからチャチだが、日本人にとってはたいへんだ。もうひとつの茶番が「にせ都構想」の大阪維新、そしてもっとチャチだが、高須某による愛知県大村知事のリコール署名運動、夕刊フジが「80%も」と報じたこの運動、高須のフェイクを実際は大阪維新が動かしていたとのこと。基本的に「反日ヘイト」に根ざした、そしてそれを「政治」利用する有象無象のうごめき。本質はトランプ登場とその見えない支持層が作り出した状況に通じる。

それについては『私たちはどんな世界を生きているか』(講談社新書)を参照されたい。

*11/05追記――開票に時間がかかっている上、上院選で共和党が議席を維持しているので、「山火事」にはならないだろう。

ラスコーの「踊り」――ダンス・舞踏とは何の表現なのか?2020/11/03

 一九四〇年にフランス南部でふとしたことから発見されたラスコーの壁画は世界に衝撃を与えた。長い洞窟の広間や回廊にそって広がる多彩で生き生きした動物群は、悠久の時を忘れさせるように、私たちの眼前に迫ってくるからだ。

 文明は進歩しているといわれる。この間の美術の歴史をみてもそうだ。近代絵画から、現代アート、そしてデジタル化も取り込んだ多様な表現の「発展」があった。だが、ラスコーを初めとする先史時代の洞窟絵画は、そんな「進歩」の観念を吹き飛ばす。二万年という時を超えて、ピカソはそこに圧倒的な「同時代人」を見たことだろう。

 それでも、ある「距離」ないしは「越え難さ」があるとすれば、現代の絵画表現には描く者の意匠が感じられるのに、洞窟絵画にはそれが想定できず(だから何のためかも分からない)、イメージだけが、イメージそのものが現出しているといことだ。

 人間はそれを描く「手」でしかなく(手のイメージはある)、それは二万年の見えない時の闇に消えてなくなっている。その時の厚みが、透明なアクリル板のように、イメージとわれわれとを隔てている。

 洞窟の絵画が地中で眠っていた二万年の間に、外の世界ではいったい何が起こったのか?とりわけ絵を描いたり他の方法で表現したりする人間に何が起こったのか?

 そう問わせるのは、よく知られているように、あれだけ豊饒な動物たちの姿で溢れかえるラスコーの洞窟に、それを描いたはずの人間たちの姿がまったくないからだ。唯一の例外は、洞窟の奥深く、空洞が下に落ちる「井戸」と呼ばれる場所の天井に、つまり深淵の上の天空に映されるようにして、矢を受けはらわたを出した瀕死の水牛の反撃を受けたとおぼしき、倒れた人物が図案のように刻まれていることだ。これは描かれたとは言いがたい。というのは、驚くべきリアリティーで迫ってくる動物群のイメージに比して、これは明らかに描くことを知らない者が刻みつけた棒書きの図柄のようにみえるからだ。楕円の胴に二本の足がつき、両手も開いて、片手の傍らに槍が置いてある。そして何とも奇妙なことに、その頭はくちばしのついた鳥としか見えないのだ。この唯一の人物像とおぼしきものは、人間として描かれてはいないのだ。ただ、性器らしきものが立っている。

 これはどうしたことなのか?
 戦後の復興事業のようにして『世界の絵画』シリーズを企画したスイスの美術出版社スキラは、その第一巻を発見されて間もない『ラスコー』に充て、解説執筆をジョルジュ・パタイユに委ねた。バタイユはこの絵画について、あらゆる目的論的(何のために描かれたのか…、宗教儀礼か…)解釈を斥けて、「遊び」の観点から、つまり人間の無償の集団的営みとしてのみ受けとめ、その痕跡の現代にまで及ぶ時空を超えた「脱自的コミュニケーション」(内的体験)に身を開いた。芸術として扱ったのではなく、イメージという人間の根源的体験との関わりとして受けとめたのだ。

 そのバタイユもこの「井戸」の場面に目を留めて、その「意味」に近づこうとして行きついたのは、この図案化された人間は、生き物たちの世界を豊饒な「聖なる」世界として描き出した人間たち、その世界からじつは締め出されて避けがたく「俗」である人間たち(それを対象化するから)が、それでもこのイメージの次元に関わっていることを「聖なる世界」のヘソのようなところに刻み込んだ、「描く人間」の署名の刻印なのだと解釈した。それは「エロチシズム」にも似て、人間が死を賭して近づき、死の彼方と通う場面であり、だからこそ、井戸の天井に、表象の裏返しのように図案化され、それも瀕死の姿で、人間でなくなる(そして「聖なる世界」に近づく)という異形の姿で、なんとか生き物の世界の奥まった片隅に刻まれているのだ、と。

