「ハルマゲドン」後に備える想像力を2021/07/18

 五輪開幕まであと5日、専門家こぞっての予想どおり、ここ数日間の急激な感染拡大(17日発表1400人)を受けて、政府筋は世論を五輪批判に向かわせないよう躍起なようだ(NHKも一生懸命やっている)。バッハは「大名移動」で嫌がられるのを押し切って広島に行き、各国選手たちも続々到着するが、「バブル方式」密閉がザルだと知られてもすぐにバスで選手村やさらには地方都市に送り込み、一方、受け入れ施設(ホテル)はこの期に及んで組織委からの指示も急でかつ不明確。どうやらロジ運営を仕切っているはずの組織委自体が、混乱状況のなかで上から勝手で不十分な指令だけ受け、もうパンク過労死状態なのだろう(好意的にみて)。
 
 「世界の叡智を結集、安全安心なオリンピックを実施」(しないという選択肢はない!)して「コロナに打ち勝つ」証しとする「2020東京五輪」(すでに年号ごまかし)。7月12日から8月22日まで「緊急事態布告」はその不退転の枠組みとして打ち出された(しかし観客を入れるかどうかは自治体判断)。

 だから、オリンピックは「安全安心」な態勢でやる。かつコロナは終息のために全力を尽くす。その二つは、ひとつのものとして設定されている。オリンピック強行が日本のコロナ禍をとめどなくするという発想は排除している(じつは初めから、「経済=利権」オリンピックを優先してきたから、コロナ対策--医療的対策と社会支援対策--がズブズブで、政府の施策が不信を買い、「宣言効果」もなくなって、波がますます大きくなる。

○コロナ禍下のオリンピック作戦

 コロナ対策(感染拡大防止)でとりわけ飲酒飲食を抑えようとして、カネと権力で干上がらせるという禁じ手を西村担当相が公然持ち出しで反発を買い(オリンピック・人集め祭は国際規模でやるのに、なぜ仲間飲食がいけないんだ!)、慌ててそれは撤回して、ワクチン加速にシフトしようとしたが、同じ頃、「安全安心の五輪」の雰囲気づくりのための「ワクチン加速」が、自治体や業界団体を急がせながらじつはワクチン供給が間に合わないという破綻が出て(英米製薬大手に回してもらわなければならない)これもヤブヘビ。そこでいまや、最近の感染拡大の要因として、若年層がすすんでワクチンを受けない、ネットのデマに流されている、だから政府もネットで直接発信、報道機関も広報流して、ワクチン接種を啓発せよというキャンペーン。

 そこでも、オリンピック実施自体、がコロナ感染抑制への協力には「間違ったメッセージ」(政府・都)であることを隠しとおす。オリンピックがやれるということは、①コロナは大したことはない ②国境越えの人流(抑えても10万人)や集団的熱狂も大丈夫 ということだが、そこへIOCという組織が会長バッハをはじめ成りあがりマフィア集団だということが露呈、それにも目を瞑ってオモテナシしなければならない(もともと招致が買収なのだから、今さらそれは言えない)。しかし、それがあからさまに見えてしまうから国民(とくに業者たち)は、何でオレたちを締め上げるのか、と反発する。
 
 中小業者だけでなく、派遣プレカリアート(「自由業者」とみなされる)の個人はもうすでに去年以来(その前から)いいように切り捨て放置されている――可視化されない重症患者のように(その困窮効果でコロナ明けのフーゾクは楽しみ、なんてラジオで言った芸人は、まだNHKの元人気番組に出続けている)。

 それには触れず横を向いて、今度はネット浄化と政府配信広報を押しつけるという。いまの状況の最大の問題は、この何でもジミントウ社会でさえ菅内閣支持率20パーセント代に表れているように、政府のやることなすこと(行政全般)にまったく信用されなくなっているということなのに。

 政府筋の言う「若者たち」がネットのデマに乗ってワクチンを受けたがらないのが多い(公式の報道を見ない、受け入れない)としたら、この間の教育行政があらゆる手を使って、社会的に必要なことを教えない、まともにものを考えさせない、そんな教育を執拗に続けてきた「成果」だし(すぐお上を批判するはサヨク、自己責任が自由のあかし…、政治などのせいにせず自分はスキルと才覚で儲ける…、できないのは自分が悪い…)、そこで泳ぐ側に回れなかった者たちにネット・デマやヘイト煽りで働きかけてきたのは自民党広報部。その親玉が今はデジタル化相だ。そんな態勢の下で、政府の言うことを信用せよと情報を直接配信するなどと言うのは、自分たちの狙ってきた(そして他国がやると鬼の首でもとったように批判する、民主的でないと)国民情報コントロールを、居直ってごり押しするようなもの。
 
 あまりにメチャクチャでごまかしだらけだから、腑分けして大づかみに説明する(民主主義の危機とかいった「学問用語」に頼らずに)のがたいへん面倒だが、それでも。

○「ハルマゲドン」後への想像力

 オリンピック強行(だけではなく、それを期限付きの目標にしたこの間の日本の政治全般)に多くの人が「大本営下のインパール作戦」を重ねているが、そのとおりと言わざるをえない。だが、「先の大戦」の場合には「鬼畜米英」という「敵」があった。そのため、為政者も「敗戦」を認めざるを得ず、その後に「占領軍」が入ってきて強制的な権力構造の変更があった。それは戦争態勢に引きずり込まれた国民にとってはむしろ「有り難い」ことでもあった。
 
 ところが、今度の場合、オリンピックが某IOC委員がつい漏らしたように日本の「ハルマゲドン」であったとしても、今度は為政者(選挙で選ばれた「国民の代表」などと言わせないためにはっきりこう言おう)に「敗戦」を認めさせる者がいない。空襲・原爆・軍崩壊・焼野原のあと、いまの為政者たち(政治家・官僚その仲間)はこの「焼野原」を、「世界から称賛された日本の偉業の証し」とか言い募るのだろう。そして、その後のコロナ猖獗(五輪カクテル株)を「必要な尊い犠牲」と祭り上げ、総選挙に打って出て「世界に冠たる日本」の政権を担う党選び、とやるかもしれない。
 
 そのときのスローガンが「中国脅威」だ。コロナ禍制圧がうまく行かなかった(そして多くの犠牲を出した)のは、憲法に緊急事態条項がなく強制力ある発動ができなかったから。それではこの「中国脅威」にも対抗できない。だから憲法改正!と。
 
 結局、「戦争(焼野原)」責任者たちが、「敗戦」を認めることなく、逆に更なる権力(焼野原にする力)を要求する。それが「ハルマゲドン後」の光景だ。
 
 じつは、彼ら(現在の為政者たち)にとっての「敵」は英米などではない(とりわけアメリカは彼らの雨傘雨ガッパ、身を寄せる庇だ)。「敵」は国内の「あんな人たち」、言うところの「反日」勢力である。「あんな人たち」と指差されるのは、日本が「こんな国」になってしまうことに抗議し、世界に受け入れられまともに尊敬される国になってほしいと思っている。そういう人たちは自分たちの統治権確保の邪魔だから、「あんな人たち」と指弾して排除する。そんな倒錯した玉を担がないともたないのが今の自民党だ。だから、いま彼らが「戦っている」その「敵」は「日本国民」なのである。だから「敗戦」は認めない。権力は手離さない。むしろそのような「国民」排除の上で権力を保持しようとする(小池も「排除します」)。
 
