エントロピー露出の時代に、脱却すべきマルクス『資本論』に戻ることの倒錯2023/05/12

*あらかじめ断っておきますが、ここに書かれたことはいわゆる「反共」(ヘイト)とは何の関係もありません。マルクス主義の理論的呪縛を解き、その崇拝を停止せよと言うだけです。
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 なぜ私がマルクスを嫌いになったかといえば、それは古い話だ。
 
 若い頃、実存マルクス主義といわれるちょっとした潮流があった。それは思想というよりも、熱病のようなもので、マルクス主義の経済理論とそれと表裏一体の歴史観が疑いえない真理だとしたら、それを無の中の自由意思で選び取って実践しなければならない、つまり階級闘争に加わる主体とならなければならない、という考えだ。いうまでもなくそれはサルトルがマルクス主義を選びとった(奉じた)ときの論理で、世界のマジメな若者の間ではこれが熱病のように広がった。
 
 日本には、戦後マルクス主義者の間で(共産党とはかぎらない)「主体性論争」(梯明秀、梅本克己等から黒田寛一まで)というものが起き、なかなか高密度の論議が交わされていて、それが反代々木派の形成にも大きな影響を与えていた(北のチェチェ思想にも)。その素地もあって、ヨーロッパ由来の実存マルクス主義は容易に受け入れられた。いわゆる全共闘運動の盛り上がりも、それに支えられていたところが大きい(存マル+吉本)。
 
 マルクス主義の階級闘争史観は、フロイトの無意識理論にも似て、一度受け入れると抜け出るのがむずかしい。無意識理論に反発すると、それは君が無意識の欲望を抑圧しているからだ、と言われる。つまり反論すると、その否認はあらかじめ無意識理論で説明されているのだ。フロイト派はメタというよりインフラの足場(といっても足を取られる沼のような地歩)をもっていて、反論すること自体を症状として解釈することができる。だからそこで議論すると、出口のない全体化理論のように働く。階級闘争史観もそういうところがあり(「越えられない地平」とサルトルは言った)、反論すると、君がプルジョア意識に憑りつかれているからだと言う。だから階級意識に目ざめよと、それは必然だと(ルカーチ)。あるいは「お前は罪深い、だから悔い改めよ!」と。

 マルクス主義は経済学という科学理論を基盤にしていて、そんな意識性は夾雑物だと主張する「科学者=経済学者」たちもいた。だが、そう言えたのは、彼らがすでに経済学批判(資本論)を聖書とする教会の聖職者だったからだ(バチカンが間近に見えるイタリア共産党本部の屋上で、、悲劇的事件を起こす前のアルチュセールは、われわれはこの懐のうちにあるのだよと、あっけらかんと漏らしていた)。
 
 こうして、「存マル」はマジメな若者を追いつめて崖から飛び下ろさせる倫理的脅迫のように働くのである(「ここがロドスだ、ここで跳べ!」というのは革マル得意の脅し文句だったし、中核にはその悲壮を抒情に変える「遠くまで行くんだ」派(…僕らのすきな人びとよ、妬みと妬みとを絡み合わせても、貧しい僕らの生活からは、名高い恋の物語は生れない…、吉本)というのもあった)。
 「飢えた20万人の前に文学が何ができるか…」(サルトル、偽善的な金持ちインテリが、バカな貧乏人を脅す――このエリート知性が、メルロ=ポンティやカミュを貶めるためにボーボワールや手下と組んでどんな画策をしたことか)とか、「抑圧され、野垂れ死にしてゆく世界のプロレタリアートの前に…」とかのこのリンリ的脅迫は何なのか? ひどい、あまりにひどい、というのも、マルクス主義を真理として奉り、その真理を盾に、いまそれぞれの生を生きようとする(生きねばならない)者たちの生の犠牲を要求するのだから。これはほとんど絶望的な、実存的怒りを呼び起こした。

 倫理的脅迫は、人を地獄に突き落とすことの責任をみずからは負わない、むしろみずからの他者への無理強いを権利(正義)として倒錯的に正当化するものだからだ。
 (ハイデガーの存在論に対して、第一哲学は他者への出会いから始まる「倫理」だ、としたレヴィナスに深く触発されながらも、その「存在の倫理化」に拒否反応が働いたのもそのためであるし、その後、生命科学等の議論のなかで、「倫理」がもちだされることにも拒否感があった。倫理と呼ばれるものは掲げられるものではなく、言語化もされずに生きられるだけのものだと考えるからだ。倫理そのものに対する拒否ではなく、「倫理」を原理として掲げることへの拒否感だ――仁義ならいい?。生命科学等で語られる「倫理」、医療倫理とは、じつは倫理というよりも社会的な価値計算調整になってしまっている。)
 
