仏誌「マリアンヌ」インタヴュー、「アメリカの自由」について ― 2025/01/08
西谷修:「地球を商品と考えたのはアメリカ人が最初」
インタビュー:サミュエル・ピケ
公開日時:2025/01/07 21:00
*DeepLの自動翻訳にだいぶ手を入れました(とくに後半)。
日本の哲学者である西谷修は、そのエッセイ《L'impérialisme de la liberté, Un autre regard sur l'Amérique》(Seuil)――邦題『アメリカ、異形の制度空間』(講談社メチエ)――の中で、西洋、とりわけ米国に鏡を差し出しているが、そこに映った像はいささか心乱すものである。 ドナルド・トランプが大統領に就任しようとしている今、この本は示唆に富んでいる。「マリアンヌ」は彼にインタビューした。
《L'Imperialisme de la liberte》(Seuuil)の中で、日本の哲学者である西谷修は、アメリカ合州国の誕生と、自ら主張する所有権に基づくアメリカ・モデルの輸出について、非常に批判的な視線を向けている。 キリスト教ヨーロッパも免除されているわけではないが、著者はアメリカの例外性、つまり現地住民の同化の試みもなく、自由という偽りの理念を広めるために好戦的な拡張主義をとったことを強調している。 マリアンヌが彼にインタビューした。
マリアンヌ:クリストファー・コロンブスが上陸した大陸が "アメリカ "と呼ばれていたという事実は、なぜその発展を理解する上で重要なのでしょうか?
西谷修:アメリカとは何よりまず、ヨーロッパ人によって発見された未踏の地、「新大陸」という西洋の想像上の存在を指す名前だからです。何千年来そこに住んでいた人びとは、自分たちを「アメリカ人」だとは、ましてや「インディアン」だとは認識していませんでした。アメリカは、彼らを追い出すか絶滅させることでしか築けなかったのです。ヨーロッパ人到来以前のあらゆる人びとの生活は「新大陸」の「新しさ」に反するものでした。「アメリカ」という名づけそのものが、「新大陸」の発見をフィレンツェの航海士アメリゴ・ヴェスプッチによるものと早とちりしたドイツ人地図製作者の思い込みの産物でした。それに、誰がアメリカ人なのか? それはこの新大陸に定住したヨーロッパ人とその子孫たちであって、「インディアン」ではない。彼らにとって「アメリカ人」とは、彼ら自身を父祖から受け継いだ土地を奪いそこから追い出した連中だったのです。
彼らは虐殺され、あるいは有名な「フロンティア」を越えて西へ西へとどんどん押し出されていった。なぜなら、フロンティアは、フランス語のそれとはいささか違って、アメリカ人の領土拡張に限界(国境)を設けるどころか、先住民の「野蛮さ」に対抗する「文明」の前線を示すものだったからです。 この前線が太平洋岸に達したとき、北の大陸の「アメリカ化」は完了しました。
マリアンヌ:あなたは「アメリカ・インディアン」の運命を説明するのに、「強制的かつ合法的に追放された」という表現を使っていますが、この明らかな矛盾をどう説明するのですか?