 そのとき、彼らが持ちだすのが「中国の脅威」だ。五輪で金メダルをたくさんとり、「国威発揚」「国民高揚」、それを脅かしているのが強大化した中国だ(たしかに中国にも権力闘争があるが、権力者がわれわれの向き合わねばならない「中国」なのではない)。明治以来日本は「脱亜入欧」、中国アジア蔑視で自らを別格(名誉白人?)として振舞ってきた。今は折よくアメリカが、中国の歴史的台頭を許せず、「絶対的敵」として新たな「冷戦」(いや、きわめて溶けやすいが)を構えようとしている。そして「中国包囲」をコロナ明け世界の基本戦略として打ち出そうとしている。それをもっけの幸い、「白人」たちは日本の「オリンピック作戦」を冷笑的に見ているが、先兵になるのなら使ってやろうと、「ハルマゲドン」明けの日本を受け入れる。そんな流れで、歴史否認・嫌中・嫌韓ヘイトを基調にした現在の為政者の姿勢が、グローバル世界秩序のなかで場所をもつ。そしてハルマゲドン明けには、その姿勢が公然政策ベースとして打ち出されることになる。

 地獄は二重三重にある。安倍政権が最悪と思っても、そうではない。今度は「底」がないのが明らかだから。
 
 オリンピックはもはやできてもできなくても「失敗」――やればコロナ感染止めどなし、できなければその時点で、すべて(権力私物化、国税・財私物化、官僚私僕化、ヘイト隠しの「美しい国」作り等々)をチャラにする「オリンピック作戦」の文字どおりの失敗――と決まっている。その「失敗」を「成功」と言いくるめて、国と社会の瓦解・崩壊を制度化する、それがグズグズでもなされたら、もはや「終り」さえなくなる。土石流がこの国を呑み込んで常態化するのだ。
 
 だから今、喫緊のことは、その「ハルマゲドン後」に備えること。最重要なことは「失敗」を「敗北」を認めさせることだろう。それはオリンピックを中止させることでもあるし、その「失敗」を認めさせること、最低限、とにかくこの政権に退場してもらうことである。

「エクスポーズ(展示・露出)」の排除と推奨2021/07/17

東京・名古屋で追い出され、大阪で実現した「表現の不自由展」にまつわる状況について――「表現の自由」あるいは「エクスポーズという営み」

 ウヨクの街宣ががなり立てて近所迷惑、不安を誘う、危険物が送られてきたりする、だから展示会や講演会をやらせない(場所を貸さない)、というのは、そういう示威行動や恐喝を受け入れるということ。いまのアベ菅政権や大阪維新は慰安婦像の展示などけしからん「反日」だとみなしている(アメリカやドイツでの展示には外務省から横槍が入る、つまりこれが日本政府の「公式」の姿勢だということ)。だから、自分たちが不当だと思うような展示には場所を貸さないが当たり前(ウヨクの反発は当然)。高裁判決にも不服。

 名古屋で送られた爆竹も、大阪の場合も、こういう行為は当局の意図を代理していることになる。警察は、こういう行為を徹底捜査すべきだが、しかし警察庁下、とくに公安は官邸下、行政権力の下にある。

 元はと言えば、まったくさえない寡黙な少女像。それを日本人(日本軍)に恥をかかせる展示物だと目くじら立てて「政治化」するのは、そんな小さな肖像に過剰な憎悪を向ける(自分たちが攻撃されていると思う政治家たちであり、それを「恥」と思う「日本人」に同一化してフェイクの「理想」にすがる(それを「大義」にする)ネトウヨたち――たしかに「恥の文化」だね~)。

 「展示」というのはそれをさらけ出す。エクスポーズ(露呈)と言う。たしかに「美しい国」の「恥を晒す」ことだ。現代アートと言われるものは別に審美的な表現というのではない。このように「エクスポーズ」する営みなのだ。だから少女像という展示されるオブジェは、その「エクスポーズ」の力によって「政治・心情的」反応を引き起こす。これは現代アートの基本的意義(菅香子『共同体のかたち――イメージと人々の存在をめぐって』講談社メチエ、2017)。そのアートを社会が受け入れるかどうか、が問われている。

 日本ではそんな近代世界が導いたそんなアートのあり方を排除し、むしろエクスポーズを隠蔽して少女のスカートの下のエクスポーズで自衛官を募集するようなアニメが政府筋の(政治的な)売り物になっている。

「書かれたもの」の位置――歴史家・加藤陽子さんの知的振舞いについて2021/07/15

 菅首相によって学術会議会員に任命拒否された加藤陽子さんが、拒否理由や経緯の分かる文書開示を求めてきたが、その「不開示決定」が示されたのを機会に朝日新聞のインタヴューに応じた。

 加藤さんは「学術機関の自立(自由)に権力が介入する」というこの「事件」の渦中に不意に置かれたが、あくまで歴史家として――「言論の自由」を主張するモノ言う知識人(かつ女性)etc.としてではなく――身を処してきた。普段は文書を検証する側だが、この事件の日からは出来事を正確に記録すべく日記をつけ始めたという。

 ここで肝心なところは、国家統治(政治・ポリティクス)の正統性の基盤は「書かれてある」に存するということだ(司馬遷の『史記』から、近代官僚制国家まで)。その書き物が統治行為のファウンデーション(定礎)かつリフェランス(準拠)となる。

 民主制には存在論的根拠づけもできるが、それが制度化されたとき、その制度性を支えるのは「書かれたもの」である。

 近年の日本の政府・政権のもっとも危険なところは(どんなイデオロギーであるよりも)、国家統治(政治)の正統性の基盤をなし崩しにして、恣意的な権力行使で統治を溶解させてきたことだと言うべきだろう。その堰を切ったのが2015年の「解釈改憲」であり、その後は「安保法制」以降「法を変えずに実行する」(加藤)ことを常態化させてきた――公文書隠蔽・改竄、手続きなき解釈変更、その挙句が森友加計事件の省庁職員抗議の自殺)。それが「歴史修正」の「強い国」イデオロギーと、嫌韓嫌中ヘイト機運で味付けされている。「何のために」の名目はつねにごまかされ、その代わりの国家目標として掲げられたのが「平和の祭典オリンピック」だ(目的はすべてウソ、責任所在も曖昧化したまま、やることだけが自己目的化されている)。

 加藤さんは歴史家だ。歴史家は「書かれたもの」を精査することで「事実」を掘り起こし描き出す。あたかも、まだ石化しきらない化石を洗い出すように。そのようにして洗い出された「事実」はあらゆる「知」(思考)の基盤になる。

 その「書かれたもの」を抹消・廃棄することを権力の作用とする政治のあり方は加藤さんの仕事と根底から対立する。加藤さん(たち)の問いかけに政府は「無解答」で答えた。「書かれたもの」があるかないかさえ答えなかったのだ。「学問の自由」(軍事研究も含む)を掲げる学術会議は妥協の道を選んだ。政府には逆らえないとする一方で、任命拒否された会員に代替役職を提供したが、加藤さんは「『実』をとるより『名』を取りたいと思った」とその提供を受けなかった。「名」とは言いかえれば「書かれてある」ものだ。「実」は「解釈」で変更される。その「実」を宿すのは、規範の形そのものである「名」の方なのである。その「名」を捨てると「実」は居場所をなくす。

 このことは、いまコロナ禍で大手を振るって進められている社会のデジタル化と無縁ではない。ITデジタル化は歴史修正とフェイクの時代に技術的基盤を提供する。だからネトウヨ大臣による「デジタル庁」推進だ。もちろんデータ処理にパソコンは使えるが、歴史家が行うのは「データ処理」ではなく「解読」、翻訳ソフトがすっ飛ばす「意味」の扱いの方なのだ。デジタル・バーチャル化はその「意味」を回避し、思考を「計算能力」で抹消しようとしている。