 これには説得力がある。ひとつ思い浮かぶのは、洞窟絵画の時代からギリシアの時代までの断絶の間に、人間のイメージ経験に何が起こっていたのかということだ。それはオヴィディウスが伝えた「ナルシスの神話」が雄弁に語っている。おそらくこの間に、人間は水に映ったイメージが自分であり、その自分が世界の中にあることをはっきり意識するようになったのだ。つまりは鏡像との関係で自己という意識をもつようになったのだ。「鏡に映ったこの像(イメージ)、これが私だ、人間(人)だ」という意識を。そのときから人間は自分のイメージを描くようになる。そして世界はその背景になるのだ。そして表現はさまざまな意味で「自己表現」だということになる。

 ラスコーの時代には、描くべきイメージは自分たちの向かう世界、自分たちがどうやらそこから締め出されている「豊饒な生の世界」である。それを描いてここに再現する。それは、生き、食べ、生殖し、また斃れてゆく、それだけではすまない人間の性(さが)のなせる業である。つまり、他の生き物と人間がどう違うのかといえば、人間は欲望をそのまま実現する次元だけでは生きられず、必ずそれを何らかの表現を通して二重化して生きているからだ。水牛も馬も鹿も、群れて生きても描くことはない。その「表現」という行為が、まず「人間を世にも不思議なもの」(ソフォクレス『アンチゴネー』)にしている。

 だが、洞窟絵画の時代には、人間は自分たちのもつイメージの世界から締め出されていた。それがまさに「鏡像の世界」だと知ったときから、人間は自分自身を描くようになり、世界を対象化してその「聖性」を拭きはらうようになる。技術の時代が開かれるのだ。

 表現には描く(そしてやがて語る)というのとは違うやり方もある。描くことは自分の前にイメージを呼び起こすことだ。再現するといってもいい。別のやり方は、私たちが生きているこの体を震わせて踊るということだ。大地に接し、空気にふれ、光や雨にうたれて体が感応する。狩りのために走るのも、鍬で大地を耕すのも、ただどうしようもなく痙攣するのも、踊るとは言わない。踊るとは、そんな有用性や意味におさまならい体の感応を、「共にいる」人びとといっしょに見かつ身をもって分かち合う(それがコミュニケーションだ)そのような体を貫く表現なのである。イメージもなく、身体次元で分かち合われることで「表現」となる、そこで表出される体の反応(エロティシズム?)、それが踊りとなる。そんな踊りは人間の生存とともにいつの時代にもどこにもあった。西洋は天使のように飛ぶ(魂の飛翔)という規範に合わせて、アフリカやアジアでは大地や自然との感応をベースとして、人間はいつも踊ってきた。動物のように。

 描くことも、古い時代には踊りと区別されなかったのかもしれない。画家は踊りながらさまざまな筆をあやつり、生き物の世界に参入していたのかもしれない。そうして絵筆が尽きたとき、描くことの充実と無力さの果てに、もうイメージの限界で、沈黙のなかでただ踊る。そのかたちなき踊りが限界を突き破って表現行為そのものになる。

 バタイユが「人間の署名」と言った、あの「井戸」の境界的なイメージ、あれは表現せずにはいられない人間がイメージの世界の限界に飛び込もうとする飛躍、言いかえれば人間なるものの「踊り」そのものなのではないだろうか。


*文中、「人獣図」について、「…洞窟の奥深く、空洞が下に落ちる「井戸」と呼ばれる場所の天井に、つまり深淵の上の天空に映されるようにして、…」とありますが、実際には坑の壁面(向こう側)に描かれているようです。『有罪者』(河出文庫)訳者の江澤健一郎さんが指摘してくれました。昔の学生、助かります。(以上訂正)
ともかく、描くにしても難しい場所という印象が強かったので、「天井にパタッと」と思い込んでいましたが、向こう側の壁面のようです。いずれにしても、なんでそんな場所に…というところに描かれている。

『私たちはどんな世界を生きているか』への蛇足2020/10/22

恥ずかしい帯
 初めて、新書という形で本を作る(書くというより)機会があった。それが昨日書店に並んだ『私たちはどんな世界を生きているか』(講談社現代新書)である。むっ?と言われる。新書なのに、タイトルだけでは何の本かが見当がつかないようだからだ。中身を示すタイトルをつけようとしても、こうしかつけられなかった。

 わたしは政治学者でも経済学者でも、また歴史家でもない。もともとは二十世紀フランスの文学・思想を研究し、とりわけ「世界戦争」の時代の極限状況のなかで書くこと・考えることの困難に直面した作家たちの研究から始めて、戦争、死、人間の共同性、宗教、世界史と文明などについて考察することを仕事としてきた者だ。それが、私たちの生きる現代世界の解明と理解に資すると考えて。

