安倍政権-不適格者たちの危険な国政遊戯2017/05/04

 70年目の憲法記念日に、安倍首相はとうとう憲法改正を正面から掲げた。天皇談話でもないのに、ビデオで談話を公表するという異例のやり方だ。稲田自衛隊問題、森友問題を、共謀罪上程で押し潰し、北朝鮮危機の空芝居を国内に広めて、満を持して(?)改憲発議?
 昨今のとりわけ「不良品閣僚」問題を契機に、共同通信の依頼で以下の記事を書いた。「改憲」を掲げるのがこういう政権だということだ。手直ししたものがすでに地方各紙に掲載されている。
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 今村復興相がとうとう辞任に追い込まれた。安倍内閣の度重なる「失態」だ。最近では「共謀罪」担当の金田法相が、答弁ができないからと官僚に代行させて問題になった。稲田防衛相は南スーダン派遣の自衛隊日報を把握していなかったばかりか、森友学園の弁護を務めたことも「忘れ」ていた。「がんは学芸員」とか「長靴業界はもうかった」と「失言」して辞めた閣僚・政務官、ストーカー登録された政務官もいる。もう覚えきれないほどだ。

 「失言」以前に、問われているのはこの人物たちの閣僚あるいは国会議員たる資格である。政治家は国政に携わる。大臣ともなれば責任も大きい。だが、担当の重要法案の説明もできず、管轄の省庁の把握もできていない。あるいは職責も理解せず、恥とも思わず威張ったり人のせいにすることしかできない。

 当然ながら、そんな人物を登用する首相の責任は重大である。だがそれ以前に、政権党がそんな人物ばかりを選んで公認し、当選させて頭数を揃えていることが問題だ。

 任命権限をもつ首相は、森友学園問題で明らかになったように公私の区別がついていない。「私人」だと言い張る夫人に、官僚を五人も付ける首相は、権力を私物化しているとしか言いようがない。国会質疑は答弁にもならない「答弁」で押し切り、無理強いの断定を「閣議決定」する。その決定が「真実」と言わんばかりに。こんなことが平気で行われれば、大人の社会も子どもたちも、日本はこういうところなのだとそれに倣うだろう。事実、官僚たちからしてすでに「忖度」に漬かり切っている。

 安倍内閣の支持率が高いというが、ほんとうか?代わりが見当たらないからだそうだ。だがこんな陣容で、安倍政権は国の命運を決めるような政策を次々に打っている。いや、実情は、外交も内政も、オバマだろうがトランプだろうがとにかくアメリカに預けるだけだ。だから「危機」のとき、直接の相手国とは外交手段をまったくもたない。

 そういう内閣が、実態を隠すために秘密保護法を作り、さらに物言う市民を黙らせるために「テロ」を口実に共謀罪まで通そうとしている。そうなれば、いまの劣悪な政治の実態すら問題にできなくなるだろう。政権に反抗するのは「テロ」だそうだから。

 それでも旧民主党政権よりましなのか? 7年前政権交代を果たした民主党は、不器用でかつ、変化を怖れる官僚たちにそっぽを向かれ、メディアにも叩かれて、大震災のあおりもあって迷走のあげくに瓦解した。それ以来、民主党にはこりごりだから自民党、という風潮が広がっている。日本には他に選択肢がないというのだ。その空気を最大限に利用した自民党は膨れ上がり、偏った政権に奉仕するだけの劣悪な議員を増やしてあとはやりたい放題。それが日本の政治を底なしに腐朽させている。

 おかげで、日銀の札束増刷には歯止めがなく、貧困は拡大し、弱者は自己責任を押しつけられ、若者は将来の見透しが立たず、社会は殺伐として澱んでくる。それを「危機」を煽って浮足立たせ、オリンピックを煙幕にして操ろうとする。しかしメディアの自由度は最低と世界からは見透かされているのだ。

 だが、もうそんな政権に国を預けるわけにはいかない。私欲や個人的妄念のために国を弄ぶ政権、その実態を見なければいけない。なぜメディアはこの政権に甘いのか。コントロールされているという。そう言われるままでよいのか。国を破綻させる片棒を担いでどうするのか。どんな政権でも、今よりはましだとそろそろ気づくべきときだ。

立憲国家のメルトダウン2017/05/01

 施行70年の憲法記念日を前に、憲法学者でない多様な人士53人の憲法論を集めた『私にとっての憲法』が岩波書店から刊行されました。わたしも森友学園問題渦中にギリギリで寄稿しました。その後半をここに転載させていただきます。思えば2年ぐらい前からこういうことばかり書いていますが。
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(…略)
 この安倍首相は、就任早々日銀総裁の首をすげ替えて、金融政策の慣例的な自立性を無効にし、NHK会長にも息のかかった人物を据え、内閣法制局長官まで慣例を破って外務省出身者を充て、金融、メディア、法制のチェック体制を掌中に収めたが、それだけでなく、最高裁判事の選任にまで手をつっこんでいることが最近知られるようになった。

