「令和」の夏、「嫌韓」戦争化する日本(『myb』)2019/10/18

*「myb」という小さいが個性的な雑誌がある。三省堂から独立した伊藤雅昭氏がやっているみやび出版の社誌だ。この雑誌にはこだわりがあって「団塊の世代の明日へ」というのがキャッチフレーズ、この10月に出たのが終刊号だ。「令和への伝言2019」という。伊藤さんの志をわたしは尊ぶが、じつはわたしはいわゆる「団塊の世代」だけでなく「世代」へのこだわりというのが嫌いである(かくいうわたしは1950年3月生れで、どちらとも言えない)。だが、伊藤さんへの敬愛から何度かこの雑誌にも寄稿してきた。終刊号への寄稿も依頼され、ともかく寄稿したのが、夏に何らかの形で書いておこうとした「令和初年の日本」の診断である。『世界』に寄稿したものも同じような認識に立っているが、この稿、ブログに掲載しておきたかったので、雑誌が刊行された今、掲載することにする。
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 「令和」という元号が何の議論もなく定められ(一九七八年に作られた元号法という形式的な法律だけが根拠だ)、新しい天皇が即位し「世が改まった」とされて、後は開催まで一年と迫ったオリンピックに向けての機運盛り上げだ。「ニッポンがんばれ!」と皆が言えるスポーツ・イヴェントにメディアは収斂し、東京湾の汚染水を隠して盛り上げムードがあたりを埋め尽くし、酷暑も高校球児の活躍にならって、打ち水や新潟からの雪輸送で乗り越えようとキャンペーン、誘致買収のニュースもやり過ごして、「レイワ・ニッポン」の一体感が醸し出されている。

 だが、そんなとき、「上手の手から水が漏れる」ではなく「下手な手からダダ漏れ」で、この一体感が押し潰そうとしている日本社会の分断が噴き出てしまった。

 分断のひとつのドライブは、社会の二階層化を不可逆的に進めるネオリベ的経済社会政策だが、その分断を逸らして束ねるのが「歴史修正」(フェイク、捏造・居直り・文書破棄)圧力だ。「日本人でよかった!」。もちろん日本でこの二重操作をやっているのは安倍政権だが、じつは「世界戦争」後四半世紀、世界中のあちこちの国で同じようなことが起きている。その解き明かしはまたにして、ここでは日本の夏の風景だ。

 去年からのくすぶりに火をつけて、この夏いちばんの世相の花火になったのは(ただしこの花火、火は落ちても空は燃え続ける)言わずと知れた「韓国叩き」。日本が荒稼ぎした朝鮮戦争以来、朝鮮(北)・韓国(南)に分裂しているからトリックが使いやすいが、ともかくまとめて、明治以来の「アジアに冠たる」近代日本の十八番だ。

 平成から令和の移行に先駆けるように、安部政権の「キタチョーセン」非難は、不意に「韓国敵視」にコンバートした。平成末期には、北朝鮮言うところの「ロケット」が飛ぶたびに、「核弾頭ミサイル」だと非難して、国内で「座布団頭に避難」の訓練を指示していた安倍政権は、令和のいまでは、「我が国に脅威のない飛翔体」とか言って、何度飛んでもゴルフを続けて涼しい顔だ。これは、アメリカのトランプ大統領が、身内からの脚とりもかわして、北朝鮮融和策を採っているから、ペンキの剥げた一枚看板の「拉致問題」で協力してもらうためにも、また「日米は完全に一致」に反しないためにも、ここはトランプ様の意向に合わせないといけない、というわけだ。

 そこで安倍政権は、北非難に代えて「韓国けしからん」を強く打ち出すようになった。どっちにしても「チョーセン」だ。きっかけは韓国最高裁の元徴用工判決だが、これを安部政権は日韓条約の包括合意に反するとして非難、なんとかしろと文在寅政権にかみつく。それ以来、戦闘機が日本艦船に照準を合わせたとか(こんなのは問題化しないためむしろ現場で処置するべきと、田母神先生も言っている)、そして令和に入ると、韓国経済の中軸を狙って半導体部品の輸出制限を打ち出し、韓国を「ホワイト国」から除外するという閣議決定までした。これはもはや経済的な敵対宣言である。
 
 もちろんその前哨には、前の朴槿恵政権で手打ちしたつもりの「慰安婦合意」を、民衆デモから生まれた現文在寅政権が見直す姿勢をとってきたことがある。慰安婦問題は、日本軍の名誉を貶めるものとして、その否定ないしは棄却が日本の歴史修正主義の中心課題となってきた。安部政権の中核支持母体はその歴史修正主義である。だから、その問題にもつながる元徴用工判決で、一気に韓国への強圧姿勢を示したということだ(その効果には大いに疑問があるが)。

 元徴用工問題は、財界を守るという意味をもつ。それも新日鉄や三菱系など、戦前からの軍需産業に関わる企業だ。だから安倍政権の姿勢は財界の支持を得やすい。それに、民主化運動から生まれた文在寅政権は、企業利益最優先の新自由主義的経済運営をやっていない。それが日本の財界は気に入らないから、その「失敗」を挙げつらい、韓国経済をけなすのが常態になっている。そこには、さまざまな悪条件を抱えながらも、IT・半導体産業などでも日本を凌駕してきた韓国経済に対する不安や警戒が働いている。

 というので、この「対韓強硬」姿勢はメディアでもオリンピックなみの支持を受けているようだ。ある世論調査によれば「ホワイト国指定除外」に対する支持は8割以上という。そんなときに、8月には「あいちトリエンナーレ事件」だ。韓国で慰安婦問題の象徴になっている「少女像」が展示されるというだけで、開始前日から大物ネトウヨが号砲、2日目には名古屋市長が会場に押しかけて「日本人が貶められる」と唸ると、夥しい数の恐喝電話やメールやファックス(「ガソリンを撒く」)が、たちまち展示を中止に追い込んだ。 他方で東京都知事は、今年も関東大震災時の朝鮮人虐殺慰霊祭へのあいさつを送るのを拒んだという。日本はすでにその時代のようだ。「戦時体制」を敷くのに、じっさいにミサイルや戦闘機を飛ばす必要はない。非常時だと、緊急事態だと言い募ればよい。そうすれば、ウソとフェイクで国民を走らせ食い物にする夜郎自大の天下は安泰だ。といっても「外交」は鬼門だ。都合よく「歴史修正」の効かない「他者」がいるからだ。この引っ込みのつかない「最悪の日韓関係」は、日本の「国盗りども」に吉と出るか凶と出るか。

或る日のフェイスブックから――差別と非政治化2019/09/27

 毎日、友人からのFBの投稿をみて、これはと思うものをシェアし、コメントしたいときにはコメントする。FBは基本的には「友達」の間だから、エコチェンバーという話もある。それは承知で。

 たとえば今日は、萩生田文科相の下の文化庁が、すでに交付が決定していた「あいちトリエンナーレ」への補助金を交付しないと決定。
 これに対して「あいちトリエンナーレ」開催者の大村愛知県知事は、「承服できない」として提訴の構え、と伝える東海テレビの報道。それをシェアするかたちで「京大有志の会」が迅速な抗議投稿。学者の会でもやりたいところだった。

 政党関連では、共産党の小池晃が憲法違反かつ脅迫者(テロリスト?)を喜ばせる「暴挙中の暴挙」とツイッターで批判している。
 そしてすでに昨夜、アーチストを中心に呼びかけが回って、文科省前で数百人が抗議のデモをしたというニュース。

