沖縄・辺野古基地建設の断念を求める新たな有識者声明について2018/09/10

9月7日記者会見の模様
*9月7日(金)に有識者グループ「普天間・辺野古問題を考える会」が沖縄・辺野古の新基地建設をめぐる新たな声明を発表し、記者会見を行った。声明文は http://unite-for-henoko.strikingly.com/ に挙がっているが、これに関する事情について説明しておきたい。

※記者会見の模様が簡潔なビデオになりました。声明「辺野古の海への土砂投入計画並びに新基地建設計画を白紙撤回せよ!」への賛同署名フォームへのリンクもそこにあります。
http://www.eizoudocument.com/0521henokoseimei.html

○声明の時期
 
 大浦湾への土砂投入を前に、埋立て承認の撤回手続きに入った翁長県知事が急逝し、その意志を継いで県は撤回に踏み切って新基地建設の工事は止まったが、工事が止まったら行政訴訟を起こすとともに、県に(知事個人にも)損害賠償(一日二千万と試算)を請求することもあるとしていた国(安倍政権)は、後任の県知事選を控えて提訴に関しては模様眺めである。
 
 国に協力的な知事が登場すれば、その知事が県の「撤回」を取消すかもしれないし、「撤回」に対して国が行政訴訟を起こしても、県に賠償請求をすることはないだろう。翁長知事が就任してほどなく行った埋立て承認「取り消し」に対する行政裁判以来、この間の最高裁以下の裁判所の対応から予測されるように、国が勝訴することになれば、新しい知事はそれを受け容れるだろう。そうすれば国はもはや何の障害もなく工事を進められるというわけである。辺野古現地の抗議行動は「不法行為」となるし、土砂搬入等に関わる抵抗も簡単に潰すことができるだろう。
 
 そう考えると、県が埋立て承認撤回に踏み切った今こそ、その「撤回」支持を表明して新基地建設を止めるために声をあげる決定的な時だと言ってよい。これまで3度、辺野古基地建設に抗議の声明を発表してきた海外の知識人グループ(チョムスキーやオリバーストーン、ジョン・ダワー、マコーマック氏等)が、時を同じくして新たな声明を発表したのもそのためだろう。
 
 アメリカを中心とした海外の著名な有識者がこの問題に関心をもつのは、この新基地建設がアメリカの軍事政策や海外基地展開に関わるばかりでなく、沖縄の基地問題が日米両政府の管轄下での看過しえない地域差別や人権の問題であり、東アジアの平和全般の問題だと捉えているからである。

○「普天間・辺野古問題を考える会」について 

 いま「普天間・辺野古問題を考える会」と名乗っている有識者グループが最初に結集したのは2009年12月であり、SACO合意による普天間基地撤去がいつのまにか辺野古に代替基地を作るという話になり、その流れを変えようとした鳩山政権下で、日米両政府に対して普天間基地の辺野古への「移設」に反対する声明を出したのが発端である。このときは11年1月30日までに有識者340人の署名を集めて声明を政府に提出した。

 しかしその後、民主党政権が「辺野古回帰」へと揺れるころ、グループは同年6月に「米海兵隊は撤収を」と訴える第二の声明を出した。そしてアピールの趣旨を示し、その後の議論のベースを提供するために、沖縄の現状診断と将来見通しの基本を書籍としてまとめ、『普天間基地問題から何が見えてきたか』(宮本憲一、西谷修、遠藤誠治・編、岩波書店)を出版した。

 そこでいったんこのグループは区切りをつけるはずだったが、以下に述べるような状況の進展(あるいはむしろ後退)のため、2014年の翁長県知事誕生の前後には、沖縄での状況変化に目を開き現地の声を東京に届けるべく、『沖縄の地鳴りを聴く』と題する連続講演会を開いて本土の世論の喚起を図った。そして2015年4月には、再び「辺野古米軍基地建設に向けた埋立工事の即時中止を要請する!」という緊急声明を出す必要に迫られた。今回またこのグループが新たな声明を発表したのは、安倍政権がひとつになった沖縄の意志を、無視するというより力づくで崩して、辺野古の新基地建設を決定的な段階に進めようとしているからである。

○沖縄アイデンティティの胎動と「オール沖縄」
 
 この問題は、2011年3月に東日本を襲った大震災・津波と福島第一原発の激甚事故のために、いったんは本土の政治社会的関心の後景に退くことになった。そして2年半後の自民党の政権復帰以後、安倍政権は進行していた沖縄の「目覚め」を鳩山政権の「失政」のせいにしつつ、日本の軍事化(「安全保障」という名の)を進める一環として、沖縄にイデオロギー的な圧力をかけ、辺野古新基地建設を「唯一の選択肢」として進めてゆく。
 
 しかしその間に、沖縄の状況は大きく変わり始めていた。そのきっかけになったのは、2007年に教科書から沖縄戦時に各地で起きた集団自決への日本軍の関与の記述を削除するという文科省の決定で、これは沖縄の辛酸を否定する日本政府の振舞いとして、沖縄の人びとの逆鱗にふれ、保革を超える大抗議運動が起こった。95年の少女暴行事件以来のことだった。そしてこのとき、沖縄戦の経験を核にした沖縄のアイデンティティが問われたのである。それ以来、本土(政府および住民)による沖縄の「構造的差別」が意識されるようになり、保守系県知事だった仲井真氏も、次の選挙(2014年)では普天間基地の代替は「少なくとも県外」を主張して再選された。
 
 しかしもともとが歴史否認体質の安倍政権は、このような沖縄の自己意識の胎動を無視し、「普天間基地の危険除去のため(沖縄の負担軽減のため)には辺野古移転しかない」として沖縄防衛局を通して着工準備(夜中の書類搬入など)を進める一方、名護市長選では公然と「わいろ選挙」を行い、自民党選出議員をかしづかせて(当時の幹事長は石破茂氏)「辺野古しかない」を言わせようとした。しかしそのこと自体が明治の「琉球処分」を想起させずにはいない光景だった。そして2013年暮れ、圧力の限界と見切った仲井真知事は「正月のうまい餅」と引き換えに、「大浦湾の埋立て許可」を出したのだが、まさにそれはジャパン・ハンドラーのケビン・メアの悪質な中傷(「オキナワはゆすり・たかりの名人」)を地でゆくような振舞いだった。
 