 だが、世紀が変わってとりわけアメリカの九・一一があり、世界に「テロとの戦争」のレジームが敷かれた頃から、その変化の捉え方・論じられ方が、メディアの領域ではとかく既成の国際政治の枠組みからの論評に留まって、出来事の深い意味を見損なっている(そして政治的議論を、既存の力によって設定された枠組みに流し込んでゆく)と思われ、アクチュアルな政治・社会的議論にも介入することになった。

 もっとも、ヘーゲルにしてもハイデガーにしても、誰もが自分の生きる時代の中で考え進めたことには違いなく、わたし自身も最初に『不死のワンダーランド』(一九九〇年)をまとめたときから、文学・哲学的考察のなかでつねにアクチュアルな状況を参照しないわけではなかったし、『世界史の臨界』はまさに世界がキリスト紀元二千年代に入るその時を意識してまとめたものである。だから、情況的な議論に加わることもとり立てて唐突なことではなかったはずだ。

 ただ、国際政治についての議論をする場合にも、あるいは現代世界の駆動力になっている経済現象を論じる際にも、世界にはさまざまな人びとがそれぞれの地域の政治構造の枠の中で生きているということ、現代世界が「西洋」と呼ばれる地域文明の世界化によって造形されてきたということ、そこには産業化という形をとる組織的知や制度の体系、さらには技術についての考えの普遍化が含まれているということ、そしてその展開のプロセスの内に政治や経済や宗教、社会性の分節化があったということを、考察の内に組み込まざるををえない。それがわたしのような論者の、あまり理解されがたい特徴にもなる。

 というわけで、わたしは自分自身の仕事を広い意味での哲学や思想史の括りに入れることにしているが(入れてくれるかどうかは別の話だ)、そのことも含めて本書の中身をタイトルに示そうとするとき、やはり「私たちはどんな世界を生きているのか」とするのが適切だと思われた。そこで扱われているのは、私たちの「世界」を規定する政治や経済や社会状況の錯綜する動態だからである。

 内容を紹介するよう求められて書いた一文は、講談社のPR誌『本』11月号で、「何が社会の再身分化を引き起こしたか」というタイトルで紹介されている。

 出発点は、現代がきわめて不確定な時代だということだ。とりわけ「未来」が見えなくなってしまっている。それは一方では、「人間」の輪郭がますます消されてゆき、それを支えていた「時間」の観念(意識の在り方)が変質してしまっているとこと、そしてコミュニケーションの軸である「真理」の足場が掘り崩されているということのためである。それを私たちはどういう社会的・日常的かつ歴史的「現実」として生きているのか、そのことの「人類史」的意味を考えながら確かめる、というのがねらいである。
 
 結論としては、世界史的に見て、フランス革命に極まった西洋世界の平等主義的動きが、その動力となった「啓蒙」の展開そのものによって、つまり科学技術の進歩と経済の自由化の果てに、諸社会の再身分化を引き起こし、解放や平等化の成果をチャラにしようとしている、ということだ。「啓蒙」の運動が世界戦争によって変容し二重化し、その一方が反転していると言ってもよい(ニヒリズム、フェイク、カルトと暗黒啓蒙)。

 そのことを二つの経験的な時間軸を立てて示そうとしてみた。ひとつはフランス革命以後の200余年、もうひとつは明治以降の日本の150年。なぜなら、日本は明治以降に世界史に、言いかえれば国際関係に、独自の時間を作りながら入ったからだ。そしてその二つの時間軸は「世界戦争」において劇的に交錯し、冷戦下で吸収され、グローバル経済の濁流の中で世界の分岐に呼応するようになっている。「私たち」は日本で生きており、抽象的な世界市民として生きているわけではない。この境界は無視できないし、横断はできても消去することはできない。

 日本という繭のなかで自閉的に現代世界を考えることもできるだろう。逆にまた、世界(普遍)の立場に立って、境界を超えたつもりになることもできるだろう。前者をナショナリズムと言うとしたら、後者はユニヴァーサリズムあるいはコスモポリタニズムである。だが、「私たち」の実情を知るためには「境界に立って」考えるということだ。日本と世界、世界の中の日本ということを意識するとき、足場は境界にしか置けない。本書の視点の特徴はといえば、この境界の条件に自覚的であることだ。

 それはわたし自身を「哲学」のカテゴリーから締め出すことになるのかもしれない。哲学は(他のあらゆる諸科学も)普遍主義でしかありえないからだ。だから、わたしはマルクスにもマックス・ウェーバーにも頼らない。形而上学にも普遍(社会)科学にも就かず、その「批判」(カント的意味での批判)を「西洋」批判と結びつけている。頼るとしたら、わたしの頼るのはジョルジュ・バタイユの近代知批判であり、カール・ポランニーの人類学的視点であり、ピエール・ルジャンドルの西洋的ドグマ批判、人間を「話す生き物」とみなすところから出発する人類学である。