 以上はひとまとまりだが、「沖縄タイムズ+」の阿部岳記者による「「差別する自由」など存在しない」という記事。これは、一貫して差別批判・ヘイトスピーチ報道を続ける神奈川新聞の石橋学記者が、佐久間吾一川崎市議に名誉棄損で告訴された裁判をとり上げ、差別にさらされる沖縄のメディアの立場から援護射撃したもの。

 それと、日本オリ・パラ組織委が、北朝鮮にだけIDを発行していないことが判明、というニュース。日本が北朝鮮に独自制裁を課していることが背景にあるというが、日本の組織委はオリンピック精神もものかわ、「お上」の意向のままにシラッと差別・イジメをしているのである。

 そんな話題を飽きず毎日拾う。スゥエーデンの少女の国連演説もあった。日米貿易交渉も、オスプレイ墜落の事故処理の問題も、もちろん千葉の災害のことも…。だが、今日拾ったニュースは、近年の政治と権力の問題をあぶりだす軸が集約されているようでもあった。それが「差別」の問題だ。そしてそれを日本の場合に即してコンテクスト化するこんなニュースもあった。

 明治維新に伴って生じた「廃仏毀釈」の深刻だった宮崎県で、寺や仏像の状況を知ってもらおうという取り組みがあるという朝日新聞デジタルの記事。実はこれは、戦前の国家神道体制の発端に会った出来事。それ以来日本は仏教国から神道国家になった。その転換のために寺院仏像の全国的破壊があったのである。それ以後わずか半世紀余の「わが世の春」が忘れられず、戦後私的宗教法人に身をやつして生き延びた神社本庁が、雌伏半世紀「日本を取り戻す」として動き出し、歴史修正の運動を下から支え上から煽って、ついに国会を「取り戻す」のに成功した、それを体現するのが日本会議であり神道議員連盟なのである。そしてこの動きの伸張が、いまの日本社会に差別や排他意識を浸透させている元凶でもある。

 ついでに言うなら、「日本を取り戻す」この動きは、「自民党をぶっ壊す」小泉改革でフリーハンドを得た。永久与党自民党内部の「抵抗勢力」が駆逐されたからだ。そして同時に小泉改革は、日本社会の「共生」的基盤を壊し(そこに「大災害」が重なり)、社会関係を「人買い=人飼い」業が手綱を握る、分断と自己責任の社会にした。そのシステム化のいわば「棄民」に、差別や排他意識を与えて「自活」させている、というのが安倍政権下の日本だ。

 多くの人びとは景気への期待に流され(もう「景気」などよくならないのに)、経済社会の自己責任論に浸されて、喜びも悲しみも私的に何とかするしかないと思いなして「脱政治化」し、「政治化」し声を上げること自体を「わがまま」だと、あるいは「迷惑」だとみなす。そのために権力を得たものは「自由」にその権力を私物のように行使できる。そしてそれが問題化しないよう、機関としてのメディアも裁判所も抑えている。改正する前にすでに「憲法もものかわ」、指摘されてもわからない者たちばかりが権力を手にしているという状況だ。

 だとすると、問題は政策の方向(理念)や中身ではない。「政治」(民主主義と言ってもいい)というもの自体が壊れているということだ。だから根本の課題は他でもなく、「政治を取り戻す」ということ、人びとと統治権力との関係を作り直すということである。その課題を担って登場したのがSEALsという新しい「非政治的政治」集団だったが、そのときから基本的課題は変わっていない。

18年目の9・11、トランプ、ボルトンを解任2019/09/12

 気がついたら9月11日。日本では、東京の隣の千葉県が台風による大災害(北海道地震のような電気・水道・通信の都市インフラ破綻による被害)に見舞われ復旧が進まないが、安倍政権は今後に向けての「大組閣」に忙しく、赤坂自民亭以上に熱が入って災害など目に入らない。メディアはすっかりその姿勢に乗って、おぞましい小役人たちの当落予想から決定までを、芸能ニュースよろしく一大事であるかのように伝え、テレビなど残りの時間は相変わらず「韓国叩き」に費やして、その背後に文字どおり電気のつかない千葉の夜を押し隠し、花火を挙げて「アベ祭り」を演出している。これが「レイワ初年の日本の秋」だ。

 韓国の物議を醸す法相就任をさんざん取り上げたなら、日本の暴言暴行パワハラ議員の法相任命はどうなのかと、問いもしない日本のメディア。言い出したらきりがないのが安倍内閣だが、そのアベ日本が日韓関係でも何でも頼るトランプのアメリカでは、たった一人の政府要人の「更迭」が話題になっている。安全保障担当の大統領補佐官ジョン・ボルトンを、昨日の夜トランプがツイッターで「お役御免」を言い渡したのだ(ボルトンは辞表を出したと言っているが)。トランプが進めたがっていたアフガニスタンのタリバンとの直接交渉が、5日カブールで起きた自動車爆破事件(BBCは「テロ」とは言わないhttps://www.bbc.com/japanese/49630856)で米兵1人が死亡し、8日にキャンプデービットで予定されていたタリバン指導者とアフガニスタンのガニ大統領との秘密会合を中止したその直後ということだ。

 9・11から18年、いまも続くアメリカ史上最長の戦争(2300人の米兵が死に――「非対称的戦争」だから相手の死者は数にならない――、今も15000人が派兵されている)をトランプは止めたがったが、ボルトンが最後に邪魔した(自動車爆破を工作した)というのが引き金になったのだろう。ボルトンは先ごろの「イラン危機」でも、日本のアべ首相がのこのこイランの大統領に会いに行ったときに、イランの反政府派エージェントを使って日本のタンカーを偽装攻撃させたことも疑われている。その後、アメリカの無人機が撃墜されたことを受けて、アメリカが報復攻撃に出るその10分前に、結果を予測したトランプが中止命令を出してことなきをえた。

 そもそもボルトンがホワイト・ハウスに入ったのは、トランプが選んだ右派・強硬派(力の信奉者)でさえ、従来の国家戦略を無視してやりたいようにやるトランプについて行けなくて、みんな辞めてしまったからである。だから、イラク戦争も自慢し、何でも戦争にして叩くということしか頭にない鼻つまみ者のボルトンが、入り込むことができた。それも安全保障つまり戦争担当だ。だが彼は、アメリカに逆らうのは「敵」、つまり「反米」、「反米」はとにかく軍事力で潰せばよい、そうしてこそアメリカだと考えている。とくにイランは積年の敵で、この機会にともかく叩きたい。ロシアとの核軍縮協定は破棄した。アメリカの軍事力に制約は受けない。南米の「反米」ベネズエラも、潰そうとしている南米マフィアを後押しして軍事介入を探り、マドゥーロ政権を倒そうとする。そしてトランプがやりたがっている北朝鮮取引は何としてでも阻止する(先日の板門店会見にポンヘオはいたがボルトンは姿を見せなかった)。陰謀論風でトランプに切られたスティーヴ・バノンのあとで、ボルトンはもっとドライに(とても正気とは思えないが)強硬策をホワイト・ハウスに仕込んできた。その点は国防相を辞めたマチスの方が現実的だったし、ポンペオももう少し現実的な判断ができるようだし、どうやらトランプの決定にしたがっている。ところがボルトンはリアルはおかまいなし、作ればいいという筋金入りだ。その路線にトランプも引きこもうとする。だからボルトンがホワイト・ハウスに入った頃から、トランプ外交で混乱し始めた世界には、一気に火薬のにおいが立ち始めた。