 その結果が、翌年の翁長知事の登場である。翁長氏は長く自民党県議団の代表を務める那覇市長だった。その翁長氏は、かりゆしグループや金秀グループなど沖縄財界も結集した「オール沖縄」の候補として当選した。本土政府が言うように、基地がなければ経済が成り立たないのではなく、むしろ基地がなくなったほうが地域や位置に依拠した経済が豊かに発展するという、この間の基地返還後の経済振興で示されたことをベースに、沖縄の将来を見越した財界も、沖縄の自立と誇りのために「オール沖縄」を組んだのである。

○安倍政権の対応
 
 これは1995年の転機(復帰後初めての大々的な米軍基地と日本政府への抗議、それが初めて日米両政府の協議を行わせ、普天間基地の撤去を決めさせた)、2007年の沖縄の原点潰しへの抗議に示された、沖縄の自立意識の流れを汲むものだった。保革のイデオロギー的対抗軸は、沖縄の根本の問題をむしろ隠蔽するものでしかなく、沖縄にとっての問題はアイデンティティだということ、対立は本土政府の姿勢と沖縄の自立・自治志向との間にあるのだということ(かつてこれを「鳴動する活断層」と呼んだことがある) をこの選挙は示し、翁長氏は10万票の大差をつけて当選した。それに続いたほとんどの地域選挙で「オール沖縄」の候補が当選したことは、この意識の高まりが広範なものだったことを示している。
 
 しかし安倍政権は、その圧倒的な「民意」の表明をまったく無視し、「基地負担の軽減」とはまったく逆に普天間基地へのオスプレイ配備を進め、いまではこの危険なヘリが市街地の上をわが物顔で飛んでいる。さらに、2016年春には、1995年を思わせる米軍属による女性暴行殺人遺棄事件が起こったが、沖縄の人びとが強い憤りとともに改訂を求める日米地位協定にはふれもせず、その場しのぎのジェスチャーしかしない。というより、米軍を盾に、沖縄に犠牲を強い続けて恥じない。そして2015年安保関連法制を強硬成立させて、2016年夏から高江ヘリパッド建設工事と辺野古の埋立て準備工事を、全国から警察の機動隊を派遣して強行した。その間に、オスプレイやその他の米軍ヘリの墜落事故が相次ぐが、政府はオウムのように「再発防止」を繰り返し、新基地建設を進めようとする。
 
 その一方で、「沖縄のアイデンティティ」意識を切り崩すため、翁長知事が「反日」であるとのデマを流し、失効した保守/革新のイデオロギー図式を、日本バンザイ/反日の反動的な踏み絵に置き換えるべく、インターネット・メディアで武装したプロパガンダ部隊を送り込み、現地で座り込みを続ける人びとを誹謗中傷して、一般市民の離反を画策したりしている。それと歩調を合わせているのが、和田政宗ら官邸に出入りする極右議員であり、DHCの「沖縄ヘイト」番組である。彼らは直接官邸の指示を受けているのではないにせよ、それが官邸に歓迎されていることは明かで、いわゆる沖縄ネトウヨの我那覇真子は、桜井よしこ等とともに今年年始に首相官邸に招待されているし、DHCは安倍首相お気に入りの番組制作会社だ。

○沖縄県知事選挙

 安倍政権になってから、新基地建設に反対する人びとがデマやヘイト・スピーチの標的にされるだけでなく、政権は選挙に勝つために露骨な脅し(交付金などに関して)を使うようになり、埋立て承認の撤回をめぐっては、県や県知事に対して工事遅延の損害賠償(一日二千万円)を請求することをちらつかせた。国が新たな軍事基地建設を望まない県に対して損害賠償を請求する? こんなことは地方自治を認める先進国では聞いたこともない。弱いものいじめを国が恥ずかしげもなく行う、あるいは脅しに使うというのは、官僚に公文書も廃棄させるというこの政権の破廉恥な特徴である。その政権によって、沖縄県はいま窮地に立たされている。
 
 地域に足場をおいた沖縄二紙(琉球新報、沖縄タイムズ)が「反日」メディアだという誹謗中傷は、防衛相だったときの小池百合子から始まっているが、その流れを引き継いで「果敢な」メディア攪乱を行っているのがこれらネトウヨであり、その動きが安倍政権とともに活発化しているのも確かなことだ。そして今年2月の名護市長選は、企業関係者に対する自民党の圧倒的な締付けと、公明党・創価学会による執拗な勧奨によって、稲嶺前市長を下して新基地容認の候補が当選した。このような状況の延長上に、9月下旬の県知事選が行われるのである。
 
 そこでも示されたように、今の選挙結果は公然の運動によって決まるのでもなければ、主張の正当性が選挙民に浸透して決まるのでもない。この混濁したメディア状況(攪乱される情報、作られる噂やデマや空気)のなかで、組織的・人的な囲い込みが実勢を決めてゆく。だから、まともなことをまともに主張し公表することに、現実的には大した意味もないかもしれない。しかし、であればこそ、言うべきことは言っておかなければという愚直な思いが、この声明の呼びかけ人となった有識者たちを動かしているのである。
 
 声明には、県の撤回措置を支持する具体的な根拠等が明確に示されているので、参照いただければ幸いである。
 
★「沖縄・辺野古声明2018」の賛同署名フォームは以下のURLです。
 http://unite-for-henoko.strikingly.com/ クリックすれば開きます。

 
*なお、市民団体の「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」も同趣旨の声明を用意しており、記者会見は合同で行われた。

原爆開発・使用と科学者の役割2018/08/14

 8月12日、BS1スペシャル『「悪魔の兵器」はこうして誕生した~原爆、科学者たちの心の闇』は、原爆開発投下を今までにない視点から検証して興味深かった。というより、現代の科学技術と科学者のあり方を考えるうえできわめて重要な事情を明らかにしていた。
 
