「無法」な国壊し、規範の液状化へ2014/07/05

☆共同通信文化部から以下の所見が7月2日に全国の地方紙に配信されました。もういいと思いますので、ここにも掲載します(7月5日)。


 とうとう安倍晋三内閣は「集団的自衛権行使」容認の閣議決定に踏み切った。特殊用語で分かりにくくなっているが、要するにこれは、同盟国の戦争に参加する権利ということだ。近隣に友好国をもたない日本にとっては、実際にはそれは米国のする戦争を手伝うということだが、土壇場のねじ込みで国連の集団安全保障に基づく武力行使への参加にも道を開くものになった。

 憲法の縛りを解いて自衛隊を海外に出す。その動機には二つある。ひとつは日本の「貢献」を求める米国が、湾岸戦争やイラク戦争への派兵を強く求めたこと、もうひとつは安倍政権がともかく戦争のできる軍隊を求めていることだ。日米双方の意図にはずれがある。米国は日中の対立に巻き込まれたくはないだろうが、自国による世界統治に協力する兵力が欲しい。安倍政権はそこに付け込んで、中国に対抗すると同時に、資源確保や国際安全保障への参加などを理由に「日本軍」の世界展開をも視野に入れている。

 ともかく「集団的自衛権」の一語でそれを可能にしようというわけだ。

 だが、何と言っても由々しいのは、閣議決定だけで憲法の中身を変えてしまうことだ。「戦争はしない」ということを「できる戦争はやれる」と解釈することはできない。だから安倍政権は改憲を掲げてきた。だが正式な憲法改正が困難とみて、変更要件を緩めようと九六条改正を持ち出した。それが総スカンを食うと、今度は閣議決定での「解釈変更」だ。だがこれは違法であるどころか「無法」だと言わざるをえない。

 憲法は国の基本法で、政府・内閣こそがまず第一に順守の義務をもつ。そのことも憲法に定められている。それに、じつは憲法とはこういう内閣の専横から国民を護るためにこそあるのだ。ところが、そのすべてが空文化される。明日からこの国では憲法の文言にかかわらず、内閣の「解釈」しだいで何でもできることになり、国民は無法な権力の恣意に翻弄されるようになる。日本はそんな規範なき「無法」の水域に入ったのだ。

 政府が率先して社会規範の鑑である憲法を捻じ曲げる。すると社会は規範の液状化を引き起こしかねない。だからさすがにこれまでの内閣は「解釈改憲」を禁じ手としてきたのだ。

 安倍内閣は二言目には「国民の生命と財産を守るため」と米合衆国憲法をまねて言う。だが、現在の世界で戦争をすることで平和はつくれない。十二年経ってもますます混迷を深めるイラクの情勢がそれを示している。そんな米国の戦争に率先参加することになったら、日本は「武器なき貢献」で築いてきた国際的な信用を一気に失うだろう。それが「国民の安全」のためになるというのだろうか。

 この内閣はむしろ「国民の安全」を脅かし、それを質にとって国の軍事化を図っている。対外関係だけでなく、福島第一原発事故も無かったかのように、再稼働を画策するばかりか原発輸出に精を出し、企業の競争力とやらを口実に多数の国民の労働条件を劣悪化させ、消費税を上げる一方で企業減税だけは進めようとする。これでは「一将功成って万骨枯る」の無法な国造り、いや国壊しと言うべきだろう。

 このような「無法」に流されないため、まずは閣議決定の無効をあらゆるかたちで追及しなければならないし、何が「安全」を保障するのかをとくと考えねばならない。

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