 そのうち歴史学会も学術会議も、政府に認めてもらうために「世界一のスパコン」富岳――飛沫感染シミュレーションのエキスパート――のデータ提供機関になり果てるかもしれない。

 「書かれたもの」とは何か?書かれたもの(言葉)がアナログで、それはデジタル化によって超ミクロのシュレッダーにかけて演算可能なものにすればよいのか。そうでないとすれば、デジタル化とは何なのか、歴史家・加藤陽子さんの貫く姿勢は、そんな問いにも結びついている。

「自動化」だからこそ手動ブレーキを!――AIデジタル化でも、ブレーキのない国はまずい2021/05/05

 大阪、東京は「危機的」状態のようだ。とくに大阪は、病院に入れないままの重症者から死者が続出(全国の半数以上)。医療関係者は資材も補給もなしに「戦場」に置かれている。ただ、ものを言う機会を与えられると、必死で「皆さんの自制」を呼びかけるだけだ。だが、聖火リレーは密かに続き(この頃報道しない)、五輪委はもう本番まで二カ月を切ったと、期間中の医師や看護師(ボランティア)の確保・派遣を医師会・看護師協会に要請している。イギリス株、インド株のこれからの脅威が語られているのに(インドの惨状は報道)、オリンピックは止めることさえ検討される気配もない(ともかくやることが前提で、NHKは毎日五輪前提のスポーツ報道連発)。

 その陰で、ふいに改憲論議が活発化、憲法記念日も憲法「否定」の集会をやり、この連休明けには手続法採決とか。Covid-19の感染は一年以上経っても収まるどころか、まともな医師たちが予見していたように波が来るたびにしだいに大きくなって、今が最大の感染期で出口も見えない。ワクチンは欧米頼み(ロシア・中国は排除)、配布接種の態勢もできず(自衛隊出動だけは演出)、「始めた」の宣伝のみ。政府がいつまでもPCR検査態勢を整えず(保健所軸のクラスター対策はすでに破綻しているし、一年間病院態勢も整えず、 マスクを配布とか、gotoばかりやりたがる――中抜き利権のため、あるいはマスク配って憲法改正!)、政府専門家はその縛りから出られず、政治家はCovid-19を甘く見ていた(ただのカゼ)ことのツケで、一年以上の感染アラート、もはや緊急事態宣言と言っても人の動きは止まらず(止めていられない)、打つ手がない。それでも、トランプからバイデンのアメリカ対中敵視締付けの風潮に乗って、国内に反コロナ反中空気は浸透、それを利して改憲(準備)だけはやろうとする。

 オリンピックについても、パンデミック対策を見ても、「インパール作戦」と言われるように、すでに政治状況(ウヨ利権自民)は無責任なブレーキなし運転になっている。それを運転手にやらせないために戦後憲法ができたのだが、「国」という自動車からその歯止めを決定的に外そうとする動きだけが、この無分別状況を逆に利用して表に出るという不思議!所詮日本はこうなのか、という慨嘆?!

 「上級国民暴走事故」の裁判が行われている。この事件・裁判は今の日本の状況を象徴している。死亡事故を起こした当人(元通産官僚飯塚某)は、高齢運転の上の錯誤も過失も認めず、自分が人を死なせたことにも目を背け、車の出来が悪かったと言う。自民政権(とその補完勢力)も同じで、お上のやることに文句は言わせない。「時代に合わせる」ために、デジタルIT化でもっとスピード(効率)を高めて社会を回すと「政策」を打ち上げる。だがじつは、やれば情報漏洩、日本ではできないから(ワクチンと同じ)、年金処理も中国企業にアウトソーシング、金融ソフトも、追跡ソフトも役立たずしかできない。そんな「事故」には目を背け、ブレーキなんかがあるから悪い。AI自動運転で社会全体はスマート化する。そしたらブレーキもいらないと、為政者の責任を追及するいちばん目障りなブレーキ(戦争否定憲法)を、「古い障害」だと言って、ともかく取り払って「自動運転化」しようとする。そうしておけば、インパール作戦も自動的、文句言われる筋合いはない。

 たしかに辻褄は合っている。しかし、「乗客=国民」無視の辻褄だ。国民が、いやだ自分で歩いていく(自主独立)、というのは認めない。国民は「乗り合いバス」に乗れと強要、ブレーキのない「自動運転車」に乗せられる。「一億玉砕」事故が待つ?自分も運転手(自動運転だろう?)と思う連中と、一人で歩きたいのを目ざわりだと思う連中はこれに賛同! 「壊憲」で「美しい国」、上級国民には責任ないよね、という社会。

 もっと楽しいたとを書きたいが…。しばらくは無理か。ほんとに「しばらく」?

カズオ・イシグロの新作『クララとお日さま』2021/04/28

子供のパートナー用として販売されるAIフレンドの話。どうやらこの作品世界(近未来?あるいはオルタナ世界?)では、「優秀」でありたい(親がそうしたい)子供は「向上措置」(遺伝子操作)を受けるらしい。それがうまくいかないと病弱(不具合)になる。そんなジョジーという女の子のサボートのために(あるいは欠損を埋めるために)買い与えられるのがクララだ。今ふうに太陽光を糧として「生きて」いる(『私を離さないで』のクローンとは違う)。

クララがどういうふうに「新型製品」として作られたのかは分からない。ディープラーニングで環境世界・人びとへの対応にみずから適合化する段階までは作られているようだ。クララはその理解適性が高いようだ。その能力によって、ジョジー、その母親、友人リュックとその母親、ジョジーの父親等々の関係のなかで、ジョジーを守りその生を豊かにする(?)役目を練り上げながら(たぶんそこにはアルゴリズムはない)、ジョジーのいる世界の媒介的役割を深めてゆく。けれども太陽光(エネルギーではなく光だ)で「生きて」(「機能している」とは言うまい)いるためか、陽光を燃料以上の、存在の恵の源とみなしていて、それが太陽信仰にまでなるようで、ジョジーを「救う」ためにその功徳(効能ではなく)を発揮させる。この点で、このAIロボットはカルト的なのだ。そしてジョジーを決定的に救う(「向上措置」の失敗を癒す)と、ジョジーはクララのサポートなしで自分の生を生きてゆくようになる。「ミッション・コンプリート」(『私を…』では明示されていた)。クララのミッションとは、自分を必要とした女の子が、自分なしに生きてゆけるまで支えることだったかのように。あるいは周囲にとっては、「代わり」としての自分が無用になるまでに人びとの関係の綻びを埋め合わせする。いわばAF(人工友だち?)としての自己の無化、あるいはサクリファイス。そして最後は、自分が使命を果たしたことに充足しながら、廃品置場で、クララがこの世に出る媒介を果たした「店長」の訪問を受けて、もはや「物語」は尽きる。

 作家にとっての冒険は、この機械的製造物に「生きた」主観をもたせることだったはずだ。冒頭から語りはAFクララだ。それは「物語」が成立するほどには十分にできているし、そこから見える世界も、感覚の学びのプロセスもそれらしく描き出されている。いささかアニメーション風ではあるが。「不思議」は、自分の生成過程を知らない(それにはまったく意識が向かない)クララが、初めから店のショーウインドーに立ち、外界にしか志向をもたない意識を展開してゆくことだ。その意識は「自己」に回帰することがない。つまり「反省(リフレクション)」がない。しかし周囲を観察し、標定し、推理し、それがクララの「意識」を作ってゆく。つまり「自己」のない意識、けっしてエゴイズムにならない、その能力が高いのだ。