 日本でも一昨年来(2016年~)の日本学術会議の「軍事研究」をめぐる議論の高まりがあり、池内了さんを始めとする「軍学共同」の流れに抗議する学者団体の活動もある。
 
 これまで原爆投下の問題は、政治的決定や軍事的必要等の観点からさまざまに論じられてきた。日本の降伏が時間の問題となっている段階で、なぜアメリカは原爆を投下したのか。ルーズベルト→トルーマンが戦後のソ連との対立を見越して米の軍事的優位を誇示するためだったとか、いつまでも降伏しない日本に戦争終結を受け容れさせ、余分な犠牲を避けるためだったとか。

 もちろん、最終決定は大統領(政府)によるものだし、実行するのは軍である。しかし両者が科学技術の最先端に通じているわけではない。そもそも原爆開発は、科学者の提言によるものだったし、開発プロジェクトを担ったのは科学者の組織と集団だった。それが政治家と軍を動かしたのである。しかしこの番組は、原爆投下(ヒロシマ・ナガサキの惨禍)に科学者たち自身が決定的な役割を演じてきたことを、原爆開発チーム・メンバーの証言映像の発見を契機にして描き出した。
 
 ナチス・ドイツからの亡命科学者レオ・シラードがアインシュタインを動かしてルーズベルト大統領に書簡を出し、近年研究された核分裂現象が新次元の兵器を可能にするとして、ドイツがそれを開発する前にアメリカが開発しなければならないと進言したのが(39年)、1942年秋に始まるマンハッタン計画のきっかけとなった。それがなければ、原爆開発はなかったのである。科学技術の最新動向に政治家が通じているわけではなく、また戦争の危機のなかで、科学の最新成果の軍事利用をすぐに考えた(恐れた)のも科学者だったのだ。
 
 それに、20世紀に入って科学技術の研究開発はその規模を拡大し、多額の資金を必要とするようになっていた。第一次世界大戦で現出した「総力戦」状況の中で、自分たちはもっと役に立つのに、と地団太踏んでいたのもまた科学者たちのようだった。そんな中で、科学技術の発展のために、軍事に貢献して国家予算を獲得しなければならないと考える学者も出てくる。
 アメリカではそれが、MIT副学長からカーネギー研究機構の総長となり、政府の非公式な科学顧問となったヴァネーヴァー・ブッシュ(1890~1974)だった。彼は大恐慌(29)以後科学研究費が削られることを憂慮して、ヨーロッパで戦争が始まるとアメリカ国防研究委員会(NDRC)を設立して議長となり(40)、翌年には大統領直属の科学研究開発局の局長となる。秘密裏に決定されたマンハッタン計画を仕切るのはこの部局だ。
 
 議会にも連合国にも秘密にされたこの計画のもと、20ほどの研究施設のネットワークの中核に、後のソ連の秘密都市のようにニューメキシコのロスアラモスに広大な研究施設が作られ、若い有能な科学技術者が各所から集められ(2000人規模)、戦時中では考えられないほどの厚遇を受けて集団的な研究開発を行う。戦争の終結前にともかく原子爆弾を開発するというのが至上命令だったが、多くの科学者は全体目的も知らないまま、この厚遇のなかで担当箇所の研究開発に没頭するのである。
 
 ノーベル賞級の科学者を中核とするその計画の統括を任されたのがロバート・オッペンハイマーだった。計画着手は42年9月だったが、翌年6月には軍の報告から、ドイツが実現性を疑って原爆開発をしていないことが明かになる。そこで一部の科学者は、戦争中の開発の必要性に疑問をもち(いずれにしても未曾有の破壊兵器である)、計画遂行をめぐる討論会を開こうとしたが、オッペンハイマーが介入し、この兵器は戦争することを断念させるだろうから、戦争を起こさせないために開発するのだと、原爆の新たな必要性を強調したという。秘密の国家事業であるこの計画から身を引くことは、科学者の将来を危ぶめることだろうというので、ここで辞退した科学者はいなかったという。
 
 そして45年7月16日、ルーズベルトの死去を受けて大統領となり、ヤルタ会談に出ていたトルーマンのもとに、実験成功の知らせが届く。アラモゴードの実験場では、まばゆい閃光と爆風そして巨大なきのこ雲を遠巻きにして、科学者たちが恐怖混じりの感動と熱狂に包まれていた。その日以来、オッペンハイマーは偉業を達成したある充足感のようなもので別次元の存在のようだったと、弟のフランクが回想している。
 
 5月にヒトラーは自殺して計画当初の敵はいなくなり、戦争を続けているのは日本だけだったから、原爆を使う対象は日本になる。その破滅的な威力を見て、レオ・シラード等は、実際に投下するのではなく、効果を見せて降伏を迫ればよいと、トルーマンに進言するが、オッペンハイマーは予告なしでこの兵器の威力を見なければ意味がないと主張していたという。
 
 トルーマンが世界に向けて高らかに宣言したように、科学技術の成果が戦争に勝利をもたらしたのであり、この成果によって、以後、科学技術は国家にとって最も枢要な位置を占めることになる。それが20世紀後半以降の科学技術の地位を決めたのだ。
 
 しかしそれは国家を導く地位ではなく、国家に従属する地位であり、戦後アメリカは核開発を推進するために新たな機構を設置する。しかし、オッペンハイマーは折から起こったレッド・パージに引っかかり、国家英雄から一転して赤いスパイとみなされて公職を追放される。それがオッペンハイマーの改悛の契機となるが、われわれがよく知っているのは以後の彼の姿だったのである。

 この調査番組が明らかにするのは、原爆投下を引き起こしたマンハッタン計画という秘密国家事業に関して、科学者はたんに使われたのではなく、むしろ科学技術の発展のためとして積極的な役割を果たしていたということ、科学技術の研究開発が国家予算の獲得と結びつき、科学者の集団やそのリーダーが予算獲得のためにみずから軍事貢献を提言し、科学技術開発の成果に何の疑惧もなく、異常なまでに破壊的な兵器開発に邁進したのだということ、そしてそれが未曾有の大量破壊兵器であり、その兵器が実際に使用されたとしたらどんな地獄が現出されるのか、まったく想像もしてみなかったということである。