西谷:「インディアン」はアメリカ人に「法主体」として認められていませんでした。「法」というのはローマ法に由来する概念で、いまでも多くの非ヨーロッパ言語へは翻訳しにくいものですが、いったん彼らが「法」の外に置かれると、その扱いはもっぱら力関係に左右されます。そして「インディアン」は「法の外」にいるのだから、アメリカ人が土地を所有することを妨げるものは何もありません。一方、彼らの「野蛮人」の観点からは大地は誰のものでもなく、翻って誰もそこに住むことを禁じられてはいないわけです。
言い換えれば、先住民は土地の私的所有という考えを持っていなかった。彼らの目には、自然や生存のための環境は誰かが占有すべきものではなく、逆に生きる人間にあらゆる恩恵を与えてくれるものでした。だから彼らは新参者を頭から拒絶せず、むしろ受け入れて定住を許した。けれども、やがてアメリカ人となる入植者たちは、土地を所有の対象とし(初めは国王の領有)、法的・経済的資産として、その排他的な占有と開拓をもって、いわゆる個人の「自由」の基盤としたのです。入植者の数が増え続けるにつれて、土地の独占所有を受け入れない「インディアン」との公然の衝突は避けられなくなり、それがまた、彼らの「野蛮で無法」な性質が確認されることになり、野生動物と同じように「合法的かつ力づくで追放」されるようになったのです。
そこは、アメリカのいわゆる帝国主義がヨーロッパ列強の帝国主義から根本的に逸脱している点でもあるでしょう。 基本的に、ヨーロッパ諸国は世界の他の地域を征服し、統治し、同化させ、統合し、自国の領土に併合しようとしました。
屈服させるだけでなく、植民地化した民族の習慣や風習を勘案しながら(これが人類学の第一の目的だったわけです)、自分たちの文化、西洋文化を押し付けようとした。だから、フランスが残した刻印は、イギリス、スペイン、ポルトガル、オランダ、ロシアが残したものと同じではありません。だが、アメリカ人は大地を最初に商品化した。彼らの最初の行動は、植民地化された土地を「処女地」と宣言し、「テラ・ヌリウス」という法規定を適用することでした。ローマ法に由来するこの概念は、人が住んでおらず、開発もされていない土地を指します。だから、最初に手をつけた者が正当な所有権を主張できる(先占取得)。
だからアメリカは、そこに住み着くようになったヨーロッパ人にとって、「自由(空いている)」で、個人的自由に好都合な世界だとみなされたのです。所有者もいないし、ヨーロッパの土地関係を支配していた封建的なしがらみもない世界でしたから。ドナルド・トランプ大統領自身、不動産業で財を成した人物ですが、彼が米国はグリーンランドを領有すべきだと主張するとき、このような歴史と完全に軌を一にしているわけです。
マリアンヌ:あなたはしばしばヨーロッパを「キリスト教徒」や「キリスト教」という言葉で定義します。なぜですか?
西谷:1492年にクリストファー・コロンブスがグアナハニ島に上陸したとき、何世代にもわたってこの島に住んでいたタイノ人は、自分たちを「発見」しにきたヨーロッパ人を素朴ながら手厚く歓迎しました。一方、コロンブスは、彼らの先祖代々の土地を領有すると宣言し、サンサルバドル島(聖救世主)というキリスト教的な新しい名前を付けたのです(キリスト教徒はそれを「洗礼」と言う)。
コロンブスの目には、ローマ教皇やスペイン国王の目と同様に、カトリックの信仰を広めることが、こうして発見された、あるいはまだ発見されていない大地の植民地化を正当化するものとして映りました。ラテンアメリカでは、「征服者」たちによって「発見」された土地は、ヨーロッパの神学的・政治的秩序に強制的に併合されたわけです。
北アメリカでは事情が異なって、征服はヨーロッパ的な「旧世界」から脱却して「新世界」を建設するという救済史的な意味を与えられました。英国国教会の迫害から逃れるために17世紀に入植した清教徒たちは、北米を新たな「約束の地」と見なしていたのです。紅海を渡った選ばれし民のように、彼らは「キリスト教の自由」という新しい掟を確立することを自分たちの使命としていました。1620年にメイフラワー号で大西洋を横断したピルグリム・ファーザーズは、19世紀にはアメリカの建国神話となり、やがて「明白な運命」の象徴となりました。
これらの歴史はすべて、宗教、政治、法律、経済が密接に結びついていることを明らかにしています。その結びつきがその思考のシステム自体の特徴なのですが、ヨーロッパでは「世俗化」以来、そのことがしばしば忘れられています。ともかく、ヨーロッパ人は常に、他の「野蛮な」民族に対して、キリスト教的であること、あるいは文明的であることで自分たちを正当化してきたのです。
マリアンヌ:米国が誇る「自由」を支えているのは、どのような概念だと思われますか?