 さかしらの連中は逃げる。マルクス主義ではない、マルクスそのものなのだと。「マルクスの可能性の中心」を引き出す?冗談はよしてくれ、だ。マルクス主義運動とマルクスその人を区別して、マルクスを救い出そうとしても、そこにあるマルクスの「正しさ」を疑わない姿勢(マルクス理論への屈服)がマルクスを権威化し、「マルクス主義」の運動を引き起こして、それが歴史的「罪業」を生み出してきたのは変わらない。マルクス主義とマルクスを切り離し、自分はマルクスを評価しているのだという主張は、「教会」体制に異を唱えてイエスの信はローマ教会とは違うというプロテスタントの姿勢に通じている(あるいはドストエフスキーの「大審問官」?)。所詮、キリスト教会内部の話でしかないということだ(ルネ・ジラールは徹底していてごまかしは言わず、「啓示」は「世の初めから隠されていた」絶対普遍的真理だと断言していた)。
 
 それ以来私は、マルクスを持ちだす、マルクスに頼る人びとを基本的に信頼しない、そして自分でもマルクスには頼るまいと心にきめてきた。その理論や、理論に傾倒した人たちの努力を否定するわけではない。西洋一九世紀後半から百年ほどの間は、そこでは強力な有効性をもち、西洋の世界化とともに歴史を動かす大きな威力を発揮もしたが、それがみずからの限界(西洋一九世紀の産物)を忘れて普遍的真理であるかのように機能し働くことによって、人びとを際限のない錯誤に陥れることになったのである。

 ヘーゲルは「世界精神」を語った。(自然の)闇の中に登場した「否定性」が向き合うあらゆる事象を対象化し、言説のうちに同化・統合して、認識・把握された「現実世界」の全体性の内に自己を実現するというプロセスそしてその成就として「絶対知」の哲学的世界を描き出した(『精神現象学』)。そのとき「歴史の主体=全体世界」となったのだが、じつはそれは「西洋文明・知性・理性」の運動であり、発展プロセスの「自覚」(自分はこういうものだという自己意識)だった。つまりその世界の全体性とは「西洋」の全体化だったのである。マルクスの史観もこのヘーゲルの史観の枠組みを踏襲している。ヘーゲルは世界史を「闘争の歴史」として、論理的には弁証法的プロセスとして描き、それを「精神」の自己実現だとした。マルクスは『哲学の貧困』としてそれを「唯物論的に転倒する」として、これは「主と奴」の階級闘争の歴史だったのだとする。

 だが、そこで想定されていた「歴史」も「世界」も「西洋キリスト教的世界」だという限定は彼らの視野になかったのである。ただ、一九世紀に「西洋の世界化」(西洋が世界進出し、「世界」になる)という事態が実際に進行し・展開されており、経済学システムとしての「資本主義」や「世の初めからの階級闘争」といった観点そのものも世界に輸出されて、それぞれの社会や国際関係の錯綜が、その図式によって絡めとられることになった(じつはマルクス主義は、西洋近代経済化社会の矛盾に対応する理論的認識ではあっても、オールマイティの世界理論などではなかったのである)。
 ましてや、中世の「教皇革命」の遠い、そうは見えない核反応の産物である「新世界」が何たるかなど、マルクスは思いもつかなかった。
 
 そのことを劇的に示したのはマルセル・モースのアメリカ先住民社会研究であり(その結実が『贈与論』)、西洋社会システムの混乱倒錯のなかで異文化社会(古代ギリシア・アフリカ)の様相を参照しながら近代経済学を人類学的視野の中に「埋め戻そうとした」カール・ポランニーである。彼らが、近代西洋の経済システム(マルクスが「資本論」の対象としたもの、いわゆる「資本主義」)をその閉域を開いて考え直さねばならないことを示した。それと並行して、近代経済システムが物質生産消費のサイクルとして考慮されているのなら、そのサイクルそのものが人間の生存を超えた宇宙的なエントロピー法則との関係でどうなっているのかを考えねばならないという潮流も生まれていた。
 マルクス主義は、そうした意識なしに「西洋の世界化」の展開とともに世界に「階級闘争的」図式を広めて「問題設定・解決」を押しつけていった。ロシアにソ連を生み、国際階級闘争を広めていったのも、むしろ「西洋化」の一環である。そこでさまざまな軋轢を生じるし、倒錯的な「闘争」に人びとを犠牲にしていった。
 
 「資本論」によって資本主義というものが確定された。それ以降、経済学批判から生まれた「資本主義」が終わるはずの(あるいは革命によって倒すべき)「敵」として指名され、階級闘争がヘーゲルの西洋=世界史観のなかで「歴史の原動力」と考えられる。しかし結局、それはアウグスティヌスの両世界論の焼き直しにすぎない「地上の国」の原理でしかなかった。