 ベネズエラ情勢は今は停滞しているようだが、そこへの軍事介入(人道的介入という名の)がギリギリで踏みとどまったのは、対イランの緊張も抱えて、トランプだけでなく軍も、二つの戦場は構えたくなかったからだろう(シリアからの撤退は何とか進めても、まだアフガンは残っていたし…)。中国との経済「戦争」もある。これ以上面倒を抱えたくない(トランプは脅すのは好きだが、自分で戦争をする、それもあちこちでやるのはきっと嫌なのだ)。それでボルトンを切ったということだ。

 ということは、タリバンとの交渉は頓挫させられたが、その代わり、まさにその代わりイランとの直接交渉の余地が出るかもしれない。時間はかかるだろうが、北朝鮮との交渉も、ホワイト・ハウス内から足を引っ張られることはなくなるだろう。ベネズエラはと言えば、南米マフィアに加えて名うての悪党(エイブラハムズ)を国務省の担当にしてしまったから、ここはまだくすぶるだろう。日本の対韓国関係では、これだけ日本がトランプに貢いでいるので、しばらくは日本の肩を持ち続けてくれるだろうが、北朝鮮対応が絡んでくると、どうなるかわからない。

 産経新聞がボルトンの離任を「惜しんで」いる。産経はネオコン路線が好きなのだ。みずからが従属一体化するアメリカがネオコン的に振舞うのが。安倍政権の対韓国姿勢は、その親分のやり方(対中国)を真似したものにすぎない。

★この件、いろいろ考えることがあるが、とりあえず大雑把な印象を。

★[参考] ハンギョレ新聞9/11日より――(…)ボルトン補佐官はこれまで、アフガニスタンやベネズエラ、イラン、北朝鮮などの問題でトランプ大統領と見解の違いを見せてきた。トランプ大統領のアフガニスタン撤退方針に反対してきた彼は、最近、撤退問題を話し合うための会議から排除されたが、遅れて合流した。トランプ大統領は今年春、ベネズエラのマドゥロ政権を追い出すための米国の圧迫作戦が失敗してから、ボルトン補佐官に失望したという。イランに対してもボルトン補佐官は軍事攻撃を主張し、トランプ大統領と意見の食い違いを見せた。北朝鮮の核廃棄方式に関しても、ボルトン補佐官は昨年「リビアモデル」を取り上げて北朝鮮を刺激し、トランプ大統領が「リビアモデルはわれわれの追求するものではない」と収拾した。最近、北朝鮮の短距離ミサイルの試験発射をめぐり、トランプ大統領は「長距離ではない短距離は問題にならない」と述べたのに対し、ボルトン補佐官は「国連の対北朝鮮制裁決議に反する」と攻撃的な立場を示した。(…)

歴史修正主義に乗っ取られた国―『世界』10月号への補足2019/09/09

 久しぶりに『世界』から依頼があって、「令和の夏の日米安保――歴史否認とトランプ式ディール」を寄稿した。6月に、トランプが「日米安保は不公平だ」と発言したことを受けて、日米安保問題をトランプ政権下でのアメリカ外交との関連で書いてほしいという依頼だったと思う。

 日米安保の内実やその運用の近年の変化、あるいはいわゆる外交実務について論じるのはわたしの役目ではない(前田さん、梅林さん、太田さん、布施さん、その他がいる)。それに、トランプの発言は日米安保体制そのものを本気で見直そうとしているというより、参院選を避けて夏まで結論を持ち越されていた日米貿易交渉に圧力をかけようとするもの、つまり「ディール」の一環ということだろう。それに、北朝鮮関係を変えたいというトランプには、東アジアあるいはアジア全域を視野に置いた一貫した安全保障戦略があるとは思えない。だから、いま安保論議をすることにあまり緊急の意味があるとは言えない。

 それよりも、この夏の緊急課題というなら、何といっても安倍政権が露骨に採り始めた韓国「敵視」政策であり、それが日本の社会で広範に受け入れられるようになっている(「ホワイト国除外」への支持八〇%以上、安倍支持率上昇、野党立憲民主党も基本的に支持…)という事態の異様さだった。日本で「歴史修正主義」がまんまと勝利を収めていることが露呈した、というより、政権はそれが日本政府の姿勢であることを公然と示す「外交」を行い、それが一般的な支持を得ている、ということである。

 このことを抜きにして、いま政治の専門家でもない者が政治について発言する意味はない。そう思ってわたしは、与えられた課題の日米安保の問題を、国と国との関係というより、日本の統治層がアメリカ占領軍に対して示した「自発的隷従」、そしてそれなしに成立しない日米安保体制下における「歴史修正主義」の問題として、組み直してまとめた。

 案の定、『世界』10月号の特集は1、AI兵器と人類、2、日韓関係の再構築へ、となっていた。日韓問題、というより、日本における対朝鮮半島対応が異様な状況を呈しているという問題だ。もちろん韓国には韓国の国内的な諸々の問題がある。しかしそれは韓国人がみずから解決すべき問題だ。だが、日本はいま、外交問題のすべてを韓国のせいと居直り、かつ韓国内の問題をあげつらい「韓国叩き」をして、ちょうどその分自国の問題には背を向けて悦に入っているかのようだ。その、歴史修正・否認、何といっても同じだが、その国を挙げての没却ぶりははなはだしい(他にそんな国が見当たらないからだ)。いまではもう「戦後レジームからの脱却」は言われない。もちろんその言い方のいい加減さもあって維持できなかったというのも確かだが(「戦後レジーム」とは「日米安保体制」のこととみなすべきだから)、安倍政権の言う「戦後レジーム」はたしかにもう一掃されたのだ。少なくとも、敗戦をなかったことにするかのような「歴史修正」は日本の社会に浸透している。

 それが、長く執拗な文部省→文科省教育(=教育破壊)の効果なのか、あるいは経済的な「対米従属」としてのネオ・リベラリズムによる社会の解体(サッチャーは「社会など存在しない」と言ったが、まさに「社会」解体がネオ・リベの眼目なのだ)と、ネット・コミュニケーションによる情報環境劣化を腐植土として生じた事態なのか、いずれにせよ、政権による情報(公文書)隠蔽・改竄・破棄は恒常化し、今では公文書を作成しない・残さないということすら、政府の方針にできる状態になっている。今後は、歴史を修正したり否認したりする必要もないということだ。その路線の上に、現在の「韓国敵視・侮蔑」がある。

 「戦争になる」と恐れる人たちがいる。そういう人たちには言いたい、いや、これがもう「戦時態勢」なのだと(「セキュリティ」の名の下に、子飼いの警察官僚が国家セキュリティ委員会のトップに立ち、メディアはすでに「体制翼賛」にしているし、ネット民がかつての隣組のように喜んで「反日・非国民」を探して叩く)。歴史修正主義者が求めるのは、自分たちの勝手し放題の「治世」であって、新たな戦争ではない(彼らの戦争イメージはあまりに古いし、結果責任もとらないから)。せいぜい疑似的センソウ気分のオリンピックを仕切って気勢を上げたり(選手はヘイタイだ)、あるいはカジノを作って胴元気分に浸るぐらいだろう。兵器も制約を吹き飛ばして爆買いするが、それは実戦のためではなく(使えない高価な武器ばかり)、親分の機嫌をとって自分もオモチャで遊べるという一石二鳥のため。この連中は自分たちと独立した国家があるなどと考えていない。国家を私物だと思い込んでいる。それが森友・加計疑惑で露見したことであるし、警察を使って子飼いの記者を逃がす山口事件に露呈したことだ。