西谷:清教徒たちは二つの理由から、アメリカが自由の地であると思い描きました。まず、英国国教会のくびきから自由であり、そこを耕し、実り豊かにすれば、完全に占有することができたからです。すべての個人がそこでは自由に信仰ができるし、大地を耕すことで自分のものにすることができます。耕せば権利が生ずる、それも聖書に書いてあって、経済学者たち、とくにジョン・ロック(1632-1704)が「自由」のベースとしたことです。
イギリスからの独立闘争において、自由はこうして「私的所有に基づく個人の自由」として肯定されました。このように考えられた自由は、人や物を本来の状態から解放し、商業的交換に適した経済的存在(財)に変えます。これが、インディアンの土地を取引可能な「不動産」に転換し、その最初の「証券化」の場がウォール街だったわけです。そしてその後、この原理(自由化と解放)は、水、知的財産、遺伝子など、考えうるあらゆる「資源」に適用・拡大してゆきます。
北アメリカを発祥の地とし、それ以来世界のあらゆる地域に広がり続けている「所有権に基づく自由の空間システム」の基本構造はこのようなものです。西部のフロンティアが太平洋にまで到達すると、この「自由のシステム」はラテンアメリカ諸国を古いヨーロッパの帝国主義から解放しますが、それは言いかえればアメリカが支配する「自由市場」に統合するということで、モンロー・ドクトリンとは、「古いヨーロッパ」を離れて西半球に「自由世界」を開くという、その教書だったわけです。だからその動きは南へと向かいますが、世界戦争後は、今度は太平洋を越えて、まず日本を呑み込みます。
「アメリカの本当の原罪は奴隷制度ではなく、原住民の排除だった」。
ヨーロッパ型の日本帝国主義が広島と長崎で粉砕されて以来、日本は欧州連合(EU)のように、アメリカの意向に従う「自由の帝国主義」のアジアにおける代理人になりました。けれども、この「自由」を、世界人権宣言がすべての人間に認めている自由や人権と混同してはならないでしょう。私有財産に基づくものである以上、この「自由」は弱者の権利によって妨げられてはならず、所有者一人ひとりに、それを守るために武装する権利を与えているのです。
マリアンヌ:あなたは「 アメリカの自由には『原罪』がある」と書いています 。それは何ですか?
西谷:バラク・オバマ大統領は2008年の演説で、奴隷制度はアメリカの「原罪」であると言い、憲法の宗教的側面を再活性化させました。しかし、黒人奴隷貿易が忌むべきものであったことは事実ですが、この「罪」は米国だけのものではありません。三角貿易に従事したヨーロッパの船主たちや、自らの同朋を売ったアフリカの首長たちによって可能になったもので、アメリカはその最大の「消費地」でした。
アメリカの本当の「原罪」は先住民の抹殺であり、それなしには「私的所有権に基づく自由」は太平洋岸まで広がることはできず、さらにその先に、グローバリゼーションによって全世界に押し付けようとすることもできなかったでしょう。その先に、今では、イーロン・マスクの企てる宇宙空間の私的(民間)開発があります。
マリアンヌ:今日、アメリカは世界でどのように受け止められているのでしょう?そのオーラは失われたのか?日本ではどう見られているのでしょうか?
西谷:他の国と同様、日本においても、米国はかつてのオーラを失っています。ベトナム戦争ですでに失い、ソビエト連邦崩壊後に部分的に取り戻しましたが、その後、アフガニスタンからの無様な撤退は、全世界を解放する(自由化する)ことで「原罪」を贖うというアメリカの衝動の決定的な挫折を意味するものだと思います。