 そのうえ、科学技術は以後、文明発展の原動力と見なされ、現在もっている社会的影響力を十分に享受するようになった。また、ヒロシマやナガサキの惨禍を見てもなお、その使用の責任を政治家や軍に負わせ、科学者たち自身は、このような重大で危険な兵器を、感情や個人的利害に身を任せて判断を誤る政治家たちに委ねないために、最も合理的な判断を引き出す人工知能を開発するといった、無責任ぶりに無自覚である。
 
 いまや科学技術は、人間の役に立つ道具のレヴェルにとどまってはおらず、その使用効果は技術を制禦しているつもりの人間のコントロールをはるかに超えている。オッペンハイマーたちが、原爆実験を行いながら、それを現実に使用したら、たとえ敵国とはいえ人間の世界にどんな惨劇が現出するのか、ほとんど考え及ばなかったらしいことも、科学技術的知性の盲目性を証している。
 
 科学技術は人間に新たな可能性を開くニュートラルな成果であって、その使用の是非は関与する者たちの倫理性に委ねられている、というのは実は科学者たちの欺瞞であって、科学者たちこそが、自分の研究開発の成果が社会にもたらす結果について責任を持たなければならないだろう。「なす」のは科学者たちだからだ。そうでなければ科学者は、ついに欺瞞的な国家や市場の拡大の一エージェントに過ぎなくなるだろう。

『「改憲」の論点』(集英社新書)2018/07/27

『「改憲」の論点』(集英社新書)
 ブログの更新を長らく休んでいましたが、新しいお知らせを。

 7月にこういう本が出ました。第196国会という戦後最悪の国会を、オウム死刑囚大量一括処刑で目晦ましし、折からの西日本豪雨大災害の対策もそっちのけで、トランプ土産のカジノ賭博法を強行して乗り切った安倍首相は、自民党総裁三選に向けて「改憲」が争点だと表明したそうです。

 ほんとうに「改憲」する気があるかどうかは分かりません。たぶん、2020年のオリンピックまで首相でいて、在位最長をスーパーマリオで飾れば後は野となれ山となれ、本人はそれでいいのだろうけれど、右バネの求心力を使うためには「改憲」を持ちだす必要があったのでしょう。

 それに、実際、やりたいことは何でも通る(安保法制、共謀罪、TPP11、虚偽資料の働かせ改革、カジノと)翼賛というより数の隷従(自公のこと)国会だから、やろうと思えば形だけの発議はできるだろうし、どんなにいい加減な「改憲」でも、中身は関係なくともかくやってしまえば「やった」を功績にできるのが、いまの日本政治の実情です。

 それに、安倍のコアな支持者はとにかく「改憲」を求めているから、やれば彼ら(日本会議・神社本庁・ネトウヨ・ヘイトマニア)は喜ぶ。だからオリンピック・ボランティア(酷暑を試練に祖国への挺身強制)空気を圧力に使いながら、「日本スゴイ!」のデタラメ「改憲」発議をする可能性は十分にあります。ここまで来たら「改憲」することに意義がある!オリンピックが終わっても、それが「美しい国」への「レガシー」になる。

 安倍政権は、言うことをきかない者は徹底的に排除し、なびく連中にはソンタクの限りを尽くさせ、官僚機構は「お役立ち」役人が餌を追うだけの牛舎にしてしまい、メディアや司法もすっかりなびかせて、国会は議論など成り立たない強弁と虚言と言い逃れと居直りの、まったく空しく品格のヒの字もない採決手続きにしてしまうのに成功しました。、そのうえ、日本の大勢を、それを放置しそれでも通る底抜け社会にしてしまったのだから(何の大災害が起きたのでしょう?)、6年かけて「改憲」の機は十分に熟したと言うこともできるでしょう。

 要は、もう議論の問題ではないということですが、何を血迷ったのか、そんな政治状況を不問に付して、まるで今の日本にまともな論議をする土台があるかのように、「護憲的改憲論」とか「リベラルの側から改憲を」という主張も出てきています。そのうえ「リベラルよ目覚めよ」とか言う。大きなお世話でしょう(わたしは「リベラル」ではありませんが)。

 そんな折に行き合わせるかのようにタイミングよく、「立憲デモクラシーの会」の主要メンバーによる8人による新書『「改憲」の論点』が出ました。いま必要な議論のテーマがほぼフォローされています。論点を間違えないよう、参考にしていただけたら幸いです。

 わたしは、憲法その他の法論議ではなく、日米安保のアメリカとの関係で、「改憲」や「戦争権」の主張の問題点を、解説しました。十分ではありませんが、いわゆる「ポスト真実」の歴史的意味にも関係しています。

 また、これに関連して、「テロとの戦争」以降の「戦争」の変容と国家間関係の変質について、つまり現代の「戦争」を考えるうえでの前提条件について、夏に刊行される『神奈川大学評論』に寄稿しました。じつはこれは上記の新書に書いた文章の「前半」にあたる部分です。なかなか手にしづらい媒体ですが、図書館などでは見られると思います。