 当人は安保法制審議の国会審議にいらだって「(憲法解釈の)最高責任者は私だ」と筋の通らぬことを言い、後には国会で「私は立法府の長」とさえ言った。それは彼が自国の政治制度について無理解であることを示してもいるが、三度の衆院選と参院選で絶対多数の議席を確保し、どんな法律も通せる状態にある以上、行政府の長である自分が立法府も意のままにできるという暗黙の「事実」を公言したにすぎない。そして沖縄関連訴訟や原発訴訟に顕著なように、今では事実上、司法もほぼ「コントロール下」に置いている。

 おそらく安倍政権は、集団的自衛権の行使容認を閣議決定したときから、憲法は無視すればよい、それがあっても事実上反故にできると気づいた(あるいは確信した)のである。行政権力にはそれが可能だと。それ以来、憲法はあってなきがごとく、労働に関する立法も、家族に関する立法も、共謀罪も、どうみても憲法との整合性を疑われる法律を次々に作ろうとしている(それをチェックするはずの内閣法制局は、ある元最高裁判事に言わせれば「いまは亡い」)。

 さすがに憲法もこのような政権の登場を予想していない。憲法は、天皇や国務大臣に尊重義務を課しているが、当の国務大臣が(総理を始めとして)憲法を守る気がないだけでなく、それを「みっともない憲法」としてまるまる廃棄しようとしているのだから、何をかいわんやである。

 ちょうど戦後五〇年日の頃から、「主権在民」「基本的人権の尊重」「非戦国家」を柱とする日本国憲法を廃棄して、これを全面的に逆に書き換えようとする勢力が伸張し、とうとう第二次安倍内閣を成立させた。この政権の目的は、時代に合わなくなった条項に変更を加えようという「手直し」ではない。言われるところの「改憲」とは、今の憲法そのものをお払い箱にしようということである。しかしそれを正面から言うと実現できない。そこで、背広の下に軍服を隠しながら逐条的な「手直し」だと言いくるめる。

 「自民党改憲草案」とは、日本国憲法を根本から否定し、それにとって代わろうとする別の憲法案である。それを掲げる政権が国会で絶対多数を握った。そのこと自体がすでに「尊重義務」違反なのだから、この政権は、憲法はあっても守らなくてもいいということに気づいてしまったのである。あるいは、黒を白だと「解釈する」ことを閣議だけで決定できるとしたのである。

 それが二〇一四年七月、それ以来、安倍政権はアメのように溶けてしまった憲法を尻目に日本を引っかきまわしている。これこそが立憲国家のメルトダウンとも言うべき事態だろう。そのメルトダウンを隠し、首相官邸という名の「免震重要棟」のなかで、この政権はあらゆることを閣議決定で決めている。誰がこの「憲法停止」の「緊急事態」を収拾できるのか、それがいま問われている。言うまでもなく、それは「主権者」である。

「沖縄差別」の遠近法2017/04/29

「琉球新報」が、基地建設反対運動のリーダー山城博治さん他を逮捕・長期拘留した(東京から支援に行った反差別運動・カウンター活動の高橋直輝も不当逮捕のうえ199日間も拘留され、ようやく最近保釈された)ことを機に、一方で沖縄の意志表示を踏み潰し、他方でそれを看過する「沖縄差別」の問題をとりあげて、「分断を超えて」というシリーズを掲載している。その第1回(4/26)に寄稿した記事をここに再掲させてもらう。
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 一九九五年に米兵による少女暴行事件が起き、那覇で「復帰」後初めての大抗議集会が開かれた。これが今日の辺野古新基地建設をめぐる対立の発端である。何の対立か。沖縄と日本、行政的に言えば沖縄県と日本政府の対立だ。日本政府は防衛(これを最近では安全保障と言う)上の理由から沖縄に基地を置くのを当然とみなす。日本の安全保障は「日米同盟」前提だから、それが米軍基地か日本軍基地かは問題ではない。だが、沖縄にとっては辺野古に恒久基地ができたら、占領期以来の基地負担がやむ希望がなくなる。

 沖縄戦の経験から、基地のあるところが戦場になるということを沖縄は骨身にしみて知っている。だから対中危機を煽っての沖縄の恒久基地化や先島の軍事化は、「捨石作戦」の悪夢をよみがえらせる。だが日本政府、とりわけ中国敵視、日米同盟のワンセットからしかものを考えない安倍政権は、あらゆる手段を使って沖縄世論を切り崩し、有無を言わさぬ強硬姿勢で基地建設を推進しようとしている。

 その意を汲むかのように、政府に同調する勢力が沖縄に圧力をかける。沖縄の「わがまま」を批判し、「お国」への貢献を求める。あるいは基地建設に抗議する人びとを誹謗中傷し、運動を民意から分断し孤立させようとする。それが「沖縄ヘイト」と言われる言動を生む。