 そう言うと抽象的に思われるが、実際に書かれていることは、日ごろ求めに応じて各所で話をする現代社会や私たちの生活を規定する諸条件に関する事柄である。そして結局のところ、ここで提示した世界の見通しには「奇抜な」ところはまったくないだろう。むしろ「ふつう」のものと言ってもいい。だが、「まともさ」にたどり着く途はけっして平坦ではない。それは、現代の日本に生きる日々の社会的経験に照らしてみればすぐに思い当たることだろう。
 
 それでは中身の紹介にはならないから、ひとつだけ参照項を挙げておこう。ちょうど、この本の紹介を書いた『本』11月号の巻頭に、同時期に出る『民主主義とは何か』という政治学者・宇野重規氏の寄稿文がある。宇野氏ははからずもいま菅首相による学術会議会員任命拒否問題の渦中にある学者である。そこでは、民主主義について、現代日本の最良の知見をもつ氏の経験と考察から、民主主義とは何なのかが問われ、整理され、現代にそれを擁護し生かす方向について、明晰かつ平易に書かれている。こういうものが、まともに考えれば異論の余地がないように書かれているのに、曖昧な錯綜したことをなぜ書く必要があるのかというと、私にとっては「民主主義」は土台でも出発点でもないからである。私はむしろ「民主制」という用語を使っている。それは政治理論や政治思想とは少しずれて、むしろ広い意味での法的な正統性の観点から事象を見ているからである。

 宇野氏は(というより政治学と言った方がよいだろう)現代の代表制民主主義が民主主義の典型ではないことを、議会制というものがじつは封建的身分社会から生じてきたこと、そして代表制や選挙が民主主義を支えるものではないことを指摘している。だからそれを踏まえたうえで「民主主義を選び直す」ことを提案していて、それはそれで納得できることである。ただ、ポリス(政治という概念の語源である)という人間の集合形態(共同体)が何を根拠の言説として成り立っているかと問うとき、デモス(民衆)だと答える体制がデモクラシー(民衆統治)だと考えるなら、「民主主義の空洞化」は別の形で語られることになる。それは「共同性」を支えるコミュニケーション空間の変容であり、それは政治的な問題というより、技術と不可分の経済による「政治」の侵蝕であり、アリストテレスの規定した人間の共同体としてのボリスの変質だということになる。私の議論はそのような形で、現代政治学の議論と斜めに交錯することになる。

デジタル化の津波に備える2020/09/27

見よ、同胞よ、春はきた
大地は太陽の抱擁を受け、やがて
この愛の実りが見られるだろう。
種たちは芽生え、生き物も活気づく。

この神秘の力に、我らの生存も負っている。
だから我らは隣人たちと、近しい生き物たちとも、
この大地に住むという我らの権利を
等しく分かち与える。

ところがだ、皆の衆、聞いてくれ
我らは今、違う種族と関わり合っている。
我らの父祖が最初に出会ったときには
彼らは小さく弱かったが、今では大きく尊大である。

かなりおかしなことに、彼らは土地を耕すものと思いなし、
所有する愛が、彼らのもとでは病気のようである。

あの連中は、さまざまな規則を作って、
金持ちはそれを平気で破れるが、貧乏人はいけないのだ。

彼らは貧乏人や弱き者らから税を召し上げ、
統治する金持ちたちを養うのにつかう。

彼らは我ら万人の母なる大地を、
自分たちだけに用立てる権利があるとい立て、
隣人を柵で締め出す。彼らは大地を、
自分たちの建造物や自分たちの汚物でだいなしにする。

このナシオン(国人)は、みずからの床から溶け出した
雪の奔流のように、行きすがりのあらゆるものを破壊する。…


シッティング・ブル(タタンカ・ヨタンカ)1875年の訓話から

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「アメリカ」と呼ばれる世界の急速な建造によって潰えていった「旧種族」の残した最後の言葉のひとつである。二世紀半にわたるその抹消は一九世紀末に完了する。
いま、このような言葉を想起するのは、失われた「古き人の世」を懐かしんで慰むためではない。このように「私的所有愛」の奔流が一世界を消し去った後の近代の「人の世」を、大津波が(日本だけではない)、そして新たな疫病が襲ったことを口実に、デジタル情報化の津波が世界を塗り替えようとしている。「人新世」の大津波か?そこからの「出口」を望見するとき、長期を考えるなら、われわれはこうした声の痕跡に耳を傾けなければならないということだ。
「文明世界」に「異族=エーリアン」として抹消されていった彼らは、「国人」の風習の異様さを見ていたが、百五十年後の「文明化」した日本でも、その風習は輪をかけて進んでいる。