 200年前のメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』や、100年前のカレル・チャペックの『ロボット』は、「自己」を持ってしまい、そのために前者は悲劇的な破綻の物語となり、後者は叛乱と破滅を引き起こす。だが、現代のAFクララには自己がない。あるとしたらそれは、自己という形をとらない存在への「信」、太陽光への祈願だけだ。それがクララを「人間らしく」している。

いずれにしても、これが文学的想像力によるものである以上、現実の技術的可能性云々について論じる必要はないわけだが、その作品世界の設定には、作者の科学技術的可能性に関する認識や、それに対する想像が取り込まれているはずだ。そのうえで、願望や実現されている事態を、人がどう生きるかということを軸に物語が繰り広げられる。『フランケンシュタイン』は、製造された「怪物」が、言葉を獲得し感情をもち思考し、そのように「成長」しても人間世界では「異物」としてしか存在しえないことの悲劇を語り出していた。創造への介入は愛すべき「こども」ではなく悲劇の「怪物」を生んでしまったというのだ。『ロボット』の方は、人間の目的志向によって作られた「労働機械」が、その意図を超えた存在になって(自ら意志をもつことでそうならざるを得ず)、「人間的(支配)世界」そのものに働きかける(破壊と叛乱)情況を、非人間化のイデオロギーの逆説とともに語り出した(チャペックは演劇化してみせた)。

 だが『クララとお日さま』はAI化・遺伝子改良世界の眺望から、ひとつのヴァーチャル・ファミリー・ファンタジーを生み出したという風情だ。AI化世界はたんなる風景または素材で、そのこと自体は物語の外におかれている(それは『私を離さないで』も同じ)。最後まで読んで、しばらくして思い至ったのは、これも「執事小説」(『日の名残り』)だ、ということだ。自己犠牲と自己充足とが区別されない、ミッション・コンプリート。もっとも「内密」な物語だが、ここには「自己」がなく、物語は逆にクララの関わったジェジーたちの世界を締め出している。だから最後に、クララは用済みになった自分を何事でもないように見出す(再利用の可能性もないようだ、中古品は売れないのか)。ただ、夕陽を前にして執事が浸った無上の愉悦はない。それでも、クララに何の陰りもない充足があることはたしかだ。それはクララの「内面」世界が、主人たちの世界を吸収すべき素材としてしか扱っていなかったから。

イシグロはこうして「同じ」小説を書き続けている。クローンはいいだろう。クローンは基本的に人間と同じで、人間として生育し、成長し、言葉を身につけて私になり、他者たちの間で社会化してゆく。だからペールシャムの学校は「培養・育成」学校として子どもたちの充実した世界になる(として語り出せる)。けれども人工フレンド(AF)だとどうだろう。その「私」(発話主体)はどう始まり(起動し)どう成長してきたのだろう。小説はクララが製品として店頭にならぶところから始まる。クララは周囲を認知し、世界の事物をよりよく理解しようと観察し受容するが、そのことをどのように「意識」しているのだろう。イシグロはその過程と構造は作品外に置いて、まずクララが店に置かれたところから始める。だからそれ以前は、そしてクララの生成は問われない(それが「自己」がないということだ)。そのことがこの小説を冒頭からファンタジーにしている。その根や根拠を作品の「外」に、背後に「ない」ものとしているかぎりで、クララに「理性=根拠」はない。クララの「お日さま信仰」はそのためでもある。自分にエネルギー(生)を恵み与える陽光は、クララの意識にとっては対象意識や認知能力・理解力の外にある「恵み」の源として、「信」の対象でしかありえないのだ。だから「理知」的なはずのクララは、同時にカルト的でもある。ただし絶対孤独・自己充足の。

 邦訳の解説者は触れていないが、ジェジーの病気とは「向上措置」(遺伝子操作)による支障だろう。それはすべての生命の源である太陽光の「特別な計らい」によって治癒(克服)される。これは福岡ハカセ的な生命観だと言っていいだろう(生命とは諸組織の機能の複合ではなく、全体であることに宿る)。

 ミッションを果たしたクララが最後に自分を見出すのは、不要品置場(捨て場)である。そこではAFはもう自分で動けないよう処置されて横たえられているらしく、「店長」は低いブリキのような箱をもってきて座り、覗き込むようにしてクララに語りかける。自分の製造過程を意識の外にしているクララは、この身の上にも何の不満も不当も感じてはおらず(人工知能的に「理解」しているのだろう)、青い空を背景に、振り向くことなく立ち去る「店長」を見送る。それで途切れる語りに、というより残される沈黙の余白に戸惑って淡い悲しみを感じるのは、ただ読者だけだということだろうか。

 提示されたファンタジーの世界というより、イシグロの物語の紡ぎ方が逆光のなかに浮かび上がる、そんな作品だった。

[追記] クララが、視覚(超精密センサー感受)の惑乱を超えて未知の原野を横切り、「マクベインさんの小屋」で溢れるお日さまの光に包まれるところでは、『風の谷のナウシカ』がオームの無限の触手のなかで蘇生する場面を想起せずにはいられないが(あるいは、神秘主義的な「受胎告知」、またはバタイユの「…天啓の照射に照り輝く…」を)、クララはAI的被製造物、ナウシカははじめから「いのち(生き物)」として想定されている。「マクベインさんの小屋」は、クララにとっては「受肉」の場所であるかのようだ。そして陽光が、テクノロジーの埋め込まれた世界(映画『ガタカ』のように、「処置」を受けているかどうかで人が選別されるされる世界)で、その埋め込みの失敗によって衰弱したジェジーを復活させる。そしてジェジーは締め出されようとしていたその世界に復帰してクララのもとを去る。しかし、クララにとってはそれが「ミッション・コンプリート」だ。逆説的な「達成感」が居場所のなくなるクララを満たしている。もはやクララはクララと呼ばれる必要もない。固有名詞はいらない、ただ一個のB2型AFだ。しかし、名を失ったクララは、二つの透過するパラレル世界(製造する側と享受する側)をいわば「非-知」によって繋ぎまとめるこの作品によって、神話的な名を受けることになるだろう。「クララとお日さま」そのタイトルから響いてくるのは、あらゆる負荷を洗われたあの名前「アマテラス」ではないだろうか。

*『私を離さないで』にはたいへん衝撃を受けると同時に舌を巻いて、「思い出をもつことの無惨」という批評を書いた(『理性の探究』岩波書店、2009年)。それほど本格的にではないが、挑戦するイシグロに敬意を表して今回もその作品について考えてみた。

追悼、「来るべきこと」の詩人若松丈太郎2021/04/25

 若松丈太郎さん、じつはもう「生きて」いなかったのかもしれない。
 
 『北緯37度25分の風とカナリア』を上梓したのが2010年。この詩集には、柏崎刈羽と福島第一を結ぶ線上の「歌枕」を長年かけて行脚したような詩がまとめられている。かつて平安の昔ならここから先は「越せない」辺地、だから都人が感慨を込めて歌を残したり、邪の怖れをなだめるかめの社が作られたりしている。そこが昭和の時代には首都圏に電力を供給するためにダムが作られ、やがては原発が作られる境になる。それが北緯37度25分あたりだという。
 
 この地で1000年を超えて刻まれてきた言葉、それを現代の報道の言葉と織り合わせ、それを生きる不穏な意識の海に浮かべて、日常の浅くもあり闇を穿ったりする意識の表層に紡ぎ出す。カナリアは炭鉱で不穏を告げる小さな生き物だ。若松さんはこの境界上のカナリアとして聞く人の耳に届く歌を歌い続けた。
 