 メディアについても「沖縄二紙を潰せ」といった発言が政府周辺から出る。沖縄二紙は地域紙だ。だから地域住民の関心に応える報道をする。地域紙なら当然のことなのだが、「国家」を掲げる者たちは「国益」にかなった報道をせよと言う。つまり地域世論を操れということだ。それを最近では「国家第一」と言うようだ。ただし、「国益」と言われることはしばしば「私益」の隠れ蓑にすぎない。とりわけ、森友学園問題に如実に表れたように、首相の権力をあからさまに私物化している安倍政権の場合はそうである。

 沖縄では、米軍占領下で多くの人びとが「祖国復帰」を求め、曲がりなりにもそれが果たされ、しばらくは日本国家への再統合が進んでいた。しかし、くすぶっていた米軍基地問題が九五年に再噴出、日米安保体制下での日本と沖縄と接合の危うさが問われるようになり、以後、日本政府は沖縄の懐柔に腐心してきた。しかしいわゆる教科書問題で、沖縄戦の記憶を日本の歴史から抹消する意図があらわになると、対立の軸はもはや「保革」ではなく「沖縄と日本」になった。沖縄戦は戦後の沖縄の存立の原点だからだ。

 この対立は、人びとの記憶を一気に「琉球処分」にまで引き戻す。琉球国を廃して沖縄県を置く、それが近代国家草創期の日本政府によってなされた「処分」だった。沖縄が日本の他の都道府県と違うのは、この「処分」によって日本国家に統合されたという点である。他の都道府県は初めから日本国に属していた。だからその歴史を地域史として語るときにも、それは日本史の一部になる。だが、沖縄県は日本史とは違う固有の歴史を語りうる。その違いは沖縄戦と戦後の運命によってさらに強調される。沖縄県は地上戦で人口の四分の一を失い、そのうえ米軍占領下で基地の島に変えられながら、日本の行政権に属さない二十七年を過ごした。いわゆる「アメリカ世」だ。日本の歴史にそれがどう書き込まれるかは今後の沖縄の死活に関わる。

 近代の歴史は否定しようもないが、沖縄がいま日本の一地域として統合されているとしたら、その統合を望ましいものにするのが日本政府の責任だろう。だが、そこに亀裂が走り深まっているのが現状である。その対立は国家と一地方という非対称な対立であり、圧倒的な権力関係の下にある。沖縄の人びとが抱く「差別感情」はその表れに他ならない。

 「琉球処分」以来、たしかに日本は沖縄を属地のようにして扱ってきた。それは、一九〇三年大阪博覧会での「人類館」事件に露骨に表れていたし、また差別を受ける屈折した思いは山之口獏の詩などに深く表現されている。今では「沖縄県」はごく自然に受け入れられているが、このような対立が目立ってくると、アパートを借りるのに「沖縄人お断り」の看板がかかっていた時代に逆戻りする。本土に沖縄料理店が広まり、沖縄の海や風になじんだ「沖縄ファン」が増えても、彼らは「リゾート地沖縄」にしか関心がない。その風潮は無言の「差別」を後押しする。

 つい最近の衆議院憲法審査会で「国と地方のあり方」がテーマになったとき、複数の参考人から地方自治の「本旨」を強調する意見が出たという。自治とは自ら治めること、オートノミーである。国にとっても自立が必要だが、地方にも自治が必要である。それが民主国家の基盤でもある。沖縄が日本において十分な自治権をもつこと、それが統合の実りをもたらす道であり、「琉球処分」以来の「差別」の構造を解消する唯一の道であるだろう。

共謀罪法案提出とその時機2017/04/08

 この間の安倍政権のドタドタをかいつまんで振り返ってみよう。共謀罪提出は、その内容ももちろんのこと、提出の状況もとんでもないものだからだ。

-去年11月のアメリカでのトランプ当選に大慌て。TPPで奉仕(強行採決)の目算が狂い、「アメリカ・ファースト」になりふり構わず「日米同盟ファースト」で抱きつき。11月下旬には問題が多いまま自衛隊に「駆けつけ警護」の任務を付けて、内戦状況の南スーダンに派遣。一方で対ロ関係「進展」を地元山口で演出しようとしたが、剛腕ロシアのプーチンには軽くあしらわれ、その失敗を「電撃・真珠湾コウゲキ」で糊塗しようとする茶番。

 1月安倍訪米のあと本格的に始まった通常国会では、まず答弁できない稲田防衛相の「不適格」問題が露呈。南スーダン自衛隊派遣の責任者が、「戦闘」と言えないから事態は「衝突」、そう言わせる憲法9条が悪いと言わんばかりの答弁。そのうえ、昨夏の陸上自衛隊PKО日報が「廃棄」されたと防衛省が言いう。それを河野文書管理担当相の要請で「再調査」したところ、電子データがあることが分かり、これが2月に公表されるが、ほぼ黒塗り。