アベノレガシー:権力私物化・公共性崩壊とヘイト2020/09/09

「ドコモ口座、18銀行と連携停止、不正預金引き出しで、地銀に被害」の記事に接して――

 新型コロナウイルス追跡アプリを配るといっても「紆余曲折があり」(JX通信社の記事の表現)、厚労省は予定の約2カ月遅れでやっと「接触確認アプリ」(COCOA) を配布。しかしこの間の政府の姿勢で(記録もなにも隠蔽・破棄、IT担当大臣は無能、ただし事あるごとに押しつけナンバーの口座紐つけだけはなんとしてでもやろうとする)、行政府に対する市民の信頼はゼロ。だから中途半端なアプリを誰も使おうとしない。

 そして中国のデジタルIT技術が進むと、独裁国家の監視体制が云々と言いけなす。中国では日常の市場の買い物もスマホでやるのが普通になっているし、そのネット売買等は信用ランキングアプリで確実性も市場的に担保される仕組みだ。そのことを多くの国民(中国人)はむしろ積極的に受け入れている。それがどういうことかは「独裁国家」などという「西側(=アメリカ)」のレッテル貼りでは理解できない。私は社会のデジタルIT化を無条件に歓迎する者ではないが(とくに5Gなど)、中国社会ではこれがどれほど経済の「成長」と国民生活のかさ上げに役立ったかということだ。それは少なくとも『幸福な監視社会・中国』ぐらいは読んで考えてみてほしい。

 日本はいま「コロナ禍の出口」としてデジタルIT化の推進を謳っているが、残念なことにその基幹リーディング企業である元NTT・ドコモが、やろうとするとたちまちこんな仕儀になる。ダダ漏れで使えないシステムしか開発できないのだ。これが日本の現状だということを理解しなければならない(イデオロギーではなく行政力・統治能力の問題)。

 「市場の自由化」と「権力の私物化」(いずれもprivatizationだ)を都合よく癒着させてきたこの間の日本の政権は、行政機関や社会組織(企業も含めて)を「忖度・隷従」の私権の蟻塚とシステムと化してしまい、「コロナ対応」でもそうだが、公共行政システムをまったく無能化させてしまった。そのカムフラージュ(というより政権の基本姿勢だが)として外の相手の実相を見ない「内向きニッポンすごい!⇔嫌中・嫌韓ヘイト」である。だからコロナも終息しない今も、そんな事は小事、大事は愛知トリエンナーレで「ヘイトはいけない」と発信し続けた大村知事のリコールだ、とバカげた騒ぎを、メディアは無視、あるいは何かまともな政治活動ででもあるかのように報じる(得意の「両論併記」?)。そして台風でも、韓国に抜けてしまえば知らん顔。

 この日本の「惨状」こそが、安倍史上最長政権の「レガシー」である。ただし、まさにその「レガシー」を重ねてきたために、安倍政権はさまざまな「汚物」を溜め込み、それがポリ袋をやぶって溢れるようになり、公文書隠蔽廃棄、官僚偽証、議員選挙違反、カジノ利権、そしてモリカケ桜で足元が崩れ出し、最後にそれらに蓋をする検察人事のムリ押しに失敗し、ついに国会を閉じて逃げ出したが、もはや再び国会を開くのはイヤだ…。そうは言えないから、「持病」を口実に使った。そしたら「同情」が集まったのか支持率上昇という怪、それは日本の現在の「惨状」をあくまで見たくないという、「アベノレガシー」の腐臭だと言わざるをえない。

 (ワクチン買い漁りも日本では開発できないから、そして英米製薬企業から「副作用があっても責任取らない」という条件まで受けいれて――さすがにそれはできなかったが――という酷さ。)

「黒人を勝手に殺すな」(BLM)から「法と秩序」へ2020/09/05

 8月25日、ケノーシャでJ・ブレイク殺害抗議デモで「自警」少年が発砲して2人殺害がまだもめている9月3日、今度はワシントンでまた尋問を恐れて車から逃げ出した黒人を警察官がを射殺。2日前にはロサンゼルスで、自転車に乗っていた黒人男性を交通違反容疑で呼び止めた警察が射殺…。警官による殺害と抗議はほんとど日常化。

・日本では、不祥事や議員逮捕や思いつきコロナ対策でもう国会も開けなくなり、やる気のなくなったアベに、誰かが入れ知恵して「病気理由」に「最長政権」で一旦ひかせ、同情誘って権力私物化の垢や埃をかけ流し、根っから執事に代役をやらせ、殿を守ってしばらく尻拭い、来年の幻のオリンピックの後の総裁選で、健康回復「待望」の再登板、高支持率(今でも高い)で今度こそ一気に改憲と、いかにもなシナリオが囁かれている。スガがほんとに首相になりそうだから、きっとこれは本当なのだろう。画策したのは日本会議の黒幕あたりか。