先住民を抹殺することで「約束の地」を解放するというこのダイナミックな衝動にいまだに関与しているのは、アメリカの支援の下にあるイスラエルの極右とそのシンパだけでしょう。MAGA[「アメリカを再び偉大に」]の波の高まりは、この失敗の認識と、新自由主義的・新保守主義的グローバリズムの放棄を物語ってもいます。
ドナルド・トランプ大統領は、この事業がアメリカ人を犠牲にしすぎたと考え、栄光を取り戻すためには、アメリカは自国の利益の追及保持と、そのために障害となる中国という唯一の「敵」に焦点を当てているようですが、それを打ち負かすのはどう見ても不可能です。
日本では、ヨーロッパ主要国と同様、多くの人々が自国の運命がアメリカのそれと切り離しうるとは考えておらず、それゆえ「ポスト・アメリカ」の世界における自国の位置どりなどを考えてもいないようです。たしかに、アメリカの支配がない世界を想像するのは難しいですが、じつはそれが現代のもっとも枢要な課題でしょう。
インタビュー:サミュエル・ピケ
公開日時:2025/01/07 21:00
*DeepLの自動翻訳にだいぶ手を入れました(とくに後半)。
日本の哲学者である西谷修は、そのエッセイ《L'impérialisme de la liberté, Un autre regard sur l'Amérique》(Seuil)――邦題『アメリカ、異形の制度空間』(講談社メチエ)――の中で、西洋、とりわけ米国に鏡を差し出しているが、そこに映った像はいささか心乱すものである。 ドナルド・トランプが大統領に就任しようとしている今、この本は示唆に富んでいる。「マリアンヌ」は彼にインタビューした。
《L'Imperialisme de la liberte》(Seuuil)の中で、日本の哲学者である西谷修は、アメリカ合州国の誕生と、自ら主張する所有権に基づくアメリカ・モデルの輸出について、非常に批判的な視線を向けている。 キリスト教ヨーロッパも免除されているわけではないが、著者はアメリカの例外性、つまり現地住民の同化の試みもなく、自由という偽りの理念を広めるために好戦的な拡張主義をとったことを強調している。 マリアンヌが彼にインタビューした。
マリアンヌ:クリストファー・コロンブスが上陸した大陸が "アメリカ "と呼ばれていたという事実は、なぜその発展を理解する上で重要なのでしょうか?
西谷修:アメリカとは何よりまず、ヨーロッパ人によって発見された未踏の地、「新大陸」という西洋の想像上の存在を指す名前だからです。何千年来そこに住んでいた人びとは、自分たちを「アメリカ人」だとは、ましてや「インディアン」だとは認識していませんでした。アメリカは、彼らを追い出すか絶滅させることでしか築けなかったのです。ヨーロッパ人到来以前のあらゆる人びとの生活は「新大陸」の「新しさ」に反するものでした。「アメリカ」という名づけそのものが、「新大陸」の発見をフィレンツェの航海士アメリゴ・ヴェスプッチによるものと早とちりしたドイツ人地図製作者の思い込みの産物でした。それに、誰がアメリカ人なのか? それはこの新大陸に定住したヨーロッパ人とその子孫たちであって、「インディアン」ではない。彼らにとって「アメリカ人」とは、彼ら自身を父祖から受け継いだ土地を奪いそこから追い出した連中だったのです。
彼らは虐殺され、あるいは有名な「フロンティア」を越えて西へ西へとどんどん押し出されていった。なぜなら、フロンティアは、フランス語のそれとはいささか違って、アメリカ人の領土拡張に限界(国境)を設けるどころか、先住民の「野蛮さ」に対抗する「文明」の前線を示すものだったからです。 この前線が太平洋岸に達したとき、北の大陸の「アメリカ化」は完了しました。
マリアンヌ:あなたは「アメリカ・インディアン」の運命を説明するのに、「強制的かつ合法的に追放された」という表現を使っていますが、この明らかな矛盾をどう説明するのですか?