 明らかになったのは、稲田防衛相は防衛省(自衛隊)をまったく掌握していなということ、逆にいえば防衛省は省内のことを大臣に話していないということ。安倍首相に後継者と位置づけられて抜擢された稲田氏は、単純に大臣不適格だというだけでなく、実際に自衛隊は大臣を無視して独自に動いている(もはや「軍部」になっているということだ)。そんな大臣を罷免もしない、これが安倍政権の安保政策運用の実態だということだ。

 すでに大問題だが、それが何らの対処もされないうち、今度は「森友問題」が浮上。これは基本的には財務官僚による国有地不正売却問題だが、その相手が安倍総理夫妻と関係浅からぬ学校法人であり、用地取得が日本初の神道小学校「安倍晋三記念小学院」開設のためだったということ。さらに森友経営の塚本幼稚園の実態(園児が教育勅語暗唱、安保法制ありがとう、と安倍首相に感謝)が明らかになった。首相は国会で関係を否認してヒステリーのような答弁を繰り返したが、籠池理事長の会見を受けて、政府自民党は「懲罰」のために籠池理事長の証人喚問を受け入れ、そこで元警察官僚の議員を使って逮捕の恫喝に終始する。しかし森友学園の「愛国教育」が安倍首相の「理念」とも符合し、それを否定しなければならない首相の苦衷がはからずも表に出る。

 この件では、小学校に異例の認可推進を行った大阪府知事(維新の会)も絡んでいたが、松井知事は籠池元理事長を悪者にして居直る。そこに、さらに大規模な(森友9億、こちら30億超)安倍友「加計学園」問題も浮上。アベノミクスの売り物の一つ、いわゆる「特区」の「規制緩和」の実態が露呈。森友案件に深く絡んでいた首相夫人の「公私」が云々(デンデン)を「閣議決定」するという笑劇の一場もあったが、私人・公人の問題ではなく、公権力の「私物化」こそが問題。たしかに、それを禁じる法律はないが、これだけの「背任」にも検察はまったく動かず、地方議会議員が告発するのみ。もはや日本では、権力を手にしたら、憲法無視はもちろん(集団的自衛権行使容認以来)、何でもできるということが明らかに(それまで政治家たちがやらなかったのは、自民党内に相互牽制があったのと、いかにも政治家としてはしたないことだったから)。

 そして「教育勅語」が話題になったこの機会に、なんと政権は戦前体制のバイブルだったこの「勅語」(もちろん天皇が作ったものではない、天皇を統治に利用しようとする連中が作った)を学校で使うのも悪くない、と「公認」路線をうちだす。

 折しも、正規教科にされた道徳の教科書検定で、パン屋の例が相応しくないとして和菓子屋に変えたらパスという事態も(ケーキより毒まんじゅう、プリンよりコンニャク?)。そのうえ体育に銃剣道(こんなものが「道」だと聞いたこともない、弾がなくなったときの「一億ギョクサイ」訓練)も取り入れると、異常としか言いようのない文科教育方針。ドサクサまぎりに何でもやる、というだけでなく、ネガティヴにでも話題になったら通りがよくなったことにして押し通すというあられもない手口。

 3月には東芝崩壊が明らかになった。日立も減損を計上したが、東芝は1兆超えの減損。みんな原発商売のため。原発は東芝を潰すほど、もはや商売にもならない。にもかかわらず安倍政権は原発推進をやめようとせず、それを「忖度」して裁判所まで再稼働を許可する判決を出す。一方で被災者支援を3月で打ち切り。現場はまったく「コントロール」されず、年間1ミリシーベルトの国際基準を、日本は大丈夫とばかり20ミリシーベルトに挙げて被災地に帰還を強いる。そして経産省は「日本ってすばらしい!」という恥ずかしさもきわまる国際広告を打つ。

 そこに今村復興大臣(東電株もたくさんもっているようだ)、「自主避難者は自己責任」、国の方針に従わない者は面倒見ない、と復興法にも背馳することを公然と言い放ち、質問する記者を脅して追い返そうとする。こんな大臣も罷免しない。実際、この政権の閣僚は、首相がひどいから目も当てられないような連中しかいない。

 このドタバタの陰で、去年の女性暴行殺害死体遺棄事件やオスプレイ墜落事故をも忘れさせ、山城平和センター議長を5か月以上も拘留し、辺野古の新基地建設工事は着々と進めていて、あらゆる反対を押し潰して近く最初の埋立てを始めるという。

 問題が起こるとさらに大きな問題で騒ぎを後ろから前倒しに潰し、次々に問題をさらに大きな問題を押し流してゆく。それがこの政権のやり方である。次々に閣僚の失態や失格が明らかになるが、それでも「問題ない」としてこのデタラメ内閣は責任者に責任をとらせない。