 これが言える間はまだいい。ただ、「反日」という言葉がメディアに踊る「ふつうの言葉」になったとき、少なくともコミュニケーション環境では事態はすでに「内戦」だということだ。それは「内」の「敵」を炙り出して排除する言葉だからだ。ましてやそれを外国に対して使うのは、他国を他国として認めない傲慢な居直り意識(親分意識)の現れでしかない。

『カイヨワ・戦争論』に関する二つの補遺2019/08/27

1)フィロゾフとソフィスト

 他所ではカイヨワを「批評家・社会学者」と紹介している。わたしは広い意味で「人類学者」という語を使った(アントロポローグ、人間について考える人という意味で)。些末なことだが、ある考えに基づいてそうしたので、若干説明しておきたい。

 いずれにしてもカイヨワはアカデミズムの人ではなく、個別学問にはこだわらない。彼は詩を書きながらシュルレアリズム(芸術・思想運動)から出発し、バタイユやレリスらと知的活動を展開、一般に知られるようになったのは『神話と人間』(一九三八年)『人間と聖なるもの』(一九三九年)によってである。そして第二次大戦中はアルゼンチンで南米にも浸透していたナチズムに対抗する批評誌などに関わり、まだヨーロッパでは知られていなかったラテンアメリカの新しい文学を発見、戦後フランスでボルヘスやカルペンティエールらの紹介に尽力した(ボルヘスとはあまりうまく行かなかったようだが)。

 フランスなら彼は「エクリヴァン」(作家というより物書き)と言えばすむ。だが日本では通例にしたがうと「物書き」ですますわけにはいかず、傾向やテーマ領域を示す「属性」をつけることになっている。また、カイヨワの場合、フィクションを書くのではなく、批評的考察を展開する。そうした仕事をわたしは広く「人間論」というふうに括ってよいのではないかと考えている。それが「アントロポロジィ」つまり「人類学」だ。「社会科学」を目指す人は「社会学」でよいだろう。だが、むしろ「人文学」系の考察を目指すのは、「人類学=人間論」と考えた方がよい。そう考えるとき、同時に念頭に置いているのはピエール・ルジャンドルの「ドグマ人類学」である。ここでは立ち入らないが、今回カイヨワを「人類学者」として紹介したのは、そのような考えからである。

 このことは、今回わたし自身が「哲学者」を名乗ったこととも関係している。もちろんこのような「肩書」というのは便宜的なものである。だから従来は「○○大学教授」を使っていた。それはわたしの身過ぎ世過ぎのあり様(たいていは「所属」を示すよう要求される)を示すことになる。「専門領域」は?と言われれば、初めはフランス文学・思想、ある頃からは、自分で勝手に名乗った「グローバル・スタディーズ」だ。だがわたしの主たる「フィールド」であるフランスに行くと、何をしているのかと聞かれて「フランス文学研究」と言ってもいいのだが、むしろそれを足場に「メタ」なこと(批判的考察)を展開しているので、「フィロゾフ」(哲学者)と答えることにしている。フランスではそれで了解される。

 「フィロゾフ」とはもともと「フィル+ソフィア」つまり「知ることがめっぽう好き」な人のことだ。「知はこれだ」と「知を自称する人」のことを「ソフィスト」と言う。知の専門家で、自分が知をもっているというわけだ。日本語では「詭弁家」と訳されている。それに対して「フィロゾフ」は自分だ「知」だと自称することなどしない。ソクラテスは、自分は無知だと知っていると言った。だが「知る」ことを大事にし、それを尊重し、「知ろう」とする。というのは「知ること」がもっとも望ましいからだ。そしてその知は適正かつ明晰かつ人間の生を豊かにするものでなければならない。だが人間は「知≒認識」ではない。それに近づく、それをこよなく愛するだけである。それが「フィロゾフ」ならわたしは「哲学者」でありたいと思う。

 だから、「肩書」を支える社会的帰属の場もなくなったいま、わたしとしては、お前は何か?と問われたら「フィロゾフ・エクリヴァン」と答えたい。「哲学的物書き」だ。ついでに言えば、こうしてブログに書いても、基本は物書きで、デジタル・シミュレーターでもプログラマーでもない。


2)トランプの「異常な愛情」

 カイヨワの論は、実はだいぶ混乱していて、理論的なテーマ立てや整理がされていない。カイヨワ自身それを承知で、恐怖させながら闇雲に魅了もし圧倒的に人間を呑み込んだ「全体戦争」の幻惑を引き受けているからだ。だからこの本は、戦争をなくす、あるいは戦争を何とか避けるための方策など、示していない。とはいえ、この本を読むとき、ひとは戦争ってすごい(ユンガー万歳)とは思わず、どうしたらこんな戦争を避けることができるのかと考えざるをえない。だからこの番組の方向は自然にそういうものになる(阿部さんたちのナビゲーションもそうだ。伊集院さんが「ウーム、納得してしまうだけに怖いですね」というのは、まったくツボにはまった反応なのだ)。

 番組でも、回を重ねるにつれてその印象は深くなり、ついにこの本を読み終えてもいっかな答えは出ない。与えてくれない。答えを与えてくれる本なら、4回目で、あー怖かったですね、でもさすがに名著、そうか、という答えでわたしたちを救ってくれる。いゃー、希望がもてますね…、と伊集院さんも言うことができただろう。そうして、番組も大団円、阿部さんも、今日は夏の終り、来週は爽やかな秋を迎えましょう、と終わることができたかもしれない。だが、伊集院さんは、ウーム、終わらなかった、と正直に言う。その「失意」とともに、納得したある否定しがたい「実相」(戦争への傾き)に抗う姿勢を、自分のなかに強く残さざるをえない。これがこの本の「効果」である。
 
 その意味では、今回の「名著」はふだんの「古典的」名著とは少し趣が違ったかもしれない。読んで勉強になる(分かった)とか、楽しめるとか、感動できる、といったものではなかったから。しかし手に負えないものを「考える」という経験には誘うだろう。その経験に出口はないが、その「霧の中の道」それ自体が、ひとを戦争から遠ざける、ということだ。

 わかりやすい答えなどあるわけがない。あれば戦争など起こらなかっただろう。ましてや、文明が進歩して人間が賢くなって(?)その果てに世界戦争になだれ込むなどということはなかっただろう。その答えのない中で、それでも「戦争への傾き」にどんな歯止めがあるのか、ストッパーは何なのか、それを考えるしかない。自分の中で何がこの「傾き」へのストッパーになるのか、そんなことを考えるしかない。カイヨワは唐突に「教育」の話を持ち出すが、ユネスコにいたカイヨワは教育を通してそのストッパーを世界に埋め込むことを考えたのだろう。

 他の面から少し具体的なことを考えれば、国民国家の戦争の枠組み(つまりナショナリズムの戦争)は原爆のきのこ雲とともに霧散した。いまや国家はあり続けるが、国民との関係はフェイク(でっち上げ)になり果てている。「テロとの戦争」はそれを露呈させている。もはや「敵」は国家ではなく「エーリアン」で、その「エーリアン」は国内にも浸透しているとされる。だから「国民⇒市民」は、いまや国家にとってヴァーチャルな「敵」なのである。それに対応するように、国家や国民の「浄化」を唱えて排外主義が台頭する。そうすると国内分裂だ。
 
 この図式は「戦争をしたがる連中」にとっては好都合で、「浄化」を口実に国家の権力を乗っ取ることができる。すると「安全保障(セキュリティ)国家」が「戦争を拒む人びと」を「潜在的テロリスト」として徹底管理することができる。そこで実際に戦争が起これば、彼らが戦争を担う戦闘員にさせられるだろう(経済的徴兵制もその仕組み)。だが、この体制をうまく活用するには実際の戦争にはしない方がよい。戦争は無秩序化するから、体制が崩れるリスクも大きいからだ。だから「戦争レジーム」さえ作ればよい。それで一部の勢力は国家を私物化して自分たちの最大利益を維持できるからだ。