西谷:「インディアン」はアメリカ人に「法主体」として認められていませんでした。「法」というのはローマ法に由来する概念で、いまでも多くの非ヨーロッパ言語へは翻訳しにくいものですが、いったん彼らが「法」の外に置かれると、その扱いはもっぱら力関係に左右されます。そして「インディアン」は「法の外」にいるのだから、アメリカ人が土地を所有することを妨げるものは何もありません。一方、彼らの「野蛮人」の観点からは大地は誰のものでもなく、翻って誰もそこに住むことを禁じられてはいないわけです。
言い換えれば、先住民は土地の私的所有という考えを持っていなかった。彼らの目には、自然や生存のための環境は誰かが占有すべきものではなく、逆に生きる人間にあらゆる恩恵を与えてくれるものでした。だから彼らは新参者を頭から拒絶せず、むしろ受け入れて定住を許した。けれども、やがてアメリカ人となる入植者たちは、土地を所有の対象とし(初めは国王の領有)、法的・経済的資産として、その排他的な占有と開拓をもって、いわゆる個人の「自由」の基盤としたのです。入植者の数が増え続けるにつれて、土地の独占所有を受け入れない「インディアン」との公然の衝突は避けられなくなり、それがまた、彼らの「野蛮で無法」な性質が確認されることになり、野生動物と同じように「合法的かつ力づくで追放」されるようになったのです。
そこは、アメリカのいわゆる帝国主義がヨーロッパ列強の帝国主義から根本的に逸脱している点でもあるでしょう。 基本的に、ヨーロッパ諸国は世界の他の地域を征服し、統治し、同化させ、統合し、自国の領土に併合しようとしました。
屈服させるだけでなく、植民地化した民族の習慣や風習を勘案しながら(これが人類学の第一の目的だったわけです)、自分たちの文化、西洋文化を押し付けようとした。だから、フランスが残した刻印は、イギリス、スペイン、ポルトガル、オランダ、ロシアが残したものと同じではありません。だが、アメリカ人は大地を最初に商品化した。彼らの最初の行動は、植民地化された土地を「処女地」と宣言し、「テラ・ヌリウス」という法規定を適用することでした。ローマ法に由来するこの概念は、人が住んでおらず、開発もされていない土地を指します。だから、最初に手をつけた者が正当な所有権を主張できる(先占取得)。
だからアメリカは、そこに住み着くようになったヨーロッパ人にとって、「自由(空いている)」で、個人的自由に好都合な世界だとみなされたのです。所有者もいないし、ヨーロッパの土地関係を支配していた封建的なしがらみもない世界でしたから。ドナルド・トランプ大統領自身、不動産業で財を成した人物ですが、彼が米国はグリーンランドを領有すべきだと主張するとき、このような歴史と完全に軌を一にしているわけです。
マリアンヌ:あなたはしばしばヨーロッパを「キリスト教徒」や「キリスト教」という言葉で定義します。なぜですか?
西谷:1492年にクリストファー・コロンブスがグアナハニ島に上陸したとき、何世代にもわたってこの島に住んでいたタイノ人は、自分たちを「発見」しにきたヨーロッパ人を素朴ながら手厚く歓迎しました。一方、コロンブスは、彼らの先祖代々の土地を領有すると宣言し、サンサルバドル島(聖救世主)というキリスト教的な新しい名前を付けたのです(キリスト教徒はそれを「洗礼」と言う)。
コロンブスの目には、ローマ教皇やスペイン国王の目と同様に、カトリックの信仰を広めることが、こうして発見された、あるいはまだ発見されていない大地の植民地化を正当化するものとして映りました。ラテンアメリカでは、「征服者」たちによって「発見」された土地は、ヨーロッパの神学的・政治的秩序に強制的に併合されたわけです。
北アメリカでは事情が異なって、征服はヨーロッパ的な「旧世界」から脱却して「新世界」を建設するという救済史的な意味を与えられました。英国国教会の迫害から逃れるために17世紀に入植した清教徒たちは、北米を新たな「約束の地」と見なしていたのです。紅海を渡った選ばれし民のように、彼らは「キリスト教の自由」という新しい掟を確立することを自分たちの使命としていました。1620年にメイフラワー号で大西洋を横断したピルグリム・ファーザーズは、19世紀にはアメリカの建国神話となり、やがて「明白な運命」の象徴となりました。
これらの歴史はすべて、宗教、政治、法律、経済が密接に結びついていることを明らかにしています。その結びつきがその思考のシステム自体の特徴なのですが、ヨーロッパでは「世俗化」以来、そのことがしばしば忘れられています。ともかく、ヨーロッパ人は常に、他の「野蛮な」民族に対して、キリスト教的であること、あるいは文明的であることで自分たちを正当化してきたのです。
マリアンヌ:米国が誇る「自由」を支えているのは、どのような概念だと思われますか?