 だが、これだけ政権の土砂崩れが起こると、いい加減年貢の納め時かなとも思うが、そこに共謀罪を上程して、また他の騒ぎを押し流そうとする。そう、この政権はいま、強力なサリンを撒いて政権批判を押し潰そうとしているかのようだ。それが共謀罪上程である。もちろんこれは、警察権限をほぼ無制約に拡大する最悪の治安立法である。それを持ちだして、稲田・森友・加計・安倍政治問題・失格大臣やその他の政権の崖崩れを、もっと大きな災厄(共謀罪)で潰して苦境突破を図ろうとしている。

 共謀罪(テロ等対策法?)が許せない悪法だというだけでなく、それをいま提出している安倍政権そのものが、いかにひどい政権であるかということを確認しておかなければならない。ほんとうにとんでもない「亡国政権」だと言わざるをえない。この先にはもう日本の瓦解しかない。個人の人権とか自由を守るとかいった贅沢な話ではない。この政権の延命の先にはこの国の瓦解と荒廃しかないということだ。

民主主義を取り戻すために2017/04/03

ピエール・ロザンヴァロン『カウンター・デモクラシー』について――

民主主義の根を絶ちかねない「共謀罪=テロ等防止」法案が国会に上程されようとしている折も折、岩波書店からピエール・ロザンヴァロン(仏)『カウンター・デモクラシー』の翻訳が刊行されました。もちろん、悠長に本など読んで勉強している余裕もない昨今で、いい加減うんざりさせられますが、それでもなお、なぜデモが必要なのか、どうしてそれがわれわれの権利なのかを納得させてくれる本です。民主主義の歴史をつぶさに検討しながら、今日もどこかで声をあげることの必要と正当性を確認させてくれます。
巻末に、この本の意義を説く解説を書かせていただきました。広く目をとおしていただきたく、一部をここに掲載します。

●監視し、阻止し、裁く――民主主義を取り戻すために

・安倍政権下の官邸独裁(略)

・民主主義を実効化する智恵(略)

・「不信のまなざし」はなぜ必要か
 
 民主主義を実のあるものにするためには選挙以外にさまざまな方途が必要である。選挙はつねに信任の手続きだが、いったん選ばれてしまうと代表はその信任を離れやすい。だから権力を委ねる代表にはつねに「不信」のまなざしをもつ必要がある。

 権力の振舞いはできるだけ可視化し、それを監視しなければならない。そして権力の逸脱が見られるときには、さまざまな手段で抗議の意志を表明しなければならない。それがなければ民主主義は形だけのものに止まるだろう。多くの人びとが集まって意志表示するデモンストレーションはその重要な形態である。それはまたメディアによって可視化されなければならない。ここにこれだけの「民意」の直接表明があると。メディアが権力の補完物でないとしたら、それもメディアの役割である。

 監視し、阻止し、裁く。こうした権力への対応を本書の著者ピエール・ロザンバロンは「カウンター・デモクラシー」と呼んでいる。それは言うまでもなく民主主義に対抗するものではなく、代表選出だけではけっして完結しない民主主義を実質化する、民主主義のための不可欠の要素なのだ。

 もちろん、代表を選んだら基本的には彼らにすべてを任せておきたい。議員はそのために強い職権と手厚い保護を与えられているのだから。だが、往々にして彼らは裏切る。民主主義が選びを手続きに組み込んでいるからといって、それをある種の「選民」思想に横領しようとする連中さえいる。彼らは手続きさえ踏めばこの仕組みを「選民統治」に変えてしまおうとする。だからこそ「不信のまなざし」は欠かせない。

 民主主義とは多数多様の人びとの意志を集約する仕組みである以上、もともと一元的ではありえない。むしろ声の複数性を前提としている。それを代表の枠に強引に一元化するとき、民主主義は専制や独裁に転化する。それを防ぐためには、選挙に還元されない、選挙で決まったことにされない、このような多角的な「カウンター」が必要なのだ。それなしに民主主義は実現しえない。

 本書の著者はそのことを、近代の民主主義の成立の理念から、また多様な歴史的経験をたどりながら、つぶさに描き出している。折しも、冒頭で述べたように日本ではいま民主主義が最大の危機に瀕している。憲法違反が明かな決定が閣議でなされ、政権周辺から法的整合性は二の次だという声が公然とあがり、その閣議決定に基づいた安保法制が強行採決されても、ほとんどの主要メディアは政権に懐柔されて批判的監視の姿勢を置き忘れ、積み重ねられる不法は既定のものとなり、異常なことは何も起こっていないかのような気配だけが漂う。そしてあちこちで抗議の声が上がっても、そんなふうに騒ぐ方がおかしいといわんばかりの状況である。