 とりあえず、お知らせします。

インタヴュー「翻訳・戦争・人類学」2018/04/29

『境界を超えて』No.18_2018.03
 立教大学文学部の大学院(文学研究科)比較文明学専攻の特任となって4年がすぎ、今年が最後の年になりました。大学院の比較文明学専攻に対応する学部の専修コースは「文芸・思想」です。
 立教大学文学部は、キリスト教学科、英米文学専修、フランス文学専修、ドイツ文学専修、日本文学専修、文芸・思想専修、史学科、教育学科からなっています。
 ここ20年来にわたる日本の大学教育における人文系(とくに文学部)の縮小・廃統合の流れの中で、もともと人文系を軸としてきた立教大学も、工夫を重ねてさまざまな新学部を展開してきたようですが、文学部本体はそれなりに骨格を残しています。
 ただし、わたしが籍を置く「文芸・思想―比較文明学」というところは、2002年に発足したところで、一見すると何をめざすところかよくわからない感もあります。わたしも当初は、20世紀フランス思想をベースにして思想史全般、あるいは文明論のようなことをやってきたのだからいいのだろう、といったつもりでいました。
 ところで、ここの文学部には哲学科がありません。その代わりにあるのが「文芸・思想専修」なのです。哲学とはもともと、西洋で思考の仕方や作法を鍛え上げる営みでした。それが長い時間と蓄積を経て、今ではその蓄積の中身を研究する専門職になっています。それはそれで重要なのですが、そんな特殊専門研究が多くの人に必要なわけではありません。それに、いま大学で勉強しようとする若い人たちに求められ、かつ期待に応えられるのは、むしろ哲学の本旨である思考の仕方や作法を鍛え上げることの方でしょう。
 考えることの足腰を鍛えるためには、まず言葉を磨かなければなりません。最近ではそんなことも要求されなくなっていますが、自分でやってみればわかるように、ものを考え、それを表現するには、まず言葉が足場です。と同時にまた、語るべきことがなかったら言葉は空虚です(ペラペラの英会話?)。だから、対象や領域は広くとって、言葉で考える・表現することのモチーフに形を与え、そのための足腰を鍛える、それがこの「文芸・思想専修」で目ざされていることのようです(私が決めたのではなく、どうもそのようだ、ということです)。
 だから、いろいろなテーマをもつ学生がいます。真正面から哲学に入ってゆく学生もいれば、物書きを目指す学生もおり、映画などの批評をやりたい学生、あるいは都市について、健康について、労働や社会について考えたい学生、さまざまです。そこに小説家や批評家として活躍する教師がおり(専任教員の他に特任も)、哲学研究や文学研究に長けた教師がおり、学生のテーマに合わせて、またそのテーマやモチーフが形をとるのをサポートし、ものを考え・それを表現するためのいわば「体幹訓練」を行っているのがこのコースです。
 こんなことを書くのは、人文学の危機が言われる時代に、実は大学教育を根幹で支えているのはこういう学部なのではないかと思いながら、それを言う機会がなかなかないからです。実用科学はべつに大学でなくてもいいわけですが、日本ではこの四半世紀、経済界の意を受けた文科省の指導の下、大学は実用科学技術専門学校へと変質させられています。大学の質の低下とか、学生の思考能力の低下とかいう問題は、文科省のこうした方針が引き起こしているわけです。じつは若い人たちにはおのずから、考えたい・表現したいという欲求があります。それを補助して考えることの足腰を鍛える、これこそが現代の人文教育の根本でしょう。文芸・思想専修ではそれをやっています。
  わたしが自分の教歴をこういうところで終えるという得がたいチャンスを与えてくれたのは、この専修にいた旧知の若い(私に較べて)文学研究の同僚たちでした。そして最終年度を前に、今度は新しい専任教員の福嶋亮大(文芸批評家)さんと、こちらは旧知の小野正嗣(小説家)さんが、専修の紀要『境界を越えて』の特集としてインタヴューを企画し、編集の労をとってくれました。それが4月に刊行された18号の巻頭インタヴュー「西谷修『翻訳・戦争・人類学』」として掲載されました。
 全50ページの堂々たる?インタヴューになっています。じつはこれは圧縮したもので、今回「完全版」が福嶋さんや編集の深澤さんのご尽力で「文芸・思想専修」のウェブサイトに3部に分けて掲載されました。電子書籍版としてダウンロードもできるようです。
 最近人前では、立憲デモクラシーの会とか、学者の会とかの関連で話をすることが多いのですが(このブログに書くことも)、そういう場所ではほとんど触れる機会のない、わたしの本来の仕事のエッセンスの紹介にもなっています。もちろん、この他にもとりわけ、現代の死のこと、共同性のこと、宗教のこと、技術のこと、世界史のこと、それを踏まえた世界性と現在の世界のことなど、語るべきことは多くあります。わたしがもう30年以上職業的にやってきたのはこの種のことです。
 今回はお二人のご関心に応じた質問に答えて、このような内容になりました。まだまだ語りたいことは多くありますが、まずはこれを読みいただけたら幸いです。
 http://bungei-shiso.com/
 〈前編〉http://bungei-shiso.com/archives/801
 〈中編〉http://bungei-shiso.com/archives/813
 〈後編〉http://bungei-shiso.com/archives/819

*『境界を越えて』は立教比較文明学会が編集発行する紀要です。

小森陽一編著『「ポスト真実」の世界をどう生きるか』2018/04/15

 小森陽一編著『「ポスト真実」の世界をどう生きるか』(新日本出版社)が出ました。これは小森さんが4人のそれぞれ違う分野の論者を相手に、「ポスト・トゥルース」がキーワードとなるような社会の情況のなかで何が問題になるのかを多角的に照らし出そうとしたものです――香山リカ(差別とヘイト)、日比嘉高(ネット社会)、浜矩子(フェイク経済)と西谷。

 フェイク(ウソやでっち上げや隠蔽)がまかりとおるばかりか、それが政治や社会運営の強力な手段となるのはなぜなのか、それで実際には何が行なわれるのか、あるいは、なぜ「ウソ」は通用力をもつのか、受け入れられるのか、むしろ求められるのか、その「ウソ」に対して知るべき真実とはどこにあるのか、何がごまかされるのか、それに対して真実は足場となるのか、それはどうして価値なのか、どうしたらこの「ウソの壁」を突き破れるのか、等々。

 昨日(4月14日)は、森友・加計問題の真相解明と安倍内閣の退陣を求めて、国会前に数万人が集まり、デモンストレーションを行いました。関西でも二千人のデモがあったと伝えられます。その背後にある憲法改正(安倍改憲)や自衛隊の問題も、「フェイク」の上に組みあげられていることが、最近また露呈されてきました(政府・防衛省が何を隠し、ウソの論議をやらせているか…)。