・アメリカでは、キヤラの弱いバイデンに水をあけられていたトランプが、警察官による相次ぐ黒人殺害・銃撃で「人種差別」批判が盛り上がるなか、むしろ「法と秩序」の名のもとに、デモを「暴動」とすり替えて「秩序維持」の警察を押し立てて「強い大統領」をアピール。アメリカ人が警戒し脅威に思っている中国にも強硬姿勢、経済制裁に止まらず軍事対立にまで持ち込んでいる(世界に緊張)。大人しいデモは不思議にすぐに「暴動」になる。
怒りが重なるから当然?J・フロイドの弟が必死でデモ参加者の怒りを抑えていた。デモが拡大すれば警察・治安部隊だけでなく、「自警団」や挑発者が出てきて、犠牲が増えかつ弾圧が正当化されることを知っているからだ。トランプは発砲少年を「愛国者」と呼んだ。黒人たち(やその支持者)はそれでもますます殺される(このニュース)。そんな事件が重なるだけ、アメリカ社会は不安になり、逆に「秩序」を求める。つまり黒人が警察に殺されることより、警察に「秩序」を守ってほしいということだ。それでトランプは支持を拡大する。ワクチンは強引に選挙前にも使えるようにする。ということで、多くのアメリカ人はいまや「もう4年」を求めているようだ。

・日本は悪どい画策がまんまと通りそうだというだけだが、アメリカは(とくに黒人たちにとっては)地獄のぬかるみ、「暗黒啓蒙」派や陰謀バノンがほくそ笑んでいる。酷い世界の流れだ。

コロナを吹き飛ばす厳しい野分の季節2020/09/01

(さすがに政権が変わるというので、何か書き留めておきたいと思ったが、何が意味ある形で変わるのかわからず、まとまらない。それでも走り書きでFBに上げた一文をこちらにも。)

 安倍のような人物がこの国の首相でなくなる日を見たい(いくら何でも――太田元理財局長の忘れられない一言――こんなのが首相ではいけない)と思ってきたが、それが「辞める」という日が来ても一向に気持ちが晴れない。何かが好転する兆しもないからだ。

責任感覚がからっきしない(モリカケ桜、居直りか逃げで、すべて手下を使って首相を守らせる)、法や憲法に従う気持ちはさらにない(「わたしが立法府の長」「みっともない憲法」「けちって火炎瓶」)、ただ「世界の真ん中で輝きたい」だけ、その安倍(とても敬称などつけられない)が、疑惑まみれでコロナ対策でも大ドジして、もうさすがに国会も開けない(ようやく閉じて逃げた)からにっちもさっちもいかなくなっただけなのに、病気を理由に辞めると言う。

 それを若い女性議員が鋭く突くと、たちまち「炎上」、この史上類のない(だから最長)不誠実な権力者を擁護するツイートが湧いて出て(みんな安倍が好きなんだ)、女性議員がネットで袋叩きに遭うのだそうだ。木村ハナちゃんみたい。

 そんな風潮を尻目に、自民党ではメディアを引っ張りながら後継者選び。日銀に札束無制限に刷らせて株価を挙げて円安にし、企業だけ儲けさせてフェイク経済で国民だます一方で、「暴君トランプ」に媚びへつらい、アメリカには何でも貢ぎ武器も爆買い、改造空母に乗ってご満悦、ニヤケ顔の裏でずっと抗議を続ける沖縄を踏みつぶし、朝鮮・韓国ヘイトを煽って戦争ごっこ、「民の要求は踏みつぶし、強者に媚びる」その安倍政治を「権力者は裁かれない」の鉄面皮の壁で守り通し、みずからも陰湿に権勢を振るった「悪代官」がつなぎ首相だと!他にいないのだ。7年半で毒が回りきっている。

 つまり安倍の「レガシー」は日本の政治と社会をすでに抜きがたく浸している。気が晴れるわけがない。今日、沖縄に猛威を振るう台風の、すぐそのあとで別の猛烈な台風がすでに本土をうかがっているという。

2020年夏の酷暑、「失われた未来」の蜃気楼2020/08/15

8月15日、朝から猛烈な暑さだ。東京世田谷の一角(ここに住んでいるのは偶然と惰性、どこでもいいのだが)。8月6日の広島も暑かったという。FBで便りがあった、ある友人は家族で長野の涼しいところに数日出かけたようだ。

気温予想図では、東北から下は軒並み赤を超えた紫(35度以上)。気象庁測定で37度だと実測だいたい40度を越す。これで一年遅れの夏の東京五輪をやる、やれるという。だからコロナもものかわ、Gotoキャンペーン。最近は、政府というより大本営が、世界の目ぼしい製薬会社から、まだできてないワクチンの先物買占め。来年初めまでにはワクチン準備できてオリンピックは大丈夫、と思わせるつもりか。だが国内はそれでダマせるとしても、トランプのアメリカといっしょに(アメリカには遠慮して)買い占めたら、他の多くの国(とくに貧しい国)にはワクチン回らず、世界でコロナの流行は収まらない。それじゃ「世界の祭典」オリンピックなんてできないじゃないか(最後は金目、金出せば選手は来てくれる、とでも思っているのか)。一国エゴイズムはパンデミック対策には禁物だし、万国を「おもてなし」するはずのオリンピックもそれではできない。