 その巻末近くに、海の広げる「気の遠くなるような時間」を視ながら
 
 世界の音は絶え
 すべて世はこともなし
 あるいは
 来るべきものをわれわれは視ているか
 
 というリフレーンを含む、「みなみ風吹く日」が収められている。
 (まだ自覚もない「人新世」の初めに、詩人は歌うことができた――
 また見つかったよ。
 何がさ?――《永遠》
 太陽といっしょに
 行ってしまった海のことさ (鈴村和成訳をレタッチ)
 
 しかし、「千の太陽よりも明るい」とロベルト・ユンクが形容した「人工の火」が陽光を翳ませる現代では、福島の海に立つとき、そこに広がる「永遠」はまったく別の様相を帯びざるをえない。「来るべきものをわれわれは視ているか」と。
 
 その詩集を上梓して一年が経ったころ、「来るべきもの」が来てしまった。「未来」が、「永遠の時」として詩人の(わたしたちの)「現在」に陥没してきてしまったのだ。それ以来、「気の遠くなる時間」は放射能の半減期としてわれわれの「起きてしまった未来」になる。
 
 その後に、詩人は何を語りうるのだろうか。それでも「黄泉」を潜るように語り続けたものが2014年に『わが大地よ、ああ』(土曜美術社出版販売)から出されている。2012年に一度南相馬でお会いする機会があった。しかし、ほとんど何も語り合えなかったような気がする。ただ、『…風とカナリア』の詩人は「来るべきもの」の襲来を超えて、なお語り続けようとしていた。(バタイユの「禁止と侵犯」の描写を思い起こす。侵犯によって禁止は廃絶されるのではなく、再び地平のかなたに現れる。言葉はこうしてまた禁止に向かって打ち寄せるのだ。)
 
 ただ、それ以後は、若松さんにとっては「来てしまった"来世"」だったと言えなくもない。とはいえ、若松さんはずっと高校の教師をしていた(日本の教育では、「国語」という教科が、子どもたちに表現と思考との手ほどきをし鍛える唯一の科目になっている)。その子どもたちと接していたからこそ、若松さんは"来世"からも語り続けたのだ。
 
*この詩集と詩人の存在を私に教えてくれたのは、あるときふと出会った小森陽一だった。福島を考えているとき若松さんの詩は目を開かせるようなものだった。小森には感謝している。あまり機会はなかったが、『アフター・フクシマ・クロニクル』(ぷねうま舎、2014年)に収録した「地震(ない)に破られた時間、または手触りのある未来」(初出、『世界』2012.01臨時増刊)は若松さんの詩に多く触発されて書いた。

コロナ禍明けたら(明ける前から)勘違い対中「開戦前夜」2021/04/18

「コロナ後の世界」がさまざまに語られる。だが、どうやらコロナ後の世界のもっとも深刻な変化は「世界分断の深化」のようである。単純にいえば「米中対立」だ。すでに「開戦前夜」を思わせる。

 トランプ大統領は紫禁城に迎えられてまんざらでもなさそうだったが、あるときから(再選戦略を立てる頃)中国に対して敵対的姿勢を公然化するようになった。ファーウェイ副社長をカナダで逮捕してGAFAM制覇に堰を立てる中国IT企業のグローバル展開を牽制、さらに中国からの輸入品に懲罰的関税をかけ始めた。これに中国も対抗措置で応じたが、トランプ政権はさらに関税を加重、やがては経済スパイ容疑で領事館閉鎖も打ち出した(中国はもちろんこれに対抗)。

 その間に、コロナウィルスが武漢ウィルス研究所から出たものだとして中国を非難、パンデミックに対しては国際協調が第一としてこれを否定するWHOのテドロス事務局長の辞任を要求して、アメリカはこの国際機関に拠金支出を拒否(すでにアメリカはユネスコの拠金も停止している)。欧米でのコロナ禍の蔓延に対して、中国の劇的な武漢封鎖などの「成功」は「専制国家」ゆえと批判し、折からの香港問題にも介入、台湾にも米中国交回復(1972年の北京政府承認)以来初の高官派遣に踏み切り、さらに新疆ウィグル自治区の「統合政策」問題を「虐殺」と規定して、国際的な「中国非難」を高め(「人権外交」?)、その孤立化を図ろうとしてきた。

 それに対して中国は、同じくアメリカからの圧力を受けているイラン等との連携を深める一方、コロナ禍に対しては「国際協力」を打ち出しワクチン供給を提案するが、それは自陣営に引き込むための「ワクチン外交」だとして非難される。

 これらの中国敵視・非難は、ここ数年で顕在化し、あからさまになってきた。もちろん、中国のGDPがあと十年足らずでアメリカを凌駕するという予測がすでに長らく出されており、それに対する警戒は以前からアメリカの底流にあった。だからこそトランプは、その流れに乗ることを再選戦略の基軸に据え、「模範国」としてはふつうはできない手荒なやり方で中国「制裁」を行ってきた。その最後の手が例の「虐殺」認定である。

 「法と秩序」のフェイク先導で選挙を乗り切ろうとしたそのトランプを破って当選したバイデン大統領は、アメリカの国内政策に関しては、トランプがオバマ前大統領の基本政策をことごとくお払い箱にしたように、閣僚任命からして次々にトランプ路線からの政策転換を打ち出し、外交に関しても「アメリカ利己主義」をやめて「国際協調」に戻ることを鮮明にしたが(といっても歩みは早くない)、こと対中国に関しては、トランプの傍若無人なやり方の「成果」にむしろ便乗して、中国脅威論・敵視をアメリカ(と西側世界)の自明の前提のようにして振舞い始めた(それがBLMからの玉突き現象のようにシノ・フォビア――アジア人差別を生み出している)。

 それをあからさまに示したのが、バイデン政権最初の対中会合アラスカ会議である(3月18-19日)。アメリカは中国代表を辺地アラスカに呼び出し、冒頭から中国を譴責した(アメリカ側からはブリンケン国務長官とサリバン大統領補佐官、中国側からは楊潔チ中共中央政治局委員と王毅外相が出席した)。ブリンケンは、新疆ウィグル・香港・台湾・サイバー攻撃・他国への経済圧力を取り上げ、それに対する懸念を話し合う…と切り出した。まるで植民地宗主国が保護国の内政を指導するかのような姿勢であり、それをバイデン政権は「当たり前」あるいは「国際社会の支持」があるかのように表明する。

 この扱いに中国代表は一歩も引かなかった。むしろ、これが客をもてなし話し合いをしようという姿勢か(アメリカはその前日に新たな経済制裁も課していた)と反論し、メディアを前にアメリカ代表と堂々と渡り合って、この会談が対等の国同士の会談だということを世界に示したのである。

 ここに現在の米中の関係と相互の姿勢とがあからさまに表れていた。折から今年は、中国共産党100周年と義和団の乱鎮圧後の「屈辱」の北京議定書120周年にあたっている。義和団の乱は西洋列強(と日本)による中国進出を排そうとする勢力が清朝を「扶ける」べく蜂起したいわば「攘夷」運動だったが(「扶清滅欧」)、列強の出兵で鎮圧され、清の西太后も廃されるという、中国にとっては屈辱的な結果に終わった。そしてその後10年で、今度は孫文らの「辛亥革命」によって清朝が内から倒され(「革命」というのは中国古来の観念だ)、初めて「中華」を名乗る「民国」が成立する。

 しかし、帝政を廃したそのときから、西洋列強(ととりわけ日本)の圧力の下で、近代中国の苦難が始まる。混乱のまま突入した世界戦争(中国では抗日戦争)後は、共産党政権が中国全土を再統一したため、アメリカは冷戦下で蒋介石の籠った台湾を保護下において大陸と敵対を続けるが、ついに1972年に台湾と断交して北京政府を国家承認せざるをえなくなった。国連の議席(常任理事国)も北京政府が引き継ぐ。だからその後は、台湾とは公式の「国交」をもつことはできなかった(非公式の接触・関係は継続)。だが、歴史的経緯もなにも無視するトランプは、自分の対中強硬姿勢を誇示するためわざわざ高官を送り込んで台湾を国家扱いした。