 現状はそんなところだろう。だから「戦争をしたい者たち」(実際には「利用したい者たち」)と「戦争を拒む者たち」というのが、現代の政治的対立の基本軸になる(右翼/左翼でも、、保守/革新でもない)。前者は「敵」を作って国民(市民)を囲い込む。そして必然的に「差別・排外」を唆す。これは日本でもアメリカでも、その他の国でも同じだ。ただ、韓国・北朝鮮はあらかじめ相互の敵対構造を埋め込まれており、他国との関係もその構造に規定されている。

 また、トランプ米大統領が他の同類と少し違うのは、同じく「差別・排外」を助長しても、よい「ディール」にならなければ戦争はばかばかしいと考えているようだ。だから、イラン攻撃でもぎりぎりで踏みとどまり、北朝鮮の金正恩には奇妙な「愛情」さえ抱いている。正恩は若くて孤絶の境涯にあるのに、国と権力を守るため崖っぷちの「ハード・ディール」で一歩も引かない。北朝鮮の体制など関係ない。市場を開いたら「世界最後の秘境」にトランプタワーを建てる、そんな夢を抱かせてくれる唯一の相手なのだ。だが、それは冷戦後にも埋め残された世界の地雷原のひとつを解消する、「歴史的意義」をもつかもしれないのだ。

NHK『100分de名著』/カイヨワ『戦争論』について2019/08/12

 NHK-ETV『100分de名著』(月曜10:25~10:50)の8月分「ロジェ・カイヨワ『戦争論』」についての解説を担当させてもらいました。テキストも番組も出来上がり、すでに1回目は放映されました。
 この番組、やってみてなかなか面白かったので、少し舞台裏を紹介させていただきます。プロデューサーの秋満吉彦さんも最近本を出したり、各所で番組の話をされているので、いいでしょう。

 ことの初めはこんなふう(というのがルイ・フェルディナン・セリーヌ『世の果ての旅』の書き出しです)。ある時、知人を介して秋満さんに会いました。この昔からの知人が、8月には「戦争」関連の本を取り上げたいと考えていた秋満さんにわたしを紹介したのです。わたしは「戦争」の専門家というわけではありませんが、戦争について「考える」とは長らくやってきたので、そういうことでよければということで「指南役」を引き受けることになりました。

 しかし番組は「名著」を取り上げるわけですから、軸を作らねばなりません。わたし自身は人間が戦争のうちでひとつになった「世界戦争」ということを、ジョルジュ・バタイユや同時代の思想家たちを通して考えてきたので、バタイユの『内的体験』や『有罪者』あるいは『呪われた部分』などを取り上げたかったのですが、それらの本は「戦争」をメイン・テーマにしていません。クラウゼヴィッツなら文句ない古典ですが、古いので「世界戦争」のことが視野に入っていません。そこで、バタイユゆかりのカイヨワで行こうということになりました。彼は『人間と聖なるもの』や『遊びと人間』で知られており、その観点から『戦争論』を書いていて、これはユネスコの大賞をもらうほど注目された本ですし、日本語訳もあります。それに、バタイユはちょっと横紙破りだし、今は忘れられているとはいえカイヨワはユネスコの大物で来日もしているので、その点NHK向き(?)でもあります。ということで、カイヨワの『戦争論』に、この夏の「名著」になってもらうことにしました。

 いま思えば、五味川純平の『人間の条件』とか、大岡昇平の『レイテ戦記』といった日本の戦争を描いた大作でもよかったかもしれません。しかし、それならわたしでなくてもよかったでしょう。わたしにやらせてもらえるのだったら、具体的にということよりも、戦争について原理的に考える、あるいは戦争を「考える」ことの意義が表に出るような、そんな「名著」の選択になったのです。

 と言うと、わたしが決めたような言い方ですが、まったくそうではありません。それに、やるとなって初めて分かったことですが(細かい説明は受けていなかった)、この番組には随伴する「NHKテキスト」があり、その執筆・作製と番組制作とがテンポを合わせながら進んで行きます。各回やり方が違うのかもしれませんが、カイヨワ『戦争論』の場合は、以下のように進行しました。まず、秋満さんがスタッフの人たちと本を読んで番組を企画立案をします(それで局内の会議を通すわけです)。もちろんわたしも口を出しますが、秋満さんの提案がなるほどと思わせるようなものだったので、その段階で番組4回分の構成が出来上がりました。

 それからまず、出版局のスタッフを前に、わたしがテキスト用の4回分のレクチャーを2回に分けてやりました。すると担当の人がそれを文章に起こし、説明や詳述が望ましいような箇所は補足し、かつ必要な引用部分を加えてくれます(レクチャーのとき、あまり引用とかは気にせずにやったので)。そうしてできた起こしの原稿にわたしが手を入れて、それがゲラになります。すると内容の骨子ができたということで、今度は番組のディレクターがゲラをもとに4回分のシナリオ案を作ります。それも2回に分けてやりましたが、ディレクターにさらに説明を加えて、わたしの意図を補足して、シナリオ案を練り直してもらいます(その段階で、朗読部分やイラストの説明部分も決められるようです)。

 テキストの方は、一回分30ページほどとれますが、番組の方はそうはいきません。だから、番組のシナリオはエッセンスだけで組まれます。テキストではカイヨワとバタイユの関係や、同時代の他の人びとの戦争についての考え方にもふれていますが、番組では枝葉はほとんど切り詰めて、カイヨワの本の内容に即した話に限定しています。
 そうして4回分のゲラの修正をやりとりしてテキストが校了したのが7月初め、その前後に2回スタジオでの収録をやりました。

 スタジオでは、古舘寛治さんの朗読(古館さんが朗読というのは、わたしは後で知って、オッと思いました)やイラストでの解説等をはさんで1回100分ほど収録しましたが、それを25分にまとめたのが最終的な番組になります。このとき、阿部アナウンサーがまずテーマを出し、伊集院光さんが即興で受けるのですが、この人はたぶん何も準備していないのに、出されるテーマにみごとな反応をして、ストーンと問題の本質に突っ込んでゆきます。おっと、伊集院さん、それは3回目にとっておきたい話題だから、あまり突っ込まないで、と言うぐらい。面倒な講釈に、オレ嫌いじゃないよね、こういう話…、といった具合にうまく付き合ってくれました。さまざまな「名著」が取り上げられるこの番組に、伊集院さんが仮想読者としてレギュラーで呼ばれているわけが分かったような気がしました。ただし、そのおかげで雀松ディレクターが徹夜(?)で仕上げたシナオリは、目印程度の踏み台にされてしまいましたが。

 と長々と述べたのは、この番組が、テキスト編集スタッフと番組制作スタッフと出演者のわりと緩い連携によってできる、まったくの共同作業の成果だということを知ってほしかったからです。テキストもわたしの名が表紙に書かれていますが、まさにこれも共同作業の産物です。レクチャーから最初の原稿を起こしてくれた福田光一さん、新井学さん、その後のフォローをしてくれた小湊雅彦さん、それに雀松真已子ディレクター、その人たちとの共同作業でテキストも番組もできています。そしてカイヨワの『戦争論』がその下敷きになっているということです。