 実はこの「フェイク」は、それを通用させるために「ヘイト(憎悪・蔑視)」を必要としています。安倍首相はそれでも選挙戦で公然の場だから少していねいに「あんな人たち」と言って指差しました。つまり権力者がこうして差別の線を引き、それへの「ヘイト」を煽る。その上に「フェイク」はまかり通ります。いや、それは一体のものだと言ってもいいでしょう。日本でのその典型は「在日特権」というものです。その主唱者はいまではトランプにならって「日本第一党」(日本ファースト党)を名乗っています。そのような「ヘイト」が「美しい国」というまったくの「フェイク」を必要とし支えるわけです。

 この日本の「フェイク」政治風潮は、アメリカやヨーロッパの風潮と呼応しています。ひとことで言えばグローバル化した世界の政治・経済・社会・人びとの意識を巻き込んだ、全般的な流れのなかにもあります。つまり世界史的な流れの中で、アメリカにはアメリカの、日本には日本の、固有の条件を帯びて現れてきているのです。

 このことを知っておくのは無駄ではないと思います。知ること自体は直接的には無力かもしれませんが、力の源ではあります。いまはまさに、「真相」を知ることと「フェイク」ですますこととが、まさにぶつかり合う時代になっているのですから、なおのことでしょう。

 ということで、小森さんのこの企画にわたしも積極的に参加しました。香山さん、日比さん、浜さんの対談とあわせてぜひお読みいただければと思っています。わたしとの対談の内容見出しを紹介しておきます。

第4章 歴史の書き換えはいかにして起こるか
 1 IT社会は真実をどう書き換えるか
  ポスト・トゥルース言説と排外主義
  心能コントロールの系譜
  IT化で生じる「真実性の代わり」
  信実はなぜ価値と言えるのか
  歴史を書き換えたい人々との関係
 2 近代の歩みの中から見えるポスト・トゥルース問題
  アメリカ社会の歴史
  差別とのたたかいと歴史修正主義
  ポスト・トゥルースに溺れた者の没落
  靖国をめぐるフェイクと神社の真実
第5章 言葉の危機をどうのりこえるか(小森)

佐川喚問の後、ほとぼりが…?もうやめてくれ!2018/04/02

 佐川喚問の後、ほとぼりを冷ましながら「外交で支持率回復」?といった声も聞こえる。ほんとうか?(FBに挙げたものをこちらにも掲載)

 ほんとに酷い話ばかりで呆れるしかない。
 「ウソアベアソウ」という回文もあるとか。こういう下劣な人間が集まって権力をとり(もちろんそれを担ぐ連中がいる)、働く者や弱者を絞り上げる一方で、後先考えずに札束刷って財界を儲けさせ、それを批判する勢力はネトウヨを使って嫌がらせ、挙句に選挙で腐れウヨクの議員を増やし、権力行使でカルト発言、マスコミ攪乱、あちこち恫喝でゲスな圧力。目ざすは改憲または緊急事態だ。これさえあれば合法独裁できるから。

 しかしその内実は、たんに「オレたちが殿さま」の情実政治。一時代早かったのでポスト真実(ウソ・デマ社会)に間に合わず、主流になれなかった石原ジジイも、森友なんかよりもっと大事な国事が…と言うが、戦争をしてはいけない時代に戦争準備態勢とは、たんに権力集中を正当化してやりたい放題できる状態を作ること、つまり森友加計で露見したことがその実態だ。

 権力強化は、戦争するよりむしろこっちが狙い目。官僚に文書は破棄させ、メディアには寿司を食わせて、司直にも手回し、これが「強い政権」のカラクリだ。要するに政治の私物化・国事の私物化、その口実が「お国のため」。「国民のための政治」なんて言わせてはおけない、国民は国に奉仕すべき、そう言って国家(権力)は自分たちのものにすればいい、と思い込んでいるのが現代のウヨクだ。

 中国・北朝鮮の分断敵視もそのため。グローバル化以来世界の状況は大きく変わっている。もう米ロの時代ではない。にもかかわらず、単純な「強いニッポン」幻想に閉じこもり、あわよくば国をガレー船状態(奴隷国民が漕ぐ軍船)にして乗り回そうとする。

 だがその実態は、「アメリカ様」(宮武外骨)への貢ぎ・抱きつきの国売りだ。アメリカの庇護の下でないと自分らの権力は維持できない。戦後のウヨクはみなアメリカの岡っ引き。だから被爆国なのに、倒錯的に核戦略までしっかりやってくれとおねだりする。

 そうこうするうちに、日本はもはや世界の三等国に成り下がってしまったのが実情だ。もはや国民は豊かでもなく、自由でもなく、国際的にはまったく信頼・信用もない。国内は社会分断・教育破壊で技術も産業も未来も真っ暗、それでもいまの政権は、オリンピックまでもたせればいいと思っている。それがアベアソウ政権6年(それ以上?)の実態ではないか。「もうやめてくれ」が民の切実な声、いや悲鳴。

今日のスピーチ「日本政治のグロテスク!」2018/03/28

 昨日(3月27日)、佐川元国税庁長官の証人喚問があり、文書改竄に官邸は関係ない、あとは刑事訴追の恐れありと証言拒否。要するに刑事訴追されるようなことを官邸のためにした、と言っているようなものだ。

○首相夫人には、責任はあっても責任能力が…

 これではますます疑惑が深まったから安倍昭恵総理夫人の喚問が必要だ、といった声がある。しかし、迫田元理財局長や谷査恵子元夫人秘書官なら話は別だが、総理夫人の喚問はまったく無駄だとしか思えない。というのは、この人は「私には首相夫人という立場がある。何かやろうとする時は利用していいよ」と言いまわるような人(週刊文春)。それが悪いことだとはまったく思っていない。「森友」が何でこんなことになってしまったのか、ほんとに分からないのかもしれない。「私に神通力がついただけなのに」とか言いそうだ。

 だから何を追及されても、「私の方が分かりません、しっかりカイメイしてください…」なんて答えるだけだろう(佐川のように法理を計算したりしない)。さすがに喚問する議員たちも苛立って、あげくに脱力し、「これじゃ、喚問にならないじゃないか!」(昨日の小池議員のように)と匙を投げるに違いない。するとアキエ夫人はひとこと、「私…祈ります…」(籠池夫人への最後のメッセージ)。法的論理どころか、合理的な論議など通じない人のようだから、喚問はまったく無意味だろう。