 この間、鄧小平の「開放改革」転換以来、中国は市場経済に舵を切り、ソ連社会主義圏の崩壊をも乗り越えてグローバル経済に参入、米欧が更なる経済成長のために広大な中国市場とその労働力を必要としたこともあって、それなりに順調な発展成長を続け(国内的ないびつさはあれ)、2010年にはGDPで日本を抜き(これが日本にはトラウマになる)、20年代にはアメリカに追いつくことも予見されている。経済指標だけでなく成長の基盤とされているテクノロジー面でも大きく成長し、いまや世界の最先端に並んでいる。

 このことには世界史的に大きな意味がある。この500年、世界は西洋諸国によって統合され、西洋文明あるいは西洋的諸価値や組織原理がいまではすっかり世界標準となった。西洋的原理はそれだけが「普遍性」をもつものであり、世界はそこに同化され、今では共有されているというわけである。その世界化の運動は西洋諸国の競争的展開によって担われてきたが、その帰結としての「世界戦争」以後は、アメリカが唯一の超大国としてその指導性を継承している。ところが中国の台頭というより復活、いわば「世界史への回帰」によって、現在アメリカが代表するその西洋普遍の世界編成の時代が終わる、少なくとも相対化されるのである。

 この歴史ある「大国」の復興や発展は、グローバル化の「共栄」の時代には避けがたいことである。しかし、このことに対して、アメリカには本能的と言ってよいほどの警戒感というよりむしろ拒否感がある。だからこの間、中国への警戒というより敵対姿勢がしだいにあからさまになってきた。現在の「米中対立」の構造は、アラスカ会議に見られるようにほとんど「開戦間際」の状況である。これが「開戦」に至らないのは、あらゆる「悪」の元凶とされている中国が自制しているからだと言ってもよい。

 アメリカは「人権問題」を言い立てて香港・台湾・新疆ウィグル(かつてはチベット)を中国攻撃の橋頭保にしているが、アメリカ自身は内にBLMとして噴出する構造的人種差別を抱えているだけでなく、かつてはベトナムに、またチリに代表される南米諸国に、意向に沿わない政権が生れると傍若無人に(あるいはCIAの工作で陰険に)それを潰して従わせようとしてきた国である。そのために制圧される国の国民は苦難の道を歩まされている。近くはアフガニスタン、イラクに対してもそうだし、今でもキューバやベネズエラに対する姿勢もそうである(グローバル・メディアはアメリカの側に立っているが)。

 もちろん、イランの国家体制はイランの人びとにとっても望ましいものではないだろう。しかしアメリカの目ざす「解放」はイランの人びとのためというより、アメリカの市場にその国の富を「解放」するための圧力であり戦争である。中国についても、アメリカがつねに「解体」への圧力をかけ続けるから、中国政府としてはそれに対する防衛態勢を取らざるをえない。喧伝される中国の軍事拡大、東シナ海進出なども、そうしなければアメリカ的秩序に呑み込まれることになるからである。だから、中国の「進出」姿勢は、アメリカ的圧力秩序に対する反動でもあると見なければならない。それをアメリカが「中国の野心」などと言えた立場ではけっしてないのだ。

 コロナ禍(パンデミック)に際してのトランプ・アメリカ政権のWHOに対する姿勢がそのミニチュアである。健康上の国際協調のためにであるWHOを、「中国寄り」だとしてボイコットするのが「協調」を基調にする国のすることだろうか。もちろん、最近の中国の姿勢全般に対して、「協調」を要求するのは国際世界の一致した考えだろうが、それを要求できるのはアメリカではないのだ。むしろアメリカこそ、中国をグローバル秩序に 対等のメンバーとして受け容れる姿勢をもつべきではないか。

 日本政府の右往左往、あるいは目に余るみっともない「アメリカ抱きつき」は、このようなコンテクストの中で、日本(の統治層)が一度も国際社会での「自立」を考えたことがないその習性のつけである。


*21世紀はフェイク・メディアの時代だが、それはグローバル化が歴史をチャラにして平気なこととも関係している。そこでは、かつての自由主義ヒステリー「反共」は、みずからを自由民主主義と規定し、フォビアの対象を「赤い恐怖」ではなく「専制主義」と呼び変えている。その点では化粧直しの「マルクス」とハイエナ「ハイエク」とが結託するという喜劇が演じられ、手を携えて「専制主義」と「ポヒュリズム」を批判する。だが、中国の「幸福な全体主義」と日本政府の陰険な「デジタル監視化(技術なし)」とどちらが民主的なのか?

2020年、「楽園」キューバをめぐるリアルなファンタズム2021/01/31

 15年ほど前、『ダーウインの悪夢』というアフリカに取材したドキュメンタリーで「グローバル化の奈落の夢」(同題で記録集あり、せりか書房)を映し出したオーストリア出身の映像作家フーベルト・ザウパーが、去年5年後しの新作を完成させたという。現代キューバに取材した『EPICENTRO』(エピセンター、2020年)。縁あって見せてもらい、思うところあって書いてみたくなった。
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 ソ連崩壊・グローバル化から30年、指導者フィデル・カストロも時の流れに霞と消え、合州国の封鎖を受けるこの孤塁にもグローバル化の波は押し寄せて、年を経た堤防も年々侵蝕されてゆくようだ。そしてオバマ政権の末期、半世紀にわたってこの島国を守ってきた呪縛の結界は解かれるかに見えた。
 
 二十世紀の世界史的な「革命」の最後の残滓として、グローバル化の波頭に抗って孤塁を守ってきたキューバ、アメリカの喉元にあるためつねに脅かされる(フロリダからの「奪回」運動、60回にも及ぶカストロ暗殺計画、歴代アメリカ政権の外交圧力)だけでなく、徹底的な経済封鎖(市民・民衆人質の兵糧攻め)を受け、北朝鮮とともにグローバル世界の「異物」として締め出されてきた小国、そこで現地の人びとは「現代世界」をどう生きているのか? そこを「終末」の「エピセンター(震央)」と見て、『ダーウインの悪夢』のシネアスト・フーベルト・ザウパーはハバナの下町に入り込んだ。そして「楽園」に生活する人びとを撮影する。
 
 ここには、前作のように、「グローバル化の奈落」の構造を浮かび上がらせるような素材(ビクトリア湖の生態系に生活を左右される人びと、ナイルパーチを資源とするグローバル食品企業、冷戦後の見えない戦場と輸送機乗りたち、その世界の澱んだ湖底で明日を夢見る若いセックス・ワーカー…)はない。アメリカはあまりに巨大で規範(標準)的に世界を覆い、その影の下で生きる人びとが「構造」や「力学」を浮かび上がらせるには、キューバの人びとはあまりに小さく果敢なく希薄にみえる。その自己主張が世界にまで届くことはない。
 
 しかし、ザウパーは気づいた。この島がスペインの植民地支配から「解放」されて「独立」の条件を得たのは、シネマトグラフィーの発明と同時代だった、と。映画はイマジネーションを物質化し、というより生きられるもうひとつの「現実」とし、人が生きる「リアル」を二重化も三重化もする。それは製作されるフェイクの「現実」でもある。
 