 たぶん、とりあげる「名著」によって、それと「指南役」によって、このプロセスや共同作業の質もそれぞれに違うのかもしれません。しかし、以前ETV特集などでやった解説や狂言回しの役割とも、またふつうに一冊の本を書くのとも違った、楽しく新鮮な協労体験で、こういうテレビ番組の作り方もある(発信の仕方もある)のだと、妙に納得しました。

 (補足:あるいは、放映される番組から見れば、「指南役」のわたしもまた人的素材です。100分阿部さん・伊集院さんとスタジオで話して、残るのは約15分(10分は朗読とイラスト・映像資料)、その15分を組むための素材になるわけです。番組が寿司だとすると、その肴。なるほど、こういう番組か、と納得しました。一冊の本の集団的・立体的レクチャーの視聴覚的まとめで デジタル情報の時代に、テレビ番組を通じて、読書に返らせる、という回路づくりの試みにもなっています。)

 もう機会はないでしょうが、カズオ・イシグロの『私を離さないで』とか、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』、オルダス・ハクスリー『素晴らしい新世界』、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』、バタイユなら『宗教の理論』などでできないかな、とつい想像します。

 番組のテキストについて――内容はカイヨワの『戦争論』にぴったり即しているとは言えませんが、いちおうその特徴、主旨は汲み取っているはずです。密度の濃い本だけに、とくに後半に重点を置いて、解説しました。ただ、第4回は、カイヨワ以後の戦争について扱うという主旨もあり、わたしの現代戦争の見方とその問題点を前面に出させていただきました。数年前に出した『戦争とは何だろうか』でも扱っていない問題にもふれています。その部分だけはわたしの論としてお読みいただけると幸いです。

『自発的隷従論』ちくま文庫版について2019/07/27

 Amazon(これについての問題はいまは置いて)のリストで、わたしの関わっている本(著者、訳者、監修者 etc.)はふつうネトウヨのけちつけ以外はあまりコメントがついていないのですが、この本には30近いコメントがついています。それはひとえに、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの原テクストのインパクトによるものでしょう。この古い小さなテクストが現代の日本でこれだけの好評をえたことをたいへんうれしく思っています。訳者で詳細な訳注と解題を用意された山上浩嗣さんの篤実なお仕事も報われたことでしょう。
 
 ただ、少し残念だと思ったのは、この本の刊行に「監修者」として関わったわたしの「解説」がまったく的外れで無意味だ(「蛇足なので一点減」:安富)とか、「監訳者独自の見解を、無関係な表象(「戦争」など)と関連させて、ジコチュウで一方的に語っている」とか、果ては「翻訳者の上に君臨するものとしての「監修者」が存在し、その監修者が、翻訳の栄誉をむしりとるかのごとく語っています。まるでボエシの仮説「自発的隷従」が、この本を出版する小さなサークルにおいても、存在する証明のように。」(柴田)といったような文言が、恥ずかしげもなくしたり顔で書き込まれていることです。
 
 沖縄の辺野古でデモにいったり座り込んだりする人たちに、よく「日当をもらっている」という根も葉もない中傷が浴びせられます。しかしそうしたデマ中傷を口にする人たちの多くは本気でそう思っているようで。なぜなら、自分たちがヘイトデモをするときにはどこかから資金が出ていて、動員に日当が出ているからでしょう。だから、警察に手荒く扱われたりごぼう抜きにされたりする座り込みの人たちが、ただで来るわけがない、ゼッタイに日当が出ているに違いないと思うわけです。このように、人に対する中傷は、逆に自分のふだんの心根を写し出してしまうことが多いのです。そういうのを「ゲスの勘ぐり」と言います。
 
 『明かしえぬ共同体』(ブランショ、何も共有しない者たちの結びつき、明かすべき共通利害などもたない者たちの協労。この本もちくま学芸文庫で出ています)を旨としているわたしは、監修と翻訳と編集部との間に、役割分担があってもヒエラルキーがあるなどとは思っていません。それでも、外からはそう見えるとしたら、この本の出版に関してはそれを甘受する(どうにでも受け取ってくれ)ことにした、というに過ぎません。
 
 事情の大筋は「解説」に書いたはずですが、安富氏などは「西谷氏は、本当に本文を読んで解説を書いたのだろうか?」(これが『東大話法』?)などと宣っておられるので、よく分かるように事情を少し説明しておきます。
 
 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシのこのテクストはフランスではよく知られた古典で、2000年代に入って大学入学資格試験のテーマに採用されたりもしています。しかし日本ではごく狭い専門家(とくにフランス文学・思想関係)にしか知られておらず、翻訳も1960年代に出た筑摩世界文学大系に他の著作家のものといっしょに紹介されていた程度でした。しかしわたしは、このテクストは2000年代の日本でこそ読まれるべきだと思いました。そこに近代以降の思想的枠組みに囚われていない視点からの、権力機構の「不易」のあり方が示されていると考えたからです。
 
 幸い、共通の知人のいたルネサンス研究の山上浩嗣さんが、同好の士とともに研究会をして訳文と注解を作り、大学の紀要に発表していたのを知りました。そこでわたしは山上さんに会い、この原稿を出版しないかともちかけたのです。山上さんはこのテクストにたいへん愛着をもち、訳者解題に示されているように子細な研究をしていたのですが、それはあくまで古典研究としてであって、このテクストが今日の出版事情のなかで(売れない人文系出版の困難)出せるとは考えていなかったのです。
 
 けれどもわたしは、いまだからこそ出す意義がある、それも図書館の棚に眠る専門書としてではなく、できるだけ広く流通する一般書として出したいと思っていました。そこで、ちくま学芸文庫の旧知の編集者に相談したのです。けれども、モンテーニュの親友とはいえ16世紀の夭逝した法務官の遺した小著(実務的にみてもそれだけでは本にしにくい)を、文庫で出すことには当然躊躇がありました。そこでわたしは、この本を普及しやすいかたちでいま出版することの意義をあらゆる角度から説明し、説得を試みました。編集者もまた編集会議で自分の企画として通さなければならないからです。
 
 その結果、以下のような形が文庫での出版には必須だということになりました。
・訳文は一般読者に読みやすいように徹底的にあらためる(好評の訳文については、山上さんと編集者の町田さんとの無私の協労がありました)。
・たぶん一度しか出せないから、専門書としても通用するように、山上さんの解題を詳細に収録する。
・また、原テクストが短いこともあり、これが稀有の古典として20世紀の著述家たちにも深い影響を与えたことを示すいくつかの短い論を実例的として併録する(S・ヴェーユ、P・クラストルまで、C・ルフォールの論は大部すぎる)。
・現代日本の読者に、この「自発的隷従論」がただの文化的骨董品ではなく、グローバル化の時代にこそ読まれるべき生きたテクストであること示すための「解説」を西谷が書く(これがないと出版の話が成り立たなかった。)

 だからこの本は、そのような共同作業の成果として出版されたのです。結果として本は詰込みのようになりました。それでもかさばるほどではありません。理想をいえば、テクストと解題だけで簡素に出すのが古典としての「品格」かもしれません。しかしそれでは、誰も(どの出版社も)この本をいま出版しようとはしないし、ましてやそれが読者にインパクトを与えるなどとは予想していなかったのです。

 ド・ラ・ボエシのテクストは石ころのように落ちていた。わたしはそれを拾って驚き、この石ころは多くの人の糧になるはずだ、なんとかこれを日本の読者にも届けたい、と強く思い、そのために尽力しただけです。あえて言えば、それはまずわたしの思想的糧になった。そしてわたしの思想の骨肉にもなったのです。バタイユは「思想とは、人の考えたことを、レンガのように積み直すことだ」と言っています。独自の思想などというものはない、わたしもそう考えています(近代の著作権の制度はありますが)。だからド・ラ・ボエシの思想を呈示することは、それ自体がわたしの思想の所作でもあります。
 