○ウソとゴマカシで国を引きずる政権

 真相解明のために喚問はやるべきだろうが(特に、今井、谷ら実際に動いた補佐官たち)、それは首相や関係者が辞めた後の話だろう。そもそも財務省が決算文書の改竄を認めた時点で、この政権は政治的には決定的にアウトなのではないか。去年の三月段階での国会質疑は、森友学園への土地払下げ案件が「特例」であることの事情を記した決裁文書がありながら、当時の財務省の佐川理財局長は、それを隠して首相答弁に合わせて虚偽を繰り返し、その答弁と齟齬をきたさないよう四月初めまでに決裁文書を改竄したということなのだから。喚問はその確認のためにすぎない。
 
 財務省がなぜかそんなことをしたのかと言えば、安倍首相が森友案件に「いっさい関係していない」と大見えを切ったからだ。「お仕えする人」(太田理財局長)にどこまでも尽すという官僚精神(役人根性とも言う)を発揮したため、というのは誰にでもわかる事情だ。フェイクどころか、ウソとゴマカシと下への圧力だけが今の政権を支えている。それが分からないのは、たんなる理解能力の欠如である。

 公文書改竄は財務省自身が認めたのだからもう明らかだ。そしてその事情も透けて見える。にもかかわらず、財務省のトップ(麻生財務相)が責任もとらないし、現場のトップだった佐川は、喚問でも「自分は勉強しただけ」、と暗に部下に責任を押しつける始末だ。

○日本政治のグロテスク

 その佐川証人喚問前の自民党役員会で、当の安倍首相が「しっかりと全容を解明し、うみを出し切ることが重要だ」とシャーシャーと述べている。「行政の長として、…国民の信頼を揺るがす事態となっていることの責任を痛感している。真摯(しんし)な反省のうえに、二度とこうしたことが起こらないように組織を根本から立て直し、総理大臣として責任を必ず果たす」とも言った。

 もちろん、「うみはおまえだろうが!」という罵声の一つも飛んでいいところだが、、並み居る党の要人はムッツリ聞き入るばかり。これが政権与党だ。「真摯な反省」と言い、「総理としての責任を果たす」と言うのなら、その場で内閣総辞職しかないだろう。ふつうの組織なら必ずそうなる。

 ウソの隠蔽の上に国会を引きずり、会期が切れると、憲法上の請求も無視して国会を開かず、日本など標的にしていない北朝鮮ミサイルで騒ぎ立てて「国難」と言いつのり、解散総選挙までして事態をチャラにしようとした。これは首相の国務に対する背任であり、虚偽と隠蔽逃れの職権乱用以外の何ものでもない(解散権自体も問題視されている)。
 
 その首相がこの後に及んで居座り、「うみを出し切る、職責を果たす」とのたまわる。この状況を何と言ったらいいのか? グロテスク!というしかない。政治用語は、こんなひどい事態を想定していないから、他に言いようがない。政治はいまやグロテスクな茶番と化してしまったが、それを誰も糺せない。それがこの国の政治の現状である。
 
○外交孤立と置いてきぼり

 だから、世界では誰もアベなど相手にしない。アベが「国難」と言い、解散総選挙の口実にした「北朝鮮危機」も、東アジアには迷惑以外の何ものでもないアベ日本抜きで急展開している。その足元をみて、アベの頼みのトランプが日本締め上げのユスリにかかっている(鉄鋼他の輸入制裁でFTP強要)。アベは「得意の外交」に逃げようとしているようだが、それも妄想だ。このままアベが外交をやっていたら、置いてきぼりの日本はアメリカにいいように食いつくされることになる。

 何の取引か、今日この政権の来年度予算案が通されてしまったようだが、国会で今すべきは、山本太郎議員が行ったような質疑だけである。彼は冒頭、「総理、いつ辞めていただけるんですか?」と質問した。国会ですべき質問はもうこれしかない。全議員(野党議員)がこれに習うべきだろう。「総理、いつ責任を取るのですか?」と。
 
○「災害」政治と国の「根腐れ」

 将棋なら、もう詰んでいるのに、かってにルールを無視して(アベは行政府の長はそれができると思っている)、ゲームを続ける。それどころか、崖が崩れると、その追及から逃げようとして、違うところにもっと大きながけ崩れを仕掛ける。森友逃れに共謀罪を上程し、加計が加わっていっそう危なくなると、横から九条改憲論議、それが安倍政治のやり口である。
 
 いわゆる「改憲」話も、何でもいいから戦後憲法に手を付けるというこの政権の宿願で、初めは搦手九六条からだったが、「緊急事態」もうまくゆかず、自分の起こした雪崩にかまけて、とうとう都合よく「九条加憲」にたどり着いたということだ。もはや、どんな論議ももう不要、語るに落ちるとはこのことだ。前代未聞とよく言われるが、、まともな国の政府の体をなしていない。これが今の日本政治の「根腐れ」の実態なのである。

 こういう政権は、こんな政治のやり方ともども、地下四メートルだか九メートルだかの森友用地のありもしないゴミの代わりに、地中深く処分してしまおうではないか(ついでに原発も核廃棄物も)。

 もう三年以上、こうして毎日国会前、官邸前、議員会館前で大ぜいの人たちが抗議の声を上げているのに、何の効果もない? では、どうやって、この政権を処分できるのか?…そこから先は「刑事訴追を受ける恐れがありますので、答弁を控えさせていただきます」。

森友疑惑終盤にみる現代日本政治の病理2018/03/23

 財務省が国会に提出した決裁文書が改竄されていた。これは何を意味するのか?税で運営される国家で、その出納を扱う役所が公的文書を書き換える。これ自体で国家的犯罪である。官庁の役人(公僕)が国務を果たさないどころか、国務を損なう。これでは国が成り立たない。

 ただし、役人自体にはそうするメリットがない。みずからの存在理由に反するからだ。だから役人は、自分がその一部として働く政府、それを現在統括している政権からの指示がなければそんなことはしない。現在の国家機構の中では、政権(内閣)が役人の上司に当たるからだ。直接には財務大臣、最終的には総理大臣である。