西谷:清教徒たちは二つの理由から、アメリカが自由の地であると思い描きました。まず、英国国教会のくびきから自由であり、そこを耕し、実り豊かにすれば、完全に占有することができたからです。すべての個人がそこでは自由に信仰ができるし、大地を耕すことで自分のものにすることができます。耕せば権利が生ずる、それも聖書に書いてあって、経済学者たち、とくにジョン・ロック(1632-1704)が「自由」のベースとしたことです。
イギリスからの独立闘争において、自由はこうして「私的所有に基づく個人の自由」として肯定されました。このように考えられた自由は、人や物を本来の状態から解放し、商業的交換に適した経済的存在(財)に変えます。これが、インディアンの土地を取引可能な「不動産」に転換し、その最初の「証券化」の場がウォール街だったわけです。そしてその後、この原理(自由化と解放)は、水、知的財産、遺伝子など、考えうるあらゆる「資源」に適用・拡大してゆきます。
北アメリカを発祥の地とし、それ以来世界のあらゆる地域に広がり続けている「所有権に基づく自由の空間システム」の基本構造はこのようなものです。西部のフロンティアが太平洋にまで到達すると、この「自由のシステム」はラテンアメリカ諸国を古いヨーロッパの帝国主義から解放しますが、それは言いかえればアメリカが支配する「自由市場」に統合するということで、モンロー・ドクトリンとは、「古いヨーロッパ」を離れて西半球に「自由世界」を開くという、その教書だったわけです。だからその動きは南へと向かいますが、世界戦争後は、今度は太平洋を越えて、まず日本を呑み込みます。
「アメリカの本当の原罪は奴隷制度ではなく、原住民の排除だった」。
ヨーロッパ型の日本帝国主義が広島と長崎で粉砕されて以来、日本は欧州連合(EU)のように、アメリカの意向に従う「自由の帝国主義」のアジアにおける代理人になりました。けれども、この「自由」を、世界人権宣言がすべての人間に認めている自由や人権と混同してはならないでしょう。私有財産に基づくものである以上、この「自由」は弱者の権利によって妨げられてはならず、所有者一人ひとりに、それを守るために武装する権利を与えているのです。
マリアンヌ:あなたは「 アメリカの自由には『原罪』がある」と書いています 。それは何ですか?
西谷:バラク・オバマ大統領は2008年の演説で、奴隷制度はアメリカの「原罪」であると言い、憲法の宗教的側面を再活性化させました。しかし、黒人奴隷貿易が忌むべきものであったことは事実ですが、この「罪」は米国だけのものではありません。三角貿易に従事したヨーロッパの船主たちや、自らの同朋を売ったアフリカの首長たちによって可能になったもので、アメリカはその最大の「消費地」でした。
アメリカの本当の「原罪」は先住民の抹殺であり、それなしには「私的所有権に基づく自由」は太平洋岸まで広がることはできず、さらにその先に、グローバリゼーションによって全世界に押し付けようとすることもできなかったでしょう。その先に、今では、イーロン・マスクの企てる宇宙空間の私的(民間)開発があります。
マリアンヌ:今日、アメリカは世界でどのように受け止められているのでしょう?そのオーラは失われたのか?日本ではどう見られているのでしょうか?
西谷:他の国と同様、日本においても、米国はかつてのオーラを失っています。ベトナム戦争ですでに失い、ソビエト連邦崩壊後に部分的に取り戻しましたが、その後、アフガニスタンからの無様な撤退は、全世界を解放する(自由化する)ことで「原罪」を贖うというアメリカの衝動の決定的な挫折を意味するものだと思います。
先住民を抹殺することで「約束の地」を解放するというこのダイナミックな衝動にいまだに関与しているのは、アメリカの支援の下にあるイスラエルの極右とそのシンパだけでしょう。MAGA[「アメリカを再び偉大に」]の波の高まりは、この失敗の認識と、新自由主義的・新保守主義的グローバリズムの放棄を物語ってもいます。
ドナルド・トランプ大統領は、この事業がアメリカ人を犠牲にしすぎたと考え、栄光を取り戻すためには、アメリカは自国の利益の追及保持と、そのために障害となる中国という唯一の「敵」に焦点を当てているようですが、それを打ち負かすのはどう見ても不可能です。
日本では、ヨーロッパ主要国と同様、多くの人々が自国の運命がアメリカのそれと切り離しうるとは考えておらず、それゆえ「ポスト・アメリカ」の世界における自国の位置どりなどを考えてもいないようです。たしかに、アメリカの支配がない世界を想像するのは難しいですが、じつはそれが現代のもっとも枢要な課題でしょう。
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