 こういう事情を、出版に関わりのある人ならある程度分かるだろうに(「解説」にもあまり内輪話にならない程度には書いてあります)、そんなことには一顧だにせず「解説」が不要だと言うのは、この「石を拾う」行為を否定することになるし、自分がおいしいものにありつけたその見えない事情を、うるさいから切捨てよということでもあります。「解説」の中身を批判するのは構わないでしょう。現代世界の捉え方やには異論もあるだろうし、専門知識をひけらかしたい人もいるでしょう。それはネットで言いっ放し、ご勝手に、ということです。ただ、この本の場合、いちばんのネックはとにかく「出版を実現する」ということでした。それは果たされた。後はすべて読者に委ねるということです。
 
 このことを今書いたのは、現代の時代状況を標定しようとするとき、この本にあらためて着目する必要があると感じているからです。『自発的隷従論』の論旨がインパクトをもつ(日本だけでなく世界的に)ということは、裏返して言って、啓蒙的近代以後の社会的条件が変質していることに対応している、言いかえれば「ポスト・モダン」と言われた状況は、身分制社会への再編の露払いだったのではないか、と考えるからです。逆戻りということではなく、経済による世界的な社会再編が、結果として身分制復興と同じ役割を果しているように思えます(アメリカのSF的想像力はかなり以前からそのことを自明視していたようですが――「ブレード・ランナー」、「ガタカ」、「トータル・リコール」、「マトリックス」など)。だから、もう一度『自発的隷従論』に立ち返ろうと思っています。
 
 それと、参議院議員選挙が終わりました。ここに書いたような事情で、わたしは安富歩という人の「東大話法」を信用しませんが、彼を擁立していた山本太郎の「れいわ新選組」をひそかに応援していたので、選挙中は控えました。ただ、彼が今後も政治を変えようとその道に進むのなら、応援しようとも思っています。なにはともあれ、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』にまっ先に反応してコメントを寄せてくれた人ですから。

2019年6月30日、板門店のランデブー2019/07/01

 G20で日本に来たトランプ米大統領は、日本には安保条約やめるぞと脅す一方で韓国訪問。ソウルに行き、ついでに板門店に脚をのばして金正恩に会った。 日本外交は大混乱。日米安保にしがみつき、米軍にはなんでもドーゾ、アメリカ助けるために兵器も爆買い、それも北朝鮮や中国脅威に備えるためと、国内を誘導してきたのに…。

 さすがにNHKは特番を組んで中継放送。これを落としたら、報道機関としてもうどこにも顔向けができないからだ。それほどこの不意の会見は世界的ニュースだった。「日米同盟は最も緊密」と宣伝する安倍首相と日本政府は、まったくカヤの外だったのだが、それでも報道しないわけにはいかない。だから夜のニュースでもやる。だが、解説となると、さすがにアベ友の岩田某に「東京サミットで安倍首相が助言した」と言わせることはできないが、「拉致問題は取り上げられたのか?」とか、「北朝鮮の完全な非核化という本筋の問題には進展が見えない」とか論評するだけである。

 解説番組や討論番組に出てくる「専門家」たちも言うことの基本は変わらない。日本では、表のメディアではそんな議論しかなされない。だが、トランプの大統領としての振舞いの特異性や、今のホワイトハウスの内部の事情、それに冷戦後以来(あるいはそれ以前から)の北朝鮮とアメリカとの関係とその経緯を考えたら、とてもそんなことではすまされない。「拉致問題」を鬼の首でも取ったかのように前面に出して北朝鮮を指さし非難する(安倍の姿勢)日本は、同時に戦時中の朝鮮人強制連行に頬かむりし、「慰安婦問題」を否認する日本だということを、国際社会は知っている。それに「非核化」とは、冷戦後のアメリカが世界統治のヘゲモニーを維持するために、言うことを聞かない国々を締め上げるための戦略にしかなっていない。「非核化政策」に正当性をもたせるためには、アメリカがまず手本を示さなければならないが、唯一核兵器を実際に使ったこの国は、自分だけは破格の核を持ち続けるのである(今では戦術核の開発さえ再開している)。

 そんなことも分からない(知らないふりをする)「専門家」とは何なのか?
 そもそも北朝鮮が(そしてイランも)核開発を始めたのは、それなしにはアメリカに潰されるからである。核は相互に持てば敵の先制攻撃を防げるというのはアメリカが唱えた抑止力の論理だ(相互確証破壊:MAD)。アメリカが敵視をやめれば、ただでさえ貧しい小国は膨大な負担を負ってまで核開発などする必要はない。だが北朝鮮は冷戦後も残った「共産国=独裁国家」として全世界の敵意にさらされてきた。そして他国が(当時はイラクが)公然と潰されるのを見てきた。だから北朝鮮は核開発を始めたのだ。

 独裁国家に中から「民主化」が起こればいいのか?それが可能ならよいかもしれない。しかしその道はもうひとつの朝鮮戦争を引き起こすことになるだろう(内戦、韓国の介入、そしてその後はテロリスト狩り)。だとしたら(朝鮮半島の住民のことを考えれば)軟着陸しかない。北朝鮮自身がしだいに体制を変えて国が開かれ豊かになる、それを韓国が同胞国として助ける(もちろん日本も)、ということだ。

 一度でもソウルに行ってみれば、韓国では首都からわずか50キロのところに軍事境界線があるという、日常に溶け込んだ緊張の現実がある。それが韓国にとってもずっとのしかかる負担であり、その「南北対立」を口実に軍事政権が長く続き、それを倒すのに民衆の長く厳しい闘いが必要だったのである(「朝鮮問題」の専門家は、その対立の悲劇をメシの種にしてきたから、「融和」の機運が不安なのだろう)。

 南北分断が生じ、朝鮮戦争(当事者は南北とアメリカと中国)がいまだ継続状態であることが、現在の半島の状況を歴史的に規定している。ついでに言えば、分断が生じたのは、四十年間半島を統治した日本が朝鮮自治のすべての芽をつみ、挙句に敗戦によって朝鮮を放り出したからである。日本が多少とも大きな顔ができるとしたら、それは南北融和を手助けできたときだろう。ところが日本はずっと朝鮮問題に頬かむりし、冷戦(日米安保)下でアメリカに言われて南(韓国)とは和解したものの、冷戦終結後も北を敵視し続け、とりわけ最近の政治家たちは、むしろ北を間近な「脅威」として自分たちの政治的意図のために徹底的に利用してきたのである。「拉致問題」はそのための格好の道具になった。いまの政府にとっては、それは「北」敵視のためのジョーカーと化し、解決するよりもそのままである方が好都合なのだ。実際、安倍政権はいっさい交渉しないとして(解決の意志がないということだ)、「最大限の圧力」をかけ続けてきた。だから米中接近で今さらながら交渉のそぶりをしたくても、トランプを頼りにするしかないが、北朝鮮は「虫のいい話だ」と言うだけである(北の核政策は日本など眼中になかった)。