 端的に言ってそこでは「植民地問題」がまったく視野にない。アフリカ人奴隷は階級闘争のプロレタリアートではない(マルクス理論の中ではそう処理されるしかないが)。先住民のあり方はなおさら視野にない(先住民の世界には「階級闘争」などなかったし、計量化される生産経済とはまったく違う社会の組織化があった)。
 それに気づいて経済を違うヴィジョンのもとに考えようとしたのがマルセル・モースであり、経済学を開くかたちでそこから西洋経済学を相対化しようとしたのがカール・ポランニーだった。マルクス主義はその「人類学的」ヴィジョンのなかで相対化されねばならなかった。ところがマルクス主義は一九世紀から二十世紀初頭に原理主義的理論になったため、逆のことをやってきたのだ。教会になってしまったからには避けられなかったが。
(そのことを勘案してマルクスのシェーマをグローバル世界に広げて世界システムを考えたのはE・ウォーラーステインだった。だから彼は最後に「ヨーロッパ的普遍主義」を問われぬ問いとして提起することになる。)
 
 マルクス主義は普遍教会(世界の共産党)を作りだし、階級闘争を世界に広げて、世界戦争の後、所有権に基づく自由を原理とするアメリカシステムと対立し(決定的「イノヴェーション」たる核兵器の脅威の下で)、冷戦に入るが、結局そこでの課題が、労働者階級の解放などではなく、二つの国家体制の経済効率競争だったことが露呈し、国際社会的現実のなかでの失効を暴露した。マルクス主義の歴史的役割はここで決定的に終わったのである。
 
 しかし、世界のマルクス主義政党に依拠した多くの人びとや、マルクスを理論的に真とし拠りどころとしてきた人びとは、そのような自己を解体再編することができず、マルクスの亡霊を抱えながら生きてきた。「人新世」をマルクスは先取りして見透していた、『資本論』の草稿にはそれを示す断片がある。今こそマルクスに『資本論』に立ち返らなければならない。そうして、「気候変動」や「脱成長」の時代の問題・課題を整理した若い研究者の登場に、亡骸を抱えて途方に暮れていた人びとが快哉を叫んで元気づいたのは想像に難くない。かくてこの若者はヨーロッパの瀕死のマルキストたちに回春剤を提供したことになり、彼らの称賛を受けて、その勲章をもって日本のメディア・プレス業界に凱旋することになった。
 
 「気候変動問題」や「資本主義批判」はいま「良心的」な世間に一定受けるからだ。それに百年間世界の資本家・支配層、あるいはその統治機関と化したブルジョア諸国家との戦いで、たしかにマルクス主義は大きな役割を果たしてきた。そして実績と威光を得てもきた。しかしそれは、エコロジー問題や成長の限界が問われるようになったとき以来、あるいは旧植民地諸国の独立が問題になったとき、そのような問題を自分たちの戦略的政治のもとに周辺化する対応しかしてこなかったのである。

 だからエコロジーやエントロピー経済への志向は、いわゆる正統な「資本主義」研究としての経済学のなかで、みずからを「異端派」として位置づけるしかなかった。経済学の主流は、いまでも「資本主義研究」なのである。そしてその経済学は「資本主義は終わる、終りの日は近い」と唱え続けている。経済学が「資本主義研究」なのは、マルクスが経済学批判を「資本論」としてまとめて以降である。だが、エコロジー経済やエントロピー経済の研究では、「資本主義」などというものは必要な概念ではない。問題は人間と自然(フュシス)との関係、その代謝の社会的発現にどう対処するかという課題である。そこで問われるのは人間の欲望の自由とそれによって組織され技術・産業・経済システム、それを律する有用性・効能原理であり、人間世界の異なる関係組成の可能性なのである。
 
 そのすべてがマルクスのうちにあったとなどと言うのは、あまりの素朴さ(知的・歴史的無知)かペテンとしか言いようがない。受け取れるのは、著者の個人的には「罪のない」ピュアなマルクス信仰だけだからだ。知的(情報的)処理能力はたいへん高そうに見えるだけに、その「罪のなさ」は悪効果を生み出す。

 話を「マルクス嫌い」から始めてしまったために、ここで展開したことが私的な好みの問題に切り下げられてしまいそうだが、ねらいはそうではないし、ましてや、今日の「リベラル左派」の論議にいらぬ「分断」を持ち込むなどということもまったく私の意図ではない。私は前々から隠さないように、リベラルでも左派でもない。「マルクスに頼らない」というのを信条にしてきた以上、世間の分類枠にはあてはまらないからだ。そんな分類よりも、人間について、歴史について、世界について、どんな流派にも与せず、できるだけ適切に考えようとしている。そして考えるのは何のためかといえば、売れる商品(思想)を作るためでもなければ、イイネをたくさんもらうためでもなく、ただ単によりよく生きるため、そして人びとのよりよい生を洗い出すためである(その点でわたしもプラトンの徒だ)。その観点からして、「人新世」(というとりあえずの考え)の諸課題を、いまではあまりに限界が確認されてしまったマルクスに回収するということが、いかなる混乱を引き起こすのかということ(人びとを無知やペテンに、いまならポスト・トゥルース状況に巻き込むということ)を看過できないと思ったからだ。

 マルクスはその「可能性の中心」(もうだいぶ古くなったが)など引き出すよりも、そのきわめて限定された歴史的役割を標定することの方が、現在の知的状況の中でははるかに意義のあることだということだ。

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