それも分からない大本営のやっていることはメチャクチャ。終戦記念日を前にして、沖縄では東京の実質5倍の感染拡大。米軍サマは治外法権でコロナ持ち込むし(基地内感染者を市中に出す)、Gotoキャンペーン突撃敢行で沖縄は火の車。だが、辺野古新基地に協力しない沖縄を大本営は冷たく見放す。ああ、あの時のウリズンの雨…。

コロナ対策のまず第一は株価維持(年金資金と日銀券使って泥に砂を入れる)。問題は保健衛生ではなく、経済ダメージを防ぐことだから。株価を維持しておけば景気は悪くないことになる。それに金のある連中は「大本営」に文句を言わず、支持し続ける。その他の対応は、身内に利権の機会を作るため(布マスク、支援金給付中抜き)。とくに、オリンピックで大打撃が分かっている電通には何でもやらせる。それと、あらゆる災害や問題は、竹中パソナの人材派遣業の拡大機会だ。

2020年オリンピックは東京招致のときから問題があった(石原闇都政の清算招致、電通を通した買収疑惑)。招致が決まってからも、エンブレムから国立競技場新設のゴタゴタ、もう日本にはこんな大行事の運営能力がまったくないということも露呈していた。それをボランティアの参加機運醸成でごまかす。だが、年ごとに厳しくなる夏の東京の暑さも逆境、東京湾の海も放置で汚染が露呈、打ち水かき氷で何とかなったのは江戸時代。マラソンは北海道でやることになった、ということは世界から東京の夏はムリと言われたということ。そういうのを全部やり過ごしてきた。

そこにコロナ禍。だが世界中が苦しんでいるパンデミックへの対策は、来年のオリンピックをやることが前提であるかのように、それに向けて上記のような対応でこの夏をやりすごそうとしている。あたかも今年の予定がじつはウソで、来年が本来だったかのように。だがしかし、五輪史上初の延期決定の時点で、もう世界的にはできないことは分かっていた。ワクチンは確実ではないし、順当に考えても世界に行きわたるには2年はかかるとまともな専門家たちは言っている。だが日本政府はやることを主張している。だから「大本営」、インパール作戦だ(政権のあやしい巫女たちは、戦争の試練で民の魂が浄化されるとか言っている)。

実際、できなかったらどうなるのか。日本政府(というよりアベ政権)は、後は野となれ山となれ、責任は問われないことは分かっている(大本営は責任をとらないし、メディアから検察まで骨抜きにしてある)。そして日本は、「失われた未来」の荒野を呆然とさまようことになる。

仕込んであるのは、嫌中・嫌韓、悪いのは国の内外にいる。トランプのアメリカも、もはやそれしか手がなくなって、対抗国中国叩き(辮髪シナ人が、増長して白人世界に盾つこうとしている。生意気にも俺たちにとって代って、軍事・経済・情報技術で世界元締めになろうとする。自由も香港もオレたちのものだ)でヤクザ手法に居直ろうとしている。国民は右から左まで、一億総ざんげでもう一度アメリカに身を預けて、自分ダメさの憂さをはらすことになるのか。

だからモーリシャス沿岸で、商船三井の座礁貨物船から1000トンを超える石油が流出しても、わずか6人の専門家を送っただけで、日本政府はほぼ知らん顔。自然の海と島しかない人びとからそれを奪い、苦難を与え、世界に取り返しのつかない迷惑をかけているのに、そんなことは顧慮の外。

この酷暑でも「失われた未来」の蜃気楼は晴れないのか。オリンピックができないという現実に誰も向き合おうとしないのか。その「ウソ」がこの国を腐らせている。今日、やめると決められたら、もう10日もすれば「正気の秋」に入れるのに。これが日本炎上、2020年の終戦記念日か

「GoToキャンペーン」のトラブル2020/07/16

7月16日、東京で感染者数280を超える(検査数4000)。政府はまだ22日開始予定の「GoToトラブル」を止める気配はない。16日に専門家の意見を聞いて検討としている。

 「GoToキャンペーン」ルはコロナ禍流行で最大の「被害」を受けた観光業を救うためのもの。しかし直接支援ではなく、国民にインセンティヴを与えて旅行に行かせると、支援したものがそのまま消費に回り、観光業が息をつくというもの。つまり、国民(インバウンドも)を移動させて消費を作りだす。