 かりに直接指示がなかったとしたら、実務担当として国会での答弁作成や説明を要求される役人は、政権の表明・答弁を支える対応をしなければならない。そう、いまの役人たちは考えているようだ(太田理財局長は答弁で「お仕えする方々…」と言った。本来なら、役人が「仕える」のは国であり国民であるはずだ。だが、内閣人事局が官僚人事を仕切り、政権を守る答弁に徹した官僚が「適材適所」とされて出世するという現状では、官僚は政権に「お仕えする」という意識になるのだろう)。だから、「有能な官僚」であるためには、政権の意向を汲んで先回りしてでも対応しなければならない(「部下」の「自発的隷従」ということだ)。そうしたら、役人にあるまじきことまでしてしまった、ということだ。そうさせるのが安倍政権だ。

 「ソンタク」どころの話ではない。意向通りにやれという暗黙の強制力がついてくる。だが、最初の決裁文書(改竄前)に、「森友学園への国有地特例払下げ」の事情について事細かな記述があるのは、財務省の役人たちがこの「特例」扱いに関して、自分たちでも申し開きができる事情を記録しておく必要があると考えた(自分たちの意志でやったのではない)からだろう。「特例扱い」の事情を示しておく必要がある。そのために、省内では詳しい文書が決済されたのだ。

 しかしそれは、政権側としては国会に出されては困るものだった(記録された事実は明るみに出されては困るし、それ以上に「…関係していたら議員も辞める」という首相答弁が跳ね返ってきてしまう)。だから「書き換え」が命じられる。実際には、官僚経験者の前川喜平氏が言うように、政権と官庁の役人のつなぎ役(経産省からの今井尚也首相補佐官)が財務省担当者に指示したと見るのが順当だろう。

 そして「書き換え」は財務省、それも担当部署の理財局が独断で行ったこととされ、その責任が一年前のこの案件の発覚時の国会対応で「論功行賞」を受けた佐川国税庁長官(確定申告期間中に辞任)に押しつけられ、「佐川事件」とまで決めつけて(そう言ったのは西田議員だが、当の麻生財務相も「サガワ、サガワ」と呼び捨てにしていた)官邸から切り捨てられることになった。稚拙さ丸出しだが、この内閣はそれで通せると思っているようだ。

 佐川局長(当時)がその「有能さ」を官邸に示すために、省内でどのような暴圧を振るったのかは知らないが、財務省はこの間少なくとも2人の自殺者まで出している。死人に口なしと言うが、死ぬこと自体は雄弁である。下で働く者が生きていられないほどの圧迫を受けていたということだ(この問題ではすでにごみ処理業者が自殺している)。

 この件に関しては財務省だけでなく国交省も片棒をかついでいるようだが、財務省は決裁文書(国の行政記録となる公文書)の改竄まで行った。これは前代未聞と言われるように、国家行政の根幹を崩す不法行為である。いかなる政権もそれはやらなかった。財務省がそれだけの不祥事を起こしても、財務大臣が辞表も出さない。これがまた国家行政の責任体制を腐らせている。と同時に、この政権が官僚たちを飼い犬のようにしか扱っていないということも表している。。財務省の統括責任者なのに、権限だけ振るって自分のせいではないと居直るのだから。

 「総理夫人」がものを言ったということ、近畿財務局では「安倍事案」として扱われていたこと、等々が明るみに出ても、直接の指示を出していないから「関係していない」で通せると思う首相、それがまだ30%もの支持を得て、国の最高指導者・責任者を辞めずにいられるということ、これがこの国のもっとも深刻な病理である。

 まずは与党の自民・公明の問題であり、それが国会で3分の2を占めるという怪奇である。そしてこの期に及んで公明党が安倍政権を支え続けているということである。

 かつては田中角栄が、森友学園80億、加計学園300億と較べれば「わずか3億」の賄賂で政権を追われ訴追された。隣国韓国では元大統領の汚職も追及されている。日本で検察や司法はどうなっているのか。もちろん警察も含めて、この政権は人事を握って官僚と同じように「犬に餌を与えて」いる。つまり権力になびく者を重用し機構全体をなびかせている。こういう権力政治を何と言ったらよいのだろうか。

 たしかに、窮地に立ちはした政権は、不意に放送法改正を言い出した(3月22日)。「自由化」するのだと。テレビもネットと同列に扱い競争させると。これが曲者である。ふつうの法律のように扱えるが、それが「ポスト真実」の仕掛けなのだ。でっちあげもデマも中傷も、まともな情報と同じ池に入れて掻きまわす、というのだ。

 経済でも「良貨は悪貨を駆逐する」というが、情報の市場でもそうである。ドブ池を作って流し込んでやれば真水も濁る。色と甘み(金や餌)を薄くつけておけば大方はなびくというわけだ。だが、そこで掻きまわされるのは「公共性」と「私利・私欲・私怨」であり、パブリックとプライベートの区別だ。もちろんすべてを「私」のレヴェルに落とし込む。ただし自分(たち)は公権力をもち、その「私」の汚濁の中で圧倒的な力を振るう。それを「社会の鏡」たるメディア環境で実現しようとする。

 その最終目的が憲法なのは(現実にそれが安倍政権にとって必須と思われていようといまいと――実質的に憲法は骨抜きにされているし、何の歯止めにもなっておらず、蹂躙され続けている)、それでも現憲法がそのような社会や政治を斥けることを原理としており、それを崩すことで、いまの自分たちの権力のあり方を妨げるものがなくなるからだ。

 このような政治のあり方の下では、どんな改憲論議も泥土流の決壊に手を貸し、汚泥の濁流に飛び込むことにしかならない。いま求められるのは、森友・加計疑惑の徹底究明と、それによる安倍的政権の本質暴露、そしてその跋扈を許した日本社会の病理の究明であり、このような政治が継続したり再登場したりする盲点に手当てすることである。グローバル化とIT情報化による社会の変容のなかで、「まともな国」への望みを取り戻すために。