 だが、日々の生活をひたひたと侵す不安に気づいた若者たちが、国会前に集まり抗議の声を上げる。そして「民主主義って何だ?――これだ!」とコールする。それをメディアは伝えるのを忌避し、町行く人びとは騒々しい連中がいるようだとしか思わない。沖縄の基地反対運動にいたってはさらに極端だ。何度も表明された民意をそのつどあからさまに振り払って、辺野古基地建設の強行が続く。その民意を「頑迷」だとか「過激」だとみなす気配まで作り出されている。

 いまやこの国では権力が監視されるどころか、権力の横暴に背を向けて抗議する人びとを白眼視する傾向さえある。もはや民主主義は足元どころか腰まで朽ちかけている。その現状の深刻さに目を覚ますためにも、民主主義とは何かをつぶさに確認するこの本は大いに役に立つだろう。民主主義を選挙だけに止めておいてはいけない。民主主義は危機のときにこそ、日々の「カウンター」によって支えられる。民主主義って何だ?これだ!と。

森友学園事件の本質は何なのか2017/03/07

いままで、何度か書かなければと思うときがあったが、なかなかブログを書く態勢をとれなかった。定期的に書かなければ意味はないとも言えるが、それでも書かねばならないときもあると思い…、覚書程度だが。
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 森友学園問題は安倍政権の命取りになるだろう(ならなかったら本当に「日本の政治の死」である)。

 重大な疑獄事件だからというだけではない(規模ではさらに大きな加計学園の件も出てきた)。安倍政権のもと、日本の官僚機構や行政体質がどういう状況になっているのか、その下でどんな類の連中がはびこっているのか、その実態が明るみに出て衆目に晒されているからだ。そのうえ、「安倍晋三記念」の名を冠しその「夫人」を名誉校長に据えた「瑞穂の国小学校」計画は、安倍政権が目標とする憲法改変がどんな社会をめざしたものなのかを、異様な塚本幼稚園とその延長というかたちで如実に示している。

 これをどう報道するかで、メディアも試練にかけられている。この件が明るみに出て、それでも政権の異常さを正面切って報道しないメディアは、その口濁しで政権の延命に手を貸し、日本の社会そのものを見捨てることになる。そしてそれを自覚できないメディアはもはや腐った魚である。事象を断片的に報道していても仕方がない。トップニュースでこれがいかに異様な事態かを連日報道すべきだ(後になって「反省」などしてもらいたくない)。

□国政の私物化(追従する官僚・メディア・その他)

 安倍政権の支持率は急落しているようだが(日経調査)、今まで異常に高かったのはたぶんにメディアのせいである。政権批判は「偏っている」と脅され、官房長官が会見で「まったく問題ない」と言えば、その判断を政府判断=公式判断として報じるだけだったからだ。外交案件では、政権の行動が「日本はこうした」「日本はどうする?」と無批判に報道され、国内では「政府のやることが正しい」かのように伝えられる。だが、問題は政府を担う政権の異常な性格なのだ。

 「事件」としては「国有地の不正払下げ」ということだが(元清和会系とのつながりがとりざたされる特捜部が動いたという話はまだ聞かない)、警察が立件しないとしても(これだけあからさまな事件を立件せずにはいられないだろうが)。この事件には安倍・日本会議系政権のあらゆる問題が凝縮、というより爛れた泥沼のように広がっている(日本会議は引こうとしているが、内閣の陣容を見れば、安倍内閣は日本会議・神道議員連盟内閣であることは否定できない)。

 ひとことで言って「国と政治の私物化」である。「国と政治」を彼らは「公」と言うから「公の私物化」だ。一般の言い方で言えば「公共の私物化」である。

 安倍首相は「私の妻(総理夫人)は私人」と言う。だとすると「総理大臣」であることは「私事」なのか。たぶん当人にとってはそうなのだろう。だから勝手にやっていい。憲法だって勝手に「解釈」で反故にできる。「だって私は総理大臣だから」。最高権力者なのだから「私」の夢を叶える。仲間を優遇してどこが悪い…。

 だからお友達や太鼓持ちや自分を支える連中(権力に付け入る者たち、超ウヨク・ヘイト団体)には便宜を図る。それは「私」の力の行使でもある。「私」は中国を嫌っている。それは今では「変化する国際環境」の中の「脅威」というアメリカの見方と一致する。だから在日(その向こうに中国)に対する「ヘイト」感情は正しい。そうして「ヘイト」と「公的見解」とは癒着する。

 その「公」と「私」の接続をごまかすために「巷=公共?」の空気を作るメディアを手懐ける。トップを変え、仲間を送り込み、プチ・ボスたちに寿司を食わせて、それぞれの組織内にはびこらせる。

 「公の私物化」にうま味を見る連中(「私物化=privatization」を金科玉条に利権をあさるネオリベたち、竹中某、それに日米安保マフィア・原発ムラ等)が安倍と組む。