 また、ホワイトハウス内部の事情もある。悪徳不動産屋かつヒール・プロレス・ディーラーのトランプは、テレビで受けるコツも知っている。偏見はあるし、傲慢で、自己顕示欲も強いが、カルトチックではない。スティーヴ・バノンを切ったのはそのためだろう。バノンは自分の陰謀妄想に使えると思ってトランプを助けた。しかしトランプはそれが嫌になったのだ。その後も、アメリカ帝国路線のエスタブリッシュメントを嫌って(嫌われて)、はぐれ軍人などを国務長官・国防長官・大統領補佐官・CIA長官にしてきたが、それでもトランプの気まぐれに付き合いきれず次々に辞め、もう人材が払底してポンペオやボルトンのような鼻つまみ者しかいなくなった(というより、空白にボルトンなどが潜りこんだ)。ところが名うてのネオコン・ボルトンがペンスなどと組んで、北朝鮮との融和を潰しにかかる。

 しかしトランプは北朝鮮との関係転換はやりたい。アメリカの外交史上の画期になるし、オバマ政権が続けてきたことをひっくり返すことになる。もちろんそれを外交上の得点として大統領選に使いたいという意図もあるだろう。だがそれだけではなく、「金委員長が好きだ」というのは、外交辞令ではないだろう。自分がツイッターで「ロケットマン」と茶化すと、「老いぼれジジイが…」とやり返してくる、いかにも作り太りで異様な髪形の若い「独裁者」が、トランプは個人的にはほんとうに「うい奴」と思っているのだろう(ゴルフで穴に転げ落ちて見捨てられてもヘラヘラ付いてきて、「親しく突っ込んだ話をして、…完全に一致しました」と会見で発表する、どこかのシンゾーなどとは大違いだ)。この「ヒール役」二人が並ぶとたしかにメディア化した「国際政治」の舞台で絵になる。この個人的思いで(ラブレターのようなものも交わしている)外交してどこが悪い、というのがトランプのやり方ではないか。

 だが、準備して事前に回りに諮るとボルトン等に潰される。だから東京でじかに一か八かのツイッター。文在寅はもちろんこれを喜んでさっそく手配(いや、文在寅がトランプ訪韓の機会をとらえ、歴代大統領のように板門店を訪れるよう勧めて機会を作ったのかもしれない)、疑心暗鬼の金正恩もここは一番のる!とばかり板門店に現れた、ということだ。これでトランプは、自分の手法が通じる相手だと確認、それが「いや金委員長を好きかもしれない」と言わせた。

 双方にとって、二人で始めた北朝鮮と世界との関係の転換は、もし挫折したら二度と訪れない機会である。ネオコンやアメリカ帝国派の路線に戻れば、北朝鮮は今後数十年にわたって今の孤立を続けるほかない。それは「秘境」にホテルを作って半島全域で儲けたいトランプには面白くないし、金正恩にとっては滅亡への道である。去年の核開発後の対米融和への方向転換は、金正恩と北朝鮮にとっては捨て身の選択だった(若い正恩が国内を抑えるのもたいへんだっただろう)。そしてそれは韓国にとっても、千載一遇というより二度とない民族融和(別に国家統合は必要ではない)のチャンスだった。この機運を逃したら、分断国家で敵対し合うという重い枷が韓国にも不変の運命となってしまうのだ。金大中も盧泰愚も失敗したこの道を開く最後のチャンスだ。民主化運動で弾圧され、空挺部隊で鍛え上げられた文在寅にその可能性が託されている。

 テレビで解説・論評する「専門家」なら、そんなことを知らないわけではないだろう。しかしそんなことがあたかもないかの如く、「日本にとっては拉致問題が第一」とか「北朝鮮の完全な非核化が本筋」とか、シャアシャアと言ってのけ、それだけを言い続ける。外から見たらみんな政府のスポークスマン、安倍の敷いた路線でしかものを言わない、そうして世論を誘導する。つい最近も国連報告者デビット・ケーが、日本の「報道の自由」についてまた警告を発し、政府と話し合う用意がある、とさえ言ったと伝えられるが、世界では北朝鮮とそう変わらないとみなされている日本の「報道の不自由」は、あからさまに弾圧されるということではなく、このようにメディアがまともなことを問題にせず、政権の方針=国の方針=日本の基本了解と考えて、それに合わせてしかものを言わない、そう言わないと場が与えられず、忖度して世論誘導することが、報道としてまかり通っている(ネトウヨ産経から、まともが売り物の朝日まで、それは変わらない)という状況から生まれているのだろう。  

   *   *   *

 要は、「非核化」が問題なのではない。問題は北朝鮮の国際社会への統合なのだ。「非核化」は北朝鮮に対する一方的な無力化要求であり、経済制裁はすでに大国の小国に対する戦争行為と変わらない(そうして小国を苦境に陥れ、内戦状況を作り出すことで、これまでアメリカはいくつの国々を破壊し支配下に置いてきたことか)。北朝鮮が核武装を目指したのは、他でもないその道を避けるためだ。
 
 「朝鮮問題」に解決があるとすれば、それはまず朝鮮戦争を終結させ、朝鮮民主主義人民共和国をアメリカが承認する(すると自動的に西側諸国、つまり現在の主導国は北朝鮮を国家承認する。そうして朝鮮半島の南北対立を解消し、韓国・北朝鮮双方に史上初めて自立国家としての地位を保証する。そうして初めて、北朝鮮の「独裁体制」解消への道も開ける。冷戦後も世界から孤立を強いられた北朝鮮は、独裁体制によってしか生き残れなかったのだ。その「世界からの排除」が、あの奇異な世襲独裁国家を作り出している(それは戦前その地を絶対的に統治していた天皇制国家のコピーだと、日本では誰も思わないのだろうか?)。
 
 その「ならず者国家」北朝鮮は、世界を軍事によって統治しようとするアメリカやその真似をする国々にとって、戦争を正当化する軍事的緊張の源として必要とされてきた。それを一方的に追いつめ排除する方策が国際的な「非核化政策」なのである。その「成功」とは、北朝鮮の国家的な暴発でしかない。しかしその暴発は2500万国民(だけでなく韓国も巻き込んで)の惨劇にしかつながらない。イラクやシリアのような悲劇が東アジアでも生じるだけだ。そのときに日本海は難民船で溢れるだろう(日本の一部政治家はそれを銃で追い払えと言っている)。
 
 トランプという異例の(とはいえアメリカの「私的自由」を剥き出しにした)大統領が登場し、初めて北朝鮮との和解に動きだしたというのは、千載一遇のチャンスである。これから起こることは、何としてでも北朝鮮という「危険物」を保存して、自国や世界のなかでの軍事統治を維持しようとする勢力と、その状況を変えようとする勢力とのせめぎ合いになるだろう。アメリカでトランプ・金の「逢瀬」を邪魔する者たちは、ネオコンや軍事秩序維持派、とりわけ東アジアに利権をもつ勢力だろう。トランプは彼らをなだめながら、この「歴史的偉業」を進めなければならない。前途はけっして楽観できない。だからノーベル賞でも何でもくれてやるのがいいだろう。

 最後に、この時期にトランプが日米安保の「不公平」を言い出したのは特別なことではない。それはトランプの持論であり、安倍首相が「トランプとの親密な関係」を懸命に演出し、おかげで「日米同盟は最も深化」と国内向けに言い募っていることが、まったくのフェイクだということを露わに示したに過ぎない。残念なことに安倍首相はトランプが金正恩を「好き」なようにはまったく「好かれて」いないし、むしろはっきり愚弄されているのだ。言うことも言えず、脅せばありえない土産をすぐにもってくる。トランプも「ディール」の腕の示しがいがないから、絞りとるだけ搾り取ろうというだけだ。そんな首相が長期政権だから、日本もいいとこ舐められているに違いない。

*即刻FBに走り書きしたコメントを補足して。
https://www.facebook.com/onishitani