 これが「布マスク2枚」(胡乱な経路で届かぬ不良品)につぐ、政府の鳴り物入りのコロナ対策(最初は感染防止、二度目は経済回復)。しかし折から首都東京(ここから旅行者が出かける)では感染者数が増え続ける。だからこのキャンペーンは小池が皮肉に言うように、「ブレーキかけてアクセル噴かせ」と言うようなもの。あるいは、経済を回すために文字どおり人間を動かす(必然的に感染拡大)というもの。ここに現政権の倒錯的政策きわまる(「消費に回らない支援は無意味」それが「経済を回す」ことの意味)。

 だから地方では東京からの人の移入を嫌って、「人災」だとして観光施設を閉じるところも出てくる。すると「安全安心な旅行を楽しむため」に「三密を避けて食事も家族で、そして部屋から出ないで…」と小学校の先生のようにご教示くださる。では、何のための観光旅行なのか。NHKの視聴者をバカにした子供向けニュース解説番組でも、解説者も分かりやしようと努力すればするほど、ホントのことに近づいて冷や汗かいて解説、の挙句に多少はおかしさを指摘せざるをえなくなる(14日夕の放送)。

 そしてそういう時には「専門家」にもたれる。「専門家の方々のご意見を聞いて…」と、あたかも「専門家」が決めるかのような言い方で、責任をごまかす。だが、政策決定の責任は政府だろう。そんなふうに利用されて愛想が尽きたはずの「専門家」尾身某氏は、しかしこの段で自分も責任を負わされるのがいやだから、「旅行が悪いわけではない」と言う。自分は感染症の専門家であって、旅行の専門家ではないとばかり。それにしては「経済の回復は大切」とかも言う。それがこの国の政府と専門家の関係だ(福島事故以来、この関係は確立された――どちらも原発継続の社会的責任をとらない)。

 それと、「専門知識」で世間を煙に巻いて、何のためか「やたらとPCR検査をしても混乱するだけ」と、検査が必要と訴える専門家や一般の人たちを「PCR原理主義」と批判して叩いてまわる連中もいる。だがそれは統計処理の実効性の話であって、感染防止の話ではない。「間違った数値」がたくさん出ると医療体制が逼迫して病院関係者がパンクする、だから検査はするな、というのも倒錯でしかない。小池知事も「検査数を増やしているから(今6000キャパのうち4000件)感染者数が増えるのは予想の範囲」と言っている。しかし、検査をしなければ感染状況はまともに推測(いずれにしても)できないのだ。

(体調がおかしくて病院に行っても、「検査はむだだ、しない方がいい」と力説する医師もいるようだ。では診断はどうなるのか? コロナ感染かどうか診断するには検査がいる。その検査をするなというのは、医師が診断をムダだと言っていることになる。じゃ、医者も病院もいらないじゃないか?という話だ。「検査をさせるな」という連中は、中身を問題にせずに数字で好きな結果を出して意味づける統計学の最悪の側面を利用しているだけ。)

 医療体制の整備こそ、いま火急にやらねばならないことではないか。病院の経営逼迫→現場へのシワ寄せで、医師が悲観して(あるいはアホらしくなり)離職し、看護師がストライキする(東京女子医大病院)あるいは400人離職、といった事態が起きている。しかしそのニュースの詳報はあまり聞かない。メディアがしっかり問題を見ず、官邸や都庁の言うことばかりに食いついているからだ。だいたいコロナ禍状況の全般について、現場の報道があまりに少なすぎる。医療管理も基本的に政府の仕事だとしたら、まずこの医療現場を見て、それに対する対策を立てることからしか始まらないはずなのに、経済振興で「GoToトラベル」が第一歩。

 じつは国内の経済体制(消費)を観光業に流し込んでしまったのがもともとの問題ではあるが、そのつけがこういう形で表れてきたということだ。

 とても一国の政府とは思えない。都市封鎖という強硬措置をとったが、10日で大病院を建設、5万人の医療関係者を募って投入、そして市民生活の徹底サポート(暴動が起きないように)をやって全土蔓延を回避した中国政府のほうが、はるかにまともな政府である。独裁かどうかの問題ではない(日本でもアベの何でも通る体制はできている)。政府としての統治能力があるかどうかの問題だ。


*菅氏「厳しい状況から脱却」 GoTo意義を強調 共同通信 2020/07/16 https://news.yahoo.co.jp/pickup/6365599
*「目玉」一転、政権の重荷に GoTo見直し論浮上/西日本新聞 2020/07/16 https://this.kiji.is/656333894764381281
*児玉龍彦さんのごく短い渾身の証言。前後の杉尾議員の質疑も。このYoutubeの49分あたりから
https://www.youtube.com/watch?v=tJlLAJ2p9VE&fbclid=IwAR3dOFE6mCxExRDMj16vB2DfFfXiHIHwkQaBzcojb5ltWLY_KHdvRCCVj5k