□「美しい国」(改憲後の日本)の雛形とそのからくり

 しかし、森友学園経営の塚本幼稚園の実態は、安倍・日本会議的な国民統治と教化のまたとない雛形を示している(「理想」とは言うまい。彼らにそんな立派なものはなく、しみったれて邪まな想念しかないから)。国民は幼い子供のときから洗脳され、「悪イチューゴクやチョーセンから大人たちが日本をマモッテクレル」と唱え、「アベソーリ、がんばって!安保法制ありがとう」と言って盲従小国民になる。北朝鮮とそっくりではないか。

 そしてそんな「神道教育」を施す連中はと言えば、彼らの押しつける「献身と盲従」の「国民精神」とはまったく反対の、子どもと親を食い物に賄賂とタカリで大きな顔をしたがるだけの小悪党たちだ。そんな学校・幼稚園が教育勅語をありがたがる。要するに「教育勅語」とは、そんな小悪党どもが自分たちののさばる社会を作るために子供たちに押しつけるのに恰好のものなのだ。「勅語」に照らしたら、真っ先にトンカチで頭を叩かれるような連中だ。安倍政権が目ざす「憲法改正」の生み出す社会とはこういうものなのだということが、この森友学園の腐れ沼に如実に表れている。

 そんな連中の群がる安倍政権の「公の私物化」に官僚たちが手を貸している。非自民の政権はサボタージュで潰そうとした官僚たちが、安倍政権には諾々と従っているのだ。彼らは保身しか考えていない。政権の具と化した内閣法制局長と同じように、この国の官僚たちは国よりも保身が大事なのだ。あるいは、「対米従属」(これを「日米同盟」と言っている)を不動の国是と思い込む官僚たちが、安倍政権を進んで支え、安倍の「強い国」妄想に乗っかろうとする。そう、安倍は以前から"Make Japan Great Again!"だった(ただしそれは国内だけで、その前提は"America first!")。日本では志をもって国のために働く官僚はいないのだ(いたとしても出世できない)。
 
 森友学園事件は、安倍の「美しい国」政治がいかなる社会を作るのかを白日の下にさらした。検察が動こうが動くまいが、これでも政権が倒れなかったら、この国についてもう言うことはない。ただ、それでも覚えておきたいのは、安倍がトランプ当選に慌てて、いち早い訪米を画策していたとき、トランプのアメリカは麻生を同伴させることを要求してきたことだ。この国の試練は続く。

*こういう政権が沖縄に強引に基地を作ろうとし、南スーダンに自衛隊を送っている。沖縄を「ヘイト」の対象にしてはならないし、自衛隊は塚本幼稚園の園児扱いにしてはならない。

沖縄・高江で起きていること2016/10/20

 いま、日本で日々起きていることを黙って見ているしかないというのはなかなかに辛いものだ。

 請求されて国会に提出する資料は真っ黒で、質問に答える気も、能力も、道理もない首相が、答弁にならない駄弁で時間だけ潰し、担当大臣はどこかの集まりで公然と、強行採決を決めるのは自分ではないと楽し気に語り(ということは、裏では日程をこなしたら強行採決と決められているのだろう)、去年9月の安保法制と同様、「売国協定」ともいわれるTPPも今月末には採決されることになっている。たしかに、これがこれが何年か前までメディアが騒ぎ、国民が求めたとされる「決められる政治」のやり方なのだろう。

 沖縄では、行政訴訟にかかって辺野古が動かない間に、安倍政権は高江の米軍ヘリパッドの建設を急いでいる。年内にここを完成させて北部演習場の返還を果たし、基地が減ったと宣伝するためだ。

 そのために、本土からやむにやまれぬ思いで行った支援者をむりやり逮捕・拘留し、新潟県知事選で与党が惨敗した翌日には、ここ数年、反対運動を現場で支えてきた山城博治さん(沖縄平和運動センター議長)を胡乱なやり方で逮捕し、抵抗運動を潰そうと露骨な攻勢に出てきた。

 その逮捕も前から知っていたかのようにすぐに配信する「事情通」の産経新聞の記事によると、「現行犯」(産経)で逮捕した山城議長(実際には、聞きたいことがあると呼び出されて警備車両に乗ったところを、だまし討ちのように逮捕された)を、警察は今度はN1テントでの防衛施設局職員から書類を「強奪」した件で再逮捕するらしいという(その通りになった)。日米地位協定の絡む刑事特別法ではなく、器物損壊、傷害、窃盗といういわゆる破廉恥罪で拘束し、反対運動を貶めて潰そうという意図が露骨だ。

 だが、その翌日、高江工事の防御のために張られたフェンスの前で、抗議する市民に対し警察の機動隊員が「どこつかんどるんじゃ、ぼけ、この土人が…」と罵倒する場面が撮影され(よりにもよって、相手は目取真俊さんだった!)、他でも「黙れ、こら、シナ人」などと暴言を浴びせていることが報じられた。

