「亡国」の未来――「国破れて山河も無し」2014/12/08

【前口上】
 しばらくブログを開店休業のままにしていました。いろいろ理由はありますが、それはさておき、宇沢弘文さんが亡くなり(土井たか子さんも中島啓江さんも)菅原文太さんも亡くなり、世の中から(わたしたちの生きている日本の社会で)大事なものが次々と崩れ去り、ろくでもないものがまかり通るようになるのを目にしながら、やっぱり書かなきゃという気もちにしばらく前からなりました。どれだけの人にお役に立つか立たないかわかりませんが。
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 時節がら、総選挙ということですが、これはもういいでしょう。結果がどう予測されていようとも、14日に投票所に行くだけです。

 選挙の予測というのは、あらゆる「未来」の予測と同じように、あるいは「不幸の予言」と同じように、「そうならないために行動する」ことを促すものです。「破局」が避けられないとしたら、いかにしてそれを軽減するか、あるいはそれもできないのなら、箱舟を造るなりして、そこまで来ている「破局」に備えなければなりません(J-P・デュピュイ『破局の小形而上学』参照)。3・11の激甚災害と、技術・産業システム破綻の後、政治のメルトダウンを通して、今度は社会の解体です。

 この解散・総選挙がどういうものか、どんなふうに「無法」なものであるかは、8日に店頭に並ぶ雑誌『世界』1月号「特集1」の冒頭にある内橋克人さんの「アベノミクスは"国策フィクション"である」と、山口二郎の「"安倍首相"という争点」にいかんなく暴かれています。
 
 ひとことで言って安倍政権は「亡国」政権です。この政権がやっていることは:

1)選挙は「景気」がよくなる期待をうまく釣ればよい、ということで「アベノミクス」。何のことはない、日銀に札束をどんどん刷らせて国債(国の借金)引き受けをさせ、「デフレ脱却」というが、デフレはグローバル経済の構造的現象だから収まるはずもない。次は企業優遇だが、それは雇用のタガを外して企業に人間の酷使と使い捨てを容認する政策。企業は利益を上げて経営者は巨額の報酬を受けても、利益は一向に社会に還元されず、金融バブルとあいまって、雲の上に還流する札束の下で一般の人びとは干からびることになる。そのうえ社会保障はムダだとか、ズルいとかいって切り崩し、まともな生活のできない人がどんどん増える。

2)それでも株価だけは上がり、「景気」がよい気配を作って、そのすきにこの政権がやりたいのは「戦後レジームからの脱却」。つまり「平和と民主主義と人権原理」がだめにした「日本を取り戻す」と称して、「平和と民主主義と人権原理」をお払い箱にしようと精を出している。理想とするのは、民がみな「お上」の投げるまずい餅を拾って食い、「欲しがりません、勝つまでは」といって、竹槍で核武装した「敵」に進んで挑み、「靖国に祀られる」ことで満足する、そんな「美風」に支えられる「美しい国」だ。

3)だがそれは、為政者(政治家や官僚たちや財界人その他のエリート)たちが何をやっても責任を取らなくてもいい、言いかえれば国民が諾々と為政者たちの食い物にされる体制だ。そのために、つまり為政者たちの勝手なヘマが決して追及されることがないように、秘密保護法も通した。こうしてこの国の為政者たちは、アジア太平洋戦争でも国内では原爆投下にまで至った無謀な戦争の責任を問われなかったように、また、福島第一原発事故による数十万人のいまも続く被災の責任をいっさいとらないように、何度でも「敗戦」を繰り返すことができるのだ。
 
 この政権のしかける無体な解散総選挙で、また自民党の大勝が予想されるというのは、政界の現状を見れば半ばうなづけることでもありますが、日本はそれでいいのかと考えるとこれは大いなる疑問です。疑問どころか大問題です。

 けれども、日本はそうなる。それもナチス・ドイツと同じく「選挙を通して」そうなります。冷戦後の「戦後50年」にあたった1995年あたりから、さまざまな論議や事件がありましたが、その結果20年後に日本は安倍晋三のような人物が首相となる国になったのです。

 彼らは20年かけて周到にそれが可能になる基盤を日本の社会に植え込み、たくみな世論誘導と組織化、そして「空気」作りで今日の状況を作ってきました。残念ながら、それに対する備えが貧弱だった(あるいは誤っていた)というのが実情でしょう。

 日本社会を解体し、民をガリー船の漕ぎ手として使い捨て、その上に自分たちが統治者として君臨しようとするこの政権は、まったく「伝統的」などではない、むしろ国を亡ぼす政権と言わざるをえません。
 
 たしかに、「国破れて山河在り」という詩句があります。長い間、そう思って滅びの後にも国の再建を夢見ることはできました。けれどもじつは、国破れた後も山河が残ったのは第二次大戦までのことです。今では「残る山河」はないでしょう。というのは、自然は放置された放射能で汚染され、食糧自給も放棄しようというこの国の民は、TPPで入ってくる安価な遺伝子組み換え食品で、最後の体までも汚染にさらさなければならない。そして資源のすべては外国資本に買われて、山がもたらすはずの水も空気ももはや庶民の手に届くものではなくなってしまいます。
 
 それが安倍政権の垣間見させる「亡国」の未来です。けれども有権者は総体としてこの政権に「大いなる信任」を与えようとしています。そうさせないための手立てはほとんどないのですが、何もしないわけにはいきません。たとえば「さよなら安倍政権、自民党議員100人落選キャンペーン」(http://ouen100.net/)などの情報を有効に活用し、この「亡国首相」に辞めてもらう状況を追及するしかないでしょう。
 
 日本社会はなぜこうなのか、あるいはなぜこうなってしまったのかを、崩壊の粉塵のなかでとくと考えてみなければなりません。

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☆再開最初の文章がこんなものになってしまいましたが、こういうことしか言えない時だからこそ再開するということです。
 
☆上記の『世界』1月号の「特集2、戦後70年」にわたしも「重なる歴史の節目に立って、戦後70年と日本の"亡国"」を寄稿しています。これも併せて参照いただけたら幸いです。

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