 この島はアメリカ合州国の最初の海外進出、米西戦争によって「解放」された。しかしその戦争は、キューバ民衆のためになされたのではなく、合州国が「アメリカ」からスペイン老帝国を追い出し、その領地を自らの手(富を吸収する自由市場)に「解放」するための行動だった。その「でっち上げ(フェイク)」を象徴するのが、開戦の口実となった「メイン号事件」である。「リメンバー・メイン!」、その合言葉で内向きの世論は一転、セオドア・ルーズベルトの戦争を支持し、フロンティアの消滅で仕事のなくなった騎兵隊を再編した海兵隊は、勇躍「新しい前線」の任務に就くようになった。
 
 つまり、「フェイク」を引き金になされた「解放」だが、それをキューバの人びとは映画(アニメ)によって繰り返し表現し、フェイクをイメージ化し、それが民衆の間に広まって共有されてきた。そして半世紀を経て、今度はアメリカという「自由」の帝国主義からの「解放」がカストロやゲバラによって指導されたキューバ人自身によってなされた。「キューバ人」とは古い帝国が混成で作り出した多様な由来をもってこの島に住むようになった人びとのことだ。しかしその「自立と解放」は、資本主義対社会主義(共産主義)という非妥協的な対立図式に押し込められ、冷戦構造の下でまさに「エピセンター(震央)」として核危機の震源にさえなりながら、「自由世界の盟主」アメリカの巨大な尻に出口を塞がれて、長く窒息を余儀なくされる。それから半世紀以上、冷戦が終わり、やがて世紀が変わっても、キューバはカストロ指導の下、「地上の楽園」として「世界」から隔離され、「進歩」や「発展」とは無縁に、時間が止まったような「永遠」の日常を生き続けることになる。
 
 とりわけ「都会」ハバナは、とり残された50年代アメリカの、生きた廃墟のようなたたずまいを見せている。「革命」以来、アメリカと切り離され、世界の「発展」から取り残されて、モノとしては「進化」をやめてしまったのだ。そんな「永遠のパラダイス」に、それでも人びとは世代を重ねて生きてきたし、生きている(堕罪前の「楽園」のアダムとイヴが、永遠の神の国でどんな暮らしをしていたかについては、その昔、聖アウグスティヌスがあつく蘊蓄を傾けているが…)。
 
 そのキューバが、グローバル市場に開かれると、もはやツーリズム以外に売るものが、商品化できるものがない。富裕国からやってくる観光客は(カメラマンやシネアストも含めて)、「文明の化石」のなかに生きる人びとを好奇心で見るという形で、この「楽園」の無時間的生を「消費」して去ってゆく(「インバウンド」だ)。「最後の秘境」を見に来るそんな人びとの来訪は、ここで「永遠」を生きてきた・いる人びとの生とどう交錯するのか。ここでは「無時間」(進歩・発展のなさ)が人びとの「歴史」だったのだが、「歴史の終り」を世界で生きる人びとには、ここに他でもない「ユートピア」(どこにもない場所、ただし「失われた楽園」)を求めて、享楽のためにやってきた。
 
 シネアスト(とりわけドキュメンタリスト)は「現実の証言」のためにここを訪れるのか。いや、その仕事も意図も、ときに志も、基本的にはツーリストの立場と変わらない。富裕な世界から来て、「楽園」を生きる人びとのイマジネーションのリアリティや倒錯、あるいはすっかり根をなくしたかもしれない欲望や希望の飾らない生の相に出合おうとするだけである。しかし、映画とは何だったのか。それはもうひとつの「リアリティー」を多少とも産業的に作り出す。その「リアリティー」は想像的なものだ。イマジネーションの産物は、綿菓子よりも淡い、降ってすぐに消える雪のようなものだが、それでも生きられる「現実」であり、生の時間とともに消えてゆくイマジネーションを外部化して「永続化」さえするのが映画である(中国語では「電影」という)。
 
 その映画は機械装置とフィルムという支持体(いまはハードディスクか)をもつことで、繰り返し人びとの前で上演され、同じイマジネーションを生きさせ、主観形成とその共有を可能にする。そこで想像界は制度的機能をもつことになる(一般にはそれを他の媒体と併せてメディアと呼ぶ)。そうなると映画は、共有されるもうひとつの「現実」を、ファンタズムとして作り出すことになる。

 キューバの「独立」とは、そんな集団的ファンタズムとして生れたのだとしたら、この「どん底」が「パラダイス」であり、「歴史」がここでは「無時間的」であったとしてもおかしくはない。映画そのものがそんな二重化・三重化、多重露出を作り出す。
 シネアストとは、そんなファンタズムが病みつきの中毒になった者のことである。中毒は享楽を体験させるとともに、醒めるときの生を鉛化するような苦痛も約束している。そしてシネアストは、カメラを回してその中毒にすっかり浸りながら、しかしそれを他人たちに見せるために、醒めて作品化しなければならない。
 
 フーベルト・ザウパーはドキュメンター作品を作るためにキューバという世界の「エピセンター」に身を浸し、そこで人びとの生活の中に入りこんだ。そして、自分が映画という一時期のファンタズム中毒であることを知り、そのためにも人びと(ただし具体的に出会った人)のなまの生を共有し、それに浸ることをファンタズムの罠の中で身を持して、映画を作品化する逆説的な支えとした。そのことが、この映画をドキュメンタリー作品としては綻びたものにしている。が、それは、このファンタズム中毒者が、作品化の不可能を引き受けたことの証しでもあるだろう。
 
 月に星条旗を立てて「上陸」の刻印にする未来のアメリカを先取りしたメリエスの映画『月世界旅行』を冒頭に引用し、50年代までのアメリカ映画を引用しながら「この世のパラダイス(またはユートピア)」を写し撮り継ぎ合わせたこの作品は、ツーリストに身を売る島の夜のネオンの明かりを吸う、夕方の堤防沿いで、昔ながらの葉巻をくゆらす廃人のような、しかし頑健そうでもある老いかけの男が、子どもたちの戯れと交差しながら、堤防を打ち砕かんばかりに押し寄せ砕け昇る波頭が、こちらの建物の中にまで容赦なく流れ込む情景のなかで、洪水の予兆を漂わせて幕をおろす(まだ工夫はあるが)。
 
 ともにザウパーを知る(初めて『ダーウィンの悪夢』を観たとき一緒だった)フランスの女性の友達は、今度の新作は初めの5分、10分で見る気がなくなったと言っていたが、わたしとしては、シネアストであることの業をエクスポーズしつつ作ったザウパーならではの力作だと思った。
 
 *2004年に公開され、世界的に話題になった『ダーウィンの悪夢』を観て、山形映画祭と協力して東京外大で上映会&シンポジウムを企画したのはたしかその翌年だった。この映画の後、ザウパーはタンザニア政府から入国禁止措置を受け、欧米のグローバル食品企業から訴えられたが、二年後に完全勝訴、しかしその後の映画作りが困難になる中で、2014年に中国のアフリカ進出をテーマにした作品『"We come as friends』を発表している。

 フーベルト・ザウパー:https://www.imdb.com/name/nm0767012/
 EPICENTRO:https://www.youtube.com/watch?v=F2ycVtJ8leM

ちょっと走り書き「トランプ最後の日」2021/01/20

 今日はトランプ最後の日。
 気になるのは、トランプが残りの任期中に駆け込みでムチャクチャな権限行使してきたことだが、ポンペオが国務長官の地位に乗ってやってるのが、もっとひどい。中国にコロナ禍の責任押しつけ、イラン非難(要人二人も爆殺してるのに)やキューバ「テロ指定」、そして昨日はウイグル族「ジェノサイド」認定…。