 公務中の警察官の発言である。大阪府警が派遣した機動隊だった。その機動隊員は召還されようだが、当の大阪府松井知事は、「表現は不適切でも、一生懸命職務を遂行しているのがよくわかる、出張ご苦労さん」とねぎらうツイッターを発信。さすが、この間、「ワサビ寿司」や韓国旅行者少年への暴行などでヘイト・クライム(人種差別行為)の本場になっている大阪である(松井一郎は日本維新の会の党首でもある)。

 同じ日、白紙領収書の私文書偽造も含め、あらゆることへの「問題ない」発言で問題の菅官房長官は、機動隊員の暴言をさすがに「問題ある」としたが、同時に、北部訓練場の12月返還を沖縄県に通知し、高江のブルドーザー薙ぎ倒し作戦が不退転のものであることを明示した。

 産経新聞が「移設反対派の暴力常態、防衛省職員倒され被害届」と一面で報じ(9月26日)、「反対派暴走、地元住民が怒り、不法侵入、勝手に検問」とネガティヴ・キャンペーンを打ったのが合図の狼煙だったかのように、この間、工事阻止の運動に黒子として献身してきた本土からの支援者が、10月4日に那覇空港で逮捕された。また、抵抗運動の象徴的存在として車椅子で辺野古に通っていた87歳の島袋文子さんが、しつこく接近し付きまとうビデオカメラを振り払ったのを「暴行」だとして告訴された。そんな恥知らずな告訴をしたのは、「日本のこころを大切にする党」参議院議員和田政宗のスタッフである。

 こうして、御用メディアや異常政権の岡っ引きたちが「反対派は暴力的な不法集団」との情宣を活発化して、政権の下劣な「無法」ぶりを代行しかつ隠蔽する一方で、主要メディアの反応は鈍いし、はがゆいほど及び腰だ。ロシアや中国や北朝鮮が何かすると、かならず「…という意図(思惑)があるとみられます」と、勘ぐりまがいのコメントを欠かさないのに、現在の政権のやることに関してはどんな批評も働かせず、むしろ「問題ない」のコメントでホウドウを切りにする。

 酷いことは重ねれば重ねるほど、新たなヒドサが前のヒドサを覆い隠して忘れさせる。沖縄防衛局の要員が増えているのは、夏の元米海兵隊員による女性暴行殺害・死体遺棄事件への対応として、防犯警備の強化予算がついたからだ。それで派遣された要員が、じつは辺野古や高江の警備に回っている。そしてこの事件の事後がどうなったのか、もう誰も気にするゆとりがない。

 こうしてだまし討ちのように始まったオスプレイ沖縄配備を既成事実とし(世界のどこにも配備できない厄介モノだ)、沖縄の基地は永続化される。たとえそれが米軍から返還されるとしても、そこは永続的に「日本軍」の基地とされるだろう。だからどこかのトランプと同じで、「日本が一番」が好きな政権は、ともかく基地を作りたがる。アメリカに褒めてもらうためにも。

「一夜明けて…」(選挙戦の終り)2016/07/10

 なんの翌日だというのか、目覚めるとともに「一夜明けて…」とふと思う。昨日は雨模様、それほど強くは降らなかったが傘が手放せない一日だった。ところが今日は、すっきりとは言えないが晴れている。そのせいもあるだろうか。だが、ひょっとしたら、いつになく多くの人たちがこんな感慨を抱きながら目覚めたのではないかと思う。今日が投票日だ。

 昨日まで、ともかくみんな走ったようだ。それぞれの歩調で。参議院選挙は衆議院総選挙と較べれば、任期6年の議員を半数選ぶだけの限定的なものだ。だが、多くの人びとが、2016年7月のこの選挙を特別の選挙と受けとめ、投票するだけでなく、状況を変えるためにみずから関わった。ツイッターで呼びかけるだけでなく、支持候補の選挙事務所にヴォランティアとして出かけ、街頭演説の手伝いもした。かつてない選挙と言ってもいいだろう。

 それでもメディアは投票率50パーセント、改憲勢力2/3との予想を伝える。これまでの予測があまりはずれないことを考えると、実情はそうなのかもしれない。だとしたら、去年の夏の安保法制反対の国会前抗議以来の持続的な活動と、多くの人びとが積極的に参加した今回の選挙模様をも帳消しにする、さまざまな力学が働いているということであり、状況はすでにそこまで来ているということだ。

 その状況への対応もまた不断に続けてゆかねばならない、と思い直す「一夜明けて…」。

 参院選期間中に起きたいくつかの出来事を想起しておこう。
 ・フランスで今も捜査中の東京オリンピック買収疑惑
 ・舛添都知事不品行で辞職
  →3・11後4度目の都知事選(石原、猪瀬、舛添、?)
 ・福島で小児甲状腺ガン患者約160人
 ・バングラデシュの「テロ」で日本人7人の犠牲
 ・尖閣周辺で中国機の異常接近や、選挙前日の北朝鮮ミサイル発射
  ・アメリカで人種問題(黒人と白人警官)先鋭化