「人新世」と、「アメリカ」によって消された世界2023/05/09

「人新世」って何かというと、人間の生産活動(技術産業経済)が自然の開発を闇雲に進め、それが地球の物質代謝に有意な変化を引き起こすようになったという、地質学的(?)認識でしょう。ただしこれ、科学的認定というより、地質学的変化にも人間を重要なファクターとして加味しなければならなくなった(三葉虫のように)という、自然学者たちの危機感からする「警告」的な意味合いが強いよね。地質学の時標はふつう、中生代約2億年、新生代約6600万年、その終りの方で約160万年前からが新生代第四期(最近258万年前に変更とか、イイカゲン)、現生人類の歴史が約20万年としても、「人新世」って400~500年前からというのだから(いや産業革命の250年前から)。こんな区分が「科学的」であるはずがない(少なくとも人間の自覚という観点が入っている)。

 この認識は、科学的に言うなら、エントロピー増大の原理が発見されて(宇宙は不可避的に熱的死に至る)、じゃあ生命って何だということになり、そりゃエントーピー増大の流れのなかに逆ネジ巻くようなネゲントロピーの系というしかないな、ということで、生命系というのはエントロピーの流れを遡るシジフォスの仕事をするように逆均衡を維持するある閉じた系を作っているということか、等々と考えられ(フロイトは人間に働くエロスとタナトスの傾向を考え、バタイユは限定経済に対する一般経済を考えた)、ついに1970年代にルーマニア出身のニコラス・ジョージェスク=レーゲンが、人間の経済活動を自然との代謝のなかに置いて考え直し、エントロピー経済の中での定常系の維持という観点から「生命経済学」を構想することになった、それに見合う発想である。
 簡単に言うなら、人間の経済活動にエコロジー的観点が必要だと知られるようになり(1960~70年代)、成長の限界が言われ、環境との均衡のなかに人間の生産活動を収めないとまずい、という発想だ。そこから、近代産業経済の「発展」を導いてきた「功利主義・効率原理」に対する批判が生れ(フランスのMAUSSの知的展開、A・カイエ他)、そこから「脱成長」の考え(経済の「成長」神話からの脱却)が生れてきた(S・ラトゥーシュ)。彼らをとりわけ刺激したのは、西洋の近代経済システムに組み込まれて破壊され荒廃し、そこから独自の地域的な経済生活を作り直そうと格闘したいわゆる「第三世界」の試みである(西側ではそれを開発経済とか環境経済という形で追及した)。
 
 だが、マルクス主義にはその発想はあったのか?はっきり言ってまったくなかった。(マルサスの想を受けたダーウィンの「進化論」には感激して著者にお手紙を書いたマルクスが、ジェボンズのように熱力学の第二法則――エントロピー増大法則――に震撼されたという話は聞かない。)マルクス主義は「資本主義」なるものを「敵」と見立てて「階級闘争」を組織し、プロレタリア革命による「資本主義の打倒」を目ざした。あるいは、資本主義の破綻は歴史的必然であるとして、革命が起こっても起こらなくても生産力の増大がやがて資本主義の矛盾を解消して共産主義の条件を整えるであろうと。
 何というオプティミズム!あるいは西洋的盲目!(歴史が階級闘争の歴史であり、その最後の段階としての資本主義という把握の、あまりに人間的、というか、西洋ユダヤ=キリスト教的なヴィジョン。マルクスはヘーゲルを転倒したつもりで「世界史」を語るが、その世界史は「終末において地上に天国が実現する」というアウグスティヌスの「両世界論」の手のひらの上にある。そして「資本主義が終わる」というのも、「終りの日は近い、天国は我らのものである」という福音書(派)の俗悪終末論とどこが違うのか?「資本主義」というのは、「地上の国」(欲望と罪悪の国)の経済主義ヴァージョンにすぎない。だから、いくらそれが「終わる」といっても、信者を慰める司祭たちのタワ言にすぎないのである。
 
 たしかに、19~20世紀の西洋・西洋化世界で、また社会主義成立後のいわゆる国際階級闘争のなかで、他に理論的足場がなかったためマルクス主義を信じて戦った何千万という人びとがいた。その人たちの格闘や苦難を貶めることはできない。しかし、70年代以降のマルクス主義の信用失墜と時を同じくして噴き出したエコロジー問題は、もはや反資本主義や階級闘争では対処できないものだったにもかかわらず、少数の人びとをのぞいて考えを刷新することはできなかった。それに対して「資本主義」の側は、技術・金融のITヴァーチャル化とグローバル化によって「前に逃げる」展望を開いたのだった。「欲望の脱領土化」というイデオロギーがそれを後押しし、新手のマルクス主義者は資本の運動を「加速」することでそこからの「脱出(EXIT)」を試みる(新しいエグゾダス=出エジプト?)。だが、どんなに追い抜こうとしても、資本の運動はその先を行っていて、追い抜くことは不可能なのだ。「資本の運動」は初めから「終りの日」として、つまり決して届かない「未来」として設定されているからだ。そのことに絶望してマーク・フィッシャーは「資本主義のリアル」に呑み込まれて死んだ。そしていま、グローバル規模であらゆる公共性を溶解し、ヴァーチャル化して限界を超えた私的所有権の跳梁のもと、新自由主義と呼ばれる経済統治システムが、一方で俗悪な権力欲のために各所で戦争を準備させ、他方ではエントロピーの侵蝕増大で荒廃する地球を尻目に、「脱出」の夢を見させている。
 
