「名誉ある戦後」か「屈辱の戦後」か2014/06/09

 じつは今日6月9日(月)、衆議院第一議員会館会議室で「立憲デモクラシーの会」の記者会見があった。安倍首相が安保法政懇(私的諮問機関)の答申を受けて、集団自衛権容認の閣議決定をするために協議を加速させる、という状況のなかで、法政懇答申とその後の政府の議論に対する「会」の見解を公表するためだ。この見解は「会」のホームページにも公開されている(http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/)。
 
 けれども、今まともな議論が展開されるわけではない。閣議決定にもってゆくために、与党内での協議、つまり公明党に集団的自衛権を呑ませるための工作が表で展開されているに過ぎない。それも、一度出したケースをすぐにひっこめたり、「必要最小限」を強調したり、従来とそんなに変わらないと言いくるめることで、各論から攻めて、一箇所でも食いついてきたらそのまま「容認」にもってゆこうとしている。いわば、一本一本の木の具合を見させて、山火事が広がることを忘れさせる手だ。それもあくまで「与党内」協議である。
 
 そのうえ、安倍首相は今国会会期末(22日)までに閣議決定することを決めたという。今日の会見に参加した憲法学者の小林節氏の話によれば、先日、公明党の山口代表はある会合で、もともと政党はそれぞれ政策が違うわけだから、全部が同じということはありえず、ひとつの違いで連立離脱ということにはならない、というような発言をしたそうである。そこまで話ができているなら、時間をかける必要もないだろう。
 
 そうなると議論は、たんに公明党内部のガス抜きで、だから筋が通っても通らなくても、非現実的なありえないケースの羅列でもいいわけだ。安倍は、一方に対中危機を意識させながら、単純な情緒的に受けやすい例をあげて、中東やアフリカなど遠いところの話をしている。
 
 すでに世界に展開する日本軍を夢想しているのか、安倍は盛んに外遊する。先週もEUでいろいろ言ったことになっている(アメリカとEUの意向に沿ってロシア非難をしなかったのはいい)。ただ、いつも遠くに行って「自由と民主主義」の「価値を共有する」と抱きついて見せるが、その言の裏で中国の排除をいっしょにしていることにし、日中の関係はますます冷え込む。

 だが、これだけあちこち「外遊」しても、隣の中国や韓国には一度も行ったことがない。行けない。緊張を高めるばかりで、関係改善の努力などひとつもしたことがないからだ(近づいてくるのは北朝鮮だけ!)。これでは、安全保障を考えているとはとても言えないが、逆にその緊張を利用して日本の軍事化を図ろうとしている。

 だが、安倍のやろうとしていることは、秘密保護法でもアメリカから批判されたように、欧米よりもむしろ中国や北朝鮮に近いのだ。実際、自民党改憲案にはっきり表れているが、安倍の国家像は国民のための国家ではなく、強権国家のそれだからだ。
 
 「集団的自衛権」と言うと特殊用語になり、なにやら「自衛だからいいじゃないか」という印象に引き込まれるが、要は日本が直接攻めらるという場面でなくても、同盟国(つまりアメリカ、それしかいないから)の戦争は手伝うということ、同盟国が求めれば自衛隊を戦場に送る(戦闘行為をさせる)ということである。だがそれは憲法に反することで、それを認めることは憲法を変えるに等しく、だから「解釈改憲」だと言われる。
 
 たしかにアメリカの一部は日本に「集団的自衛権」の行使を求めているが、アメリカの求めているのは米軍の下働きであって、日本独自の安全保障のためではない。安倍はそれでも、日米同盟のためと言って自衛隊を縛る条件を取り払おうとしている。それはアメリカのためというより、「日本軍」の復活のためだろう。いったん自衛隊(どういう名であれ)が戦闘部隊(戦争のできる軍隊)となってしまえば、日本はともかく軍事力というカードをもつことになるからだ。

 去年は96条を変えて憲法を変えやすくしようとし、それが面倒だと見ると、NSC法と秘密保護法を先に通し、「集団的自衛権」行使の土塁固めをして、今度は閣議決定だけで「解釈改憲」をしようとしている。そして連立与党公明党の抵抗を受けると、もう文言はどうでもいい(「集団的自衛権」を明示的に認めなくてもよい)、この場合はいいよね、といった主旨合意だけでもいい、と言い出しているようだ。 
 
 要するに、安倍の目指すのはただひとつ、日米安保を逆手にとって(「集団的自衛権」を口実に)事実上自衛隊を軍隊化し、戦後憲法によって失ったとされる軍事力を取り戻すということだ。軍事力をもたない(奪われた)国家としての日本の戦後が「屈辱のレジーム」だと彼は言う。それを是が非でも変えたいというのが安倍の執念のよって来るところだ。
 
 だからこの問題は、詰まるところ「戦後」をどう評価するかということにかかっている。あるいはアジア太平洋戦争をどう評価するかということに。この戦争を押し進めた連中(とその後継者たち)は、敗戦の責任をすり抜けて戦後を「屈辱」のうちに生き延びてきたのだ。一方、戦争から解放された国民は、戦争をしないことで努力を他に振り向け、戦後の復興と繁栄を支えてきた。そして戦争しない国、他国に軍隊を出して国土を蹂躙したり殺したりしない国として、国際社会に無二の信用と地位を確保してきた(こんな国は他にはない)。それを二十世紀以後の世界戦争と大量破壊兵器の時代に、貴重な「実績」と見るか、あるいは「屈辱」と見るか、その二つの考え方がいま決着を求めて鬩ぎ合っていると言ってもよい。ただし一方は政権にあり、他方はもじどおり「弾」をもたない。

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