 何をしているのか?
 明らかに「戦争」のレールを敷いている。バイデン列車が就業する前に、レールの方向を固めているのだ。パリ協定復帰?そんなのいいよ。イラン核協議復帰?あかんよそれは、甘い顔しちゃ。要は対中戦争なんだから――これが、トランプ「自己愛カルト」(政治じゃない)を利用した「グレート・アメリカ派」の根本路線。ペルシア・中国、アジアの古いしょうもない異物じゃないか。
 
 今では現実的に考えて戦争を本格的に起こすことはできないが、「宇宙ウォー」でも何でも妄想上でなら起こせるし、その計画を国家政策にすることもできる(政権が妄想的なら)。ただ、今は、レールを敷いてその方向に走るだけでも、実際に戦争を起こしたのと同じような惨劇を引き起こすことができる。いわゆる「ヴァーチャル戦争」だが、ITデジタル化の今ではその「ヴァーチャル」が「リアル」なのだ(そして戦争はすべて「対テロ」、「コロナ・テロ」、「サイバー・テロ」、それに対する「対テロ戦争」!あるいは「経済制裁」も同じ。そして「中国の野望」に備えて世界ワクチンだ!だから中国産のワクチンはいけない、あれは毒だから、外交攻勢だからと――相手が自分たちと同様だと考える米英)。
 
 それが「グレート・アメリカ派」の思惑だ。トランプを当選させ、首席戦略官にもなったステーヴ・バノンら(トランプは傀儡がいやだったからバノンを首にしたが、バノンは利用し続ける)、「陰謀論」仕掛け人たちの狙いはひとつ、「チャイナ世界支配」を許すな!中国を潰せ!そして西洋白人支配を確保し永続化せよ――西洋がその「救済史観」にもとづいて世界を「解放」し救ったのだから。古いヨーロッパは失敗したが(そして協調主義に走った)、新しいヨーロッパたるアメリカはそれに成功した。
 
 その「グレート・アメリカ」が「グローバリズム」(国際協調→中国台頭)で弱体化している。アメリカは持てる力を使ってさらにその「偉大さ」を発揮しなければならない。中国を潰して真の世界帝国へ…そして発展して宇宙へ…。「草の根アメリカ」がその情熱と信仰で「偉大なアメリカ」を支える。それが「救済アメリカ派」(「暗黒啓蒙」と言ってもいい)の基軸戦略だ。
 
 トランプはそのみごとなアイコン(偶像)だったのだ。そのアイコンが、Qアノンや白人至上主義者たちの果敢な議事堂襲撃にもかかわらず、堕ちる(ホワイト・ハウスを「リベラル」に奪取され、今日フロリダに落ちのびる)。その前に、大統領列車のレールのポイントがどんどん切り替えられる。新たな列車はいずれ中国へと突き進む。それが「解放のニュー・ステイト」アメリカの運命だ。
 
 日本はともかくしがみついてでもアメリカ列車に乗る。乗るか乗らないか、米日に振り回されているのが韓国だ。「日韓問題」は、そんなコンテクストに深く巻き込まれてもいる(日本の韓国・朝鮮ヘイト、嫌中…)。

『私たちはどんな世界を生きているか』追記2021/01/07

 私は元々はフランス文学・思想の研究者でした。とくに「世界戦争」という極限状況を生きた作家・思想家たちの遺したものから「世界戦争」の意味(西洋文明の成就)と、その大破局によって人間の生存条件がどのように変わったのかを考えてきました。それは『不死のワンダーランド』や『夜の鼓動にふれる』といった著書にまとめましたが、日本人がそんな一般的(人類的)な考察をすることの意味もいつも考えてきたつもりです。私たちは技術・経済・政治の世界的な趨勢のなかに生きていますが、抽象的な人類として生きているわけではなく、日本という言語・社会環境のなかに生きているからです(そういう観点からの「歴史」批判を『世界史の臨界』で試みました)。

 それは「冷戦期」の終った頃でしたが、その後、二十一世紀に入ってアメリカの「9・11」が起こり、冷戦に変わる世界戦争のレジームとして「テロとの戦争」が打ち出されました。そして日本には「3・11」の大災厄が起こりました。それはもちろんヒロシマと同じように世界的かつ文明史的な意味をもつ出来事でした。

 けれども先端技術・経済を動力として現在の世界は、そうしたカタストロフを流し去るようにして、人びとの日々の生活を「未来」の蜃気楼で包んで「前に」進んでいるようです。人類の時間は長いけれど、一人ひとりの生きる時間は限られています。その限られた時間の視野から、私たちは今ある世界との関係を考えています。その尺度から見ると、私のたちの生きているこの世界(そして日本)は、いまいったいどんな状況に置かれているのか、そのことを技術・経済・政治のファクターをもとに示してみたいと思ったのが、この本を作ることになった動機です。

 この思考法には、少なくとも二つの哲学的前提があります。
ひとつは、現在私たちの生きている世界が西洋で作られた規範体系によって組織されているということ(知も制度も意識も、普遍を主張してみずから世界化したその規範体系が標準になっている)。そして、そこに憑依し、あるいは進んで同化するのでないかぎり、私たちは違う来歴をもちながら同化された地域(場)で生きており、その境界は“人間”(言葉を話す生き物)であるかぎり無視できない、ということです。

 簡単にいえば、翻訳は今は便利な機械でできても、日本語で生きることと英語で生きることとは違うということです。ただしそれは、分断のために言うのではなく、分有が可能になるために言うわけです。言いかえれば、普遍は共同ではなく一元化と統合であり、それは超越的ないしはヴァーチャルなものであって、個物の立場に立つことで初めて共同性が可能だということです。

 このことをわざわざ書く気になったのは、『AERA』年末新年合併号で、生物学者の福岡伸一氏が望外の書評を書いてくれたからです。じつは私の「生命の有限性」に関する考察は、ジョルジュ・バタイユが『エロティシズム』で展開した思考を、福岡伸一氏の「動的平衡」という考えで裏打ちしています。直接の話題としては取り上げていませんが、私の「世界論」(「世界はなぜ存在しないか」などというバカな問いを私は立てない)のそこかしこに福岡氏は私の考えの「方法」を過たず読み取ってくれたと感じています。

 それは書評冒頭の、ものごとの理解にとっての「歴史的観点の不可避性あるいは必要性」の指摘にまず表れており、後半の以下の記述はその核心に触れたものです。引用させていただきます。
「(…)それは人間の有限性に対する正常な感覚が失われつつあるからだ。著者は、これを『人間の生存空間、生存領域は成層圏の中』にある、という象徴的な言葉で表明している。この有限性を無化するために作り出されたものは何か。それこそがバーチャル次元である。そしてそれがゆえに『人間の生存の条件そのものを脅かしている』。ここには我が意を得たりという思いがした。」

 これこそは「我が意を得たり」ですが、以下、ロゴスとピュシスに関する福岡氏のコメントは、私が最近折あるごとに引用する箇所でもあります。

 「私は、朝日新聞のコラムで『ウィルスを、つまりもっとも端的なピュシスを、AIやデータサイエンスで、つまりもっとも端的なロゴスによって、アンダー・コントロールに置こうとするすべての試みに反対する』と書いた。ここで言うピュシスとは、人間の生命を含めた“自然”という意味である。自然とは絶えず流転し、生と死があり、有限なものである。ピュシスとしての生命に対する、ヴァーチャルという名のロゴスによる無制限な侵攻にいかに抵抗すべきなのか。そのための正常な感覚こそが『哲学』であるということを宣明した画期的な論考である。」

*なお、『現代思想2020年9月臨時増刊号 総特集=コロナ時代を生きるための60冊』に、福岡氏の『新版 動的平衡』を挙げ、「生物学の工学化に抗する」という一文を寄稿しました。