 はっきり言っておこう、「人新生」が語られる現在の状況にマルクス主義はまったく対応できないのだ。だからそれを『資本論』の草稿に書かれているとか、マルクスが予言していたとか言うのは、無知でなければ恣意的濫用である。たしかに、今から読めば草稿に現在の認識に結びつけられる記述があるかもしれない。しかし、「人新世」と呼ばれる状況にマルクスで対応できると思うのは、エントロピー経済の由来や、この百年に世界各地でマルクス主義をめぐって起こったことについての、度し難い無知というしかない。それは若い人の善意のなせる業かもしれないが、その「善意」は結局、大きな意味での「歴史否認」につながってしまうだろう。
 ともかく、現代の問題系に対応するのは、西洋近代の原理思想・経済学の枠組みにあぐらをかいたマルクスの認識などではなく、その西洋近代の論理によって文字どおり抹消された(植民地支配を受けたのではなく、存在そのものを抹消された)人びとが、最後の究極の抵抗の前に残したつぎのような表明に籠められた持続的生存の思想だろう。以下は、西洋白人の到来によって二百年に渡って居場所を奪われついには根絶されたスー族の長老タタンカ・イヨタケ(シッティング・ブル)と呼ばれる人物が遺した言葉である。かれらの存在を抹消したのは「アメリカ」と自称する「新世界」だった。
 
 「みよ、兄弟たちよ、春が来た。大地は太陽の抱擁を喜んで受け、やがてその愛の果実が実るだろう!種は一つひとつが目を覚まし、動物たちの生命もまた目覚める。我らもまたこの神秘的な力のお陰で生きて世にある。だからこそ我らは、この広大な大地に住まう権利を、自分たち同様、隣人たちにも、また隣人たる動物たちにも与えるのだ。
けれども、聞いてくれ皆の衆!我らは今、もうひとつの種族を相手にしている。先祖たちが初めて出会った頃には、小さくて弱々しかったが、今では大きく尊大になったあの種族だ。奇妙なことに、彼らは大地を耕そうとする心を持ち、彼らにあっては所有への愛着が病いにまで嵩じている。あの連中はたくさんの決まりを作ったが、その規則は、金持ちは破れても貧乏人は破れない。彼らは、貧しい者や弱い者から税金をとり、統治する金持ちたちをそれで養っている。彼らは、万人に属する母なる大地を、自分だけが使うものだと言い募り、策を築いて隣人たちを締め出す。そのうえ大地を彼らの建物や廃物で台無しにする。この部族は雪解けのなだれといっしょで、川床を飛び出し、行く手のあらゆるものを破壊する。
我らは共に暮らすことはできない。わずか7年前我々は、バッファローの国は永遠に我々に残されることを保証する条約を結んだ。いまや彼らは、それを我らから奪おうとしている。兄弟たちよ、我らは屈服するだろうか?それとも、彼らにこう言うだろうか:私の祖国を手に入れる前に、まず私を倒せ、と。」

*チャールズ・イーストマン(1858-1939):先住民出身で最初に医師資格を取った。『インディアンの英雄と偉大な族長たち』(1918年)
*西谷修『アメリカ、異形の制度空間』(2016年)

[追伸]
 タタンカ・イヨタケは「資本主義」などという言葉も規定も知らない。イヨタケたちの祖先や兄弟たちの土地を奪い彼らの生存を根絶やしにしてくるのは、まったく違った「種族」なのだ。天地がその愛の恵みで生き養われているように自分たちもそこで生き、だからこそ違う種族や生き物にも大地に住まう権利を認める(自然のうちにその一部として生きているがゆえに、支配や独占など主張しない分有の生そのものを分かち合う、それも幾世代にもわたって持続的に…)、そんな自分たちと違って、やってきてやがて尊大になった新しい種族は、とにかく大地を分割して独占し、耕すことで我有化し(J・ロックによる所有権の起源)、病的な所有欲に冒され(土地、毛皮、そして金・ゴールドラッシュ)、規則を作って所有や取引を権利化し、しかし金の力は法律より強く、権力さえ与えて貧乏人を働かせてその上にあぐらをかく。自分のものは策で囲って銃で守り(最初はウォール街)、自然からモノを作って使ってゴミにし、自然の山も川も街も台無しにする。そういう「種族」だ。カワウソともバッファローとも自分たちは共生するが、彼らと「共に生きる」ことはできない。なぜなら彼らは、出会うあらゆるものを自分たちのやり方で根絶しようとするからだ。200年荒らされるままに耐えてきたが、もはや我々には死地しか残されていない、と。そう言ってよければ彼らは、「富の蓄積」や「成長」などとは無縁の、生存を「未来に向けての進歩」の尺度などでは計らない、「七代先の子孫にこの大地の恵みを残す」といった見通しのなかで生きている。それを理念的にではなく現実的にブルドーザーにかけるように押し潰して「すばらしい新世界」にしてゆくのは、人工の有用性と効率という原理にとりつかれた「西洋白人」という種族である。それが「アメリカ人」だ。

 いま「人新世」と呼ばれて示唆されている問題は、他でもないこの「アメリカ人」の登場によって人の住む世界に引き起こされた問題ではないのか。それを「エコロジー的」と言ってもよいが、その「エコロジー的生」は、生存そのものの経済原理化(エコノミー化)によって潰されてきた。ここで「資本主義」が何をしたというのだろうか?「資本主義」などという概念では追いつかない(とても把握できない)事態が起きているのだ。ここにマルクス主義が口出しする余地などまったくないことが明らかだろう。それをマルクス主義者は考え直さなければならない。階級闘争の図式などここでは無力なのだ(西洋世界とその周辺にしか通用しない)。

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